佐伯祐三
2023年07月07日
佐伯祐三 自画像としての風景 その7
1927年(昭和2年)の8月21日に2度目のパリにやって来て、前回とは違う「文字のパリ」の画風を確立した佐伯祐三。猛烈な勢いで絵を制作していたようで、翌1928年1月8日付けの友人宛手紙に「再渡仏してから107枚目を本日に描いた」と書いている。日数を数えると140日。単純計算だと0.8枚/1日になる。
その手紙の中で「よい絵は5〜6点」とも述べている。それがどれか教えて欲しかったな。また「まだアカデミックである」と反省の弁も。「その2」で紹介したヴラマンクによる「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」との1時間半にも渡る叱責はまだ彼の中に残っていたようだ。ただその後の佐伯がユトリロに影響を受けたのは確かだとしても、既にずいぶんと違う画風になっている。それにユトリロは同時代の画家でまだ教科書に載っているわけでもない。だから本人が何をもってアカデミックと感じていたのかはよく分からない。
そして都会以外のフランスを描きたいと考えたのか、1928年(昭和3年)の2月に、佐伯祐三はパリから西に40kmほど離れたヴィリエ=シュル=モラン村で制作を始める。皇居からだと八王子あたりの距離。当時だと相当に田舎だったはず。
第1回目のパリと、その後に帰国して描いたものが画風としてまったく違うように、このモランでの作品も「文字のパリ」とは似ても似つかない作品になっている。
モランの寺 1928年
煉瓦焼 1928年
先ず目立つのは、それまでになかった太くてラフな輪郭線。全体的に建物が丸々と太っているようにも見える。また「壁のパリ」のように壁の質感を表現している部分と、適当に塗りつぶした部分が混在している。「煉瓦焼」はそれなりの完成度なものの、何となくイマイチな印象。それは私が輪郭線のある絵が好きじゃないせいもある。
モラン風景 1928年
最初は坂道にある建物かと思ったが、建物が傾いているから首をかしげながら描いたのか? そうする意味が分からないけれど、これはいろいろと迷いがあった表れなのかも知れない。白いグルグルした線は絵の具チューブから直接塗りつけた煙突の煙だそうだ。
とりあえず真っ直ぐにしてあげましょう(^^ゞ
カフェ・レストラン 1928年
これだけは「文字のパリ」で描いていた「レストラン(オテル・デュ・マルシェ)」や「テラスの広告」にタッチが近い。人物は漫画風で目なのかメガネを掛けているのかよく分からない。描かれているのはおそらく地元の農夫で、食事をしてるだけの何の変哲もない日常。それなのにフランスが舞台だと何となくオシャレな感じに見えるのが、面白くもありおかしくもある。
途中で1度パリに戻って、合計20日ほどモランに滞在したようである。午前と午後に1作品ずつ、納得いく絵が描けなければ夕方にまた1作とハードワークを重ね、また風景画は極寒での野外作業なので(パリは北海道最北端の稚内よりさらに北)、もともと結核で元気でなかった身体がさらに衰弱してしまう。また精神的にも病み始めたという。
佐伯祐三は3月上旬にパリに戻り、3月29日に病床につく。そして6月20日に精神錯乱を起こし、自宅を抜け出して自殺を図った(未遂に終わる)。発見され精神病院に収容されたときには完全に発狂していたらしい。ところで精神病には詳しくないものの、どうもこの期間が短く思える。3〜4ヶ月でそこまで至るかな?
彼の死因は結核とされる。しかし「その5」で紹介したように、米子夫人にヒ素を盛られ続けての衰弱死との説もある。ひょっとしたら精神にも害を及ぼす毒も一緒に盛られていたりして(。◔‸◔。)? そんな薬物があるかどうかは知らないけれど。
パリに戻って病床につくまで、
すなわち佐伯祐三の最終期間に描かれたのが次の作品。
郵便配達夫 1928年
肖像画でも背景に文字があるのが佐伯祐三らしいといえば佐伯らしい。身体の描写はやたら直線的で必然的に平面的なのが特徴。目の描き方は1925年の「人形」の時からの手法。モデルはタイトルにあるように郵便配達夫。しかし何となく顔はトランプのキングを連想する(^^ゞ なぜかとても特徴的で1度見たらずっと記憶に残る作品。でもこれが集大成?と言ったら佐伯はイヤな顔をするだろう。
ロシアの少女 1928年
郵便配達夫と較べると出来映えにずいぶん差がある。タッチが弱々しくて病人が描いた印象も受ける。体調の優れない日に描いたのか。モデルはロシア革命後に(1917年:共産主義国家につながった)パリへ亡命してきたロシア貴族の娘。この作品が残っているということは肖像画を依頼されたのではなくモデルとして起用したと思われる。
今でいうならヘタウマな作品。彼女と一緒にアトリエに来た母親は出来上がった絵を見て「悪い時には悪いことが重なるものだ」と嘆いたみたい。まあその気持ちは分かる。娘はロシアの民族衣装をまとっている。日本人に置き換えるなら、モデルを頼まれたので張り切って着物を着ていったのに、ナンジャコレ(/o\) といったところでお気の毒さま。
黄色いレストラン 1928年
「壁のパリ」「文字のパリ「ヴィリエ=シュル=モラン(の輪郭線)」をすべてミックスさせたような作品。この絵はレストランの前で女性が立っている構図。しかしこの後に佐伯祐三が亡くなったと知っていると、人生の門が閉じられているようにも見えてくる。ただし絵はとても力強い。
なおこの期間に制作されたのは5点。絶筆がどの作品かは分かっていない。
息を引き取ったのは8月16日。享年30歳。彼が自殺未遂を起こした頃に娘の彌智子(やちこ)も結核の容態が悪くなり、後を追うように8月30日にまだ6歳で亡くなってしまう。遺骨が日本に帰ってきたのは10月31日。
佐伯祐三がパリにいたのは1924年1月4日〜1926年1月14日と、1927年8月21日〜1928年8月16日。ただし最後は3月29日から病床に伏せっているから、それを除くと前期が2年と10日、後期が7ヶ月と8日でしかない。合計しても3年に満たない。
それでもある程度「パリをものにした」手応えはあったのではないか。だから彼がもっと長く、例えば同時代の藤田嗣治(つぐはる)のようにパリあるいはフランスに住み続けていたら、どんな絵を描く画家になっていただろうかと思わざるを得ない。それは「その1」でも書いたように佐伯の「これ見よがしなパリ」をカッコイイと感じつつも、まだまだその画風あるいは着眼点が、日本を訪れた外国人観光客が「漢字や浮世絵のTシャツ」を好むようなレベルだと思うからなおさらである。
歴史にイフはないとしても、イフを想像するから歴史は楽しい。ひょっとしたら佐伯祐三はルネサンス風のコテコテにアカデミックな画風にたどり着いたりして(^^ゞ
おしまい
その手紙の中で「よい絵は5〜6点」とも述べている。それがどれか教えて欲しかったな。また「まだアカデミックである」と反省の弁も。「その2」で紹介したヴラマンクによる「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」との1時間半にも渡る叱責はまだ彼の中に残っていたようだ。ただその後の佐伯がユトリロに影響を受けたのは確かだとしても、既にずいぶんと違う画風になっている。それにユトリロは同時代の画家でまだ教科書に載っているわけでもない。だから本人が何をもってアカデミックと感じていたのかはよく分からない。
そして都会以外のフランスを描きたいと考えたのか、1928年(昭和3年)の2月に、佐伯祐三はパリから西に40kmほど離れたヴィリエ=シュル=モラン村で制作を始める。皇居からだと八王子あたりの距離。当時だと相当に田舎だったはず。
第1回目のパリと、その後に帰国して描いたものが画風としてまったく違うように、このモランでの作品も「文字のパリ」とは似ても似つかない作品になっている。
モランの寺 1928年
煉瓦焼 1928年
先ず目立つのは、それまでになかった太くてラフな輪郭線。全体的に建物が丸々と太っているようにも見える。また「壁のパリ」のように壁の質感を表現している部分と、適当に塗りつぶした部分が混在している。「煉瓦焼」はそれなりの完成度なものの、何となくイマイチな印象。それは私が輪郭線のある絵が好きじゃないせいもある。
モラン風景 1928年
最初は坂道にある建物かと思ったが、建物が傾いているから首をかしげながら描いたのか? そうする意味が分からないけれど、これはいろいろと迷いがあった表れなのかも知れない。白いグルグルした線は絵の具チューブから直接塗りつけた煙突の煙だそうだ。
とりあえず真っ直ぐにしてあげましょう(^^ゞ
カフェ・レストラン 1928年
これだけは「文字のパリ」で描いていた「レストラン(オテル・デュ・マルシェ)」や「テラスの広告」にタッチが近い。人物は漫画風で目なのかメガネを掛けているのかよく分からない。描かれているのはおそらく地元の農夫で、食事をしてるだけの何の変哲もない日常。それなのにフランスが舞台だと何となくオシャレな感じに見えるのが、面白くもありおかしくもある。
途中で1度パリに戻って、合計20日ほどモランに滞在したようである。午前と午後に1作品ずつ、納得いく絵が描けなければ夕方にまた1作とハードワークを重ね、また風景画は極寒での野外作業なので(パリは北海道最北端の稚内よりさらに北)、もともと結核で元気でなかった身体がさらに衰弱してしまう。また精神的にも病み始めたという。
佐伯祐三は3月上旬にパリに戻り、3月29日に病床につく。そして6月20日に精神錯乱を起こし、自宅を抜け出して自殺を図った(未遂に終わる)。発見され精神病院に収容されたときには完全に発狂していたらしい。ところで精神病には詳しくないものの、どうもこの期間が短く思える。3〜4ヶ月でそこまで至るかな?
