歴史
2026年01月27日
観泉寺でロウバイ その3
ロウバイの花だけではなく、
ロウバイのある風景を撮ろうと試みるも花数が少ないので冴えない。
諦めてきれいに整えられたマキでも撮りましょう。
境内には竹林もある。
まるで京都にでも来たような思いになるものの、
竹林が続いているのはコーナーを曲がった先までと短いよ(^^ゞ
竹林は鐘楼の裏手に。
その手前のウメが咲きそろえばバエる眺めになるはず。
さて初回に書いたこのあたりは江戸時代に今川氏の領地で、この観泉寺もその菩提寺というお話。石標に記されていた「今川氏累代墓」は東京都の指定旧跡になっている。
それが墓地エリアにあるこの一画。
ところろで今川氏累代といわれても、今川氏なんて信長に敗れた今川義元しか知らないし、その後も続いていたの?という人は多いと思う。私もそうだったので少し調べてみた。
義元(よしもと)は今川氏の11代目。その頃には東海地方において圧倒的な勢力を誇っていた。家康が8歳から今川家に人質として差し出されていたのは有名な話。
尾張に進軍してきた今川軍2万5000人に対して、2000人の兵力で織田軍が迎え撃った桶狭間の戦いが1560年。義元は討ち取られたとはいえ、これは義元の本陣だけを奇襲したゲリラ攻撃のようなもので、軍事勢力的に今川軍は決定的なダメージは負っていない。
義元の後を継いだのは嫡男(ちゃくなん:正妻の産んだ長男)の氏真(うじざね)。当時23歳。オトウチャンの義元は武田や北条とも同盟を結び、今川家の領地を最大限にまで拡大し「海道一の弓取り」と称された人物。海道とは東海道であり、現在のイメージと違って茨城から三重までの太平洋沿岸エリアを指す。また弓取りとは戦国大名の意。
そんな大物の息子がヘタレなのはよくある話で、あれよあれよという間に配下の武将に離反され、隣国の武田や徳川にも攻め込まれる。ヨメの実家の北条氏に援軍を求めたりしたものの、最終的には1569年にかつては人質として預かっていた家康の配下に入る。これをもって今川家は滅亡した。桶狭間からわずかに9年。
ところで歴史には滅亡との言葉がよく出てくる。辞書を引くと「ほろびる、絶えてなくなる」などと書いてある。全滅とイメージが重なるので何もかも消えてしまった響きがあるが、これは基本的に統治者ではなくなったとの意味。平家の滅亡のように主要メンバーがほとんど死亡するのは例外。今回だって別に氏真(うじざね)やその一族が皆殺しにされたわけじゃない。
家康配下の氏真(うじざね)は信長・家康連合軍と武田勝頼の軍勢が衝突した1575年の長篠の戦いなどには(後方支援部隊として)参加しているが、50歳過ぎの1590年頃に京都に移住して隠居生活に入り、和歌や蹴鞠(けまり)など文化人として過ごす。
その当時に家康より与えられていた石高は500石。かつての今川家40万石と較べれば800分の1。もっとも石高(領地の米生産量)のうち大名の取り分は約4割で、さらにその半分は家来の給料などに当てる必要があり、実質的な収入は石高の2割=40万石×0.2=8万石。それでも8万石÷500石=160分の1だから気絶しそうなくらいの年俸ダウンには違いないが。1石が今の貨幣価値でいくらかは諸説あり、その中間的な値を採って10万円とすると8万石は80億円、500石は5000万円。その計算が妥当だとすれば隠居暮らしには十分な年収だったかも。
晩年は江戸に移り、家康から品川に屋敷を与えられている。1614年に77歳で死去(大坂冬の陣のあった年)。同じく武田信玄という偉大な父親を持つ勝頼と較べれば、氏真(うじざね)は没落したとはいえそれなりに幸せな人生だったようにも思える。
そして氏真(うじざね)の孫、義元のひ孫が 直房(なおふさ)。彼が14歳のときに父親の範以(のりもち)が亡くなり母親は公家と再婚したので、それ以降は祖父である氏真に育てられる。生まれ育ったのも京都であり、そこで文化人としての教養も受け継いだと思われ、家光の時代に高家(こうけ)に登用される。高家とは幕府において朝廷関係の儀式典礼を司る役職である。
ところで高家と聞いて思い浮かぶのは忠臣蔵で浅野内匠頭(たくみのかみ)に斬りつけられた吉良上野介(きら・こうずけのすけ)。朝廷からの勅使接待の現場を任されたのが浅野で、その指導監督にあたったのが高家である上野介。田舎大名の浅野をバカにした上野介のイジメにぶち切れて斬りつけたのが忠臣蔵事件の始まり。
上野介以外の高家なんて今まで聞いたこともなかったが、
なんと今川家と吉良家は親戚だった!
そのルーツを探ると、
鎌倉前期の武将であり幕府有力御家人の足利宗家3代目当主:足利義氏(よしうじ)の庶長子(しょちょうし:正妻以外から生まれた長男)が足利長子(ながうじ)。ちなみに室町幕府を起こした足利尊氏は足利宗家8代目になる。
長子(ながうじ)は後に領地の三河国(愛知県東部)吉良荘の名前を取って吉良長氏と名乗り彼が吉良家の始祖となる。その次男の国氏(くにうじ)が三河国幡豆郡今川庄を領して今川姓を名乗ったのが今川家の始まり。つまり吉良家は足利家の傍流であり、今川家は吉良家の分家。
どちらも足利一門において名門とされ「将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と評されたほど。言ってみれば江戸幕府の尾張・紀伊・水戸の徳川御三家のようなポジション。
イヤ〜それにしても、忠臣蔵の吉良上野介と桶狭間の今川義元の血縁がつながっていたとはビックリだわ。歴史ははおもしろいというか世の中は狭いね。
さて高家となった直房(なおふさ)は様々な職務をこなし一番の活躍は東照宮関連。ご存じのように家康を祀る神社であるが、当初に朝廷から示された名前は一段格下の東照「社」。これを「宮」にしたかったのが家光。本来「宮」は皇族男子を祀った神社に与えられる名前なので、これはかなり強引な要求。しかし直房は氏真以来培ってきた朝廷とのコネクションを生かして交渉し見事に宮号の宣下を得る。
この功績により直房は観泉寺周辺の3つの村を領地として与えられる。その石高は500石。氏真(うじざね)が家康から与えられていた500石も相続していて合計1000石。先ほどの計算に当てはめればめでたく「億り人」となり今川家中興の祖として賞賛されるようになった。
墓地にある説明看板。
ここに書かれている「義元から三代目となる直房」とはちょっと説明不足。三代目というと孫だけれど直房は義元のひ孫である。これには義元が今川家11代目、その子の氏真(うじざね)が12代目で、氏真の子=直房の父の範以(のりもち)が38歳と若くして亡くなったのでまだ家督を継いでおらず、その子の直房が13代目となった背景がある。それで今川家当主の順で数えると「義元から三代目」との表現になる。
この説明書きによると子孫やその妻など20名の墓がある。
直房の墓は一番右にある丸い石柱。
中興の祖の割にはあっさりしている。
右から4番目が氏真で最も大きい。その隣が氏真の妻で同じ造り。さらに隣が範以(のりもち)で次にその妻が続く。それぞれ夫婦で墓石デザインを揃えているようだ。直房の妻の墓は一番左でこの写真には写っていない。
なお江戸時代に今川家は幕末まで11代続いたものの、23代当主の範叙(のりのぶ)の子供は18歳で夭折したため後継者がおらず、彼の代で今川宗家の系統は断絶した。範叙が亡くなったのは明治20年(1887年)。桶狭間の戦いから数えれば327年後。誰だ、桶狭間で今川氏は終わったなんて言ったのは(^^ゞ
歴史のお勉強はこれくらいにして、
観泉寺を退出。
初回に書いた山門を出た先の、
観泉寺の敷地と思われる場所に立ち寄ってみる。
まずは塀(へい)に囲まれた左側。
ウメがきれいに咲いていたので園内もと期待したのに、
門をくぐった先にお地蔵さんなどの石像があっただけで、
ここ以外は入れないようになっていた。
右側の敷地は広場になっていて、同じくお地蔵さんその他の石柱や石仏が多数並ぶ。こちらは屋根付き。観泉寺の公式ホームページにこのエリアの記載はなし。
左側も含めてすべての石柱石仏の前にはペットボトルのお茶が供えられていたのに、このお地蔵さんにはなし。ナンデ?
いずれにせよどれもかなり古いもので200〜300年くらいは経っていそう。おそらく周辺各地にあった石柱石仏を、道路拡張工事など何らかの理由により移転したのだと思われる。
話をロウバイに戻すと、今回は訪れた時期が遅く咲きっぷりはイマイチだったが、それは別としても境内にロウバイは3本あるだけ(1本は植え込みの奥にあって近づけなかったのでブログには書いていない)。だからロウバイ目当てなら遠くから見に来るほどの場所ではない。しかしこの寺の静謐で凜とした美しさは特筆もの。一度は訪れておいて損はしない。私もまた別の季節に訪れるつもり。
ところでこんな雰囲気の寺は他にもあるのかな。
調べたいのだけれど、どうやって調べれば検索すればいいのか思案中。
おしまい
ロウバイのある風景を撮ろうと試みるも花数が少ないので冴えない。
諦めてきれいに整えられたマキでも撮りましょう。
境内には竹林もある。
まるで京都にでも来たような思いになるものの、
竹林が続いているのはコーナーを曲がった先までと短いよ(^^ゞ
竹林は鐘楼の裏手に。
その手前のウメが咲きそろえばバエる眺めになるはず。
さて初回に書いたこのあたりは江戸時代に今川氏の領地で、この観泉寺もその菩提寺というお話。石標に記されていた「今川氏累代墓」は東京都の指定旧跡になっている。
それが墓地エリアにあるこの一画。
ところろで今川氏累代といわれても、今川氏なんて信長に敗れた今川義元しか知らないし、その後も続いていたの?という人は多いと思う。私もそうだったので少し調べてみた。
義元(よしもと)は今川氏の11代目。その頃には東海地方において圧倒的な勢力を誇っていた。家康が8歳から今川家に人質として差し出されていたのは有名な話。
尾張に進軍してきた今川軍2万5000人に対して、2000人の兵力で織田軍が迎え撃った桶狭間の戦いが1560年。義元は討ち取られたとはいえ、これは義元の本陣だけを奇襲したゲリラ攻撃のようなもので、軍事勢力的に今川軍は決定的なダメージは負っていない。
義元の後を継いだのは嫡男(ちゃくなん:正妻の産んだ長男)の氏真(うじざね)。当時23歳。オトウチャンの義元は武田や北条とも同盟を結び、今川家の領地を最大限にまで拡大し「海道一の弓取り」と称された人物。海道とは東海道であり、現在のイメージと違って茨城から三重までの太平洋沿岸エリアを指す。また弓取りとは戦国大名の意。
そんな大物の息子がヘタレなのはよくある話で、あれよあれよという間に配下の武将に離反され、隣国の武田や徳川にも攻め込まれる。ヨメの実家の北条氏に援軍を求めたりしたものの、最終的には1569年にかつては人質として預かっていた家康の配下に入る。これをもって今川家は滅亡した。桶狭間からわずかに9年。
ところで歴史には滅亡との言葉がよく出てくる。辞書を引くと「ほろびる、絶えてなくなる」などと書いてある。全滅とイメージが重なるので何もかも消えてしまった響きがあるが、これは基本的に統治者ではなくなったとの意味。平家の滅亡のように主要メンバーがほとんど死亡するのは例外。今回だって別に氏真(うじざね)やその一族が皆殺しにされたわけじゃない。
家康配下の氏真(うじざね)は信長・家康連合軍と武田勝頼の軍勢が衝突した1575年の長篠の戦いなどには(後方支援部隊として)参加しているが、50歳過ぎの1590年頃に京都に移住して隠居生活に入り、和歌や蹴鞠(けまり)など文化人として過ごす。
その当時に家康より与えられていた石高は500石。かつての今川家40万石と較べれば800分の1。もっとも石高(領地の米生産量)のうち大名の取り分は約4割で、さらにその半分は家来の給料などに当てる必要があり、実質的な収入は石高の2割=40万石×0.2=8万石。それでも8万石÷500石=160分の1だから気絶しそうなくらいの年俸ダウンには違いないが。1石が今の貨幣価値でいくらかは諸説あり、その中間的な値を採って10万円とすると8万石は80億円、500石は5000万円。その計算が妥当だとすれば隠居暮らしには十分な年収だったかも。
晩年は江戸に移り、家康から品川に屋敷を与えられている。1614年に77歳で死去(大坂冬の陣のあった年)。同じく武田信玄という偉大な父親を持つ勝頼と較べれば、氏真(うじざね)は没落したとはいえそれなりに幸せな人生だったようにも思える。
そして氏真(うじざね)の孫、義元のひ孫が 直房(なおふさ)。彼が14歳のときに父親の範以(のりもち)が亡くなり母親は公家と再婚したので、それ以降は祖父である氏真に育てられる。生まれ育ったのも京都であり、そこで文化人としての教養も受け継いだと思われ、家光の時代に高家(こうけ)に登用される。高家とは幕府において朝廷関係の儀式典礼を司る役職である。
ところで高家と聞いて思い浮かぶのは忠臣蔵で浅野内匠頭(たくみのかみ)に斬りつけられた吉良上野介(きら・こうずけのすけ)。朝廷からの勅使接待の現場を任されたのが浅野で、その指導監督にあたったのが高家である上野介。田舎大名の浅野をバカにした上野介のイジメにぶち切れて斬りつけたのが忠臣蔵事件の始まり。
上野介以外の高家なんて今まで聞いたこともなかったが、
なんと今川家と吉良家は親戚だった!
そのルーツを探ると、
鎌倉前期の武将であり幕府有力御家人の足利宗家3代目当主:足利義氏(よしうじ)の庶長子(しょちょうし:正妻以外から生まれた長男)が足利長子(ながうじ)。ちなみに室町幕府を起こした足利尊氏は足利宗家8代目になる。
長子(ながうじ)は後に領地の三河国(愛知県東部)吉良荘の名前を取って吉良長氏と名乗り彼が吉良家の始祖となる。その次男の国氏(くにうじ)が三河国幡豆郡今川庄を領して今川姓を名乗ったのが今川家の始まり。つまり吉良家は足利家の傍流であり、今川家は吉良家の分家。
どちらも足利一門において名門とされ「将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と評されたほど。言ってみれば江戸幕府の尾張・紀伊・水戸の徳川御三家のようなポジション。
イヤ〜それにしても、忠臣蔵の吉良上野介と桶狭間の今川義元の血縁がつながっていたとはビックリだわ。歴史ははおもしろいというか世の中は狭いね。
さて高家となった直房(なおふさ)は様々な職務をこなし一番の活躍は東照宮関連。ご存じのように家康を祀る神社であるが、当初に朝廷から示された名前は一段格下の東照「社」。これを「宮」にしたかったのが家光。本来「宮」は皇族男子を祀った神社に与えられる名前なので、これはかなり強引な要求。しかし直房は氏真以来培ってきた朝廷とのコネクションを生かして交渉し見事に宮号の宣下を得る。
この功績により直房は観泉寺周辺の3つの村を領地として与えられる。その石高は500石。氏真(うじざね)が家康から与えられていた500石も相続していて合計1000石。先ほどの計算に当てはめればめでたく「億り人」となり今川家中興の祖として賞賛されるようになった。
墓地にある説明看板。
ここに書かれている「義元から三代目となる直房」とはちょっと説明不足。三代目というと孫だけれど直房は義元のひ孫である。これには義元が今川家11代目、その子の氏真(うじざね)が12代目で、氏真の子=直房の父の範以(のりもち)が38歳と若くして亡くなったのでまだ家督を継いでおらず、その子の直房が13代目となった背景がある。それで今川家当主の順で数えると「義元から三代目」との表現になる。
この説明書きによると子孫やその妻など20名の墓がある。
直房の墓は一番右にある丸い石柱。
中興の祖の割にはあっさりしている。
右から4番目が氏真で最も大きい。その隣が氏真の妻で同じ造り。さらに隣が範以(のりもち)で次にその妻が続く。それぞれ夫婦で墓石デザインを揃えているようだ。直房の妻の墓は一番左でこの写真には写っていない。
なお江戸時代に今川家は幕末まで11代続いたものの、23代当主の範叙(のりのぶ)の子供は18歳で夭折したため後継者がおらず、彼の代で今川宗家の系統は断絶した。範叙が亡くなったのは明治20年(1887年)。桶狭間の戦いから数えれば327年後。誰だ、桶狭間で今川氏は終わったなんて言ったのは(^^ゞ
歴史のお勉強はこれくらいにして、
観泉寺を退出。
初回に書いた山門を出た先の、
観泉寺の敷地と思われる場所に立ち寄ってみる。
まずは塀(へい)に囲まれた左側。
ウメがきれいに咲いていたので園内もと期待したのに、
門をくぐった先にお地蔵さんなどの石像があっただけで、
ここ以外は入れないようになっていた。
右側の敷地は広場になっていて、同じくお地蔵さんその他の石柱や石仏が多数並ぶ。こちらは屋根付き。観泉寺の公式ホームページにこのエリアの記載はなし。
左側も含めてすべての石柱石仏の前にはペットボトルのお茶が供えられていたのに、このお地蔵さんにはなし。ナンデ?
いずれにせよどれもかなり古いもので200〜300年くらいは経っていそう。おそらく周辺各地にあった石柱石仏を、道路拡張工事など何らかの理由により移転したのだと思われる。
話をロウバイに戻すと、今回は訪れた時期が遅く咲きっぷりはイマイチだったが、それは別としても境内にロウバイは3本あるだけ(1本は植え込みの奥にあって近づけなかったのでブログには書いていない)。だからロウバイ目当てなら遠くから見に来るほどの場所ではない。しかしこの寺の静謐で凜とした美しさは特筆もの。一度は訪れておいて損はしない。私もまた別の季節に訪れるつもり。
ところでこんな雰囲気の寺は他にもあるのかな。
調べたいのだけれど、どうやって調べれば検索すればいいのか思案中。
おしまい
wassho at 22:15|Permalink│Comments(0)│
2025年12月22日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その11
「その10」で1592〜1593年にイエズス会が発行した、宣教師の語学教材である天草版平家物語にニフォン(NIFON)とニッポン(Nippon)の読みが掲載されているのを紹介した。そしてブログタイトルにあるジッポンも同じくイエズス会が1603〜1604年に編纂した日葡辞書(にっぽ辞書)に載っている。
葡はポルトガルを意味し日葡辞書とは日本語・ポルトガル語辞書。漢字表記のポルトガルは葡萄牙となる。カタカナ国名の漢字表記はほとんどが中国語での当て字で、ポルトガルがワインの産地だからといって国名とブドウは関係ない。ところで漢字一文字で表す英仏伊独蘭露米加印豪などは馴染みがあっても葡はわからないね。ポルトガルの隣のスペインは西なのをギリ知っている程度。フルネームでは西班牙。
これがイエズス会の日葡辞書で現存するのは世界に4冊。約3万2000語を収録している。広辞苑は25万語だが小学生の学習用国語辞典だと3〜4万語程度。イエズス会が最初に来日したのは1549年。わずか50年でまったく未知の言語だった日本語でこれだけの辞書を作ったのは、当時のコミュニケーション手段を考えると凄い。なお日本についてニフォン、ニッポン、ジッポンの3つの読みが載っているらしいがその箇所の画像は見つけられなかった。
ジッポンの語源はニチホンと同じで時代が少し違う。
これは「その9」でも書いた現在の「日」と「本」の音読み・訓読み。
日:音読み ニチ・ジツ 訓読み ひ・か
本:音読み ホン 訓読み もと
音読みのニチとホンを組み合わせればニチホンとなり、ジツとホンならジツホン。それでは発音しにくいのでツが詰まって小さな「ッ」となり、それに併せてホンもポンと変化してジッポン。(本は「ッ」の後では「ポン」、「ン」の後では「ボン」)
訓読みは漢字の意味に古来よりある日本語の読みを当てはめ、対する音読みは中国語風の発音をそのまま使っている。そして「日」の音読みにニチとジツがあるのは由来となった中国語の時期が違うから。中国は代表的なものだけで「殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清」と10の王朝があり漢字の発音も変化している。
日本の音読みになっているのは主に3つの時代で
呉音:日本で文字を使うようになった古墳時代中頃の6世紀頃に伝来。
漢音:7〜8世紀の飛鳥時代から平安時代の初めに、遣隋使や遣唐使と
来日した僧侶などによって伝えられた音。現在の音読みでは一番多い。
唐音:10世紀の平安中期から江戸時代末期までに入ってきた読み方。
ただし音読み名に古代中国の王朝名がついているものの、
それぞれの王朝が成立していたのは
三国志の魏・呉・蜀の呉:222〜280年
漢:前漢:紀元前206〜紀元8年、後漢:25〜220年
唐:618年〜907年
であり音読みの名前と一致しない。呉音が伝来したときの中国は南北朝から隋の時代、漢音は唐、唐音では宋以降となる。これについて呉音はよくわからないが、漢音が伝来した唐の時代に日本では中国を通称として漢と呼び、唐音が伝来した唐が滅びた以降でも中国を唐と呼んでいたのが理由らしい。唐に関しては今でも唐物(からもの)、唐人(とうじん)なんて言葉が残っている。ちなみに現在の中国語発音で日本はリーベン。
日は呉音がニチで漢音がジツ。日本が「倭」から「日本」へと国名の変更を宣言したのは702年。当時はまだ呉音が主流。だから呉音の音読みでニチホンと読み、その後に漢音も広まってくるとジッポンとも読んだのではないかと思う。(本は呉音と漢音ともにホン)
呉音読みのニチホンはニフォンやニッポンなどに変化し、「その10」で書いたように江戸時代にニフォンはニホンとなってニッポンと共に現代まで続いている。漢音読みのジッポンは漢文国家であった平安中期以降にエリート層に広まったと思われる。そして江戸時代初期には廃れてしまったようだ。理由はわからないが漢文国家の色彩が薄れるにつれて自然淘汰したのだろう。
しかしジッポンの読みは中国に渡り、その中国で日本は黄金の国などの噂を聞きつけたマルコ・ポーロが東方見聞録第3巻で日本をジパング(ZipanguまたはCipangu)と紹介した。彼がアジア諸国を訪問したのは1271〜1295年。中国は元、日本は鎌倉時代。その前の平安後期から盛んになった日宋貿易によってジッポンの名前も中国に伝わっていたと思われる。なおジパングのグは国を表しており直訳すれば日本国になる。つまり日本だけだとジパンでありジッポンとかなり近い。
東方見聞録がヨーロッパ各国で読まれるうちに、ジパングもそれぞれの国の言葉になってくる。(異説あり)
英語:ジャパン(Japan)
フランス語:ジャポン(Japon)
ドイツ語:ヤーパン(Japan)
イタリア語:ジャッポーネ(Giappone)
スペイン語:ハポン(Japon)
ポルトガル語:ジャポン または ジャパーン(Japao)
オランダ語:ヤパン(Japan)
フィンランド語:ヤパニ(Japani)
ギリシア語:イアポニア(Iaponia)
ロシア語:ヤポーニヤ(Япония)
それぞれジパングがベースとなっているとわかる。
でもアイルランド語ではなぜか
アン・チャパーン(an tSeapain)
ナンヤソレ?
でもアンは定冠詞なのでそれを除けばチャパーンでジパング寄り。
ヨーロッパ以外では (閲覧環境によって文字化けの可能性あり)
中国語:リーベン
朝鮮語:イルボン(일본)
タイ語:イープン(ญี่ปุ่น)
ベトナム語:ニャッバーン(Nhật Bản)
フィリピン語(タガログ語):ハポン(Hapon)
マレー語:ジェプン(Jepun)
インドネシア語:ジェパン(Jepang)
インド語(ヒンディ語):ジャパン(जापान)
アラビア語:アル・ヤバーン(اليابان) アルは定冠詞
ペルシャ語:ジャポーン (ژاپن )
フィリピン語以下はジパング系統(マレー語のジェプンがジパングの語源との説あり)。ベトナム語は日本に改名した当時の中国読みとされるニェットプァンに近い。中国、朝鮮、タイの言葉はそれぞれのオリジナルのようだ。
東京がトウキョウではなくトウケイやトキオと呼ばれていた時代があった。それは明治政府が江戸を東京と改名した際に読みを決めなかったのが原因。そんな話を以前にブログに書いて、そういえば地名ではなく国名だってニホンとニッポンの2つの読み方があると気付く。調べてみるといろいろ変遷があったと知り、それをテーマに書き出したのが今回のブログ。それにしても「その11」まで続くとは思っていなかったが。
古代の日本語は漢文で書かれ、その漢字にフリガナが振られているのはまれで、正確なところはなかなか確かめられない。あの織田信長だってオタやオリタだったと主張する説もある。
あまり細かなことはともかく、とりあえず遠い昔に日本をニフォンやジッポンと読んでいた時代があったらしいと漠然とした想像を楽しんでいる。
ところで「その7」に書いたように2004年の調査で、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている単語の97.6%はニホンと発音され、国名でも96.2%がニホン。私もニッポンは「がんばれニッポン」と応援するときくらいで基本的にニホン。
その理由は小さい「ッ」が入るニッポンよりニホンのほうが口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
しかしそう考えるとニホンよりニフォンのほうが楽。ハヒフヘホは口の奥から音を出すのに対してファ、フィ、フゥ、フェ、フォなら軽く息を吐くだけで済む。またホは唇を突き出すがフォならそのまま。
それに気付いてから人との会話でコソッと日本をニフォンと発音している(^^ゞ 今まで変に思われたことはない。まあ気恥ずかしさもあって、かなりニホン寄りのニフォンなせいもあるけれど。また話題の文脈的に日本だとわかるので相手が脳内でニフォンをニホンに変換してくれているのかも知れない。
よかったらお試しを。
いにしえの平安言葉の雰囲気を味わいましょう?
おしまい
葡はポルトガルを意味し日葡辞書とは日本語・ポルトガル語辞書。漢字表記のポルトガルは葡萄牙となる。カタカナ国名の漢字表記はほとんどが中国語での当て字で、ポルトガルがワインの産地だからといって国名とブドウは関係ない。ところで漢字一文字で表す英仏伊独蘭露米加印豪などは馴染みがあっても葡はわからないね。ポルトガルの隣のスペインは西なのをギリ知っている程度。フルネームでは西班牙。
これがイエズス会の日葡辞書で現存するのは世界に4冊。約3万2000語を収録している。広辞苑は25万語だが小学生の学習用国語辞典だと3〜4万語程度。イエズス会が最初に来日したのは1549年。わずか50年でまったく未知の言語だった日本語でこれだけの辞書を作ったのは、当時のコミュニケーション手段を考えると凄い。なお日本についてニフォン、ニッポン、ジッポンの3つの読みが載っているらしいがその箇所の画像は見つけられなかった。
ジッポンの語源はニチホンと同じで時代が少し違う。
これは「その9」でも書いた現在の「日」と「本」の音読み・訓読み。
日:音読み ニチ・ジツ 訓読み ひ・か
本:音読み ホン 訓読み もと
音読みのニチとホンを組み合わせればニチホンとなり、ジツとホンならジツホン。それでは発音しにくいのでツが詰まって小さな「ッ」となり、それに併せてホンもポンと変化してジッポン。(本は「ッ」の後では「ポン」、「ン」の後では「ボン」)
訓読みは漢字の意味に古来よりある日本語の読みを当てはめ、対する音読みは中国語風の発音をそのまま使っている。そして「日」の音読みにニチとジツがあるのは由来となった中国語の時期が違うから。中国は代表的なものだけで「殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清」と10の王朝があり漢字の発音も変化している。
日本の音読みになっているのは主に3つの時代で
呉音:日本で文字を使うようになった古墳時代中頃の6世紀頃に伝来。
漢音:7〜8世紀の飛鳥時代から平安時代の初めに、遣隋使や遣唐使と
来日した僧侶などによって伝えられた音。現在の音読みでは一番多い。
唐音:10世紀の平安中期から江戸時代末期までに入ってきた読み方。
ただし音読み名に古代中国の王朝名がついているものの、
それぞれの王朝が成立していたのは
三国志の魏・呉・蜀の呉:222〜280年
漢:前漢:紀元前206〜紀元8年、後漢:25〜220年
唐:618年〜907年
であり音読みの名前と一致しない。呉音が伝来したときの中国は南北朝から隋の時代、漢音は唐、唐音では宋以降となる。これについて呉音はよくわからないが、漢音が伝来した唐の時代に日本では中国を通称として漢と呼び、唐音が伝来した唐が滅びた以降でも中国を唐と呼んでいたのが理由らしい。唐に関しては今でも唐物(からもの)、唐人(とうじん)なんて言葉が残っている。ちなみに現在の中国語発音で日本はリーベン。
日は呉音がニチで漢音がジツ。日本が「倭」から「日本」へと国名の変更を宣言したのは702年。当時はまだ呉音が主流。だから呉音の音読みでニチホンと読み、その後に漢音も広まってくるとジッポンとも読んだのではないかと思う。(本は呉音と漢音ともにホン)
呉音読みのニチホンはニフォンやニッポンなどに変化し、「その10」で書いたように江戸時代にニフォンはニホンとなってニッポンと共に現代まで続いている。漢音読みのジッポンは漢文国家であった平安中期以降にエリート層に広まったと思われる。そして江戸時代初期には廃れてしまったようだ。理由はわからないが漢文国家の色彩が薄れるにつれて自然淘汰したのだろう。
しかしジッポンの読みは中国に渡り、その中国で日本は黄金の国などの噂を聞きつけたマルコ・ポーロが東方見聞録第3巻で日本をジパング(ZipanguまたはCipangu)と紹介した。彼がアジア諸国を訪問したのは1271〜1295年。中国は元、日本は鎌倉時代。その前の平安後期から盛んになった日宋貿易によってジッポンの名前も中国に伝わっていたと思われる。なおジパングのグは国を表しており直訳すれば日本国になる。つまり日本だけだとジパンでありジッポンとかなり近い。
東方見聞録がヨーロッパ各国で読まれるうちに、ジパングもそれぞれの国の言葉になってくる。(異説あり)
英語:ジャパン(Japan)
フランス語:ジャポン(Japon)
ドイツ語:ヤーパン(Japan)
イタリア語:ジャッポーネ(Giappone)
スペイン語:ハポン(Japon)
ポルトガル語:ジャポン または ジャパーン(Japao)
オランダ語:ヤパン(Japan)
フィンランド語:ヤパニ(Japani)
ギリシア語:イアポニア(Iaponia)
ロシア語:ヤポーニヤ(Япония)
それぞれジパングがベースとなっているとわかる。
でもアイルランド語ではなぜか
アン・チャパーン(an tSeapain)
ナンヤソレ?
でもアンは定冠詞なのでそれを除けばチャパーンでジパング寄り。
ヨーロッパ以外では (閲覧環境によって文字化けの可能性あり)
中国語:リーベン
朝鮮語:イルボン(일본)
タイ語:イープン(ญี่ปุ่น)
ベトナム語:ニャッバーン(Nhật Bản)
フィリピン語(タガログ語):ハポン(Hapon)
マレー語:ジェプン(Jepun)
インドネシア語:ジェパン(Jepang)
インド語(ヒンディ語):ジャパン(जापान)
アラビア語:アル・ヤバーン(اليابان) アルは定冠詞
ペルシャ語:ジャポーン (ژاپن )
フィリピン語以下はジパング系統(マレー語のジェプンがジパングの語源との説あり)。ベトナム語は日本に改名した当時の中国読みとされるニェットプァンに近い。中国、朝鮮、タイの言葉はそれぞれのオリジナルのようだ。
東京がトウキョウではなくトウケイやトキオと呼ばれていた時代があった。それは明治政府が江戸を東京と改名した際に読みを決めなかったのが原因。そんな話を以前にブログに書いて、そういえば地名ではなく国名だってニホンとニッポンの2つの読み方があると気付く。調べてみるといろいろ変遷があったと知り、それをテーマに書き出したのが今回のブログ。それにしても「その11」まで続くとは思っていなかったが。
古代の日本語は漢文で書かれ、その漢字にフリガナが振られているのはまれで、正確なところはなかなか確かめられない。あの織田信長だってオタやオリタだったと主張する説もある。
あまり細かなことはともかく、とりあえず遠い昔に日本をニフォンやジッポンと読んでいた時代があったらしいと漠然とした想像を楽しんでいる。
ところで「その7」に書いたように2004年の調査で、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている単語の97.6%はニホンと発音され、国名でも96.2%がニホン。私もニッポンは「がんばれニッポン」と応援するときくらいで基本的にニホン。
その理由は小さい「ッ」が入るニッポンよりニホンのほうが口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
しかしそう考えるとニホンよりニフォンのほうが楽。ハヒフヘホは口の奥から音を出すのに対してファ、フィ、フゥ、フェ、フォなら軽く息を吐くだけで済む。またホは唇を突き出すがフォならそのまま。
それに気付いてから人との会話でコソッと日本をニフォンと発音している(^^ゞ 今まで変に思われたことはない。まあ気恥ずかしさもあって、かなりニホン寄りのニフォンなせいもあるけれど。また話題の文脈的に日本だとわかるので相手が脳内でニフォンをニホンに変換してくれているのかも知れない。
よかったらお試しを。
いにしえの平安言葉の雰囲気を味わいましょう?
おしまい
wassho at 20:06|Permalink│Comments(0)│
2025年12月17日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その10
飛鳥時代の終わりに国名を倭から日本に変更した際に、
その読み方は
1)ヤマト
2)ニェットプァン
などだったとする説がある。
ヤマト説について疑問に思うところは前回に書いた。
今回はニェットプァン。
国名を変更したのは700年前後。中国は唐の時代(618年〜907年)であり、このニェットプァンはその頃の中国語発音。「日」がniet(ニェット)で「本」がpuən(プァン)。それはいいとして、この日本人には発音しにくいニェットプァンを、中国人がそういうのを聞いて日本人も日本をニェットプァンと読んでいたするのがニェットプァン説。
そんなことがあるかあ?というのが直感的な疑問。自分の国をニホンと呼んでいたのに、鎖国が解けて英語ではJAPANだと知ったら自らもジャパンと言い出したような話。
ニェットプァン説では来日した中国人僧侶などが口にするニェットプァンを聞いて、日本人もそれに倣ったとするのだが、彼らが「日本語に影響を与える」ほどの人数と接触していたかも疑問。ただしこれは、前回に書いたように古代の支配層や役人は「書く:漢語」「読む:訓読み」「儀礼や外交の場:漢音」とバイリンガル的な言語体系を駆使していたし、またそれ以外の一般庶民に国家の概念があったかどうかを含めて、私レベルの知識では想像・推測が追いつかないのが残念。
その後、ニェットプァンではあまりにも発音しづらいのでニエップン→ニエッポン→ニッポンのように変化していったとされる。ニエップンなどと言っていたエビデンスはどこにあるのかと思ってしまうが、さらに大きな疑問は、どうして国名の読みとしてヤマトが使われなくなったかである。遅くとも平安中期にはその呼び名は用いられなくなる。
ヤマトがニェットプァンやその後継語に駆逐された理由は様々な説があるものの、日本という明らかに漢語的な国名を採用したのに、どうしてわざわざ和語(訓読み)で「ヤマト」と読ませ続けたのか、そしてなぜ後に自然に漢音(音読み)に切り替わったのかを充分に説明できているものはない。
だったら
国名を倭から日本に変更した際の読み方は
ヤマトでもニェットプァンでもなく
日本語の音読みであるニチホンなどだった
とすればすべてを素直に説明できるのにと思ってしまう。
歴史学者には「これだから素人は」と笑われるかも知れない。
でも私はこの説を信じよう。前回に書いたように歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちなのだ(^^ゞ
さて始まりがニェットプァンかニチホンだったかはともかく、その後の読み方の変化について。ようやく「その10」にして内容がブログタイトルに追いついてきた。
まず奈良から平安前期の日本語に「ハヒフヘホ」の音はなく、ハ行は「パピプペポ」とP音で発音していたするのが定説。(例によってエビデンスが気になるが面倒なので調べていない、また諸説あり)
→したがって日本はニッポンあるいはニポン
そして平安中期の源氏物語が書かれた1000年頃になると、ハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」のF音に変化。
→日本はニフォンあるいはニッフォンになる。
この傾向は江戸時代の初めまで続く。
室町時代のなぞなぞに「母には二回会うけれど、父だと一回も会えないものなーんだ?」と問うのがある。現代人には解けないが答えは「唇」。母はハハではなくファファだったので唇が2回接触するから。一方のチチは一度も唇を閉じない。
ちなみに母という単語は万葉集にも載っていて奈良時代には存在していた。でも当時のハ行は「パピプペポ」だから母=パパとなってしまうのが面白い。
また天草版平家物語と呼ばれる書物がある。これは日本で活動していたイエズス会が宣教師の語学学習用に日本で出版し、平家物語が日本語のままポルトガル式のローマ字で書かれている。発行は1592〜1593年。九州の天草コレジオで印刷されたのが天草版の由来。コレジオはポルトガル語でカレッジを意味する。平家物語以外に伊曽保物語=イソップ物語などが収録されている。
発行されたのは秀吉が政権の座にあった安土桃山時代であるが、その前の室町時代(1336〜1573年)の日本語の特徴を知る貴重な資料とされる。つまりハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」となるF音。
挿絵の上の文字を漢字かな交じりにすると
日本の言葉とヒストリアを習い知らんと欲する人のために
世話に和らげたる平家の物語
ヒストリアはラテン語のhistoriaがベースで英語のhistoryと同じく歴史。辞書でポルトガル語を引くとhistoriaだけれど、この頃はhiftoriaだったのかな。
またここだけがヒストリアとポルトガル語なのは、日本語にまだ「歴史」と言う単語がなかったためと思われる。「歴史」は江戸時代中頃に中国からもたらされ、明治以降に翻訳語と一緒に定着した。翻訳語とは社会・自由・科学・哲学のように外国語の概念を日本語で表現するために作られた言葉。ではそれまで歴史のことを何といっていたんだろうね?
「世話に和らげたる」は優しい言葉遣いにしたとの意味らしい。
そして日本はニフォン、欲するがフォッスル、人がフィト、平家がフェイケとなっている。平家なんて文字だけを抜き出すとまったく平家とイメージがつながらない。 平安中期にハ行がF音だとすると光源氏もフィカル源氏(^^ゞ
ただし天草版のイソップ物語ではNipponと書かれ、当時はニフォンとニッポンが混在していたのがわかる。今のニホンとニッポンと同じような状況。
画像はESOPOがイソップ、FABVLASは寓話。現在のポルトガル語では fabula。
この天草版がベースになったかどうかはよくわからないものの、江戸時代の初期にイソップ物語が伊曽保物語として出版される。「アリとキリギリス」「北風と太陽」「オオカミ少年」など現在でも多くの人が慣れ親しんでいる童話を、江戸時代の人も読んでいたとは驚いた。
これが1659年に出版された伊曽保物語。
どうやら子供向けの童話扱いではなさそう。
さてP音→F音と変化してきたハ行は江戸時代になってしばらくした頃にH音、すなわち現在と同じハヒフヘホになる。
これはせっかちな江戸っ子が早口で喋るためにファ、フィ、フゥ、フェ、フォをハヒフヘホに短縮したとする解説が多い。
本当かな? 江戸っ子がせっかちなんて時代劇が作られるようになってからのイメージにも思える。それに江戸時代の中頃まで江戸と上方(京阪神)の人口にそれほど差はない。江戸弁が標準語として普及する影響力があったかどうか。もちろんテレビやラジオで江戸っ子の喋りを聞くこともできない。さらにやがて100万都市になった頃の江戸でも、人口の半分は武士であり、その50万人の多くは地方から江戸に出仕してきた人々。
またせっかちな江戸っ子説では、東京の日本橋はニホンバシ、大阪のはニッポンバシと漢字は同じでも読みが違うのを、江戸ではH音に変化したのに大阪ではニッポンとP音の発音が残っていたからと説明する。しかし江戸の日本橋は1603年、大阪は1619年の完成である。家康が秀吉によって江戸への国替えを命じられたのは1590年で、橋が架けられた当時の江戸の人口は15万人程度。せっかちな江戸っ子の早口によってH音になったとしても、そんなチャキチャキの江戸っ子が登場するのはもっと後の時代だろう。江戸の日本橋も最初はニッポンバシだった気がする。
なおP音がF音に変化したのは1000年頃だけれど、600年後に大阪の日本橋がニフォンバシではなくニッポンバシだったのは、1592〜1593年発行の天草版平家物語にNippon表記もあるから、P音の発音が残っていたとの説はあり得る。
発音とは関係ないが、どちらの橋も江戸幕府が直接手がけた公儀橋=主要建造物なのに、どうして江戸と大阪で同じ日本橋と名付けたのかのほうが不思議。
せっかちな江戸っ子説はマユツバだとしても、言葉なんて時代の流れでナントナク変化していくもの。そういえばP音やF音になったのも、そのきっかけや理由まで説明している解説は見つけられなかった。
ーーー続く
その読み方は
1)ヤマト
2)ニェットプァン
などだったとする説がある。
ヤマト説について疑問に思うところは前回に書いた。
今回はニェットプァン。
国名を変更したのは700年前後。中国は唐の時代(618年〜907年)であり、このニェットプァンはその頃の中国語発音。「日」がniet(ニェット)で「本」がpuən(プァン)。それはいいとして、この日本人には発音しにくいニェットプァンを、中国人がそういうのを聞いて日本人も日本をニェットプァンと読んでいたするのがニェットプァン説。
そんなことがあるかあ?というのが直感的な疑問。自分の国をニホンと呼んでいたのに、鎖国が解けて英語ではJAPANだと知ったら自らもジャパンと言い出したような話。
ニェットプァン説では来日した中国人僧侶などが口にするニェットプァンを聞いて、日本人もそれに倣ったとするのだが、彼らが「日本語に影響を与える」ほどの人数と接触していたかも疑問。ただしこれは、前回に書いたように古代の支配層や役人は「書く:漢語」「読む:訓読み」「儀礼や外交の場:漢音」とバイリンガル的な言語体系を駆使していたし、またそれ以外の一般庶民に国家の概念があったかどうかを含めて、私レベルの知識では想像・推測が追いつかないのが残念。
その後、ニェットプァンではあまりにも発音しづらいのでニエップン→ニエッポン→ニッポンのように変化していったとされる。ニエップンなどと言っていたエビデンスはどこにあるのかと思ってしまうが、さらに大きな疑問は、どうして国名の読みとしてヤマトが使われなくなったかである。遅くとも平安中期にはその呼び名は用いられなくなる。
ヤマトがニェットプァンやその後継語に駆逐された理由は様々な説があるものの、日本という明らかに漢語的な国名を採用したのに、どうしてわざわざ和語(訓読み)で「ヤマト」と読ませ続けたのか、そしてなぜ後に自然に漢音(音読み)に切り替わったのかを充分に説明できているものはない。
だったら
国名を倭から日本に変更した際の読み方は
ヤマトでもニェットプァンでもなく
日本語の音読みであるニチホンなどだった
とすればすべてを素直に説明できるのにと思ってしまう。
歴史学者には「これだから素人は」と笑われるかも知れない。
でも私はこの説を信じよう。前回に書いたように歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちなのだ(^^ゞ
さて始まりがニェットプァンかニチホンだったかはともかく、その後の読み方の変化について。ようやく「その10」にして内容がブログタイトルに追いついてきた。
まず奈良から平安前期の日本語に「ハヒフヘホ」の音はなく、ハ行は「パピプペポ」とP音で発音していたするのが定説。(例によってエビデンスが気になるが面倒なので調べていない、また諸説あり)
→したがって日本はニッポンあるいはニポン
そして平安中期の源氏物語が書かれた1000年頃になると、ハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」のF音に変化。
→日本はニフォンあるいはニッフォンになる。
この傾向は江戸時代の初めまで続く。
室町時代のなぞなぞに「母には二回会うけれど、父だと一回も会えないものなーんだ?」と問うのがある。現代人には解けないが答えは「唇」。母はハハではなくファファだったので唇が2回接触するから。一方のチチは一度も唇を閉じない。
ちなみに母という単語は万葉集にも載っていて奈良時代には存在していた。でも当時のハ行は「パピプペポ」だから母=パパとなってしまうのが面白い。
また天草版平家物語と呼ばれる書物がある。これは日本で活動していたイエズス会が宣教師の語学学習用に日本で出版し、平家物語が日本語のままポルトガル式のローマ字で書かれている。発行は1592〜1593年。九州の天草コレジオで印刷されたのが天草版の由来。コレジオはポルトガル語でカレッジを意味する。平家物語以外に伊曽保物語=イソップ物語などが収録されている。
発行されたのは秀吉が政権の座にあった安土桃山時代であるが、その前の室町時代(1336〜1573年)の日本語の特徴を知る貴重な資料とされる。つまりハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」となるF音。
挿絵の上の文字を漢字かな交じりにすると
日本の言葉とヒストリアを習い知らんと欲する人のために
世話に和らげたる平家の物語
ヒストリアはラテン語のhistoriaがベースで英語のhistoryと同じく歴史。辞書でポルトガル語を引くとhistoriaだけれど、この頃はhiftoriaだったのかな。
またここだけがヒストリアとポルトガル語なのは、日本語にまだ「歴史」と言う単語がなかったためと思われる。「歴史」は江戸時代中頃に中国からもたらされ、明治以降に翻訳語と一緒に定着した。翻訳語とは社会・自由・科学・哲学のように外国語の概念を日本語で表現するために作られた言葉。ではそれまで歴史のことを何といっていたんだろうね?
「世話に和らげたる」は優しい言葉遣いにしたとの意味らしい。
そして日本はニフォン、欲するがフォッスル、人がフィト、平家がフェイケとなっている。平家なんて文字だけを抜き出すとまったく平家とイメージがつながらない。 平安中期にハ行がF音だとすると光源氏もフィカル源氏(^^ゞ
ただし天草版のイソップ物語ではNipponと書かれ、当時はニフォンとニッポンが混在していたのがわかる。今のニホンとニッポンと同じような状況。
画像はESOPOがイソップ、FABVLASは寓話。現在のポルトガル語では fabula。
この天草版がベースになったかどうかはよくわからないものの、江戸時代の初期にイソップ物語が伊曽保物語として出版される。「アリとキリギリス」「北風と太陽」「オオカミ少年」など現在でも多くの人が慣れ親しんでいる童話を、江戸時代の人も読んでいたとは驚いた。
これが1659年に出版された伊曽保物語。
どうやら子供向けの童話扱いではなさそう。
さてP音→F音と変化してきたハ行は江戸時代になってしばらくした頃にH音、すなわち現在と同じハヒフヘホになる。
これはせっかちな江戸っ子が早口で喋るためにファ、フィ、フゥ、フェ、フォをハヒフヘホに短縮したとする解説が多い。
本当かな? 江戸っ子がせっかちなんて時代劇が作られるようになってからのイメージにも思える。それに江戸時代の中頃まで江戸と上方(京阪神)の人口にそれほど差はない。江戸弁が標準語として普及する影響力があったかどうか。もちろんテレビやラジオで江戸っ子の喋りを聞くこともできない。さらにやがて100万都市になった頃の江戸でも、人口の半分は武士であり、その50万人の多くは地方から江戸に出仕してきた人々。
またせっかちな江戸っ子説では、東京の日本橋はニホンバシ、大阪のはニッポンバシと漢字は同じでも読みが違うのを、江戸ではH音に変化したのに大阪ではニッポンとP音の発音が残っていたからと説明する。しかし江戸の日本橋は1603年、大阪は1619年の完成である。家康が秀吉によって江戸への国替えを命じられたのは1590年で、橋が架けられた当時の江戸の人口は15万人程度。せっかちな江戸っ子の早口によってH音になったとしても、そんなチャキチャキの江戸っ子が登場するのはもっと後の時代だろう。江戸の日本橋も最初はニッポンバシだった気がする。
なおP音がF音に変化したのは1000年頃だけれど、600年後に大阪の日本橋がニフォンバシではなくニッポンバシだったのは、1592〜1593年発行の天草版平家物語にNippon表記もあるから、P音の発音が残っていたとの説はあり得る。
発音とは関係ないが、どちらの橋も江戸幕府が直接手がけた公儀橋=主要建造物なのに、どうして江戸と大阪で同じ日本橋と名付けたのかのほうが不思議。
せっかちな江戸っ子説はマユツバだとしても、言葉なんて時代の流れでナントナク変化していくもの。そういえばP音やF音になったのも、そのきっかけや理由まで説明している解説は見つけられなかった。
ーーー続く
wassho at 23:01|Permalink│Comments(0)│
2025年12月12日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その9
前回の「その8」から1ヶ月以上も経ってしまったが続編再開。これまでのブログは下記のページ「その1」から順番にどうぞ。なお「その5」と「その6」、「その7」と「その8」の間には違うテーマが挟まっている。
https://wassho.livedoor.blog/archives/53515793.html
遠い昔に日本はジッポンやニフォンなどと読まれていた話を書こうと思っていたら、その前の名前である「倭」に「その2」から「その5」を費やしてしまい、「その6」と「その7」は現在のニッポンとニホンについて。古代の日本の読みに具体的に触れ始めるのは今回から。
日本にまだ文字がなかった時代に、古代中国王朝が日本列島に住む人々を「倭人」と名付けていた記録が現れるのは弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期。それは日本人をバカにした蔑称だったのだが(諸説あり)、文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
それから数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたりに日本でも文字が使われるようになる。それでようやく「倭」が蔑称であったと日本人も気づき、607年に聖徳太子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に〜」と一発かまし、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると唐に対して宣言する。
当時の「日本」の読み方はニッポンやニホンでもなく、学説には
1)ヤマト
2)ニェットプァン
などがある。
歴史なんて一般常識的なことしか知らないし、ましてや古代についてはさっぱりとはいえ、これがどちらも納得できないシロモノなのである。
まずは日本をヤマトと読んでいた説。
それにしてもどうして「日本」がヤマトと読めるのだ。
いくつかの解説を読むとどうやら、
中国が名付けたのは「倭」だったが、
やがてそれが「和」の文字に置き換わり、
それに美称である「大」をつけ(大日本帝国みたいなノリ)、
大和をヤマトと読んでいた。
従って、その頃の国名は大和であり読みは「ヤマト」。
「日本」は海外=主として中国に向けた対外的な国名表記の漢字変更。
だから日本と書いてヤマトと読んだ。
とのロジック。
JAPANと書いてニホンと読むような感覚か。
以前に「名前の間に入る“の”について歴史学説への疑問」でも書いたように古代の文書にフリガナが振ってあるわけではない。つまりヤマト説にはエビデンスがない。振りたくてもカタカナや平仮名が発明されたのは平安時代に入った800年代である。
ただし日本語の音を漢字に当て字した万葉仮名は650年頃からあって、
720年に編纂された日本書紀には
日本 此云 耶麻騰
との一説がある。現代語に直訳すると「日本、これはヤマトという」。
この耶麻騰が万葉仮名。
あっ、エビデンス発見!と思ったものの、
もう少し日本書紀の前後を読むとこれは
「倭」の文字は好ましくないので「日本」置き換える
だから「日本」は「ヤマトと読んでいた倭」と同じ意味
というだけで、「日本」を「ヤマト」と読むと定めた決まりではない(との学説が主流)らしい。これ以上は歴史以外に漢文の知識も必要になりお手上げ(/o\)
ちなみに大和(ヤマト)は単字単位ではなく熟字単位で訓読みを当てはめた熟字訓で、ヤ・マ・トの音を大と和の字に振り分けられない。明日(あす)、大人(おとな)、梅雨(つゆ)、眼鏡(めがね)、浴衣(ゆかた)なども熟字訓。
(これは1599年に復刻された慶長勅版と呼ばれる日本書紀の表紙)
もうひとつは漢字には音読みと訓読みとがあり、ご承知のように
音読み:中国語ベースの発音
訓読み:漢字の意味に日本古来の言葉を当てた発音
であるから国名は訓読みのはずとのロジックもある。
現在、日と本の音読み・訓読みは
日:音読み ニチ・ジツ 訓読み ひ・か
本:音読み ホン 訓読み もと
当時の訓読みは今と多少は違うとしても、日本と書いてヤマトとは読めないはず。だからかどうかはわからないものの、それで「日の本(ひのもと)」と読んでいたとの説もある。ただしこれも
「日の本」自体は奈良時代から存在する言葉であるが、単に太陽の昇る東方との意味
平安中期まで「ひのもと」は「日の本」と表記
日本と書いて「ひのもと」と読むのは平安後期以降
のようだ。
それと古代(古墳時代〜平安時代)の支配層や役人は
書くとき:漢語
読むとき:訓読み
儀礼や外交では:漢音(音読み=中国語読みのうち唐時代の発音)
と、今から考えるととても複雑な言葉の使い分けを行っていた。いわば日本は「漢文国家」だったともいえる。だから国名は訓読みのはずとのロジックそのものがずれているようにも思える。
というわけで「日」「本」の音読み・訓読みのいずれも無視して、熟字訓で日本をヤマトと読んでいたと考えるのは無理があるし、「ひのもと」説もこれまで確認されてきた歴史的事実を無視している。
まあ歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちの側面を持つ。それでも「倭から日本に国名を改めた当時はヤマトと読んでいた」と100%の断定調で書かれている資料を読むとナンダカナア〜と思ってしまう。またそれを読んで信じた人が増えれば、ウソも100回言えば真実になるのと同じことが起きる。
しかし私が多少はかじった歴史の知識も、それとそう変わらないようにも思えて、あまりエラソーな発言は慎もうと思ったり(^^ゞ
ーーー続く
https://wassho.livedoor.blog/archives/53515793.html
遠い昔に日本はジッポンやニフォンなどと読まれていた話を書こうと思っていたら、その前の名前である「倭」に「その2」から「その5」を費やしてしまい、「その6」と「その7」は現在のニッポンとニホンについて。古代の日本の読みに具体的に触れ始めるのは今回から。
日本にまだ文字がなかった時代に、古代中国王朝が日本列島に住む人々を「倭人」と名付けていた記録が現れるのは弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期。それは日本人をバカにした蔑称だったのだが(諸説あり)、文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
それから数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたりに日本でも文字が使われるようになる。それでようやく「倭」が蔑称であったと日本人も気づき、607年に聖徳太子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に〜」と一発かまし、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると唐に対して宣言する。
当時の「日本」の読み方はニッポンやニホンでもなく、学説には
1)ヤマト
2)ニェットプァン
などがある。
歴史なんて一般常識的なことしか知らないし、ましてや古代についてはさっぱりとはいえ、これがどちらも納得できないシロモノなのである。
まずは日本をヤマトと読んでいた説。
それにしてもどうして「日本」がヤマトと読めるのだ。
いくつかの解説を読むとどうやら、
中国が名付けたのは「倭」だったが、
やがてそれが「和」の文字に置き換わり、
それに美称である「大」をつけ(大日本帝国みたいなノリ)、
大和をヤマトと読んでいた。
従って、その頃の国名は大和であり読みは「ヤマト」。
「日本」は海外=主として中国に向けた対外的な国名表記の漢字変更。
だから日本と書いてヤマトと読んだ。
とのロジック。
JAPANと書いてニホンと読むような感覚か。
以前に「名前の間に入る“の”について歴史学説への疑問」でも書いたように古代の文書にフリガナが振ってあるわけではない。つまりヤマト説にはエビデンスがない。振りたくてもカタカナや平仮名が発明されたのは平安時代に入った800年代である。
ただし日本語の音を漢字に当て字した万葉仮名は650年頃からあって、
720年に編纂された日本書紀には
日本 此云 耶麻騰
との一説がある。現代語に直訳すると「日本、これはヤマトという」。
この耶麻騰が万葉仮名。
あっ、エビデンス発見!と思ったものの、
もう少し日本書紀の前後を読むとこれは
「倭」の文字は好ましくないので「日本」置き換える
だから「日本」は「ヤマトと読んでいた倭」と同じ意味
というだけで、「日本」を「ヤマト」と読むと定めた決まりではない(との学説が主流)らしい。これ以上は歴史以外に漢文の知識も必要になりお手上げ(/o\)
ちなみに大和(ヤマト)は単字単位ではなく熟字単位で訓読みを当てはめた熟字訓で、ヤ・マ・トの音を大と和の字に振り分けられない。明日(あす)、大人(おとな)、梅雨(つゆ)、眼鏡(めがね)、浴衣(ゆかた)なども熟字訓。
(これは1599年に復刻された慶長勅版と呼ばれる日本書紀の表紙)
もうひとつは漢字には音読みと訓読みとがあり、ご承知のように
音読み:中国語ベースの発音
訓読み:漢字の意味に日本古来の言葉を当てた発音
であるから国名は訓読みのはずとのロジックもある。
現在、日と本の音読み・訓読みは
日:音読み ニチ・ジツ 訓読み ひ・か
本:音読み ホン 訓読み もと
当時の訓読みは今と多少は違うとしても、日本と書いてヤマトとは読めないはず。だからかどうかはわからないものの、それで「日の本(ひのもと)」と読んでいたとの説もある。ただしこれも
「日の本」自体は奈良時代から存在する言葉であるが、単に太陽の昇る東方との意味
平安中期まで「ひのもと」は「日の本」と表記
日本と書いて「ひのもと」と読むのは平安後期以降
のようだ。
それと古代(古墳時代〜平安時代)の支配層や役人は
書くとき:漢語
読むとき:訓読み
儀礼や外交では:漢音(音読み=中国語読みのうち唐時代の発音)
と、今から考えるととても複雑な言葉の使い分けを行っていた。いわば日本は「漢文国家」だったともいえる。だから国名は訓読みのはずとのロジックそのものがずれているようにも思える。
というわけで「日」「本」の音読み・訓読みのいずれも無視して、熟字訓で日本をヤマトと読んでいたと考えるのは無理があるし、「ひのもと」説もこれまで確認されてきた歴史的事実を無視している。
まあ歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちの側面を持つ。それでも「倭から日本に国名を改めた当時はヤマトと読んでいた」と100%の断定調で書かれている資料を読むとナンダカナア〜と思ってしまう。またそれを読んで信じた人が増えれば、ウソも100回言えば真実になるのと同じことが起きる。
しかし私が多少はかじった歴史の知識も、それとそう変わらないようにも思えて、あまりエラソーな発言は慎もうと思ったり(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 23:53|Permalink│Comments(0)│
2025年11月06日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その8
さて「その8」にしてようやく「日本の読み」について。
日本には文字がなかったので、その存在が書き留められ歴史に名前が登場するのは、古代中国の前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事を記した漢書(かんじょ)が最初。日本の歴史区分では弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期にあたる。
その漢書で日本列島に住む人々が倭人と記された。
どうして「倭」なのかは諸説あって不明。
倭人自らが「倭」と言ったのではなく、地球人が隣の惑星を火星、そこに住んでいる宇宙人を火星人と彼らの言語とは関係なく呼ぶように、中国側が勝手に名付けたと私は推測している。
そしてそれは日本人をバカにした蔑称だった。蔑称かどうかについても諸説あるものの、その後に邪悪の邪のつく邪馬台国、卑しいの卑のつく卑弥呼なんて名前の付け方を見ても「チビでナヨナヨした列島人」の意味を込めたネーミングだと思っている。
しかし悲しきかな文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。もちろん漢字の輸入。その後に漢字を日本語の音に当て字した万葉仮名が使われ出すのが飛鳥時代中期の650年頃。そこからオリジナル日本文字であるカタカナが生まれたのが平安時代に入った800年頃で平仮名は850年頃とされている。
文字を使いだし漢字の意味がわかると、やがて「倭」が蔑称であったと日本人も気付く。
そして607年に聖徳太子が隋の皇帝に送った有名な国書の一節。
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや
ひいづる ひぼっする
地理的に日本が東、中国が西の位置関係にあるのをもじって「太陽の昇る国の天子(日本の天皇)が太陽の沈む国の天子(隋の皇帝)に書状をお届けします、お変わりありませんか」と言うような意味。
これに対し隋の皇帝は「属国のくせに無礼だ。二度と受け取るな」と命じたという。彼が怒ったのは「日出づる、日没する」の表現ではなく「私も天子、あなたも天子つまり同格対等」と主張していたからと一般に解説されている。
この国書の記録は日本にはない。このエピソードが記録されているのは隋(581〜618年)の歴史書である隋書の倭国伝で、国書の全文は残っていないようだ。だからこの国書で「倭」の記述があったかどうかは不明。
ところでこの聖徳太子が同格対等を主張したとは、大国の隋に対して一歩も引かなかった=ニッポンすごいの国威高揚史観に基づく解釈だとの学説もある。
日出づる処の天子〜と書いたのは単に言葉遣いを知らなかっただけ、あるいは日出づる・日没すると天子も仏教的表現だともされている。(国書の前に「皇帝は仏教を広めていると伺って(私もそうなので)使者を送ります」と奏上している)そして隋の皇帝が怒ったのはその表現や内容ではなく、国書としてはカジュアルな文体だったかららしい。同格対等を主張する意図さえ伝わらなかったとの説もある。
国威高揚史観では聖徳太子が対等を主張できたのは、隋が朝鮮半島の高句麗と緊張状態にあり、それを見通しての外交センスとするが、それは何となく後付けの理屈っぽい。また隋はこの国書に対する返答として使者を日本に送り込み、その使者に対して聖徳太子は「大国の隋と較べれば、なにせ私は田舎者で礼儀も知らず、その節は失礼しました」と述べている。これもヤッテモウタと震え上がって謝罪したのか、ウソぶいて使者をあしらったのか解釈が分かれるところ。
結局のところ、この国書の意図は聖徳太子本人に確かめてみないとわからない。ただし尋ねたところで彼は政治家だから本当のことを喋るとも限らない(^^ゞ 聖徳太子を現代あるいは現職の政治家に置き換えてもそれは同じで、歴史とは事実が半分、推理と妄想が半分でできているのだといつも思う。
あっ、日本の読みに関係のない聖徳太子の国書に話がずれてしまった(^^ゞ
聖徳太子の国書から約100年後、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると随の後に成立した唐に対して宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られ、やはり倭の名前を嫌っていたとわかる。松下電器→パナソニックのようなイメージ戦略ではない。
他にも日本と名乗った時期については諸説あるものの、深入りしても本題とはあまり関係ないし、だいたいその頃=ナント大きな平城京710年の奈良時代に入る少し前だとしておく。それもややこしいので日本になったのは奈良時代からとしてもいいだろう。
奈良時代からだと考えると国号としての日本の歴史は意外と浅いと感じるね。日本に対する最初の文献となる漢書は「海の向こうに倭人が住んでいる」程度の内容で時期を示す記述はない。でも漢書が対象としている前漢王朝は紀元前206年〜8年なので、中間を取って紀元前100年とすると、
倭の時代 紀元前100年〜710年=810年
日本の時代 710年〜2025年=1315年
倭だった期間を1とすると日本は1.6。比率にするとさらに短く感じる。記録として残った最初が漢書であるだけで、もっと以前から倭と呼ばれていたはずで、倭と日本の歴史はあまり差がないのかも知れない。
まあとにかく日本となった我が国。
問題は当初それを何と読んでいた発音していたかである。
学説にはこんなのがある。
1)ヤマト
2)ニェットプァン
そして、このどちらも素直にうなずけない。
ーーー続く
日本には文字がなかったので、その存在が書き留められ歴史に名前が登場するのは、古代中国の前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事を記した漢書(かんじょ)が最初。日本の歴史区分では弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期にあたる。
その漢書で日本列島に住む人々が倭人と記された。
どうして「倭」なのかは諸説あって不明。
倭人自らが「倭」と言ったのではなく、地球人が隣の惑星を火星、そこに住んでいる宇宙人を火星人と彼らの言語とは関係なく呼ぶように、中国側が勝手に名付けたと私は推測している。
そしてそれは日本人をバカにした蔑称だった。蔑称かどうかについても諸説あるものの、その後に邪悪の邪のつく邪馬台国、卑しいの卑のつく卑弥呼なんて名前の付け方を見ても「チビでナヨナヨした列島人」の意味を込めたネーミングだと思っている。
しかし悲しきかな文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。もちろん漢字の輸入。その後に漢字を日本語の音に当て字した万葉仮名が使われ出すのが飛鳥時代中期の650年頃。そこからオリジナル日本文字であるカタカナが生まれたのが平安時代に入った800年頃で平仮名は850年頃とされている。
文字を使いだし漢字の意味がわかると、やがて「倭」が蔑称であったと日本人も気付く。
そして607年に聖徳太子が隋の皇帝に送った有名な国書の一節。
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや
ひいづる ひぼっする
地理的に日本が東、中国が西の位置関係にあるのをもじって「太陽の昇る国の天子(日本の天皇)が太陽の沈む国の天子(隋の皇帝)に書状をお届けします、お変わりありませんか」と言うような意味。
これに対し隋の皇帝は「属国のくせに無礼だ。二度と受け取るな」と命じたという。彼が怒ったのは「日出づる、日没する」の表現ではなく「私も天子、あなたも天子つまり同格対等」と主張していたからと一般に解説されている。
この国書の記録は日本にはない。このエピソードが記録されているのは隋(581〜618年)の歴史書である隋書の倭国伝で、国書の全文は残っていないようだ。だからこの国書で「倭」の記述があったかどうかは不明。
ところでこの聖徳太子が同格対等を主張したとは、大国の隋に対して一歩も引かなかった=ニッポンすごいの国威高揚史観に基づく解釈だとの学説もある。
日出づる処の天子〜と書いたのは単に言葉遣いを知らなかっただけ、あるいは日出づる・日没すると天子も仏教的表現だともされている。(国書の前に「皇帝は仏教を広めていると伺って(私もそうなので)使者を送ります」と奏上している)そして隋の皇帝が怒ったのはその表現や内容ではなく、国書としてはカジュアルな文体だったかららしい。同格対等を主張する意図さえ伝わらなかったとの説もある。
国威高揚史観では聖徳太子が対等を主張できたのは、隋が朝鮮半島の高句麗と緊張状態にあり、それを見通しての外交センスとするが、それは何となく後付けの理屈っぽい。また隋はこの国書に対する返答として使者を日本に送り込み、その使者に対して聖徳太子は「大国の隋と較べれば、なにせ私は田舎者で礼儀も知らず、その節は失礼しました」と述べている。これもヤッテモウタと震え上がって謝罪したのか、ウソぶいて使者をあしらったのか解釈が分かれるところ。
結局のところ、この国書の意図は聖徳太子本人に確かめてみないとわからない。ただし尋ねたところで彼は政治家だから本当のことを喋るとも限らない(^^ゞ 聖徳太子を現代あるいは現職の政治家に置き換えてもそれは同じで、歴史とは事実が半分、推理と妄想が半分でできているのだといつも思う。
あっ、日本の読みに関係のない聖徳太子の国書に話がずれてしまった(^^ゞ
聖徳太子の国書から約100年後、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると随の後に成立した唐に対して宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られ、やはり倭の名前を嫌っていたとわかる。松下電器→パナソニックのようなイメージ戦略ではない。
他にも日本と名乗った時期については諸説あるものの、深入りしても本題とはあまり関係ないし、だいたいその頃=ナント大きな平城京710年の奈良時代に入る少し前だとしておく。それもややこしいので日本になったのは奈良時代からとしてもいいだろう。
奈良時代からだと考えると国号としての日本の歴史は意外と浅いと感じるね。日本に対する最初の文献となる漢書は「海の向こうに倭人が住んでいる」程度の内容で時期を示す記述はない。でも漢書が対象としている前漢王朝は紀元前206年〜8年なので、中間を取って紀元前100年とすると、
倭の時代 紀元前100年〜710年=810年
日本の時代 710年〜2025年=1315年
倭だった期間を1とすると日本は1.6。比率にするとさらに短く感じる。記録として残った最初が漢書であるだけで、もっと以前から倭と呼ばれていたはずで、倭と日本の歴史はあまり差がないのかも知れない。
まあとにかく日本となった我が国。
問題は当初それを何と読んでいた発音していたかである。
学説にはこんなのがある。
1)ヤマト
2)ニェットプァン
そして、このどちらも素直にうなずけない。
ーーー続く
wassho at 22:18|Permalink│Comments(0)│
2025年10月31日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その7
さて私の場合、日本の読みや発音のほとんどがニホンなのは前回に書いた。それは世間全般に同じようで2004年に国立国語研究所などが実施した調査によると、会話において日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている単語の97.6%はニホンと発音されていたとの結果が出ている。国名でも96.2%がニホンと比率は同じ。
またNHKでは国名についてニホンとニッポンのどちらがいいかの調査を行っており、
その回答は
1963年(昭和38年) ニホン 45.5% ニッポン41.8%
1993年(平成5年) ニホン 58% ニッポン39%
2003年(平成15年) ニホン 61% ニッポン37%
となっている。
両者を掛け合わせると
・時代が上がるにつれて国名はニホンがふさわしいと考える人が増え、
ニッポンと考える人が減っている
・ニッポンがふさわしいと考えている人でも実際にはニホンと発音している
何となくニホンよりニッポンのほうが響きとして古いイメージは私も持っている。それぞれの調査から20年以上経った現在に再調査すれば、ニホンがさらに優位になっていると思われる。
参考までにNHK=日本放送協会はニッポンと読む。
国語研の調査で日本とつく単語の97.6%はニホンと発音されていたが、次の単語に限っては数値が低かった=ニッポンと発音する人が相対的に多かった。(数値はニホンと発音する人の割合)
日本一 77.5%
日本代表 80.6%
これはおそらくニッポンはニホンより力強い印象があるから。ナンバーワンを表現するにはニホンよりニッポンのほうが似合う。ただしスポーツの日本代表については前回に書いた通り私はニッポン代表だが、日本代表はいろいろな分野があるので、例えば「国連の日本代表団」なんて文脈だとニホンと読んでしまう。
そしてニッポンにあってニホンにないのはリズム感。ニホンより「いよ!ニッポンイチ!」のほうが声を掛けやすい。また「がんばれニッポン」が「がんばれニホン」だと、どうにも言葉が詰まってしまうし、「ニッポン!ニッポン!」の連呼が「ニホン!ニホン!」では盛り上がらない。「ニッポン チャチャチャ」も同じく。
逆に山口百恵の「いい日旅立ち」の「♪あ〜あ〜日本のどこかに私を待ってる人がいる」がニッポンだと情緒がでない。知らず知らずに使い分けているものだ。
余談その3
ところで「がんばれニッポン」「ニッポン チャチャチャ」と応援しているのにスポーツの日本代表チーム名は森保ジャパン、なでしこジャパン、SAMURAI JAPANとジャパンばかりなのはこれいかに?
なお国名について公的な議論としては次のような変遷を経ている。
■1934年(昭和9年)3月
NHKが国号としてはニッポンを第一の読み方とし、ニホンを第二の読み方とすると暫定的に決定。
NHKの暫定決定の1週間後に、文部省の臨時国語調査会(国語審議会の前身)が「国号呼称統一案」を発表し、国号をニッポンとすると決議。しかしこれは政府に採択されず。
満州国の建国が1932年、日中戦争開戦が1937年で当時は軍国主義一色の時代。NHKや文部省の決定は国家主義・軍国主義者らの国名は大国・強国をイメージさせるニッポンに統一せよとの意見の反映とされる。大日本帝国は大ニッポン帝国と概ね呼ばれており、大ニッポン帝国陸海軍だった。いっぽう和歌などの伝統文化では「っ」の入る促音、また点や丸のつく濁点、半濁点を好まないので、皇室を初めとする面々がニッポンに反対したとの解説もあったが詳細はわからず。あの時代に皇室といえども和歌を理由に軍部に対抗できたのか。
■1945年(昭和20年)終戦
■1946年(昭和21年)
帝国議会における新憲法(日本国憲法)の審議において、金森国務大臣が「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは通念として認められている」と述べて、日本国憲法の読みをどちらかに統一する見解を否定。
■1951年(昭和26年)
NHKが1934年の暫定決定を正式決定に格上げ。
この理由を示す資料は見つからなかった。自らがニッポン放送協会だからか、あるいはアナウンサーごとに読みが違うのは不適切と考えて単に一本化しただけなのか?
■1965年(昭和40年)
郵便切手にローマ字で国名を入れる際、郵政省の「NIPPON」案が閣議で了承される。ただし政府として国名呼称を統一したわけではない。
■1970年(昭和45年)
佐藤内閣時代に、大阪万国博覧会を前に国名をニッポンに統一すべしの議論が国会であったものの結論を得ず。佐藤栄作首相や中曽根康弘防衛庁長官が「ニッポン」を強く推したとされる。
■そして最新版は2009年(平成21年)
当時の民主党議員が提出した「今後、日本の読み方を統一する意向はあるか」の質問主意書に対し、麻生内閣は以下の回答を閣議決定。
ニッポン、ニホンという読み方についてはいずれも広く通用しており、
どちらか一方に統一する必要はない
これで今のところは、ニッポン、ニホンのどちらでもよいと公式に確定された状態。ニホン酒を注文するときに「ポン酒ください」と頼むのも国家公認(^^ゞ
次回はようやく倭から日本になった飛鳥時代末期の700年前後に戻る予定。素直に本題に入れるかどうかはわからないがm(_ _)m
ーーー続く
またNHKでは国名についてニホンとニッポンのどちらがいいかの調査を行っており、
その回答は
1963年(昭和38年) ニホン 45.5% ニッポン41.8%
1993年(平成5年) ニホン 58% ニッポン39%
2003年(平成15年) ニホン 61% ニッポン37%
となっている。
両者を掛け合わせると
・時代が上がるにつれて国名はニホンがふさわしいと考える人が増え、
ニッポンと考える人が減っている
・ニッポンがふさわしいと考えている人でも実際にはニホンと発音している
何となくニホンよりニッポンのほうが響きとして古いイメージは私も持っている。それぞれの調査から20年以上経った現在に再調査すれば、ニホンがさらに優位になっていると思われる。
参考までにNHK=日本放送協会はニッポンと読む。
国語研の調査で日本とつく単語の97.6%はニホンと発音されていたが、次の単語に限っては数値が低かった=ニッポンと発音する人が相対的に多かった。(数値はニホンと発音する人の割合)
日本一 77.5%
日本代表 80.6%
これはおそらくニッポンはニホンより力強い印象があるから。ナンバーワンを表現するにはニホンよりニッポンのほうが似合う。ただしスポーツの日本代表については前回に書いた通り私はニッポン代表だが、日本代表はいろいろな分野があるので、例えば「国連の日本代表団」なんて文脈だとニホンと読んでしまう。
そしてニッポンにあってニホンにないのはリズム感。ニホンより「いよ!ニッポンイチ!」のほうが声を掛けやすい。また「がんばれニッポン」が「がんばれニホン」だと、どうにも言葉が詰まってしまうし、「ニッポン!ニッポン!」の連呼が「ニホン!ニホン!」では盛り上がらない。「ニッポン チャチャチャ」も同じく。
逆に山口百恵の「いい日旅立ち」の「♪あ〜あ〜日本のどこかに私を待ってる人がいる」がニッポンだと情緒がでない。知らず知らずに使い分けているものだ。
余談その3
ところで「がんばれニッポン」「ニッポン チャチャチャ」と応援しているのにスポーツの日本代表チーム名は森保ジャパン、なでしこジャパン、SAMURAI JAPANとジャパンばかりなのはこれいかに?
なお国名について公的な議論としては次のような変遷を経ている。
■1934年(昭和9年)3月
NHKが国号としてはニッポンを第一の読み方とし、ニホンを第二の読み方とすると暫定的に決定。
NHKの暫定決定の1週間後に、文部省の臨時国語調査会(国語審議会の前身)が「国号呼称統一案」を発表し、国号をニッポンとすると決議。しかしこれは政府に採択されず。
満州国の建国が1932年、日中戦争開戦が1937年で当時は軍国主義一色の時代。NHKや文部省の決定は国家主義・軍国主義者らの国名は大国・強国をイメージさせるニッポンに統一せよとの意見の反映とされる。大日本帝国は大ニッポン帝国と概ね呼ばれており、大ニッポン帝国陸海軍だった。いっぽう和歌などの伝統文化では「っ」の入る促音、また点や丸のつく濁点、半濁点を好まないので、皇室を初めとする面々がニッポンに反対したとの解説もあったが詳細はわからず。あの時代に皇室といえども和歌を理由に軍部に対抗できたのか。
■1945年(昭和20年)終戦
■1946年(昭和21年)
帝国議会における新憲法(日本国憲法)の審議において、金森国務大臣が「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは通念として認められている」と述べて、日本国憲法の読みをどちらかに統一する見解を否定。
■1951年(昭和26年)
NHKが1934年の暫定決定を正式決定に格上げ。
この理由を示す資料は見つからなかった。自らがニッポン放送協会だからか、あるいはアナウンサーごとに読みが違うのは不適切と考えて単に一本化しただけなのか?
■1965年(昭和40年)
郵便切手にローマ字で国名を入れる際、郵政省の「NIPPON」案が閣議で了承される。ただし政府として国名呼称を統一したわけではない。
■1970年(昭和45年)
佐藤内閣時代に、大阪万国博覧会を前に国名をニッポンに統一すべしの議論が国会であったものの結論を得ず。佐藤栄作首相や中曽根康弘防衛庁長官が「ニッポン」を強く推したとされる。
■そして最新版は2009年(平成21年)
当時の民主党議員が提出した「今後、日本の読み方を統一する意向はあるか」の質問主意書に対し、麻生内閣は以下の回答を閣議決定。
ニッポン、ニホンという読み方についてはいずれも広く通用しており、
どちらか一方に統一する必要はない
これで今のところは、ニッポン、ニホンのどちらでもよいと公式に確定された状態。ニホン酒を注文するときに「ポン酒ください」と頼むのも国家公認(^^ゞ
次回はようやく倭から日本になった飛鳥時代末期の700年前後に戻る予定。素直に本題に入れるかどうかはわからないがm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 20:26|Permalink│Comments(0)│
2025年10月30日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その6
前置きのつもりだった倭の話が長かったが、
今回より「日本」の「読み」について。
初回に書いたように明治政府が東京の読みを定めなかったので、トウキョウ、トウケイそしてトキオと3つの読み方が混在した時期が明治36年まで続いた。江戸が東京になったのは明治維新のときだけれど、倭から日本に国名を変えたのは飛鳥時代末期の700年前後とはるか昔。タイトルに書いたジッポンやニフォンなど様々な読みがあったようである。その変遷はひとまず置いて、まずは現在のお話から。
ご承知のように日本にはニホンとニッポンの二通りの読みがある。私はほとんどニホンかな。口に出すかどうかは別として、ニッポンと発音するのはスポーツの対外試合で「がんばれニッポン」と応援するときくらい。あとその流れで選手団の「日本代表」はニッポン代表と読んでいる気がする。
ニッポンではなくニホンと発音するのは、単純にそのほうが小さい「っ」(促音)が入らなくて口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
国名としての日本以外に、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている名称や単語について、それをどう読むかはネットでいろいろ実例が載っている。固有名詞で意外だったのは
日本体育大学→ニッポン体育大学
日本武道館→ニッポン武道館
日本体育大学の読みを記した資料は見つからなかったものの、英文表記ではNipponと書かれている。もっとも普段はニッタイダイなので、ニッポン体育大学と声に出す機会はほとんどない。
ちなみに左側にあるのは校章で、體は体の旧字。骨に豊かとは味のある表現。また歴史的には體→軆→躰→体と変化していったとされる。軆は身が豊か、躰は身が本(もと)と書き方を簡略化しながらも意味を継承しているのが面白い。體の下にある而に似た字は大の古文字。つまり校章は「体大」のデザイン化。
こちらは日本武道館の英文ホームページ。インターネットのURLも “ https://www.nipponbudokan.or.jp ” となっている。
ところで名称がニホンかニッポンかでよく取り上げられるのが日本銀行。解説の多くはお札にNIPPON GINKOと記されているからニッポン銀行だとしている。でもそれは必ずしも正確ではない。
日銀のホームページには次のような記述がある。https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j02.htmより引用
「日本銀行」の読み方については、法律などで「〇〇と読む」と決められている訳
ではなく、また、日本の国名を「ニッポン」と読むか、あるいは「ニホン」と
読むのかという問題に似て、二者択一的に決めるのは難しいところです。
ただ、お札の裏に「NIPPON GINKOアルファベットでにっぽんぎんこう」と
印刷してあることもあって、日本銀行では「ニッポンギンコウ」と呼ぶように
しております。
説明はそれなりに筋が通っていると思えるものの、さらに遡ってどうしてNIHONではなくNIPPONと刷ったのか正確ないきさつは不明。紙幣にNIPPON GINKOの文字が入ったのは1885年(明治18年)。当時の大蔵大臣の松方正義、初代日銀総裁の吉原重俊らは薩摩出身で、その頃の九州人はニッポンの発音を好んだとの説もある。ただしこれもあくまで推測の域を出ない。
また以前は西日本がニッポン、東日本がニホンと発音しており、それで大阪の日本橋はニッポン橋、東京はニホン橋なんて真偽不明の説もある。
余談その1
ローマ字表記で銀行をGINKOと書いてあるのに違和感があるし気に入らない。名詞でも佐藤さんはSATO、加藤さんならKATOが圧倒的。フリガナを振ればギンコウ、サトウ、カトウとなるのに、どうしてローマ字ではUを省略するのか。いずれブログのテーマにしましょう。
さて社名に日本がつく企業はたくさんある。NTTは今年の7月に商号(会社名)変更するまで日本電信電話株式会社で、日本電信電話公社の時代から読みはニッポン。保険会社の日本生命はニホン。しかし子会社のNTT東日本や西日本はニホンを使ってたし、日本生命の英文表記はNippon Life Insurance Companyとけっこういい加減。あるいは臨機応変な対応と見るべきか。
日本航空はずっとニホン航空と呼ばれ自らもそう称してきたが、以前の正式というか公式な読みはニッポン航空だった。これは会社の定款の英語訳が「NIPPON KOKU」だったため。これも日本銀行と同じで英訳がNIPPONになった理由は不明。
そもそも会社を作って登記する際、商号(社名)にフリガナを付けるようになったのは2018年(平成30年)とつい最近。2018年以前に作られた会社を言い換えれば、ほとんどの会社。だから企業に正しい読みは存在しないといえる。それで創業時にニッポン〇〇〇と名前を付けたつもりでも、後になってニホン〇〇〇と呼ばれるたりするのだ。
余談その2
登記の制度が変わって以降、カタカナや平仮名の社名でも、申請書類にフリガナを振っていないと突き返されるらしい。
考えてみると日本語は漢字表記ファーストで読みはその次のような気もする。例えば東さんはヒガシともアズマとも読める。総理大臣だって菅(かん)直人と菅(すが)義偉がいた。名前の読みを間違えるのは失礼だけれど、初対面ならまあ許してもらえる。しかし芳田さんを吉田、荒居さんを新井なんて字を間違えると相当に印象が悪くなる。織田信長と書くべき宛名を尾田や緒多にしてしまったら切腹(^^ゞ
キラキラネームなんてのも、その漢字ファースト文化の反映、あるいは制度や風習を逆手に取ったようなもの。なお戸籍の氏名も今年の5月に制度が変わってフリガナの記載が義務づけられた。ただし読み方の自由度は高いので、よほど常識に反していない限りキラキラネームも認められる。
ーーー続く
今回より「日本」の「読み」について。
初回に書いたように明治政府が東京の読みを定めなかったので、トウキョウ、トウケイそしてトキオと3つの読み方が混在した時期が明治36年まで続いた。江戸が東京になったのは明治維新のときだけれど、倭から日本に国名を変えたのは飛鳥時代末期の700年前後とはるか昔。タイトルに書いたジッポンやニフォンなど様々な読みがあったようである。その変遷はひとまず置いて、まずは現在のお話から。
ご承知のように日本にはニホンとニッポンの二通りの読みがある。私はほとんどニホンかな。口に出すかどうかは別として、ニッポンと発音するのはスポーツの対外試合で「がんばれニッポン」と応援するときくらい。あとその流れで選手団の「日本代表」はニッポン代表と読んでいる気がする。
ニッポンではなくニホンと発音するのは、単純にそのほうが小さい「っ」(促音)が入らなくて口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
国名としての日本以外に、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている名称や単語について、それをどう読むかはネットでいろいろ実例が載っている。固有名詞で意外だったのは
日本体育大学→ニッポン体育大学
日本武道館→ニッポン武道館
日本体育大学の読みを記した資料は見つからなかったものの、英文表記ではNipponと書かれている。もっとも普段はニッタイダイなので、ニッポン体育大学と声に出す機会はほとんどない。
ちなみに左側にあるのは校章で、體は体の旧字。骨に豊かとは味のある表現。また歴史的には體→軆→躰→体と変化していったとされる。軆は身が豊か、躰は身が本(もと)と書き方を簡略化しながらも意味を継承しているのが面白い。體の下にある而に似た字は大の古文字。つまり校章は「体大」のデザイン化。
こちらは日本武道館の英文ホームページ。インターネットのURLも “ https://www.nipponbudokan.or.jp ” となっている。
ところで名称がニホンかニッポンかでよく取り上げられるのが日本銀行。解説の多くはお札にNIPPON GINKOと記されているからニッポン銀行だとしている。でもそれは必ずしも正確ではない。
日銀のホームページには次のような記述がある。https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j02.htmより引用
「日本銀行」の読み方については、法律などで「〇〇と読む」と決められている訳
ではなく、また、日本の国名を「ニッポン」と読むか、あるいは「ニホン」と
読むのかという問題に似て、二者択一的に決めるのは難しいところです。
ただ、お札の裏に「NIPPON GINKOアルファベットでにっぽんぎんこう」と
印刷してあることもあって、日本銀行では「ニッポンギンコウ」と呼ぶように
しております。
説明はそれなりに筋が通っていると思えるものの、さらに遡ってどうしてNIHONではなくNIPPONと刷ったのか正確ないきさつは不明。紙幣にNIPPON GINKOの文字が入ったのは1885年(明治18年)。当時の大蔵大臣の松方正義、初代日銀総裁の吉原重俊らは薩摩出身で、その頃の九州人はニッポンの発音を好んだとの説もある。ただしこれもあくまで推測の域を出ない。
また以前は西日本がニッポン、東日本がニホンと発音しており、それで大阪の日本橋はニッポン橋、東京はニホン橋なんて真偽不明の説もある。
余談その1
ローマ字表記で銀行をGINKOと書いてあるのに違和感があるし気に入らない。名詞でも佐藤さんはSATO、加藤さんならKATOが圧倒的。フリガナを振ればギンコウ、サトウ、カトウとなるのに、どうしてローマ字ではUを省略するのか。いずれブログのテーマにしましょう。
さて社名に日本がつく企業はたくさんある。NTTは今年の7月に商号(会社名)変更するまで日本電信電話株式会社で、日本電信電話公社の時代から読みはニッポン。保険会社の日本生命はニホン。しかし子会社のNTT東日本や西日本はニホンを使ってたし、日本生命の英文表記はNippon Life Insurance Companyとけっこういい加減。あるいは臨機応変な対応と見るべきか。
日本航空はずっとニホン航空と呼ばれ自らもそう称してきたが、以前の正式というか公式な読みはニッポン航空だった。これは会社の定款の英語訳が「NIPPON KOKU」だったため。これも日本銀行と同じで英訳がNIPPONになった理由は不明。
そもそも会社を作って登記する際、商号(社名)にフリガナを付けるようになったのは2018年(平成30年)とつい最近。2018年以前に作られた会社を言い換えれば、ほとんどの会社。だから企業に正しい読みは存在しないといえる。それで創業時にニッポン〇〇〇と名前を付けたつもりでも、後になってニホン〇〇〇と呼ばれるたりするのだ。
余談その2
登記の制度が変わって以降、カタカナや平仮名の社名でも、申請書類にフリガナを振っていないと突き返されるらしい。
考えてみると日本語は漢字表記ファーストで読みはその次のような気もする。例えば東さんはヒガシともアズマとも読める。総理大臣だって菅(かん)直人と菅(すが)義偉がいた。名前の読みを間違えるのは失礼だけれど、初対面ならまあ許してもらえる。しかし芳田さんを吉田、荒居さんを新井なんて字を間違えると相当に印象が悪くなる。織田信長と書くべき宛名を尾田や緒多にしてしまったら切腹(^^ゞ
キラキラネームなんてのも、その漢字ファースト文化の反映、あるいは制度や風習を逆手に取ったようなもの。なお戸籍の氏名も今年の5月に制度が変わってフリガナの記載が義務づけられた。ただし読み方の自由度は高いので、よほど常識に反していない限りキラキラネームも認められる。
ーーー続く
wassho at 21:08|Permalink│Comments(0)│
2025年10月21日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その5
20万年前に南アフリカ周辺で誕生したホモサピエンス。6万年前にヨーロッパに進出し、あちこちを経由して日本列島にやって来たのが4万年前の紀元前3万8000年。そこから紀元前1万4000年までが旧石器時代で、さらにその先の紀元前900年代までを新石器時代にあたる縄文時代と呼ぶ。
縄文人は旧石器時代にやって来た人たちの子孫と考えられている。次の紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間が弥生時代であるが、弥生人は縄文人とは別系統。
弥生人がどこから来たのかは明確にはわかっていない(縄文人もだけれど)。それでも朝鮮半島から、あるいは中国から朝鮮半島経由で日本列島に渡ってきた人が多くいたのは確かだと思われる。
図はホモサピエンスの全世界移動ルート。画像はhttps://globe.asahi.com/article/14501100から引用
もちろんある時期に大挙して押し寄せたのではなく、縄文後期から少しずつ渡ってきた。そのころより地球の寒冷化が始まり暖かさを求めて南下した、あるいは大陸や半島の戦乱を逃れて来た難民などの説がある。すべての人が同じ理由ではないだろうし、弥生時代の1200年間には様々な理由があったはず。
前回、朝鮮半島の楽浪郡や中国の洛陽まで、弥生人がカヌーのような小さな船で朝貢に趣いていたのは驚くと書いた。しかし元々は海を渡ってやって来たのだから、当時はそれなりの海洋国家だったのかも知れない。
ただし中国の歴史書で最初に倭が登場するのは、時期は特定できないものの前漢王朝であった紀元前206年〜8年のどこかでの出来事である。その後の後漢の歴史書では紀元57年と107年の記述がある。つまり1200年続いた弥生時代の後期。
朝鮮半島から海を渡ってやってきたとはいえ、おそらく多くの弥生人にとってそれは数百年前の先祖の話であり、彼らが「海の民」であったわけではない。一方で多くは日本列島に定住したが、対馬あたりでは、そこを本拠地としながら朝鮮半島と頻繁に行き来している部族がいたものと思われる。
ところで弥生時代に古代中国王朝に朝貢していたと聞いて、
おそらく最初に思い浮かぶ疑問は
その時代にどうやって海を渡った?
中国語は話せたのか?
である。
航海については前回に紹介したようなカヌーを漕いで頑張った(^^ゞ そして朝鮮半島に行き来している部族は、朝鮮語や中国語を話せたのだと思う。おそらく彼らが朝貢外交団の一員として通訳を務めたのだろう。まさか身振り手振りだけで朝貢の役目を果たせたとは考えづらい。
さてここからが本題。
弥生時代の倭人には日本語と中国語のバイリンガルな人々がいたのである。
それは「文字」の存在を知っていたことを意味する。
なのになぜ国内では文字が使われなかったのだ?
そもそも中国大陸から渡ってきた弥生人がいるなら、
どうして日本に列島に来て文字を使うのをやめてしまった?
古代中国で漢字のルーツである甲骨文字が使われ始めたのは殷王朝(紀元前16世紀中頃〜紀元前1046年)の時代。それは占いの記録用途だったようで、コミュニケーションツールとしての文字は次の周王朝(紀元前1046年〜紀元前770年)から。弥生時代の始まりが紀元前900年代なので時期は重なる。
もっとも当時の中国で文字を使えるのはごく一部の支配階級だけで、日本に渡ってきた人々まで普及していなかった可能性はある。それはそれとして、朝貢で古代中国とやりとりをしていた弥生時代の支配階級は、文字の存在を知っていたはず。なのにそれを自分たちの言語に応用しなかったのかは大いにナゾ
以前に文字が使われるには
1.人口が多い
2.都市が形成される
3.支配者の権力が強く官僚制度がある
などの条件が揃ってからと何かで読んだ。
1は人が少なければ口頭で済むとの単純な理屈。2について記憶が曖昧なものの、いろんな職業や階層の人が集まるようになって、コミュニケーションツールとして文字が必要になるだったかな。例えば集落全員が農民で、皆が同じような暮らしをしているのなら情報交換は口頭だけで事足りる。3も基本的に同じで世の中の仕組みが複雑になると事務仕事が発生する。何となく世界各地で文字が発明された四大文明を逆算したような説ではあるが。
弥生時代に古代中国によって日本は倭と名付けられ、その各地域の支配者が倭の国王と呼ばれたけれど、現在になぞらえての実態イメージとしては「未開なジャングルに住む部族とその酋長」程度だったのだろう。そりゃまだ文字は必要ないな。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。世界最大のお墓である仁徳天皇陵なんて、それなりの文明力を感じさせるのに築造されたのは400年から450年頃と推定され、まだ文字はなし。考えてみればピラミッドと違って古墳なんて造るのにそんなに高度な技術はいらないか。
だから古墳時代になったとはいえまだまだ酋長の時代が続いていた。だいたい弥生時代と古墳時代は、有力者の大型の墓が円形だったか、丸と四角を組み合わせた前方後円墳だったか程度の違いしかない。
まあ歴史区分の半分はそういうもので、どこかで区切りを付けないと理解しづらいから後世になって分けているだけ。縄文時代と弥生時代は稲作の普及と鉄器の使用といった社会的な違いがあっても、奈良時代と平安時代なんて都が奈良から京都に移ったに過ぎない。また江戸時代と明治時代は社会のあり方に大きな違いがある。ただしその後に明治・大正・昭和・平成・令和と天皇の代替わりで何となく区別しているけれど、中身はそんなに変わっていない。あえて言えば戦前と戦後は違うかな。数百年先に明治以降は何時代と呼ばれるのだろうね。とりあえずこのブログは昭和人が平成と令和の時代に書いています(^^ゞ
話を文字に戻すと日本には古墳時代の中頃まで文字はなかった。古代中国との接触で文字は目にしていても、バイリンガル弥生人は別として、支配階級を含めて民族全体として文字は使わなかった。
「その2」で書いたように、紀元57年の朝貢では後漢の光武帝より漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と文字が刻まれた金印が贈られた。他にも文字が使われる4世紀以前の出土品で、鏡や土器などに漢字が記されたものが見つかっている(文章ではなく数文字程度)。
金印はもちろん、漢字が刻まれた鏡や土器は支配階級の所有物である。バイリンガル弥生人に多少は意味を教えられたかも知れないが、彼らは漢字は読めないし中国語もわからない。
どんな風にこれらの文字を眺めていたのかな。
単なる線を使ったデザインとしてか?
(関係ないが弥生時代に朱肉はなかったはず)

