横山崋山
2018年10月17日
横山崋山 その4
第5章「風俗−人々の共感」の続き。
「花見図」
女性は日本髪だし桜の花見をしているのだから、描かれているのは日本の風景に間違いない。しかしどうしても中国風に見えてしまう。おそらく他の展示に中国風の絵が多く、それらと背景の色が同じだからかな。オソロシア刷り込み効果。
話は戻るが「紅花屏風」で人物が漫画的に見えると書いた。その理由のひとつに顔の形や表情の作り方のバリエーションが乏しいことが上げられる。つまり自分の持ちネタだけで人物を描いているから。マンガでもチョイ役やその他大勢役の人物の顔は、作品が違ってもだいたい同じで使い回しである。この「花見図」では15名が描かれているが、顔は5パターンくらいしかない。崋山の描く人物は動作が活き活きとしているのに、そのあたりが残念。
「夕顔棚納涼図」
国宝である久隅守景(くすみもりかげ)の「納涼図屏風」へのオマージュ。「納涼図屏風」は肩に力の入っていない味わい深い絵である。でも「最も国宝らしくない国宝」とも評される作品。それには同感で、もし私に国宝の選定権限があったら絶対に選んでいない。でもさすがに横山崋山は「納涼図屏風」の価値を見抜いていたんだろうな。
「大原女図」
鎌倉時代から昭和の初め頃まで、京都の大原に住む女性が薪を頭に載せて運んで行商していた。彼女たちを大原女(おおはらめ)と呼ぶ。それにしてもすごい薪の量にびっくり。頭で運ぶのが有名だが馬も使っていたことが伺える。
都のあった京都は郊外からの行商が盛んだった。その担い手は女性で三大行商女と呼べるのが、この大原女と、白川女と畑の姥。白川女は白川からやってくる花の行商。畑の姥(はたのおば または うば)は雲ヶ畑などの林業の盛んな地区から間伐材で作った床几(しょうぎ:ベンチみたいなもの)やハシゴを売りに来る。どの行商も基本は頭に載せて運ぶ。そういうのはアフリカ奥地の女性を連想するけれど、意外と人類共通の発想なのかもしれない。
最終の第6章が「描かれた祇園祭−《祇園祭礼図巻》の世界」。いってみれば崋山の風俗画から祇園祭だけを取り出した構成。
この「祇園祭礼図巻(1835〜1837年)は上下2巻の巻物で、それぞれ約15メートルの超大作。祇園祭といえば山鉾巡行がクライマックス。しかしこれは山鉾だけではなく、山鉾と一緒に練り歩く人や祭りを見物する人も描いた「すべて見せます祇園祭」みたいな作品。「紅花屏風」も絵によるドキュメントのような作品だったが、崋山は人々にあれこれ教えたくて仕方がない池上彰みたいな絵師だったのかも。
何箇所かの抜粋。
ところで高さのある山鉾は巻物という横長の紙面には不向き。それで崋山は大胆にトリミングして描いている。そのことが、いってみれば祇園祭図鑑のようなこの作品に絵としてのリズムを与えている。
下絵も実に綿密。資料的な価値も高いらしい。
とにかくすごい力作である。巻物だから縦は30センチ少々なので、15メートルの長さがあっても絵の大きさ的な迫力はない。それでも崋山の執念のようなものは伝わってくる。しかし、だからといってこの絵を見て楽しかった、何か揺さぶられたということでもない。貴重な記録を拝見いたしましたという感じ。私が絵画に求めているものとは方向が違うのだろう。
実は今回、展覧会を見終えた後のプチ幸せ感のようなものをあまり得られなかった。確かに絵は抜群に上手いし、描いてるものに対する愛情のようなものも感じる。でも突き抜け感が足りないというか、クリエイティブじゃないというか。
もっともこの時代の日本画には型というものがあっただろうし、絵は画家の自己表現じゃなくてクライアントの注文内容に沿って描くものだ。それはわかっちゃいるのだが、それでもスゴイ!と思う日本画もあるわけで。横山崋山のテクニックをもってしたらーーーと思うのは無い物ねだりかな。長らく忘れられていて、彼の再評価が始まったのは最近だから、また埋もれている作品があることを期待しよう。
おしまい
「花見図」