彼の死因は結核とされる。しかし「その5」で紹介したように、米子夫人にヒ素を盛られ続けての衰弱死との説もある。ひょっとしたら精神にも害を及ぼす毒も一緒に盛られていたりして(。◔‸◔。)? そんな薬物があるかどうかは知らないけれど。
パリに戻って病床につくまで、
すなわち佐伯祐三の最終期間に描かれたのが次の作品。
郵便配達夫 1928年
肖像画でも背景に文字があるのが佐伯祐三らしいといえば佐伯らしい。身体の描写はやたら直線的で必然的に平面的なのが特徴。目の描き方は1925年の「人形」の時からの手法。モデルはタイトルにあるように郵便配達夫。しかし何となく顔はトランプのキングを連想する(^^ゞ なぜかとても特徴的で1度見たらずっと記憶に残る作品。でもこれが集大成?と言ったら佐伯はイヤな顔をするだろう。
ロシアの少女 1928年
郵便配達夫と較べると出来映えにずいぶん差がある。タッチが弱々しくて病人が描いた印象も受ける。体調の優れない日に描いたのか。モデルはロシア革命後に(1917年:共産主義国家につながった)パリへ亡命してきたロシア貴族の娘。この作品が残っているということは肖像画を依頼されたのではなくモデルとして起用したと思われる。
今でいうならヘタウマな作品。彼女と一緒にアトリエに来た母親は出来上がった絵を見て「悪い時には悪いことが重なるものだ」と嘆いたみたい。まあその気持ちは分かる。娘はロシアの民族衣装をまとっている。日本人に置き換えるなら、モデルを頼まれたので張り切って着物を着ていったのに、ナンジャコレ(/o\) といったところでお気の毒さま。
黄色いレストラン 1928年
「壁のパリ」「文字のパリ「ヴィリエ=シュル=モラン(の輪郭線)」をすべてミックスさせたような作品。この絵はレストランの前で女性が立っている構図。しかしこの後に佐伯祐三が亡くなったと知っていると、人生の門が閉じられているようにも見えてくる。ただし絵はとても力強い。
なおこの期間に制作されたのは5点。絶筆がどの作品かは分かっていない。
息を引き取ったのは8月16日。享年30歳。彼が自殺未遂を起こした頃に娘の彌智子(やちこ)も結核の容態が悪くなり、後を追うように8月30日にまだ6歳で亡くなってしまう。遺骨が日本に帰ってきたのは10月31日。
佐伯祐三がパリにいたのは1924年1月4日〜1926年1月14日と、1927年8月21日〜1928年8月16日。ただし最後は3月29日から病床に伏せっているから、それを除くと前期が2年と10日、後期が7ヶ月と8日でしかない。合計しても3年に満たない。
それでもある程度「パリをものにした」手応えはあったのではないか。だから彼がもっと長く、例えば同時代の藤田嗣治(つぐはる)のようにパリあるいはフランスに住み続けていたら、どんな絵を描く画家になっていただろうかと思わざるを得ない。それは「その1」でも書いたように佐伯の「これ見よがしなパリ」をカッコイイと感じつつも、まだまだその画風あるいは着眼点が、日本を訪れた外国人観光客が「漢字や浮世絵のTシャツ」を好むようなレベルだと思うからなおさらである。
歴史にイフはないとしても、イフを想像するから歴史は楽しい。ひょっとしたら佐伯祐三はルネサンス風のコテコテにアカデミックな画風にたどり着いたりして(^^ゞ
おしまい
wassho at 19:27|Permalink│Comments(0)│
2023年07月04日
佐伯祐三 自画像としての風景 その6
1927年(昭和2年)の夏に佐伯祐三は再びパリに向かう。今回は下関から船に乗り朝鮮の釜山、そして中国のハルピンまで行きそこからシベリア鉄道を利用。日本が満州国を成立させたのは1932年で、当時のハルピンはまだロシアの影響が残っていた時代。
大阪の実家を出発したのが8月2日。その後は8月11日にハルピン発でモスクワ着は8月18日。パリに入ったのが8月21日。途中の朝鮮では京城(現在のソウル)などで観光をしていたようだから直接の日数比較はできないが、前回の神戸からインド洋〜スエズ運河経由の船旅が1ヶ月と1週間を要していたのと較べるとずいぶんと早い。
残念ながら日本に帰国するときに経由したイタリアと同様に、朝鮮、中国、ロシアで描かれた作品は展示されていなかった。モスクワからパリまでだって何カ国も経由する。スケッチくらい残っていないのかな。それともやはり佐伯祐三はパリひと筋?
参考までに飛行機で欧米に行けるようになったのはもちろん戦後で、JALのホノルル〜サンフランシスコ線開設が1954年(昭和29年)、ハンブルグ〜パリ線開設が1960年(昭和35年)。アジア各地へは1928年(昭和3年)に日本航空輸送という国策会社が設立され、台湾、朝鮮、満州、中国などに路線があった。もちろん国内便も運行していたわけだけれど、何となく戦前の旅客機や民間人の飛行機での移動はあまりイメージできない。映画などで見たことあったっけ?
さて念願かなってパリに戻った佐伯祐三。
まず描いていたのはこんな絵。
オプセルヴァトワール附近 1927年
リュクサンブール公園 1927年
どちらも木々が独特のデフォルメで描かれている。特にリュクサンブール公園ではゆらゆらと揺れているかのよう。この展覧会では前回のパリ時代を「壁のパリ」今回を「線のパリ」とテーマづけている。また美術界では日本に戻っている期間に電信柱、船のマストやロープなどを描いたのがパリに戻っての「線」につながっているとされる。
そう言われればそんな気がしなくはないものの、電信柱などを描いたのがそんなに影響するだろうか。分析したいあまりちょっと勘ぐり過ぎな気もする。
「壁のパリ」でパリの街並みはたくさん見せられたので、リュクサンブール公園のような作品をもっと見たかったのに、容赦なく展示は街並みの絵が並ぶ(^^ゞ
街角の広告 1927年
広告(アン・ジュノ) 1927年
タイトルからも分かるように佐伯祐三の興味は街並みの建物や壁、あるいは店名を記した文字から、看板やポスターなどの広告に移っている。そのせいなのか前回と較べて建物や壁の描き方が雑というか、あっさりした印象を受ける。
そしてポスターそのものが絵の主役になってくる。
ガス灯と広告 1927年
こちらは前回のパリ滞在時に描いた似たような場所での作品。
広告のある門 1925年
見較べると前回は「ポスターが貼られている壁」なのに対して、今回はポスターが主役扱いに昇格。「線のパリ」よりは「文字のパリ」とネーミングしたほうが内容に即していたかも知れない。
文字をフィーチャーするのは日本人的には(憧れの)パリを強く感じさせるアピールポイントになるし、またそんな手法は他の画家にあまり見られないので差別化=独自の画風の確立につながる。マーケティング的には正義。いいところに目を付けたね祐三チャン。
佐伯祐三も手応えを感じたのか、
「文字のパリ」はだんだんとエスカレートする(^^ゞ
ラ・クロッシュ 1927年
新聞屋 1927年
広告貼り 1927年
ラ・クロッシュ(La Cloche)とは鐘あるいは釣り鐘型の帽子。それではこのタイトルの意味が分からないが、壁にLA CLOCHEと落書きしてあるから、それをタイトルにしただけみたいだ。
それぞれの「文字」は日本で描いた「看板のある道」と同じように、ところどころを読めないように崩されている。「壁のパリ」のときの文字は店名程度だった。それと較べて圧倒的に文字数が増えているので、画面がうるさくならないための工夫と思われる。ただし文字が踊りすぎのようにも感じるが。
ところで
パリではこんなにたくさんのポスターが壁にベタベタ貼ってあるのか?
それらにイラストなどはなくほとんどが文字だけなのか?
については疑問がある。
当時のパリの写真を丹念に探せば見当がつくだろうが、面倒なのでそこまではやっていない。それでもおそらくこれは佐伯祐三の誇張だと思う。その理由のひとつはポスターの紙面構成がワンパターンなこと。もうひとつはポスターに使われているフォント(文字の形)に差がないから。ヨーロッパのポスターや看板はフォントに凝るとの認識を持っている。
彼は前回のパリ滞在時に同じ建物を何度も描いていた。
それは今回も同様。
レストラン(オテル・デュ・マルシェ) 1927年
テラスの広告 1927年
上はカフェの風景を描き、下は広告を中心にした画面構成。私も写真を撮るときズームレンズの広角側で撮って、それから望遠側でズームアップする場合が多い。全体は押さえた上で、おいしいところを探す感覚。しかしそれを絵で、つまり手作業でやるのは大変だなあと、私と佐伯祐三の似ているような違っているようなところを発見してしまった(^^ゞ
ーーーいつまで続く?
大阪の実家を出発したのが8月2日。その後は8月11日にハルピン発でモスクワ着は8月18日。パリに入ったのが8月21日。途中の朝鮮では京城(現在のソウル)などで観光をしていたようだから直接の日数比較はできないが、前回の神戸からインド洋〜スエズ運河経由の船旅が1ヶ月と1週間を要していたのと較べるとずいぶんと早い。
残念ながら日本に帰国するときに経由したイタリアと同様に、朝鮮、中国、ロシアで描かれた作品は展示されていなかった。モスクワからパリまでだって何カ国も経由する。スケッチくらい残っていないのかな。それともやはり佐伯祐三はパリひと筋?
参考までに飛行機で欧米に行けるようになったのはもちろん戦後で、JALのホノルル〜サンフランシスコ線開設が1954年(昭和29年)、ハンブルグ〜パリ線開設が1960年(昭和35年)。アジア各地へは1928年(昭和3年)に日本航空輸送という国策会社が設立され、台湾、朝鮮、満州、中国などに路線があった。もちろん国内便も運行していたわけだけれど、何となく戦前の旅客機や民間人の飛行機での移動はあまりイメージできない。映画などで見たことあったっけ?
