モディリアーニ

2024年01月26日

キュビスム展 美の革命

国立西洋美術館で1月28日まで開催されているキュビスム展。
鑑賞してきたのは昨年の11月29日。
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ブログに書くのがずいぶんと遅くなってしまった。
訪れたときに国立西洋美術館がある上野公園のイエローオータムが予想以上に素晴らしくて、それでスイッチが入ってしまい、例年のもみじ狩りが3カ所くらいなのに昨年は13カ所も出かけたのが遅れた理由のひとつ。
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そろそろ思い出しながら書いていきましょう。

ポスター

展覧会の正式タイトルは

   パリ ポンピドゥーセンター 
   キュビスム展 美の革命 
   ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ

とやたら長い。

パリの総合文化施設であるポンピドゥーセンター所蔵の、キュビスム絵画作品の展覧会がアウトライン。そのキュビスムとは美の革命であるとタイトルで強調している。

ただし英文では THE CUBIST REVOLUTION (キュビスム画家の革命)。キュビスムは確かに絵画表現における革命であったとしても、美について革命したわけじゃない。だから英文の「キュビスム画家の革命」のほうがしっくりくる。しかしそれではキャッチーでないとマーケティング担当者は考えたのに違いない。映画のタイトルなどでよくある話。

もっとも「An Officer and a Gentleman」→ これは「Conduct unbecoming an officer and a gentleman」という軍隊用語の略。軍法会議などで使われ、直訳すれば「将校および紳士に相応しくない行為」。その原題に「愛と青春の旅だち」と邦題をつけたレベルに「美の革命」はまったく及んでいないけれど。

名前が挙げられているピカソとブラックはキュビスムの創始者である画家。ドローネーはキュビスムを発展させた画家のひとり。シャガールはキュビスムの影響を受けた画家ではあるとしても、それは彼のメインストリームではないし、一般にキュビスム画家には分類しない。でもキュビスムは超巨匠のピカソを除けばあまりネームバリューが高くない画家が多いから、客寄せパンダ的に引っ張り出されたのかも知れない。



さてキュビスムとは何かについては追々書くとして、実はキュビスムはまったく趣味じゃない。キュビスムでこれは素晴らしい・欲しいと思った作品もないし、難解にこねくり回したようなその画風や世界観は「酔えるものこそがアート」との私の考えにも反する。

ではなぜ展覧会を見に出かけたかといえば半分はお勉強のため。過去の展覧会で藤田嗣治やパスキンなど意外な画家がキュビスム的な作品を残しているのを目にしてきた。だからキュビスムのイロハ程度は知っておいて損はしない、食わず嫌いはよくないぞとの意識が頭のどこかにあったから。

聞けば日本でキュビスムをテーマにした展覧会はおよそ50年ぶりとのこと。そして今回はピカソとブラックを含む主要作家約40人・約140点(うち50点以上が日本初出品)が出展され、いわばキュビスムの回顧展のような内容。だったら行ってみようかと。

そして残り半分はキュビスムが趣味じゃないといっても、そんなにたくさんの作品、特にピカソとブラック以外の作品を見たわけじゃないから。キュビスムといってもいろいろあるだろうし、ひょっとしたら好きな画家や作品が見つかるかもとのスケベ心(^^ゞ



初期のキュビスムはセザンヌの画風が影響した、あるいはそれを発展させたとものとよくいわれる。それで最初に展示されているのがセザンヌの作品。

セザンヌ 「ラム酒の瓶のある静物」 1890年頃
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タケノコみたいに見えるのがラム酒ね。セザンヌの影響とは彼の多角度からの視点なのだけれど、この絵ではわかりにくいので、この展覧会に出展されていない「果物籠のある静物」というもっと端的な作品を紹介しておこう 。
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ごく普通の静物画に思えるものの、よく見ると大きな瓶(かめ)はやや上からの視点で描かれているのに対して、ティーポットは真横から見ている。また果物かごは垂直に置かれているのに、それが置かれているテーブルは手前に傾斜している、つまり斜め上から見ている。このように多角度の視点を1枚の絵に混在させるのがセザンヌの静物画の特徴。それによって独特の空間表現とリズム感が生み出されてハマる人にはハマる。

