東山魁夷
2018年12月14日
ピエール・ボナール展 番外編
ボナールの魅力を堪能した展覧会。満足度は100%以上だった。
ただし残念なことが。
最初のエントリーに「ボナールは美術界においても準メジャー級、世間一般ではほとんど知られていない画家だと思う」と書いたが、同時開催の東山魁夷展と較べて客の入りは今ひとつどころか雲泥の差。
展示室内は撮影できないのでグッズ売り場の様子を。
東山魁夷展は押すな押すなの大盛況。
ボナール展はというと
テレビだったら「カーッ」とカラスの鳴き声の効果音が入りそう(/o\)
おかげで、ゆったりじっくり鑑賞できてよかったのだが、推しメンならぬ推しガカの人気がないとちょっと淋しい。
来週の月曜日までやっているので、このブログを読んだ人は日本のどこに住んでいようとボナール展に駆けつけましょう!
おしまい
ただし残念なことが。
最初のエントリーに「ボナールは美術界においても準メジャー級、世間一般ではほとんど知られていない画家だと思う」と書いたが、同時開催の東山魁夷展と較べて客の入りは今ひとつどころか雲泥の差。
展示室内は撮影できないのでグッズ売り場の様子を。
東山魁夷展は押すな押すなの大盛況。
ボナール展はというと
テレビだったら「カーッ」とカラスの鳴き声の効果音が入りそう(/o\)
おかげで、ゆったりじっくり鑑賞できてよかったのだが、推しメンならぬ推しガカの人気がないとちょっと淋しい。
来週の月曜日までやっているので、このブログを読んだ人は日本のどこに住んでいようとボナール展に駆けつけましょう!
おしまい
wassho at 07:58|Permalink│Comments(0)│
2018年11月29日
生誕110年 東山魁夷展 その4
東山魁夷は風景画家ではあるが、少し変わっていて、その風景には人間や動物などは基本的に描かれない。展覧会を見て回った中では、京都をテーマとした京洛四季スケッチというシリーズの一部に、祇園祭や狂言の舞台を描いたものがあって、人間が登場するのはその数点くらいである。動物に至っては鳥が1羽だけ描かれているものが2枚あるのみ。また建物もほとんど描かないので、前々回のエントリーで紹介したドイツとオーストリアを巡ったシリーズで、古城や街並みが多く登場するのは「海外もの」ゆえの別枠的存在である。
つまり東山魁夷の風景画の要素は山・海・川などの地形的な姿と、そこにある木々や草ということになる。花も遠景の桜くらいしか描かない。しかしなぜか1972年だけは例外で、この年には19作品を制作したらしいが、そのすべてに白馬が描かれている。決して大きく中心に描かれているわけではないが、白馬の存在感から明らかに絵の主役となっている。
「草青む」 1972年 デンマーク ヒレロード
「春を呼ぶ丘」 1972年 北海道
「緑響く」 1982年 長野県 蓼科高原 ※オリジナルは1972年制作だが、
行方不明になったため再制作
1972年は唐招提寺から障壁画制作の依頼を受けた翌年で、その構想を練っていた頃。その年に限って絵を描こうとすると、脳裏に白馬のイメージが浮かんできたらしい。彼自身は「白馬は自らの祈りの現れ」と語っている。もし私がそんなことを言ったら「とうとう、そんなものが見えるようになってきたか」と心配あるいは見放されるに違いない(^^ゞ
この白馬の正体が何であるかは別としてとても幻想的な作品になっている。ただ白馬で幻想的というのがベタ過ぎて、ちょっと安っぽい気もするけれど。でもそんなひねくれた気持ちは捨てて東山ファンタジーに浸るのがいいようにも思う。
展覧会の最後は「心を写す風景画」というタイトル。今まで作品名の後に地名を記入してきたが、それはもちろん東山魁夷が風景画家として各地に赴いてスケッチをしてきた絵だから。御影堂の障壁画には揚州や桂林と行った中国の風景も描かれていて、そのために彼は日本との国交が正常化したばかりの中国まで出かけている。
やがて70歳を超えて、新たにスケッチ旅行に出かけるのが難しくなってきたので、晩年は過去の膨大なスケッチをベースに制作が続けられる。それがこのコーナーの作品。
「白い朝」 1980年 自宅
「静唱」 1981年 パリ郊外 ソー公園
「緑の窓」 1983年 ドイツ ラムサウ
「行く秋」 1990年 ドイツ北部
「夕星」 199年
「心を写す風景画」のタイトルに影響されたのか、今までのドカーンと広い景色とは少し違って、同じ風景画でもより情感がこもった作品のように思えた。なんとなく東山魁夷の優しい目線を感じる。
「夕星」に地名がないのは、この絵だけは架空の風景だから。そしてこれが絶筆となる。「ここが最後の憩いの場になるのではという感を胸に秘めながら筆を進めた」。そんな彼の言葉を知ると、ひとつだけ夜空に描かれた星は彼自身のつもりだったのではないかと想像してしまう。
