小倉遊亀
2024年11月29日
高橋龍太郎コレクション展 その6
巨大な作品を見て少し浮遊感を感じた後に、
通路を進むとまた通常の展示室になる。
こういうわけのわからない作品を「ケッ」と睨みつけ、
次に足が止まったのはこれ。
ob 「Choking」 2011年
それは顔も魅力的だったけれど、
サインが可愛かったから(^^ゞ
それは半分冗談(だから半分は本当)。ありがちなアニメ顔ではあるが、全体のぼかし加減や背景の描き方に、ちょっと印象派的な要素があって不思議な世界観が漂っている。
タイトルのChokingは黒板に書くチョーク(chalk)ではなく、息が詰まるや窒息、あるいは単に詰まるという意味のチョーク(choke)。首を絞める反則技をかけられたら「チョーク、チョーク」とレフリーにアピールするのを子供の頃にプロレスでよく見た。今もやっているのかな? また昔のクルマについていたチョークは、始動時にキャブレターの空気弁を絞ってガソリンの混合比率を高める装置。chokingはchokeの形容詞形。
それはそうとして、
この絵を見て息苦しい感じはまったくしない。
どうしてChokingなんだろう。
坂本夏子 & 梅津庸一 「絵作り」 2013
まったく現代アートぽくない作品。タイトルを読むと海岸で絵を描くキャンバスを張っている様子だろうか。これは二人の画家がコラボして描いている。そんな制作の作品は初めて見た。ただし画風が交差しているようなところはなく、言われなければ画家が二人でとは気付かない。
どちらも知らない画家だったのでグーグルで画像検索してみた。
リンクは短縮URL。
坂本夏子 https://x.gd/olxIY
梅津庸一 https://x.gd/zjjYq
それを眺めると、この絵は二人の個性がほどよく混じり合っている。そして現代アートの画家がコラボしたら、現代アート的ではない作品になったのがどこか面白い。
坂本夏子 「BATH, R」 2009〜2010年
こちらは坂本夏子の単独作品。BATHだから浴室のはずなのに、描かれている空間が広いのでプールのように見える。また視界のゆがみが水中での光景に錯覚する。
ところで2000年に105歳で他界した、
小倉遊亀(おぐらゆき)に「浴女」という代表作がある。
浴女 その一
浴女 その二
ひょっとしたらこれにインスピレーションを得て描いたのかも知れない。
いわゆるパクりじゃなくてオマージュね。
2020年にミケル・バルセロ展と同時開催されていた水戸部七絵(みとべ ななえ)。コロナでマスクをしていたのにもかかわらず、絵の具を溶いた油の匂いが鼻をつくほど「超を百倍超えた超厚塗り」の作品に度肝を抜かれた記憶は今でも鮮明。
ここでも盛大にヤラカシてた(^^ゞ
重さに耐えかねて絵の具が落ちてるやん!
水戸部七絵 「DEPTH」 2017年
さて
何これ?
入場料にこれを見る分も含まれているのがハラ立つ。
解説によると「本作は雑誌5冊を焼いている。高温の窯で焼かれた後も書物は灰に帰すことなく、本の形を留めたまま白く縮んだ姿を見せる」とあり、それにはヘエ〜と思ったものの、
続く文章が「言葉を伝えるという本来の役割から解き放たれ、そこにただ存在する形は、物質性や時間性、意味性を超え、我々の認識を揺さぶる」。
頭ワイてるんちゃうか?