さて念願かなってパリに戻った佐伯祐三。
まず描いていたのはこんな絵。
オプセルヴァトワール附近 1927年
リュクサンブール公園 1927年
どちらも木々が独特のデフォルメで描かれている。特にリュクサンブール公園ではゆらゆらと揺れているかのよう。この展覧会では前回のパリ時代を「壁のパリ」今回を「線のパリ」とテーマづけている。また美術界では日本に戻っている期間に電信柱、船のマストやロープなどを描いたのがパリに戻っての「線」につながっているとされる。
そう言われればそんな気がしなくはないものの、電信柱などを描いたのがそんなに影響するだろうか。分析したいあまりちょっと勘ぐり過ぎな気もする。
「壁のパリ」でパリの街並みはたくさん見せられたので、リュクサンブール公園のような作品をもっと見たかったのに、容赦なく展示は街並みの絵が並ぶ(^^ゞ
街角の広告 1927年
広告(アン・ジュノ) 1927年
タイトルからも分かるように佐伯祐三の興味は街並みの建物や壁、あるいは店名を記した文字から、看板やポスターなどの広告に移っている。そのせいなのか前回と較べて建物や壁の描き方が雑というか、あっさりした印象を受ける。
そしてポスターそのものが絵の主役になってくる。
ガス灯と広告 1927年
こちらは前回のパリ滞在時に描いた似たような場所での作品。
広告のある門 1925年
見較べると前回は「ポスターが貼られている壁」なのに対して、今回はポスターが主役扱いに昇格。「線のパリ」よりは「文字のパリ」とネーミングしたほうが内容に即していたかも知れない。
文字をフィーチャーするのは日本人的には(憧れの)パリを強く感じさせるアピールポイントになるし、またそんな手法は他の画家にあまり見られないので差別化=独自の画風の確立につながる。マーケティング的には正義。いいところに目を付けたね祐三チャン。
佐伯祐三も手応えを感じたのか、
「文字のパリ」はだんだんとエスカレートする(^^ゞ
ラ・クロッシュ 1927年
新聞屋 1927年
広告貼り 1927年
ラ・クロッシュ(La Cloche)とは鐘あるいは釣り鐘型の帽子。それではこのタイトルの意味が分からないが、壁にLA CLOCHEと落書きしてあるから、それをタイトルにしただけみたいだ。
それぞれの「文字」は日本で描いた「看板のある道」と同じように、ところどころを読めないように崩されている。「壁のパリ」のときの文字は店名程度だった。それと較べて圧倒的に文字数が増えているので、画面がうるさくならないための工夫と思われる。ただし文字が踊りすぎのようにも感じるが。
ところで
パリではこんなにたくさんのポスターが壁にベタベタ貼ってあるのか?
それらにイラストなどはなくほとんどが文字だけなのか?
については疑問がある。
当時のパリの写真を丹念に探せば見当がつくだろうが、面倒なのでそこまではやっていない。それでもおそらくこれは佐伯祐三の誇張だと思う。その理由のひとつはポスターの紙面構成がワンパターンなこと。もうひとつはポスターに使われているフォント(文字の形)に差がないから。ヨーロッパのポスターや看板はフォントに凝るとの認識を持っている。
彼は前回のパリ滞在時に同じ建物を何度も描いていた。
それは今回も同様。
レストラン(オテル・デュ・マルシェ) 1927年
テラスの広告 1927年
上はカフェの風景を描き、下は広告を中心にした画面構成。私も写真を撮るときズームレンズの広角側で撮って、それから望遠側でズームアップする場合が多い。全体は押さえた上で、おいしいところを探す感覚。しかしそれを絵で、つまり手作業でやるのは大変だなあと、私と佐伯祐三の似ているような違っているようなところを発見してしまった(^^ゞ
ーーーいつまで続く?
wassho at 21:02|Permalink│Comments(0)│
2023年07月02日
佐伯祐三 自画像としての風景 その5
初期の自画像を除けば風景画の多い佐伯祐三であるが、
いくつかの静物画も展示されていた。
ポスターとローソク立て 1925年頃
人形 1925年頃
薔薇 1925年頃
にんじん 1926年頃
鯖 1926年頃
蟹 1926年頃
1925年頃の作品はパリで、1926年頃のものは日本に帰国してから描かれたもの。感想は「ごく普通」でそれ以上でも以下でもない。もしこんな絵ばかりだったら後世に名前は残らなかった。
「人形」は人間を描いた肖像画ではないとしても、佐伯は初期の肖像画以外は人物を写実的に描いていないようだ。目が漫画チック。もっともフランス人形だから目は大きかっただろうが。
妻の米子を描いたもの。
これも特徴だけを捉えた画風になっている。
米子像 1927年
彼女は東京の生まれで佐伯祐三より5歳年下。佐伯が東京美術学校(現:東京芸大)時代に知り合い学生結婚。結婚時に彼女も学生だったかどうかは分からないが、結婚が1920年(大正9年)だから当時17歳。大正10年に作られた「赤とんぼ」で「♪十五でネエヤは嫁に行き〜」とあるし、大正9年に実施された第1回国勢調査によると平均初婚年齢は男性25歳、女性21歳。だから当時としてはビックリするほど若くして結婚したわけではない。
彼女はパリでも和服姿で通した。子供の頃の怪我で脚に障害が残り松葉杖を使ってたそうだ。日本人自体が珍しいうえに、和服に松葉杖だったからパリでフランス人は必ず振り返って米子を見たという。
こちらは1980年のドラマで三田佳子が演じた米子。佐伯祐三役は根津甚八。
まあ今でもパリでこんな女性が歩いていたら振り向かれると思う。

なお佐伯には1920年から1923年頃に描いた「大谷さく像」があり「米子像」も大谷さくがモデルではとの説がある。写真と見較べると何となく大谷さくのような気がする。
大谷さく像
さてこの米子さん。
2度目のパリで佐伯祐三が亡くなり、その2週間後には娘の彌智子(やちこ)も同じく結核で亡くなる。それはいくら何でもお気の毒、日本から遠く離れたパリで一人ぼっちになってさぞ心寂しかっただろうと多くの人は同情する。少なくとも展覧会での解説を読めばそう思うはず。
しかし彼女にはいろいろと分かっていないことが多い。
すべて真偽不明ながら次のような説明もある。
<その1>
米子は同じくパリに住んでいた画家の荻須高徳(おぎす たかのり)と不倫していた!
パリの広末涼子かっ!(^^ゞ
荻須の子を妊娠していたとの話もある。
しかし佐伯も薩摩治郎八の妻である千代子と不倫していた!
いわゆるダブル不倫(>_<)
薩摩治郎八はパリでバロン薩摩と呼ばれた大富豪の超有名人。
どうでもいいけれど当時の荻須高徳は独身。
そして千代子はパリ社交界のアイドルといわれ、ヴォーグ誌の表紙に何度も登場。
そりゃ惚れるわ(^^ゞ
また米子は最初、兄の祐正(ゆうしょう)と付き合っており、彌智子(やちこ)も祐正の子供だとする噂も。ただし彼は寺の有力檀家=パトロンである大谷家の娘である菊枝と結婚する道を選ぶ(肖像画のさくはその母親)。つまり米子は祐正にフラれたので弟の祐三に乗り換えたわけ。
しかし大谷家は売春宿(当時は合法)も経営していたため母親が反対して破談。それを苦にして菊枝は自殺。その後、祐正は大谷家に出入りしていた女性と結婚。ここまでもすごいが、実は菊枝は祐正との婚約前に祐三と付き合っていた! なんと兄弟での彼女交換!
ちなみに佐伯祐三と米子が結婚したのは1920年11月で、彌智子が生まれたのは1922年2月になる。ということはーーー? 蛇足ながら祐正が結婚したのはずっと後の1926年。
この時代にワイドショーがあれば3ヶ月は話題を独占できそう(^^ゞ
<その2>
米子は祐三と彌智子が寝ているときにガス栓を開いて2人を殺害しようとした、また祐三にヒ素を盛って衰弱させたともいわれる。
祐三を殺すのはまあ動機があるとして、どうして娘まで? ひょっとして荻須高徳との不倫で邪魔になった? もしそうだとしたら鬼嫁&毒親のダブルタイトル確定!