東山魁夷の作品には個性とか自己主張のようなものはあまり感じられない。そういうところが物足りなくて、今まであまり興味がなかったのだと思う。しかし多くの作品を観てわかったのは、これは最高級のカツオで取ったダシのような絵だということ。極上のステーキのように口に運ぶ前からワクワクしないし、ひと噛みしただけでガツンとくるわけじゃない。しかし上品でしみじみと旨く、そしていくらでも飲める。
最後にわかりにくい例えになってしまってゴメン。
おしまい
つまり東山魁夷の風景画の要素は山・海・川などの地形的な姿と、そこにある木々や草ということになる。花も遠景の桜くらいしか描かない。しかしなぜか1972年だけは例外で、この年には19作品を制作したらしいが、そのすべてに白馬が描かれている。決して大きく中心に描かれているわけではないが、白馬の存在感から明らかに絵の主役となっている。
「草青む」 1972年 デンマーク ヒレロード
「春を呼ぶ丘」 1972年 北海道
「緑響く」 1982年 長野県 蓼科高原 ※オリジナルは1972年制作だが、
行方不明になったため再制作
1972年は唐招提寺から障壁画制作の依頼を受けた翌年で、その構想を練っていた頃。その年に限って絵を描こうとすると、脳裏に白馬のイメージが浮かんできたらしい。彼自身は「白馬は自らの祈りの現れ」と語っている。もし私がそんなことを言ったら「とうとう、そんなものが見えるようになってきたか」と心配あるいは見放されるに違いない(^^ゞ
この白馬の正体が何であるかは別としてとても幻想的な作品になっている。ただ白馬で幻想的というのがベタ過ぎて、ちょっと安っぽい気もするけれど。でもそんなひねくれた気持ちは捨てて東山ファンタジーに浸るのがいいようにも思う。
展覧会の最後は「心を写す風景画」というタイトル。今まで作品名の後に地名を記入してきたが、それはもちろん東山魁夷が風景画家として各地に赴いてスケッチをしてきた絵だから。御影堂の障壁画には揚州や桂林と行った中国の風景も描かれていて、そのために彼は日本との国交が正常化したばかりの中国まで出かけている。
やがて70歳を超えて、新たにスケッチ旅行に出かけるのが難しくなってきたので、晩年は過去の膨大なスケッチをベースに制作が続けられる。それがこのコーナーの作品。
「白い朝」 1980年 自宅
「静唱」 1981年 パリ郊外 ソー公園
「緑の窓」 1983年 ドイツ ラムサウ
「行く秋」 1990年 ドイツ北部
「夕星」 199年
「心を写す風景画」のタイトルに影響されたのか、今までのドカーンと広い景色とは少し違って、同じ風景画でもより情感がこもった作品のように思えた。なんとなく東山魁夷の優しい目線を感じる。
「夕星」に地名がないのは、この絵だけは架空の風景だから。そしてこれが絶筆となる。「ここが最後の憩いの場になるのではという感を胸に秘めながら筆を進めた」。そんな彼の言葉を知ると、ひとつだけ夜空に描かれた星は彼自身のつもりだったのではないかと想像してしまう。
東山魁夷の作品には個性とか自己主張のようなものはあまり感じられない。そういうところが物足りなくて、今まであまり興味がなかったのだと思う。しかし多くの作品を観てわかったのは、これは最高級のカツオで取ったダシのような絵だということ。極上のステーキのように口に運ぶ前からワクワクしないし、ひと噛みしただけでガツンとくるわけじゃない。しかし上品でしみじみと旨く、そしていくらでも飲める。
最後にわかりにくい例えになってしまってゴメン。
おしまい
wassho at 06:40|Permalink│Comments(0)│
2018年11月27日
生誕110年 東山魁夷展 その3
この展覧会では唐招提寺(とうしょうだいじ)の御影堂の障壁画が展示されている。障壁画(しょうへきが)とは主に襖(ふすま)に描かれた絵。
その唐招提寺とは奈良にある、律宗というあまり聞き慣れない宗派のお寺。創建したのは鑑真(がんじん)。中国の高僧で奈良時代(710年〜794年)に朝廷から請われて日本にやってきた。渡航に5回失敗し、6回目でようやく日本にたどり着いた時には視力を失っていたなんて子供の時に習った記憶のある人は多いはず。大昔だから中国と日本を船で渡るのはすごく大変だったんだろうなと思っていたが、調べてみると微妙に違う。
まず6回のチャレンジのうち船に乗って出航したのは3回だけである。1回目、3回目、4回目は中国(当時は唐)当局によって出航を差し止められたり他の理由で出航を断念している。それを含めて6回とカウントする?