女性は日本髪だし桜の花見をしているのだから、描かれているのは日本の風景に間違いない。しかしどうしても中国風に見えてしまう。おそらく他の展示に中国風の絵が多く、それらと背景の色が同じだからかな。オソロシア刷り込み効果。
話は戻るが「紅花屏風」で人物が漫画的に見えると書いた。その理由のひとつに顔の形や表情の作り方のバリエーションが乏しいことが上げられる。つまり自分の持ちネタだけで人物を描いているから。マンガでもチョイ役やその他大勢役の人物の顔は、作品が違ってもだいたい同じで使い回しである。この「花見図」では15名が描かれているが、顔は5パターンくらいしかない。崋山の描く人物は動作が活き活きとしているのに、そのあたりが残念。
「夕顔棚納涼図」
国宝である久隅守景(くすみもりかげ)の「納涼図屏風」へのオマージュ。「納涼図屏風」は肩に力の入っていない味わい深い絵である。でも「最も国宝らしくない国宝」とも評される作品。それには同感で、もし私に国宝の選定権限があったら絶対に選んでいない。でもさすがに横山崋山は「納涼図屏風」の価値を見抜いていたんだろうな。
「大原女図」
鎌倉時代から昭和の初め頃まで、京都の大原に住む女性が薪を頭に載せて運んで行商していた。彼女たちを大原女(おおはらめ)と呼ぶ。それにしてもすごい薪の量にびっくり。頭で運ぶのが有名だが馬も使っていたことが伺える。
都のあった京都は郊外からの行商が盛んだった。その担い手は女性で三大行商女と呼べるのが、この大原女と、白川女と畑の姥。白川女は白川からやってくる花の行商。畑の姥(はたのおば または うば)は雲ヶ畑などの林業の盛んな地区から間伐材で作った床几(しょうぎ:ベンチみたいなもの)やハシゴを売りに来る。どの行商も基本は頭に載せて運ぶ。そういうのはアフリカ奥地の女性を連想するけれど、意外と人類共通の発想なのかもしれない。
最終の第6章が「描かれた祇園祭−《祇園祭礼図巻》の世界」。いってみれば崋山の風俗画から祇園祭だけを取り出した構成。
この「祇園祭礼図巻(1835〜1837年)は上下2巻の巻物で、それぞれ約15メートルの超大作。祇園祭といえば山鉾巡行がクライマックス。しかしこれは山鉾だけではなく、山鉾と一緒に練り歩く人や祭りを見物する人も描いた「すべて見せます祇園祭」みたいな作品。「紅花屏風」も絵によるドキュメントのような作品だったが、崋山は人々にあれこれ教えたくて仕方がない池上彰みたいな絵師だったのかも。
何箇所かの抜粋。
ところで高さのある山鉾は巻物という横長の紙面には不向き。それで崋山は大胆にトリミングして描いている。そのことが、いってみれば祇園祭図鑑のようなこの作品に絵としてのリズムを与えている。
下絵も実に綿密。資料的な価値も高いらしい。
とにかくすごい力作である。巻物だから縦は30センチ少々なので、15メートルの長さがあっても絵の大きさ的な迫力はない。それでも崋山の執念のようなものは伝わってくる。しかし、だからといってこの絵を見て楽しかった、何か揺さぶられたということでもない。貴重な記録を拝見いたしましたという感じ。私が絵画に求めているものとは方向が違うのだろう。
実は今回、展覧会を見終えた後のプチ幸せ感のようなものをあまり得られなかった。確かに絵は抜群に上手いし、描いてるものに対する愛情のようなものも感じる。でも突き抜け感が足りないというか、クリエイティブじゃないというか。
もっともこの時代の日本画には型というものがあっただろうし、絵は画家の自己表現じゃなくてクライアントの注文内容に沿って描くものだ。それはわかっちゃいるのだが、それでもスゴイ!と思う日本画もあるわけで。横山崋山のテクニックをもってしたらーーーと思うのは無い物ねだりかな。長らく忘れられていて、彼の再評価が始まったのは最近だから、また埋もれている作品があることを期待しよう。
おしまい
wassho at 23:32|Permalink│Comments(0)│
2018年10月14日
横山崋山 その3
第5章は「風俗−人々の共感」。今や風俗というとムフフなニュアンスになってしまうが、本来の意味は