<その3>
米子は美術学校は出ていないものの、日本画の巨匠である川合玉堂に絵を学んでいた。1925年に佐伯祐三がパリでサロン・ドートンヌ(コンクール)に初入選した時、実は彼女も同じく入選している。1926年には二科会展に5点が入選。その後も出展を続け、戦後は二紀会の理事になった。
だから彼女は腕の立つ画家だった。佐伯祐三に絵を指導していたのは米子だとも、佐伯の絵は米子が加筆修正していたとの説もある。米子が手を加えたのはそうしないと絵が売れないからで、佐伯はそれが気に入らず夫婦仲が悪くなったらしい。
<その4>
多くの資料で米子の生年月日は1903年(明治36年)7月7日となっている。しかしこれは彼女が作成した“プロフィール”が元になっており、戸籍では1897年(明治30年)7月7日生まれとも指摘される。
だとすれば彼女は佐伯祐三より1歳年上、結婚したのは23歳になる。
当時の感覚だと年増だからサバを読んだのか(^^ゞ
先に書いたようにこれらは真偽不明。ネットで探せばいろいろな情報にヒットするものの、どうやら大元のネタは「よくできたトンデモ本=真実とフェイクが入り交じってる」のようなので、そんな話もあるんだ程度に楽しむのがいいと思う。
ーーー続く
いくつかの静物画も展示されていた。
ポスターとローソク立て 1925年頃
人形 1925年頃
薔薇 1925年頃
にんじん 1926年頃
鯖 1926年頃
蟹 1926年頃
1925年頃の作品はパリで、1926年頃のものは日本に帰国してから描かれたもの。感想は「ごく普通」でそれ以上でも以下でもない。もしこんな絵ばかりだったら後世に名前は残らなかった。
「人形」は人間を描いた肖像画ではないとしても、佐伯は初期の肖像画以外は人物を写実的に描いていないようだ。目が漫画チック。もっともフランス人形だから目は大きかっただろうが。
妻の米子を描いたもの。
これも特徴だけを捉えた画風になっている。
米子像 1927年
彼女は東京の生まれで佐伯祐三より5歳年下。佐伯が東京美術学校(現:東京芸大)時代に知り合い学生結婚。結婚時に彼女も学生だったかどうかは分からないが、結婚が1920年(大正9年)だから当時17歳。大正10年に作られた「赤とんぼ」で「♪十五でネエヤは嫁に行き〜」とあるし、大正9年に実施された第1回国勢調査によると平均初婚年齢は男性25歳、女性21歳。だから当時としてはビックリするほど若くして結婚したわけではない。
彼女はパリでも和服姿で通した。子供の頃の怪我で脚に障害が残り松葉杖を使ってたそうだ。日本人自体が珍しいうえに、和服に松葉杖だったからパリでフランス人は必ず振り返って米子を見たという。
こちらは1980年のドラマで三田佳子が演じた米子。佐伯祐三役は根津甚八。
まあ今でもパリでこんな女性が歩いていたら振り向かれると思う。

なお佐伯には1920年から1923年頃に描いた「大谷さく像」があり「米子像」も大谷さくがモデルではとの説がある。写真と見較べると何となく大谷さくのような気がする。
大谷さく像
さてこの米子さん。
2度目のパリで佐伯祐三が亡くなり、その2週間後には娘の彌智子(やちこ)も同じく結核で亡くなる。それはいくら何でもお気の毒、日本から遠く離れたパリで一人ぼっちになってさぞ心寂しかっただろうと多くの人は同情する。少なくとも展覧会での解説を読めばそう思うはず。
しかし彼女にはいろいろと分かっていないことが多い。
すべて真偽不明ながら次のような説明もある。
<その1>
米子は同じくパリに住んでいた画家の荻須高徳(おぎす たかのり)と不倫していた!
パリの広末涼子かっ!(^^ゞ
荻須の子を妊娠していたとの話もある。
しかし佐伯も薩摩治郎八の妻である千代子と不倫していた!
いわゆるダブル不倫(>_<)
薩摩治郎八はパリでバロン薩摩と呼ばれた大富豪の超有名人。
どうでもいいけれど当時の荻須高徳は独身。
そして千代子はパリ社交界のアイドルといわれ、ヴォーグ誌の表紙に何度も登場。
そりゃ惚れるわ(^^ゞ
また米子は最初、兄の祐正(ゆうしょう)と付き合っており、彌智子(やちこ)も祐正の子供だとする噂も。ただし彼は寺の有力檀家=パトロンである大谷家の娘である菊枝と結婚する道を選ぶ(肖像画のさくはその母親)。つまり米子は祐正にフラれたので弟の祐三に乗り換えたわけ。
しかし大谷家は売春宿(当時は合法)も経営していたため母親が反対して破談。それを苦にして菊枝は自殺。その後、祐正は大谷家に出入りしていた女性と結婚。ここまでもすごいが、実は菊枝は祐正との婚約前に祐三と付き合っていた! なんと兄弟での彼女交換!
ちなみに佐伯祐三と米子が結婚したのは1920年11月で、彌智子が生まれたのは1922年2月になる。ということはーーー? 蛇足ながら祐正が結婚したのはずっと後の1926年。
この時代にワイドショーがあれば3ヶ月は話題を独占できそう(^^ゞ
<その2>
米子は祐三と彌智子が寝ているときにガス栓を開いて2人を殺害しようとした、また祐三にヒ素を盛って衰弱させたともいわれる。
祐三を殺すのはまあ動機があるとして、どうして娘まで? ひょっとして荻須高徳との不倫で邪魔になった? もしそうだとしたら鬼嫁&毒親のダブルタイトル確定!
<その3>
米子は美術学校は出ていないものの、日本画の巨匠である川合玉堂に絵を学んでいた。1925年に佐伯祐三がパリでサロン・ドートンヌ(コンクール)に初入選した時、実は彼女も同じく入選している。1926年には二科会展に5点が入選。その後も出展を続け、戦後は二紀会の理事になった。
だから彼女は腕の立つ画家だった。佐伯祐三に絵を指導していたのは米子だとも、佐伯の絵は米子が加筆修正していたとの説もある。米子が手を加えたのはそうしないと絵が売れないからで、佐伯はそれが気に入らず夫婦仲が悪くなったらしい。
<その4>
多くの資料で米子の生年月日は1903年(明治36年)7月7日となっている。しかしこれは彼女が作成した“プロフィール”が元になっており、戸籍では1897年(明治30年)7月7日生まれとも指摘される。
だとすれば彼女は佐伯祐三より1歳年上、結婚したのは23歳になる。
当時の感覚だと年増だからサバを読んだのか(^^ゞ
先に書いたようにこれらは真偽不明。ネットで探せばいろいろな情報にヒットするものの、どうやら大元のネタは「よくできたトンデモ本=真実とフェイクが入り交じってる」のようなので、そんな話もあるんだ程度に楽しむのがいいと思う。
ーーー続く
wassho at 23:35|Permalink│Comments(0)│
2023年07月01日
佐伯祐三 自画像としての風景 その4
1924年(大正13年)の1月にパリにやって来た佐伯祐三なのに、2年後の1926年の1月に帰国の途につく。パリを離れてイタリアをミラノ、フィレンツェ、ローマと南下し2月8日にナポリから乗船。日本到着は3月15日。イタリアでは絵を描かなかったのかなあ? スケッチの類いも展覧会では展示されていなかった。残念
佐伯の死因は結核であるが、この頃から既に身体の調子が悪かったようで、心配する家族の勧めによりと資料にはある。
その家族が誰を指すのかはっきりとは分からないものの、2歳違い兄の祐正(ゆうしょう)かも知れない。写真は1925年にパリのアトリエで撮られたもの。中央が兄の祐正で、右が佐伯祐三。女性は祐三の妻の米子と娘の彌智子(やちこ)。当時3歳前後。どうでもいいが祐三は次男なのに三のつく名前。男4人女3人の兄弟の3番目に生まれた子でもない。
兄の祐正は実家のお寺を継いだ住職なのだけれど、セツルメント事業をやっていて、その世界会議でこの時にパリは来ていたようだ。セツルメントとは聞き慣れない言葉でWikipediaによると、
セツルメントまたはセトルメント(英: settlement)とは、正確には「ソーシャル・
セツルメント」であり、隣保館などと訳され、社会教化事業を行う地域の拠点のこと
である。元の意味は、「移住」で19世紀末に、イギリスの理想主義的な大学教授や
学生が貧民街(スラム)に移り住んで貧民と生活をともにし、その教化にあたった
ところから使われるようになった言葉である。
社会教化事業とは福祉事業のようなことだろう。兄の祐正は寺に善隣館という施設を構え、そこでセツルメントの活動をしていた。なんとスタッフ50名、年間利用者数は10万人と大規模なもの。現在のお寺でそんな活動をしているところはあるのかな。
とても素晴らしい事業に思えるが、当時は貧困者対策活動=資本主義批判=社会主義・共産主義思想が成り立つ時代。それで祐正は特高にマークされていたようである。兄弟である祐三も同じく。
それにしても祐正はかなりのイケメンで本木雅弘に似ている。祐三もそうだけれど目と眉毛の間隔が狭くて欧米人的な顔立ち。日本人はこの間隔が広いからサングラスの上に眉毛があってマヌケな感じになる。タモリとトム・クルーズで較べちゃイケないか(^^ゞ

日本に戻ってきた佐伯祐三が描いていた絵には2パターンあって、
まずは自宅のあった東京・下落合周辺の風景。
下落合風景 1926年頃
パリ以外を描いた佐伯祐三の風景画を見たのは今回が初めて。そしてこの絵を一目見たとき、おそらくは美術評論家とはまったく違う視点で「わかる、わかる、そうだよね祐三クン」と私はニヤニヤしていた。
この絵には電信柱が描かれていて、後で紹介する船の絵にはマストやロープが描かれている。それらは彼の関心が面から線に移った表れなどと解説される。専門家が言うなら多分そうなんだろうけれど、この絵の素晴らしさは電柱は描いても電線を描かなかったところ!
日本の街中は電線だらけ。例えばサクラがキレイだなと写真を撮っても電線で台無しになる。人間の脳には「見たいものだけを見る」機能が備わっているので、眺めている分には電線があまり気にならない。しかしカメラにそんな機能はないので写真になると(/o\)
こちらは電線が地中に埋められた美しい街並み。ちなみに国土交通省による「欧米やアジアの主要都市と日本の無電柱化の現状」のグラフはここをクリック。
佐伯祐三がどうして電線を描かなかったかを解説した資料は見当たらなかった。でも私は電線を描いたら画面が汚くなるからだと確信している。
看板のある道 1926年頃
これも電線は省略されている。
看板に書かれている文字は富永醫院(医院)と落合倶楽部だろうか。文字とわかり、かつ風景の邪魔をしない程度に崩されているように思う。このあたりは前回に書いた「フランスの街並みとして描かれた文字が、もし日本語だったら(読めたら)?」と併せて気になるところ。
下落合風景 1926年頃
これには電線が描かれている。
これは線路高架が題材で架線は主役だからだろう。
(下落合付近の山手線は1909年に電化されている)
ガード風景 1926-27年
上の絵とよく似ているがおそらくテーマが違う。
日本に戻った佐伯祐三は「日本の風景は僕の絵にならない」と語ったとされる。パリの石造りの建物の絵を描いてきた画家にとって、日本の(住宅街の)木造建築の街並みでは重厚感・存在感が足らなかった気持ちはよく分かる。私も初めてヨーロッパに出かけて、帰国すると日本の街並みがとても薄っぺらく見えた、押せば倒れそうに思えたのを覚えているから。
だから鉄道のためにレンガとコンクリートで固められたこの「ガード風景」に佐伯はパリの面影を見つけたんじゃないかとも思う。場所は新橋とされガードの先の景色も描かれている。それは現実の光景なのか、あるいはパリの記憶?
