ペリーと黒船

2010年01月17日

黒船来航の謎(3)

え〜、
3回も続けておいて気が引けますが、このテーマについての結論とか、独自の見解などはありません。ただダラダラ書いているだけです。


乗組員2000名で旗本十万騎(本当に10万人いたかどうかは別として)の幕府を屈服させたペリーは、この局面だけをとらえると小が大を制したといえる。確かにテクノロジーでは優位に立っていたが、原爆と竹槍ほどの差ではなかった。

しかも実はペリーは米国大統領から交戦を禁じられていた。つまり彼は政治・外交の術で幕府に勝利したのである。(交戦を禁じられていたが、ペリーにその命令は届いていなかったという説もある。しかし、いずれにせよ空砲は派手に撃ったけれど実弾は使用していない)


来日前にペリーは日本の情報を集め、日本人の国民性あるいは幕府の現状を鑑みて、高圧的態度で押しまくると決めていたようである。鎖国の当時、外国船は長崎に寄港することになっていたのに、無視して浦賀に現れ、江戸湾に居座ったのもその表れである。1853年に初めて来航した時は、幕府との押し問答の末、1年後に本格的な交渉をする約束をして去っていった。しかしその直後に徳川将軍が死んだことを知ると、約束より半年早く来航し幕府に揺さぶりを掛けている。


しかし「自分が苦しいときは相手も苦しい」である。


ペリーもきつかったはずである。圧倒的軍事力を持っていたように教科書では書かれているが、アウェーで補給もないのだから返り討ちにされる可能性も少なくはなかった。仮に交戦して局地戦で勝利を収めても、日本が他の外国と同盟を組んで、日本から閉め出されては来た意味がなくなる。(当時のアメリカは超大国ではなく列強の新参者にすぎなかった) 交戦禁止の大統領命令が事実だとすれば、幕府を怒らせて岸から大砲を撃たれれば、それが命中しなくても届かなくても、その時点で彼は負けたことになる。


でも結局、ペリーの知力、行動力、交渉術(はったりを含む)が幕府に勝利する。
2000名の小が十万騎の大を制したのである。



いきなり場面は現在の会議室に変わって

「ほぉ〜、我が社を相手に一戦交えますかな?」といやみたらしくいわれ、
「お望みなら」と答えたことは何回かある。

そのうちに何回かは開戦したけれど(^^ゞ、幸いなことに敗戦したことはない。本当の戦闘のことはよくわからないけれど、ペリーもそうだったように政治・外交では、私の場合ならビジネスの分野では、数や規模は絶対的な脅威ではないからである。ビジネスで無用な諍いを起こすことはもちろん勧めないが、相手が大企業だからといって不必要にビビッたり、あきらめることはないと、スモールなビジネスあるいはベンチャーでがんばっている皆さんには是非お伝えしたい。ペリー提督万歳\(^_^)/


実は、日本が黒船にビビッたことより、もっと疑問に思っていることがーーーそれはインカ帝国。南米の現在ならチリ、アルゼンチン、コロンビアあたりに栄えていたこの帝国は人口1600万人。それが16世紀に海を渡ってきたスペイン人に征服され滅亡させられるのである。最初に上陸した部隊は168名と伝えられている。どうやったら、そんなことができるの? これから起業しようという人は、ぜひこっちも勉強してみたら?

wassho at 23:36|PermalinkComments(0)

2010年01月11日

黒船来航の謎(2)

9a838d4d.jpgなぜだろう。
いろいろ想像してみる。


1)
とにかく黒船にビビッた。
日本の船と較べてはるかに巨大で、帆もなく動くなんて、この世のものとは思えなかった。今なら横須賀上空に巨大な宇宙船が浮かんでいるようなものか。どんなすごい兵器を持っているのか想像するのすら怖かった。


2)
実はペリーが来るのも黒船のことも、鎖国の例外として国交のあったオランダを通じて事前に知らされていたのである。しかしその情報に接していたのはごく一部の幕府上層部だけ。上層部は冷静でも、現場が大騒ぎとなり収拾がつかなくなった。


3)
オランダと国交はあったが、オランダ人が出入りしていたのは長崎の出島。しかも市民の目に触れないように隔離されたような区画のみ。江戸にも使節くらいは来ていたかもしれないが、日本人が何百人単位の「外人(西洋人)」を見たのは、これが初めてだったかもしれない。それで、その体格や顔つきにビビッた。日本人の西洋コンプレックスはここから始まっていたりして。