2回目と5回目は出航した。そして暴風雨で船は難破。特に5回目は上海の近くから南方の海南島まで漂流している。その距離約2000キロ。途中にいくらでも岸があるやろ(^^ゞ
現在の海南島は中国のハワイなどといわれるリゾートだが、当時は暮らすにはきつかったらしい。鑑真は約1年間滞在した後(滞在したのは海南島ではなく桂林という説もある)、本拠地の揚州に戻る。おそらく陸路。その途中に失明。南方の気候と激しい疲労からといわれる。子供の頃、日本までの航海が大変だったとして、それでなぜ失明するのか、荒れる船上で目を怪我したのかなと思っていたが、そういうわけだったのね。
しかし疲労で失明するかな? 緑内障などを患ったと考えるほうが合理的。失明の原因を日本への渡航とするのはちょっと違うかも。
それはともかく6回目の渡航でようやく成功。沖縄(当時は外国)と屋久島を経由して、754年に九州の太宰府に到着。その時も4隻の船団のうち1隻は行方不明になり、1隻は沖縄から九州に向かう途中にベトナムまで流されているから、やはり当時の航海は命がけだったのだと改めて思う。ちなみにこの時は遣唐使が帰国する船に同乗。最初からそういう手配をしてあげれば、もっとスムーズに来日できて失明もしていなかったかも。
鑑真が亡くなって、その弟子たちが作ったのが鑑真和上坐像(がんじん わじょう ざぞう)。国宝であり日本最古の肖像彫刻。彫刻といっても削っているのではなく、麻布を漆で貼り合わせて作られている。
その鑑真和上坐像が安置されているのが御影堂(みえいどう)。この建物は唐招提寺のホームページによれば「元は興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で、明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和39年(1964)移築復元したものです」というからビックリ。これが庁舎だったなんて、さすが奈良!
その御影堂の障壁画を東山魁夷が制作。 ※写真は産経フォトから引用
鑑真や東山魁夷のことは抜きにして、この障壁画のことはかなり昔から知っていた。記憶に残っていたのは、お寺の和室のフスマに鮮やかなブルーが「派手やな〜」「似合わんな〜」と違和感があったから。そして今回、その制作意図が「鑑真は困難を乗り越え海を渡ってきた」からだと知る。果たして鑑真は大変な目にあった海に囲まれて喜んでいるか?(^^ゞ
それにしてもお坊さんが柵の外側からお経を上げているのが奇妙だが、これは拝観者のための柵をいちいち片付けるのが面倒ということなのかな。現在、御影堂は大改修中で、その期間を利用してこの展覧会に障壁画が貸し出されている。障壁画の何枚かが貸し出されることは過去にもあったが、今回は全部で68枚あるすべての障壁画が展示されている。
御影堂障壁画「山雲」 1975年
御影堂障壁画「濤声」 1975年 ※濤声=とうせい=波の音
どちらも上の画像は障壁画全体のごく一部。
「濤声」をさらにアップで。
これじゃ雰囲気が伝わらないので展示風景を。
※写真はインターネットミュージアムから引用
実際の展示室はもっと暗い。下から照明を当てているのだが、まるで裏面から照射しているように感じる。暗い空間の中でブルーの障壁画が、宙に浮いているように思えて超幻想的だった。絵というより映像を観ているような感覚になる。障壁画というのは空間芸術なんだと認識する。
御影堂障壁画「揚州薫風」 1980年
「濤声」とはガラッと変わって中国の水墨画風。これはもちろん鑑真が中国人だからであり、揚州は彼の出身地。御影堂の障壁画が東山魁夷の鑑真へのオマージュであることがわかる。
こちらは鑑真が滞在したことのある桂林の風景を描いた「桂林月宵」の展示風景。
写真でわかるように、展示は御影堂の造作を再現して畳まで敷く凝りよう。何となくお寺の雰囲気も感じられて、作品が引き立てられていたように思う。しかしメインの「濤声」の展示はちょっと暗すぎる。照明効果で楽しめはしたが、ちょっと演出過剰かな。御影堂で拝観する「素」の姿を見てみたかった気もする。
ーーー続く
その唐招提寺とは奈良にある、律宗というあまり聞き慣れない宗派のお寺。創建したのは鑑真(がんじん)。中国の高僧で奈良時代(710年〜794年)に朝廷から請われて日本にやってきた。渡航に5回失敗し、6回目でようやく日本にたどり着いた時には視力を失っていたなんて子供の時に習った記憶のある人は多いはず。大昔だから中国と日本を船で渡るのはすごく大変だったんだろうなと思っていたが、調べてみると微妙に違う。
まず6回のチャレンジのうち船に乗って出航したのは3回だけである。1回目、3回目、4回目は中国(当時は唐)当局によって出航を差し止められたり他の理由で出航を断念している。それを含めて6回とカウントする?