私にもそんな時期があった。でも多角度の視点なんて気付かずに、セザンヌの静物画は他の画家とはどこか違うなあと思っていただけ。おそらくセザンヌのこのトリックは実際に絵を描く人ならすぐに見抜くものだと思う。そして、そんな手があったのかと取り入れたくなるのだろう。


展示会にあった他のセザンヌ作品。

セザンヌ 「ポントワーズの橋と堰」 1881年頃
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これとキュビスムの関わりはよくわからない。ひょっとしたら解説に書かれていたかも知れないが、基本そういうのは読まないタイプなのでm(_ _)m でもキュビスムの特徴は、西洋絵画の伝統であった遠近法や陰影法による空間表現の否定でもあるから、その参考例なのかと思っている。


セザンヌはキュビスムの関わりでよく取り上げられるが、
この展覧会にはこんな画家の作品もあった。

ゴーギャン 「海辺に立つブルターニュの少女たち」 1889年
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ルソー 「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」 1910年頃
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マリー・ローランサン 「アポリネールとその友人たち(第2ヴァージョン)」 1909年
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「ポントワーズの橋と堰」以上にキュビスムとの関連はよくわからないものの、それぞれいい絵だったので単純に満足。特にこの年代のマリー・ローランサンの、例のパステルカラー的な画風を確立する前の作品は久しぶりに見た感じ。


これらはアフリカの仮面や小像。

制作者不詳 「ダンの競争用の仮面(コートジボワール)」 1850〜1900年頃
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制作者不詳 「バンバラの小像(マリ)」 1850〜1900年頃
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制作者不詳 「ヨンベあるいはウォヨの呪物(コンゴ)」 制作時期不詳
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印象派の時代はその第1回展が開かれた1874年(明治7年)から。当時の画家たちは浮世絵に興味を持ちジャポニスム、いわゆる日本ブームが起きたのはよく知られている。そして1920年(大正9年)頃から始まったエコール・ド・パリ時代の少し前から、今度はアフリカブームが訪れる。

これはモディリアーニの彫刻。
アフリカの匂いはしなくとも明らかに影響が感じられる。

モディリアーニ 「女性の頭部」 1912年
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ところで印象派の画家が浮世絵を取り上げたのをもって「浮世絵は素晴らしい、日本美術が西洋に評価された」とやたら持ち上げる向きもあるが、その後のアフリカブームを考えると、半分は単に物珍しかっただけじゃないかと私は冷めた目で見ている。



それはさておき、
セザンヌの多角度の視点、遠近法や陰影法の否定に影響を受け、そしてアフリカの仮面や小像にインスピレーションを得てピカソが1907年に描いたのが「アヴィニョンの娘たち」。この展覧会の作品ではないが参考までに。どこが多角度の視点がわかりづらいが、右下の女性は背中を向けているのに顔がこちら向きになっている。
Les Demoiselles d'Avignon

これがキュビスムの始まりで、
近代絵画史上で最も重要な作品と評されている。
私がキュビスムはまったく趣味じゃない理由がわかったでしょ(^^ゞ


さてピカソの自信作であったこの絵を見たジョルジュ・ブラックは「3度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われるようなものだ」と酷評。ピカソと共にエコール・ド・パリのツートップと目されていたマティスは、これを一目見るなり激怒。あまりの貶(けな)されように友人たちはピカソが首を吊らないか心配したと伝わっている。

それにしても「3度の食事が麻クズとパラフィン〜」なんて、文句の付け方がお洒落なジョルジュ・ブラック。さすがはフランスのエスプリ。

しかしジョルジュ・ブラックはしばらくして考えを改め、
ピカソの革新性に気がついて、こんな作品を描く。

ジョルジュ・ブラック 「大きな裸婦」 1907〜1908年
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芸術のためなら3度の食事が麻クズとパラフィンでもいいと腹をくくったみたい(^^ゞ
これ以降ピカソとブラックの間でキュビスムが形作られていく。


他に展示されていたのは「アヴィニョンの娘たち」の習作であったとされる作品。

ピカソ 「女性の胸像」 1907年
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なお館内は多くの作品が撮影可能だったので展示の雰囲気を。
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そして、
ここからがキュビスムのディープな世界の始まり始まり。



ーーー続く

wassho at 21:36|PermalinkComments(0)

