マリー・ローランサン

2024年01月26日

キュビスム展 美の革命

国立西洋美術館で1月28日まで開催されているキュビスム展。
鑑賞してきたのは昨年の11月29日。
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ブログに書くのがずいぶんと遅くなってしまった。
訪れたときに国立西洋美術館がある上野公園のイエローオータムが予想以上に素晴らしくて、それでスイッチが入ってしまい、例年のもみじ狩りが3カ所くらいなのに昨年は13カ所も出かけたのが遅れた理由のひとつ。
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そろそろ思い出しながら書いていきましょう。

ポスター

展覧会の正式タイトルは

   パリ ポンピドゥーセンター 
   キュビスム展 美の革命 
   ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ

とやたら長い。

パリの総合文化施設であるポンピドゥーセンター所蔵の、キュビスム絵画作品の展覧会がアウトライン。そのキュビスムとは美の革命であるとタイトルで強調している。

ただし英文では THE CUBIST REVOLUTION (キュビスム画家の革命)。キュビスムは確かに絵画表現における革命であったとしても、美について革命したわけじゃない。だから英文の「キュビスム画家の革命」のほうがしっくりくる。しかしそれではキャッチーでないとマーケティング担当者は考えたのに違いない。映画のタイトルなどでよくある話。

もっとも「An Officer and a Gentleman」→ これは「Conduct unbecoming an officer and a gentleman」という軍隊用語の略。軍法会議などで使われ、直訳すれば「将校および紳士に相応しくない行為」。その原題に「愛と青春の旅だち」と邦題をつけたレベルに「美の革命」はまったく及んでいないけれど。

名前が挙げられているピカソとブラックはキュビスムの創始者である画家。ドローネーはキュビスムを発展させた画家のひとり。シャガールはキュビスムの影響を受けた画家ではあるとしても、それは彼のメインストリームではないし、一般にキュビスム画家には分類しない。でもキュビスムは超巨匠のピカソを除けばあまりネームバリューが高くない画家が多いから、客寄せパンダ的に引っ張り出されたのかも知れない。



さてキュビスムとは何かについては追々書くとして、実はキュビスムはまったく趣味じゃない。キュビスムでこれは素晴らしい・欲しいと思った作品もないし、難解にこねくり回したようなその画風や世界観は「酔えるものこそがアート」との私の考えにも反する。

ではなぜ展覧会を見に出かけたかといえば半分はお勉強のため。過去の展覧会で藤田嗣治やパスキンなど意外な画家がキュビスム的な作品を残しているのを目にしてきた。だからキュビスムのイロハ程度は知っておいて損はしない、食わず嫌いはよくないぞとの意識が頭のどこかにあったから。

聞けば日本でキュビスムをテーマにした展覧会はおよそ50年ぶりとのこと。そして今回はピカソとブラックを含む主要作家約40人・約140点(うち50点以上が日本初出品)が出展され、いわばキュビスムの回顧展のような内容。だったら行ってみようかと。

そして残り半分はキュビスムが趣味じゃないといっても、そんなにたくさんの作品、特にピカソとブラック以外の作品を見たわけじゃないから。キュビスムといってもいろいろあるだろうし、ひょっとしたら好きな画家や作品が見つかるかもとのスケベ心(^^ゞ



初期のキュビスムはセザンヌの画風が影響した、あるいはそれを発展させたとものとよくいわれる。それで最初に展示されているのがセザンヌの作品。

セザンヌ 「ラム酒の瓶のある静物」 1890年頃
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タケノコみたいに見えるのがラム酒ね。セザンヌの影響とは彼の多角度からの視点なのだけれど、この絵ではわかりにくいので、この展覧会に出展されていない「果物籠のある静物」というもっと端的な作品を紹介しておこう 。
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ごく普通の静物画に思えるものの、よく見ると大きな瓶(かめ)はやや上からの視点で描かれているのに対して、ティーポットは真横から見ている。また果物かごは垂直に置かれているのに、それが置かれているテーブルは手前に傾斜している、つまり斜め上から見ている。このように多角度の視点を1枚の絵に混在させるのがセザンヌの静物画の特徴。それによって独特の空間表現とリズム感が生み出されてハマる人にはハマる。