2回目と5回目は出航した。そして暴風雨で船は難破。特に5回目は上海の近くから南方の海南島まで漂流している。その距離約2000キロ。途中にいくらでも岸があるやろ(^^ゞ
現在の海南島は中国のハワイなどといわれるリゾートだが、当時は暮らすにはきつかったらしい。鑑真は約1年間滞在した後(滞在したのは海南島ではなく桂林という説もある)、本拠地の揚州に戻る。おそらく陸路。その途中に失明。南方の気候と激しい疲労からといわれる。子供の頃、日本までの航海が大変だったとして、それでなぜ失明するのか、荒れる船上で目を怪我したのかなと思っていたが、そういうわけだったのね。
しかし疲労で失明するかな? 緑内障などを患ったと考えるほうが合理的。失明の原因を日本への渡航とするのはちょっと違うかも。
それはともかく6回目の渡航でようやく成功。沖縄(当時は外国)と屋久島を経由して、754年に九州の太宰府に到着。その時も4隻の船団のうち1隻は行方不明になり、1隻は沖縄から九州に向かう途中にベトナムまで流されているから、やはり当時の航海は命がけだったのだと改めて思う。ちなみにこの時は遣唐使が帰国する船に同乗。最初からそういう手配をしてあげれば、もっとスムーズに来日できて失明もしていなかったかも。
鑑真が亡くなって、その弟子たちが作ったのが鑑真和上坐像(がんじん わじょう ざぞう)。国宝であり日本最古の肖像彫刻。彫刻といっても削っているのではなく、麻布を漆で貼り合わせて作られている。
その鑑真和上坐像が安置されているのが御影堂(みえいどう)。この建物は唐招提寺のホームページによれば「元は興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で、明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和39年(1964)移築復元したものです」というからビックリ。これが庁舎だったなんて、さすが奈良!
その御影堂の障壁画を東山魁夷が制作。 ※写真は産経フォトから引用
鑑真や東山魁夷のことは抜きにして、この障壁画のことはかなり昔から知っていた。記憶に残っていたのは、お寺の和室のフスマに鮮やかなブルーが「派手やな〜」「似合わんな〜」と違和感があったから。そして今回、その制作意図が「鑑真は困難を乗り越え海を渡ってきた」からだと知る。果たして鑑真は大変な目にあった海に囲まれて喜んでいるか?(^^ゞ
それにしてもお坊さんが柵の外側からお経を上げているのが奇妙だが、これは拝観者のための柵をいちいち片付けるのが面倒ということなのかな。現在、御影堂は大改修中で、その期間を利用してこの展覧会に障壁画が貸し出されている。障壁画の何枚かが貸し出されることは過去にもあったが、今回は全部で68枚あるすべての障壁画が展示されている。
御影堂障壁画「山雲」 1975年
御影堂障壁画「濤声」 1975年 ※濤声=とうせい=波の音
どちらも上の画像は障壁画全体のごく一部。
「濤声」をさらにアップで。
これじゃ雰囲気が伝わらないので展示風景を。
※写真はインターネットミュージアムから引用
実際の展示室はもっと暗い。下から照明を当てているのだが、まるで裏面から照射しているように感じる。暗い空間の中でブルーの障壁画が、宙に浮いているように思えて超幻想的だった。絵というより映像を観ているような感覚になる。障壁画というのは空間芸術なんだと認識する。
御影堂障壁画「揚州薫風」 1980年
「濤声」とはガラッと変わって中国の水墨画風。これはもちろん鑑真が中国人だからであり、揚州は彼の出身地。御影堂の障壁画が東山魁夷の鑑真へのオマージュであることがわかる。
こちらは鑑真が滞在したことのある桂林の風景を描いた「桂林月宵」の展示風景。
写真でわかるように、展示は御影堂の造作を再現して畳まで敷く凝りよう。何となくお寺の雰囲気も感じられて、作品が引き立てられていたように思う。しかしメインの「濤声」の展示はちょっと暗すぎる。照明効果で楽しめはしたが、ちょっと演出過剰かな。御影堂で拝観する「素」の姿を見てみたかった気もする。
ーーー続く
wassho at 07:07|Permalink│Comments(0)│