2014年08月12日

モディリアーニ 真実の愛 (映画)

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先日書いたようにモディリアーニをテーマとした映画は2本ある。

    モンパルナスの灯 1958年
    モディリアーニ 真実の愛 2004年

展覧会の記憶が鮮明なうちに映画も観てみようとDVDを借りてきた。残念ながら「モンパルナスの灯」はツタヤになかったし、iTuneの映画ダウンロード(期限付きのダウンロードでレンタルみたいなもの)にもなかった。そちらのほうがおもしろそうだったのに。

でも「モディリアーニ 真実の愛」もなかなか楽しめた。モディリアーニや絵とかに興味がなくても、映画としてそこそこのレベルの作品だと思う。画家をテーマにしたから意識したのか映像もきれい。(DVDよりブルーレイのほうがというキレイさじゃなくて、撮り方のことね)


モディリアーニが映画になるのはモンパルナスのプリンスと呼ばれ、35歳で夭折した彼の破滅型の人生に人を惹きつけるものがあるから。それと展覧会のエントリーでは書かなかったが、彼が亡くなる3年前に知り合って結婚した妻のジャンヌ・エビュテルヌの存在が大きい。妊娠9ヶ月の彼女はモディリアーニの死後2日後に自殺している。そして彼女は飛びきりの美人だった。脚本家にとっては書かずにはいられないのがモディリアーニの生涯なのである。

映画は史実をベースにしながらもかなり大胆な脚色が入っている。映画の冒頭で「これはフィクションです」と但し書きが入るくらい。美術史を勉強している人や絵画オタクにはいろいろ気になることもあると思うが、伝記映画やドキュメンタリーじゃないから別に構わないと思う。これはモディリアーニの半生にインスピレーションを得て、一途で切なく悲劇的なジャンヌの愛をテーマにした映画なのである。ちなみ舞台はもちろんパリだがセリフは英語である。


冒頭のシーン。
レストランに入ってきていきなりテーブルに上がり客に語りかけるモディリアーニ。この写真だけを見ると「はぁ?」なシチュエーションでも、このシーンでモディリアーニが皆に好かれていることがよくわかる設定になっている。
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主演のモディリアーニ役はアンディ・ガルシア。
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映画公開当時は48歳のはず。モディリアーニを演ずるには年配だが、なかなかいい演技だった。アンタッチャブルやゴッドザーザーpart3の頃のダイコン役者なイメージが残っているから心配したが。


こちらが本物のモディリアーニ。
何歳の時の写真なのかは不明。
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ジャンヌ役のエルザ・ジルベルスタイン。
フランスの女優。
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モディリアーニの絵に多少馴染みのある人なら賛同してもらえると思うはずだが、彼女はモディリアーニが描く絵にどことなく似ている。イヤ、どことなくのレベルじゃなくて、下の写真は絵のモデルになっているシーンだけれど、モディリアーニの肖像画そのものである。
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だから彼女ほどジャンヌにふさわしい女優はいないとも言えるが、少し歳を取りすぎているのが気になるところ。エルザ・ジルベルスタインは公開当時35歳。本物のジャンヌはモディリアーニより14歳年下で自殺した時はまだ21歳なのである。そんな若い女性が生活能力のない自堕落な中年男モディリアーニを愛し支えるところに、いろいろと想像をかき立てられる「歴史のおもしろさ」があるのに、35歳のエルザ・ジルベルスタインじゃ迫力ありすぎかな。このモディリアーニ顔には捨てがたいものがあるが。


こちらが本物のジャンヌ・エビュテルヌ。
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モディリアーニがジャンヌをモデルに描いた作品。
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これは映画の中でガルシアが描いたジルベルスタイン。
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超要約すると、売れない画家で子供も生まれたのに金のないモディリアーニが、高額の賞金狙いでコンテストに出品。優勝するが死んじゃって、二人目の子供を宿していたジャンヌも後追い自殺というもの。モディリアーニは病気で死んだのだが、映画では飲み屋で大酒を食らって金を持っていなかったので店の用心棒にボコボコにされ、それと病気の悪化で死んだことになっている。

