上田薫
2017年07月30日
リアル(写実)のゆくえ その3
そして楽しみにしていたスーパーリアリズムのコーナー。
上田薫の作品は何度か見たことがある。生卵シリーズ以外にコップに入った水とかスプーンやフォークなどの食器などを描いたものなど。まるでCG(コンピューター・グラフィック)のようだが、もちろん筆で描かれている。ただし対象をカメラで撮影して、プロジェクターでキャンバスに投影したものをなぞって描くらしい。だから上田薫の絵は彩色のスーパーリアリズム。
それと卵などの小さなものを描いた作品が多いが、たいていキャンバスのサイズが大きいのも特徴。この展覧会の「なま玉子C」も縦1.3メートル横1.62メート。つまり超リアルな生卵を現実離れしたサイズで見ることになる。この相反する感覚が病みつきになる。
ところでCGのように見えるから若い画家と思ってしまうが、上田薫は1928年(昭和3年)生まれの御年88歳。なぜかウィキペディアでは2001年4月1日に亡くなったことになっているが、今年の3月に開かれた展示会の紹介記事で88歳と書かれているからご存命かと。ちなみに薫という名前だが男性。
上田薫 「なま玉子C」 1976年
三浦明範(あきのり) 「鮭図-2001」 2001年
リアリズム志向の画家はやはり鮭が好きなのかと思ってしまった作品(^^ゞ
この展覧会を紹介していたテレビ番組で知って、どうしても見たかったのが犬塚勉の作品。超・超・超がつくほど細密な絵なのに、描かれているのは実に実に実にありきたりな光景である。あちこちにバイクでツーリングしてよく写真を撮るが、こんな場所でシャッターはたぶん切らない。それになぜか心惹かれた。理由は今もってよくわからない。
この目で見るのとブログに張った画像で印象に差はない。よほど接近しなければ写真にしか見えない。あえていえばツマラナイ写真である。でもずーっと見続けてしまう。それがとても不思議。
犬塚勉 「林の方へ」 1985年
犬塚勉 「梅雨の晴れ間」 1986年
もうひとつ見たかったのが水野暁(あきら)の作品。彼は浅間山近くの別荘のようなところから、三年間かけてこの作品を完成させたとテレビで紹介されていた。当然ながら季節によって景色は変化する。それを季節をまたいで写生するとどうなるか。彼は冬に仕上げた雪山を、春になって雪が減っていくのにあわせて地面に塗り替えていった。夏には土色の山になり、そしてまた冬になってーーー。制作過程のこの絵は季節に応じて描かれている内容が違っていたのである。この絵を描き上げるにはそういうことが必要だったのだろうか。それにしても画家のやることは普通の人とは違うなというのが正直な感想。
完成作の景色は残雪?積もり初め?それとも画家のイマジネーション? それはよくわからないが、リアルというよりその迫力に圧倒された。上田薫や犬塚勉の絵にはジーッと見入ってしまうところがあるが、これは絵が目に飛び込んでくる。そんな風景画は初めて。
水野暁 「The Volcano−大地と距離について/浅間山」 2012〜2016年
そして会場の入口で「鮭 高橋由一への オマージュ」が展示されていた磯江毅の「深い眠り」。制作は1994〜1995年
最初のエントリーで書いた「超写実的で写真のような絵を眺めると本物以上に本物そっくりだけれど、本物じゃないことを知っていることから来る混乱で頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚えるのである」というのはまさにこういう作品。リアルに描かれているのにひたすら幻想的。右上に薄く見えている月もいいアクセントになっている。
付け加えると、これは美しいものを描いているから素晴らしいのであって、シャケがどんなにスーパーリアルに描かれていてもこんなに感動はしない。
あまりに素晴らしいので部分アップで。ただし、この絵の持つ静けさや浮遊感はブログの画像では感じ取れないと思う。
いろいろな時代のリアルへのこだわりを持った絵を見られて、なかなか面白い企画だった。もちろんそれらは1本の潮流でつながっているわけではないし、「写実を追求した先に何かを得ることができる」というありがちな精神論に傾くこともなかったけれど。
現代のスーパーリアリズムについていうと、例えば上田薫の生卵がCGだったら「そっくりね」の一言で終わってしまう。磯江毅の女性像も、写真で撮影して画像加工すれば同様の表現はできる。でもそれを見て同じような印象や感動は受けないだろう。ということはスーパーリアリズムの作品に見入ってしまうというのは「人間の仕事」に対する驚嘆や尊敬なのかもしれない。それは100メートル走を9秒台で走ることに似ている。アクセルを踏めば誰でももっと早く進めるが、足で走るからこそ賞賛されるのだから。
ところで海岸沿いの134号線で通り過ぎる以外では初めてやってきた平塚。せっかくなのでiPhoneで撮影。まずは駅前。
久し振りに乗るバスに揺られて7〜8分、
降りたのは横浜ゴムの工場の向かい。
停留所から1〜2分で美術館。
上の写真はいい雰囲気であるが、美術館の周りは工場が立ち並んでいる。
美術館正面。
受付。大きな一角獣がいた。
館内はすべて大理石張り。無駄に豪華なハコモノ行政かな。
地方都市の美術館で、こういったレベルの高い展覧会はたくさん開かれているのかもしれない。しかし、それになかなか気付かないのが残念。