2018年11月24日
生誕110年 東山魁夷展 その2
まずは人物像のおさらい。
東山魁夷は1908年(明治41年)生まれで1999年(平成11年)に90歳で亡くなる。だから今年が生誕110年。ちなみに明治は45年まで。
横浜で生まれ3歳から神戸育ち。東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業後にドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学。終戦間近の1945年には兵隊に取られてもいる。戦後は千葉県の市川市を拠点とする。
美術学校在学中から展覧会に入選はしていたが、美術界で広く認められるようになったのは1947年に「残照」が日展で特選となってからといわれる。当時の東山は39歳だから意外と遅咲き。そして、それまでの間借り生活だったのが、1953年に自宅を新築しているから儲かりだしたみたい(^^ゞ
そこから先のことはあまり調べていない。しかし1960年に東宮御所、1968年には皇居宮殿の障壁画を制作していることから、「残照」から10数年以内に当代一流と見なされる画家まで登り詰めていたことになる。遅咲きでも咲いた後は早かった。1969年には文化勲章を受章。
1970年代から80年代にかけて唐招提寺の障壁画を担当。これらはいずれ重要文化財や国宝になるんじゃないかな。またこの頃から彼のことを「国民的画家」などと呼ぶようになったみたいだ。
こちらは75歳の時のお姿。
今まで東山魁夷の展覧会を訪れたことはない。でも彼のことは美術番組等でよく取り上げられているし、個展じゃなくても何度か作品を観たことはある。
それで東山魁夷に対する印象は、
東山ブルーと呼ばれる色を多く使う。実際には緑なんだけれど、日本は信号でも
「青」信号となぜか緑を青と置き換えるのでブルー。
写真でいうならソフトフォーカスのようなホワっとした画風である。
シンプルというか単純な絵が多い。悪くいえば大雑把な画風。
といったところ。前回のエントリーでも書いたように、あまり私の趣味ではなかった。この展覧会もボナールと同時開催でなければ、あるいは唐招提寺の障壁画が展示されていなかったら訪れていなかったかもしれない。でも百聞は一見にしかずじゃなくて、まとめて観ると違う世界が見えてくる体験であった。
「残照」 19477年
先ほど書いた東山魁夷の出世作。とても山岳地帯ぽく思えるが、実は千葉県君津市の鹿野山からの風景である。標高はたったの379メートル。隣の鬼泪山(きなだやま:標高319メートル)はマザー牧場のあるところといえば、千葉を知っている人にはイメージしやすいかもしれない。バイクツーリングで房総半島の山はよく訪れている。低い山並みだからつまらない景色なんだが、それと同じようなものを見てこんな絵になったかと、出だしから一発食らわされた感じ。
「道」 1950年
こちらは青森県の種差海岸。芝生が広がる美しい海岸のようだ。そしてこれは、東山魁夷といえば必ず紹介される有名な作品。戦後間もない時代にに、このまっすぐに伸びる道を見て人々が元気づけれれたなんて解説がよくされる。戦争が終わって5年でまったく余裕のない頃に、一体どれだけの人がこの絵を見たのだと、評論家のそんな後付けポエムには辟易するけれど。
東山魁夷は「残照」で画風を変え、この「道」はその路線で行くんだという決意の表れだともいわれる。そういう目で見ると「単純で大雑把な風景画」じゃなくて別の絵に見えてくるから不思議。風景に想いを込めることは可能なのかもしれない。ただ他の作品のすべてがそうではないと思う。
それとこれだけの規模の回顧展なのだから、「残照」以前の作品も見たかったところ。彼の初期の作品はネットで調べると何点かの名前はわかっても、画像がまったく見つけられない。大画伯の過去は封印されてる? ナゾ
「たにま」 1953年 長野県 野沢温泉
「木霊」 1958年 伊豆 淨蓮の滝
「秋翳(しゅうえい)」 1958年 群馬県 水上町
「青響」 1960年 福島県 土湯峠
「萬緑新」 1961年 福島県 猪苗代
ここからは北欧編。1962年(昭和37年)に北欧へスケッチ旅行して描かれた作品。「映象」や「冬華」は確かに寒そう。でもいわれなければ外国とは気づかないかな。