こんなオモチャみなたいな、
もといオモチャ箱感あふれる展示の横を歩いて、
またハラ立つのが現れる。
巨大な電球、たぶん街灯の先端部分が無造作に並べられていて順番に点灯している。それだけ。何かを表現してはいるのだろうけれど、どうせ頭ワイてるような理屈に違いない。
初回に
=========
超大雑把に解説するなら、古代文明の時代から近代までのアートは、
広い意味で美の追究
視覚に訴える、視覚で感じたり楽しむもの
だった。それが現代アートになると
美にはとらわれない
社会へのメッセージや問題提起がテーマのものが多い
視覚を超えて思考や洞察を要求される
作品によっては参加型で体感や体験とセットになっている
絵画や彫刻だけでなく、映像や音響、空間、パフォーマンスなど、
あらゆるものが素材になる
=========
と書いた。だから現代アートでは作者のメッセージや問題提起がキモで、でも、そのメッセージや問題提起の内容や質がーーーとも。そしてこの展覧会を見て関心を持てたのは、やはり視覚的に楽しめたものに限られた。
視覚で引きつけられない作品はメッセージや問題提起を読み解く気にはなれず、同様に視覚で楽しめれば別にメッセージや問題提起に気持ちが向かない。結局、どちらにしたって作家との理性での対話はなし。頭が古いのかな、時代に乗り遅れているのかな。
お気づきだったかも知れないが、つまらないと思った作品は作者や作品名を記していない。それ自体に特に意味はなく単に面倒だっただけ。一方でそれらの作品に関心を持つ人、その背景に思いを巡らせるのはどんな人なのだろうと思う。それはこのコレクションのオーナーである高橋龍太郎氏に対しても同じ。「よくこんなものを金を払って集めたな」と感じた展示が多数だった。
彼らはどんな頭の構造をしているのか、私と会話が成り立つのかなどと想像している。そして私のほうが多数派だよね、だよね!とちょっとビビりながら思ったりして(^^ゞ
ただし草間彌生と 水戸部七絵は以前に個展を見ていて、その世界観がわかってるから素直に目に入ってきた部分はある。上で紹介した水戸部七絵の「DEPTH」だけを初めて見たら、「コイツは頭がおかしい」とたぶん考えたはず。そういう意味じゃ現代アートを楽しむには慣れや馴染みが必要なのかも。
でも馴染むための労力と、それから得られる果実を較べたら釣り合わないような気がする。そこにときめくものがあるように思えないし、私がすべての芸術において重視し、また評価の判断基準である作品に「酔える」感覚は味わえそうにない。だからやはり、食べず嫌いはいけませんよとお勉強のつもりで、あるいはたまにはのゲテモノ食いとして、これからも現代アートとは付き合っていくんだろうな。
おしまい
通路を進むとまた通常の展示室になる。
こういうわけのわからない作品を「ケッ」と睨みつけ、
次に足が止まったのはこれ。
ob 「Choking」 2011年
それは顔も魅力的だったけれど、
サインが可愛かったから(^^ゞ
それは半分冗談(だから半分は本当)。ありがちなアニメ顔ではあるが、全体のぼかし加減や背景の描き方に、ちょっと印象派的な要素があって不思議な世界観が漂っている。
タイトルのChokingは黒板に書くチョーク(chalk)ではなく、息が詰まるや窒息、あるいは単に詰まるという意味のチョーク(choke)。首を絞める反則技をかけられたら「チョーク、チョーク」とレフリーにアピールするのを子供の頃にプロレスでよく見た。今もやっているのかな? また昔のクルマについていたチョークは、始動時にキャブレターの空気弁を絞ってガソリンの混合比率を高める装置。chokingはchokeの形容詞形。
それはそうとして、
この絵を見て息苦しい感じはまったくしない。
どうしてChokingなんだろう。
坂本夏子 & 梅津庸一 「絵作り」 2013
まったく現代アートぽくない作品。タイトルを読むと海岸で絵を描くキャンバスを張っている様子だろうか。これは二人の画家がコラボして描いている。そんな制作の作品は初めて見た。ただし画風が交差しているようなところはなく、言われなければ画家が二人でとは気付かない。
どちらも知らない画家だったのでグーグルで画像検索してみた。
リンクは短縮URL。
坂本夏子 https://x.gd/olxIY
梅津庸一 https://x.gd/zjjYq
それを眺めると、この絵は二人の個性がほどよく混じり合っている。そして現代アートの画家がコラボしたら、現代アート的ではない作品になったのがどこか面白い。
坂本夏子 「BATH, R」 2009〜2010年
こちらは坂本夏子の単独作品。BATHだから浴室のはずなのに、描かれている空間が広いのでプールのように見える。また視界のゆがみが水中での光景に錯覚する。
ところで2000年に105歳で他界した、
小倉遊亀(おぐらゆき)に「浴女」という代表作がある。
浴女 その一
浴女 その二
ひょっとしたらこれにインスピレーションを得て描いたのかも知れない。
いわゆるパクりじゃなくてオマージュね。
2020年にミケル・バルセロ展と同時開催されていた水戸部七絵(みとべ ななえ)。コロナでマスクをしていたのにもかかわらず、絵の具を溶いた油の匂いが鼻をつくほど「超を百倍超えた超厚塗り」の作品に度肝を抜かれた記憶は今でも鮮明。
ここでも盛大にヤラカシてた(^^ゞ
重さに耐えかねて絵の具が落ちてるやん!