ある時代や社会、ある地域や階層に特徴的にみられる、衣食住など日常生活の
しきたりや習わし、風習のこと。広く世相や生活文化の特色をいう場合もある。
(引用:ウィキペディア)
それで風俗画こそが横山崋山を崋山たらしめているジャンルだと思う。代表作がこの「紅花屏風」。制作は1823年から1825年。
紅花はキク科の植物。商品として馴染みがあるのは種から絞られる紅花油であるが、花を発酵・乾燥させて作る着色料も食品や化粧品に使われている。以前は繊維の染料としても。

「紅花屏風」は京都の紅花問屋が崋山に依頼したもので、描かれているのは紅花産地での生産や加工の風景。京都の商家は祇園祭の時に、家にある絵や屏風を人々に見せる習慣があり、その目的のために制作したようだ。今でいえば自社の商品をより知ってもらうPR活動といったところ。
崋山は紅花産地の埼玉と山形に何度も赴き、屏風の制作に6年を掛けている。その甲斐あって実にリアルで緻密な仕上がりの作品。まるで絵によるドキュメンタリー。今までに紹介した、空想の内容をお約束の作法で描いた中国風の絵もテクニックは見事だが、やはりその目で見て描いたものは圧倒的に活き活きしている。ぜひクリックして大きなサイズで見て欲しい。
上が右隻で下が左隻。餅状に加工された紅花の大きさから、右隻が埼玉、左隻が山形を描いたものとされている。左隻では港から北前船で紅花が江戸に向けて運ばれる様子も描かれている。フワーッと雲のようなものを描いて空間をワープするのが日本画の面白いところ。
一部をクローズアップした画像。
しかし、よくこれだけの人数を描き込んだなとも思う。総勢約200人。しかも背景として人がたくさんいますといった描き方ではなく、1人1人に役割を持たせている。崋山は絵だけではなく人間観察も好きだったに違いない。
ただ惜しむらくは、日本画なので人物描写に(多少の陰影は施されているが)立体感がなく漫画的に見えるところ。だから大作なのは感じられても何となく軽い。大作だからこそ余計にそう感じる気もする。もちろん日本画とはそういうものと言われればそうなのかもしれない。たから寿司とステーキを較べても意味がないのだが、私はステーキが好きということなんだろう。
ついでにもう1つ。畑で咲いている紅花は黄色い花がだんだんと赤みを帯びてくるが、紅色ではなくオレンジ色である。現地は見ているはずなのに、どうして加工後の紅色で花を描いたのか不思議。
参考までに紅花の加工を解説してくれるページ。
https://www.motoji.co.jp/report_yamagishikouichi_koubou_2009/
ーーー続く
ある時代や社会、ある地域や階層に特徴的にみられる、衣食住など日常生活の
しきたりや習わし、風習のこと。広く世相や生活文化の特色をいう場合もある。
(引用:ウィキペディア)
それで風俗画こそが横山崋山を崋山たらしめているジャンルだと思う。代表作がこの「紅花屏風」。制作は1823年から1825年。
紅花はキク科の植物。商品として馴染みがあるのは種から絞られる紅花油であるが、花を発酵・乾燥させて作る着色料も食品や化粧品に使われている。以前は繊維の染料としても。

「紅花屏風」は京都の紅花問屋が崋山に依頼したもので、描かれているのは紅花産地での生産や加工の風景。京都の商家は祇園祭の時に、家にある絵や屏風を人々に見せる習慣があり、その目的のために制作したようだ。今でいえば自社の商品をより知ってもらうPR活動といったところ。
崋山は紅花産地の埼玉と山形に何度も赴き、屏風の制作に6年を掛けている。その甲斐あって実にリアルで緻密な仕上がりの作品。まるで絵によるドキュメンタリー。今までに紹介した、空想の内容をお約束の作法で描いた中国風の絵もテクニックは見事だが、やはりその目で見て描いたものは圧倒的に活き活きしている。ぜひクリックして大きなサイズで見て欲しい。
上が右隻で下が左隻。餅状に加工された紅花の大きさから、右隻が埼玉、左隻が山形を描いたものとされている。左隻では港から北前船で紅花が江戸に向けて運ばれる様子も描かれている。フワーッと雲のようなものを描いて空間をワープするのが日本画の面白いところ。