私にもそんな時期があった。でも多角度の視点なんて気付かずに、セザンヌの静物画は他の画家とはどこか違うなあと思っていただけ。おそらくセザンヌのこのトリックは実際に絵を描く人ならすぐに見抜くものだと思う。そして、そんな手があったのかと取り入れたくなるのだろう。


展示会にあった他のセザンヌ作品。

セザンヌ 「ポントワーズの橋と堰」 1881年頃
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これとキュビスムの関わりはよくわからない。ひょっとしたら解説に書かれていたかも知れないが、基本そういうのは読まないタイプなのでm(_ _)m でもキュビスムの特徴は、西洋絵画の伝統であった遠近法や陰影法による空間表現の否定でもあるから、その参考例なのかと思っている。


セザンヌはキュビスムの関わりでよく取り上げられるが、
この展覧会にはこんな画家の作品もあった。

ゴーギャン 「海辺に立つブルターニュの少女たち」 1889年
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ルソー 「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」 1910年頃
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マリー・ローランサン 「アポリネールとその友人たち(第2ヴァージョン)」 1909年
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「ポントワーズの橋と堰」以上にキュビスムとの関連はよくわからないものの、それぞれいい絵だったので単純に満足。特にこの年代のマリー・ローランサンの、例のパステルカラー的な画風を確立する前の作品は久しぶりに見た感じ。


これらはアフリカの仮面や小像。

制作者不詳 「ダンの競争用の仮面(コートジボワール)」 1850〜1900年頃
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制作者不詳 「バンバラの小像(マリ)」 1850〜1900年頃
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制作者不詳 「ヨンベあるいはウォヨの呪物(コンゴ)」 制作時期不詳
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印象派の時代はその第1回展が開かれた1874年(明治7年)から。当時の画家たちは浮世絵に興味を持ちジャポニスム、いわゆる日本ブームが起きたのはよく知られている。そして1920年(大正9年)頃から始まったエコール・ド・パリ時代の少し前から、今度はアフリカブームが訪れる。

これはモディリアーニの彫刻。
アフリカの匂いはしなくとも明らかに影響が感じられる。

モディリアーニ 「女性の頭部」 1912年
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ところで印象派の画家が浮世絵を取り上げたのをもって「浮世絵は素晴らしい、日本美術が西洋に評価された」とやたら持ち上げる向きもあるが、その後のアフリカブームを考えると、半分は単に物珍しかっただけじゃないかと私は冷めた目で見ている。



それはさておき、
セザンヌの多角度の視点、遠近法や陰影法の否定に影響を受け、そしてアフリカの仮面や小像にインスピレーションを得てピカソが1907年に描いたのが「アヴィニョンの娘たち」。この展覧会の作品ではないが参考までに。どこが多角度の視点がわかりづらいが、右下の女性は背中を向けているのに顔がこちら向きになっている。
Les Demoiselles d'Avignon

これがキュビスムの始まりで、
近代絵画史上で最も重要な作品と評されている。
私がキュビスムはまったく趣味じゃない理由がわかったでしょ(^^ゞ


さてピカソの自信作であったこの絵を見たジョルジュ・ブラックは「3度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われるようなものだ」と酷評。ピカソと共にエコール・ド・パリのツートップと目されていたマティスは、これを一目見るなり激怒。あまりの貶(けな)されように友人たちはピカソが首を吊らないか心配したと伝わっている。

それにしても「3度の食事が麻クズとパラフィン〜」なんて、文句の付け方がお洒落なジョルジュ・ブラック。さすがはフランスのエスプリ。

しかしジョルジュ・ブラックはしばらくして考えを改め、
ピカソの革新性に気がついて、こんな作品を描く。

ジョルジュ・ブラック 「大きな裸婦」 1907〜1908年
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芸術のためなら3度の食事が麻クズとパラフィンでもいいと腹をくくったみたい(^^ゞ
これ以降ピカソとブラックの間でキュビスムが形作られていく。