下落合風景(テニス) 1926年頃
テニスという洋風なものを噛ませても田舎くさいもんなあ(^^ゞ
それで前回に紹介したパリの街並みを描いた作品と並べてみたのがこちら。どちらがカッコイイ、貰えるならどちらが欲しいというお話。なぜパリの街並みのほうに魅力を感じるのか、それは西洋コンプレックスなのかと展覧会を見ているときにずっと考えていた問題。
佐伯祐三は実家のある大阪にも帰省している。
なぜか大阪では風景画ではなく船の絵ばかりを描いている。
汽船 1926年頃
滞船 1927年 ※滞船(たいせん)とは港で停泊している船
滞船 1926年頃
高架の線路では架線を描いたように、帆船では多数のロープを描いている。しかしそれをもって「線への関心」とするのはちょっと無理があるとも思う。ありのままに描いただけなのでは?
ここで紹介した作品にはあまり興味が湧かなかったとはいえ、
パリ以外の佐伯の絵を見られたのは楽しかった。
ところでどうして彼は例えば銀座など、下落合の住宅地に較べれば都市的な重厚感のある場所の風景画を描かなかったのだろう。それが少しナゾ
写真は大正時代の銀座。
パリと較べれば中途半端なのは否めないが。
画像はhttps://www.ginza-web.com/contents/history/index.htmlから引用
ーーー続く
佐伯の死因は結核であるが、この頃から既に身体の調子が悪かったようで、心配する家族の勧めによりと資料にはある。
その家族が誰を指すのかはっきりとは分からないものの、2歳違い兄の祐正(ゆうしょう)かも知れない。写真は1925年にパリのアトリエで撮られたもの。中央が兄の祐正で、右が佐伯祐三。女性は祐三の妻の米子と娘の彌智子(やちこ)。当時3歳前後。どうでもいいが祐三は次男なのに三のつく名前。男4人女3人の兄弟の3番目に生まれた子でもない。
兄の祐正は実家のお寺を継いだ住職なのだけれど、セツルメント事業をやっていて、その世界会議でこの時にパリは来ていたようだ。セツルメントとは聞き慣れない言葉でWikipediaによると、
セツルメントまたはセトルメント(英: settlement)とは、正確には「ソーシャル・
セツルメント」であり、隣保館などと訳され、社会教化事業を行う地域の拠点のこと
である。元の意味は、「移住」で19世紀末に、イギリスの理想主義的な大学教授や
学生が貧民街(スラム)に移り住んで貧民と生活をともにし、その教化にあたった
ところから使われるようになった言葉である。
社会教化事業とは福祉事業のようなことだろう。兄の祐正は寺に善隣館という施設を構え、そこでセツルメントの活動をしていた。なんとスタッフ50名、年間利用者数は10万人と大規模なもの。現在のお寺でそんな活動をしているところはあるのかな。
とても素晴らしい事業に思えるが、当時は貧困者対策活動=資本主義批判=社会主義・共産主義思想が成り立つ時代。それで祐正は特高にマークされていたようである。兄弟である祐三も同じく。
それにしても祐正はかなりのイケメンで本木雅弘に似ている。祐三もそうだけれど目と眉毛の間隔が狭くて欧米人的な顔立ち。日本人はこの間隔が広いからサングラスの上に眉毛があってマヌケな感じになる。タモリとトム・クルーズで較べちゃイケないか(^^ゞ

日本に戻ってきた佐伯祐三が描いていた絵には2パターンあって、
まずは自宅のあった東京・下落合周辺の風景。
下落合風景 1926年頃
パリ以外を描いた佐伯祐三の風景画を見たのは今回が初めて。そしてこの絵を一目見たとき、おそらくは美術評論家とはまったく違う視点で「わかる、わかる、そうだよね祐三クン」と私はニヤニヤしていた。
この絵には電信柱が描かれていて、後で紹介する船の絵にはマストやロープが描かれている。それらは彼の関心が面から線に移った表れなどと解説される。専門家が言うなら多分そうなんだろうけれど、この絵の素晴らしさは電柱は描いても電線を描かなかったところ!
日本の街中は電線だらけ。例えばサクラがキレイだなと写真を撮っても電線で台無しになる。人間の脳には「見たいものだけを見る」機能が備わっているので、眺めている分には電線があまり気にならない。しかしカメラにそんな機能はないので写真になると(/o\)
こちらは電線が地中に埋められた美しい街並み。ちなみに国土交通省による「欧米やアジアの主要都市と日本の無電柱化の現状」のグラフはここをクリック。
佐伯祐三がどうして電線を描かなかったかを解説した資料は見当たらなかった。でも私は電線を描いたら画面が汚くなるからだと確信している。
看板のある道 1926年頃
これも電線は省略されている。
看板に書かれている文字は富永醫院(医院)と落合倶楽部だろうか。文字とわかり、かつ風景の邪魔をしない程度に崩されているように思う。このあたりは前回に書いた「フランスの街並みとして描かれた文字が、もし日本語だったら(読めたら)?」と併せて気になるところ。
下落合風景 1926年頃
これには電線が描かれている。
これは線路高架が題材で架線は主役だからだろう。
(下落合付近の山手線は1909年に電化されている)
ガード風景 1926-27年
上の絵とよく似ているがおそらくテーマが違う。
日本に戻った佐伯祐三は「日本の風景は僕の絵にならない」と語ったとされる。パリの石造りの建物の絵を描いてきた画家にとって、日本の(住宅街の)木造建築の街並みでは重厚感・存在感が足らなかった気持ちはよく分かる。私も初めてヨーロッパに出かけて、帰国すると日本の街並みがとても薄っぺらく見えた、押せば倒れそうに思えたのを覚えているから。
だから鉄道のためにレンガとコンクリートで固められたこの「ガード風景」に佐伯はパリの面影を見つけたんじゃないかとも思う。場所は新橋とされガードの先の景色も描かれている。それは現実の光景なのか、あるいはパリの記憶?
下落合風景(テニス) 1926年頃
テニスという洋風なものを噛ませても田舎くさいもんなあ(^^ゞ
それで前回に紹介したパリの街並みを描いた作品と並べてみたのがこちら。どちらがカッコイイ、貰えるならどちらが欲しいというお話。なぜパリの街並みのほうに魅力を感じるのか、それは西洋コンプレックスなのかと展覧会を見ているときにずっと考えていた問題。
佐伯祐三は実家のある大阪にも帰省している。
なぜか大阪では風景画ではなく船の絵ばかりを描いている。
汽船 1926年頃
滞船 1927年 ※滞船(たいせん)とは港で停泊している船
滞船 1926年頃
高架の線路では架線を描いたように、帆船では多数のロープを描いている。しかしそれをもって「線への関心」とするのはちょっと無理があるとも思う。ありのままに描いただけなのでは?
ここで紹介した作品にはあまり興味が湧かなかったとはいえ、
パリ以外の佐伯の絵を見られたのは楽しかった。
ところでどうして彼は例えば銀座など、下落合の住宅地に較べれば都市的な重厚感のある場所の風景画を描かなかったのだろう。それが少しナゾ
写真は大正時代の銀座。
パリと較べれば中途半端なのは否めないが。
画像はhttps://www.ginza-web.com/contents/history/index.htmlから引用
ーーー続く
wassho at 21:56|Permalink│Comments(0)│
2023年06月27日
佐伯祐三 自画像としての風景 その3
モーリス・ド・ヴラマンクからの叱責を受けて、佐伯祐三の再出発が始まる。それまでの画風を全否定されたのだから、新たな画風を模索する日々である。ただし前回に紹介した真っ黒な裸婦像のようなものは、この展覧会には出展されていない。彼の作品をいろいろ調べてもあのように描かれた絵は他に見当たらなかった。あの裸婦像はちょっとヤバかったけれど、例外的な作品のようだ。
それでどんな絵を描いていたかというとほとんどが風景画。
オワーズ河周辺風景 1924年
オーヴェールの教会 1924年
煙突のある風景 1924年頃
それまでの画風と較べると明らかに色が濃い。ヴラマンクは「光で変化する表面的な色彩ではなく(つまり印象派の否定)、物質の持つ固有の色を表現しろ」と教えたらしい。ちょっとナニ言っているかわからないし(^^ゞ 、だいたい物体の色とはすべからく反射色である。
その色の原理はさておくとして、私はこれらの絵が「物質の持つ固有の色を表現」できているかどうかはよく分からない。しかし1924年の秋(叱責は6月)に再びヴラマンクを尋ねて絵を見せた際に、彼は「物質感はイマイチだが大変に優れた色彩感覚」と褒めたという。
ちなみに「オーヴェールの教会」はゴッホも描いていて、そのオマージュともいうべき作品。構図はまったく一緒である。佐伯祐三はゴッホの墓参りなどもしていてファンだったみたい。ヴラマンクがいなければ、本当はもっとゴッホに似せて描きたかったりして(^^ゞ
こちらがゴッホのオーヴェールの教会。
やがて佐伯祐三はユトリロの影響を受け、パリの街並みを中心に描くようになる。あれ?ヴラマンク先生に物真似はダメといわれたはずなのに。もっとも似ているのはパリの街並みを題材にした点だけで、色彩もタッチもまったく別物。色彩は先ほど書いた濃くて暗い=物質の持つ固有の色?である。
パリ風景 1925年頃
街角(モロ=ジャフェリ広場) 1925年頃
参考までに「ユトリロ 作品」で画像検索をしたページはここをクリック
やがて街並みからだんだんと建物の壁をクローズアップして描き出す。
同時に建物の看板や文字も作品の重要な要素となってくる
運送屋(カミオン) 1925年
壁 1925年
※壁に書かれている DEMENAGEMENTS は引越屋の意味。運送屋の隣にあったのかな。
なぜか同じ題材で2枚描いているものが多い。微妙にタッチが違うから、新しい描き方を思いついて、以前の作品と比較するために同じ場所を選んだのだろうか?