それで思い浮かべるのはこんな外国人の漢字タトゥー。弥生人も案外こんなノリで「この金印イケてるねえ、超クール!」なんて会話してたりして(^^ゞ
さて「その3」では倭という名前が蔑称(べっしょう)かどうかについて書いた。その文章を引用すると
飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。
唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」
などの記述が見られる。
文字を使い始めてから200年。ようやく倭や邪馬台国や卑弥呼などが中国から馬鹿にされた名前だと気付いたみたい。遅すぎるゾ
そういえば昔は便所や便器なんて漢字タトゥーを入れた外国人がいたのに、最近は見かけない。写真のタトゥーは便所に較べればまだまとも。これは単にデザインだけで漢字を選んでいたのが、ネットで手軽に意味を調べられるようになったからだと思っている。とりあえず無知は怖いね。
先ほどの漢委奴国王の金印が江戸時代に田んぼで偶然見つかった話は、社会科だったか日本史だったかで習う。しばらくして、これが日本にもたらされたのは弥生時代で、その頃の日本にはまだ文字がなく、でも中国ではもっと大昔から文字を使っていたと知った。その時に日本はなんて遅れた国だったのかと情けなかった。その印象はかなり強烈で、実は日本民族が文字を生み出さなかったのを何となくコンプレックスに感じてきた。
紀元前1000年あたりで文字を使い始めた中国と紀元500年からの日本。
日本は文字について中国に1500年も後れを取った。
でもでもしかしである。
ホモサピエンスが誕生したのが20万年前。そしてどうやってそんなことがわかるのか根拠は見つけられなかったものの、人類が言葉を喋り出したのが10万年前とされる。
つまり言葉が生まれて10万年の歴史がある中で1500年の遅れなんて、その1.5%の期間に過ぎないのである。ホモサピエンス20万年の歴史でなら0.75%、何なら最初の人類である猿人が誕生した700万年前を持ち出せば0.02%となり誤差以下の値である。だから歴史的に見てたいした差ではなかったとこれからは思うようにしましょう。まあ都合よく数字をいじくるのは職業柄もあって得意である(^^ゞ
ーーー続く
倭の話は今回で終わりのつもり。
縄文人は旧石器時代にやって来た人たちの子孫と考えられている。次の紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間が弥生時代であるが、弥生人は縄文人とは別系統。
弥生人がどこから来たのかは明確にはわかっていない(縄文人もだけれど)。それでも朝鮮半島から、あるいは中国から朝鮮半島経由で日本列島に渡ってきた人が多くいたのは確かだと思われる。
図はホモサピエンスの全世界移動ルート。画像はhttps://globe.asahi.com/article/14501100から引用
もちろんある時期に大挙して押し寄せたのではなく、縄文後期から少しずつ渡ってきた。そのころより地球の寒冷化が始まり暖かさを求めて南下した、あるいは大陸や半島の戦乱を逃れて来た難民などの説がある。すべての人が同じ理由ではないだろうし、弥生時代の1200年間には様々な理由があったはず。
前回、朝鮮半島の楽浪郡や中国の洛陽まで、弥生人がカヌーのような小さな船で朝貢に趣いていたのは驚くと書いた。しかし元々は海を渡ってやって来たのだから、当時はそれなりの海洋国家だったのかも知れない。
ただし中国の歴史書で最初に倭が登場するのは、時期は特定できないものの前漢王朝であった紀元前206年〜8年のどこかでの出来事である。その後の後漢の歴史書では紀元57年と107年の記述がある。つまり1200年続いた弥生時代の後期。
朝鮮半島から海を渡ってやってきたとはいえ、おそらく多くの弥生人にとってそれは数百年前の先祖の話であり、彼らが「海の民」であったわけではない。一方で多くは日本列島に定住したが、対馬あたりでは、そこを本拠地としながら朝鮮半島と頻繁に行き来している部族がいたものと思われる。
ところで弥生時代に古代中国王朝に朝貢していたと聞いて、
おそらく最初に思い浮かぶ疑問は
その時代にどうやって海を渡った?
中国語は話せたのか?
である。
航海については前回に紹介したようなカヌーを漕いで頑張った(^^ゞ そして朝鮮半島に行き来している部族は、朝鮮語や中国語を話せたのだと思う。おそらく彼らが朝貢外交団の一員として通訳を務めたのだろう。まさか身振り手振りだけで朝貢の役目を果たせたとは考えづらい。
さてここからが本題。
弥生時代の倭人には日本語と中国語のバイリンガルな人々がいたのである。
それは「文字」の存在を知っていたことを意味する。
なのになぜ国内では文字が使われなかったのだ?
そもそも中国大陸から渡ってきた弥生人がいるなら、
どうして日本に列島に来て文字を使うのをやめてしまった?
古代中国で漢字のルーツである甲骨文字が使われ始めたのは殷王朝(紀元前16世紀中頃〜紀元前1046年)の時代。それは占いの記録用途だったようで、コミュニケーションツールとしての文字は次の周王朝(紀元前1046年〜紀元前770年)から。弥生時代の始まりが紀元前900年代なので時期は重なる。
もっとも当時の中国で文字を使えるのはごく一部の支配階級だけで、日本に渡ってきた人々まで普及していなかった可能性はある。それはそれとして、朝貢で古代中国とやりとりをしていた弥生時代の支配階級は、文字の存在を知っていたはず。なのにそれを自分たちの言語に応用しなかったのかは大いにナゾ
以前に文字が使われるには
1.人口が多い
2.都市が形成される
3.支配者の権力が強く官僚制度がある
などの条件が揃ってからと何かで読んだ。
1は人が少なければ口頭で済むとの単純な理屈。2について記憶が曖昧なものの、いろんな職業や階層の人が集まるようになって、コミュニケーションツールとして文字が必要になるだったかな。例えば集落全員が農民で、皆が同じような暮らしをしているのなら情報交換は口頭だけで事足りる。3も基本的に同じで世の中の仕組みが複雑になると事務仕事が発生する。何となく世界各地で文字が発明された四大文明を逆算したような説ではあるが。
弥生時代に古代中国によって日本は倭と名付けられ、その各地域の支配者が倭の国王と呼ばれたけれど、現在になぞらえての実態イメージとしては「未開なジャングルに住む部族とその酋長」程度だったのだろう。そりゃまだ文字は必要ないな。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。世界最大のお墓である仁徳天皇陵なんて、それなりの文明力を感じさせるのに築造されたのは400年から450年頃と推定され、まだ文字はなし。考えてみればピラミッドと違って古墳なんて造るのにそんなに高度な技術はいらないか。
だから古墳時代になったとはいえまだまだ酋長の時代が続いていた。だいたい弥生時代と古墳時代は、有力者の大型の墓が円形だったか、丸と四角を組み合わせた前方後円墳だったか程度の違いしかない。
まあ歴史区分の半分はそういうもので、どこかで区切りを付けないと理解しづらいから後世になって分けているだけ。縄文時代と弥生時代は稲作の普及と鉄器の使用といった社会的な違いがあっても、奈良時代と平安時代なんて都が奈良から京都に移ったに過ぎない。また江戸時代と明治時代は社会のあり方に大きな違いがある。ただしその後に明治・大正・昭和・平成・令和と天皇の代替わりで何となく区別しているけれど、中身はそんなに変わっていない。あえて言えば戦前と戦後は違うかな。数百年先に明治以降は何時代と呼ばれるのだろうね。とりあえずこのブログは昭和人が平成と令和の時代に書いています(^^ゞ
話を文字に戻すと日本には古墳時代の中頃まで文字はなかった。古代中国との接触で文字は目にしていても、バイリンガル弥生人は別として、支配階級を含めて民族全体として文字は使わなかった。
「その2」で書いたように、紀元57年の朝貢では後漢の光武帝より漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と文字が刻まれた金印が贈られた。他にも文字が使われる4世紀以前の出土品で、鏡や土器などに漢字が記されたものが見つかっている(文章ではなく数文字程度)。
金印はもちろん、漢字が刻まれた鏡や土器は支配階級の所有物である。バイリンガル弥生人に多少は意味を教えられたかも知れないが、彼らは漢字は読めないし中国語もわからない。
どんな風にこれらの文字を眺めていたのかな。
単なる線を使ったデザインとしてか?
(関係ないが弥生時代に朱肉はなかったはず)