他に展示されていたのは「アヴィニョンの娘たち」の習作であったとされる作品。

ピカソ 「女性の胸像」 1907年
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なお館内は多くの作品が撮影可能だったので展示の雰囲気を。
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そして、
ここからがキュビスムのディープな世界の始まり始まり。



ーーー続く

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2018年10月03日

音楽とマリー・ローランサン その3

最後の時代区分は「円熟期」。

狂騒の時代や熱狂の時代といわれた1920年代のパリの華やかさは、1929年の世界恐慌で幕を閉じる。そして1939年から始まる第二次世界大戦。パリはナチス・ドイツに占領される。しかしマリー・ローランサンは盤石の構え。第一次世界大戦ではスペインに亡命し、それが少し絵にも影を落とした。しかし、この頃の彼女は社会の動向とは関係なく、あのマリー・ローランサン調を邁進している。戦争が始まったのは彼女が56歳になろうとする頃。もう何事にも動じないオバチャンになっていたのだろう(^^ゞ

画風は基本的にパステルカラーながらも、だんだんと鮮やかな色彩になってくる。それと描かれている女性から、あどけなさや妖精らしさがが薄れ、何となく実体感が出てきたかな。


「ばらの女」  1930年
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「シュザンヌ・モロー(青い服)」  1940年
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「音楽」  1944年頃
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「扇をもつ若い女」  1950年頃
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「三人の若い女」  1953年頃
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マリー・ローランサンの絵とじっくり対峙しても特に何も得られない。そのセンスと画風をサラッと楽しむべき絵。別に軽んじている訳じゃない。スーツとTシャツ、ファッションにはどちらも必要。ひょっとしたらTシャツのほうがオシャレに着こなすのは難しいかも。

ところでマリー・ローランサンには、一目見て彼女の作品とわかるアイデンティティがあるから、ある意味ワンパターンな画家と思っていた。しかし今まで見たことがなかった「青春時代」区分は別としても、それぞれの時代区分での画風の変遷を知ることができたのは面白かった。まあ微妙な違いなんだけど。

復習を兼ねて並べてみると。
(左上から時計回りに、青春時代→亡命時代→1920年代→円熟期)
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ついでにマリー・ローランサンの写真あれこれ。
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この展覧会には平日の午後1時過ぎに訪れた。チケットを買っているときに1人会場から出てきて、中に入ってみると私だけ。生まれて初めての展覧会貸し切り状態! しばらくしてもう1人やって来たけれど、ポーラ美術館より空いている(^^ゞ しかしここはニューオータニのガーデンコート。おそらく家賃も相当高いはず。もともと長野の蓼科にあったマリー・ローランサン美術館は来場者数が伸びずに閉館になった。その二の舞にならなければいいのだがと余計な心配。現在ここに移転して1年とちょっと。マリー・ローランサン好きは早めに見に行ったほうがいいかもしれない。

ちなみに展示スペースは「えっ、これだけ?」思うくらい、こじんまりとしている。作品数は70点ほどだった。


ニューオータニはマリー・ローランサン美術館も入っているオフィスビルのガーデンコート、ホテル新館であるガーデンタワー、ホテル本館のザ・メイン(ヘンな名前)の3つの建物で構成され、それぞれは渡り廊下でつながっている。美術館のある6階が渡り廊下のある階だったので、ホテルのほうへ歩いてみた。いわゆるホテルのアーケード街を通るようになっている。でも買い物するわけでもないので、外に出てホテル自慢の日本庭園を散策すればよかった。もしマリー・ローランサン美術館に来るならご参考に。


というわけでホテル本館から退出。
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ホテルすぐそばの道路はいい感じ。さすがは紀尾井町。ちなみに「紀」州徳川家、「尾」張徳川家、彦根の「伊」井家の江戸屋敷があったから紀尾井町。お殿様もここを通ったかな。
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階段があったので登ってみる。
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残念ながら、次の約束があったので探検できず。