緑色の部分に書かれている LES JEUX DE NOEL(レ・ジュ・ド・ノエル)は直訳すればクリスマスゲーム。「クリスマスを楽しもう」の意味で、おもちゃ屋のコピーと解説しているものがあったが、建物の上にはHOTELと書かれているから、どうにも?な感じ。
レ・ジュ・ド・ノエル 1925年(2作品とも同じ)
こちらも同じく2枚描かれている。
ドアの所に靴を吊すのは日本にはないディスプレイで面白いね。
コルドヌリ(靴屋) 1925年
コルドヌリ(靴屋) 1925年頃
1925年に佐伯祐三はサロン・ドートンヌ(世界で最も権威のある公募展ともいわれ、現在も続いている)に入選する。その作品も同じくコルドヌリのタイトル。その作品は買い手がつき現在は所在が分からないようだが、ここで紹介したコルドヌリと似たようなものと考えられている。
なお画家によっては「売れ筋」の似たような絵を何枚も描く人もいる。しかし佐伯の場合はそうではないだろう。
他にも店名シリーズ(勝手に命名)は続く。
洗濯屋(オ・プティ・ソミュール) 1925年
酒場(オ・カーヴ・ブルー) 1925年
街並みを描き、そして看板や文字をそこに溶け込ませた集大成のような作品が「アントレ ド リュー ド シャトー Entree de Rue du Chateau」。意味は「シャトー通り入り口」で制作は同じく1925年。
まだ独自の画風を確立したとはいえないものの、渡仏前と較べればまったく違う画家になっている。立ち直り早いね佐伯君(^^ゞ
ただ疑問もある。ここで紹介した「運送屋(カミオン)」以降の作品は建物や壁と、そこにある文字で成り立っている。日本人的にはフランス語なんてほとんど読めないから、文字は建物デザインの一部あるいはパリの雰囲気をを感じさせる装飾でしかない。
ではフランス人にとっては? もし作品に「運送屋」「引越屋」「靴屋」「洗濯屋」などと日本語でデカデカと描かれていたと想像すれば? 初回の投稿で佐伯の絵には「どうだ、これがパリだ」とイキっている感があると書いたのはそういうこと。
また佐伯の絵にはある種のカッコよさがあると思う。しかしもし描かれている文字が日本語ならずいぶんと印象も違ってくる気がする。じゃあなぜ日本語だったらカッコ悪い? それってやっぱり西洋コンプレックス? となかなか素直に鑑賞できないのが困ったところ。
ーーー続く
それでどんな絵を描いていたかというとほとんどが風景画。
オワーズ河周辺風景 1924年
オーヴェールの教会 1924年
煙突のある風景 1924年頃
それまでの画風と較べると明らかに色が濃い。ヴラマンクは「光で変化する表面的な色彩ではなく(つまり印象派の否定)、物質の持つ固有の色を表現しろ」と教えたらしい。ちょっとナニ言っているかわからないし(^^ゞ 、だいたい物体の色とはすべからく反射色である。
その色の原理はさておくとして、私はこれらの絵が「物質の持つ固有の色を表現」できているかどうかはよく分からない。しかし1924年の秋(叱責は6月)に再びヴラマンクを尋ねて絵を見せた際に、彼は「物質感はイマイチだが大変に優れた色彩感覚」と褒めたという。
ちなみに「オーヴェールの教会」はゴッホも描いていて、そのオマージュともいうべき作品。構図はまったく一緒である。佐伯祐三はゴッホの墓参りなどもしていてファンだったみたい。ヴラマンクがいなければ、本当はもっとゴッホに似せて描きたかったりして(^^ゞ
こちらがゴッホのオーヴェールの教会。
やがて佐伯祐三はユトリロの影響を受け、パリの街並みを中心に描くようになる。あれ?ヴラマンク先生に物真似はダメといわれたはずなのに。もっとも似ているのはパリの街並みを題材にした点だけで、色彩もタッチもまったく別物。色彩は先ほど書いた濃くて暗い=物質の持つ固有の色?である。
パリ風景 1925年頃
街角(モロ=ジャフェリ広場) 1925年頃
参考までに「ユトリロ 作品」で画像検索をしたページはここをクリック
やがて街並みからだんだんと建物の壁をクローズアップして描き出す。
同時に建物の看板や文字も作品の重要な要素となってくる
運送屋(カミオン) 1925年
壁 1925年
※壁に書かれている DEMENAGEMENTS は引越屋の意味。運送屋の隣にあったのかな。
なぜか同じ題材で2枚描いているものが多い。微妙にタッチが違うから、新しい描き方を思いついて、以前の作品と比較するために同じ場所を選んだのだろうか?
緑色の部分に書かれている LES JEUX DE NOEL(レ・ジュ・ド・ノエル)は直訳すればクリスマスゲーム。「クリスマスを楽しもう」の意味で、おもちゃ屋のコピーと解説しているものがあったが、建物の上にはHOTELと書かれているから、どうにも?な感じ。
レ・ジュ・ド・ノエル 1925年(2作品とも同じ)
こちらも同じく2枚描かれている。
ドアの所に靴を吊すのは日本にはないディスプレイで面白いね。
コルドヌリ(靴屋) 1925年
コルドヌリ(靴屋) 1925年頃
1925年に佐伯祐三はサロン・ドートンヌ(世界で最も権威のある公募展ともいわれ、現在も続いている)に入選する。その作品も同じくコルドヌリのタイトル。その作品は買い手がつき現在は所在が分からないようだが、ここで紹介したコルドヌリと似たようなものと考えられている。
なお画家によっては「売れ筋」の似たような絵を何枚も描く人もいる。しかし佐伯の場合はそうではないだろう。
他にも店名シリーズ(勝手に命名)は続く。
洗濯屋(オ・プティ・ソミュール) 1925年
酒場(オ・カーヴ・ブルー) 1925年
街並みを描き、そして看板や文字をそこに溶け込ませた集大成のような作品が「アントレ ド リュー ド シャトー Entree de Rue du Chateau」。意味は「シャトー通り入り口」で制作は同じく1925年。
まだ独自の画風を確立したとはいえないものの、渡仏前と較べればまったく違う画家になっている。立ち直り早いね佐伯君(^^ゞ
ただ疑問もある。ここで紹介した「運送屋(カミオン)」以降の作品は建物や壁と、そこにある文字で成り立っている。日本人的にはフランス語なんてほとんど読めないから、文字は建物デザインの一部あるいはパリの雰囲気をを感じさせる装飾でしかない。
ではフランス人にとっては? もし作品に「運送屋」「引越屋」「靴屋」「洗濯屋」などと日本語でデカデカと描かれていたと想像すれば? 初回の投稿で佐伯の絵には「どうだ、これがパリだ」とイキっている感があると書いたのはそういうこと。
また佐伯の絵にはある種のカッコよさがあると思う。しかしもし描かれている文字が日本語ならずいぶんと印象も違ってくる気がする。じゃあなぜ日本語だったらカッコ悪い? それってやっぱり西洋コンプレックス? となかなか素直に鑑賞できないのが困ったところ。
ーーー続く
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2023年06月26日
佐伯祐三 自画像としての風景 その2
いつも書いているように、どんな有名画家でも最初は個性のないどこかで見たことがあるような絵を描いている。やがて自分の個性を反映した独自の画風を確立し、それが受け入れられたものだけが一流の画家として後世に名を残す。ピカソだって実に様々なタイプの絵を描いているが、もしキュビスムの画風に至らなければ、今のような地位は得られていないはず。画家は一目で分かる画風を確立してナンボが私の捉え方。
それで画風確立前の佐伯祐三がどんな絵を描いていたかというと、まずは自画像が多い。キャリアの初期に自画像が多いのはよくある傾向で、これは
まだ人から肖像画を頼まれない
モデル代が要らないので安上がり
なのと、アーティストなんて人種は自意識の塊なので「自分は何者か」について、若いうちはこだわりがちだからだろう。
次の2点は絵としてはごく平凡。また明治の油絵っぽい古くささもある。ところで制作年を見ると描いたのは22〜25歳頃。それにしてはおでこがイッテるね(^^ゞ
自画像 1920-23年頃
帽子をかぶる自画像 1922年
そしてルノワールやセザンヌ風の描き方に挑戦している。
自画像 1923年 ※これは東京美術学校(現:東京芸大)の卒業制作
彌智子像 1923年 ※彌智子(やちこ)は学生結婚して生まれた娘。当時1歳。
パレットをもつ自画像 1924年
また風景画も自画像と同様に、
ごくオーソドックスな描き方から徐々に印象派風に変遷しているのが分かる。
勝浦風景 1918-19年頃
帆船 1920年頃
河内打上附近 1923年
1923年11月26日に佐伯祐三はパリに向かう。大正12年の当時に移動はもちろん船。インド洋〜スエズ運河経由で、翌1924年の1月2日に地中海沿いにあるマルセイユに到着。1ヶ月と1週間の船旅だから昔は大変。翌日にパリに渡りフランス生活が始まる。なお妻と娘も同行しており、そのあたりはさすがお坊ちゃま。この頃に彼の絵はまだ売れていないはず。
おそらく1924年の前半に描いたと思われる「パリ遠望」。
明らかにセザンヌのパクリ。
そして同年6月30日は佐伯祐三にとって運命の1日だったとされる。
この日、佐伯はモーリス・ド・ヴラマンクという画家を訪ね、渡仏してから制作した自信作の裸婦像を披露する。するとヴラマンクに「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」と厳しく叱責され(>_<) それを契機に彼の画風は転換していく。
ところでいろいろ調べても、ヴラマンクに見せた裸婦像がどんな絵なのかが分からない。叱責されたエピソードは有名で、多くの人が紹介しているのに、どんな絵なのか気にならないのかな。まあネットで拾える情報はコピペのループだけれど。