それで思い浮かべるのはこんな外国人の漢字タトゥー。弥生人も案外こんなノリで「この金印イケてるねえ、超クール!」なんて会話してたりして(^^ゞ
さて「その3」では倭という名前が蔑称(べっしょう)かどうかについて書いた。その文章を引用すると
飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。
唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」
などの記述が見られる。
文字を使い始めてから200年。ようやく倭や邪馬台国や卑弥呼などが中国から馬鹿にされた名前だと気付いたみたい。遅すぎるゾ
そういえば昔は便所や便器なんて漢字タトゥーを入れた外国人がいたのに、最近は見かけない。写真のタトゥーは便所に較べればまだまとも。これは単にデザインだけで漢字を選んでいたのが、ネットで手軽に意味を調べられるようになったからだと思っている。とりあえず無知は怖いね。
先ほどの漢委奴国王の金印が江戸時代に田んぼで偶然見つかった話は、社会科だったか日本史だったかで習う。しばらくして、これが日本にもたらされたのは弥生時代で、その頃の日本にはまだ文字がなく、でも中国ではもっと大昔から文字を使っていたと知った。その時に日本はなんて遅れた国だったのかと情けなかった。その印象はかなり強烈で、実は日本民族が文字を生み出さなかったのを何となくコンプレックスに感じてきた。
紀元前1000年あたりで文字を使い始めた中国と紀元500年からの日本。
日本は文字について中国に1500年も後れを取った。
でもでもしかしである。
ホモサピエンスが誕生したのが20万年前。そしてどうやってそんなことがわかるのか根拠は見つけられなかったものの、人類が言葉を喋り出したのが10万年前とされる。
つまり言葉が生まれて10万年の歴史がある中で1500年の遅れなんて、その1.5%の期間に過ぎないのである。ホモサピエンス20万年の歴史でなら0.75%、何なら最初の人類である猿人が誕生した700万年前を持ち出せば0.02%となり誤差以下の値である。だから歴史的に見てたいした差ではなかったとこれからは思うようにしましょう。まあ都合よく数字をいじくるのは職業柄もあって得意である(^^ゞ
ーーー続く
倭の話は今回で終わりのつもり。
wassho at 22:27|Permalink│Comments(0)│
2025年10月19日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その4
かつて東京がトウケイやトキオと呼ばれていたのと同じように、日本にもニッポンとニホン以外の読み方があったと知り、それでそもそもいつから日本?と調べだしたら、その前は「倭」だったのを思い出して、そちらが何かと興味深く今回で「その4」になってしまった。
こんなことなら「日本」の話題に入るまで、
「倭」にちなんだタイトルにするべきだったと反省□\(.. )
ところでこの反省の絵文字はもう意味がわからない人が多いかも知れない。1980年代後半に猿回しでサルが反省するポーズが大人気になったのよ。
さて今回は名称としての倭についてではなく、
それ以外のあれこれ。
何度も書いたように弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたり)の日本民族は文字を持たなかったので、その記録が最初に現れるのは前漢王朝(紀元前206年〜8年)の歴史書である漢書によって。そこには倭人が貢ぎ物を持って、前漢が朝鮮半島支配の拠点とした現在の平壌あたりである楽浪郡までやって来たと記されている。
漢書には具体的な時期は記されていないものの、次の次の王朝である後漢(25年〜220年)の歴史書には紀元57年、107年の朝貢(ちょうこう:中国皇帝に貢ぎ物を献上して臣下の礼を示す外交)が記録されている。このうち少なくとも57年の謁見は後漢の都である洛陽(らくよう)で行われたと考えられる。
中国大陸中部の洛陽と、朝鮮半島の楽浪郡の位置図。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
それにしても弥生時代に海を越えて朝鮮半島や中国大陸まで出かけていたことに驚く。埴輪や船が描かれた絵など様々な出土品から、当時の船は丸太をくりぬいた丸太舟(考古学では丸木舟と表現する)か、長距離航海にはそれの側面に板を張ってかさ上げした準構造船が使われていたと見られている。作り方はともかくとして、今でいえば大型のカヌーみたいなもの。全長は大きい船で12m程度の推定。参考までに大型観光バスがそれくらい。画像はhttps://shimonaga-iseki.yayoiken.jp/n-fune.htmlから引用
これは弥生時代より後の古墳時代前期(4世紀初頭)の古代船を復元したもの。これで全長は11m。弥生時代の船はこれよりもっとショボかったはずで、そんな船でよく海を渡ったものだ。画像はhttps://x.gd/mjnEP(短縮URL使用)より引用
ところで仮に九州から対馬経由で朝鮮半島に渡ったとすれば120kmプラス50km。こんな小さな手漕ぎボートでの航海は危険極まりなく漂流や沈没も多かったと思われる。それでも海を渡った弥生人のバイタリティに感心しながら、ふと後漢書に書かれていた内容が気になった。
それは
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した
こんな船で160人も運んだのか?
復元された古代船の写真では漕ぎ手が8人に船頭が2人乗っている。奴隷に漕がせるとして160人 ÷ 8人 =20隻。外交使節団や随行員とその他に人足モロモロを加えると、少なくともあと10隻は必要に思える。
そうなると30隻以上の大船団。それを送り出せるような国力が弥生時代にあったのだろうか。もちろん数隻でのピストン輸送も考えられるとしても、それだとかなりの日数が掛かりそうだ。
これについては様々な学説がある。
あまり詳しく調べていないが、
・後漢サイドが自らの権威を誇張するために人数を盛った
・160人の奴隷を献上したいと言っただけで、実際に献上されたかは不明
・帥升が治めていた国は朝鮮半島にあった
→つまり対馬海峡を渡って奴隷を運んだのではない
→その場合の倭国全体は日本列島と朝鮮半島にまたがる連合国家のような形態となる
などを見つけた。
弥生時代の倭について記した文書は漢書、後漢書、魏志倭人伝と他にもいくつかあるようだけれど、全部足してもたいした分量(文字数)ではない。また書かれている内容が正確とも限らない。歴史家はその背景や行間をあれこれ推測しながら、あるいはこじつけたりして自説を唱えている。それが歴史のロマンにも思えるし、エエ加減な学問・気楽な商売だとうらやましくもある(^^ゞ
次回も「日本」にたどり着かない予定m(_ _)m
ーーー続く
<2025年10月21日追記>
やはり倭の話を書いているのに、タイトルが「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン」なのはふさわしくない。しかし既に4回もそのタイトルでアップしている。
そこで折衷策として「その2」の回以降を「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)」と変更した。
こんなことなら「日本」の話題に入るまで、
「倭」にちなんだタイトルにするべきだったと反省□\(.. )
ところでこの反省の絵文字はもう意味がわからない人が多いかも知れない。1980年代後半に猿回しでサルが反省するポーズが大人気になったのよ。
さて今回は名称としての倭についてではなく、
それ以外のあれこれ。
何度も書いたように弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたり)の日本民族は文字を持たなかったので、その記録が最初に現れるのは前漢王朝(紀元前206年〜8年)の歴史書である漢書によって。そこには倭人が貢ぎ物を持って、前漢が朝鮮半島支配の拠点とした現在の平壌あたりである楽浪郡までやって来たと記されている。
漢書には具体的な時期は記されていないものの、次の次の王朝である後漢(25年〜220年)の歴史書には紀元57年、107年の朝貢(ちょうこう:中国皇帝に貢ぎ物を献上して臣下の礼を示す外交)が記録されている。このうち少なくとも57年の謁見は後漢の都である洛陽(らくよう)で行われたと考えられる。
中国大陸中部の洛陽と、朝鮮半島の楽浪郡の位置図。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
それにしても弥生時代に海を越えて朝鮮半島や中国大陸まで出かけていたことに驚く。埴輪や船が描かれた絵など様々な出土品から、当時の船は丸太をくりぬいた丸太舟(考古学では丸木舟と表現する)か、長距離航海にはそれの側面に板を張ってかさ上げした準構造船が使われていたと見られている。作り方はともかくとして、今でいえば大型のカヌーみたいなもの。全長は大きい船で12m程度の推定。参考までに大型観光バスがそれくらい。画像はhttps://shimonaga-iseki.yayoiken.jp/n-fune.htmlから引用
これは弥生時代より後の古墳時代前期(4世紀初頭)の古代船を復元したもの。これで全長は11m。弥生時代の船はこれよりもっとショボかったはずで、そんな船でよく海を渡ったものだ。画像はhttps://x.gd/mjnEP(短縮URL使用)より引用
ところで仮に九州から対馬経由で朝鮮半島に渡ったとすれば120kmプラス50km。こんな小さな手漕ぎボートでの航海は危険極まりなく漂流や沈没も多かったと思われる。それでも海を渡った弥生人のバイタリティに感心しながら、ふと後漢書に書かれていた内容が気になった。
それは
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した
こんな船で160人も運んだのか?
復元された古代船の写真では漕ぎ手が8人に船頭が2人乗っている。奴隷に漕がせるとして160人 ÷ 8人 =20隻。外交使節団や随行員とその他に人足モロモロを加えると、少なくともあと10隻は必要に思える。
そうなると30隻以上の大船団。それを送り出せるような国力が弥生時代にあったのだろうか。もちろん数隻でのピストン輸送も考えられるとしても、それだとかなりの日数が掛かりそうだ。
これについては様々な学説がある。
あまり詳しく調べていないが、
・後漢サイドが自らの権威を誇張するために人数を盛った
・160人の奴隷を献上したいと言っただけで、実際に献上されたかは不明
・帥升が治めていた国は朝鮮半島にあった
→つまり対馬海峡を渡って奴隷を運んだのではない
→その場合の倭国全体は日本列島と朝鮮半島にまたがる連合国家のような形態となる
などを見つけた。
弥生時代の倭について記した文書は漢書、後漢書、魏志倭人伝と他にもいくつかあるようだけれど、全部足してもたいした分量(文字数)ではない。また書かれている内容が正確とも限らない。歴史家はその背景や行間をあれこれ推測しながら、あるいはこじつけたりして自説を唱えている。それが歴史のロマンにも思えるし、エエ加減な学問・気楽な商売だとうらやましくもある(^^ゞ
次回も「日本」にたどり着かない予定m(_ _)m
ーーー続く
<2025年10月21日追記>
やはり倭の話を書いているのに、タイトルが「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン」なのはふさわしくない。しかし既に4回もそのタイトルでアップしている。
そこで折衷策として「その2」の回以降を「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)」と変更した。
wassho at 18:44|Permalink│Comments(0)│
2025年10月15日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その3
文字を持っていなかった弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたり)の日本民族。歴史に初めてその存在が記録されるのが、紀元後80年前後に編纂され中国・前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた「漢書(かんじょ)」によって。「朝鮮半島の海の向こう」に「倭人」が住んでいて「ときどき貢ぎ物を持ってやって来る」と紹介された。
それ以外に有名な史実として魏志「倭」人伝、漢委奴国王印(かんの「わ」のなのこくおういん)の金印、邪馬台国の卑弥呼が親魏「倭」王の称号を授けられたとか、なんとなく昔の日本は「倭」と呼ばれていたとの認識はある。しかしなぜ「倭」なのか?
論理的には2通りある。
日本人が倭と名乗った
中国側で倭と名付けた
後者は朝鮮半島の先に島々があって、会ったことはなくても人が住んでいるだろうから、元々そこを倭と呼んでいたケース。地球人が勝手に火星や火星人と呼ぶようなものである
学説では一般に前者である。
しかしいくつかの疑問がある。
まず日本人が名乗ったとして、倭はその名乗った言葉の音を中国の漢字に当てはめている。歴史の教科書でそれを「わ」と習うけれど、中国ではどうだったのか。現代の中国語で倭はウェイまたはゥオー、朝鮮語ではウェらしい(貢ぎ物を献上しに行ったのは朝鮮半島にあって前漢支配下の楽浪郡)。前漢時代の発音まではわからないが、日本人が名乗ったのは「わ」ではなかった気がする。
ちなみに英国をイギリスと呼ぶのは日本だけ。これはポルトガル語のイングレスがエゲレス→イギリスと変化した。日本人が名乗ったのはイングレスで倭はイギリスみたいなものかも知れない。同じことを前回に後漢書で歴史に初めて記された日本人の名前とされる「帥升(すいしょう)」についても書いた。
次に倭とは現在の感覚でなら日本列島を意味するが、当時は弥生時代後期に栄えていた北九州か出雲か奈良あたりを指していたと思われる。漢書によれば百くらいの小国に分かれていたらしい。この百が実際の数字なのか、たくさんとの意味なのかは不明として、弥生時代後期の国とはいわゆる部族集団で、統治していた面積も今の「市」程度かと想像する。
つまり日本国のような国家概念はなかった。
それなのに「私は倭という国から来ました」と名乗るか?
弥生時代に各部族の支配地域を越えた地域を表す名前があったとはどうにも想像しづらい。
それと中国の歴代王朝は夏、殷、周、秦、漢から始まり隋、唐、宋、元、明、最後の清に至るまですべて一文字である。また苗字も李、王、張、劉、陳など一文字がほとんど。韓国でも金、李、朴、崔、鄭など同様。王朝名や苗字と、そして現代と弥生時代を較べる無理を承知で書けば日本の地名は二文字以上がほとんど。漢字が一文字でも訓読み(すなわち日本語読み、音読みは中国読み)なら呉(くれ)、柏(かしわ)など音節は2つ以上。一文字一音節である三重県の津(つ)なんて例外中の例外。
そんなこんなで「日本人が倭と名乗った」のではなく「中国側で倭と名付けた」のではないかとモーソーしている。つまり火星人方式のネーミング。だいたいウェイやゥオーなんてとても日本語の地名とは思えない。
そう考える理由はもうひとつある。
倭の文字にどんなイメージをいだくだろうか?
私にはネガティブな語感に響く。
日本でこの漢字は古代の倭国や倭人関連以外ではほとんど使われない。普段の日本語にはない漢字と言ってもいい。それなのにイメージが悪いのは、おそらく倭と矮(わい)が似ていて、矮には矮小や矮性(園芸用語)など小さいや背が低いの意味があるせいだ。
それで中国語で倭はネガティブな意味合いを持っていたのか。悪字を当ててチビな列島人と見下す蔑称(べっしょう)だったのか。学説的には「よくわからない」との意見が多いみたい。倭は固有名詞で矮は形容詞との指摘もある。
それでも蔑称だったような気がする。
なぜなら他にも、
邪馬台国→邪悪の邪
卑弥呼→卑しいの卑
なんでその漢字ヤネン絶対にバカにしてるやろ!と思える例がある。
また日本に対してだけでなく他の周辺国に対しても同様。
匈奴:紀元前3世紀から紀元1世紀後半に中国北部にいた遊牧民。
しばしば古代中国王朝と対立した。
匈は「悪い」。
奴は奴隷の奴であり、人々ではなく連中とさげすんだ表現。
日本人に対して倭奴(わど)との呼び名もあった。
そういえば前回に書いた後漢書には倭奴国と記されていた。
日本史では「わのなこく」と読むことになっているので印象が和らぐが。
南蛮:古代中国王朝に帰順しようとしない南の地方。
蛮は野蛮など文明未開で粗暴。
日本にやって来たポルトガルやスペイン人を南蛮人と呼んだのは、
彼らが南蛮エリアである東南アジア経由で来日したから。
鴨南蛮については諸説あり不明(^^ゞ
蒙古:モンゴルをそう呼んだ。
蒙は「おろか」を意味し無知蒙昧」(むちもうまい)の蒙。古は「古くさい」。
今年の春に朝青龍が、三谷幸喜の演劇「蒙古が襲来」に対して
「おいジャップ! 蒙古言うな」と憤慨していた。
これはもちろん優れた我が民族が天下の中心で、周辺国は愚かで劣ると見なす中華思想の表れ。春秋時代(紀元前770年〜紀元前453年)に始まったとされる。
なお飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られる。
意外にも唐はあっさりこれを受け入れ、その後の歴史書には日本と記される。しかし南北朝・室町時代初期から秀吉の時代にかけて倭寇が起こる。いわゆる日本人(だけではないが)による東アジア各地での海賊行為。それを日本海賊ではなく倭寇と呼んだのはもちろん中国側。唐の時代に終わった倭の名前が復活したのはそれが蔑称だった以外の理由はないだろう。
なおかつ弥生人が名乗った地名の音が、都合よく倭の中国読み発音に当てはまった確率は低いと考えるのである。
それにしても弥生人は何と名乗っていたのかな。
こればかりは過去に遡れるタイムマシンでも発明されない限り解明されない。
ーーー続く
次回もまだ「日本」以前の話の予定。
それ以外に有名な史実として魏志「倭」人伝、漢委奴国王印(かんの「わ」のなのこくおういん)の金印、邪馬台国の卑弥呼が親魏「倭」王の称号を授けられたとか、なんとなく昔の日本は「倭」と呼ばれていたとの認識はある。しかしなぜ「倭」なのか?
論理的には2通りある。
日本人が倭と名乗った
中国側で倭と名付けた
後者は朝鮮半島の先に島々があって、会ったことはなくても人が住んでいるだろうから、元々そこを倭と呼んでいたケース。地球人が勝手に火星や火星人と呼ぶようなものである
学説では一般に前者である。
しかしいくつかの疑問がある。
まず日本人が名乗ったとして、倭はその名乗った言葉の音を中国の漢字に当てはめている。歴史の教科書でそれを「わ」と習うけれど、中国ではどうだったのか。現代の中国語で倭はウェイまたはゥオー、朝鮮語ではウェらしい(貢ぎ物を献上しに行ったのは朝鮮半島にあって前漢支配下の楽浪郡)。前漢時代の発音まではわからないが、日本人が名乗ったのは「わ」ではなかった気がする。
ちなみに英国をイギリスと呼ぶのは日本だけ。これはポルトガル語のイングレスがエゲレス→イギリスと変化した。日本人が名乗ったのはイングレスで倭はイギリスみたいなものかも知れない。同じことを前回に後漢書で歴史に初めて記された日本人の名前とされる「帥升(すいしょう)」についても書いた。
次に倭とは現在の感覚でなら日本列島を意味するが、当時は弥生時代後期に栄えていた北九州か出雲か奈良あたりを指していたと思われる。漢書によれば百くらいの小国に分かれていたらしい。この百が実際の数字なのか、たくさんとの意味なのかは不明として、弥生時代後期の国とはいわゆる部族集団で、統治していた面積も今の「市」程度かと想像する。
つまり日本国のような国家概念はなかった。
それなのに「私は倭という国から来ました」と名乗るか?
弥生時代に各部族の支配地域を越えた地域を表す名前があったとはどうにも想像しづらい。
それと中国の歴代王朝は夏、殷、周、秦、漢から始まり隋、唐、宋、元、明、最後の清に至るまですべて一文字である。また苗字も李、王、張、劉、陳など一文字がほとんど。韓国でも金、李、朴、崔、鄭など同様。王朝名や苗字と、そして現代と弥生時代を較べる無理を承知で書けば日本の地名は二文字以上がほとんど。漢字が一文字でも訓読み(すなわち日本語読み、音読みは中国読み)なら呉(くれ)、柏(かしわ)など音節は2つ以上。一文字一音節である三重県の津(つ)なんて例外中の例外。
そんなこんなで「日本人が倭と名乗った」のではなく「中国側で倭と名付けた」のではないかとモーソーしている。つまり火星人方式のネーミング。だいたいウェイやゥオーなんてとても日本語の地名とは思えない。
そう考える理由はもうひとつある。
倭の文字にどんなイメージをいだくだろうか?
私にはネガティブな語感に響く。
日本でこの漢字は古代の倭国や倭人関連以外ではほとんど使われない。普段の日本語にはない漢字と言ってもいい。それなのにイメージが悪いのは、おそらく倭と矮(わい)が似ていて、矮には矮小や矮性(園芸用語)など小さいや背が低いの意味があるせいだ。
それで中国語で倭はネガティブな意味合いを持っていたのか。悪字を当ててチビな列島人と見下す蔑称(べっしょう)だったのか。学説的には「よくわからない」との意見が多いみたい。倭は固有名詞で矮は形容詞との指摘もある。
それでも蔑称だったような気がする。
なぜなら他にも、
邪馬台国→邪悪の邪
卑弥呼→卑しいの卑
なんでその漢字ヤネン絶対にバカにしてるやろ!と思える例がある。
また日本に対してだけでなく他の周辺国に対しても同様。
匈奴:紀元前3世紀から紀元1世紀後半に中国北部にいた遊牧民。
しばしば古代中国王朝と対立した。
匈は「悪い」。
奴は奴隷の奴であり、人々ではなく連中とさげすんだ表現。
日本人に対して倭奴(わど)との呼び名もあった。
そういえば前回に書いた後漢書には倭奴国と記されていた。
日本史では「わのなこく」と読むことになっているので印象が和らぐが。
南蛮:古代中国王朝に帰順しようとしない南の地方。
蛮は野蛮など文明未開で粗暴。
日本にやって来たポルトガルやスペイン人を南蛮人と呼んだのは、
彼らが南蛮エリアである東南アジア経由で来日したから。
鴨南蛮については諸説あり不明(^^ゞ
蒙古:モンゴルをそう呼んだ。
蒙は「おろか」を意味し無知蒙昧」(むちもうまい)の蒙。古は「古くさい」。
今年の春に朝青龍が、三谷幸喜の演劇「蒙古が襲来」に対して
「おいジャップ! 蒙古言うな」と憤慨していた。
これはもちろん優れた我が民族が天下の中心で、周辺国は愚かで劣ると見なす中華思想の表れ。春秋時代(紀元前770年〜紀元前453年)に始まったとされる。
なお飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られる。
意外にも唐はあっさりこれを受け入れ、その後の歴史書には日本と記される。しかし南北朝・室町時代初期から秀吉の時代にかけて倭寇が起こる。いわゆる日本人(だけではないが)による東アジア各地での海賊行為。それを日本海賊ではなく倭寇と呼んだのはもちろん中国側。唐の時代に終わった倭の名前が復活したのはそれが蔑称だった以外の理由はないだろう。
なおかつ弥生人が名乗った地名の音が、都合よく倭の中国読み発音に当てはまった確率は低いと考えるのである。
それにしても弥生人は何と名乗っていたのかな。
こればかりは過去に遡れるタイムマシンでも発明されない限り解明されない。
ーーー続く
次回もまだ「日本」以前の話の予定。
wassho at 20:19|Permalink│Comments(0)│
2025年10月09日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その2
弥生時代の日本にまだ文字はなかったので、当時の日本で書かれた=歴史の資料となるものは存在しない。日本について最初に記されたのは中国の書物。有史以前や先史時代とは文字が使われていない時代を指す。言い換えれば歴史に日本が登場したのは中国の書物によって。
その最初は「漢書(かんじょ)」。これは後漢王朝(25年〜220年)の時代に、前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた歴史書。編纂に約20年を費やしておおよそ80年前後に完成した。
ただし記念すべき日本の歴史デビューは
「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
とわずかに19文字の記述のみ(>_<)
ちなみに漢書は「本紀」12巻、「列伝」70巻、「志」10巻、「表」8巻の計100巻から成る膨大な量の書物。現在も写本が販売されていて、それのページ数は3348ページあるらしい。その中のたった19文字とは中国から見て日本はその程度の存在だったのだろう。片や100巻の歴史書を制作する文明国、対して文字すらない文明以前の僻地では仕方がない。
この19文字は漢書の「地理志」に記載がある。「志」とは分野史を意味しており、地域情報のひとつとしてに日本が紹介されている。他の「本紀」は前漢歴代皇帝の治世について、「列伝」は重要人物の伝記、「表」は年表や系図など。
19文字を超意訳すると
楽浪海中有倭人→「楽浪郡の海の向こうに倭人が住んでいる」
楽浪郡とは前漢が支配していた朝鮮半島北部。
現在の北朝鮮・平壌あたりとされる。
分為百余国→「百くらいの小国に分かれている」
以歳時来献見云→「定期的に貢物(みつぎもの)を持って楽浪郡を訪れる」
頻度は不明としても弥生時代に平壌まで定期的に往来していたとはビックリ。もっとも弥生人は朝鮮半島や中国大陸北部から渡来してきた民族の子孫だから(諸説あり)馴染みはあったのかな? それとこれはいわゆる朝貢外交だけれど、この時代に前漢=古代中国は日本にそれだけの影響力を持っていたのだろうか。そうだとして朝貢している=付き合いのある相手であれば、もう少し詳しく記述してくれてもよさそうなものなのに。百ほどあった小国のどこが朝貢していたのかくらいは書いておいて欲しかったゾ。
これらについては何かと興味をそそるものの本題から外れるので、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ここでのポイントは当時の日本人が倭人(わじん、現代の中国語発音ではウォーレン)と呼ばれていたこと。倭人が住むのだから国名というか日本列島の地域名は倭である。「古代中国にあった魏・呉・蜀の三国」と表現するのと同じ理屈。
次に日本が登場するのは「後漢書」の「東夷列伝(東夷伝ともいう)」で全120巻の歴史書。これは後漢王朝(25年〜220年)の出来事を宋(そう:420年〜479年)の時代に記された。成立は432年。なおこの宋は平家が日宋貿易をしていた960年〜1279年の宋とは別物。古代の中国は同じ国名が何度も使われてややこしい。
それにしても後漢が滅亡してから200年も後に編纂されている。漢書も前漢滅亡から70年以上が経っている。もっと早く書かないと資料も失われてしまのに、当時はそういうものだったのだろうか。あるいはその時代に歴史を書くとは研究だけではなくて政治の一環でもあったはずで、あまり前王朝の記憶が生々しいうちは書けなかったのかも知れない。後漢と宋の間には三国志で有名な魏・呉・蜀を含めて6代も王朝を挟んでいる(そのうちの1つはさらに16国に分かれる)。
さて後漢書に書かれていた内容は
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
漢書と違って漢字を眺めるだけでの解読は難しいが、この文章にまつわるエピソードは社会科の授業で習ったはず。漢文のポイントを丸めると
紀元57年に「倭」の「奴国(なこく)」の王の使者が都にやって来て
後漢の光武帝から印鑑を授かった
ここに書かれている印鑑が、それから1727年後の江戸時代後期に入った1784年に、福岡の志賀島で農民が水田の補修工事中に偶然見つけたとされる金印。1931年(昭和6年)に国宝に指定。一辺が約2.3cm、金の純度は95.1%。授業では漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と舌を噛みそうな名前を覚えさせられた。
ちなみに後漢の都は洛陽(らくよう)で中国の中部。弥生時代の54年によくそんなところまで行ったなと感心する。海路で東シナ海を渡ったのか、あるいは朝鮮半島経由の陸路か。地図には現在の平壌の位置で楽浪郡も示しておいた。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
ところで後漢書には「倭奴国」と書かれているのに、印鑑に彫られている文字は「漢」「委」「奴」「国王」で「倭」が「委」になっている。(現代人には委や奴には見えないが)
これについては様々な学説・論争があり、また発見の経緯が不自然なことも加わって、中にはこの金印は福岡藩が捏造した偽物だとの説まである。
(/_')/ソレモコッチニオイトくとして
漢書と同じく後漢書でも「倭国」と記されている。朝貢した紀元57年は紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間続いた弥生時代の後期に当たる。
また後漢書にはこれに続いて
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した。
後漢の桓帝(146年〜168年)と霊帝(168年〜189年)の在位中、
すなわち2世紀後半に倭国では大きな内乱があった。
と合計3つの記述がある。
この奴隷を献上した帥升(すいしょう)は、歴史に初めて記された日本人の名前とよく解説される。しかし倭人は文字を持っていないので、中国側で名前の音を帥升の漢字に当てはめたはず。そして「すいしょう」は日本語読み。だから本当の名前はわからないと思っているのだが、そういう解説はどこを探してもなかった。ちなみに帥升は現代の中国語では「シュアイ シェン」と発音する。
後漢書にはほかにも倭国について書かれているものの、それらは先に書かれた魏志倭人伝からの引用。それを除いたこの3つの記述が新事実となる。漢文での文字数は3つ合わせて69文字。
最後に邪馬台国&卑弥呼で有名な魏志倭人伝。
もっともそういう書物があるわけではなく、これは「三国志」の「魏志(30巻)」の30巻目の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」の「東夷」の章の「倭」の項に書かれている記述の略称。
その三国志とは古代中国が魏・呉・蜀に分かれていた三国時代(220年〜263年)とその前後を記したもの。王朝は後漢→三国時代→晋の順で、編纂されたのは晋の時代になった280年頃。後漢書より対象とする時期は後でも、編纂されたのはこちらが先。だから後漢書に魏志倭人伝を引用した箇所がある。魏志のほか呉志(20巻)と蜀志(15巻)の合計65巻構成。
ところで三国志と聞くと魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)、あるいは諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)などの活躍を思い浮かべるものの、それは歴史書の三国志を題材に歴史長編フィクションとして書かれた小説「三国志演義」のイメージがベースになっている。執筆されたのは三国時代(220年〜263年)よりずっと後の1400年前後。さらに日本で一般に三国志と呼んでいるのは三国志演義を元ネタに吉川英治が執筆した小説の「三国志」。新聞連載小説として戦時中の1934年〜1943年まで掲載された。日本で製作されるドラマやゲームの三国志は彼の作品が大元の原作。
さて魏志に書かれている倭の情報は
・倭のいくつかの国の紹介と、帯方郡(最初に書いた楽浪郡と同じ場所)から
それらの国を経て邪馬台国に至るルートの解説
・倭人の生活と倭の自然
・邪馬台国と魏との外交
の3つに分かれる。
漢文はここをクリック
訓み下し文はここをクリック
日本語訳はここをクリック
読み下し文で4ページちょっとの分量。19文字の漢書、69文字の後漢書と較べれば多いとはいえ、それでもたかだか4ページである。
そして紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで、1200年続いた弥生時代が記録された文書資料は19文字+69文字+4ページのこれだけなのである。ちょっと残念というか寂しいね。
それもその場の記録ではなく、中国古代の各王朝が滅亡して70年・200年・17年後に編纂されている。物事が起きたときにリアルタイムで書かれた資料がそれほど豊富に残っていたとも思えず、すべての内容が正確とは考えづらい。邪馬台国がどこにあったかの論争なんてずっと続いているけれど、つまりは4ページのうちの一部であるルート解説の解釈を巡って「ああでもない、こうでもない」とやっている。しかもそれは倭の国にやって来た人が自ら書いた記録でもない。
まあ歴史とはそういうもの。
ひとつの事実に対して99の想像を巡らせるから面白いのかも知れない。
毎度のことながら話があちこちにそれて、なかなか「日本」までたどり着かない(^^ゞ
次回もまだ「倭」止まりの予定m(_ _)m
ーーー続く
その最初は「漢書(かんじょ)」。これは後漢王朝(25年〜220年)の時代に、前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた歴史書。編纂に約20年を費やしておおよそ80年前後に完成した。
ただし記念すべき日本の歴史デビューは
「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
とわずかに19文字の記述のみ(>_<)
ちなみに漢書は「本紀」12巻、「列伝」70巻、「志」10巻、「表」8巻の計100巻から成る膨大な量の書物。現在も写本が販売されていて、それのページ数は3348ページあるらしい。その中のたった19文字とは中国から見て日本はその程度の存在だったのだろう。片や100巻の歴史書を制作する文明国、対して文字すらない文明以前の僻地では仕方がない。
この19文字は漢書の「地理志」に記載がある。「志」とは分野史を意味しており、地域情報のひとつとしてに日本が紹介されている。他の「本紀」は前漢歴代皇帝の治世について、「列伝」は重要人物の伝記、「表」は年表や系図など。
19文字を超意訳すると
楽浪海中有倭人→「楽浪郡の海の向こうに倭人が住んでいる」
楽浪郡とは前漢が支配していた朝鮮半島北部。
現在の北朝鮮・平壌あたりとされる。
分為百余国→「百くらいの小国に分かれている」
以歳時来献見云→「定期的に貢物(みつぎもの)を持って楽浪郡を訪れる」
頻度は不明としても弥生時代に平壌まで定期的に往来していたとはビックリ。もっとも弥生人は朝鮮半島や中国大陸北部から渡来してきた民族の子孫だから(諸説あり)馴染みはあったのかな? それとこれはいわゆる朝貢外交だけれど、この時代に前漢=古代中国は日本にそれだけの影響力を持っていたのだろうか。そうだとして朝貢している=付き合いのある相手であれば、もう少し詳しく記述してくれてもよさそうなものなのに。百ほどあった小国のどこが朝貢していたのかくらいは書いておいて欲しかったゾ。
これらについては何かと興味をそそるものの本題から外れるので、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ここでのポイントは当時の日本人が倭人(わじん、現代の中国語発音ではウォーレン)と呼ばれていたこと。倭人が住むのだから国名というか日本列島の地域名は倭である。「古代中国にあった魏・呉・蜀の三国」と表現するのと同じ理屈。
次に日本が登場するのは「後漢書」の「東夷列伝(東夷伝ともいう)」で全120巻の歴史書。これは後漢王朝(25年〜220年)の出来事を宋(そう:420年〜479年)の時代に記された。成立は432年。なおこの宋は平家が日宋貿易をしていた960年〜1279年の宋とは別物。古代の中国は同じ国名が何度も使われてややこしい。
それにしても後漢が滅亡してから200年も後に編纂されている。漢書も前漢滅亡から70年以上が経っている。もっと早く書かないと資料も失われてしまのに、当時はそういうものだったのだろうか。あるいはその時代に歴史を書くとは研究だけではなくて政治の一環でもあったはずで、あまり前王朝の記憶が生々しいうちは書けなかったのかも知れない。後漢と宋の間には三国志で有名な魏・呉・蜀を含めて6代も王朝を挟んでいる(そのうちの1つはさらに16国に分かれる)。
さて後漢書に書かれていた内容は
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
漢書と違って漢字を眺めるだけでの解読は難しいが、この文章にまつわるエピソードは社会科の授業で習ったはず。漢文のポイントを丸めると
紀元57年に「倭」の「奴国(なこく)」の王の使者が都にやって来て
後漢の光武帝から印鑑を授かった
ここに書かれている印鑑が、それから1727年後の江戸時代後期に入った1784年に、福岡の志賀島で農民が水田の補修工事中に偶然見つけたとされる金印。1931年(昭和6年)に国宝に指定。一辺が約2.3cm、金の純度は95.1%。授業では漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と舌を噛みそうな名前を覚えさせられた。
ちなみに後漢の都は洛陽(らくよう)で中国の中部。弥生時代の54年によくそんなところまで行ったなと感心する。海路で東シナ海を渡ったのか、あるいは朝鮮半島経由の陸路か。地図には現在の平壌の位置で楽浪郡も示しておいた。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
ところで後漢書には「倭奴国」と書かれているのに、印鑑に彫られている文字は「漢」「委」「奴」「国王」で「倭」が「委」になっている。(現代人には委や奴には見えないが)
これについては様々な学説・論争があり、また発見の経緯が不自然なことも加わって、中にはこの金印は福岡藩が捏造した偽物だとの説まである。
(/_')/ソレモコッチニオイトくとして
漢書と同じく後漢書でも「倭国」と記されている。朝貢した紀元57年は紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間続いた弥生時代の後期に当たる。
また後漢書にはこれに続いて
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した。
後漢の桓帝(146年〜168年)と霊帝(168年〜189年)の在位中、
すなわち2世紀後半に倭国では大きな内乱があった。
と合計3つの記述がある。
この奴隷を献上した帥升(すいしょう)は、歴史に初めて記された日本人の名前とよく解説される。しかし倭人は文字を持っていないので、中国側で名前の音を帥升の漢字に当てはめたはず。そして「すいしょう」は日本語読み。だから本当の名前はわからないと思っているのだが、そういう解説はどこを探してもなかった。ちなみに帥升は現代の中国語では「シュアイ シェン」と発音する。
後漢書にはほかにも倭国について書かれているものの、それらは先に書かれた魏志倭人伝からの引用。それを除いたこの3つの記述が新事実となる。漢文での文字数は3つ合わせて69文字。
最後に邪馬台国&卑弥呼で有名な魏志倭人伝。
もっともそういう書物があるわけではなく、これは「三国志」の「魏志(30巻)」の30巻目の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」の「東夷」の章の「倭」の項に書かれている記述の略称。
その三国志とは古代中国が魏・呉・蜀に分かれていた三国時代(220年〜263年)とその前後を記したもの。王朝は後漢→三国時代→晋の順で、編纂されたのは晋の時代になった280年頃。後漢書より対象とする時期は後でも、編纂されたのはこちらが先。だから後漢書に魏志倭人伝を引用した箇所がある。魏志のほか呉志(20巻)と蜀志(15巻)の合計65巻構成。
ところで三国志と聞くと魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)、あるいは諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)などの活躍を思い浮かべるものの、それは歴史書の三国志を題材に歴史長編フィクションとして書かれた小説「三国志演義」のイメージがベースになっている。執筆されたのは三国時代(220年〜263年)よりずっと後の1400年前後。さらに日本で一般に三国志と呼んでいるのは三国志演義を元ネタに吉川英治が執筆した小説の「三国志」。新聞連載小説として戦時中の1934年〜1943年まで掲載された。日本で製作されるドラマやゲームの三国志は彼の作品が大元の原作。
さて魏志に書かれている倭の情報は
・倭のいくつかの国の紹介と、帯方郡(最初に書いた楽浪郡と同じ場所)から
それらの国を経て邪馬台国に至るルートの解説
・倭人の生活と倭の自然
・邪馬台国と魏との外交
の3つに分かれる。
漢文はここをクリック
訓み下し文はここをクリック
日本語訳はここをクリック
読み下し文で4ページちょっとの分量。19文字の漢書、69文字の後漢書と較べれば多いとはいえ、それでもたかだか4ページである。
そして紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで、1200年続いた弥生時代が記録された文書資料は19文字+69文字+4ページのこれだけなのである。ちょっと残念というか寂しいね。
それもその場の記録ではなく、中国古代の各王朝が滅亡して70年・200年・17年後に編纂されている。物事が起きたときにリアルタイムで書かれた資料がそれほど豊富に残っていたとも思えず、すべての内容が正確とは考えづらい。邪馬台国がどこにあったかの論争なんてずっと続いているけれど、つまりは4ページのうちの一部であるルート解説の解釈を巡って「ああでもない、こうでもない」とやっている。しかもそれは倭の国にやって来た人が自ら書いた記録でもない。
まあ歴史とはそういうもの。
ひとつの事実に対して99の想像を巡らせるから面白いのかも知れない。
毎度のことながら話があちこちにそれて、なかなか「日本」までたどり着かない(^^ゞ
次回もまだ「倭」止まりの予定m(_ _)m
ーーー続く
wassho at 22:07|Permalink│Comments(0)│
2025年10月06日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン
明治新政府が江戸を東京と改名した際に、その読みを記さなかったゆえに、トウキョウ、トウケイそしてトキオと3つの読み方が混在した話を1年ほど前に3部作で書いた。
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484135.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484136.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484137.html
どうして読みを記さなかったのだろうと思ったけれど、考えてみれば首都である東京だけではなく、国名の日本だってニホンとニッポンの2つの読み方がある。そして歴史的にはさらにいくつもあったとのお話が今回。
日本がいつから国名として日本を使い始めたのか正確なところはよくわかっていない。さらに言えば当時の「国の概念」も現在とは相当に違うはずで、そこまで話を含めると大変にややこしい歴史問題。
我々の直接の先祖であるホモサピエンスが、現在の南アフリカあたりで誕生したのが20万年前(ちなみに猿人と呼ばれる最初の人類が誕生したのは700万年前)。彼らは14万年間をアフリカ大陸で過ごし6万年前にヨーロッパ方面に向かう。さらに進んでユーラシア大陸を通り、あるいは東南アジアの海沿いを渡って日本列島にやってきたのが4万年前。現在は2000年代なので紀元前3万8000年。もちろんこれらの地理や年代は諸説ありで、新しい発掘があれば学説も変わる。
その紀元前3万8000年以降は日本において3つの時代区分がある。
紀元前3万8000年〜紀元前1万4000年までの2万4000年間:旧石器時代
紀元前1万4000年〜紀元前900年代までの1万3000年年間:縄文時代(新石器時代)
紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間:弥生時代
社会的な違いを見ると
旧石器時代:石を打ち砕いた打製石器を使用
非定住の狩猟採集社会
縄文時代(新石器時代):石を研磨加工した磨製石器、土器や弓矢の使用
後期には野生植物の移植など初期の農耕&定住化が始まる
弥生時代:金属の使用
稲作が盛んになる
※原始時代は旧石器時代+新石器時代の総称
野生動物にとって生きるとは=食べる、あるいは食べ物を探したり狩りをするである。旧石器時代は人類もそんな生活だったと思う。だから社会の最大単位は家族や血縁関係のある一族。野生動物の「群れ」みたいなもの。
時代が下って初期の農耕&定住化が始まるとと、徐々にその「群れ」の集合体である部族のようなものが形成される。そして農耕が本格すると食料が増え人口も増大する。またその食料は狩猟してきた動物と違い備蓄できるから貧富の差が生まれたり、支配する側される側の社会構造も生む。あまり言われないけれど農耕をするしないは動物と人間を分ける大きな違いだと思う。
こうやって野生動物に近い「群れ」から部族社会になると部族同士の抗争が始まる。受傷人骨と呼ばれる武器によって傷つき死亡したと思われる人骨の発掘は、弥生時代になって急激に増える。野生動物と同じような暮らしから、やや人間らしい社会になった途端に争いを始めたのが人類。人類がホモサピエンスの段階にある限り、未来永劫に戦争はなくならないような気がしている。
弥生時代に部族間の抗争を繰り返し、やがて一定地域を支配する勢力が登場する。有名な邪馬台国もそのひとつ。弥生時代と邪馬台国が結びついていない人は意外と多いが。いずれにせよ野生動物に近かった旧石器時代から、1万3000年ほど続いた縄文時代を経て、弥生持代の1200年間に今につながる人間社会の基礎が作り出された。ただし日本民族は文字を持たなかったので自らが記した当時の記録はない。
ーーー続く
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484135.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484136.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484137.html
どうして読みを記さなかったのだろうと思ったけれど、考えてみれば首都である東京だけではなく、国名の日本だってニホンとニッポンの2つの読み方がある。そして歴史的にはさらにいくつもあったとのお話が今回。
日本がいつから国名として日本を使い始めたのか正確なところはよくわかっていない。さらに言えば当時の「国の概念」も現在とは相当に違うはずで、そこまで話を含めると大変にややこしい歴史問題。
我々の直接の先祖であるホモサピエンスが、現在の南アフリカあたりで誕生したのが20万年前(ちなみに猿人と呼ばれる最初の人類が誕生したのは700万年前)。彼らは14万年間をアフリカ大陸で過ごし6万年前にヨーロッパ方面に向かう。さらに進んでユーラシア大陸を通り、あるいは東南アジアの海沿いを渡って日本列島にやってきたのが4万年前。現在は2000年代なので紀元前3万8000年。もちろんこれらの地理や年代は諸説ありで、新しい発掘があれば学説も変わる。
その紀元前3万8000年以降は日本において3つの時代区分がある。
紀元前3万8000年〜紀元前1万4000年までの2万4000年間:旧石器時代
紀元前1万4000年〜紀元前900年代までの1万3000年年間:縄文時代(新石器時代)
紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間:弥生時代
社会的な違いを見ると
旧石器時代:石を打ち砕いた打製石器を使用
非定住の狩猟採集社会
縄文時代(新石器時代):石を研磨加工した磨製石器、土器や弓矢の使用
後期には野生植物の移植など初期の農耕&定住化が始まる
弥生時代:金属の使用
稲作が盛んになる
※原始時代は旧石器時代+新石器時代の総称
野生動物にとって生きるとは=食べる、あるいは食べ物を探したり狩りをするである。旧石器時代は人類もそんな生活だったと思う。だから社会の最大単位は家族や血縁関係のある一族。野生動物の「群れ」みたいなもの。
時代が下って初期の農耕&定住化が始まるとと、徐々にその「群れ」の集合体である部族のようなものが形成される。そして農耕が本格すると食料が増え人口も増大する。またその食料は狩猟してきた動物と違い備蓄できるから貧富の差が生まれたり、支配する側される側の社会構造も生む。あまり言われないけれど農耕をするしないは動物と人間を分ける大きな違いだと思う。
こうやって野生動物に近い「群れ」から部族社会になると部族同士の抗争が始まる。受傷人骨と呼ばれる武器によって傷つき死亡したと思われる人骨の発掘は、弥生時代になって急激に増える。野生動物と同じような暮らしから、やや人間らしい社会になった途端に争いを始めたのが人類。人類がホモサピエンスの段階にある限り、未来永劫に戦争はなくならないような気がしている。
弥生時代に部族間の抗争を繰り返し、やがて一定地域を支配する勢力が登場する。有名な邪馬台国もそのひとつ。弥生時代と邪馬台国が結びついていない人は意外と多いが。いずれにせよ野生動物に近かった旧石器時代から、1万3000年ほど続いた縄文時代を経て、弥生持代の1200年間に今につながる人間社会の基礎が作り出された。ただし日本民族は文字を持たなかったので自らが記した当時の記録はない。
ーーー続く
wassho at 22:08|Permalink│Comments(0)│
2025年07月30日
烏帽子のあれこれ 番外編その4
ひょっとしたら縄文や弥生の時代から、少なくとも古墳時代から明治維新でチョンマゲが禁止となるまでの約1600年間、日本の男性はミズラやモトドリを束ねるために今の女性のロングヘア程度に髪が長かった。男性は短髪、女性は長髪なんて概念ができたのはたかだか直近150年ほどの歴史に過ぎない。
ーーーというのが番外編の趣旨。
ついでに、それではどうして男性の髪が長かったのかを想像するのが今回。
ほとんど意識することはないものの、
髪の毛が生えている動物は人だけである。
眉毛、ひげ、脇毛、陰毛などもそう。
子供の頃に習った最古の人類はアウストラロピテクス。舌を噛みそうなくらいに長くてややこしい名前なのに、今でもスラッとその名前を口にできるのが不思議。でも2001年に発見されたサヘラントロプス・チャデンシスが現在は最古の人類となっている。
これが頭蓋骨の化石からの復元図。
ほとんどサルやね(^^ゞ
彼らがいたのは700万年前で猿人と分類される。人類は猿人(700万年前〜120万年前)→原人(240万年前〜11万年前)→旧人(40万年前〜4万年前)→新人(20万年前〜現在)と進化してきた。ちなみに霊長類の始まりは6500万年前で、恐竜がいたのは2億3000万年前〜6600万年前の期間。
新人とはホモ・サピエンス=現在の人類を指す。その誕生よりはるか昔のおよそ200万年前、原人に属するホモ・エレクトスあたりから体毛が大幅に減少して髪の毛などに変わったといわれている。
ところで、このホモ・エレクトス。これも子供の頃はピテカントロプス・エレクトスと習った原人。この名前も口が覚えていた。それにしても鎌倉幕府の始まりがいつの間にかイイクニツクロウの1192年ではなく1185年になっているように、昔の知識のアップデートが必要だね。
その体毛の代わりに発達した髪の毛やひげ。
体毛と違ってなぜかやたら伸びる。
ギネスブックでの最高記録は髪の毛が236.22 cm!(2023年)、ひげは5.5m!(2014年)でもひげは2本合わせた長さのような?画像はhttps://x.gd/6D7mSとhttps://www.afpbb.com/articles/-/3027155から引用(前者は短縮URL使用)
動物の体毛は一定の長さまでしか伸びないし人間の脇毛や陰毛も同じ。髪の毛やひげだけが限度なく長く伸びるのに何か意味はあるのか。でも意味=(ギネス級の長さに)実用性があるとは思えないので人体設計のバグのようにも思える。そのあたりは興味深いところ。
さて体毛がなくなって髪の毛が生えてきた原始人。栄養状態が違うからギネス記録のようにはならないとしても、それなりには長く伸びたはず。でも髪の毛を切らなかったと考えている。
石器時代の始まりは200万年前で髪の毛が生えてきた時代と重なる。でも石器でヘアカットは難しい。石器時代とはネーミングがおかしくて実際には木器時代だった説もあって、それならなおさら。伸びてくれば邪魔なので、たぶん木のツルかなんかで束ねていわゆるポニーテールにしていたんじゃないかな。ひげも剃る道具がなくて伸ばしっぱなしだったのだろうか?
石器時代は打製石器を使っていた旧石器時代から、磨製石器を使うようになった新石器時代 へ進化する。新石器時代の始まりは1万年前と700万年前に生まれた人類の歴史では、つい最近の出来事。その頃なら石のナイフのようなものがあって髪の毛も切れたかも知れない。でもショートカットは無理だろうね。
そして1万年前から始まった新石器時代は5000年前に青銅器時代に移り、さらに3200年前に鉄器時代へと文明進化のピッチが上がる。
日本列島の状況を見ると
4万年前に旧石器時代のホモ・サピエンスがやって来る
↓
1万6000年前に縄文時代へ
1万年以上続き旧石器時代後の中石器時代から新石器時代をカバー
↓
3000年ほど前に弥生時代が始まり
青銅器や鉄器も大陸から伝わる
↓
日本では弥生時代までが原始時代で、
1800年ほど前に古墳時代に移行
古墳時代の髪型はミズラであったとされる。「卑弥呼さま〜っ」のギャグに持って行かれた感はあるが、それ以前にミズラの代表的イメージといえば、因幡の白ウサギを助けた大国主命(おおくにぬし の みこと)。
もちろん彼は神話の世界の人物なので時代は関係ないとしても、古墳から出土した埴輪にもミズラは多く見られる。
なお神話が書かれた古事記は奈良時代初期の編纂。神話はずっと昔から存在しただろうが古事記が現存する日本で最古の書物。
ミズラが絵として残っている最も古い資料は「聖徳太子二王子像」。ただし描かれたのは聖徳太子の死後100年も経った奈良時代の722年〜739年頃らしく(聖徳太子は574〜622年で飛鳥時代)、服装も含めてすべてが想像での創作。
ミズラを結っているのは向かって左が聖徳太子の弟、右が息子との説が有力。なぜミズラがダブルループになっているのかはわからなかった。参考までにこの肖像画は如来(にょらい:仏の最高位)を中央に、菩薩(ぼさつ:如来より下のランク)をその両脇に配する仏教形式を模している。実際に弟や息子の身長が聖徳太子と較べてこれだけの差があったわけではない。
もう少し写実的なミズラのイラストも。
女性っぽく見えるがこれは少年らしい。なおミズラは男性の髪型なので卑弥呼はこのスタイルではなかったはず。彼女に仕えていた男性はミズラだっただろうが。
さてこのミズラ。
古墳時代の髪型とされ、次の飛鳥時代の603年に聖徳太子が冠位十二階を定め冠を被るようになったので、それに併せて髪を頭の上でひとつ束ねたモトドリに変化したと説明する資料が多い。
でもそうかな?
古墳時代にミズラを結っていたのはごく一部の支配階級だけの気がする。そう思う理由はこれがオーバーデコラティブで儀式っぽいヘアスタイルなのがひとつ。それとこの時代は支配階級を除けばほぼ全員が農民。顔の横でミズラがブラブラしていたら農作業の邪魔やろ?
それでは庶民の髪型は?
やはり伸ばしっぱなしを縛ったポニーテールか、クルクルと巻いて木の枝のかんざしでお団子にしていたのではないか。長い髪の毛をまとめたいときに、このふたつの方法で対処するのが最もシンプルで自然だと思う。そのお団子バージョンが、後にモトドリに変化したというのが私のモーソー的仮説。
冒頭に書いた「どうして男性の髪が長かったのか」をまとめると、ミズラやモトドリを結うためにロングヘアにしたのではなく、ロングヘアだったから邪魔にならないようにミズラやモトドリを結う工夫をした。
そしてロングヘアだったのは、人類に髪の毛が生えだした200万年前には髪を切るすべがなかったとの当然すぎる理由。1万年前の新石器時代には石のナイフなどで切れたとしても、199万年間も切らずにいたのだから髪の毛を切って短くしようとの発想は生まれなかった。また短くする理由も見当たらないので、その習慣は金属の刃物が登場した弥生時代や古墳時代になっても続いたはず。
ところでカミソリは仏教を伝えた朝鮮半島の僧によって日本に初めてもたらされたとされる。一般に仏教伝来は538年。一方でハサミに関しては「6世紀頃」と記してある資料ばかりではっきりとした時期は不明。でもカミソリと同じルート・時期だったと思う。とりあえず四捨五入して550年頃としよう。そして新し道具があれば使いたくなるのが人間。
冠位十二階は603年の制定でハサミ伝来の50年後。支配階級にはハサミは普及して、伸ばしっぱなしの髪の長さでは、ミズラやモトドリが大きくなりすぎるから、多少は切り揃えたロングヘアに整えたかも知れない。それでもショートカットにしようとは思わなかったのは先ほど書いた理由と同じ。
ついでに付け加えると、古墳時代(飛鳥時代は592年〜)に伝来したのはU字型の現在は和ばさみと呼ばれているタイプ。X字型の洋ばさみの伝来は奈良時代(710〜794年)になってから。しかし室町時代以降に植木ばさみとして独自の発展を遂げたものの、一般的にはまったく普及せず明治になるまで日本のハサミはU字型が主流。また現在もU字型が使われているのは世界で日本だけらしい。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
歴史あるいは考古学的に確定できるミズラやモトドリを結って男性が長髪だった期間は、古墳時代の始まりを250年として、明治政府が断髪令を出した1871年までで1871−250=1621年。そこから今年までは154年。比率を計算するなら1621÷154=10.5倍。
圧倒的に長髪の時代のほうが長いのだけれど、よく考えたらそれは200万年前から続いていると推測するのが妥当で、もう割り算する必要もないくらい男性にとって長髪が基本形。それもビートルズが短髪に思えるくらいの超ロングヘア。逆にどうして近代になって(全世界的に)男性の髪が短くなったのかそちらの方が不思議なくらい。
いずれ調べましょう。
おしまい
ーーーというのが番外編の趣旨。
ついでに、それではどうして男性の髪が長かったのかを想像するのが今回。
ほとんど意識することはないものの、
髪の毛が生えている動物は人だけである。
眉毛、ひげ、脇毛、陰毛などもそう。
子供の頃に習った最古の人類はアウストラロピテクス。舌を噛みそうなくらいに長くてややこしい名前なのに、今でもスラッとその名前を口にできるのが不思議。でも2001年に発見されたサヘラントロプス・チャデンシスが現在は最古の人類となっている。
これが頭蓋骨の化石からの復元図。
ほとんどサルやね(^^ゞ
彼らがいたのは700万年前で猿人と分類される。人類は猿人(700万年前〜120万年前)→原人(240万年前〜11万年前)→旧人(40万年前〜4万年前)→新人(20万年前〜現在)と進化してきた。ちなみに霊長類の始まりは6500万年前で、恐竜がいたのは2億3000万年前〜6600万年前の期間。
新人とはホモ・サピエンス=現在の人類を指す。その誕生よりはるか昔のおよそ200万年前、原人に属するホモ・エレクトスあたりから体毛が大幅に減少して髪の毛などに変わったといわれている。
ところで、このホモ・エレクトス。これも子供の頃はピテカントロプス・エレクトスと習った原人。この名前も口が覚えていた。それにしても鎌倉幕府の始まりがいつの間にかイイクニツクロウの1192年ではなく1185年になっているように、昔の知識のアップデートが必要だね。
その体毛の代わりに発達した髪の毛やひげ。
体毛と違ってなぜかやたら伸びる。
ギネスブックでの最高記録は髪の毛が236.22 cm!(2023年)、ひげは5.5m!(2014年)でもひげは2本合わせた長さのような?画像はhttps://x.gd/6D7mSとhttps://www.afpbb.com/articles/-/3027155から引用(前者は短縮URL使用)
動物の体毛は一定の長さまでしか伸びないし人間の脇毛や陰毛も同じ。髪の毛やひげだけが限度なく長く伸びるのに何か意味はあるのか。でも意味=(ギネス級の長さに)実用性があるとは思えないので人体設計のバグのようにも思える。そのあたりは興味深いところ。
さて体毛がなくなって髪の毛が生えてきた原始人。栄養状態が違うからギネス記録のようにはならないとしても、それなりには長く伸びたはず。でも髪の毛を切らなかったと考えている。
石器時代の始まりは200万年前で髪の毛が生えてきた時代と重なる。でも石器でヘアカットは難しい。石器時代とはネーミングがおかしくて実際には木器時代だった説もあって、それならなおさら。伸びてくれば邪魔なので、たぶん木のツルかなんかで束ねていわゆるポニーテールにしていたんじゃないかな。ひげも剃る道具がなくて伸ばしっぱなしだったのだろうか?
石器時代は打製石器を使っていた旧石器時代から、磨製石器を使うようになった新石器時代 へ進化する。新石器時代の始まりは1万年前と700万年前に生まれた人類の歴史では、つい最近の出来事。その頃なら石のナイフのようなものがあって髪の毛も切れたかも知れない。でもショートカットは無理だろうね。
そして1万年前から始まった新石器時代は5000年前に青銅器時代に移り、さらに3200年前に鉄器時代へと文明進化のピッチが上がる。
日本列島の状況を見ると
4万年前に旧石器時代のホモ・サピエンスがやって来る
↓
1万6000年前に縄文時代へ
1万年以上続き旧石器時代後の中石器時代から新石器時代をカバー
↓
3000年ほど前に弥生時代が始まり
青銅器や鉄器も大陸から伝わる
↓
日本では弥生時代までが原始時代で、
1800年ほど前に古墳時代に移行
古墳時代の髪型はミズラであったとされる。「卑弥呼さま〜っ」のギャグに持って行かれた感はあるが、それ以前にミズラの代表的イメージといえば、因幡の白ウサギを助けた大国主命(おおくにぬし の みこと)。
もちろん彼は神話の世界の人物なので時代は関係ないとしても、古墳から出土した埴輪にもミズラは多く見られる。
なお神話が書かれた古事記は奈良時代初期の編纂。神話はずっと昔から存在しただろうが古事記が現存する日本で最古の書物。
ミズラが絵として残っている最も古い資料は「聖徳太子二王子像」。ただし描かれたのは聖徳太子の死後100年も経った奈良時代の722年〜739年頃らしく(聖徳太子は574〜622年で飛鳥時代)、服装も含めてすべてが想像での創作。
ミズラを結っているのは向かって左が聖徳太子の弟、右が息子との説が有力。なぜミズラがダブルループになっているのかはわからなかった。参考までにこの肖像画は如来(にょらい:仏の最高位)を中央に、菩薩(ぼさつ:如来より下のランク)をその両脇に配する仏教形式を模している。実際に弟や息子の身長が聖徳太子と較べてこれだけの差があったわけではない。
もう少し写実的なミズラのイラストも。
女性っぽく見えるがこれは少年らしい。なおミズラは男性の髪型なので卑弥呼はこのスタイルではなかったはず。彼女に仕えていた男性はミズラだっただろうが。
さてこのミズラ。
古墳時代の髪型とされ、次の飛鳥時代の603年に聖徳太子が冠位十二階を定め冠を被るようになったので、それに併せて髪を頭の上でひとつ束ねたモトドリに変化したと説明する資料が多い。
でもそうかな?
古墳時代にミズラを結っていたのはごく一部の支配階級だけの気がする。そう思う理由はこれがオーバーデコラティブで儀式っぽいヘアスタイルなのがひとつ。それとこの時代は支配階級を除けばほぼ全員が農民。顔の横でミズラがブラブラしていたら農作業の邪魔やろ?
それでは庶民の髪型は?
やはり伸ばしっぱなしを縛ったポニーテールか、クルクルと巻いて木の枝のかんざしでお団子にしていたのではないか。長い髪の毛をまとめたいときに、このふたつの方法で対処するのが最もシンプルで自然だと思う。そのお団子バージョンが、後にモトドリに変化したというのが私のモーソー的仮説。
冒頭に書いた「どうして男性の髪が長かったのか」をまとめると、ミズラやモトドリを結うためにロングヘアにしたのではなく、ロングヘアだったから邪魔にならないようにミズラやモトドリを結う工夫をした。
そしてロングヘアだったのは、人類に髪の毛が生えだした200万年前には髪を切るすべがなかったとの当然すぎる理由。1万年前の新石器時代には石のナイフなどで切れたとしても、199万年間も切らずにいたのだから髪の毛を切って短くしようとの発想は生まれなかった。また短くする理由も見当たらないので、その習慣は金属の刃物が登場した弥生時代や古墳時代になっても続いたはず。
ところでカミソリは仏教を伝えた朝鮮半島の僧によって日本に初めてもたらされたとされる。一般に仏教伝来は538年。一方でハサミに関しては「6世紀頃」と記してある資料ばかりではっきりとした時期は不明。でもカミソリと同じルート・時期だったと思う。とりあえず四捨五入して550年頃としよう。そして新し道具があれば使いたくなるのが人間。
冠位十二階は603年の制定でハサミ伝来の50年後。支配階級にはハサミは普及して、伸ばしっぱなしの髪の長さでは、ミズラやモトドリが大きくなりすぎるから、多少は切り揃えたロングヘアに整えたかも知れない。それでもショートカットにしようとは思わなかったのは先ほど書いた理由と同じ。
ついでに付け加えると、古墳時代(飛鳥時代は592年〜)に伝来したのはU字型の現在は和ばさみと呼ばれているタイプ。X字型の洋ばさみの伝来は奈良時代(710〜794年)になってから。しかし室町時代以降に植木ばさみとして独自の発展を遂げたものの、一般的にはまったく普及せず明治になるまで日本のハサミはU字型が主流。また現在もU字型が使われているのは世界で日本だけらしい。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
歴史あるいは考古学的に確定できるミズラやモトドリを結って男性が長髪だった期間は、古墳時代の始まりを250年として、明治政府が断髪令を出した1871年までで1871−250=1621年。そこから今年までは154年。比率を計算するなら1621÷154=10.5倍。
圧倒的に長髪の時代のほうが長いのだけれど、よく考えたらそれは200万年前から続いていると推測するのが妥当で、もう割り算する必要もないくらい男性にとって長髪が基本形。それもビートルズが短髪に思えるくらいの超ロングヘア。逆にどうして近代になって(全世界的に)男性の髪が短くなったのかそちらの方が不思議なくらい。
いずれ調べましょう。
おしまい
wassho at 22:45|Permalink│Comments(0)│
2025年07月27日
烏帽子のあれこれ 番外編その3
もう「烏帽子のあれこれ」は番外編を含めてこれで9回目なので(^^ゞ
結論を急ぎましょう。
発端は昔の肖像画でよく見る、
どう見ても被っている帽子の位置がおかしいとの疑問。
彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)で、古来より正装用の冠(かんむり)と普段着用の烏帽子の2種類を日本男性は使い分けてきた。
これは↑どちらも平安後期の強装束(こわしょうぞく)スタイルで、烏帽子はその後に形が変化していく。最初の肖像画に描かれていたのは折烏帽子や侍烏帽子。冠は現在もほぼ同じ形。
冠に筒のようなパーツがあるのは、モトドリと呼ばれる束ねた髪の毛を納めるためのスペース。烏帽子にも膨らみや厚みがあるのも同じ理由。
そして肖像画で烏帽子の被る位置がおかしく見えるのは、折り曲げたモトドリを覆うように烏帽子が後ろに伸びているためであり、
それを正面からあまり角度を付けないで描くとおかしな被り方に見える。
ここまでが本編の超サマリー。
言い換えれば髪の毛を束ねたモトドリがあってこそ冠や烏帽子の形が生まれた。古来よりの服飾史を冠や烏帽子の存在を抜きにして語れないとすれば、ヘアスタイルのモトドリも同様。それが番外編につながる。
写真はポーラ文化研究所によるヘアスタイルの変遷。画像はhttps://x.gd/MtWadzから引用(短縮URL使用)
左はおそらく古墳時代からあった両サイドで髪の毛を束ねた美豆良(ミズラ)と呼ばれる形。聖徳太子が冠位十二階を定めて冠で身分を表す=常に冠を着用するようになったのが603年で、冠に納まるように束ねた髪を頭の上で団子状にしたのが写真中央。右は平安時代で団子状から直線的な形になっている。この部分がモトドリ。
戦(いくさ)で鉄製の兜(かぶと)を使うようになると、暑さや蒸れ対策で頭頂部を剃り落とし始める(写真右)。そこから発展して時代劇などでよく見るチョンマゲに。
現在もモトドリのある髪型をしているのは相撲の力士。これは「烏帽子のあれこれ その2」でも紹介した髪型を整えてもらっている力士と、モトドリがほどけた若き日の貴乃花。画像はhttps://www.sumo.or.jp/Entertainment/quiz/344とNHKの放送100年スポーツ名場面より引用
力士が結う大銀杏(おおいちょう)は襟足を膨らませた形だから、普通にモトドリを束ねるよりは髪の長さが必要かも知れないが、それでもけっこうロングヘアでないとモトドリは作れない。
さて前回に書いた、こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきとはーーー
何となく「男性の髪は短い、女性のは長い」という固定観念がある。もちろん男女ともに人によるとはいえ、たとえばこんな後ろ姿を見かけたら女性だと思うはず。
さらに中高年以上なら昔の男性は一律に短髪で、髪を伸ばし始めたのは1960年代後半に活躍したビートルズの影響だとも知っている。
しかし、それはきわめて短期間の歴史だけによって形成された思い込み。
ミズラを両サイドにぶら下げていた古墳時代から明治維新でチョンマゲが禁止となるまでの約1600年間、男性の髪の毛は ミズラやモトドリを束ねるために今の女性ならかなりのロングヘアに相当するほどに長かったのだ。古墳時代の前は弥生・縄文時代なので、この地に国らしき形ができて以来男性はずっとロングヘアだったともいえる。そんな風に考えたことあった?(おそらく弥生・縄文、その前の旧石器時代も長かっただろう)
昔の日本人男性の髪型といってまず思い浮かべるのは江戸時代のチョンマゲのはず。よく見れば実に変なヘアスタイルではあるけれど、時代劇などで見慣れていて特に疑問を持たないし、あれをどうやって結っているかを想像したりもしない。それに頭頂部は剃っているし、全体的には髪をなでつけて固めているのでロングヘアのイメージもない。
さらに何度も書いたように室町中期=戦国時代の始まりあたりまで、冠あるいは烏帽子を脱いでモトドリを他人に見せるのは恥ずかしいとの文化があった。だからそれ以前の髪型が描かれた絵などはきわめて少なく目にする機会がない。それが結果的に昔の日本人男性の髪型=チョンマゲ=長髪ではないとのイメージを生んでいるようにも思う。
それでチョットお遊び。
これは「烏帽子のあれこれ その4」で紹介した石山寺縁起絵巻。
庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。
僧侶以外は、烏帽子や冠を取るとモトドリを束ねた髪型をしていて、
そのモトドリをほどくと皆ロングヘア!
AIがチョット髪を長く描きすぎているけれど、まっそういうこと。
「古来より明治維新までずっと男性はロングヘアであった」。それを知ったとして歴史が変わるわけでもないが、そんなことはまったく考えてもみなかったので、それが何となく思考のツボにはまって面白かったしだい。
ところでどうして長かったのか、モトドリを束ねていたのか?
それを解説している資料は見当たらなかったが想像するとーーー
ーーー結論を書いたのにまだ続いてしまう
結論を急ぎましょう。
発端は昔の肖像画でよく見る、
どう見ても被っている帽子の位置がおかしいとの疑問。
彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)で、古来より正装用の冠(かんむり)と普段着用の烏帽子の2種類を日本男性は使い分けてきた。
これは↑どちらも平安後期の強装束(こわしょうぞく)スタイルで、烏帽子はその後に形が変化していく。最初の肖像画に描かれていたのは折烏帽子や侍烏帽子。冠は現在もほぼ同じ形。
冠に筒のようなパーツがあるのは、モトドリと呼ばれる束ねた髪の毛を納めるためのスペース。烏帽子にも膨らみや厚みがあるのも同じ理由。
そして肖像画で烏帽子の被る位置がおかしく見えるのは、折り曲げたモトドリを覆うように烏帽子が後ろに伸びているためであり、
それを正面からあまり角度を付けないで描くとおかしな被り方に見える。
ここまでが本編の超サマリー。
言い換えれば髪の毛を束ねたモトドリがあってこそ冠や烏帽子の形が生まれた。古来よりの服飾史を冠や烏帽子の存在を抜きにして語れないとすれば、ヘアスタイルのモトドリも同様。それが番外編につながる。
写真はポーラ文化研究所によるヘアスタイルの変遷。画像はhttps://x.gd/MtWadzから引用(短縮URL使用)
左はおそらく古墳時代からあった両サイドで髪の毛を束ねた美豆良(ミズラ)と呼ばれる形。聖徳太子が冠位十二階を定めて冠で身分を表す=常に冠を着用するようになったのが603年で、冠に納まるように束ねた髪を頭の上で団子状にしたのが写真中央。右は平安時代で団子状から直線的な形になっている。この部分がモトドリ。
戦(いくさ)で鉄製の兜(かぶと)を使うようになると、暑さや蒸れ対策で頭頂部を剃り落とし始める(写真右)。そこから発展して時代劇などでよく見るチョンマゲに。
現在もモトドリのある髪型をしているのは相撲の力士。これは「烏帽子のあれこれ その2」でも紹介した髪型を整えてもらっている力士と、モトドリがほどけた若き日の貴乃花。画像はhttps://www.sumo.or.jp/Entertainment/quiz/344とNHKの放送100年スポーツ名場面より引用
力士が結う大銀杏(おおいちょう)は襟足を膨らませた形だから、普通にモトドリを束ねるよりは髪の長さが必要かも知れないが、それでもけっこうロングヘアでないとモトドリは作れない。
さて前回に書いた、こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきとはーーー
何となく「男性の髪は短い、女性のは長い」という固定観念がある。もちろん男女ともに人によるとはいえ、たとえばこんな後ろ姿を見かけたら女性だと思うはず。
さらに中高年以上なら昔の男性は一律に短髪で、髪を伸ばし始めたのは1960年代後半に活躍したビートルズの影響だとも知っている。
しかし、それはきわめて短期間の歴史だけによって形成された思い込み。
ミズラを両サイドにぶら下げていた古墳時代から明治維新でチョンマゲが禁止となるまでの約1600年間、男性の髪の毛は ミズラやモトドリを束ねるために今の女性ならかなりのロングヘアに相当するほどに長かったのだ。古墳時代の前は弥生・縄文時代なので、この地に国らしき形ができて以来男性はずっとロングヘアだったともいえる。そんな風に考えたことあった?(おそらく弥生・縄文、その前の旧石器時代も長かっただろう)
昔の日本人男性の髪型といってまず思い浮かべるのは江戸時代のチョンマゲのはず。よく見れば実に変なヘアスタイルではあるけれど、時代劇などで見慣れていて特に疑問を持たないし、あれをどうやって結っているかを想像したりもしない。それに頭頂部は剃っているし、全体的には髪をなでつけて固めているのでロングヘアのイメージもない。
さらに何度も書いたように室町中期=戦国時代の始まりあたりまで、冠あるいは烏帽子を脱いでモトドリを他人に見せるのは恥ずかしいとの文化があった。だからそれ以前の髪型が描かれた絵などはきわめて少なく目にする機会がない。それが結果的に昔の日本人男性の髪型=チョンマゲ=長髪ではないとのイメージを生んでいるようにも思う。
それでチョットお遊び。
これは「烏帽子のあれこれ その4」で紹介した石山寺縁起絵巻。
庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。
僧侶以外は、烏帽子や冠を取るとモトドリを束ねた髪型をしていて、
そのモトドリをほどくと皆ロングヘア!
AIがチョット髪を長く描きすぎているけれど、まっそういうこと。
「古来より明治維新までずっと男性はロングヘアであった」。それを知ったとして歴史が変わるわけでもないが、そんなことはまったく考えてもみなかったので、それが何となく思考のツボにはまって面白かったしだい。
ところでどうして長かったのか、モトドリを束ねていたのか?
それを解説している資料は見当たらなかったが想像するとーーー
ーーー結論を書いたのにまだ続いてしまう
wassho at 11:11|Permalink│Comments(0)│
2025年07月23日
烏帽子のあれこれ 番外編その2
参考までに明治以前の日本の歴史区分を書いておくと
旧石器時代→縄文時代→弥生時代
古墳時代→空白の4世紀→飛鳥時代
奈良時代→平安時代
鎌倉時代→室町時代→戦国時代
安土桃山時代→江戸時代
そして前回でも紹介した髪型は、左は戦国時代の茶筅髷(ちゃせんまげ)で右が江戸時代のチョンマゲ(丁髷)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
それ以前の男性の髪型は明確にはわかっていない。
その理由は
平安時代の中頃まで肖像画を描くのを憚る風潮があった。
平安時代の貴族や武士は公的な場では冠(かんむり)、私的な場では烏帽子(えぼし)
を被っていた。また庶民も烏帽子を被っていた。
さらに冠や烏帽子を脱いで髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥とする考えが、
庶民レベルで鎌倉後期、公家や武士では室町中期まで続いた。
つまり戦国時代以前は髪型を描いたビジュアルな記録や資料に乏しい。
「烏帽子のあれこれ その4」で鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻を紹介した。こちらは886年に起きた放火事件である「応天門の変」を、平安末期に描いた伴大納言絵巻の模写の一部。
貴族の乗る牛車と警護の武士だろうか。
全員が烏帽子を着用。
こちらは庶民でやはり烏帽子を被っている。
しかしこの絵巻には清和天皇(850〜881年)が登場し、なんと彼は無帽!
冠や烏帽子について調べると、多くの資料で「宮中では冠を着用するのがルール。天皇は基本的に宮中にいるので冠を取ることはなく、烏帽子を被れるのは退位して上皇になってから」と書かれている。
なのにどうしてこの絵巻では天皇を無帽で描いたのだろうか。しかも場所は清涼殿(天皇が政務を行う場所)で、太政大臣より対面で事件について報告を受けている、言ってみれば公務中。描かれているのは夜半に急な来訪の場面とはいえ、寝るときもSEXするときもモトドリを見せなかった平安人、ましてや天皇が無帽は考えづらいと思うのだが。あるいは「チンチン見せてもモトドリ見せるな」との考えは平安前期のこの頃にはまだなかったのか。
平安中期以降に人前でモトドリを見せなかったのはいろいろとエピソードが残っている。ただし平安時代は約400年もあったから前期では風習が異なっていても不思議ではない。何かと興味深いものの、これ以上の深入りは手間がかかるのでやめておくm(_ _)m
なお清和天皇の髪型は、この図によれば冠下髻(かんむり したの もとどり)と思われる。というかここにあるイラストは伴大納言絵巻にソックリ。おそらく伴大納言絵巻を真似て描いたのではないか。それだけ当時の髪型の資料は少ないのだと思われる。画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
戦国時代の茶筅髷と平安時代のば冠下髻は、髪の毛を束ねたモトドリを頭上高くに巻いている点でほぼ同じ。そして江戸時代のチョンマゲは頭頂部を剃った月代(さかやき)の上にモトドリを折り曲げて載せた形。つまりどれも髪の毛を束ねてそこそこの大きさのモトドリ作るのは共通している。
平安時代より前で髪型が描かれたものは見つけられなかった。しかしこの画像左側の聖徳太子は8世紀前半(奈良時代:710〜794年)に描かれたとされる日本で最古の肖像画(右側はその模写の旧1万円札)で、被っている頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠には以前に紹介したモトドリを納める巾子(こじ)のパーツがある。だから少なくとも奈良時代にはモトドリのある髪型をしていたと考えられる。おそらく彼が生きていた飛鳥時代(592〜710年)も、特に変化する要素はないので同じような髪型だったと推測する。
ポーラ文化研究所のホームページによると「推古天皇11年(603)、隋にならって朝廷に仕える官人はすべて冠を被ることになりました(聖徳太子が制定した冠位十二階を指している)。これにより髪型が変化し、冠の下に収まるように髻を結うようになりました」とあり、この髪型を冠下一髻(かんむり したの ひともと)と紹介している。時代が下って清和天皇の髪型はこれの豪華版とも推測できる。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
これは藤原京期(694〜710年:飛鳥時代末期)の築造と推定されている高松塚古墳に描かれていた壁画とその復元図。これがソフトな冠か烏帽子かはよくわからないが、いかにも頭の上にモトドリがありそうな形をしている。
冠下一髻の説明にある「冠の下に収まるように髻を結うようになりました」より以前はサイドで髪を束ねた「みずら」と呼ばれるスタイル。少し前に流行った「卑弥呼さま〜っ」を思い出すが、邪馬台国について記した魏志倭人伝によると、これは男性の髪型で卑弥呼がこうしていたわけじゃない。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきがあったのが今回の番外編のテーマ。
ーーー続く
旧石器時代→縄文時代→弥生時代
古墳時代→空白の4世紀→飛鳥時代
奈良時代→平安時代
鎌倉時代→室町時代→戦国時代
安土桃山時代→江戸時代
そして前回でも紹介した髪型は、左は戦国時代の茶筅髷(ちゃせんまげ)で右が江戸時代のチョンマゲ(丁髷)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
それ以前の男性の髪型は明確にはわかっていない。
その理由は
平安時代の中頃まで肖像画を描くのを憚る風潮があった。
平安時代の貴族や武士は公的な場では冠(かんむり)、私的な場では烏帽子(えぼし)
を被っていた。また庶民も烏帽子を被っていた。
さらに冠や烏帽子を脱いで髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥とする考えが、
庶民レベルで鎌倉後期、公家や武士では室町中期まで続いた。
つまり戦国時代以前は髪型を描いたビジュアルな記録や資料に乏しい。
「烏帽子のあれこれ その4」で鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻を紹介した。こちらは886年に起きた放火事件である「応天門の変」を、平安末期に描いた伴大納言絵巻の模写の一部。
貴族の乗る牛車と警護の武士だろうか。
全員が烏帽子を着用。
こちらは庶民でやはり烏帽子を被っている。
しかしこの絵巻には清和天皇(850〜881年)が登場し、なんと彼は無帽!
冠や烏帽子について調べると、多くの資料で「宮中では冠を着用するのがルール。天皇は基本的に宮中にいるので冠を取ることはなく、烏帽子を被れるのは退位して上皇になってから」と書かれている。
なのにどうしてこの絵巻では天皇を無帽で描いたのだろうか。しかも場所は清涼殿(天皇が政務を行う場所)で、太政大臣より対面で事件について報告を受けている、言ってみれば公務中。描かれているのは夜半に急な来訪の場面とはいえ、寝るときもSEXするときもモトドリを見せなかった平安人、ましてや天皇が無帽は考えづらいと思うのだが。あるいは「チンチン見せてもモトドリ見せるな」との考えは平安前期のこの頃にはまだなかったのか。
平安中期以降に人前でモトドリを見せなかったのはいろいろとエピソードが残っている。ただし平安時代は約400年もあったから前期では風習が異なっていても不思議ではない。何かと興味深いものの、これ以上の深入りは手間がかかるのでやめておくm(_ _)m
なお清和天皇の髪型は、この図によれば冠下髻(かんむり したの もとどり)と思われる。というかここにあるイラストは伴大納言絵巻にソックリ。おそらく伴大納言絵巻を真似て描いたのではないか。それだけ当時の髪型の資料は少ないのだと思われる。画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
戦国時代の茶筅髷と平安時代のば冠下髻は、髪の毛を束ねたモトドリを頭上高くに巻いている点でほぼ同じ。そして江戸時代のチョンマゲは頭頂部を剃った月代(さかやき)の上にモトドリを折り曲げて載せた形。つまりどれも髪の毛を束ねてそこそこの大きさのモトドリ作るのは共通している。
平安時代より前で髪型が描かれたものは見つけられなかった。しかしこの画像左側の聖徳太子は8世紀前半(奈良時代:710〜794年)に描かれたとされる日本で最古の肖像画(右側はその模写の旧1万円札)で、被っている頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠には以前に紹介したモトドリを納める巾子(こじ)のパーツがある。だから少なくとも奈良時代にはモトドリのある髪型をしていたと考えられる。おそらく彼が生きていた飛鳥時代(592〜710年)も、特に変化する要素はないので同じような髪型だったと推測する。
ポーラ文化研究所のホームページによると「推古天皇11年(603)、隋にならって朝廷に仕える官人はすべて冠を被ることになりました(聖徳太子が制定した冠位十二階を指している)。これにより髪型が変化し、冠の下に収まるように髻を結うようになりました」とあり、この髪型を冠下一髻(かんむり したの ひともと)と紹介している。時代が下って清和天皇の髪型はこれの豪華版とも推測できる。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
これは藤原京期(694〜710年:飛鳥時代末期)の築造と推定されている高松塚古墳に描かれていた壁画とその復元図。これがソフトな冠か烏帽子かはよくわからないが、いかにも頭の上にモトドリがありそうな形をしている。
冠下一髻の説明にある「冠の下に収まるように髻を結うようになりました」より以前はサイドで髪を束ねた「みずら」と呼ばれるスタイル。少し前に流行った「卑弥呼さま〜っ」を思い出すが、邪馬台国について記した魏志倭人伝によると、これは男性の髪型で卑弥呼がこうしていたわけじゃない。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきがあったのが今回の番外編のテーマ。
ーーー続く
wassho at 20:53|Permalink│Comments(0)│
2025年07月19日
烏帽子のあれこれ 番外編
烏帽子(えぼし)をネタにあれこれと話が脱線した前回まで6回のブログ。もう烏帽子とはほとんど関係のない話になるので今回は番外編とした。
さて左は聖徳太子の時代の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)、右は平安後期から強装束(こわしょうぞく)のデザイン様式になり布を漆で固めたハードな冠である。右画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/から引用
ソフトな冠では袋状、ハードな冠では筒のように上に伸びているのは巾子(こじ)と呼ばれるパーツで、それは髪の毛を束ねた髻(モトドリ)を入れるためのもの。ハードな冠では巾子をモトドリに固定する簪(かんざし)も見える。
モトドリと巾子(こじ)とかんざしの関係図。
つまりモトドリがあるので巾子が作られた。
冠の普段着版である烏帽子が膨らんだ形をしているのも同じ理由。
写真はドラマでの朝倉義景(戦国時代)と徳川吉宗(江戸時代)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
モトドリがある=髪の毛をどこかで束ねた髪型を総称して髷(マゲ)と呼ぶ。朝倉義景の髪型は茶筅髷(ちゃせんまげ)。髪の毛を巻いている部分が茶筅(抹茶を点てるときにかき混ぜる道具)に似ているのでその名前。室町末期から安土桃山時代に流行ったとされる。
吉宗の髪型はチョンマゲ(丁髷)。厳密にはこれはチョンマゲではないのだが、広義にはチョンマゲといって差し支えないだろう。
このチョンマゲ、ドラマや映画で見慣れていて普段は何も感じないとはいえ、よく見れば見るほど不思議でおかしな髪型である。今もし茶筅髷にした人が現れても(例えばアーチストなどであれば)それほど違和感はないように思う。しかしチョンマゲだと吹き出してしまうに違いない。それはやはり頭頂部のセンターを剃っているから。いってみれば究極のツーブロック(^^ゞ
剃っている部分を月代(さかやき)と呼ぶ。月代にし始めたのは平安時代に武士が登場してから。目的は兜を被ったときに頭が蒸れるのを防ぐため(他にも諸説あり)。当初は戦(いくさ)の時だけ月代にしていて、やがて戦国の世になると戦多発で常に月代状態へ。そしてなぜか天下太平の江戸時代になっても、この戦闘用ヘアスタイルであった月代は生き残り、さらに武士ではない庶民にまで広がり明治になるまで続く。
月代を剃ると書いたが、当初は木製のピンセットのような毛抜きで抜いていたらしい。戦国時代に来日した宣教師の記録には「武士は頭を血だらけにしている」と記している。何と痛そうな(>_<)
また一説によると髪の毛を抜くのではなく剃って月代を作ったのは織田信長が最初とされる。宣教師の記録と合わせれば信長が最初かどうかはともかく、戦国時代(応仁の乱1467年〜信長上洛1568年)の中頃に剃り始めたと考えられる。しかしそれがどうにも解せない。
なぜなら毛を剃るのに使うカミソリは仏教と共に伝来した。時期は「手を合わせてご参拝」の538年。それ以降、僧侶は頭を剃ってきた。武士の登場が900年頃だとすれば月代を作り始めたのはカミソリ伝来から400年後である。
仏教と共に伝わったのは中国のカミソリ。信長が手にしたのは宣教師などがもたらした西洋式のカミソリといわれる。でもカミソリで中国と西洋にそんなに違いはない。中国からカミソリが伝来した当時は僧侶専用の「秘められた法具」だったかも知れない。ただし400年も経てばありふれた刃物のひとつで、誰もがカミソリで毛が剃れるのは知っていたはず。なのに900年から1500年の600年間もの期間、どうして武士は僧侶に「カミソリ貸して」と頼まずに、文字通り血の滲む痛い思いをして毛を抜いてきたのだろうか。謎すぎる。
ついでに言うと月代が兜を被ったときの暑さ対策だとして、髪の毛を剃った程度でそんなに涼しくなるかな? 仮に髪の毛があれば暑いとしても、別に剃らずに短くカットすればいいだけのこと。どうして剃る必要があった、あるいは痛い思いまでして抜いたのか。ちなみにハサミの伝来もかみそりとほぼ同時期。
まあそんなつまらないテーマを研究する歴史学者はいないだろうから、なぜ月代を無毛にした、どうしてを剃らずに毛を抜いたのかの疑問は解決しそうにない。
もうひとつついでに僧侶は坊主とも言う。そして僧侶は髪を剃ってツルツルにする。でも坊主頭はきわめて短くカットするだけで剃らない髪型である。なのにどうして坊主の名前が付いている?
あっ、番外編のキーワードはモトドリだったのに、
また話がそれてしまったm(_ _)m
ーーー続く
さて左は聖徳太子の時代の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)、右は平安後期から強装束(こわしょうぞく)のデザイン様式になり布を漆で固めたハードな冠である。右画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/から引用
ソフトな冠では袋状、ハードな冠では筒のように上に伸びているのは巾子(こじ)と呼ばれるパーツで、それは髪の毛を束ねた髻(モトドリ)を入れるためのもの。ハードな冠では巾子をモトドリに固定する簪(かんざし)も見える。
モトドリと巾子(こじ)とかんざしの関係図。
つまりモトドリがあるので巾子が作られた。
冠の普段着版である烏帽子が膨らんだ形をしているのも同じ理由。
写真はドラマでの朝倉義景(戦国時代)と徳川吉宗(江戸時代)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
モトドリがある=髪の毛をどこかで束ねた髪型を総称して髷(マゲ)と呼ぶ。朝倉義景の髪型は茶筅髷(ちゃせんまげ)。髪の毛を巻いている部分が茶筅(抹茶を点てるときにかき混ぜる道具)に似ているのでその名前。室町末期から安土桃山時代に流行ったとされる。
吉宗の髪型はチョンマゲ(丁髷)。厳密にはこれはチョンマゲではないのだが、広義にはチョンマゲといって差し支えないだろう。
このチョンマゲ、ドラマや映画で見慣れていて普段は何も感じないとはいえ、よく見れば見るほど不思議でおかしな髪型である。今もし茶筅髷にした人が現れても(例えばアーチストなどであれば)それほど違和感はないように思う。しかしチョンマゲだと吹き出してしまうに違いない。それはやはり頭頂部のセンターを剃っているから。いってみれば究極のツーブロック(^^ゞ
剃っている部分を月代(さかやき)と呼ぶ。月代にし始めたのは平安時代に武士が登場してから。目的は兜を被ったときに頭が蒸れるのを防ぐため(他にも諸説あり)。当初は戦(いくさ)の時だけ月代にしていて、やがて戦国の世になると戦多発で常に月代状態へ。そしてなぜか天下太平の江戸時代になっても、この戦闘用ヘアスタイルであった月代は生き残り、さらに武士ではない庶民にまで広がり明治になるまで続く。
月代を剃ると書いたが、当初は木製のピンセットのような毛抜きで抜いていたらしい。戦国時代に来日した宣教師の記録には「武士は頭を血だらけにしている」と記している。何と痛そうな(>_<)
また一説によると髪の毛を抜くのではなく剃って月代を作ったのは織田信長が最初とされる。宣教師の記録と合わせれば信長が最初かどうかはともかく、戦国時代(応仁の乱1467年〜信長上洛1568年)の中頃に剃り始めたと考えられる。しかしそれがどうにも解せない。
なぜなら毛を剃るのに使うカミソリは仏教と共に伝来した。時期は「手を合わせてご参拝」の538年。それ以降、僧侶は頭を剃ってきた。武士の登場が900年頃だとすれば月代を作り始めたのはカミソリ伝来から400年後である。
仏教と共に伝わったのは中国のカミソリ。信長が手にしたのは宣教師などがもたらした西洋式のカミソリといわれる。でもカミソリで中国と西洋にそんなに違いはない。中国からカミソリが伝来した当時は僧侶専用の「秘められた法具」だったかも知れない。ただし400年も経てばありふれた刃物のひとつで、誰もがカミソリで毛が剃れるのは知っていたはず。なのに900年から1500年の600年間もの期間、どうして武士は僧侶に「カミソリ貸して」と頼まずに、文字通り血の滲む痛い思いをして毛を抜いてきたのだろうか。謎すぎる。
ついでに言うと月代が兜を被ったときの暑さ対策だとして、髪の毛を剃った程度でそんなに涼しくなるかな? 仮に髪の毛があれば暑いとしても、別に剃らずに短くカットすればいいだけのこと。どうして剃る必要があった、あるいは痛い思いまでして抜いたのか。ちなみにハサミの伝来もかみそりとほぼ同時期。
まあそんなつまらないテーマを研究する歴史学者はいないだろうから、なぜ月代を無毛にした、どうしてを剃らずに毛を抜いたのかの疑問は解決しそうにない。
もうひとつついでに僧侶は坊主とも言う。そして僧侶は髪を剃ってツルツルにする。でも坊主頭はきわめて短くカットするだけで剃らない髪型である。なのにどうして坊主の名前が付いている?
あっ、番外編のキーワードはモトドリだったのに、
また話がそれてしまったm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 17:36|Permalink│Comments(0)│
2025年07月15日
烏帽子のあれこれ その6
ついつい話がそれてしまうこのブログ。
今回のテーマはいつも以上にそんな予感がしていると初回に書いた。
やっぱり案の定ーーー
昔の人が頭に付けていたのには、
冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)があるところから始まり、
→西洋料理のコック帽はどうしてあんなに背が高いのか
→現在の皇室での使われ方
→日本人男子の髪型の変遷
→髻(モトドリ)
→力士の髪型
→力士の階級と給料
→強装束(こわしょうぞく)と柔装束(なえしょうぞく)
→源氏物語の衣装
→烏帽子の変化
→庶民と烏帽子
→モトドリは見せない、SEXのときでも烏帽子は脱がない
→(古代と)中世は「被帽の時代」、近世は「無帽の時代」
→でも大正時代から高度成長期前まで帽子が復活
と、我ながらアッパレ?
もっともそれは好奇心のなせる技で、それがある限り脳の活性も保たれるだろうし、またブログも書き続けられるのだと思っている。そして今のところそんな好奇心はAIには備わっておらず人間だけが持つ能力。本当は単に気まぐれで気移りしているなだけなのだけれど、それを前向きに捉えるのが私のいいところ(^^ゞ
さてそろそろ本題に戻りましょう。
それは昔の肖像画で見る武将や武士たちの、
頭に乗っている帽子の位置が、どう見てもおかしいとの疑問。
初回に紹介した肖像画を再掲しておく。
もう説明は省略するが被っているのは烏帽子。
被っているというより半分だけ頭に載っけている感じ。
こうなった理由は髪型にあると推測した。
これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
江戸時代がチョンマゲだったのは誰でも知っているが、それより以前も古墳時代の「みずら」を除けば男性は頭の上で髪を束ねていた。この束ねた髪がモトドリ(髻)。
モトドリを高くまとめた戦国時代の髪型と、頭の一部を剃ってそこにモトドリを置いた江戸時代の髪型。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
4名の肖像画の上段は戦国時代の浅井長政と北条氏康、下段は江戸時代の田沼意次と松平定信。田沼と松平はもちろんチョンマゲ。浅井と北条の具体的な髪型はわからないものの、頭にモトドリがあったのは間違いない。
そのモトドリがある頭に烏帽子を被るとどうなるのか。江戸時代以前の設定のドラマとかで烏帽子を被って横顔が映っているシーンを探してみたけれど、けっこうフツーで違和感なし。
始めて烏帽子を被る元服の儀式を再現したと思われる画像も見つけたが、これも同じく肖像画のように半分だけ載せた感じではない。画像はhttps://ameblo.jp/croon-yuuki/entry-12487737675.htmlとhttps://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=987161827170811904から引用編集
考えてみればそれは当たり前で、元服儀式に参加している青年は頭にモトドリはないし、ドラマだって烏帽子は脱がないのだからモトドリまでは仕込んでいないはず。
そしてこんな画像を見つけた。
これは4名の肖像画で右下に配置した松平定信の別の肖像画。
おそらくこのようにモトドリを覆うために、烏帽子を頭の後ろまで伸ばしてしたと思われる。それで正面からあまり角度の付いていない構図で肖像画を描けば、烏帽子が頭に半分だけ載っているように見える。100%納得はしていないのだが、もうそろそろこのテーマにも飽きてきたので(^^ゞ そういうことにしておきましょう。
ところでこの松平定信の肖像画、斜め前を向いている顔に対して、後頭部は顔よりもっと真横を向いているように見えなくもない。顔に合わせて同じ角度で描くとモトドリがあまり見えなくなるので、後頭部だけさらに横向きにしたのだろうか。
これって複数の多視点を絵画に導入した印象派のセザンヌと同じ技法。
江戸時代の絵師もなかなかやるね。
さて烏帽子が頭から半分はみ出して、
チョコンと載っているような肖像画の謎もとりあえずは解けた。
ーーーなのにまだ続く
今回のテーマはいつも以上にそんな予感がしていると初回に書いた。
やっぱり案の定ーーー
昔の人が頭に付けていたのには、
冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)があるところから始まり、
→西洋料理のコック帽はどうしてあんなに背が高いのか
→現在の皇室での使われ方
→日本人男子の髪型の変遷
→髻(モトドリ)
→力士の髪型
→力士の階級と給料
→強装束(こわしょうぞく)と柔装束(なえしょうぞく)
→源氏物語の衣装
→烏帽子の変化
→庶民と烏帽子
→モトドリは見せない、SEXのときでも烏帽子は脱がない
→(古代と)中世は「被帽の時代」、近世は「無帽の時代」
→でも大正時代から高度成長期前まで帽子が復活
と、我ながらアッパレ?
もっともそれは好奇心のなせる技で、それがある限り脳の活性も保たれるだろうし、またブログも書き続けられるのだと思っている。そして今のところそんな好奇心はAIには備わっておらず人間だけが持つ能力。本当は単に気まぐれで気移りしているなだけなのだけれど、それを前向きに捉えるのが私のいいところ(^^ゞ
さてそろそろ本題に戻りましょう。
それは昔の肖像画で見る武将や武士たちの、
頭に乗っている帽子の位置が、どう見てもおかしいとの疑問。
初回に紹介した肖像画を再掲しておく。
もう説明は省略するが被っているのは烏帽子。
被っているというより半分だけ頭に載っけている感じ。
こうなった理由は髪型にあると推測した。
これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
江戸時代がチョンマゲだったのは誰でも知っているが、それより以前も古墳時代の「みずら」を除けば男性は頭の上で髪を束ねていた。この束ねた髪がモトドリ(髻)。
モトドリを高くまとめた戦国時代の髪型と、頭の一部を剃ってそこにモトドリを置いた江戸時代の髪型。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
4名の肖像画の上段は戦国時代の浅井長政と北条氏康、下段は江戸時代の田沼意次と松平定信。田沼と松平はもちろんチョンマゲ。浅井と北条の具体的な髪型はわからないものの、頭にモトドリがあったのは間違いない。
そのモトドリがある頭に烏帽子を被るとどうなるのか。江戸時代以前の設定のドラマとかで烏帽子を被って横顔が映っているシーンを探してみたけれど、けっこうフツーで違和感なし。
始めて烏帽子を被る元服の儀式を再現したと思われる画像も見つけたが、これも同じく肖像画のように半分だけ載せた感じではない。画像はhttps://ameblo.jp/croon-yuuki/entry-12487737675.htmlとhttps://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=987161827170811904から引用編集
考えてみればそれは当たり前で、元服儀式に参加している青年は頭にモトドリはないし、ドラマだって烏帽子は脱がないのだからモトドリまでは仕込んでいないはず。
そしてこんな画像を見つけた。
これは4名の肖像画で右下に配置した松平定信の別の肖像画。
おそらくこのようにモトドリを覆うために、烏帽子を頭の後ろまで伸ばしてしたと思われる。それで正面からあまり角度の付いていない構図で肖像画を描けば、烏帽子が頭に半分だけ載っているように見える。100%納得はしていないのだが、もうそろそろこのテーマにも飽きてきたので(^^ゞ そういうことにしておきましょう。
ところでこの松平定信の肖像画、斜め前を向いている顔に対して、後頭部は顔よりもっと真横を向いているように見えなくもない。顔に合わせて同じ角度で描くとモトドリがあまり見えなくなるので、後頭部だけさらに横向きにしたのだろうか。
これって複数の多視点を絵画に導入した印象派のセザンヌと同じ技法。
江戸時代の絵師もなかなかやるね。
さて烏帽子が頭から半分はみ出して、
チョコンと載っているような肖像画の謎もとりあえずは解けた。
ーーーなのにまだ続く
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2025年07月13日
烏帽子のあれこれ その5
聖徳太子の頃に正装用の帽子として定まったのが冠(かんむり)。そこから派生して普段着用の帽子となったのが烏帽子(えぼし)。冠は使用する場所や場面が定まっているとして、烏帽子は好きなときに被ればいいのかというと、そうではなくて基本的に四六時中の着用。前回で紹介したように寝るときも被っていたし、たとえ全裸になってSEXしていても烏帽子は脱がなかった。
奈良時代以降は元服と呼ばれる「成人となる儀式」があり、そこで初めて冠や烏帽子を被る。これを機に服装や髪型も元服前の子供とは変わるが、「元」は首や頭を意味し「服」は着用。すなわち頭に冠を付けるが本来の意味。元服には初冠(ういこうぶり)との別名もある。また武家では元服の儀式で烏帽子を被せる人を「烏帽子親(えぼしおや)」と呼び、ある種の後見関係を結ぶカトリックのゴッドファーザーのような制度も存在した。このように元服の象徴となるのが冠や烏帽子。
まあとにかく元服して大人になったら、そこから死ぬまで冠なり烏帽子なりの帽子を被り続けるのが日本人男性の一生。それは頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったのがその理由。チンチン見せてもモトドリ見せるなが当時の心得。
これは鎌倉時代初期の絵巻(東北院 職人歌合)にある図柄。描かれているのは博打打ち。当時は職業と見なされていたので今風にいいえばプロのギャンブラー。彼の前にあるのはバックギャモンに似たその頃の双六(すごろく)の盤。
博打打ちはスッテンテンに大負けして、身ぐるみ剥がれフンドシも取られてタマキンまで見えていて(>_<) それなのに烏帽子は被っている。烏帽子までは没収しないしきたりだったのか、フンドシの次が烏帽子だったのかはわからないものの、烏帽子がいかに大切な存在だったのかを物語っている。(なおこの絵巻はギャグっぽい作品なので、本当にこのようなことがあったかどうかは不明)
しかし何事も始まりがあれば終わりもあるわけで、そこまでして頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを絶対に見せない風習も、庶民レベルでは鎌倉時代後半、公家や武士でもそれから180年ほど後の室町時代中頃には廃れた。以降は日常的な被りものではなく儀礼的な装束の一部として残っていく。冠が正装なのは変わらないが、烏帽子は普段着ではなく略礼服のような位置づけに。
この変化をもって(古代と)中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と呼んだりもする。ちなみに日本の歴史区分では
大和〜平安:古代
鎌倉〜安土桃山:中世
江戸:近世
明治〜第二次世界大戦終戦:近代 それ以降:現代
となる(諸説あり)。
江戸時代中期(1701年)に起きた赤穂事件いわゆる忠臣蔵。浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうづけのすけ)を切りつけたシーンは烏帽子姿で描かれることが多い。映画でも同様。映画画像はhttps://www.twellv.co.jp/program/drama/chushingura-cinema/から引用
この時代に江戸城内で烏帽子を着用していたかどうかわからない。しかし事件が起きたのは朝廷からの勅使を迎えていた日。浅野は勅使接遇の責任者、吉良はその相談役のようなポジション。それで二人とも勅使との面会に備えて異様に裾(すそ)の長い長袴(ながばかま)をはいていて、これは武家の礼装姿。それならば烏帽子を被っていただろうとの想像で描かれている。なお1枚目は江戸時代末期の浮世絵であるが事件から約150年後に刷られている。2枚目は昭和になっての制作。
この長袴は長い裾を引きずるので当然ながら動きにくいし、それを踏みつけられれば動きを止められてしまう。これは主君に襲いかかれない服装との意味があるらしい。また長袴のときは刀も短刀しか差すのを許されない。にもかかわらずヤッテモウタ(>_<) のが浅野内匠頭。もっとも長袴でなければ吉良を仕留められたはずで、大石内蔵助たちのリベンジも起きなかったかも知れない。また一説によると浅野より位が高い吉良の礼装は長袴ではなく、そのおかげで切りつける浅野から逃れられたとも言われている。
そして時代は下って1867年江戸幕府最後の日。教科書でも見たラスト将軍の徳川慶喜が居並ぶ諸藩重臣たちに大政奉還の方針を告げる様子。場所は京都にある二条城。こんな大事な会議なのに全員無帽。ただしこれは大政奉還から68年後の1935年(昭和10年)の制作。それでももう武士は冠や烏帽子を被っていないと確信して描いたのだと思う。
こちらは明治天皇が即位に際し、薩摩・長州・土佐の藩主に褒美を与えている様子を描いた浮世絵。制作年は不明だが作者の長谷川貞信は明治12年に亡くなっており、明治維新からはそれほど経っていない。
絵を見ると画面右側の一段高くなっている部屋の中は、明治天皇がいてその周りを公家が取り囲んでいる。彼らは冠着用。そして中央はほとんどが武家の面々が占め烏帽子を被っている。もっともこのようなセレモニーが実際にあったのか定かではないし、あったとしても作者がその場にいてスケッチしているわけではない。あくまで想像の上での作品。
考えてみればここは宮中。ならばそこに参内する大名だって官位を持っているから冠姿のはず。おそらく公家は冠、武家は烏帽子にしてわかりやすく対比したかったと思われる。よく見れば公家の装束が柔らかく描かれているのたいして、武家のそれは定規で引いたかのように直線で両者は対照的。
ほぼ同時期を描いた無帽と被帽の絵を並べてみた。
さてどちらが正しいのだろう。
ちなみに徳川慶喜は冠、烏帽子、無帽の写真がそれぞれ残っている。注目は無帽姿で中世ならならこれで人前に出るのは考えられず、やはり近世は「無帽の時代」。
ついでに天下人のお三方。肖像画とはそれなりにかしこまった存在の絵画。今でも写真館で撮ってもらうのにスーツを着るように、整えた身なりをするなら彼らの時代であっても冠は欠かせない。それなのにどうして信長は?
もっともこれらの肖像画は各人が亡くなって後の制作で(一般に肖像画が向かって左を向いていたら死後に描かれている)、実際の姿の記録ではなく想像での創作。画家が秀吉、家康なら冠姿がふさわしいと考えたのに対して、信長は形にとらわれない人物だったから無帽姿が似合うと思ったのかも知れない。
それはともかく大きな流れとして(古代と)中世は「被帽の時代」で、近世は「無帽の時代」となったのは確か。ところが近代・現代になって、それがしばらく巻き戻される期間が現れる。
これは1920年(大正9年)年の第1回メーデーの様子。集まっている人々はほとんど帽子を被っている。写真ではわかりづらいが和装に帽子の人も多そうだ。画像はhttps://www.chosakai.gr.jp/hatarakikata/#expo-content-0から引用
1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌いわゆる取り付け騒ぎの写真。
見る限り男性は全員帽子を被っている。
参考までに世界恐慌が起きたのは1929年から1930年代後半。これは1935年に撮られたニューヨークの失業者。石を投げれば帽子に当たる状態。
太平洋戦争が始まる前の1939年(昭和14年)の銀座。
終戦から1年後の1946年(昭和21年)の銀座。
銀座の写真では帽子を被っていない人もいるとはいえ、それでも着帽率は9割以上。日本人が帽子を被りだしたのは大正時代からとされる。それはファッションあるいは機能性・実用面の考慮ではなく、外出するときは&スーツを着るときは帽子を被るのが暗黙のルールになっていたと思われる。にもかかわらずその風潮は高度成長期(1955年〜)に入る頃に消えてなくなる。
どうして被りだしたのか、そしてどうして被らなくなったのか。それはたいへん興味深いところではあるものの、これ以上寄り道するといつまで経ってもブログが終わらないので今回はガマン。ついでにいうと冠や烏帽子を四六時中被っていたのは、頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったから。別の角度で考えれば冠や烏帽子を人前で脱ぐのは無礼にあたる。しかし大正時代からの帽子は、例えば謝るときは帽子を取るなど正反対のマナーになっている。そのあたりも面白いところ。
とりあえず現在も好んで帽子を被っているのはこの太郎チャンくらいかな(^^ゞ
ーーー続く
奈良時代以降は元服と呼ばれる「成人となる儀式」があり、そこで初めて冠や烏帽子を被る。これを機に服装や髪型も元服前の子供とは変わるが、「元」は首や頭を意味し「服」は着用。すなわち頭に冠を付けるが本来の意味。元服には初冠(ういこうぶり)との別名もある。また武家では元服の儀式で烏帽子を被せる人を「烏帽子親(えぼしおや)」と呼び、ある種の後見関係を結ぶカトリックのゴッドファーザーのような制度も存在した。このように元服の象徴となるのが冠や烏帽子。
まあとにかく元服して大人になったら、そこから死ぬまで冠なり烏帽子なりの帽子を被り続けるのが日本人男性の一生。それは頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったのがその理由。チンチン見せてもモトドリ見せるなが当時の心得。
これは鎌倉時代初期の絵巻(東北院 職人歌合)にある図柄。描かれているのは博打打ち。当時は職業と見なされていたので今風にいいえばプロのギャンブラー。彼の前にあるのはバックギャモンに似たその頃の双六(すごろく)の盤。
博打打ちはスッテンテンに大負けして、身ぐるみ剥がれフンドシも取られてタマキンまで見えていて(>_<) それなのに烏帽子は被っている。烏帽子までは没収しないしきたりだったのか、フンドシの次が烏帽子だったのかはわからないものの、烏帽子がいかに大切な存在だったのかを物語っている。(なおこの絵巻はギャグっぽい作品なので、本当にこのようなことがあったかどうかは不明)
しかし何事も始まりがあれば終わりもあるわけで、そこまでして頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを絶対に見せない風習も、庶民レベルでは鎌倉時代後半、公家や武士でもそれから180年ほど後の室町時代中頃には廃れた。以降は日常的な被りものではなく儀礼的な装束の一部として残っていく。冠が正装なのは変わらないが、烏帽子は普段着ではなく略礼服のような位置づけに。
この変化をもって(古代と)中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と呼んだりもする。ちなみに日本の歴史区分では
大和〜平安:古代
鎌倉〜安土桃山:中世
江戸:近世
明治〜第二次世界大戦終戦:近代 それ以降:現代
となる(諸説あり)。
江戸時代中期(1701年)に起きた赤穂事件いわゆる忠臣蔵。浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうづけのすけ)を切りつけたシーンは烏帽子姿で描かれることが多い。映画でも同様。映画画像はhttps://www.twellv.co.jp/program/drama/chushingura-cinema/から引用
この時代に江戸城内で烏帽子を着用していたかどうかわからない。しかし事件が起きたのは朝廷からの勅使を迎えていた日。浅野は勅使接遇の責任者、吉良はその相談役のようなポジション。それで二人とも勅使との面会に備えて異様に裾(すそ)の長い長袴(ながばかま)をはいていて、これは武家の礼装姿。それならば烏帽子を被っていただろうとの想像で描かれている。なお1枚目は江戸時代末期の浮世絵であるが事件から約150年後に刷られている。2枚目は昭和になっての制作。
この長袴は長い裾を引きずるので当然ながら動きにくいし、それを踏みつけられれば動きを止められてしまう。これは主君に襲いかかれない服装との意味があるらしい。また長袴のときは刀も短刀しか差すのを許されない。にもかかわらずヤッテモウタ(>_<) のが浅野内匠頭。もっとも長袴でなければ吉良を仕留められたはずで、大石内蔵助たちのリベンジも起きなかったかも知れない。また一説によると浅野より位が高い吉良の礼装は長袴ではなく、そのおかげで切りつける浅野から逃れられたとも言われている。
そして時代は下って1867年江戸幕府最後の日。教科書でも見たラスト将軍の徳川慶喜が居並ぶ諸藩重臣たちに大政奉還の方針を告げる様子。場所は京都にある二条城。こんな大事な会議なのに全員無帽。ただしこれは大政奉還から68年後の1935年(昭和10年)の制作。それでももう武士は冠や烏帽子を被っていないと確信して描いたのだと思う。
こちらは明治天皇が即位に際し、薩摩・長州・土佐の藩主に褒美を与えている様子を描いた浮世絵。制作年は不明だが作者の長谷川貞信は明治12年に亡くなっており、明治維新からはそれほど経っていない。
絵を見ると画面右側の一段高くなっている部屋の中は、明治天皇がいてその周りを公家が取り囲んでいる。彼らは冠着用。そして中央はほとんどが武家の面々が占め烏帽子を被っている。もっともこのようなセレモニーが実際にあったのか定かではないし、あったとしても作者がその場にいてスケッチしているわけではない。あくまで想像の上での作品。
考えてみればここは宮中。ならばそこに参内する大名だって官位を持っているから冠姿のはず。おそらく公家は冠、武家は烏帽子にしてわかりやすく対比したかったと思われる。よく見れば公家の装束が柔らかく描かれているのたいして、武家のそれは定規で引いたかのように直線で両者は対照的。
ほぼ同時期を描いた無帽と被帽の絵を並べてみた。
さてどちらが正しいのだろう。
ちなみに徳川慶喜は冠、烏帽子、無帽の写真がそれぞれ残っている。注目は無帽姿で中世ならならこれで人前に出るのは考えられず、やはり近世は「無帽の時代」。
ついでに天下人のお三方。肖像画とはそれなりにかしこまった存在の絵画。今でも写真館で撮ってもらうのにスーツを着るように、整えた身なりをするなら彼らの時代であっても冠は欠かせない。それなのにどうして信長は?
もっともこれらの肖像画は各人が亡くなって後の制作で(一般に肖像画が向かって左を向いていたら死後に描かれている)、実際の姿の記録ではなく想像での創作。画家が秀吉、家康なら冠姿がふさわしいと考えたのに対して、信長は形にとらわれない人物だったから無帽姿が似合うと思ったのかも知れない。
それはともかく大きな流れとして(古代と)中世は「被帽の時代」で、近世は「無帽の時代」となったのは確か。ところが近代・現代になって、それがしばらく巻き戻される期間が現れる。
これは1920年(大正9年)年の第1回メーデーの様子。集まっている人々はほとんど帽子を被っている。写真ではわかりづらいが和装に帽子の人も多そうだ。画像はhttps://www.chosakai.gr.jp/hatarakikata/#expo-content-0から引用
1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌いわゆる取り付け騒ぎの写真。
見る限り男性は全員帽子を被っている。
参考までに世界恐慌が起きたのは1929年から1930年代後半。これは1935年に撮られたニューヨークの失業者。石を投げれば帽子に当たる状態。
太平洋戦争が始まる前の1939年(昭和14年)の銀座。
終戦から1年後の1946年(昭和21年)の銀座。
銀座の写真では帽子を被っていない人もいるとはいえ、それでも着帽率は9割以上。日本人が帽子を被りだしたのは大正時代からとされる。それはファッションあるいは機能性・実用面の考慮ではなく、外出するときは&スーツを着るときは帽子を被るのが暗黙のルールになっていたと思われる。にもかかわらずその風潮は高度成長期(1955年〜)に入る頃に消えてなくなる。
どうして被りだしたのか、そしてどうして被らなくなったのか。それはたいへん興味深いところではあるものの、これ以上寄り道するといつまで経ってもブログが終わらないので今回はガマン。ついでにいうと冠や烏帽子を四六時中被っていたのは、頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったから。別の角度で考えれば冠や烏帽子を人前で脱ぐのは無礼にあたる。しかし大正時代からの帽子は、例えば謝るときは帽子を取るなど正反対のマナーになっている。そのあたりも面白いところ。
とりあえず現在も好んで帽子を被っているのはこの太郎チャンくらいかな(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 23:35|Permalink│Comments(0)│
2025年07月08日
烏帽子のあれこれ その4