さて今年の秋は、バイクも手放してしまったので美術館に行きまくる予定。


おしまい

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2018年10月01日

音楽とマリー・ローランサン その2

前回に紹介した1912年〜13年、マリー・ローランサンが30歳までの作品には、今まで知らなかった彼女の画風が見られた。しかもそれが好みに合うものだったので展覧会に足を運んだ甲斐があったというもの。

ところでマリー・ローランサンの作品を観ると、なぜか竹久夢二と東郷青児を思い出す。3人の絵はまったく違うが、おそらく

   他の誰にも似ていない画風で女性を描いている。
   それがサラッと軽めのタッチで、
   現実とは距離のある空想的な雰囲気を漂わせている。

あたりの共通点がそう思わせるのかもしれない。もっとも竹久夢二と東郷青児の絵は、オッサンの女性を美化するモーソーがなせる業なのに対して、マリー・ローランサンは女性なのが面白い。ところでモーソーといえば宮崎駿がアニメで描く少女のキャラクターは、まったくもって老人のモーソーの産物だとかねがね思っている(^^ゞ


さて展覧会は最初の「青春期」に続いて、あと3つの時代区分を設けている。それぞれ作風は異なるが「これらの作品が、どの時代区分に当てはまるか選びなさい」という問題を出されたら全問正解は難しいかも。


2つ目の時代区分は「亡命時代」。マリー・ローランサンは30歳半ばでドイツ人と結婚してドイツ国籍となる。しかし第1次世界大戦が始まり、ドイツがフランスに宣戦布告したのでフランスにはいられなくなった。また夫がドイツに戻れば兵士として出征しなければならないので夫婦でスペインに亡命する。

このスペイン亡命時代は、マリー・ローランサンにとって閉塞的で厳しい日々だったといわれている。画業も停滞した模様。そういう背景を知った上で絵を眺めれば、どことなく陰性の雰囲気があるかな。でもマリー・ローランサンの描く女性は基本的に無表情だから、こちらの気持ち次第でどのようにも見えてしまう。


「王女」  1915年
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「棕欄のそばの女」  1915年頃  ※棕欄=しゅろ:ヤシ科の植物の総称
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「鏡を持つ裸婦」  1916年
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この作品だけは黙って見せられればマリー・ローランサンとは思わないだろう。他のものとは明らかに異なる内容と画風。どこかクラシックなものを感じる。亡命中にいろいろと模索することもあったのか、あるいはスペインの画家達に影響を受けたのだろうか。


「舞踏」  1919年
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「ギターをもつ女道化師」  1920〜22年
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次の区分は「1920年代」。第1次世界大戦が終わり、夫とも離婚してフランス国籍を回復したマリー・ローランサンは1921年にパリに戻る。戦争に勝った後の1920年代のパリは、狂騒の時代や熱狂の時代、あるいはパリがもっとも輝いていた〜パリが一番パリらしかった時代などといわれる。ところで東京が一番東京らしかった時代ってあったのかな。

美術史的にはエコール・ド・パリの時代。これは絵の特徴や内容に関係なく、その頃に活躍した画家をひとまとめにしただけの呼び名。有名どころはモディリアーニ、シャガール、ユトリロ、パスキン、キスリング、藤田嗣治あたり。

パリに戻って彼女は元気になったようである。「亡命時代」と較べれば色使いも明るい。マリー・ローランサン=パステルカラーという図式はこの頃に完全に定着する。また「接吻」や「ラッパをもって」のような、甘くロマンティックな雰囲気もこの頃の特徴である。

「三美神」  1921年
47


「ギターと二人の乙女」  1924年
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「お城の生活」  1925年
57