「映象」 1962年 スウェーデン ノルディングロー
「冬華」 1964年
「白夜光」 1965年 フィンランド クオピオ
次は京都を中心に描く時期になる。川端康成に京都も近代化してきているから今のうちに描いておけと勧められたらしい。しかし小説家と風景画家では京都の捉え方が違っていたようで、街中の風景を描いたのは数点しかない。ほとんどは自然の景色や古刹の庭など今でも描ける場所ばかり。ちょっと選び方がベタかな。川端康成も苦笑したかも(^^ゞ
「月篁(げっこう)」 1967年 嵯峨野
「谿紅葉(たにもみじ)」 1968年 芹生峠
「花明かり」 1968年 円山公園
「夏に入る」 1968年 大山崎
「春雪」 1973年 洛北
京都の次はまた海外で、1969年にドイツとオーストラリアの古都を巡っている。ドイツは2年間留学していたから思い入れはあっただろう。この時は建物を中心に描いているので外国だとわかりやすい。
「窓」 1971年 ドイツ ローデンブルク
「古都遠望」 1971年 ドイツ ヴィンブヘン
「晩鐘」 1971年 ドイツ フライブルク
作品を見続けるうちに東山魁夷への印象が少しずつ変わってきた。絵そのものに対する認識は同じだが、その評価が「単純で大雑把」から「おおらかで伸びやか」になったというか。今まで「退屈」と思っていたのに「安らぎを覚える」絵のように感じる。少し前の表現を使えば「癒し系」。作品を単体では特に感じることがなくても、まとまって観るとそこに共通する何かに刺激を受けることは草間彌生展でも経験した。両者はまったくタイプが異なるから、絵には、あるいは人間の感覚にはそういうところがあるのだろう。
東山ブルーにもけっこう酔えた。絵を観る時に特定の色は意識してない。しかし考えてみればゴッホの黄色やフェルメールの青など、それなしでは考えられない色もある。色は何がどう描かれているかと同じくらい重要なのかも。これから絵の楽しみ方に幅が出るような気もして、これはうれしい発見。
ところで東山魁夷は木をすごくデフォルメして描く。「青響」はブナ、「春雪」は杉の木でまあそんなものだと思うけれど、「月篁」の竹はちょっと違う気がするけどなあ。
ーーー続く
東山魁夷は1908年(明治41年)生まれで1999年(平成11年)に90歳で亡くなる。だから今年が生誕110年。ちなみに明治は45年まで。
横浜で生まれ3歳から神戸育ち。東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業後にドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学。終戦間近の1945年には兵隊に取られてもいる。戦後は千葉県の市川市を拠点とする。
美術学校在学中から展覧会に入選はしていたが、美術界で広く認められるようになったのは1947年に「残照」が日展で特選となってからといわれる。当時の東山は39歳だから意外と遅咲き。そして、それまでの間借り生活だったのが、1953年に自宅を新築しているから儲かりだしたみたい(^^ゞ
そこから先のことはあまり調べていない。しかし1960年に東宮御所、1968年には皇居宮殿の障壁画を制作していることから、「残照」から10数年以内に当代一流と見なされる画家まで登り詰めていたことになる。遅咲きでも咲いた後は早かった。1969年には文化勲章を受章。
1970年代から80年代にかけて唐招提寺の障壁画を担当。これらはいずれ重要文化財や国宝になるんじゃないかな。またこの頃から彼のことを「国民的画家」などと呼ぶようになったみたいだ。
こちらは75歳の時のお姿。
今まで東山魁夷の展覧会を訪れたことはない。でも彼のことは美術番組等でよく取り上げられているし、個展じゃなくても何度か作品を観たことはある。
それで東山魁夷に対する印象は、
東山ブルーと呼ばれる色を多く使う。実際には緑なんだけれど、日本は信号でも
「青」信号となぜか緑を青と置き換えるのでブルー。
写真でいうならソフトフォーカスのようなホワっとした画風である。
シンプルというか単純な絵が多い。悪くいえば大雑把な画風。