聖徳太子の頃の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)。その下に着用した薄い袋状の圭冠(はしばこうぶり)が烏帽子(えぼし)のルーツとされる。どうして頭巾(ときん)の下に同じような圭冠(はしばこうぶり)を重ねたのか疑問なのだが、そこはスルーして、やがて冠は正装用、烏帽子は普段着用の帽子と用途が分かれる。(なお圭冠は冠の下に被るのではなく、最初から略式の冠として略服着用時に用いられたとの説もある)
圭冠(はしばこうぶり)そのもの、あるいはそれから発展した初期の烏帽子の形は不明。おそらくはスイミングキャップを膨らましたようなシンプルな形状だったのではないかな。しかしだんだんと上に伸びて、そして強装束(こわしょうぞく:前回参照)の頃にはよく見る平安貴族スタイルになっていく。その形が立烏帽子(たてえぼし)。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/costume/295.htmlから引用
貴族ではこの高い立烏帽子が続く一方で、武家が着用する烏帽子は高さが低くなり、また立烏帽子をおったような折烏帽子(おりえぼし)、さらには各家ごとにその折り方に工夫を凝らした侍烏帽子(さむらいえぼし)などが登場する。画像はhttps://www.touken-world.jp/tips/92804/から引用
これらの烏帽子は貴族または武家が被るもの。そもそも冠はもちろんとして烏帽子も上級国民の装束であるイメージが今日では強い。しかし意外にも庶民だって烏帽子を被っていたのだ。
これは鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻の一部。
大工は平たい烏帽子を被り、指揮している人は立烏帽子で下っ端の役人(貴族)だろうか。
同時代の石山寺縁起絵巻では庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。僧侶が無帽なのは俗世とは違う習慣体系なのか、あるいは剃髪していて頭頂部に何もないからかはよくわからない。