「接吻」  1927年頃
62


「ラッパをもって」  1929年
67



ーーー続く

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2018年09月30日

音楽とマリー・ローランサン

マリー・ローランサンは、1983年に発表された加藤和彦の「あの頃、マリー・ローランサン」というアルバムでその名前を知った。マリー・ローランサンの作品と認識して絵を観たのはそれから数年後だったと思うが、画家の名前を知らなかっただけで、それまでにも見たことのある絵だった。

それくらいマリー・ローランサンは、一目見れば彼女の作品とわかる独特の画風である。パステル調でホンワカと少女趣味的。だけどどこか抗しがたい魅力がある。また絵画というよりイラストに近い雰囲気でもある。ダンディだった加藤和彦はそこに何かファッションセンス的なものを感じたのかもしれない。


かつて長野県の蓼科にマリー・ローランサン美術館があり何年か前に閉館となった。そして昨年からニューオータニのガーデンコートに場所を移して再スタートしたことは知っていた。いつでも行けると思うと、なかなか行かないもの。ようやく先日、赤坂で打ち合わせがあったついでに訪れてきた。


地下鉄の地上出口を上がると赤坂見附の交差点。しかし改札を出てから長〜い地下通路を経てここにたどり着く。東京のホテル御三家はどこも駅から遠い。
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弁慶橋を渡って紀尾井町に入る。東京でもっともステイタスの高いエリア。橋の下を流れているというか溜まっているのは弁慶堀。貸しボートと釣り堀あり。弁慶堀というのは江戸城の外堀の一部。なお牛若丸の弁慶とは関係なく、江戸時代の弁慶ナニガシという大工が作ったから弁慶橋。
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道路を挟んで左がニューオータニ・ガーデンコートで、これはニューオータニのホテル敷地内にあるオフィスビル。右はかつての赤坂プリンスホテルの跡地を再開発して建てられた東京ガーデンテラス。こちらはオフィスやホテルとレストラン街の入る複合ビル。それにしても向かい合って建つガーデンコートとガーデンテラス。建築業界はもっとネーミングの勉強したら?
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マリー・ローランサン美術館はガーデンコートの6階にある。その途中にあったアナトリウム・チャペルという吹き抜け空間。スケルトンのドームがチャペルらしく、ここでの結婚式もニューオータニのウエディングプランにある。エスカレーターが写っていてわかるように、ここは通路の一部なんだけれど。なおフロアに座っている人は、神に祈りを捧げているのではなく休憩しているだけ(^^ゞ
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マリー・ローランサン美術館に到着。
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展覧会タイトルは「音楽とマリー・ローランサン」。これはアレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)の小説「椿姫」の挿絵を彼女が描いた〜のちに「椿姫」はオペラとしても上演されたーーーというつながりらしい。かなり強引なタイトルである。


ところで、この画家はこんな絵ーーーという印象は、多くの場合その画家の全盛期の画風をベースにしている。そしてたいていの画家は初期に、全盛期とまったく異なる絵を描いているもの。まだ駆け出しで自分の画風も確立していないから仕方のないこと。だからあまり初期の絵には興味がない。たいていは個性のないどこにでもあるような絵だから。しかし「あの」マリー・ローランサンが初期にはどんな絵を描いていたかは知りたかった。それを見たくて展覧会にやって来たといってもいいくらい。

話はそれるが、そんなどこにでもあるような有名画家の初期の絵について、評論家がのたまうのが「若い頃からデッサンがしっかりしていることがわかる」といったお約束のセリフ。エーカお前らヨー聞け。若い頃からデッサンがしっかりしてたから、後世に名が残る画家になれたんじゃ!