といったところ。前回のエントリーでも書いたように、あまり私の趣味ではなかった。この展覧会もボナールと同時開催でなければ、あるいは唐招提寺の障壁画が展示されていなかったら訪れていなかったかもしれない。でも百聞は一見にしかずじゃなくて、まとめて観ると違う世界が見えてくる体験であった。
「残照」 19477年
先ほど書いた東山魁夷の出世作。とても山岳地帯ぽく思えるが、実は千葉県君津市の鹿野山からの風景である。標高はたったの379メートル。隣の鬼泪山(きなだやま:標高319メートル)はマザー牧場のあるところといえば、千葉を知っている人にはイメージしやすいかもしれない。バイクツーリングで房総半島の山はよく訪れている。低い山並みだからつまらない景色なんだが、それと同じようなものを見てこんな絵になったかと、出だしから一発食らわされた感じ。
「道」 1950年
こちらは青森県の種差海岸。芝生が広がる美しい海岸のようだ。そしてこれは、東山魁夷といえば必ず紹介される有名な作品。戦後間もない時代にに、このまっすぐに伸びる道を見て人々が元気づけれれたなんて解説がよくされる。戦争が終わって5年でまったく余裕のない頃に、一体どれだけの人がこの絵を見たのだと、評論家のそんな後付けポエムには辟易するけれど。
東山魁夷は「残照」で画風を変え、この「道」はその路線で行くんだという決意の表れだともいわれる。そういう目で見ると「単純で大雑把な風景画」じゃなくて別の絵に見えてくるから不思議。風景に想いを込めることは可能なのかもしれない。ただ他の作品のすべてがそうではないと思う。
それとこれだけの規模の回顧展なのだから、「残照」以前の作品も見たかったところ。彼の初期の作品はネットで調べると何点かの名前はわかっても、画像がまったく見つけられない。大画伯の過去は封印されてる? ナゾ
「たにま」 1953年 長野県 野沢温泉
「木霊」 1958年 伊豆 淨蓮の滝
「秋翳(しゅうえい)」 1958年 群馬県 水上町
「青響」 1960年 福島県 土湯峠
「萬緑新」 1961年 福島県 猪苗代
ここからは北欧編。1962年(昭和37年)に北欧へスケッチ旅行して描かれた作品。「映象」や「冬華」は確かに寒そう。でもいわれなければ外国とは気づかないかな。
「映象」 1962年 スウェーデン ノルディングロー
「冬華」 1964年
「白夜光」 1965年 フィンランド クオピオ
次は京都を中心に描く時期になる。川端康成に京都も近代化してきているから今のうちに描いておけと勧められたらしい。しかし小説家と風景画家では京都の捉え方が違っていたようで、街中の風景を描いたのは数点しかない。ほとんどは自然の景色や古刹の庭など今でも描ける場所ばかり。ちょっと選び方がベタかな。川端康成も苦笑したかも(^^ゞ
「月篁(げっこう)」 1967年 嵯峨野
「谿紅葉(たにもみじ)」 1968年 芹生峠
「花明かり」 1968年 円山公園
「夏に入る」 1968年 大山崎
「春雪」 1973年 洛北
京都の次はまた海外で、1969年にドイツとオーストラリアの古都を巡っている。ドイツは2年間留学していたから思い入れはあっただろう。この時は建物を中心に描いているので外国だとわかりやすい。
「窓」 1971年 ドイツ ローデンブルク
「古都遠望」 1971年 ドイツ ヴィンブヘン
「晩鐘」 1971年 ドイツ フライブルク
作品を見続けるうちに東山魁夷への印象が少しずつ変わってきた。絵そのものに対する認識は同じだが、その評価が「単純で大雑把」から「おおらかで伸びやか」になったというか。今まで「退屈」と思っていたのに「安らぎを覚える」絵のように感じる。少し前の表現を使えば「癒し系」。作品を単体では特に感じることがなくても、まとまって観るとそこに共通する何かに刺激を受けることは草間彌生展でも経験した。両者はまったくタイプが異なるから、絵には、あるいは人間の感覚にはそういうところがあるのだろう。
東山ブルーにもけっこう酔えた。絵を観る時に特定の色は意識してない。しかし考えてみればゴッホの黄色やフェルメールの青など、それなしでは考えられない色もある。色は何がどう描かれているかと同じくらい重要なのかも。これから絵の楽しみ方に幅が出るような気もして、これはうれしい発見。