これらで庶民が被っている平たい烏帽子の形を萎烏帽子(なええぼし)や揉烏帽子(もみえぼし)と呼ぶ。これが圭冠(はしばこうぶり)から発展した烏帽子の原型で、筒状の部分を普段は倒して着用し、改まった席では立てていたのが、やがて立烏帽子になったとの説もある。いずれにせよ庶民の烏帽子はこのスタイルで、その後の変化はなかったようだ。
それにしてもこの時代の庶民が烏帽子すなわち帽子を、まるで制服のように皆で被った生活をしているなんて認識はあまりなかったね。
さてなぜ男性は貴族から庶民まで帽子を被っているかというと、平安時代(794年〜)から室町時代(1336〜1573年)中頃までの約700年間は、男性が頭頂部を他人に見せるのは恥ずかしい行為との価値観があったのがその理由。どうしてそんな発想になったのか少し調べてみたものの長くなるので割愛。
これはネットで拾ってきた大河ドラマのワンシーン。キャプションに「宇治川で筏(いかだ)を押す平盛綱」とあった。状況はよくわからないが、服を脱いで川に飛び込んでも烏帽子は脱がなかったとの演出。画像はhttps://x.gd/Nf4Whから引用(短縮URL使用)
さらに驚くのが平安時代後期に描かれた源氏物語絵巻。場面は光源氏の正妻である女三宮と不義密通したのが、光源氏(この頃は天皇に準ずる身分)にバレてビビって病気になった柏木を(事情を知らない)光源氏の長男である夕霧が見舞うシーン。
注目は寝込んでいる柏木。このしばらく後に亡くなるのでかなり衰弱している設定。なのに頭に烏帽子を被っている! これは見舞客が来たから身なりを整えようと烏帽子を被ったのではなく、寝るときも烏帽子を外さないのが当時の風習。
まあとにかく烏帽子を脱がなかった。
そして何と実はSEXするときにスッポンポンになっても烏帽子は被ったまま。画像は後白河法皇(平安時代末期に源平の戦いに深く関わった実力者)がコレクションしていた春画「小柴垣草紙(こしばがきそうし)」を江戸時代に模写した「慶忍/潅頂巻絵詞(かんじょうまきえことば)」から。
ここまで来ると滑稽な姿だけれど、当時は頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリ(烏帽子のあれこれ・その2参照)を見られるのがよほど恥ずかしかったらしい。
とても合理的な説明がつかないが文化とはそういうものだろう。まあなかにはモトドリ攻めを好むドMな平安男子もいたかも知れないが(^^ゞ
ーーー続く
今回は書く前からあちこちに話がそれる予感がしていたとはいえ、
いい加減そろそろフィニッシュしないとーーー
wassho at 23:31|Permalink│Comments(0)│
2025年07月04日
烏帽子のあれこれ その3
画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用
既に書いたように冠(かんむり)は正装用で、烏帽子(えぼし)はそれ以外のときに被る帽子。冠は聖徳太子の頃に始まったとされるが、烏帽子のルーツは冠の下に着用した圭冠(はしばこうぶり)という薄い袋状のものだったようで、はっきりと形がわかる資料はないみたい。
聖徳太子が被っていた頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠は、平安後期に最初の写真のような漆で固めたハードタイプに変わる。それはその頃の日本に起きた「ファッションの大革命」の影響を受けている。