展覧会は4部構成。最初は「青春時代」。

最初の何点かは案の定どこにでもあるような絵だった。でも22歳頃に描いた自画像はちょっとゾクッとする出来映え。残念ながら他のどこにでもあるような絵は画像が見つからなかった。

「自画像」  1905年頃
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しかしたった数年で作風はガラッと変わる。後年のマリー・ローランサン調とは違うが、平面的なスタイルはこの頃から始まったようだ。自画像なんて1905年と1908年で、こうも変わるかと驚く。

「ピカソ」  1908年頃
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「自画像」  1908年頃
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「アリス・ドラン(アンドレ・ドラン夫人)」  1908年
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「詩人の家族」  1909年
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次の「扇」という作品から、また作風が変わってくる。そして「家具付きの貸家」からマリー・ローランサン調の基礎が固まったように思える。ただし後年の作品と較べると、全体的に色が控えめでラインはシャープ。こういうマリー・ローランサンは初めて見たけれど、かなり好みかも。色彩的に少女趣味的すぎないし、どことなくアンティークな雰囲気もある。

「扇」  1911年頃
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「パッシーの橋」  1912年
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「家具付きの貸家」  1912年
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「ピアニスト」  1912年
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「優雅な舞踏会あるいは田舎での舞踏」  1913年
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「チェロと二人の姉妹」   1913〜14年
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「日除け帽をかぶって立つ女」   1913年
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「読書する女」   1913年頃
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ーーー続く

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2016年09月16日

女性を描く クールベ、ルノワールからマティスまで

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前回のエントリーでも少し書いた、ツーリングで立ち寄った横須賀美術館で開催されている展覧会。どんな内容かを美術館のホームページの言葉をコピペすると、

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産業化と機械化の発展により、1850年から約1世紀の間に、フランスでは社会が大きく変化します。 また、この時代のフランスでは重要な芸術運動、すなわち、レアリスム(写実主義)、印象派、ポスト印象派、象徴主義、フォーヴィスム、キュビスムが生まれ、豊かに実っていきます。

この時代のフランス絵画においては、社会の様々な場面での女性が描かれ、また内面を掘り下げた作品が多様に表現されていきます。

本展では、こうした時代の証言者である女性像に焦点をあて、「女性の肖像」「画家とモデル」「家庭の女性」「働く女性」「余暇(レジャー)」「夢の女性」という6つのテーマを設け、 47作家による約60点で多彩な作品群をご紹介いたします。
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(クルーベという画家はよく知らないのだが)副題にルノワールからマティスまでと添えられているのは、特に目玉となる作品もないので、知名度の高い画家の名前で訴求力を高めたかったのだろう。もっともルノワールやマティスにしても、彼らの代表作が展示されているわけではない。

いってみればかなり地味目の展覧会で、47名の画家のうち私が知っていたのは

  ルノワール
  ローランサン
  ボナール
  マティス
  キスリング

の5名くらい。残り42名には「聞いたことがあったかな」という画家もいたが、ほとんど知らない人ばかり。でもこの42名がよかったのである。絵がどうこうというより、肩の力を抜いていろんな画家の絵を眺められたのが楽しかった。先ほどの美術館の説明にはいろいろと難しいことが書いてあるが、そんなことを抜きにして、古き良きパリのバラエティに富んだ女性の肖像画や人物画の展覧会という解釈でいいと思う。それに前回のエントリーで紹介した通り、この美術館のレストランは順番待ちで並ばなければいけないが、展示室はガラガラでノンビリと鑑賞できる。




まずは有名どころから紹介。

オーギュスト・ルノワール 「肖像画の習作」
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制作年は不明でも、絵の雰囲気から後期の作品なのは一目瞭然。まあどこから見てもルノワールな画風。ルノワールは先月に大規模な展覧会で代表作をたくさん見たばかりなので、それと較べてしまうせいか、あまり展示作品に興味が持てなかった。



マリー・ローランサン 「ギターを持つ若い女性」1940年
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ローランサンも一目見て彼女だとわかる画風を確立した画家。少し軽めのイラスト風で、昔はお洒落な絵画の代名詞だったこともある。ただし日本では人気があるもののフランスではそれほどでもないという話もよく聞く。少女的な愛らしさを追求した画家であり、カワイイ文化の日本人とは相性がいいのかもしれない。