とりあえずこちらは渡仏前の1923年に制作された「裸婦」。おそらくパリで描いたのも似たようなものだったのではないかと想像している。(これは本展の展示作品にあらず)
まんまルノアール風である。美術の世界で「アカデミックな」といえば中世ルネサンスの絵画をイメージする。アカデミーで教える古くさい絵画に若い画家が反抗してというのは、例えばラファエル前派などよくある話。しかしヴラマンクのいうアカデミックとは印象派まで含むようだ。
印象派が広まったのは1880年前後から。この1924年時点で約50年前。印象派の技法はもう教科書に載るレベル、ありきたりとされるものになっていたのだろうか。印象派だってアンチ・アカデミー、アンチ・サロンから始まった運動だったのに、まさに歴史は繰り返す。
こちらがモーリス・ド・ヴラマンク。画家であり文筆家でもあった。フランス・フォーヴィスムの巨匠に数えられるが実はあまりよく知らない。
フォーヴィスムといえばマティス。そしてフォーヴィスムの和訳は野獣派。ただマティスの絵に野獣のような荒々しさはない。野獣が意味するのは色使いが派手との意味。だからこのフォーヴィスムというネーミングはちょっとおかしいと常々思っている。野獣はカラフルじゃないのだから。
GoogleでFauvismeを画像検索した結果ページはここをクリック
モーリス・ド・ヴラマンクの作品検索結果ページはここをクリック
彼の作品にも印象派的なものはあるね(^^ゞ
またおそらく佐伯祐三の語学力は片言のフランス語を話せる程度だったと思われる。それなのにこのヴラマンク、1時間半も佐伯を叱責したらしいからタイガイなおっさん。顔もイカついし元競輪選手で体格もいいから、かなりの圧があったに違いない。イジメに近いように思えるけど。
それで佐伯はすっかり自信喪失して落ち込んでしまう。
そして、この叱責の後に描いた「立てる自画像」は画風も今までとは様変わりし、また顔のあたりが削り取られているのも併せて有名な話。考えてみればタイトルも意味深。

ちなみに次の2点はこの展覧会の展示作品ではないが、
1924年の叱責後と翌1925年にこんな裸婦像を描いている。
裸婦 1924年
裸婦 1925年
あまりの画風の変化にビックリする。佐伯祐三の苦悩がにじみ出ているというか、行ったらアカンとこまで来ているというか。北野中学卒業の秀才で裕福なお坊ちゃまだった佐伯にとって、ヴラマンクの叱責はよほど堪えたに違いない。でもそれを真摯に受け止め、必死で自分の画風を模索したから彼の才能がこの後に花開いたと言える。
私も若い頃、誰かに1時間半ほど叱られればよかった(^^ゞ
ーーー続く
それで画風確立前の佐伯祐三がどんな絵を描いていたかというと、まずは自画像が多い。キャリアの初期に自画像が多いのはよくある傾向で、これは
まだ人から肖像画を頼まれない
モデル代が要らないので安上がり
なのと、アーティストなんて人種は自意識の塊なので「自分は何者か」について、若いうちはこだわりがちだからだろう。
次の2点は絵としてはごく平凡。また明治の油絵っぽい古くささもある。ところで制作年を見ると描いたのは22〜25歳頃。それにしてはおでこがイッテるね(^^ゞ
自画像 1920-23年頃
帽子をかぶる自画像 1922年
そしてルノワールやセザンヌ風の描き方に挑戦している。
自画像 1923年 ※これは東京美術学校(現:東京芸大)の卒業制作
彌智子像 1923年 ※彌智子(やちこ)は学生結婚して生まれた娘。当時1歳。
パレットをもつ自画像 1924年
また風景画も自画像と同様に、
ごくオーソドックスな描き方から徐々に印象派風に変遷しているのが分かる。
勝浦風景 1918-19年頃
帆船 1920年頃
河内打上附近 1923年
1923年11月26日に佐伯祐三はパリに向かう。大正12年の当時に移動はもちろん船。インド洋〜スエズ運河経由で、翌1924年の1月2日に地中海沿いにあるマルセイユに到着。1ヶ月と1週間の船旅だから昔は大変。翌日にパリに渡りフランス生活が始まる。なお妻と娘も同行しており、そのあたりはさすがお坊ちゃま。この頃に彼の絵はまだ売れていないはず。
おそらく1924年の前半に描いたと思われる「パリ遠望」。
明らかにセザンヌのパクリ。
そして同年6月30日は佐伯祐三にとって運命の1日だったとされる。
この日、佐伯はモーリス・ド・ヴラマンクという画家を訪ね、渡仏してから制作した自信作の裸婦像を披露する。するとヴラマンクに「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」と厳しく叱責され(>_<) それを契機に彼の画風は転換していく。
ところでいろいろ調べても、ヴラマンクに見せた裸婦像がどんな絵なのかが分からない。叱責されたエピソードは有名で、多くの人が紹介しているのに、どんな絵なのか気にならないのかな。まあネットで拾える情報はコピペのループだけれど。
とりあえずこちらは渡仏前の1923年に制作された「裸婦」。おそらくパリで描いたのも似たようなものだったのではないかと想像している。(これは本展の展示作品にあらず)
まんまルノアール風である。美術の世界で「アカデミックな」といえば中世ルネサンスの絵画をイメージする。アカデミーで教える古くさい絵画に若い画家が反抗してというのは、例えばラファエル前派などよくある話。しかしヴラマンクのいうアカデミックとは印象派まで含むようだ。
印象派が広まったのは1880年前後から。この1924年時点で約50年前。印象派の技法はもう教科書に載るレベル、ありきたりとされるものになっていたのだろうか。印象派だってアンチ・アカデミー、アンチ・サロンから始まった運動だったのに、まさに歴史は繰り返す。
こちらがモーリス・ド・ヴラマンク。画家であり文筆家でもあった。フランス・フォーヴィスムの巨匠に数えられるが実はあまりよく知らない。
フォーヴィスムといえばマティス。そしてフォーヴィスムの和訳は野獣派。ただマティスの絵に野獣のような荒々しさはない。野獣が意味するのは色使いが派手との意味。だからこのフォーヴィスムというネーミングはちょっとおかしいと常々思っている。野獣はカラフルじゃないのだから。
GoogleでFauvismeを画像検索した結果ページはここをクリック
モーリス・ド・ヴラマンクの作品検索結果ページはここをクリック
彼の作品にも印象派的なものはあるね(^^ゞ
またおそらく佐伯祐三の語学力は片言のフランス語を話せる程度だったと思われる。それなのにこのヴラマンク、1時間半も佐伯を叱責したらしいからタイガイなおっさん。顔もイカついし元競輪選手で体格もいいから、かなりの圧があったに違いない。イジメに近いように思えるけど。
それで佐伯はすっかり自信喪失して落ち込んでしまう。
そして、この叱責の後に描いた「立てる自画像」は画風も今までとは様変わりし、また顔のあたりが削り取られているのも併せて有名な話。考えてみればタイトルも意味深。

ちなみに次の2点はこの展覧会の展示作品ではないが、
1924年の叱責後と翌1925年にこんな裸婦像を描いている。
裸婦 1924年
裸婦 1925年
あまりの画風の変化にビックリする。佐伯祐三の苦悩がにじみ出ているというか、行ったらアカンとこまで来ているというか。北野中学卒業の秀才で裕福なお坊ちゃまだった佐伯にとって、ヴラマンクの叱責はよほど堪えたに違いない。でもそれを真摯に受け止め、必死で自分の画風を模索したから彼の才能がこの後に花開いたと言える。
私も若い頃、誰かに1時間半ほど叱られればよかった(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 23:24|Permalink│Comments(0)│
2023年06月25日
佐伯祐三 自画像としての風景
そういえば2月21に訪れたエゴン・シーレ展をブログにしたのは、3ヶ月と4日後の5月25日だったm(_ _)m この佐伯祐三展を見てきたのも、今から2ヶ月と25日前の3月31日。だからブログを書くペースにわずかとはいえ改善がみられる(^^ゞ
開催していたのは東京ステーションギャラリー。
和訳すれば東京駅美術館なので東京駅の中にある。
(iPhoneで少し上向きに撮ると、なぜか建物がのけぞってしまう)
これは南側。
駅を背にして左に丸ビル、右に新丸ビルがあるのが西側。
その先には皇居。
こちらが北側。まだ3月なので人々がコートを着ている風景。東京ステーションギャラリーは北口(丸いドーム屋根の下)を入ったところにある。
駅に入るとそのドームに施された装飾が美しい。
何度も来ているのにその度に写真を撮ってしまう。
北口コンコースの片隅に東京ステーションギャラリーの入口。
展示室は2階と3階にある。
さて佐伯祐三(さえきゆうぞう)。
1898年(明治31年)に大阪の中津(大阪駅・梅田駅の北側エリア)で生まれ、1928年(昭和3年)にパリで亡くなった画家。享年30歳。エゴン・シーレも28歳没だったから、偶然にも夭折した画家の展示会を続けて見たことになる。ちなみにエゴン・シーレは1890年(明治23年)生まれで佐伯祐三とはほぼ同世代。
どこか甘いムードも漂うなかなかのイケメン。実家は裕福なお寺で、旧制北野中学(現在の北野高校)を出ているから頭もよかったはず(北野高校の偏差値は2023年度で大阪で1位、全国で10位)。ちょっとうらやましいゾ
が、しか〜し神は二物を与えずなのか歯がない(>_<)
彼は北野中学時代に野球部(なんと主将!)で、ヘッドスライディングをした際に前歯を折ったらしい。そこには金歯(当時の入れ歯は金か銀しかなかったと思う)が入れられていたものの、卒業後しばらくして抜けてしまい、結局そのままだったようだ。身なりには無頓着で、ズボラな性格からあだ名が「ずぼ」だったというが、欠けた前歯もその表れなのだろう。画像はhttps://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2014-04-02から引用