4)
黒船来航の200年ほど前に起きた島原の乱以降、日本では戦争、戦闘らしきものは起こっていない。つまり今日以上の超平和国家。幕府とは武士が支配した政治体制でも、その頃の武士は刀を差していても単なる役人・文民に過ぎなかった。だからたとえ一発でも大砲を撃ち込まれるなんてチョー怖かった。


5)
黒船にビビりはしたが、冷静に考えて追っ払えることはわかっていた。しかしアメリカを怒らせると、次に100隻、200隻の大艦隊で攻め込まれるかもしれないと不安になった。


6)
幕府は別に弱腰ではなく、妥当な政治判断をしただけだった。しかし歴史は勝者が書く。幕府を倒した明治政府が幕府が無能だったことをことさら強調した。その明治政府の史観が現在まで影響している。


7)
幕府は弱腰外交を演じ、薩長などの反幕府勢力を勢いづかせる戦略を持っていた。ある程度跳ね上がらせておいたところで、アメリカと組んで、それらの諸藩を制圧するつもりだった。



モーソーしだすとキリがない。
まあ、楽しみは老後に取っておこう。
とにかく旗本十万騎といわれた江戸幕府は
9隻2000名のペリー艦隊に屈服したのである。
(続く)

wassho at 23:50|PermalinkComments(0)

2010年01月10日

黒船来航の謎(1)

今年の大河ドラマは坂本龍馬の話。
坂本龍馬×福山雅治のW効果で前評判(もう始まっているけれど)は高いらしい。
前評判というかNHKの皮算用かな。


熱狂的なファンも多い坂本龍馬ではあるが、私自身は彼のことに詳しくない。土佐藩出身で、幕末の表舞台・裏舞台でいろいろ活躍した程度のイメージ。大河ドラマはたぶん見ないが、ブームに便乗していろいろ勉強してみるのも悪くないかもしれない。


さて龍馬といえば幕末の英雄である。
そして幕末について、ずっと疑問に思っていることがある。


幕末は1853年、アメリカのペリー提督率いるアメリカ艦船が浦賀沖に現れたことから始まる。いわゆる黒船来航である。(浦賀の名前は教科書で知っていても、それがどこか知らない人が意外に多いが横須賀のこと。横須賀は横浜の隣) それを契機に開国論と尊王攘夷論が起こり、倒幕運動が高まり明治維新につながっていくことはご存じの通り。


幕府はアメリカに押し切られる形で、鎖国を捨て開国に踏み切る。ペリーが来日したのは国交を求めての交渉であり、建前的には「開国か開戦か」という要求をしたわけではないが、黒船の威力の前に屈服したとみるのが一般的である。歴史を読めば幕府の右往左往ぶりがよくわかる。


     どうして黒船に、そんなにビビッたの?


それがよくわからない。

黒船とは蒸気船のことで、煙突から黒い煙を出すから黒船と呼ばれた。(船がタールで黒く防水塗装されていたからという説もある) それは日本人が初めて見る船だった。(当時はまだ帆船の時代) 

それに驚いたのは理解できる。しかしペリーが率いてきた黒船は1回目が2隻(他に帆船が2隻)、2回目が3隻(他に帆船が6隻)である。つまりたった数隻の船団である。東京湾が黒船に埋め尽くされたわけではない。


当時の幕府は軍艦らしきものは持っていなかったから海戦ではかなわなかっただろう。しかしペリーに上陸作戦を展開する能力(軍事力)があったとは思えない。開戦となれば艦砲射撃位はしただろうが、数隻の船団の攻撃力なんて限定的である。当時は銀座の先あたりまで海で、目視できたはずだから江戸城には命中したとしても、雨あられと降り注ぐほどの砲弾を持っていたはずがない。

ペリーが2度目に9隻の艦隊で来航したとき、総乗組員数は約二千名といわれている。操船と船の防衛に残す人数を考えると、上陸作戦に動員できるのは5〜600名程度か。幕府軍より格段に優れた武装をしていたとしても、補給もなく地理もわからない上陸部隊である。凡庸な指揮官が対応したとしても1週間で制圧きたはず。それにヘリコプターで降りてくるわけではないから、つまり小舟で上陸するのだから、アウェーの江戸湾では上陸できる確率からして低い。

しかし幕府は弱腰な対応に終始する。
(続く)

wassho at 23:03|PermalinkComments(0)