ピエール・ボナール 「服を脱ぐモデル」
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名前はあまり聞かないものの、わりとあちこちで見かけるボナール。まあ展覧会にはそんな脇役の画家も必要かも。「絵画は、ひとつの充足する小さな世界でなければならない」と語り、アンティミスト(親密派・内景派)と呼ばれるボナール。また浮世絵などから多大の影響うけ「日本かぶれ」とも揶揄されていたらしい。まるで屏風や掛け軸のような作品も残している。でもそれらを除けば印象派の画家とは違い、知る限り、いかにも浮世絵からインスピレーションを得たような構図や、アクセントとして日本の風物を置いたような絵は描いていない。私にはコッテリとした、とてもパリ的に感じられる画家である。



アンリ・マティス 「窓辺の婦人」1919年
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だいたいがヘタウマ絵のマティスであるが、これはちょっとーーー小学生が描いたお母さんの絵にしか見えなかった(/o\)



モイーズ・キスリング 「赤い洋服のモンパルナスのキキ」1933年
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キスリングを見る機会はそれほど多くない。しかし、かなり個性的なので一度見たら忘れることはない画家である。彼の人物画は割と平面的でコントラストのはっきりした画風。アニメ的といってもいいかもしれないが、その表情にはどこか憂いを漂わせているものが多い。パッと見は単純だけれど、じっくり見ると結構ハマるタイプの作品が多い。

モンパルナスのキキは、キスリングだけでなくユトリロ、藤田嗣治、モディリアーニなど当時の多くの画家に描かれた伝説のモデル。また有名な写真家であるマン・レイの愛人でもあった彼女のブロマイドは30万枚以上売れたという。
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この写真は展示作品ではない。またこの写真が30万売れたということではないが、皆がキキの虜になったことはこの1枚でもわかる気がする。

本名はアリス・プラン。キスリングが100枚以上彼女の絵を描いたので、キスリングの愛称のキキが彼女の呼び名にもなったらしい。


ーーー続く

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2014年08月08日

モディリアーニ展 その2

総展示数65品のうちモディリアーニの絵は10点。他に彫刻が1点と素描が8点。というわけで残り46点は他の画家の作品。以前に2回訪れた時に常設展示で見た絵も多かったが、それはそれで楽しめた。


「海辺の母子像」  ピカソ

ピカソはコロコロと画風が変わったので、その時々の画風に合わせて「ナニナニの時代」と区分されている。全部で10ある区分の最初が「青の時代」。友人の自殺にショックを受けて青い色の絵ばかりを3年ほど描いていた。「青い闇」なんだそうである。
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もちろんピカソはそういうつもりでこの絵を描いたのではないはずだが、日本人にはその手が合掌の仕草に見える。当然この絵からイメージされるのは祈り。合掌が邪魔をしてそれ以外に思いを巡らすのは難しい。西洋人というか仏教や神道とは無縁の人々に、この絵はどういう風に写るんだろうかと思った作品。


昨日紹介したモディリアーニの「青いブラウスの婦人像」は、青の時代のピカソに強く影響を受けているとされる。それはさておき1910年作の「青いブラウスの婦人像」と、1916年、1917年あたりの作品はずいぶん画風が違う。実はモディリアーニは画家ではなく彫刻家志望だったらしい。この展示会では21歳でパリにやってきて35歳でなくなった彼の短い活動期間をさらに細かく分けていた。

    1906年〜1909年:初期は絵を描いていた
    1909年〜1914年:絵を中断して彫刻に励んでいた頃
    1915年〜1918年:絵に戻って全盛期を迎える
    1918年〜1920年:晩年

年代区分は展覧会に合わせたが、その解説は私が勝手に解釈した超省略版である。

モディリアーニが目指していたのは彫刻だったが、残念ながら

    素材である石を買うのに金が掛かる。
    石を彫るのは体力が必要で病弱のモディリアーニにはきつかった

ということで、たいした成果を上げられなかった模様。
今回展示されていたのは1点のみ。


「頭部」  モディリアーニ

これはブロンズ像だけれど、型となったオリジナルは粘土ではなく石を彫ったものだったらしい。彫刻は詳しくないので、そのあたりの違いはよくわからない。
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今回の最大の収穫はこの彫刻。別にこの作品が気に入ったのではなく、モディリアーニのあの特徴的なヒョロ長くデフォルメされた画風の謎がわかったから。