一部をクローズアップした画像。
しかし、よくこれだけの人数を描き込んだなとも思う。総勢約200人。しかも背景として人がたくさんいますといった描き方ではなく、1人1人に役割を持たせている。崋山は絵だけではなく人間観察も好きだったに違いない。
ただ惜しむらくは、日本画なので人物描写に(多少の陰影は施されているが)立体感がなく漫画的に見えるところ。だから大作なのは感じられても何となく軽い。大作だからこそ余計にそう感じる気もする。もちろん日本画とはそういうものと言われればそうなのかもしれない。たから寿司とステーキを較べても意味がないのだが、私はステーキが好きということなんだろう。
ついでにもう1つ。畑で咲いている紅花は黄色い花がだんだんと赤みを帯びてくるが、紅色ではなくオレンジ色である。現地は見ているはずなのに、どうして加工後の紅色で花を描いたのか不思議。
参考までに紅花の加工を解説してくれるページ。
https://www.motoji.co.jp/report_yamagishikouichi_koubou_2009/
ーーー続く
wassho at 23:52|Permalink│Comments(0)│
2018年10月13日
横山崋山 その2
第2章は「人物−ユーモラスな表現」というタイトル。別にユーモラスに描かれているものばかりじゃないのだけれど、崋山の人物描写力を堪能しましょうというコーナーなんだろう。なお、ここでもすべて中国画風の作品である。
「唐子図屏風」 1826年
一隻(屏風1枚)が縦166センチ、横374センチと大きなサイズ。上が右隻(うせき)、下が左隻。この絵は当てはまらないが、もし屏風絵にストーリーがあるなら右隻から左隻、それぞれ右から左へと進行する。屏風は中国で生まれたもので縦書き漢字文化は右から左だから。
村の子供が思い思いに遊んでいる作品である。右隻中央のニワトリはただ眺めているだけじゃなくて闘鶏かもしれない。金屏風の豪華さと描かれている内容がミスマッチな気もするが、それが面白いというか新鮮。
ところで、ここまでの展示は水墨画ばかりだった。ほとんどモノトーンの世界だったので、鮮やかな彩色のこの屏風を見て何となくホッとした。写真でもそうだけれどモノトーンは色彩としてはシンプルなのに、心理的にはヘビーに感じているんだなと実感。
ブログに載せるサイズだととても小さくなってしまうので一部をアップで。なお写真をクリックすると拡大するので上の屏風でも試してみて。
前回のエントリーで絵が観念的になる、お約束のルールができてしまうことについて書いた。これなんかも典型例だと思う。子供達を愛くるしく描きたかったんだろう、あるいは子供は愛くるしくあるべきと考えていたのかもしれない。実際とてもふくよかでかわいく描けている。でもこんなにたくさんの子供が集まって、全員が揃いも揃って丸顔なんてことはないんじゃない?
「関羽図」
有名な三国志の武将。三国志は西暦180年から280年頃の出来事。まず歴史書として編纂され、その内容が講談などでエンタテイメント化されて民衆に伝わっていく。最終的に歴史小説としてまとめられたのは三国時代が終わって1200年後といわれている。日本では鎌倉時代から室町時代に変わろうとする頃。そして中国から日本に伝来したのが江戸初期。江戸後期の崋山の時代には、それぞれの登場人物はすっかりおなじみのものになっていたのだろう。だからこれはお約束的に描かざるを得ないか。
ちなみに三国志の概要はわかっているつもりだが小説を通読したことはない。
いくら100年の物語とはいえ長すぎるんだもん(^^ゞ
「鍾馗図」
鍾馗(しょうき)は中国の道教の神様。仙人や気功の「気」また太極図などが出てくるのが道教ね。この鍾馗には厄除けのご利益があるとされる。日本でも江戸時代に五月人形にしたり、屋根瓦の上に魔除けとして祀ったりしたらしい。
ところでこの絵は左足の向きがヘン。不可能な体勢ではないが何のためのポーズ?
