五姓田義松

2017年07月26日

リアル(写実)のゆくえ 高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの

平塚市立美術館で開催されていた展覧会。訪れたのは6月の初めと少し前の話になる。平塚は湘南の西の方にある街。東から海岸沿いの地名を上げると葉山、逗子、鎌倉、江ノ島、鵠沼(くげぬま)、辻堂、茅ヶ崎、平塚、大磯そして小田原。関東に住んでいなければ平塚の地名は馴染みがないかもしれない。
ポスター


テレビの美術番組でこの展覧会のことを知った。紹介されていたのはスーパーリアリズムというか、まるで写真のような絵画。そして番組を見て遠い記憶がよみがえった。

それは高校生の時の話。美術の課外授業である展覧会を見に行った。たぶん高校の美術部や美大生の作品展だったと思う。だからいろんなタイプの作品が展示されていたが、その一角に超写実的で超細密な絵がいくつかあった。そういうものを見たのは初めてだったので、まるで写真のような仕上がりに息が詰まるほど驚いた。

その中で私が一番すごいと思った絵の作者は高校1年生か2年生。私も高校1年生か2年生だったので(細かな記憶は曖昧)、同い年でこんな絵を描ける天才のような奴が世の中にいることに、強烈な印象を受けたのを今でもはっきり覚えている。もっともひねくれ者の私は「写真のようにすごかったけれど、だったら写真でいいじゃないか」と課外授業のレポートに書いたのだが(^^ゞ

観たことがある人はわかると思うが、超写実的で写真のような絵を眺めると、本物以上に本物そっくりなのに、本物じゃないことを知っていることから来る混乱で頭がクラッとして、そこに不思議な快感を覚えるのである。あれ以来何度かそういう絵は見たことはあるが、久々にその快感を味わうべく平塚までやって来たしだい。

もっともこの展覧会はスーパーリアリズム展ではなく「明治になって初めて西洋画を見た画家達がその写実性に驚き、それを追い求め、やがて日本独自の進化や変遷を遂げた写実画となる」という歴史を俯瞰する企画。



一番最初、展示室に入る手前にあるのが高橋由一の「鮭」。
010

高橋由一の生まれは1828年(明治維新が1868年)で、藩士でありながら狩野派を学んだ絵師。しかし江戸時代終わり頃に西洋画を見て、その写実性に衝撃を受け西洋画に転向。よって日本で最初の洋画家といわれるカリスマの一人。彼のテーマは日本画にはないリアリズムの追求といったところ。

もっとも写実的な絵ということは、(ブログには載せていないが)人物にしろ風景にしろ江戸から明治にかけての「今から見ればとても古い日本」が描かれた絵なわけで、よくいわれる近代洋画の開拓者というのは何となくピンとこないところもある。洋画と日本画の違いは油絵の具を使うか岩絵の具を使うかで絵の内容に関係ないが、高橋由一は「和の油絵」という表現が適切かな。

高橋由一が描いた鮭は10点以上あるといわれる。一番有名なのが重要文化財に指定されているこの鮭。ほとんどの人は教科書で見たことがあるはず。制作は1877年頃とされている。この展覧会の鮭の制作年は不明。それにしてもずいぶんと縦長の絵である。一説によると床の間に掛け軸のように飾るように考えて描いたらしい。



高橋由一の鮭と並べて展示されていたのが磯江毅(いそえ つよし)の「鮭 高橋由一への オマージュ」。2003年の作品。冒頭に張った展覧会のパンフレットとは違い、こちらの鮭が右側だった。
020

明治の人は高橋由一の鮭のリアルさに度肝を抜かれたかもしれないが、今の目で見ればそれほどビックリはしない。それに対してが磯江毅の鮭は超がつくほどのスーパーリアリズム。そしてそのテクニックを誇示するかのようなトリックもある。鮭が板に麻紐のようなものでくくりつけられたように描かれているが、板の端では本物の麻紐が絵に貼り付けられている。それでいて本物の紐と描かれた紐の区別がまったく見分けられない。絵を横や斜めからのぞき込んで初めてわかるほど。画家のドヤ顔が目に浮かぶ(^^ゞ

ちなみにオマージュとはある作品に影響を受けて似たような作品を作ること。ポイントは元の作品への尊敬、敬意、今風にいうならリスペクトがあるかどうか。そういうものがなければ単なるパクリとなる。




高橋由一と磯江毅の鮭を見較べてから最初の展示室に入る。展示は時代別でこちらは明治初期の作品。私が観たかったものとは方向性が違うのだが、150年ほど昔の風俗というか息吹が感じられて意外と楽しめた。なおマイナーな画家も多いのでネットで画像をあまり拾えない。だからブログは少々偏った構成になっている。


高橋由一 「鴨図」 1878年
101


高橋由一 「墨水桜花輝耀の景(ぼくすい・おうか・きようのけい)」 1878年
102

輝耀とは中国語で光るとか輝くといった意味。ちなみに童話のかぐや姫は中国語で輝耀姬物語。


堀和平 「母子像」 制作年不詳
111


五姓田義松 「五姓田一家之図」 1872年
121


五姓田義松 「井田磐楠像」 1882年
123

五姓田義松(ごせだ・よしまつ)は1855年生まれで、1828年生まれの高橋由一より二回り年下だが、横浜居留地にいた英国人画家ワーグマンに1865年10歳で師事している。高橋由一の師匠も同じくワーグマンで入門は翌1866年で37歳の時。高橋由一が「和の油絵」だったのに対して、五姓田義松には西洋風の作品も多い。そして五姓田義松は1877年(明治10年)の第1回内国勧業博覧会で高橋由一を押さえて優勝。1881年にはパリサロンで日本人初となる入選を果たす。明治天皇や明治政府要人から多くの肖像画制作依頼を受け、その時点においての評価は高橋由一より格上だったようだ。

しかし写真が普及してきて絵画に写実性以外のものが求められる時代になると(例えば印象派)、古典的な写実にこだわった彼の作品は時代遅れと評され、やがて忘れられた存在になってしまう。まるでカラヴァッジョみたいだ(/o\) もっとも近年は再評価が進んでいる模様。2年ほど前の大回顧展を見に行けなかったのが残念。


ーーー続く

wassho at 23:41|PermalinkComments(0)