平安貴族の服装といえばこんなイメージが思い浮かぶはず。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/costume/265.htmlから引用編集
しかしこれ、実は平安時代後期のスタイル。全体として直線的で威厳のある印象なものの、平安中期以前はもっと柔らかなデザインだったらしい。それでこの後期以降のデザインを強装束(こわしょうぞく)、それまでを柔装束(なえしょうぞく)と後の時代に区別するようになった。
歴史のお勉強的に書いておくと
飛鳥・奈良時代:中国大陸の隋や唐の影響を受けた「唐様(からよう)」のデザイン
↓
ナクヨウグイス平安京 794年から平安時代
それから100年ほど経つと唐の国力が衰え出す
ハクシニモドソウ遣唐使 894年に遣唐使廃止 唐の滅亡は907年
↓
約400年続いた平安時代の中期に唐の影響から脱却した日本独自の貴族文化が発達する。
いわゆる国風文化。平たくいえば日本風・和風の文化。
↓
衣装もシンプル・実用的な唐様から柔らかく曲線的で優美なものに変化。
それが柔装束(なえしょうぞく:萎装束とも書く)。
↓
平家が台頭してきた平安後期、中国大陸の宋より厚手の織物がもたらされるようになり、
また武家に対して威厳を示す必要もあって、強装束(こわしょうぞく)に変化して
いったとみられている。
まとめると唐様(からよう)→柔装束(なえしょうぞく)→強装束(こわしょうぞく)の変遷。平安時代は400年と縄文・弥生時代を除けば日本の時代区分の中で最も長い。ちなみに江戸時代は265年だから平安時代はその1.5倍もある。ひとくちに平安時代といっても様々なのだ。
時代は鎌倉まで下って源頼朝の肖像画。ほとんど直線で構成されていてまるで幾何学的デザイン。絵だから誇張しているのではなく、糊をきかせてガチガチに固めて着付けている。
戦国時代頃から始まり江戸時代には一般的となった裃(かみしも)も、強装束の流れを継承している。画像はhttps://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/3298/から引用
柔装束から強装束のような大きな変化はその後は起きなかったので、明治になり洋装に変わるまで貴族の衣装はベースとして強装束が続く。現在の皇族がたまに儀式で着用する平安朝の衣装も強装束。こちらは1993年(平成5年)の「結婚の儀」の写真。
それでは柔装束(なえしょうぞく)は具体的にどんなデザインだったのか?
しかしこれがはっきりとは判明していない。
もちろん平安時代の衣装は現存しないので、当時の絵画やその他の資料で推測するわけであるが、平安時代中頃までは肖像画を描くのは憚られる風潮があった。それは明治時代にカメラと写真を見た日本人が「魂を抜かれる」と畏れたのと同じような理由。なんたって言霊(ことだま)を信じるくらいの民族だから、ビジュアルなんてもってのほかだったのだろう。
平安時代中期の絶対的権力者である藤原道長(966〜1028年)のこの肖像画も、紫式部絵日記という鎌倉時代初期に描かれたもの。その頃は強装束の時代なので、丸いラインで描かれてはいても強装束を着せられている。
それを逆手にとり、柔装束の事例としていくつかの資料で取り上げられていたのが聖徳太子絵伝すなわち聖徳太子の伝記を絵で表した作品。現在残っているのは1069年、つまり平安中期の制作。だからそこに描かれている衣装は柔装束とのロジック。
これがその柔装束姿の聖徳太子。
でも藤原道長の衣装との違いがよくわからない(/o\)
いずれにせよ平安貴族文化がピカピカに輝いていた時代の服装がはっきりわかっていないとは意外。
ついでに書くとよく映画やドラマの題材となる源氏物語。執筆されたのは平安中期である。物語は「いづれの御時にか=いつのことか忘れてしまったが」で始まるフィクション。でも内容から設定としては平安中期なのは間違いない。となれば柔装束の時代なはず。
でも映画やドラマで着せられているのは強装束だよね?画像はhttps://www.imdb.com/title/tt1705064/とhttps://www.cinematoday.jp/news/N0141179から引用
柔装束のデザインはわかっていないうえ、強装束=平安時代との認識回路が日本人の中にできあがっているので演出的にはこうせざるを得ないし、別にそれが問題だとも思っていない。でも無駄な知識が増えると、どうでもいいところに引っ掛かりが生まれてしまう。
あっ、今回も烏帽子まで話が進まなかったm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 21:38|Permalink│Comments(0)│
2025年06月29日
烏帽子のあれこれ その2
画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用
話を冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)に戻すと、先にできたのは正装用の冠。
これはご存じ聖徳太子の肖像画。
肖像画では冠なのか単にヘアスタイルが複雑なのかよく判別できないものの、それを模した1万円札だと頭に何か被っているのがわかる。

冠を着用するようになったのは、聖徳太子が603年に冠位十二階を制定して以降と考えられている。そして飛鳥・奈良時代を経て平安の中期頃まではこの頭巾(読みは「ずきん」ではなく「ときん」)と呼ぶ柔らかな布製の冠だったようだ。その後に最初に載せた写真のような布を漆で固めたハードタイプに変わっていく。
宮中は正装して参内する場所なので冠着用は義務だった。現在の皇室で冠を着用するのは即位や立太子の礼、結婚の儀などごく限られた重要儀式のみ。これは令和の即位の礼。
昭和天皇の大喪の礼で、棺を担ぐ係員は平安風の服装&冠姿でも、天皇は洋装(コートの下はモーニングのはず)でシルクハットを手に持っている。シルクハットと冠は位置づけが似ているところも多い。画像はhttps://x.gd/7FH4qとhttps://x.gd/KNNb0から引用(短縮URL使用)
あと身近なところで冠を目にするのは雛人形の男雛。画像はhttps://www.mistore.jp/shopping/feature/living_art_f2/hina3_l.htmlから引用
さて冠の各部には細かな名称が付いているが、
主要パーツは次の4つ。
甲(こう)は頭を覆う基本パーツで纓(えい)は飾りだとして、注目は巾子(こじ)と簪(かんざし)。巾子(こじ)がこんな形をしていて、そこに簪(かんざし)が備わっているのには合理的な理由がある。
これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
束ねた髪の毛を頭の上に載せるチョンマゲは江戸時代中期からで、平安時代には上に高く伸ばしている。そんな髪型で思い浮かぶのは若い頃の織田信長(あくまで映画やドラマで描かれた姿)。しかし適当な画像がなかったので、ユースケ・サンタマリアが同時代の朝倉義景を演じている写真で。志村けんのバカ殿を思い出してもらってもいい(^^ゞ 画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/から引用
この高く束ねた部分が髻(もとどり)。
チョンマゲの髷(まげ)と漢字がややこしいので拡大しておきましょう。
上に伸ばしたモトドリを前に曲げたからチョンマゲなのかと思ったら、
モトドリ:髪を束ねた部分
マゲ:モトドリのある髪型
を意味しているそう。そういえばチョンマゲ(丁髷)もたくさんあるマゲのバリエーションのひとつだし、女性の日本髪もマゲだった。
もうおわかりと思うが、冠の巾子(こじ)は、束ねた髻(もとどり)を入れるためのパーツ。そしてそこに簪(かんざし)を挿して頭から落ちないように固定する仕組み。冠の帽子にしては複雑な形にも意味があったのだ。
ところで力士は現在もモトドリを作ったマゲの髪型をしている。明治政府は断髪令を出してチョンマゲを禁止したが相撲界は例外として認められた。どうやら政府上層部に相撲ファンが多くいたらしい。
ただしその断髪令、正確には散髪脱刀令で内容は
髪型は自由でチョンマゲにしなくてよい
華族・士族が刀を差さなくてもよい
だったのに、明治天皇がモトドリを落とした影響もあり、いつのまにかチョンマゲ禁止令に実質を変えていく。またこれは男性を対象にした法律。しかし誤解していわゆる日本髪から短髪にする女性が多くいたため、改めて「女子断髪禁止令」が出されるなど、明治維新の混乱を何かと象徴するような法令。
さて力士の姿を見たことがない人はいないと思うけれど、彼らの髪型には2種類あるのを知ってた?それは大銀杏(おおいちょう)と丁髷(チョンマゲ)。

大銀杏はモトドリの先端がイチョウの葉のように広がっているのでその名前。また襟足のところを膨らませたデザインなのも特徴。対して丁髷は髪を引き上げてモトドリでまとめただけのスタイル。画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「相撲髷」とhttps://www.yamano.ac.jp/news/detail.php?p=247より引用編集
ただしこの大銀杏と丁髷の定義は相撲界だけの話。一般に丁髷とは頭頂部を剃ってモトドリをそこに置く形をいう。また丁髷の一種に銀杏髷(いちょうまげ)というのがあり、さらにそのバリエーションとして大銀杏と小銀杏が存在した。それらは全体的な髪の整え方の違いであり、またどちらもモトドリをイチョウの葉のように広げたりはしない。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
力士が大銀杏を結うのは本場所や巡業で土俵に上がるときと、公的な行事に正装して参加する場合だけ。稽古時や普段の生活では丁髷。それだけ大銀杏を仕上げるのには手間がかかるのだろう。
正面から見た違いをつい先日話題になった白鳳で。画像はhttps://www.bbc.com/japanese/58715123とhttps://x.gd/5Xhk1から引用(短縮URL使用)
なお大銀杏を結えるのは番付で十両以上の力士(いくつか例外はある)。また十両以上が関取と呼ばれ一人前の相撲取り。もっともよほどの相撲ファン以外は十両未満=幕下以下の相撲を見る機会はないので、力士は大銀杏と丁髷の髪型を使い分けていると考えても差し支えない。画像はhttps://x.gd/XnOJ0から引用(短縮URL使用)
番付について調べていたら給料の資料を見つけたのでついでに。データは2023年。画像はhttps://diamond.jp/zai/articles/-/1025502から引用
相撲を見る習慣はない。そして現在の番付を確認したら横綱・大関ともに知らない力士だった(/o\) そんな私にとって十両なんて「その他大勢のお相撲さん」のレベル。それでも年収1320万円とそれなりの給料。それと較べると横綱の3600万円はずいぶんと安いような。もちろん他に優勝賞金や懸賞金があるとしても。
それよりも幕内の前頭から十両に落ちた場合、1680万円→1320万円だから金額よりプライドのダメージのほうが大きいかも知れないが、十両から幕下に陥落すると1320万円→99万円となってキビシイね。♪まっさかさまに堕ちてdesire(>_<) 逆に幕下から十両に昇進すれば給料13倍アップ。まあそれが勝負の世界というもの。
(/_')/ソレモコッチニオイトイテ
ニュースか何かで力士が髪を結ってもらっているこんな姿を目にした経験があると思う。画像はhttps://www.sumo.or.jp/Entertainment/quiz/344から引用
これだけでも相当髪の毛が長いとわかる。
そしてさらにビックリする画像がこちら。NHKの放送100年スポーツ名場面より
なぜか用水路に飛び込んで泳ぐ力士。
飛び込んだ衝撃でモトドリがほどけて、
泳いでいたのは若き日の貴乃花。
背中の中程まである超ロングヘア!まるでジャングルの野生児。
とりあえずモトドリを結うにはこの程度の長さが必要みたい。
そして平安貴族といえばこんなイメージだけれど、彼らもまたそんなロングヘアだったとはなかなか想像が追いつかない。シャンプーやコンディショナーはもちろん、石けんすらなかった時代に長い髪を洗うのは大変だっただろうな。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/period/heian.htmlから引用編集
次回こそは烏帽子のかぶり方がヘンな話に進もう。
ーーー続く
wassho at 23:05|Permalink│Comments(0)│
2025年06月28日
烏帽子のあれこれ
何かについて書いている途中に関連する事柄を少し調べて、新たに発見があったり疑問を持ったりして、気が向くままに話がそれていくのがこのブログでよくある出来事。 今回もそんな予感が書き始める前からしている(^^ゞ
いきなりだけれど源義経の肖像画。
これを初めて見たときは衝撃を受けた。いつだったか記憶はないものの歴史の教科書ではなかったと思う。それまで義経といえば牛若丸時代に五条大橋で弁慶の攻撃を華麗にかわして返り討ちにした姿、平家との戦いでは軍略の天才的戦術として鵯越(ひよどりごえ)の奇襲、壇ノ浦の海戦での八艘飛びなど格好いいイメージしかなかった。最後は頼朝に追い詰められ自害するがそれも悲劇のヒーロー的。
それなのに何だ、この貧相で弱々しいオッサンは!
なんとなく泉谷しげるにも似ているゾ(>_<)
それはさておき、今回の本題は彼の被っている帽子。
どう見ても頭にのっている位置がおかしい。
そんな肖像画がたくさんあるので同じように感じた人も多いはず。上から順に信長を裏切った浅井長政、後北条3代目の北条氏康、ワイロ大好き田沼意次、寛政の改革の松平定信。帽子に注目して眺めて欲しい。

彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)と呼ばれるもの。
それで烏帽子とは何ぞやというと、帽子には2種類あって
冠(かんむり):正装、礼服着用時あるいは宮中に出仕する際の被り物。
烏帽子(えぼし):上記以外あるいは普段着のときの被り物。
画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用
烏帽子の烏は「トリ」ではなく「カラス」。色や形からの連想らしい。また烏帽子に形が似ていて烏帽子岩と呼ばれる岩礁は各地の海岸にある。画像はhttps://www.tabirai.net/localinfo/article/article-30356/から引用
一般に冠も烏帽子も身分が高いほど背が高くなる。天皇の冠なんて、立って歩いたらどこかに引っ掛からないか心配になるほど高い(写真は明治天皇、現在もほぼ同じ)。
ところで背が高い帽子といえば、和食の板前と較べて西洋料理のコックが使う帽子はどうしてあんなに長いのだろう?画像はhttps://www.interconti-tokyo.com/clk/とhttps://x.gd/OFzAT(短縮URL使用)から引用
それには諸説あって
フランス革命(1789〜1799年)後に「シェフの帝王かつ帝王のシェフ」と呼ば
れたアントナン・カレームが、客が着用するシルクハットを真似て被りだした。
アントナン・カレームの技法を継承し、またコースメニューを考案して「近代
フランス料理の父」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエ(1846〜1935年)は、
身長が低く料理長の威厳を示すために高い帽子を被って仕事をした。
などがエピソードとして語られている。
衛生面を考えて始まったんじゃなかったのね。
またネットでコピペが繰り返されている情報で真偽は不明なものの、
帝国ホテルでは帽子の高さに
料理人見習い:18cm
7年目以降のキャリアを持つ料理人:23cm
料理長以上:35cm
のルールがあるらしい。
これが帝国ホテル総料理長の杉本氏。さすがに高くそびえ立っている。見たところ紙製で使い捨てのよう。画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/154802から引用
もっともヨーロッパではコックの地位に応じて帽子の高さが変わる文化はないみたい。またコック帽の高さではなく折りたたまれたプリーツの多さが、その料理人の腕前あるいは調理できる料理の数を示していたとの説もある。画像はhttps://item.rakuten.co.jp/athlete-med/11113471/から引用編集
たぶん次回も烏帽子まで話がたどり着かないm(_ _)m
ーーー続く
いきなりだけれど源義経の肖像画。
これを初めて見たときは衝撃を受けた。いつだったか記憶はないものの歴史の教科書ではなかったと思う。それまで義経といえば牛若丸時代に五条大橋で弁慶の攻撃を華麗にかわして返り討ちにした姿、平家との戦いでは軍略の天才的戦術として鵯越(ひよどりごえ)の奇襲、壇ノ浦の海戦での八艘飛びなど格好いいイメージしかなかった。最後は頼朝に追い詰められ自害するがそれも悲劇のヒーロー的。
それなのに何だ、この貧相で弱々しいオッサンは!
なんとなく泉谷しげるにも似ているゾ(>_<)
それはさておき、今回の本題は彼の被っている帽子。
どう見ても頭にのっている位置がおかしい。
そんな肖像画がたくさんあるので同じように感じた人も多いはず。上から順に信長を裏切った浅井長政、後北条3代目の北条氏康、ワイロ大好き田沼意次、寛政の改革の松平定信。帽子に注目して眺めて欲しい。

彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)と呼ばれるもの。
それで烏帽子とは何ぞやというと、帽子には2種類あって
冠(かんむり):正装、礼服着用時あるいは宮中に出仕する際の被り物。
烏帽子(えぼし):上記以外あるいは普段着のときの被り物。
画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用
烏帽子の烏は「トリ」ではなく「カラス」。色や形からの連想らしい。また烏帽子に形が似ていて烏帽子岩と呼ばれる岩礁は各地の海岸にある。画像はhttps://www.tabirai.net/localinfo/article/article-30356/から引用
一般に冠も烏帽子も身分が高いほど背が高くなる。天皇の冠なんて、立って歩いたらどこかに引っ掛からないか心配になるほど高い(写真は明治天皇、現在もほぼ同じ)。
ところで背が高い帽子といえば、和食の板前と較べて西洋料理のコックが使う帽子はどうしてあんなに長いのだろう?画像はhttps://www.interconti-tokyo.com/clk/とhttps://x.gd/OFzAT(短縮URL使用)から引用
それには諸説あって
フランス革命(1789〜1799年)後に「シェフの帝王かつ帝王のシェフ」と呼ば
れたアントナン・カレームが、客が着用するシルクハットを真似て被りだした。
アントナン・カレームの技法を継承し、またコースメニューを考案して「近代
フランス料理の父」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエ(1846〜1935年)は、
身長が低く料理長の威厳を示すために高い帽子を被って仕事をした。
などがエピソードとして語られている。
衛生面を考えて始まったんじゃなかったのね。
またネットでコピペが繰り返されている情報で真偽は不明なものの、
帝国ホテルでは帽子の高さに
料理人見習い:18cm
7年目以降のキャリアを持つ料理人:23cm
料理長以上:35cm
のルールがあるらしい。
これが帝国ホテル総料理長の杉本氏。さすがに高くそびえ立っている。見たところ紙製で使い捨てのよう。画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/154802から引用
もっともヨーロッパではコックの地位に応じて帽子の高さが変わる文化はないみたい。またコック帽の高さではなく折りたたまれたプリーツの多さが、その料理人の腕前あるいは調理できる料理の数を示していたとの説もある。画像はhttps://item.rakuten.co.jp/athlete-med/11113471/から引用編集
たぶん次回も烏帽子まで話がたどり着かないm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 18:59|Permalink│Comments(0)│
2025年03月13日
浜離宮でマツと庭園
再びタイトルを微妙に変更して、
2月27日に訪れた浜離宮の続き。
菜の花畑から続いたウメ並木が終わると、
アメリカデイゴというゴツゴツした木があった。
でも以前に新宿御苑で見たアメリカデイゴは、「なんじゃこれ!」と声が出るほど不思議な形だったので↓それと較べれば普通の木に見える。
夏にはこんな真っ赤な花が咲くらしい→クリック
一度は見てみたいがこの木1本のために浜離宮に来るのもなあ〜
水上バスの発着場。
カウンターが閉まっていて、今日は運行していないのかと思ったら、
浜離宮は下船のみになっていた。
2020年に訪れたときはここかも乗船できたのに。いつから? そしてなぜなのだろう。少し調べてみたが情報は得られず。
参考までに東京の水上バスは、浅草と隅田川の下流にある浜離宮や日の出桟橋、それと臨海埋め立て地エリアを結んでいる。
ところで浜離宮は有料の庭園なので、(今は下船のみだが)浜離宮から水上バスに乗るには入園料を払って発着場まで行く必要がある。浜離宮で下船する場合は最初から運賃に入園料が含まれているというアコギな商売(^^ゞ もっともここで乗り降りするのは浜離宮が目当ての人だけど。
浜離宮の海沿いまでやって来た。
この位置から見えるのは勝どきのタワーマンション群。昭和の時代の勝どきは倉庫だらけで、港湾地区特有のちょっとやばそうな雰囲気があったのも今は昔。
タワマンよりマツを眺めましょう。
この一段高くなった場所は灯台跡。
ただし、こんな基礎部分が残っているだけのガッカリ史跡。
それよりも浜離宮=徳川将軍家別邸=江戸時代の意識があるせいか灯台とイメージが結びつかない。そこで調べてみるとここにあったのは明治時代の灯台。
明治5年に三重県に設置された安乗埼灯台(あのりさきとうだい)が、
新しく建て替えられるのに伴い、
昭和24年に記念灯台として浜離宮に移設した
とのこと。
これが当時の写真。
その後、昭和30年に横浜港の第三管区海上保安本部に移設され、さらに昭和48年にお台場近くにある船の科学館に三度目の移設。
でも船の科学館(ジャンルとしては博物館)はずいぶんと前から建物の老朽化で展示を中止していて、現在は南極観測船「宗谷」を見学できるだけ。建て替えの話も聞こえてこない。安乗埼灯台もまた引っ越し先を見つける必要があるかもね。
灯台跡の上から海方向。大きなアーチは築地大橋。その奥に勝どき橋があって、オレンジ色の重機の向こうに小さくアーチが見えている。
対岸に見えているのは勝どきの埋め立て地ではなく、
浜離宮の外側にある堤防(防潮堤)。
浜離宮と堤防の間隔は100m前後、堤防から埋め立て地までは200mちょっと。堤防の外側は埋め立て地があって、幅が狭く運河のように見えるが東京湾。また浜離宮の隣で更地になっているのは築地市場があった場所。
先ほどの安乗埼灯台の白黒写真、つまり昭和24年から30年の頃は防潮堤はなかったようにも見える。防潮堤の建設がいつかを調べたがわからず。なお築地市場跡の再開発と合わせて、この防潮堤を築地と竹芝を結ぶ遊歩道にする計画もあるようだ。再開発は今年着工してすべてが完成するのは2038年。まだ生きていますように(^^ゞ
この少し内側に切り込まれているのは「将軍お上がり場」。
将軍が舟でやって来たときに接岸した場所。
現在の皇居の堀はどの水路とも接続していない。貯められている水は雨水で浄化装置を使って水質を保っている。ただし豪雨で堀の水があふれた話は聞いた記憶がないので、下水管とはつながっているはず。江戸城の頃は玉川上水や神田上水から水を引き、下の地図でわかるようにお城の周りに水路が張り巡らされていた。画像はhttps://mag.japaaan.com/archives/235907/2から引用編集
地図を見ると水路を使えば浜離宮の大手門のところに到着するのに、そこではなくどうしてわざわざ東京湾側まで回り込んで出入りしたのか。ナゾ
ところで説明看板に書かれている
「幕末〜最後の将軍徳川慶喜が〜帰還して上陸」との文章は二重に間違っている。
幕末動乱の時代、14代徳川家茂(いえもち)が将軍としては229年振りとなる上洛を行うなど、幕府と朝廷の接触や交渉が盛んとなる(それ以前の上洛は何と3代家光まで遡る)。幕府の主要メンバーであった慶喜(よしのぶ)も当時は京都や大阪にいることが多かった。そして長州征伐のため大阪城に滞在していた家茂が1866年8月に病死。1867年1月10日に慶喜が二条城において将軍宣下を受け将軍に就任。(日付はすべて新暦)
しかし10ヶ月後の1867年11月10日に慶喜は大政奉還をしてしまう。実はその時点で慶喜はまだ将軍のまま。将軍職が廃止となったのは討幕派が仕掛けた政治工作で、王政復古の大号令が発せられた1868年1月3日。それをきっかけに戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いが1月27日に勃発。
3日間の戦闘で旧幕府軍が劣勢となり敗走。慶喜が陣取っていた大阪城で体勢を立て直すはずだったのに、なんと総大将である彼は将兵を置き去りにして、2月1日にコッソリと船で大阪を発ち江戸に逃げ帰ったのは有名な話。
ーーーなので、鳥羽伏見の戦いから戻ってきた慶喜は、そのとき既に将軍ではない。そもそも慶喜は将軍になって以降はずっと京都や大阪にいて、将軍として江戸で暮らしたことすらない。
さらに王政復古の大号令=明治政府の成立。慶応から明治に改元したのは10月になってからであるが、歴史としては王政復古の時点で明治時代が始まっており、慶喜が江戸に帰ってきたときを幕末とするのも誤り。
なお慶喜がここへ戻ってきたのは、浜御殿でのんびり骨休めをするためではなく、初回に書いたように、当時ここは将軍家の別邸から幕府の海軍所(基地)に変わっていたからだろう。記録では2月5日の未明に上陸し、昼前には江戸城に戻ったとされる。おそらく仮眠程度しかできなかったはず。
まあ最後の将軍慶喜ではないとしても、彼が歩いたであろう場所に自分もいるのは何となく歴史のロマンを感じる体験。
さて浜離宮の海沿いを南に歩いて行く。
この黒い水鳥はオオバン。カモに似ているけれど仲間ではない。そういえばカモのクチバシは平べったいのに、これは尖っている。
堤防の開口部。
ここから水上バスが入ってくる。もし堤防が遊歩道になればどうするのかな。
そしてこれは海から水を浜離宮の池に引き込む仕掛け。
つまり浜離宮の池は海水で、池の名前も「潮入の池」。
大きな池である。浜離宮の面積は25ヘクタール。建築面積4.7ヘクタールの東京ドーム5.3個分。池の面積は公表されていないが4ヘクタールくらいはある思う。
西を向けば東京タワーが見え、
海のほうを見ればベイブリッジも見える。
少し小高くなったところで眺める、
潮入の池の風景はマツに囲まれていた実に美しい。ただ冬なので芝生が枯れ色なのが残念。浜離宮には1月と2月にしか訪れたことがなく、次は芝生がグリーンなシーズンにもと思っている。
ただひとつ気に入らない点が。
それは池の周りの石積み。
ちょっと人工的すぎるというか近代的な造形に見える。
ここは海水を引いていて潮の干満差がある。それで土が流れ出さないようにとの措置だと思うけれど、江戸時代もこんなだったのかなあ? 見たところ施工されたのはそんなに昔ではなさそう。もう一工夫欲しいところ。
ーーー続く
2月27日に訪れた浜離宮の続き。
菜の花畑から続いたウメ並木が終わると、
アメリカデイゴというゴツゴツした木があった。
でも以前に新宿御苑で見たアメリカデイゴは、「なんじゃこれ!」と声が出るほど不思議な形だったので↓それと較べれば普通の木に見える。
夏にはこんな真っ赤な花が咲くらしい→クリック
一度は見てみたいがこの木1本のために浜離宮に来るのもなあ〜
水上バスの発着場。
カウンターが閉まっていて、今日は運行していないのかと思ったら、
浜離宮は下船のみになっていた。
2020年に訪れたときはここかも乗船できたのに。いつから? そしてなぜなのだろう。少し調べてみたが情報は得られず。
参考までに東京の水上バスは、浅草と隅田川の下流にある浜離宮や日の出桟橋、それと臨海埋め立て地エリアを結んでいる。
ところで浜離宮は有料の庭園なので、(今は下船のみだが)浜離宮から水上バスに乗るには入園料を払って発着場まで行く必要がある。浜離宮で下船する場合は最初から運賃に入園料が含まれているというアコギな商売(^^ゞ もっともここで乗り降りするのは浜離宮が目当ての人だけど。
浜離宮の海沿いまでやって来た。
この位置から見えるのは勝どきのタワーマンション群。昭和の時代の勝どきは倉庫だらけで、港湾地区特有のちょっとやばそうな雰囲気があったのも今は昔。
タワマンよりマツを眺めましょう。
この一段高くなった場所は灯台跡。
ただし、こんな基礎部分が残っているだけのガッカリ史跡。
それよりも浜離宮=徳川将軍家別邸=江戸時代の意識があるせいか灯台とイメージが結びつかない。そこで調べてみるとここにあったのは明治時代の灯台。
明治5年に三重県に設置された安乗埼灯台(あのりさきとうだい)が、
新しく建て替えられるのに伴い、
昭和24年に記念灯台として浜離宮に移設した
とのこと。
これが当時の写真。
その後、昭和30年に横浜港の第三管区海上保安本部に移設され、さらに昭和48年にお台場近くにある船の科学館に三度目の移設。
でも船の科学館(ジャンルとしては博物館)はずいぶんと前から建物の老朽化で展示を中止していて、現在は南極観測船「宗谷」を見学できるだけ。建て替えの話も聞こえてこない。安乗埼灯台もまた引っ越し先を見つける必要があるかもね。
灯台跡の上から海方向。大きなアーチは築地大橋。その奥に勝どき橋があって、オレンジ色の重機の向こうに小さくアーチが見えている。
対岸に見えているのは勝どきの埋め立て地ではなく、
浜離宮の外側にある堤防(防潮堤)。
浜離宮と堤防の間隔は100m前後、堤防から埋め立て地までは200mちょっと。堤防の外側は埋め立て地があって、幅が狭く運河のように見えるが東京湾。また浜離宮の隣で更地になっているのは築地市場があった場所。
先ほどの安乗埼灯台の白黒写真、つまり昭和24年から30年の頃は防潮堤はなかったようにも見える。防潮堤の建設がいつかを調べたがわからず。なお築地市場跡の再開発と合わせて、この防潮堤を築地と竹芝を結ぶ遊歩道にする計画もあるようだ。再開発は今年着工してすべてが完成するのは2038年。まだ生きていますように(^^ゞ
この少し内側に切り込まれているのは「将軍お上がり場」。
将軍が舟でやって来たときに接岸した場所。
現在の皇居の堀はどの水路とも接続していない。貯められている水は雨水で浄化装置を使って水質を保っている。ただし豪雨で堀の水があふれた話は聞いた記憶がないので、下水管とはつながっているはず。江戸城の頃は玉川上水や神田上水から水を引き、下の地図でわかるようにお城の周りに水路が張り巡らされていた。画像はhttps://mag.japaaan.com/archives/235907/2から引用編集
地図を見ると水路を使えば浜離宮の大手門のところに到着するのに、そこではなくどうしてわざわざ東京湾側まで回り込んで出入りしたのか。ナゾ
ところで説明看板に書かれている
「幕末〜最後の将軍徳川慶喜が〜帰還して上陸」との文章は二重に間違っている。
幕末動乱の時代、14代徳川家茂(いえもち)が将軍としては229年振りとなる上洛を行うなど、幕府と朝廷の接触や交渉が盛んとなる(それ以前の上洛は何と3代家光まで遡る)。幕府の主要メンバーであった慶喜(よしのぶ)も当時は京都や大阪にいることが多かった。そして長州征伐のため大阪城に滞在していた家茂が1866年8月に病死。1867年1月10日に慶喜が二条城において将軍宣下を受け将軍に就任。(日付はすべて新暦)
しかし10ヶ月後の1867年11月10日に慶喜は大政奉還をしてしまう。実はその時点で慶喜はまだ将軍のまま。将軍職が廃止となったのは討幕派が仕掛けた政治工作で、王政復古の大号令が発せられた1868年1月3日。それをきっかけに戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いが1月27日に勃発。
3日間の戦闘で旧幕府軍が劣勢となり敗走。慶喜が陣取っていた大阪城で体勢を立て直すはずだったのに、なんと総大将である彼は将兵を置き去りにして、2月1日にコッソリと船で大阪を発ち江戸に逃げ帰ったのは有名な話。
ーーーなので、鳥羽伏見の戦いから戻ってきた慶喜は、そのとき既に将軍ではない。そもそも慶喜は将軍になって以降はずっと京都や大阪にいて、将軍として江戸で暮らしたことすらない。
さらに王政復古の大号令=明治政府の成立。慶応から明治に改元したのは10月になってからであるが、歴史としては王政復古の時点で明治時代が始まっており、慶喜が江戸に帰ってきたときを幕末とするのも誤り。
なお慶喜がここへ戻ってきたのは、浜御殿でのんびり骨休めをするためではなく、初回に書いたように、当時ここは将軍家の別邸から幕府の海軍所(基地)に変わっていたからだろう。記録では2月5日の未明に上陸し、昼前には江戸城に戻ったとされる。おそらく仮眠程度しかできなかったはず。
まあ最後の将軍慶喜ではないとしても、彼が歩いたであろう場所に自分もいるのは何となく歴史のロマンを感じる体験。
さて浜離宮の海沿いを南に歩いて行く。
この黒い水鳥はオオバン。カモに似ているけれど仲間ではない。そういえばカモのクチバシは平べったいのに、これは尖っている。
堤防の開口部。
ここから水上バスが入ってくる。もし堤防が遊歩道になればどうするのかな。
そしてこれは海から水を浜離宮の池に引き込む仕掛け。
つまり浜離宮の池は海水で、池の名前も「潮入の池」。
大きな池である。浜離宮の面積は25ヘクタール。建築面積4.7ヘクタールの東京ドーム5.3個分。池の面積は公表されていないが4ヘクタールくらいはある思う。
西を向けば東京タワーが見え、
海のほうを見ればベイブリッジも見える。
少し小高くなったところで眺める、
潮入の池の風景はマツに囲まれていた実に美しい。ただ冬なので芝生が枯れ色なのが残念。浜離宮には1月と2月にしか訪れたことがなく、次は芝生がグリーンなシーズンにもと思っている。
ただひとつ気に入らない点が。
それは池の周りの石積み。
ちょっと人工的すぎるというか近代的な造形に見える。
ここは海水を引いていて潮の干満差がある。それで土が流れ出さないようにとの措置だと思うけれど、江戸時代もこんなだったのかなあ? 見たところ施工されたのはそんなに昔ではなさそう。もう一工夫欲しいところ。
ーーー続く
wassho at 20:23|Permalink│Comments(0)│
2024年08月02日
トウケイとトキオ その3
明治時代に東京をトウキョウではなくトウケイと読む人がいたと知っても、今でもそう読めなくもないし、前回に記した国語セオリーや時代背景を考えれば「そんなこともあったのだろうな」との感想程度にしかならない。
しかしトウケイだけでなく、
トキオとも呼ばれていたと知ってビックリ!である。
私の記憶でトキオの言葉を初めて聞いたのは、1979年(昭和54年)に発売されたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「テクノポリス」が最初。いわゆるテクノポップの演奏の冒頭と途中に合成音声ぽい響きでトキオが連呼される。
YMOの登場は衝撃的で、サーフィンブームの真っ盛りの当時は、右を見ても左を見てもおかっぱ頭のサーファーばかりだったのに、突如もみあげのないテクノカットの連中が大量に出現したのをよく覚えている。服も白黒の市松模様のデザインが流行ったかな。
ただしYMOの人気は若者中心に限られていた。TOKIOの言葉が日本全体に広まったのは、翌1980年にタイトルもズバリ「TOKIO」だったジュリーこと沢田研二のヒット曲。電飾キラキラのコスチュームを着て、なぜかパラシュートを背負いながら歌う姿に、大げさに言えば日本中が衝撃を受けた。まだ家族揃って歌番組を見ていた最後の時代である。
沢田研二は1979年にも「OH! ギャル」でギャルという言葉を日本に紹介している。70年代後半の彼は、化粧をした中性的なヴィジュアル系路線でステージに立つなどどイケイケで最先端な存在だった。彼自身かスタッフかはわからないけれど、新しい言葉に対する感覚も鋭かったのだと思う。ちなみにテクノポリスの発売が1979年10月25日で、TOKIOが1980年1月1日と近いからYMOの歌詞をパクったのではないはず。
それはそうとしてーーー
沢田研二のTOKIOには「スーパーシティが舞い上がる」「TOKIO 優しい女が眠る街」などTOKIO=東京と思わせる歌詞がある。しかしYMOのテクノポリスは「トキオ、トキオ」の連呼だけで、この曲は他に歌詞がないいわゆるインストゥルメンタル・ミュージック。
それでもテクノポリスを初めて聴いた瞬間からトキオ=東京だと理解していた記憶がある。それは直感的にそう思ったのか、それともそれ以前に東京を外人はトキオと呼ぶと何かで知っていたのか。あれこれ記憶をたどってみても、なにせ45年も前の話なのでまったく思い出せない(^^ゞ
さて話を明治時代のトキオに戻すと、トウケイの他にトキオの読みもあったと触れている解説はいくつかあり、比較的詳しい記述を見つけたのは気象予報士が書いたこの記事。
それによると
明治8年(1875年)気象庁の前身である内務省地理局・地理寮量地課・気象掛が発足。
英文の気象報告書も出しており、そこには発行元として、
日本東京内務省地理局
IMPERIAL METEOROLOGICAL OBSERVATORY TOKEI JAPAN
と記されている。
英文は帝国東京気象台の意味。
そしてこの時点で東京の読みは TOKEI=トウケイになっている。
それが明治16年(1883年)9月からTOKEIがTOKIO=トキオに変更される。
その表記は大正2年(1913年)まで30年間続き、同年よりTOKYO=トウキョウが使われる。
つまり明治初期はトウケイ→中頃近くになってトキオ→大正に入ってトウキョウの変遷。
読み方変更の理由はわからないようだが、記事では明治中頃に政府は不平等条約の改正に向け動き出したから、それでドイツ語やフランス語的な発音に変えたのではないかと推測している。併せて明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたのを理由に英語的な発音になり、それが前回に書いた明治36年の国定教科書で東京にトーキョーのフリガナが付いたのにもつながったのではと。
ただ「IMPERIAL METEOROLOGICAL 〜」のTOKEIをTOKIOに変えただけなら全体としては英語。それに不平等条約改正の交渉は英米の説得から始まっているから、その推測が当たっているかどうかはよくわからない。
いずれにせよ公文書にTOKIOと書かれているのなら、単なる当時の流行り言葉あるいは訛りなどではなく、間違いなく東京が正式にトキオとも呼ばれていた時代が確かにあったのだ。TOKIO=外国風発音とずっと思っていたから、これはかなり驚いた歴史の発見。
そういえば
TOKIOは外人が東京を指して使う言葉
外人だから英語
と何となく思ってしまうが、私の経験でも記事の筆者がいうように英語圏の人はトウキョウと日本語的に発音するし、フランス人は英語で話していてもトキオと発音し、最初のトの音が強い。さらに江戸時代の初めに来日した宣教師が作成した日葡辞書(にっぽ辞書:日本語ポルトガル語辞書)にはTOQIOの単語が載っているらしい(このTOQIOは現在の東京ではなく単に東方にある都の意味)。TOKIOよりTOQIOのほうが格好いいかも。
また中国人で東京をトウキュウあるいはトウキュと発音する人は何名か出会った。来日した中国人クライアントに「(英語で)東急ステーションに連れて行ってくれ」と頼まれ、危うく渋谷に向かいかけたことがある(>_<)
ところでYMOがテクノポリスを発表した1979年は、今では死語となった「ナウい」がまだ使われていた時代。最新のテクノポップにトキオ、トキオと連呼する音を被せたのは、その語感がナウいと思ったからに違いない。誰か去年亡くなった坂本龍一の墓に行って「トキオって明治時代の言葉みたいですよ」と教えてあげて(^^ゞ
おしまい
しかしトウケイだけでなく、
トキオとも呼ばれていたと知ってビックリ!である。
私の記憶でトキオの言葉を初めて聞いたのは、1979年(昭和54年)に発売されたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「テクノポリス」が最初。いわゆるテクノポップの演奏の冒頭と途中に合成音声ぽい響きでトキオが連呼される。
YMOの登場は衝撃的で、サーフィンブームの真っ盛りの当時は、右を見ても左を見てもおかっぱ頭のサーファーばかりだったのに、突如もみあげのないテクノカットの連中が大量に出現したのをよく覚えている。服も白黒の市松模様のデザインが流行ったかな。
ただしYMOの人気は若者中心に限られていた。TOKIOの言葉が日本全体に広まったのは、翌1980年にタイトルもズバリ「TOKIO」だったジュリーこと沢田研二のヒット曲。電飾キラキラのコスチュームを着て、なぜかパラシュートを背負いながら歌う姿に、大げさに言えば日本中が衝撃を受けた。まだ家族揃って歌番組を見ていた最後の時代である。
沢田研二は1979年にも「OH! ギャル」でギャルという言葉を日本に紹介している。70年代後半の彼は、化粧をした中性的なヴィジュアル系路線でステージに立つなどどイケイケで最先端な存在だった。彼自身かスタッフかはわからないけれど、新しい言葉に対する感覚も鋭かったのだと思う。ちなみにテクノポリスの発売が1979年10月25日で、TOKIOが1980年1月1日と近いからYMOの歌詞をパクったのではないはず。
それはそうとしてーーー
沢田研二のTOKIOには「スーパーシティが舞い上がる」「TOKIO 優しい女が眠る街」などTOKIO=東京と思わせる歌詞がある。しかしYMOのテクノポリスは「トキオ、トキオ」の連呼だけで、この曲は他に歌詞がないいわゆるインストゥルメンタル・ミュージック。
それでもテクノポリスを初めて聴いた瞬間からトキオ=東京だと理解していた記憶がある。それは直感的にそう思ったのか、それともそれ以前に東京を外人はトキオと呼ぶと何かで知っていたのか。あれこれ記憶をたどってみても、なにせ45年も前の話なのでまったく思い出せない(^^ゞ
さて話を明治時代のトキオに戻すと、トウケイの他にトキオの読みもあったと触れている解説はいくつかあり、比較的詳しい記述を見つけたのは気象予報士が書いたこの記事。
それによると
明治8年(1875年)気象庁の前身である内務省地理局・地理寮量地課・気象掛が発足。
英文の気象報告書も出しており、そこには発行元として、
日本東京内務省地理局
IMPERIAL METEOROLOGICAL OBSERVATORY TOKEI JAPAN
と記されている。
英文は帝国東京気象台の意味。
そしてこの時点で東京の読みは TOKEI=トウケイになっている。
それが明治16年(1883年)9月からTOKEIがTOKIO=トキオに変更される。
その表記は大正2年(1913年)まで30年間続き、同年よりTOKYO=トウキョウが使われる。
つまり明治初期はトウケイ→中頃近くになってトキオ→大正に入ってトウキョウの変遷。
読み方変更の理由はわからないようだが、記事では明治中頃に政府は不平等条約の改正に向け動き出したから、それでドイツ語やフランス語的な発音に変えたのではないかと推測している。併せて明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたのを理由に英語的な発音になり、それが前回に書いた明治36年の国定教科書で東京にトーキョーのフリガナが付いたのにもつながったのではと。
ただ「IMPERIAL METEOROLOGICAL 〜」のTOKEIをTOKIOに変えただけなら全体としては英語。それに不平等条約改正の交渉は英米の説得から始まっているから、その推測が当たっているかどうかはよくわからない。
いずれにせよ公文書にTOKIOと書かれているのなら、単なる当時の流行り言葉あるいは訛りなどではなく、間違いなく東京が正式にトキオとも呼ばれていた時代が確かにあったのだ。TOKIO=外国風発音とずっと思っていたから、これはかなり驚いた歴史の発見。
そういえば
TOKIOは外人が東京を指して使う言葉
外人だから英語
と何となく思ってしまうが、私の経験でも記事の筆者がいうように英語圏の人はトウキョウと日本語的に発音するし、フランス人は英語で話していてもトキオと発音し、最初のトの音が強い。さらに江戸時代の初めに来日した宣教師が作成した日葡辞書(にっぽ辞書:日本語ポルトガル語辞書)にはTOQIOの単語が載っているらしい(このTOQIOは現在の東京ではなく単に東方にある都の意味)。TOKIOよりTOQIOのほうが格好いいかも。
また中国人で東京をトウキュウあるいはトウキュと発音する人は何名か出会った。来日した中国人クライアントに「(英語で)東急ステーションに連れて行ってくれ」と頼まれ、危うく渋谷に向かいかけたことがある(>_<)
ところでYMOがテクノポリスを発表した1979年は、今では死語となった「ナウい」がまだ使われていた時代。最新のテクノポップにトキオ、トキオと連呼する音を被せたのは、その語感がナウいと思ったからに違いない。誰か去年亡くなった坂本龍一の墓に行って「トキオって明治時代の言葉みたいですよ」と教えてあげて(^^ゞ
おしまい
wassho at 21:47|Permalink│Comments(0)│
2024年07月31日
トウケイとトキオ その2
江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それで人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態となる。
こんな風にテレビで「へいせい」と声が聞こえてきたわけじゃないからね。
まだラジオだってない時代。

物心ついたときからトウキョウと呼ばれていたし、そもそも東京は「東の京都」「首都である京都が東に移った」との意味合い。だからトウキョウを信じて疑ったこともないが、国語的にはトウケイが正しく、そして東京と名付けた明治新政府もトウケイの読みを意図していたとの説もある。
漢字は音を聞くと意味がわかる訓読みと、わからない音読みに分かれる。訓読みは漢字の意味に合う日本語を当てはめたもので、音読みは昔の中国の発音が元になっている。
例えば男の訓読みはオトコで、音読みはダン。
また長男などナンの音読みもある。
これは「音読みは昔の中国の発音が元になって」と書いた、その昔に幅があるため。
それで音読みの発音は
呉音:仏教と共に6世紀頃に伝わった。中国南方の方言がベース。
発音が柔らかい。拗音と促音が多い。男ならナン。
拗音(ようおん)→ゃゅょ(ちいさい文字)
促音(そくおん)→っ(音がはねる)
漢音:7〜8世紀の遣唐使が持ち帰った。唐の都である長安の発音。
発音が固い。濁音が多い。 男ならダン。
に分かれる。他には割合としては少ないものの、この呉音と漢音が日本語として定着して以降の平安末期に入ってきた宋音や唐音などもある。
東京を東と京に分けて、呉音と漢音で記すと
東
呉音 つう
漢音 とう
京
呉音 きょう
漢音 けい
熟語の場合、音読みは呉音か漢音かで揃えるのが原則。
例えば
老若男女 ろうにゃく・なんにょ
男女平等 たんじょ・びょうどう
でもトウキョウは呉音と漢音のチャンポンになっている。
東の呉音「つう」は一般的ではないので、東京は漢音で揃えてトウケイと読むのが国語セオリー的には正しい。また明治新政府幹部つまり当時のエリートは、漢文の素養も高いので当然ながらトウケイと考えていたはずーーーというのが先ほど書いた説の根拠。
エリートじゃないクラスでも、今よりは漢文あるいは漢文に近い日本語文章に接していたので、直感的にトウキョウの読みには違和感を覚えたかも知れない。それでもトウキョウと発音したのは、それだけ1000年も都が続いた「京都 キョウ」の存在が大きかったともいわれる。
一方でトウケイと発音したのは先祖代々から東京に住む「江戸っ子」が多かったらしい。彼らは地元の徳川びいきで、京都の朝廷と組んで幕府を倒した明治新政府を快く思っていない。それで京都を連想させるトウキョウの読みが気に入らなかったようだ。
やがてこの問題は1903年(明治36年)に国定教科書の制度が定められて解決を見る。その教科書で東京にトーキョーとのフリガナが付いた。これにより徐々にトウキョウの読みが定着していく。どうしてトウケイにしなかったのかの資料は見当たらなかった。
思うに京都に近い西日本ではトウキョウだったろうし、東京に全国から人が集まるようになってトウキョウがデファクトスタンダードになったのではないか。また明治も36年になると、当時の平均寿命は44歳程度だから、「てやんでえ、トウケイに決まってんだろうが、べらぼうめ!」と考える江戸時代生まれの徳川びいきが少なくなったのも影響したと考えられる。
ーーー続く
<後日補足>
1986年(明治元年)に幕府は江戸城を明治政府に引き渡し、明治政府は江戸城を東京城と変更する。その際の読みも「とうけいじょう」である。
なおその後、1869年(明治2年)に皇城(こうじょう)→1888年(明治21年)に宮城(きゅうじょう)→1948年(昭和23年)に皇居と名前が変わっている。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それで人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態となる。
こんな風にテレビで「へいせい」と声が聞こえてきたわけじゃないからね。
まだラジオだってない時代。