「七福神酒宴図」 1819年
「西王母図」
彼女が持っている桃を食べると3000年の寿命を得られるという女性仙人。崋山は美人画も達者な腕前。それにしてもやはり絵には色があったほうがいい。
第3章は「花鳥−多彩なアニマルランド」と題されている。動物がメインのコーナー。花の絵もあったが画像が見つからなかったので紹介できず。
「虎図」
「松竹梅 鶴龍虎図」
「日の出・波に鶴図」
「鷲図」
さて日本画に多い虎について。
日本列島が大陸とつながっていた有史以前は別として、日本に野生の虎はいない。虎が初めて運ばれてきたのは平安時代とか、日本人が虎を見たのは豊臣秀吉による朝鮮出兵の時が最初など、生きた虎と日本人が関わった時期には諸説ある。しかし古代より虎の存在自体は知られていたようで、万葉集にも3首ほど虎が詠まれた歌が選ばれている。漢詩、絵、毛皮などがその情報源だったのだろう。ちなみに日本で最初の動物園である上野動物園に虎がやってきたのは1887年(明治20年)である。
江戸時代には虎の見せ物小屋があったともいわれるが、基本的に虎の姿は絵で知るものだったはず。だから当時の日本画は、虎を見たことがない絵師の描く、昔からある虎の絵の焼き直しだからワンパターンである。無駄に勇ましく力強いし、なぜかとてもギョロ目に描かれたものが多い。だいたい虎は基本的に木に登らない。
あの円山応挙もそういうお約束の虎を描いている。しかしさすがに写生の第一人者。虎は猫の親戚だということを知ったらしく、猫を観察して虎を描いたものがある。猫にしか見えなくて笑えるが(^^ゞ
<参考資料:円山応挙の虎>
ちなみに猫は明るいところで、目の瞳孔が細長く縦一直線になる。しかし虎はそうはならずに人間と同じく丸いまま。だから虎の絵で縦長の瞳孔だったら、それは猫を参考に描いたものである。当時の絵師はそんなことでバレるとは思っていなかっただろうが。
第4章は「山水−華山と旅する名所」。つまり風景画のコーナー。
「城州白河之図」 1813年
何となく中国風の雰囲気が漂う。しかしタイトルを見ると城州とは山城国(やましろのくに)のことで、つまりは京都。今は岡崎と呼ばれるあたりが南白河で、そこから現在の北白川までが白河。ところでこれはいつ頃の白河を描いたものなんだろう。江戸時代なら白河はもっと開けていたはずと思うのだが。
「富士山図」
少し富士山が細長いのは崋山の美意識かな。描いた場所は旅の途中の駿河国・吉原宿、現在の静岡県富士市といわれている。しかし海越しに愛鷹山を手前に富士山を見るなら、伊豆半島の西側付け根まで行かなければならないはず。バイクであちこちから富士山を見てきた私の目はごまかせないぞ(^^ゞ まったくの空想ではないにしろ、かなり「盛った」絵のようだ。
「雪景山水人物図」
これは円山応挙の「雪松図屏風」と同じように雪の部分は、白く塗っているのではなく何も塗らずに描いている。もっとも説明がないと気付かないが。
ーーー続く
「唐子図屏風」 1826年
一隻(屏風1枚)が縦166センチ、横374センチと大きなサイズ。上が右隻(うせき)、下が左隻。この絵は当てはまらないが、もし屏風絵にストーリーがあるなら右隻から左隻、それぞれ右から左へと進行する。屏風は中国で生まれたもので縦書き漢字文化は右から左だから。
村の子供が思い思いに遊んでいる作品である。右隻中央のニワトリはただ眺めているだけじゃなくて闘鶏かもしれない。金屏風の豪華さと描かれている内容がミスマッチな気もするが、それが面白いというか新鮮。
ところで、ここまでの展示は水墨画ばかりだった。ほとんどモノトーンの世界だったので、鮮やかな彩色のこの屏風を見て何となくホッとした。写真でもそうだけれどモノトーンは色彩としてはシンプルなのに、心理的にはヘビーに感じているんだなと実感。
ブログに載せるサイズだととても小さくなってしまうので一部をアップで。なお写真をクリックすると拡大するので上の屏風でも試してみて。
前回のエントリーで絵が観念的になる、お約束のルールができてしまうことについて書いた。これなんかも典型例だと思う。子供達を愛くるしく描きたかったんだろう、あるいは子供は愛くるしくあるべきと考えていたのかもしれない。実際とてもふくよかでかわいく描けている。でもこんなにたくさんの子供が集まって、全員が揃いも揃って丸顔なんてことはないんじゃない?
「関羽図」
有名な三国志の武将。三国志は西暦180年から280年頃の出来事。まず歴史書として編纂され、その内容が講談などでエンタテイメント化されて民衆に伝わっていく。最終的に歴史小説としてまとめられたのは三国時代が終わって1200年後といわれている。日本では鎌倉時代から室町時代に変わろうとする頃。そして中国から日本に伝来したのが江戸初期。江戸後期の崋山の時代には、それぞれの登場人物はすっかりおなじみのものになっていたのだろう。だからこれはお約束的に描かざるを得ないか。
ちなみに三国志の概要はわかっているつもりだが小説を通読したことはない。
いくら100年の物語とはいえ長すぎるんだもん(^^ゞ
「鍾馗図」
鍾馗(しょうき)は中国の道教の神様。仙人や気功の「気」また太極図などが出てくるのが道教ね。この鍾馗には厄除けのご利益があるとされる。日本でも江戸時代に五月人形にしたり、屋根瓦の上に魔除けとして祀ったりしたらしい。
ところでこの絵は左足の向きがヘン。不可能な体勢ではないが何のためのポーズ?