おしまい
上田薫の作品は何度か見たことがある。生卵シリーズ以外にコップに入った水とかスプーンやフォークなどの食器などを描いたものなど。まるでCG(コンピューター・グラフィック)のようだが、もちろん筆で描かれている。ただし対象をカメラで撮影して、プロジェクターでキャンバスに投影したものをなぞって描くらしい。だから上田薫の絵は彩色のスーパーリアリズム。
それと卵などの小さなものを描いた作品が多いが、たいていキャンバスのサイズが大きいのも特徴。この展覧会の「なま玉子C」も縦1.3メートル横1.62メート。つまり超リアルな生卵を現実離れしたサイズで見ることになる。この相反する感覚が病みつきになる。
ところでCGのように見えるから若い画家と思ってしまうが、上田薫は1928年(昭和3年)生まれの御年88歳。なぜかウィキペディアでは2001年4月1日に亡くなったことになっているが、今年の3月に開かれた展示会の紹介記事で88歳と書かれているからご存命かと。ちなみに薫という名前だが男性。
上田薫 「なま玉子C」 1976年
三浦明範(あきのり) 「鮭図-2001」 2001年
リアリズム志向の画家はやはり鮭が好きなのかと思ってしまった作品(^^ゞ
この展覧会を紹介していたテレビ番組で知って、どうしても見たかったのが犬塚勉の作品。超・超・超がつくほど細密な絵なのに、描かれているのは実に実に実にありきたりな光景である。あちこちにバイクでツーリングしてよく写真を撮るが、こんな場所でシャッターはたぶん切らない。それになぜか心惹かれた。理由は今もってよくわからない。
この目で見るのとブログに張った画像で印象に差はない。よほど接近しなければ写真にしか見えない。あえていえばツマラナイ写真である。でもずーっと見続けてしまう。それがとても不思議。
犬塚勉 「林の方へ」 1985年
犬塚勉 「梅雨の晴れ間」 1986年
もうひとつ見たかったのが水野暁(あきら)の作品。彼は浅間山近くの別荘のようなところから、三年間かけてこの作品を完成させたとテレビで紹介されていた。当然ながら季節によって景色は変化する。それを季節をまたいで写生するとどうなるか。彼は冬に仕上げた雪山を、春になって雪が減っていくのにあわせて地面に塗り替えていった。夏には土色の山になり、そしてまた冬になってーーー。制作過程のこの絵は季節に応じて描かれている内容が違っていたのである。この絵を描き上げるにはそういうことが必要だったのだろうか。それにしても画家のやることは普通の人とは違うなというのが正直な感想。
完成作の景色は残雪?積もり初め?それとも画家のイマジネーション? それはよくわからないが、リアルというよりその迫力に圧倒された。上田薫や犬塚勉の絵にはジーッと見入ってしまうところがあるが、これは絵が目に飛び込んでくる。そんな風景画は初めて。
水野暁 「The Volcano−大地と距離について/浅間山」 2012〜2016年
そして会場の入口で「鮭 高橋由一への オマージュ」が展示されていた磯江毅の「深い眠り」。制作は1994〜1995年
最初のエントリーで書いた「超写実的で写真のような絵を眺めると本物以上に本物そっくりだけれど、本物じゃないことを知っていることから来る混乱で頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚えるのである」というのはまさにこういう作品。リアルに描かれているのにひたすら幻想的。右上に薄く見えている月もいいアクセントになっている。
付け加えると、これは美しいものを描いているから素晴らしいのであって、シャケがどんなにスーパーリアルに描かれていてもこんなに感動はしない。
あまりに素晴らしいので部分アップで。ただし、この絵の持つ静けさや浮遊感はブログの画像では感じ取れないと思う。
いろいろな時代のリアルへのこだわりを持った絵を見られて、なかなか面白い企画だった。もちろんそれらは1本の潮流でつながっているわけではないし、「写実を追求した先に何かを得ることができる」というありがちな精神論に傾くこともなかったけれど。
現代のスーパーリアリズムについていうと、例えば上田薫の生卵がCGだったら「そっくりね」の一言で終わってしまう。磯江毅の女性像も、写真で撮影して画像加工すれば同様の表現はできる。でもそれを見て同じような印象や感動は受けないだろう。ということはスーパーリアリズムの作品に見入ってしまうというのは「人間の仕事」に対する驚嘆や尊敬なのかもしれない。それは100メートル走を9秒台で走ることに似ている。アクセルを踏めば誰でももっと早く進めるが、足で走るからこそ賞賛されるのだから。
ところで海岸沿いの134号線で通り過ぎる以外では初めてやってきた平塚。せっかくなのでiPhoneで撮影。まずは駅前。
久し振りに乗るバスに揺られて7〜8分、
降りたのは横浜ゴムの工場の向かい。
停留所から1〜2分で美術館。
上の写真はいい雰囲気であるが、美術館の周りは工場が立ち並んでいる。
美術館正面。
受付。大きな一角獣がいた。
館内はすべて大理石張り。無駄に豪華なハコモノ行政かな。
地方都市の美術館で、こういったレベルの高い展覧会はたくさん開かれているのかもしれない。しかし、それになかなか気付かないのが残念。
おしまい
wassho at 16:49|Permalink│Comments(0)│