当時の画家がいろいろ登場して、特にピカソとモディリアーニの対立を中心にストーリーが展開していく。画家として成功しているピカソは、思いっきり傲慢でイヤな野郎として描かれている。しかし二人揃って生きた伝説と化しているルノアールに会いに行くシーンでは不思議な友情も感じさせる。そのあたりは観てのお楽しみ。

コンテストに向けて画家達が寝食を忘れて絵を制作していくところがクライマックス。あり得ない設定なんだけれど、こういうのが映画ならではのストーリーで引き込まれる。音楽もいい。コンテスト会場でモディリアーニの作品が披露されるシーンは涙腺が緩い人なら泣けるはず。

ジャンヌのモディリアーニに対する愛情はだんだんと狂気じみてきて、ボコボコにされて死にかけているモディリアーニを病院に連れて行こうとする友人の画家達に「私とモディリアーニを引き離さないで」などと錯乱状態。彼が亡くなってピカソがジャンヌにお悔やみを言う時、それをさえぎって「お腹の子の魂を感じるのに私は空っぽ」というシーンは切ない。そして最後はモディリアーニに許しを請いながら飛び降り自殺する。

このシーンのセリフは意味がよくわからなかったが、そこだけ字幕から吹き替えに変えてみて理解できた。吹き替えのほうが100倍グッとくる。普段は吹き替えで観ることはないが、日本語の字幕とは微妙に違うセリフを喋っているとは知らなかった。


ところで映画では時々、幼い頃のモディリアーニが彼の分身のように出てくる。モディリアーニ以外には見えない幽霊みたいな存在。その子供モディリアーニがモディリアーニに忠告するシーンがいくつかある。例えば肖像画の依頼主と意見が合わず仕事を投げ出してしまった時は「また逃げるの?」。酒場で飲んだくれている時は「ジャンヌが待ってるよ」とか。

私の分身も出てきて欲しい(^^ゞ

wassho at 19:32|PermalinkComments(0)

2014年08月08日

モディリアーニ展 その2

総展示数65品のうちモディリアーニの絵は10点。他に彫刻が1点と素描が8点。というわけで残り46点は他の画家の作品。以前に2回訪れた時に常設展示で見た絵も多かったが、それはそれで楽しめた。


「海辺の母子像」  ピカソ

ピカソはコロコロと画風が変わったので、その時々の画風に合わせて「ナニナニの時代」と区分されている。全部で10ある区分の最初が「青の時代」。友人の自殺にショックを受けて青い色の絵ばかりを3年ほど描いていた。「青い闇」なんだそうである。
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もちろんピカソはそういうつもりでこの絵を描いたのではないはずだが、日本人にはその手が合掌の仕草に見える。当然この絵からイメージされるのは祈り。合掌が邪魔をしてそれ以外に思いを巡らすのは難しい。西洋人というか仏教や神道とは無縁の人々に、この絵はどういう風に写るんだろうかと思った作品。


昨日紹介したモディリアーニの「青いブラウスの婦人像」は、青の時代のピカソに強く影響を受けているとされる。それはさておき1910年作の「青いブラウスの婦人像」と、1916年、1917年あたりの作品はずいぶん画風が違う。実はモディリアーニは画家ではなく彫刻家志望だったらしい。この展示会では21歳でパリにやってきて35歳でなくなった彼の短い活動期間をさらに細かく分けていた。

    1906年〜1909年:初期は絵を描いていた
    1909年〜1914年:絵を中断して彫刻に励んでいた頃
    1915年〜1918年:絵に戻って全盛期を迎える
    1918年〜1920年:晩年

年代区分は展覧会に合わせたが、その解説は私が勝手に解釈した超省略版である。

モディリアーニが目指していたのは彫刻だったが、残念ながら

    素材である石を買うのに金が掛かる。
    石を彫るのは体力が必要で病弱のモディリアーニにはきつかった

ということで、たいした成果を上げられなかった模様。
今回展示されていたのは1点のみ。


「頭部」  モディリアーニ

これはブロンズ像だけれど、型となったオリジナルは粘土ではなく石を彫ったものだったらしい。彫刻は詳しくないので、そのあたりの違いはよくわからない。
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今回の最大の収穫はこの彫刻。別にこの作品が気に入ったのではなく、モディリアーニのあの特徴的なヒョロ長くデフォルメされた画風の謎がわかったから。