「七福神酒宴図」 1819年
「西王母図」
彼女が持っている桃を食べると3000年の寿命を得られるという女性仙人。崋山は美人画も達者な腕前。それにしてもやはり絵には色があったほうがいい。
第3章は「花鳥−多彩なアニマルランド」と題されている。動物がメインのコーナー。花の絵もあったが画像が見つからなかったので紹介できず。
「虎図」
「松竹梅 鶴龍虎図」
「日の出・波に鶴図」
「鷲図」
さて日本画に多い虎について。
日本列島が大陸とつながっていた有史以前は別として、日本に野生の虎はいない。虎が初めて運ばれてきたのは平安時代とか、日本人が虎を見たのは豊臣秀吉による朝鮮出兵の時が最初など、生きた虎と日本人が関わった時期には諸説ある。しかし古代より虎の存在自体は知られていたようで、万葉集にも3首ほど虎が詠まれた歌が選ばれている。漢詩、絵、毛皮などがその情報源だったのだろう。ちなみに日本で最初の動物園である上野動物園に虎がやってきたのは1887年(明治20年)である。
江戸時代には虎の見せ物小屋があったともいわれるが、基本的に虎の姿は絵で知るものだったはず。だから当時の日本画は、虎を見たことがない絵師の描く、昔からある虎の絵の焼き直しだからワンパターンである。無駄に勇ましく力強いし、なぜかとてもギョロ目に描かれたものが多い。だいたい虎は基本的に木に登らない。
あの円山応挙もそういうお約束の虎を描いている。しかしさすがに写生の第一人者。虎は猫の親戚だということを知ったらしく、猫を観察して虎を描いたものがある。猫にしか見えなくて笑えるが(^^ゞ
<参考資料:円山応挙の虎>
ちなみに猫は明るいところで、目の瞳孔が細長く縦一直線になる。しかし虎はそうはならずに人間と同じく丸いまま。だから虎の絵で縦長の瞳孔だったら、それは猫を参考に描いたものである。当時の絵師はそんなことでバレるとは思っていなかっただろうが。
第4章は「山水−華山と旅する名所」。つまり風景画のコーナー。
「城州白河之図」 1813年
何となく中国風の雰囲気が漂う。しかしタイトルを見ると城州とは山城国(やましろのくに)のことで、つまりは京都。今は岡崎と呼ばれるあたりが南白河で、そこから現在の北白川までが白河。ところでこれはいつ頃の白河を描いたものなんだろう。江戸時代なら白河はもっと開けていたはずと思うのだが。
「富士山図」
少し富士山が細長いのは崋山の美意識かな。描いた場所は旅の途中の駿河国・吉原宿、現在の静岡県富士市といわれている。しかし海越しに愛鷹山を手前に富士山を見るなら、伊豆半島の西側付け根まで行かなければならないはず。バイクであちこちから富士山を見てきた私の目はごまかせないぞ(^^ゞ まったくの空想ではないにしろ、かなり「盛った」絵のようだ。
「雪景山水人物図」
これは円山応挙の「雪松図屏風」と同じように雪の部分は、白く塗っているのではなく何も塗らずに描いている。もっとも説明がないと気付かないが。
ーーー続く
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2018年10月12日
横山崋山
先日、丸の内まで出かけたついでに東京駅にある東京ステーションギャラリーに立ち寄ってきた。開催されているのは江戸時代後期の絵師である横山崋山の展覧会。
横山崋山(かざん)は夏目漱石の坊ちゃんにその名前が登場したり、日本美術を広く海外に紹介したフェノロサからも高い評価を得るなど、明治時代までは著名な存在だったらしい。しかし特定の流派に所属していない、様々な画風の絵を描いたのが災いしてアイデンティティが希薄、作品の多くが海外に流出したなどの理由によって長らく忘れられた存在に。再評価され始めたのはごく最近で、この規模の展覧会が開かれたのも今回が初めてとのこと。