彼はこの彫刻の時代にアフリカっぽいものに入れあげていたらしい。「アフリカ 仮面」で画像検索するといろいろ出てくるが、この作品もどこかアフリカっぽい。そして彫刻を諦めてから描かれたモディリアーニの絵にアフリカ的な匂いはまったく感じないものの、そのデフォルメ(変形、誇張あるいは省略)感覚にはどこかアフリカのアートや民芸品と共通するものがある。仮面なら瞳を描かなかったのもわかる気がする。彫刻の時代の前に描かれた「青いブラウスの婦人像」が他の作品とイメージが違うのはアフリカ的なデフォルメではないからだ。

しかしモディリアーニのあの不思議な画風のルーツにアフリカがあったとは夢にも思っていなかった。(注)これは私の勝手な解釈です。ついでにいうとピカソにも「アフリカ彫刻の時代」と呼ばれている期間がある。エコール・ド・パリより前の時代の印象派の画家は日本の浮世絵から多くのインスピレーションを得ている。日本の次はアフリカがパリで流行ったということなんだろう。




「母子像」 ピカソ

ピカソはキュビスムという難解で抽象的な作風の後で、いったん古典的というか普通の作風に戻っている。その後でシュルレアリスムという凡人には理解不能な領域で芸をきわめた? これはピカソの「新古典主義の時代」の作品。モデルは彼の奥さんと生後数ヶ月の長男。こういうピカソなら安心して絵を見ることができる(^^ゞ 
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「葡萄の帽子の女」 ピカソ

上の作品より以前の「総合的キュビスムの時代」の作品。小学生の時に初めてピカソの絵を見て「なんじゃ〜これ〜!」と驚き、大人になったらこういう絵も「わかる」ようになるのかと思っていたが、やっぱり無理(^^ゞ でもタイトルを知ってこの絵を見ると、何となく可愛い女性に思えてくるから不思議なもの。
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「ヘクトールとアンドロマケー」  キリコ

木でできた人形というかロボットのようなものが二体。
左が男のヘクトールで右が女のアンドロマケー。この二人は夫婦である。ただの夫婦じゃなくてトロイの国の王と王妃。トロイの木馬で有名なあのトロイ。劣勢のトロイ軍総大将として最後の出撃前に妻と今生の別れの図。
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そんなストーリーをこのロボットの絵から想像するのは難しいなあ。しかし教養ある西洋人ならヘクトールとアンドロマケーというタイトルで想像できるのかもしれない。例えばこのロボットが仁王立ちしていてタイトルが「信長 本能寺」なら日本人がシチュエーションを想像できるように。

だとしても、この絵から惜別の情感を感じるのはさらに難しい。まあシュルレアリスム(シュール・リアリズム、略してシュール)は現実を超えたところの現実感?みたいなことだから、そういう感覚に浸るべきものだろうけれど。この絵をやるといわれても別の絵にしてくれというが、こういう試み・実験を経て少しずつ芸術は進化していくのかもしれない。



「女優たち」  マリー・ローランサン

マリー・ローランサンは好きな画家の一人。毒にも薬にもならないのだが、眺めているとホンワカと幸せになってくる。今年の春頃に吉祥寺の美術館で展覧会があったのに行きそびれてしまった。彼女の絵もモディリアーニと同じくひたすら画風を楽しむべき絵である。
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ところで会場では「葡萄と帽子の女」「ヘクトールとアンドロマケー」「女優たち」の3枚が一緒に1つのコーナー(壁面)に展示されていた。並べ方によって絵の印象が変わることはないとしても、その場の雰囲気はやはり影響を受ける。たまたまなのか意図的なのかはわからないが、なかなかおもしろい組み合わせだった。


ーーー続く

wassho at 07:10|PermalinkComments(0)