水戸部七絵 「DEPTH」 2017年
さて
何これ?
入場料にこれを見る分も含まれているのがハラ立つ。
解説によると「本作は雑誌5冊を焼いている。高温の窯で焼かれた後も書物は灰に帰すことなく、本の形を留めたまま白く縮んだ姿を見せる」とあり、それにはヘエ〜と思ったものの、
続く文章が「言葉を伝えるという本来の役割から解き放たれ、そこにただ存在する形は、物質性や時間性、意味性を超え、我々の認識を揺さぶる」。
頭ワイてるんちゃうか?
こんなオモチャみなたいな、
もといオモチャ箱感あふれる展示の横を歩いて、
またハラ立つのが現れる。
巨大な電球、たぶん街灯の先端部分が無造作に並べられていて順番に点灯している。それだけ。何かを表現してはいるのだろうけれど、どうせ頭ワイてるような理屈に違いない。
初回に
=========
超大雑把に解説するなら、古代文明の時代から近代までのアートは、
広い意味で美の追究
視覚に訴える、視覚で感じたり楽しむもの
だった。それが現代アートになると
美にはとらわれない
社会へのメッセージや問題提起がテーマのものが多い
視覚を超えて思考や洞察を要求される
作品によっては参加型で体感や体験とセットになっている
絵画や彫刻だけでなく、映像や音響、空間、パフォーマンスなど、
あらゆるものが素材になる
=========
と書いた。だから現代アートでは作者のメッセージや問題提起がキモで、でも、そのメッセージや問題提起の内容や質がーーーとも。そしてこの展覧会を見て関心を持てたのは、やはり視覚的に楽しめたものに限られた。
視覚で引きつけられない作品はメッセージや問題提起を読み解く気にはなれず、同様に視覚で楽しめれば別にメッセージや問題提起に気持ちが向かない。結局、どちらにしたって作家との理性での対話はなし。頭が古いのかな、時代に乗り遅れているのかな。
お気づきだったかも知れないが、つまらないと思った作品は作者や作品名を記していない。それ自体に特に意味はなく単に面倒だっただけ。一方でそれらの作品に関心を持つ人、その背景に思いを巡らせるのはどんな人なのだろうと思う。それはこのコレクションのオーナーである高橋龍太郎氏に対しても同じ。「よくこんなものを金を払って集めたな」と感じた展示が多数だった。
彼らはどんな頭の構造をしているのか、私と会話が成り立つのかなどと想像している。そして私のほうが多数派だよね、だよね!とちょっとビビりながら思ったりして(^^ゞ
ただし草間彌生と 水戸部七絵は以前に個展を見ていて、その世界観がわかってるから素直に目に入ってきた部分はある。上で紹介した水戸部七絵の「DEPTH」だけを初めて見たら、「コイツは頭がおかしい」とたぶん考えたはず。そういう意味じゃ現代アートを楽しむには慣れや馴染みが必要なのかも。
でも馴染むための労力と、それから得られる果実を較べたら釣り合わないような気がする。そこにときめくものがあるように思えないし、私がすべての芸術において重視し、また評価の判断基準である作品に「酔える」感覚は味わえそうにない。だからやはり、食べず嫌いはいけませんよとお勉強のつもりで、あるいはたまにはのゲテモノ食いとして、これからも現代アートとは付き合っていくんだろうな。
おしまい
wassho at 19:59|Permalink│Comments(0)│