でもまあ、この分野にあまり詳しくない身としては、横山といいえば横山大観で、崋山といえば渡辺崋山と、ビッグネームがふたつ並んでいる横山崋山は初めて知った気がしないのだが(^^ゞ ついでに横山崋山は1781または1784年生まれで1837年没。ペリー来航が1853年で明治維新が1868年だから幕末の少し前に活躍した人物。なお彼について書かれた資料は極めて少ないらしい。確かなのは残された作品と今も京都にある墓だけともいわれているくらい。
話はそれるが日本で今、展覧会に一番人を集められる画家は誰か。モナリザでもやってくれば別だが、おそらく伊藤若冲(じゃくちゅう)だろう。2016年に開かれた展覧会ではなんと5時間待ちでも人々が行列した。(私は70分待ちの段階で諦めたのを未だに後悔している)
伊藤若冲も江戸時代中期に活躍し名声を得たが、明治以降は忘れられて再評価されたのは1970年代になってからである。それが今や押しも押されぬスーパースター。その驚異のV字回復にあやかりたいのか、どうも日本画界隈では第2の伊藤若冲を生み出そうという魂胆があるみたいだ。急激な西洋化が進んだ明治に、時代に埋もれてしまった江戸時代の絵師は相当数いる。それを発掘して第2の伊藤若冲、伊藤若冲の再来、伊藤若冲の後継者とマーケティングされている例がチラホラ。
横山崋山もそんな扱われ方をされているのがどうもね。
さて展覧会は6つの章立てで構成されている。最初は「蕭白を学ぶ−華山の出発点」。横山崋山の作品は、ごく一部を除いて制作した時期がわかっていない。だから内容別の構成なのだと思う。
蕭白というのは曾我蕭白(そが しょうはく)という横山崋山より50年ほど前に生まれた絵師のこと。画風は極めて正調だが内容的にエキセントリックな作品が多いので奇想の絵師などと評される。横山崋山が養子に入り育った横山家は、その曾我蕭白のパトロンで、彼は曾我蕭白の絵には馴染みがあったらしい。展覧会では横山崋山が曾我蕭白を模写した作品が、オリジナルの曾我蕭白と並んで展示されていた。
「蝦蟇仙人図(がませんにんず)」 曽我蕭白
「蝦蟇仙人図」 横山崋山
先に模写と書いたが100%のコピーを描こうとしたのではなく、今風にいえば崋山が蕭白をリスペクトしてオマージュとして捧げた作品。両者を較べると、一言でいえば崋山のほうが洗練されているし、デッサン力という表現が適当かどうかわからないが人体の描き方に無理がなく躍動感もある。しかし見るものの目を引き魂を揺さぶるのは蕭白のほうだと思う。鬼気迫る感じの蕭白に対して崋山はアッサリと淡泊。
おそらく最後のまとめでも書くと思うが「崋山の絵は上手いのだけれど、どこか物足りない」という印象は、この最初の作品から引きずることになる。
※これ以降は特に記さない限り、すべて横山崋山の作品。
「寒山捨得図」
「蘭亭曲水図」
どちらも中国絵画でよくもちいられるモチーフの作品。寒山捨得は寒山(かんざん)と捨得(じっとく)という唐の時代の僧侶の名前から。蘭亭曲水図は書聖と称される中国の書家の王義之に関連するもの。彼が蘭亭という別荘で開いた宴会は絵としてよく描かれ、それらは蘭亭曲水図と呼ばれる。
江戸時代の日本画には中国風の絵も多い。それは外国を描くのが「絵になる」からだ。いつの時代だって非日常性は絵に求められるものであり、その表現手段のひとつが外国を描く、あるいは外国的に描くことなのだと思う。現在の西洋絵画のポジションが江戸時代の中国風作品。しかし鎖国状態の日本では、古くからある中国の絵、あるいはそれを参考に描いた絵がベースとなる。つまり外国そのもののオリジナルとは接しないまったくの空想。だからだんだんと観念的になるし、あれこれお約束的なルールが出来てしまう。私の鑑賞眼のレベルを横に置いていえば、そういう絵は似たり寄ったりで、面白いと感じたことはあまりない。
ーーー続く
横山崋山(かざん)は夏目漱石の坊ちゃんにその名前が登場したり、日本美術を広く海外に紹介したフェノロサからも高い評価を得るなど、明治時代までは著名な存在だったらしい。しかし特定の流派に所属していない、様々な画風の絵を描いたのが災いしてアイデンティティが希薄、作品の多くが海外に流出したなどの理由によって長らく忘れられた存在に。再評価され始めたのはごく最近で、この規模の展覧会が開かれたのも今回が初めてとのこと。