彼はこの彫刻の時代にアフリカっぽいものに入れあげていたらしい。「アフリカ 仮面」で画像検索するといろいろ出てくるが、この作品もどこかアフリカっぽい。そして彫刻を諦めてから描かれたモディリアーニの絵にアフリカ的な匂いはまったく感じないものの、そのデフォルメ(変形、誇張あるいは省略)感覚にはどこかアフリカのアートや民芸品と共通するものがある。仮面なら瞳を描かなかったのもわかる気がする。彫刻の時代の前に描かれた「青いブラウスの婦人像」が他の作品とイメージが違うのはアフリカ的なデフォルメではないからだ。

しかしモディリアーニのあの不思議な画風のルーツにアフリカがあったとは夢にも思っていなかった。(注)これは私の勝手な解釈です。ついでにいうとピカソにも「アフリカ彫刻の時代」と呼ばれている期間がある。エコール・ド・パリより前の時代の印象派の画家は日本の浮世絵から多くのインスピレーションを得ている。日本の次はアフリカがパリで流行ったということなんだろう。




「母子像」 ピカソ

ピカソはキュビスムという難解で抽象的な作風の後で、いったん古典的というか普通の作風に戻っている。その後でシュルレアリスムという凡人には理解不能な領域で芸をきわめた? これはピカソの「新古典主義の時代」の作品。モデルは彼の奥さんと生後数ヶ月の長男。こういうピカソなら安心して絵を見ることができる(^^ゞ 
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「葡萄の帽子の女」 ピカソ

上の作品より以前の「総合的キュビスムの時代」の作品。小学生の時に初めてピカソの絵を見て「なんじゃ〜これ〜!」と驚き、大人になったらこういう絵も「わかる」ようになるのかと思っていたが、やっぱり無理(^^ゞ でもタイトルを知ってこの絵を見ると、何となく可愛い女性に思えてくるから不思議なもの。
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「ヘクトールとアンドロマケー」  キリコ

木でできた人形というかロボットのようなものが二体。
左が男のヘクトールで右が女のアンドロマケー。この二人は夫婦である。ただの夫婦じゃなくてトロイの国の王と王妃。トロイの木馬で有名なあのトロイ。劣勢のトロイ軍総大将として最後の出撃前に妻と今生の別れの図。
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そんなストーリーをこのロボットの絵から想像するのは難しいなあ。しかし教養ある西洋人ならヘクトールとアンドロマケーというタイトルで想像できるのかもしれない。例えばこのロボットが仁王立ちしていてタイトルが「信長 本能寺」なら日本人がシチュエーションを想像できるように。

だとしても、この絵から惜別の情感を感じるのはさらに難しい。まあシュルレアリスム(シュール・リアリズム、略してシュール)は現実を超えたところの現実感?みたいなことだから、そういう感覚に浸るべきものだろうけれど。この絵をやるといわれても別の絵にしてくれというが、こういう試み・実験を経て少しずつ芸術は進化していくのかもしれない。



「女優たち」  マリー・ローランサン

マリー・ローランサンは好きな画家の一人。毒にも薬にもならないのだが、眺めているとホンワカと幸せになってくる。今年の春頃に吉祥寺の美術館で展覧会があったのに行きそびれてしまった。彼女の絵もモディリアーニと同じくひたすら画風を楽しむべき絵である。
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ところで会場では「葡萄と帽子の女」「ヘクトールとアンドロマケー」「女優たち」の3枚が一緒に1つのコーナー(壁面)に展示されていた。並べ方によって絵の印象が変わることはないとしても、その場の雰囲気はやはり影響を受ける。たまたまなのか意図的なのかはわからないが、なかなかおもしろい組み合わせだった。


ーーー続く

wassho at 07:10|PermalinkComments(0)

2014年08月06日

モディリアーニを探して〜アヴァンギャルドから古典主義へ

ブログのタイトルは展覧会のタイトル。普通は画家の名前を入れてナニナニ展、その後に説明的なコピーが続く場合が多いが、ポーラ美術館は前半部分にヒネリを入れるのが好きなのかもしれない。前回に訪れた時は「モネ 風景を見る眼 19世紀フランス風景画の革新」だった。

ポーラ美術館は今回で3回目。

   2011年8月  レオナール・フジタ 藤田嗣治展
   2013年11月  クロード・モネ展

は、どちらも楽しかった。この美術館の場合はバイクでヴオーンと走ってきて、シーンと静寂な空間で絵を眺めるという対比も楽しみのひとつ。美術愛好家の皆さん、ぜひバイクに乗りましょう!