抱きかかえているのは娘の彌智子(やちこ)。佐伯祐三は東京美術学校(現在の東京芸大)在学中に学生結婚している。なんと東京で住んでいたのは下宿ではなく、アトリエつきの家を新築! そのあたりはさすがお坊ちゃま。やっぱりうらやましい(^^ゞ
彼の短い生涯を年表にすると
1917年(大正6年)北野中学を卒業
1918年(大正7年)東京美術学校入学
1920年(大正9年)結婚 当時22歳
1922年(大正11年)長女誕生
1923年(大正12年)東京美術学校卒業 9月1日に関東大震災
1924年(大正13年)パリに移住
1925年(大正14年)サロン・ドートンヌ(コンクール)に初入選
1926年(大正15年)日本に帰国
1927年(昭和2年)再度フランスに渡る
1928年(昭和3年)パリ郊外の精神病院で死去
初めて展覧会に出展したのは美術学校を卒業した1923年。その5年後に亡くなっているから、画家としては実に短いキャリアだった。1928年の2月くらいから体調を崩し、やがて精神にも異変をきたして6月に自殺未遂を図る。フランスの法律に基づいて精神病院に収容され、8月にそこで肺結核によって生涯を閉じた。
おそらく世間一般の知名度はほとんどないだろう。美術界でも大規模な回顧展が開催されるのは18年ぶり、さらに前々回は45年前らしいからそれほどメジャーな画家とは言えない。でも私には強い印象が残っていた画家だった。
初めて佐伯祐三の絵を見たのがいつのことだったかはよく覚えていない。でもずいぶんと昔で30年前以上40年前未満といったところ。何かの雑誌で見たと記憶している。その時に何かに取り上げられ少し話題になった時期があったように思う。
具体的には覚えていないが、それはこんな雰囲気の作品だった。
その時に思ったのは
いかにも昔の日本人画家が、
パリってこんな街だ、どうだカッコイイだろうとイキって描いて、
そして昔の日本人が(おそらく今も)、
行ったこともないクセに、
これこそパリだヨーロッパだと喜びそうな
絵だなと。
絵にやたら文字が多いのもそう思わせた要因かも知れない。
平たくいえば西洋コンプレックス丸出しの絵に感じた。西洋コンプレックスという言葉を最近はあまり聞かないものの、ほとんどの日本人が英語を話せないのに、企業名や商品名に英語・カタカナ語が多く使われているし。なんならクルマの車種名はすべて外国語である。会話でもコンプライアンスにサステナブルにダイバーシティーにアジェンダとやたら出てくる。コロナではクラスターが発生して、ロックダウンにならないようソーシャルディスタンスが求められたよね。もうすっかりDNAに西洋コンプレックスが刷り込まれたので、西洋コンプレックスとの表現をしなくなったのかな。
もちろんカタカナ言葉が多く使われるのは、コンプレックスが原因なだけでないのは百も承知。それに印象派の画家たちが浮世絵に傾倒したように、異国情緒にある種の憧れを持つのは万国共通。話は変わるが江戸時代に水墨画が人気だったのは、中国風の異国情緒が好まれた=今でいうなら洋画を飾るみたいな感覚だったのではと思っている。
それはさておき、初めて佐伯祐三を見たときは、先ほど書いた「イキってる」感が強かったのは事実。ある意味、少し見下したような気持ちをいだいた。
ーーーただし私もごく平凡な日本人。同時に
「カッコええな〜」
「こんなポスターを部屋に飾りたい」
とも思ったのである(^^ゞ
それからすっかり忘れていたが、その両極の感情をいだいたから、展覧会情報で佐伯祐三の名前を見つけてすぐに思い出したしだい。他にどんな作品があるのだろうかと興味を持って、会期終了の2日前に滑り込みで展覧会を見てきた。
ーーー続く
追伸
西洋コンプレックスの代表例として東京駅の写真を撮ったわけじゃないよ
開催していたのは東京ステーションギャラリー。
和訳すれば東京駅美術館なので東京駅の中にある。
(iPhoneで少し上向きに撮ると、なぜか建物がのけぞってしまう)
これは南側。
駅を背にして左に丸ビル、右に新丸ビルがあるのが西側。
その先には皇居。
こちらが北側。まだ3月なので人々がコートを着ている風景。東京ステーションギャラリーは北口(丸いドーム屋根の下)を入ったところにある。
駅に入るとそのドームに施された装飾が美しい。
何度も来ているのにその度に写真を撮ってしまう。
北口コンコースの片隅に東京ステーションギャラリーの入口。
展示室は2階と3階にある。
さて佐伯祐三(さえきゆうぞう)。
1898年(明治31年)に大阪の中津(大阪駅・梅田駅の北側エリア)で生まれ、1928年(昭和3年)にパリで亡くなった画家。享年30歳。エゴン・シーレも28歳没だったから、偶然にも夭折した画家の展示会を続けて見たことになる。ちなみにエゴン・シーレは1890年(明治23年)生まれで佐伯祐三とはほぼ同世代。
どこか甘いムードも漂うなかなかのイケメン。実家は裕福なお寺で、旧制北野中学(現在の北野高校)を出ているから頭もよかったはず(北野高校の偏差値は2023年度で大阪で1位、全国で10位)。ちょっとうらやましいゾ
が、しか〜し神は二物を与えずなのか歯がない(>_<)
彼は北野中学時代に野球部(なんと主将!)で、ヘッドスライディングをした際に前歯を折ったらしい。そこには金歯(当時の入れ歯は金か銀しかなかったと思う)が入れられていたものの、卒業後しばらくして抜けてしまい、結局そのままだったようだ。身なりには無頓着で、ズボラな性格からあだ名が「ずぼ」だったというが、欠けた前歯もその表れなのだろう。画像はhttps://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2014-04-02から引用
抱きかかえているのは娘の彌智子(やちこ)。佐伯祐三は東京美術学校(現在の東京芸大)在学中に学生結婚している。なんと東京で住んでいたのは下宿ではなく、アトリエつきの家を新築! そのあたりはさすがお坊ちゃま。やっぱりうらやましい(^^ゞ
彼の短い生涯を年表にすると
1917年(大正6年)北野中学を卒業
1918年(大正7年)東京美術学校入学
1920年(大正9年)結婚 当時22歳
1922年(大正11年)長女誕生
1923年(大正12年)東京美術学校卒業 9月1日に関東大震災
1924年(大正13年)パリに移住
1925年(大正14年)サロン・ドートンヌ(コンクール)に初入選
1926年(大正15年)日本に帰国
1927年(昭和2年)再度フランスに渡る
1928年(昭和3年)パリ郊外の精神病院で死去
初めて展覧会に出展したのは美術学校を卒業した1923年。その5年後に亡くなっているから、画家としては実に短いキャリアだった。1928年の2月くらいから体調を崩し、やがて精神にも異変をきたして6月に自殺未遂を図る。フランスの法律に基づいて精神病院に収容され、8月にそこで肺結核によって生涯を閉じた。
おそらく世間一般の知名度はほとんどないだろう。美術界でも大規模な回顧展が開催されるのは18年ぶり、さらに前々回は45年前らしいからそれほどメジャーな画家とは言えない。でも私には強い印象が残っていた画家だった。
初めて佐伯祐三の絵を見たのがいつのことだったかはよく覚えていない。でもずいぶんと昔で30年前以上40年前未満といったところ。何かの雑誌で見たと記憶している。その時に何かに取り上げられ少し話題になった時期があったように思う。
具体的には覚えていないが、それはこんな雰囲気の作品だった。
その時に思ったのは
いかにも昔の日本人画家が、
パリってこんな街だ、どうだカッコイイだろうとイキって描いて、
そして昔の日本人が(おそらく今も)、
行ったこともないクセに、
これこそパリだヨーロッパだと喜びそうな
絵だなと。
絵にやたら文字が多いのもそう思わせた要因かも知れない。
平たくいえば西洋コンプレックス丸出しの絵に感じた。西洋コンプレックスという言葉を最近はあまり聞かないものの、ほとんどの日本人が英語を話せないのに、企業名や商品名に英語・カタカナ語が多く使われているし。なんならクルマの車種名はすべて外国語である。会話でもコンプライアンスにサステナブルにダイバーシティーにアジェンダとやたら出てくる。コロナではクラスターが発生して、ロックダウンにならないようソーシャルディスタンスが求められたよね。もうすっかりDNAに西洋コンプレックスが刷り込まれたので、西洋コンプレックスとの表現をしなくなったのかな。
もちろんカタカナ言葉が多く使われるのは、コンプレックスが原因なだけでないのは百も承知。それに印象派の画家たちが浮世絵に傾倒したように、異国情緒にある種の憧れを持つのは万国共通。話は変わるが江戸時代に水墨画が人気だったのは、中国風の異国情緒が好まれた=今でいうなら洋画を飾るみたいな感覚だったのではと思っている。
それはさておき、初めて佐伯祐三を見たときは、先ほど書いた「イキってる」感が強かったのは事実。ある意味、少し見下したような気持ちをいだいた。
ーーーただし私もごく平凡な日本人。同時に
「カッコええな〜」
「こんなポスターを部屋に飾りたい」
とも思ったのである(^^ゞ
それからすっかり忘れていたが、その両極の感情をいだいたから、展覧会情報で佐伯祐三の名前を見つけてすぐに思い出したしだい。他にどんな作品があるのだろうかと興味を持って、会期終了の2日前に滑り込みで展覧会を見てきた。
ーーー続く
追伸
西洋コンプレックスの代表例として東京駅の写真を撮ったわけじゃないよ
wassho at 22:31|Permalink│Comments(0)│