ところで東山魁夷は木をすごくデフォルメして描く。「青響」はブナ、「春雪」は杉の木でまあそんなものだと思うけれど、「月篁」の竹はちょっと違う気がするけどなあ。
ーーー続く
wassho at 17:43|Permalink│Comments(0)│
2018年11月22日
生誕110年 東山魁夷展
先週、六本木の国立新美術館で東山魁夷とピエール・ボナールの展覧会を見てきた。寿司とサンドイッチを順番に食べるようなものであるが、一度に見られて出かける手間が省けるかと。
ピエール・ボナールは印象派に続くナビ派に属する画家で、美術界においてもその存在は準メジャー級、だから世間一般ではほとんど知られていないと思う。大きな展覧会で品揃えの一環的な扱いで出品されている程度で、私もあまり作品を観たことはない。しかしなぜか昔から気になるというか好きな存在。そのボナールの展覧会ということで、けっこう心待ちにしていた。
一方の東山魁夷(かいい)。昭和を代表する日本画家の1人で、絵は観たことがなくても名前だけなら知っている人も多いと思う。とても人気のある画家ではあるが、実はその作品にあまり興味は持っていなかった。だから絵を楽しみにというより教養を深めるために観ておこうかというつもりで。でもけっこう魅了された。いままで東山魁夷なめてたわ(^^ゞ
地下鉄の六本木駅から東京ミッドタウンに向かう通路。
東京ミッドタウンのことを、ずっと六本木ミッドタウンだと勘違いしていたことはいつか書いた。それで今年の春に日比谷にもミッドタウンが出来たから、やっぱり六本木ミッドタウンのほうが整合性がとれるじゃないかと思ったら、日比谷は東京ミッドタウン日比谷という名前になっていた(^^ゞ 実は東京ミッドタウンの住所は赤坂9丁目で、日比谷のほうは有楽町1丁目だったりする。
ミッドタウンの地下1階の広場を抜けて、
地上に出る。
六本木駅から国立新美術館に行くにはもっとショートカットできる道順があるのだが、私はここを通るのが好き。
国立新美術館に到着。
隣の敷地にある政策研究大学院大学。国立大学ではあるが、いまだにどんな大学なのかよくわからない。左側に写っているのは六本木ヒルズ。写真って風景を撮ると台形に写るから、ピサの斜塔みたいになる。
東山魁夷展は2階の展示室。
ーーー続く
ピエール・ボナールは印象派に続くナビ派に属する画家で、美術界においてもその存在は準メジャー級、だから世間一般ではほとんど知られていないと思う。大きな展覧会で品揃えの一環的な扱いで出品されている程度で、私もあまり作品を観たことはない。しかしなぜか昔から気になるというか好きな存在。そのボナールの展覧会ということで、けっこう心待ちにしていた。
一方の東山魁夷(かいい)。昭和を代表する日本画家の1人で、絵は観たことがなくても名前だけなら知っている人も多いと思う。とても人気のある画家ではあるが、実はその作品にあまり興味は持っていなかった。だから絵を楽しみにというより教養を深めるために観ておこうかというつもりで。でもけっこう魅了された。いままで東山魁夷なめてたわ(^^ゞ
地下鉄の六本木駅から東京ミッドタウンに向かう通路。
東京ミッドタウンのことを、ずっと六本木ミッドタウンだと勘違いしていたことはいつか書いた。それで今年の春に日比谷にもミッドタウンが出来たから、やっぱり六本木ミッドタウンのほうが整合性がとれるじゃないかと思ったら、日比谷は東京ミッドタウン日比谷という名前になっていた(^^ゞ 実は東京ミッドタウンの住所は赤坂9丁目で、日比谷のほうは有楽町1丁目だったりする。
ミッドタウンの地下1階の広場を抜けて、
地上に出る。
六本木駅から国立新美術館に行くにはもっとショートカットできる道順があるのだが、私はここを通るのが好き。
国立新美術館に到着。
隣の敷地にある政策研究大学院大学。国立大学ではあるが、いまだにどんな大学なのかよくわからない。左側に写っているのは六本木ヒルズ。写真って風景を撮ると台形に写るから、ピサの斜塔みたいになる。
東山魁夷展は2階の展示室。
ーーー続く
wassho at 23:47|Permalink│Comments(0)│