さてモディリアーニ。この画家の名前は知らなくても絵を見れば「どこかで見たことがある」という人が多いと思う。それくらい個性的でインパクトがある画風。それでいてどこか哀愁があって魅せられるというか見飽きないというか。私もモディリアーニの名前を知らない時から彼の作品は好きだった。


「青いブラウスの婦人像」 モディリアーニ 1910年
これは今まで見たことのあるモディリアーニとはちょっと画風が違う。
比較的、初期の作品のようだ。といっても彼は35歳で亡くなっているのだけれど。
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「婦人像 C.D.婦人」 モディリアーニ 1916年
このあたりから誰もが見たことがあるモディリアーニになる。
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「ルネ」 モディリアーニ 1917年
ビートルズみたいなモディリアーニ。
彼の作品は目の瞳がかかれていないものが多い。
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「髪をほどいた横たわる裸婦」 モディリアーニ 1917年
初めて開いた個展で、この絵がエロいと警察に没収されたらしい。
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「若い農夫」 モディリアーニ 1918年
これはブリヂストン美術館で見たことがある。
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「ルニア・チェホフスカの肖像」 モディリアーニ 1917年
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モディリアーニの絵を細かく解説してもあまり意味はない。何か主張があるわけでもないし、よく見ればなるほどと唸らされるテクニックが隠されていたりはしない。彼の絵は、ひたすらひたすらその画風を楽しむべき絵である。ただし展覧会でしか味わえない楽しみが1つある。モディリアーニは陰影を描き分けたり筆のタッチで何かを表現したりもしない。いってみれば塗り絵的な絵。しかし表現が難しいのだが、そのペターっと塗られている絵の具がなぜかキレイなのである。色がキレイなのではなくて、キレイにキャンバスが塗られているというかーーー。上手く伝えられないので気になる人は見に行ってください。


日本人的には何となくフランスぽい絵のように思えるがモディリアーニはイタリア人。1884年(明治17年)生まれだから日本では文明開化真っ盛りの頃。ちなみに鹿鳴館ができたのが1883年。美術史的にはエコール・ド・パリのメンバーに数えられる。

エコール・ド・パリは直訳すれば「パリ派」で1920年代前後にパリで活躍した画家をまとめてそう呼ぶことになっている。主義主張や画風で選別されたものではなく、印象派のようにグループとしての活動があったわけでもない。以前にも書いたが「エンタの神様にでていた芸人」みたいなくくり。モディリアーニ以外ではシャガール、ユトリロ、マリー・ローランサン、藤田嗣治あたりの知名度が高いかな。ピカソもこの時代からパリで絵を描いていたが、あまりに偉大だからかエコール・ド・パリのメンバーには入れないみたい。ただしモディリアーニとピカソは交流が深かった。ついでに書くとモディリアーニを日本に紹介したのは藤田嗣治。

エコール・ド・パリと重なるが、1918年の第1次世界大戦終結を受けて1920年代のパリは狂騒の時代とか熱狂の時代とか呼ばれる時を迎える。いわゆる「古き良きパリ、パリがもっとも輝いていた、パリが一番パリらしかった時代(らしい)」である。モディリアーニがパリにやってきたのは21歳の1906年、亡くなったのが35歳の1920年だから、残念ながらその時代はほとんど過ごしていないことになる。

しかしイケメンでモンパルナスのプリンスと呼ばれたモディリアーニは、その狂騒の時代を先取りしたような人生を送った。もっとも女、酒、麻薬そして病弱に貧乏と破滅型だったみたいだが(>_<) でもそんな人生には何となく憧れる。そういう気持ちを持つ人は多いからだろうか、モディリアーニをテーマとした映画が2本撮られている。

    モンパルナスの灯 1958年
    モディリアーニ 真実の愛 2004年

そのうちレンタルしてみよう。
モンパルナスの灯はずいぶん古い映画だからツタヤにあるかなあ。


ーーー続く

wassho at 07:37|PermalinkComments(0)