でもまあ、この分野にあまり詳しくない身としては、横山といいえば横山大観で、崋山といえば渡辺崋山と、ビッグネームがふたつ並んでいる横山崋山は初めて知った気がしないのだが(^^ゞ ついでに横山崋山は1781または1784年生まれで1837年没。ペリー来航が1853年で明治維新が1868年だから幕末の少し前に活躍した人物。なお彼について書かれた資料は極めて少ないらしい。確かなのは残された作品と今も京都にある墓だけともいわれているくらい。
話はそれるが日本で今、展覧会に一番人を集められる画家は誰か。モナリザでもやってくれば別だが、おそらく伊藤若冲(じゃくちゅう)だろう。2016年に開かれた展覧会ではなんと5時間待ちでも人々が行列した。(私は70分待ちの段階で諦めたのを未だに後悔している)
伊藤若冲も江戸時代中期に活躍し名声を得たが、明治以降は忘れられて再評価されたのは1970年代になってからである。それが今や押しも押されぬスーパースター。その驚異のV字回復にあやかりたいのか、どうも日本画界隈では第2の伊藤若冲を生み出そうという魂胆があるみたいだ。急激な西洋化が進んだ明治に、時代に埋もれてしまった江戸時代の絵師は相当数いる。それを発掘して第2の伊藤若冲、伊藤若冲の再来、伊藤若冲の後継者とマーケティングされている例がチラホラ。
横山崋山もそんな扱われ方をされているのがどうもね。
さて展覧会は6つの章立てで構成されている。最初は「蕭白を学ぶ−華山の出発点」。横山崋山の作品は、ごく一部を除いて制作した時期がわかっていない。だから内容別の構成なのだと思う。
蕭白というのは曾我蕭白(そが しょうはく)という横山崋山より50年ほど前に生まれた絵師のこと。画風は極めて正調だが内容的にエキセントリックな作品が多いので奇想の絵師などと評される。横山崋山が養子に入り育った横山家は、その曾我蕭白のパトロンで、彼は曾我蕭白の絵には馴染みがあったらしい。展覧会では横山崋山が曾我蕭白を模写した作品が、オリジナルの曾我蕭白と並んで展示されていた。
「蝦蟇仙人図(がませんにんず)」 曽我蕭白
「蝦蟇仙人図」 横山崋山
先に模写と書いたが100%のコピーを描こうとしたのではなく、今風にいえば崋山が蕭白をリスペクトしてオマージュとして捧げた作品。両者を較べると、一言でいえば崋山のほうが洗練されているし、デッサン力という表現が適当かどうかわからないが人体の描き方に無理がなく躍動感もある。しかし見るものの目を引き魂を揺さぶるのは蕭白のほうだと思う。鬼気迫る感じの蕭白に対して崋山はアッサリと淡泊。
おそらく最後のまとめでも書くと思うが「崋山の絵は上手いのだけれど、どこか物足りない」という印象は、この最初の作品から引きずることになる。
※これ以降は特に記さない限り、すべて横山崋山の作品。
「寒山捨得図」
「蘭亭曲水図」
どちらも中国絵画でよくもちいられるモチーフの作品。寒山捨得は寒山(かんざん)と捨得(じっとく)という唐の時代の僧侶の名前から。蘭亭曲水図は書聖と称される中国の書家の王義之に関連するもの。彼が蘭亭という別荘で開いた宴会は絵としてよく描かれ、それらは蘭亭曲水図と呼ばれる。
江戸時代の日本画には中国風の絵も多い。それは外国を描くのが「絵になる」からだ。いつの時代だって非日常性は絵に求められるものであり、その表現手段のひとつが外国を描く、あるいは外国的に描くことなのだと思う。現在の西洋絵画のポジションが江戸時代の中国風作品。しかし鎖国状態の日本では、古くからある中国の絵、あるいはそれを参考に描いた絵がベースとなる。つまり外国そのもののオリジナルとは接しないまったくの空想。だからだんだんと観念的になるし、あれこれお約束的なルールが出来てしまう。私の鑑賞眼のレベルを横に置いていえば、そういう絵は似たり寄ったりで、面白いと感じたことはあまりない。
ーーー続く
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