物心ついたときからトウキョウと呼ばれていたし、そもそも東京は「東の京都」「首都である京都が東に移った」との意味合い。だからトウキョウを信じて疑ったこともないが、国語的にはトウケイが正しく、そして東京と名付けた明治新政府もトウケイの読みを意図していたとの説もある。
漢字は音を聞くと意味がわかる訓読みと、わからない音読みに分かれる。訓読みは漢字の意味に合う日本語を当てはめたもので、音読みは昔の中国の発音が元になっている。
例えば男の訓読みはオトコで、音読みはダン。
また長男などナンの音読みもある。
これは「音読みは昔の中国の発音が元になって」と書いた、その昔に幅があるため。
それで音読みの発音は
呉音:仏教と共に6世紀頃に伝わった。中国南方の方言がベース。
発音が柔らかい。拗音と促音が多い。男ならナン。
拗音(ようおん)→ゃゅょ(ちいさい文字)
促音(そくおん)→っ(音がはねる)
漢音:7〜8世紀の遣唐使が持ち帰った。唐の都である長安の発音。
発音が固い。濁音が多い。 男ならダン。
に分かれる。他には割合としては少ないものの、この呉音と漢音が日本語として定着して以降の平安末期に入ってきた宋音や唐音などもある。
東京を東と京に分けて、呉音と漢音で記すと
東
呉音 つう
漢音 とう
京
呉音 きょう
漢音 けい
熟語の場合、音読みは呉音か漢音かで揃えるのが原則。
例えば
老若男女 ろうにゃく・なんにょ
男女平等 たんじょ・びょうどう
でもトウキョウは呉音と漢音のチャンポンになっている。
東の呉音「つう」は一般的ではないので、東京は漢音で揃えてトウケイと読むのが国語セオリー的には正しい。また明治新政府幹部つまり当時のエリートは、漢文の素養も高いので当然ながらトウケイと考えていたはずーーーというのが先ほど書いた説の根拠。
エリートじゃないクラスでも、今よりは漢文あるいは漢文に近い日本語文章に接していたので、直感的にトウキョウの読みには違和感を覚えたかも知れない。それでもトウキョウと発音したのは、それだけ1000年も都が続いた「京都 キョウ」の存在が大きかったともいわれる。
一方でトウケイと発音したのは先祖代々から東京に住む「江戸っ子」が多かったらしい。彼らは地元の徳川びいきで、京都の朝廷と組んで幕府を倒した明治新政府を快く思っていない。それで京都を連想させるトウキョウの読みが気に入らなかったようだ。
やがてこの問題は1903年(明治36年)に国定教科書の制度が定められて解決を見る。その教科書で東京にトーキョーとのフリガナが付いた。これにより徐々にトウキョウの読みが定着していく。どうしてトウケイにしなかったのかの資料は見当たらなかった。
思うに京都に近い西日本ではトウキョウだったろうし、東京に全国から人が集まるようになってトウキョウがデファクトスタンダードになったのではないか。また明治も36年になると、当時の平均寿命は44歳程度だから、「てやんでえ、トウケイに決まってんだろうが、べらぼうめ!」と考える江戸時代生まれの徳川びいきが少なくなったのも影響したと考えられる。
ーーー続く
<後日補足>
1986年(明治元年)に幕府は江戸城を明治政府に引き渡し、明治政府は江戸城を東京城と変更する。その際の読みも「とうけいじょう」である。
なおその後、1869年(明治2年)に皇城(こうじょう)→1888年(明治21年)に宮城(きゅうじょう)→1948年(昭和23年)に皇居と名前が変わっている。
wassho at 20:05|Permalink│Comments(0)│
2024年07月30日
トウケイとトキオ
昔の人の名前は「藤原の道長」「源の頼朝」と「の」を挟んで読んでいたのに、時代が下るにつれて「の」がなくなって「足利尊氏」「徳川家康」となる。その名前が天皇から与えられた【ウジ(氏)なら「の」が付く】と日本史で習うけれど、それについての疑問を豊臣秀吉と千利休をテーマにして3回、それ以外に2回と少し前にあれこれ書いた。
その調べ物の途中でたまたま見つけたネタが今回のテーマ。
まずは、
明治時代に東京はトウケイとも呼ばれていた話から。
1868年1月に鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、4月に江戸城が引き渡されると明治新政府は天皇を京都から東京に移す。3000人以上の随行者を従えた出発は11月4日で到着が11月26日(表記はすべて新暦)。その2ヶ月前の9月3日に出されたのが「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。詔書(しょうしょ)とは天皇の名前で出される文書。
内容は
天皇が江戸で政務を執る
(だから)江戸を東京に改称する
のふたつ。
※「京」の文字には天皇が住む場所との意味がある。
いわゆる首都の移転=遷都であるが、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために、11月の移動は行幸(ぎょうこう=天皇が皇居から出かける)扱いになっている。実際、天皇は翌年1月にいったん京都に戻り、5月に再び東京へ行幸している。20日以上もかかる移動を3回もご苦労様。ただし記録を読むと16歳の少年だった明治天皇にとっては、今までにない体験で道中を何かと楽しんだ様子。
そして2度目の行幸では太政官(個人の役職ではなく内閣のような行政の最高機関を意味する)も同行し、しばらく後に皇后も東京に移り、天皇が東京を本拠地にすると事実上決まった。
そうやって明治新政府は既成事実を積み重ね、なし崩し的に遷都を実現した。先ほどの詔書も「江戸で政務を執る」と書いてあるだけで「京都では執らない」ではないから、京都と東京のダブル首都を匂わせるようなニュアンス。また行幸は出かけるを意味し、行幸先から帰るのは還幸(かんこう)と呼び名が変わる。そして新政府はタイミングを見計らって、明治5年(1872年)に天皇が西国・九州巡幸(巡幸=複数の目的地への行幸)の一環として京都に赴く際に、シレっと還幸ではなく行幸と表現している。
それでも苦労したというか京都への配慮を感じさせるのは、明治22年(1889年)と明治維新からかなり後に制定した旧皇室典範で、即位の礼と大嘗祭を京都で行うと決めたこと。大嘗祭(だいじょうさい)は即位後の最初の秋に行い、天皇にとって一世に一度の最も重要とされる儀式。
従って大正天皇と昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都で執り行われた。その規定がなくなったのは戦後の昭和22年(1947年)。だから東京で即位したのは今の上皇が史上初になる。ただし即位の儀式に必要な高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座(のようなもの)は京都御所にあり、平成、令和の即位の礼でも京都から皇居に運ばれ、そして戻されている。今も高御座の保管場所を京都から東京に移すのに反対があるのか? 輸送中の事故のほうが心配な気がするけれど。
平城京から平安京への遷都などと違って、東京への首都移転は形式上の正式な手続きを経ていない。それを皮肉って昔の京都の人は「天皇さんは東京にお出かけ中です」と言っていたとか言わなかったとか(^^ゞ
ちなみに東京行幸前の4月に大阪行幸も実施されている。滞在は46日間。実は最初の遷都案は大阪で、この行幸も東京行幸と意図は同じ。諸般の情勢でその後に東京に決まったものの、大阪が首都になった可能性もワンチャンあったのは意外と知られていない。
さて江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それが人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態を招く。
ーーー続く
その調べ物の途中でたまたま見つけたネタが今回のテーマ。
まずは、
明治時代に東京はトウケイとも呼ばれていた話から。
1868年1月に鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、4月に江戸城が引き渡されると明治新政府は天皇を京都から東京に移す。3000人以上の随行者を従えた出発は11月4日で到着が11月26日(表記はすべて新暦)。その2ヶ月前の9月3日に出されたのが「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。詔書(しょうしょ)とは天皇の名前で出される文書。
内容は
天皇が江戸で政務を執る
(だから)江戸を東京に改称する
のふたつ。
※「京」の文字には天皇が住む場所との意味がある。
いわゆる首都の移転=遷都であるが、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために、11月の移動は行幸(ぎょうこう=天皇が皇居から出かける)扱いになっている。実際、天皇は翌年1月にいったん京都に戻り、5月に再び東京へ行幸している。20日以上もかかる移動を3回もご苦労様。ただし記録を読むと16歳の少年だった明治天皇にとっては、今までにない体験で道中を何かと楽しんだ様子。
そして2度目の行幸では太政官(個人の役職ではなく内閣のような行政の最高機関を意味する)も同行し、しばらく後に皇后も東京に移り、天皇が東京を本拠地にすると事実上決まった。
そうやって明治新政府は既成事実を積み重ね、なし崩し的に遷都を実現した。先ほどの詔書も「江戸で政務を執る」と書いてあるだけで「京都では執らない」ではないから、京都と東京のダブル首都を匂わせるようなニュアンス。また行幸は出かけるを意味し、行幸先から帰るのは還幸(かんこう)と呼び名が変わる。そして新政府はタイミングを見計らって、明治5年(1872年)に天皇が西国・九州巡幸(巡幸=複数の目的地への行幸)の一環として京都に赴く際に、シレっと還幸ではなく行幸と表現している。
それでも苦労したというか京都への配慮を感じさせるのは、明治22年(1889年)と明治維新からかなり後に制定した旧皇室典範で、即位の礼と大嘗祭を京都で行うと決めたこと。大嘗祭(だいじょうさい)は即位後の最初の秋に行い、天皇にとって一世に一度の最も重要とされる儀式。
従って大正天皇と昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都で執り行われた。その規定がなくなったのは戦後の昭和22年(1947年)。だから東京で即位したのは今の上皇が史上初になる。ただし即位の儀式に必要な高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座(のようなもの)は京都御所にあり、平成、令和の即位の礼でも京都から皇居に運ばれ、そして戻されている。今も高御座の保管場所を京都から東京に移すのに反対があるのか? 輸送中の事故のほうが心配な気がするけれど。
平城京から平安京への遷都などと違って、東京への首都移転は形式上の正式な手続きを経ていない。それを皮肉って昔の京都の人は「天皇さんは東京にお出かけ中です」と言っていたとか言わなかったとか(^^ゞ
ちなみに東京行幸前の4月に大阪行幸も実施されている。滞在は46日間。実は最初の遷都案は大阪で、この行幸も東京行幸と意図は同じ。諸般の情勢でその後に東京に決まったものの、大阪が首都になった可能性もワンチャンあったのは意外と知られていない。
さて江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それが人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態を招く。
ーーー続く
wassho at 22:27|Permalink│Comments(0)│
2024年07月25日
名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問 その2
古事記と日本書紀の次に調べたのは、
平安中期の文学代表作である枕草子(1001年頃)と源氏物語(1008年頃)。
あっ、枕草子に「の」が入っている!
これらは古事記や日本書紀と違って、前回に書いた万葉仮名の次世代バージョンである平仮名を使って漢字仮名交じりで書かれている。といっても漢字は僅かでほとんどが平仮名。だからウジ(氏)の付く名前に「の」が入っているか確かめられる可能性がある。理屈の上ではーーー
まずは枕草子。
清少納言が使えた中宮定子は藤原定子だし、その父の藤原道隆と、定子の兄弟である藤原伊周(これちか)や藤原隆家などの藤原氏、橘則光、源経房など実在のたくさんの貴族が登場する。
ただし藤原道隆は関白殿、藤原伊周は大納言殿、橘則光は左衛門の尉則光など官職か官職&個人名で書かれていて、ウジ(氏)の付く名前で書かれていない。
それでも唯一、藤原時柄なる人物がそのままの名前で会話の中に登場する。
しかし枕草子(オリジナルは残っておらず写本)はこのような感じで平仮名主体とはいえ判読不能。画像はhttps://x.gd/AJnH9から引用(短縮URL使用)
しかも枕草子は300ほどの章段に分かれており、該当部分は103段目にあるのだが、データベースにある写本画像は単にズラーッと並んでいるだけで該当部分がどれなのかわからない。判読不能なので読みながら探すのも無理(もし読めても相当時間がかかる)。
仕方なく枕草子で藤原時柄がどう記載されているかのリサーチは断念(/o\)
次に源氏物語。
源氏物語はいづれの御時にか=いつの頃だったか忘れてしまった−−−で始まる架空の物語。「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」を徹底するためにフルネームで書かれている人物はいない。光源氏を始めほとんどがニックネーム。
その中で上の名前がハッキリしているのが藤典侍という女性。古文で習う読みは「とう の ないしのすけ」。藤は藤原氏を連想させるためのテクニック。典侍は女官の官職名であるが、ともかくウジ(氏)の後に「の」が書かれているかをリサーチ。
のつもりだったのにーーー、
源氏物語も原本は残っておらず、こちらは室町時代後期の1532年に写された写本。画像はhttps://x.gd/1R7DOから引用(短縮URL使用)
藤典侍がフルネームで登場するのは第33帖第2章第2段のみ(他では典侍の表記)。先ほどの枕草子と違い、データベースは第33帖の先頭まではジャンプできた。しかしそこから先は同じく画像が順番に並んでいるだけ。原文と照らし合わせて漢字が書いてある箇所を手がかりに藤典侍を探そうとするも、この平仮名がまったく読めない(>_<)
そんなわけで藤典侍も見つけられず。
ちなみに第33帖の書き出しは(文章は読みやすいよう現代の漢字仮名交じりになっている)
御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、
ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、
わが心ながら執念きぞかし。
その部分の画像がこれ。
こんなの読める?
データベースがジャンプした箇所は本当に第33帖冒頭?
実は同じ官職名を持つ源典侍(げん の ないしのすけ)なる人物も同じく、一箇所だけフルネームで登場する。でも藤典侍を探すのに精根尽きたので挑戦せずm(_ _)m
それにしてもこんな文字で書かれた物語を読んで、当時は「まあ、いとおかしオホホホ」なんてやっていたのか? おそるべし平安女子!
さてめげずに平家物語。
11世紀初頭の枕草子や源氏物語と違って、こちらは13世紀前半の成立とされている。200年ほど経って同じ漢字仮名交じり文でも、もっと漢字が多くなって該当箇所を探しやすいだろうと期待。
平家物語も原本はなく、これは1370年(室町時代初期)の写しと推定されている写本。画像はhttps://da.library.ryukoku.ac.jp/page/000020から引用
赤線部分に書かれているのは平朝臣清盛公。
「の」の文字は見られない。
しかしこちらの慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本では細かくルビが振ってあり、しっかりと「たいら の あそん」と「の」が入っている。画像はhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=keiheikeから引用
ここまでを作成年順に並べると
1158年(平安末期):官宣旨:「の」はない
1370年(室町時代初期):平家物語写本:「の」はない
慶長年間(1596〜1615年):日本書紀写本
すべてではないが「の」と但し書きが付く箇所が多い。
慶長年間(1596〜1615年):平家物語写本:「の」のフリガナがある。
これでわかるのは遅くとも慶長の時代にウジ(氏)の後に「の」を入れて読んでいた事実ただそれだけ。1370年の写本では「の」が書いてなくても常識として「の」を読んでいた可能性は残るし、慶長の時代に「ウジ(氏)には「の」を付けても、そうでなければ付けないの使い分けルールがあったかも不明。
いろいろと調べた割には骨折り損のくたびれもうけ。もちろんそれは最初から承知で、歴史の証拠集めをする真似事のお遊び。それなりに楽しかった。

古代の人のしゃべり言葉を聞くことは出来ない。「蘇我の馬子」や「小野の妹子」だったとしても、それは「銭形のとっつぁん」程度のものだったような気がする。
もう一度、最初の疑問に立ち返ると
天皇に与えられた公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
と歴史で教えられるけれど、それにエビデンスはあるのか? ウジ(氏)を与える制度は5〜6世紀に始まったとされる。その頃の資料にフリガナでも振ってあったのか?と思ったのが始まり。
そして名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的なミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家あるいは文書を扱う人が、それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを設けたのでは?との推測。
古墳時代はひとまず置いといて、疑問の後半に重きを置くなら
ウジ(氏)を与えられていた家系がミョウジ(苗字または名字)を名乗りだしたのが平安後期から。もしエビデンスがあるとすれば、
その頃に書かれたウジ(氏)なら「の」が付く、ミョウジ(苗字または名字)には
付けないとのルールあるいはマナーを示した文書が発見される。
平仮名を多用する平安文学のどれかに、例えばウジ(氏)を名乗る藤原家の
人物なら「ふじわら の 誰それ」、ミョウジ(苗字または名字)を名乗る一条家の
人物には「いちじょう誰それ」と書き分けられていれば、その当時から「の」の
あるなしを使い分けていたと判明する。
まあそんなエビデンスが見つかっても歴史の解明に役に立たないけれど。
ときどき書いているように、ネットで得られる情報には誰かが書いた間違い、あるいはいい加減な話が、他の人によってコピペを重ねられるうちに、すっかり事実のように扱われているケースがけっこうある。それと違い【ウジ(氏)なら「の」が付く】ははるか以前からの歴史学説ではあるものの、どこか似たような匂いを感じたから、好奇心からその根拠を知りたいだけ。
歴史に詳しい人から見たらトンチンカンな思い込みを書いているのかも知れない。とりあえずこんな与太話を最後まで読んでくれてありがとう。
おしまい
平安中期の文学代表作である枕草子(1001年頃)と源氏物語(1008年頃)。
あっ、枕草子に「の」が入っている!
これらは古事記や日本書紀と違って、前回に書いた万葉仮名の次世代バージョンである平仮名を使って漢字仮名交じりで書かれている。といっても漢字は僅かでほとんどが平仮名。だからウジ(氏)の付く名前に「の」が入っているか確かめられる可能性がある。理屈の上ではーーー
まずは枕草子。
清少納言が使えた中宮定子は藤原定子だし、その父の藤原道隆と、定子の兄弟である藤原伊周(これちか)や藤原隆家などの藤原氏、橘則光、源経房など実在のたくさんの貴族が登場する。
ただし藤原道隆は関白殿、藤原伊周は大納言殿、橘則光は左衛門の尉則光など官職か官職&個人名で書かれていて、ウジ(氏)の付く名前で書かれていない。
それでも唯一、藤原時柄なる人物がそのままの名前で会話の中に登場する。
しかし枕草子(オリジナルは残っておらず写本)はこのような感じで平仮名主体とはいえ判読不能。画像はhttps://x.gd/AJnH9から引用(短縮URL使用)
しかも枕草子は300ほどの章段に分かれており、該当部分は103段目にあるのだが、データベースにある写本画像は単にズラーッと並んでいるだけで該当部分がどれなのかわからない。判読不能なので読みながら探すのも無理(もし読めても相当時間がかかる)。
仕方なく枕草子で藤原時柄がどう記載されているかのリサーチは断念(/o\)
次に源氏物語。
源氏物語はいづれの御時にか=いつの頃だったか忘れてしまった−−−で始まる架空の物語。「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」を徹底するためにフルネームで書かれている人物はいない。光源氏を始めほとんどがニックネーム。
その中で上の名前がハッキリしているのが藤典侍という女性。古文で習う読みは「とう の ないしのすけ」。藤は藤原氏を連想させるためのテクニック。典侍は女官の官職名であるが、ともかくウジ(氏)の後に「の」が書かれているかをリサーチ。
のつもりだったのにーーー、
源氏物語も原本は残っておらず、こちらは室町時代後期の1532年に写された写本。画像はhttps://x.gd/1R7DOから引用(短縮URL使用)
藤典侍がフルネームで登場するのは第33帖第2章第2段のみ(他では典侍の表記)。先ほどの枕草子と違い、データベースは第33帖の先頭まではジャンプできた。しかしそこから先は同じく画像が順番に並んでいるだけ。原文と照らし合わせて漢字が書いてある箇所を手がかりに藤典侍を探そうとするも、この平仮名がまったく読めない(>_<)
そんなわけで藤典侍も見つけられず。
ちなみに第33帖の書き出しは(文章は読みやすいよう現代の漢字仮名交じりになっている)
御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、
ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、
わが心ながら執念きぞかし。
その部分の画像がこれ。
こんなの読める?
データベースがジャンプした箇所は本当に第33帖冒頭?
実は同じ官職名を持つ源典侍(げん の ないしのすけ)なる人物も同じく、一箇所だけフルネームで登場する。でも藤典侍を探すのに精根尽きたので挑戦せずm(_ _)m
それにしてもこんな文字で書かれた物語を読んで、当時は「まあ、いとおかしオホホホ」なんてやっていたのか? おそるべし平安女子!
さてめげずに平家物語。
11世紀初頭の枕草子や源氏物語と違って、こちらは13世紀前半の成立とされている。200年ほど経って同じ漢字仮名交じり文でも、もっと漢字が多くなって該当箇所を探しやすいだろうと期待。
平家物語も原本はなく、これは1370年(室町時代初期)の写しと推定されている写本。画像はhttps://da.library.ryukoku.ac.jp/page/000020から引用
赤線部分に書かれているのは平朝臣清盛公。
「の」の文字は見られない。
しかしこちらの慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本では細かくルビが振ってあり、しっかりと「たいら の あそん」と「の」が入っている。画像はhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=keiheikeから引用
ここまでを作成年順に並べると
1158年(平安末期):官宣旨:「の」はない
1370年(室町時代初期):平家物語写本:「の」はない
慶長年間(1596〜1615年):日本書紀写本
すべてではないが「の」と但し書きが付く箇所が多い。
慶長年間(1596〜1615年):平家物語写本:「の」のフリガナがある。
これでわかるのは遅くとも慶長の時代にウジ(氏)の後に「の」を入れて読んでいた事実ただそれだけ。1370年の写本では「の」が書いてなくても常識として「の」を読んでいた可能性は残るし、慶長の時代に「ウジ(氏)には「の」を付けても、そうでなければ付けないの使い分けルールがあったかも不明。
いろいろと調べた割には骨折り損のくたびれもうけ。もちろんそれは最初から承知で、歴史の証拠集めをする真似事のお遊び。それなりに楽しかった。

古代の人のしゃべり言葉を聞くことは出来ない。「蘇我の馬子」や「小野の妹子」だったとしても、それは「銭形のとっつぁん」程度のものだったような気がする。
もう一度、最初の疑問に立ち返ると
天皇に与えられた公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
と歴史で教えられるけれど、それにエビデンスはあるのか? ウジ(氏)を与える制度は5〜6世紀に始まったとされる。その頃の資料にフリガナでも振ってあったのか?と思ったのが始まり。
そして名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的なミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家あるいは文書を扱う人が、それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを設けたのでは?との推測。
古墳時代はひとまず置いといて、疑問の後半に重きを置くなら
ウジ(氏)を与えられていた家系がミョウジ(苗字または名字)を名乗りだしたのが平安後期から。もしエビデンスがあるとすれば、
その頃に書かれたウジ(氏)なら「の」が付く、ミョウジ(苗字または名字)には
付けないとのルールあるいはマナーを示した文書が発見される。
平仮名を多用する平安文学のどれかに、例えばウジ(氏)を名乗る藤原家の
人物なら「ふじわら の 誰それ」、ミョウジ(苗字または名字)を名乗る一条家の
人物には「いちじょう誰それ」と書き分けられていれば、その当時から「の」の
あるなしを使い分けていたと判明する。
まあそんなエビデンスが見つかっても歴史の解明に役に立たないけれど。
ときどき書いているように、ネットで得られる情報には誰かが書いた間違い、あるいはいい加減な話が、他の人によってコピペを重ねられるうちに、すっかり事実のように扱われているケースがけっこうある。それと違い【ウジ(氏)なら「の」が付く】ははるか以前からの歴史学説ではあるものの、どこか似たような匂いを感じたから、好奇心からその根拠を知りたいだけ。
歴史に詳しい人から見たらトンチンカンな思い込みを書いているのかも知れない。とりあえずこんな与太話を最後まで読んでくれてありがとう。
おしまい
wassho at 21:28|Permalink│Comments(0)│
2024年07月22日
名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問
豊臣秀吉の呼び名はなぜ「の」が付かず、逆に千利休には「の」が付くのかについて先日3回にわたってブログを書いた。その時にいろいろと調べたわけであるが、すると「の」に関してもっと根源的な疑問がフツフツと。
豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
最初のブログから引用すると、
======
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
======
そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ
さてである。
「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。
とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。
そして冒頭に書いた根源的な疑問とは
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> それってエビデンスあるの? <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。
さらにいえば
【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
そう読んでいたのではなく、
名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、
それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
設けた
ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。
少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。
ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。
ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。
ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。
それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。
そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。
さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。
教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。
そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。
これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用

ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ。
古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)
また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します
同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。
これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。
いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。
それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。
とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。
さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。
実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の
茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる
を万葉仮名で書くと
茜草指 武良前野逝 標野行
野守者不見哉 君之袖布流
恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。
万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。
万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。
残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。
ーーー続く
豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
最初のブログから引用すると、
======
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
======
そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ
さてである。
「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。
とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。
そして冒頭に書いた根源的な疑問とは
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> それってエビデンスあるの? <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。
さらにいえば
【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
そう読んでいたのではなく、
名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、
それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
設けた
ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。
少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。
ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。
ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。
ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。
それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。
そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。
さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。
教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。
そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。
これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用

ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ。
古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)
また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します
同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。
これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。
いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。
それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。
とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。
さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。
実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の
茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる
を万葉仮名で書くと
茜草指 武良前野逝 標野行
野守者不見哉 君之袖布流
恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。
万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。
万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。
残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。
ーーー続く
wassho at 22:44|Permalink│Comments(0)│
2024年07月15日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
豊臣秀吉がなぜ「豊臣の秀吉」と「の」を付けて呼ばれないかの推察を2回にわたって書いてきた。逆にどうして「の」を付けて呼ばれるのか不思議な人物が、秀吉と関係が深かった千利休。
彼の略歴と名前を並べると
1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。
子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)
ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは
茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
茶道:それが礼儀作法として形式化したもの
が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ
19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。
また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。
肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。
30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。
1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。
1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。
徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。
1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。
なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ
1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。
改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。
それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。
また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。
利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。
そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。
例えば源頼朝のフルネームは
源 の 朝臣 頼朝
で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。
そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。
前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?
まったくワケワカメ(>_<)
こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。
ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。
だったらーーー
秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ
いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。
彼の略歴と名前を並べると
1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。
子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)
ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは
茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
茶道:それが礼儀作法として形式化したもの
が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ
19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。
また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。
肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。
30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。
1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。
1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。
徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。
1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。
なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ
1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。
改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。
それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。
また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。
利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。
そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。
例えば源頼朝のフルネームは
源 の 朝臣 頼朝
で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。
そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。
前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?
まったくワケワカメ(>_<)
こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。
ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。
だったらーーー
秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ
いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。
wassho at 13:25|Permalink│Comments(0)│
2024年07月14日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
ミョウジ(苗字または名字)が名前の主流となってもウジ(氏)が無くなったわけではない。朝廷内や公的な業務では引き続きウジ(氏)が用いられる。そしてウジ(氏)の名前があるのは上級国民の証し。それがなければ朝廷内では名無しの権兵衛に等しく相手にされない。そこで戦国時代の下克上で成り上がった、すなわち出身が上級国民でない武将たちは家系図を捏造するなどして何とかウジ(氏)を手に入れている。(一度与えられたウジ(氏)は世襲され、つまり天皇の再承認なしに引き継がれるから、先祖をでっち上げるわけ)
信長の織田家は代々(自称)藤原氏を名乗り、信長自身が藤原信長と署名した文書も残っている。なのにその後に信長は平氏に乗り換え。その理由は定かではないものの、武家政権は平氏と源氏が交代する源平交代思想に影響されたとの説もある。
源平の順番とは:平清盛→源頼朝→執権北条家(平氏)→足利将軍家(源氏)
家康を出した松平家も代々(自称)源氏を名乗っていて家康もそれに倣う。しかし官位を得る都合で藤原氏になったり、また秀吉が豊臣や羽柴の名前を諸大名に与えたので、形式上は羽柴家康や豊臣家康の時代もあった。ウジ(氏)を与えるのは天皇の専権のはずだが、まあ天下人となった秀吉を止められなかったのだろう。
その秀吉はといえば、武家としてはそれなりに名門に生まれた信長や家康と違って「どこの馬の骨」かわからない階層の出身。前回に彼が若い頃は木下藤吉郎の名前だったと記した。とはいえ「家の名前」があるレベルの生まれではなく、これは妻の実家の名前あるいは自分で勝手に木下と名乗ったとも考えられている。
そのレベルの生い立ちなので家系図を細工して源平藤橘の血を引くと主張するのは無理があった。ウジ(氏)がなくては上級国民の仲間入りは不可能。
しかし本能寺の変以降、信長に倣ってちゃっかり平氏を名乗っている。こうなると捏造すらなく開き直った自称であるが天下人なら何でもあり。それだけでは満足せず関白になるために近衛家の養子となって、晴れてそのウジ(氏)である藤原氏を正式に名乗る。さらに関白となった翌年に、いよいよ借り物ではない自分専用のウジ(氏)となる「豊臣」を天皇から得るのに成功している。
前回は豊臣が天皇から与えられたウジ(氏)であるにもかかわらず、「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと私の推察【その1】を書いた。
もうひとつの推察は
豊臣のウジ(氏)は家系図の捏造などではなく、確かに天皇から与えられた名前
ではあるとしても、それは天下人の威光を背景に無理矢理ねじ込んだもの。
秀吉が豊臣のウジ(氏)を得たのは1586年。大坂夏の陣で秀頼が没したのが
1615年。だから豊臣ウジ(氏)家はわずか29年で滅亡した。
秀吉の妻の家系が何家か豊臣のウジ(氏)を引き継いだものの、いわゆる没落状態。
何たって秀吉は「どこの馬の骨」かわからない生まれ。
そんなこんなで豊臣のウジ(氏)は源平藤橘など古来からあるウジ(氏)とは同列に見られなかった。それで見下されて「の」が付かなかったというのが私の推察【その2】
もちろん
これも知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
信長の織田家は代々(自称)藤原氏を名乗り、信長自身が藤原信長と署名した文書も残っている。なのにその後に信長は平氏に乗り換え。その理由は定かではないものの、武家政権は平氏と源氏が交代する源平交代思想に影響されたとの説もある。
源平の順番とは:平清盛→源頼朝→執権北条家(平氏)→足利将軍家(源氏)
家康を出した松平家も代々(自称)源氏を名乗っていて家康もそれに倣う。しかし官位を得る都合で藤原氏になったり、また秀吉が豊臣や羽柴の名前を諸大名に与えたので、形式上は羽柴家康や豊臣家康の時代もあった。ウジ(氏)を与えるのは天皇の専権のはずだが、まあ天下人となった秀吉を止められなかったのだろう。
その秀吉はといえば、武家としてはそれなりに名門に生まれた信長や家康と違って「どこの馬の骨」かわからない階層の出身。前回に彼が若い頃は木下藤吉郎の名前だったと記した。とはいえ「家の名前」があるレベルの生まれではなく、これは妻の実家の名前あるいは自分で勝手に木下と名乗ったとも考えられている。
そのレベルの生い立ちなので家系図を細工して源平藤橘の血を引くと主張するのは無理があった。ウジ(氏)がなくては上級国民の仲間入りは不可能。
しかし本能寺の変以降、信長に倣ってちゃっかり平氏を名乗っている。こうなると捏造すらなく開き直った自称であるが天下人なら何でもあり。それだけでは満足せず関白になるために近衛家の養子となって、晴れてそのウジ(氏)である藤原氏を正式に名乗る。さらに関白となった翌年に、いよいよ借り物ではない自分専用のウジ(氏)となる「豊臣」を天皇から得るのに成功している。
前回は豊臣が天皇から与えられたウジ(氏)であるにもかかわらず、「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと私の推察【その1】を書いた。
もうひとつの推察は
豊臣のウジ(氏)は家系図の捏造などではなく、確かに天皇から与えられた名前
ではあるとしても、それは天下人の威光を背景に無理矢理ねじ込んだもの。
秀吉が豊臣のウジ(氏)を得たのは1586年。大坂夏の陣で秀頼が没したのが
1615年。だから豊臣ウジ(氏)家はわずか29年で滅亡した。
秀吉の妻の家系が何家か豊臣のウジ(氏)を引き継いだものの、いわゆる没落状態。
何たって秀吉は「どこの馬の骨」かわからない生まれ。
そんなこんなで豊臣のウジ(氏)は源平藤橘など古来からあるウジ(氏)とは同列に見られなかった。それで見下されて「の」が付かなかったというのが私の推察【その2】
もちろん
これも知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 10:56|Permalink│Comments(0)│
2024年07月13日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
先日に書いた「ああ勘違い」4部作。最も長く勘違いしていたケースで、その期間は半世紀にも及ぶからやるせない(>_<) とりあえず現在までに4つ判明しているとはいえ、他にもあるんだろうなといろいろ思いを巡らせていたら、勘違いとは別に、高校生の時に疑問が浮かんで、そのままになっている事柄をふと思い出した。それがまずは豊臣秀吉の「の」。
日本史の教科書を読むと
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。
織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、
日吉丸(幼名)
木下藤吉郎
木下藤吉郎秀吉
羽柴秀吉
豊臣秀吉
このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。
単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。
さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は
豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
菅原道真や在原業平などもこの部類。
※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する
臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。
トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。
それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。
そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。
そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。
その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。
また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。
まっ、
知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
日本史の教科書を読むと
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。
織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、
日吉丸(幼名)
木下藤吉郎
木下藤吉郎秀吉
羽柴秀吉
豊臣秀吉
このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。
単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。
さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は
豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
菅原道真や在原業平などもこの部類。
※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する
臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。
トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。
それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。
そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。
そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。
その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。
また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。
まっ、
知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 10:07|Permalink│Comments(0)│
2024年07月05日
祇園精舎の不覚 その2 (伊賀と甲賀編)
前回に書いた、鳥羽が伊勢ではなく京都の地名だと知ったのがいつかはよく覚えていない。しかし少なくとも35歳は超えていて、つまり日本史を習い始めてからずっと伊勢の地名だと勘違いしていてショックが大きかった。足元の階段=歴史認識が崩れ落ちて、真っ逆さまに転落するイメージ。ちょっと大げさ(^^ゞ
さて次はブログにも記録が残る2006年に発覚した勘違いパート2。
それは伊賀と甲賀。どちらも忍者で有名。忍者に伊賀忍者と甲賀忍者がいるのはたぶん漫画で読んで何となく子供の頃から知っていた。でもそれがどうやら地名であると理解はしていても、どこにあるのかまでは気にしていなかった。
伊賀が三重県にあると知ったのは大学生の時。大阪から伊勢へサーフィンに行くのに名阪国道を通り、その途中に伊賀上野の大きな標識があったから。
それが伊賀忍者の伊賀だと知り「へえ〜忍者ってこんなところにいたんだ」と思った。
そしてそこからが勘違いの始まり。
伊賀忍者と甲賀忍者は対立しているとの思い込み(実際のところは知らない)
↓
対立するのは豊臣と徳川である
↓
伊賀がこの地域なら、伊賀は豊臣方に違いない
↓
ならば甲賀は徳川方
↓
徳川は東日本なので、そこで「甲」といえば甲州
↓
甲賀忍者の本拠地は山梨県!
と勝手に妄想が膨らみ、今と違ってネットでチャッチャと調べることもできないから、妄想が膨らんだ段階でその考察はストップ。やがてそれが私の中で疑うべきもない確固たる真実として認識された(^^ゞ
実際の甲賀は滋賀県にあり、
しかも伊賀と甲賀は県は違えどなんと隣町!
地図で見るとずいぶんと面積が広い。
少し調べると、
滋賀県甲賀市
面積:482平方キロ
人口:8万6000人
平成の大合併で2004年(平成16年)に甲賀市となる。
焼き物で有名な信楽町がある。
甲賀市の発音は「こうがし」ではなく「こうかし」
それにちなんで甲賀コーラというご当地飲料がある
三重県伊賀市
面積:558平方キロ
人口:8万4000人
同じく平成の大合併で2004年(平成16年)に伊賀市となる。
服部半蔵は伊賀忍者ーーー徳川家に仕えていた(>_<)
松尾芭蕉も伊賀出身(なので忍者や幕府の隠密説あり)
甲賀コーラに対抗して忍ジャーエールを発売
参考までに平成の大合併が推進されたのは
平成11年(1999)から平成22年(2010)
世田谷区の面積が58平方キロで人口94万人だから、人口密度は100倍以上違うね。また大阪府の面積は1905平方キロなので、伊賀と甲賀だけでその半分になる。なおこれは現在の行政区分なので忍者が本拠地としていたエリアはもっと狭い範囲だったはず。
前回の冒頭に記した「いわゆる常識となっている事柄」に伊賀・甲賀は含まれない。それで鳥羽伏見のようなショックは受けなかったものの、でもやはりしばらくは凹んだかな。それに鳥羽を伊勢の地名と思ってしまうのは、ある程度は仕方ない面があっても(京都の鳥羽がマイナーすぎるからと責任転嫁)、甲賀=山梨はまったくもって私のアホさ加減が生み出した勘違い。だから穴があったら入りたかったのはこちらのほう。
ーーー続く (祇園精舎までなかなかたどり着けない)
さて次はブログにも記録が残る2006年に発覚した勘違いパート2。
それは伊賀と甲賀。どちらも忍者で有名。忍者に伊賀忍者と甲賀忍者がいるのはたぶん漫画で読んで何となく子供の頃から知っていた。でもそれがどうやら地名であると理解はしていても、どこにあるのかまでは気にしていなかった。
伊賀が三重県にあると知ったのは大学生の時。大阪から伊勢へサーフィンに行くのに名阪国道を通り、その途中に伊賀上野の大きな標識があったから。
それが伊賀忍者の伊賀だと知り「へえ〜忍者ってこんなところにいたんだ」と思った。
そしてそこからが勘違いの始まり。
伊賀忍者と甲賀忍者は対立しているとの思い込み(実際のところは知らない)
↓
対立するのは豊臣と徳川である
↓
伊賀がこの地域なら、伊賀は豊臣方に違いない
↓
ならば甲賀は徳川方
↓
徳川は東日本なので、そこで「甲」といえば甲州
↓
甲賀忍者の本拠地は山梨県!
と勝手に妄想が膨らみ、今と違ってネットでチャッチャと調べることもできないから、妄想が膨らんだ段階でその考察はストップ。やがてそれが私の中で疑うべきもない確固たる真実として認識された(^^ゞ
実際の甲賀は滋賀県にあり、
しかも伊賀と甲賀は県は違えどなんと隣町!
地図で見るとずいぶんと面積が広い。
少し調べると、
滋賀県甲賀市
面積:482平方キロ
人口:8万6000人
平成の大合併で2004年(平成16年)に甲賀市となる。
焼き物で有名な信楽町がある。
甲賀市の発音は「こうがし」ではなく「こうかし」
それにちなんで甲賀コーラというご当地飲料がある
三重県伊賀市
面積:558平方キロ
人口:8万4000人
同じく平成の大合併で2004年(平成16年)に伊賀市となる。
服部半蔵は伊賀忍者ーーー徳川家に仕えていた(>_<)
松尾芭蕉も伊賀出身(なので忍者や幕府の隠密説あり)
甲賀コーラに対抗して忍ジャーエールを発売
参考までに平成の大合併が推進されたのは
平成11年(1999)から平成22年(2010)
世田谷区の面積が58平方キロで人口94万人だから、人口密度は100倍以上違うね。また大阪府の面積は1905平方キロなので、伊賀と甲賀だけでその半分になる。なおこれは現在の行政区分なので忍者が本拠地としていたエリアはもっと狭い範囲だったはず。
前回の冒頭に記した「いわゆる常識となっている事柄」に伊賀・甲賀は含まれない。それで鳥羽伏見のようなショックは受けなかったものの、でもやはりしばらくは凹んだかな。それに鳥羽を伊勢の地名と思ってしまうのは、ある程度は仕方ない面があっても(京都の鳥羽がマイナーすぎるからと責任転嫁)、甲賀=山梨はまったくもって私のアホさ加減が生み出した勘違い。だから穴があったら入りたかったのはこちらのほう。
ーーー続く (祇園精舎までなかなかたどり着けない)
wassho at 23:28|Permalink│Comments(0)│
2024年07月04日
祇園精舎の不覚 (鳥羽伏見の戦い編)
いわゆる常識となっている事柄でも、内容を勘違いしているのはままあること。このブログでも過去に「忍者とダ・ヴィンチ・コード」「皇居見物 そして、ああ勘違い」などで紹介してきた。
恥を忍んで(^^ゞ おさらいすると、
まずは幕末の「鳥羽伏見の戦い」。
歴史の授業では必ず習う薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦った内戦。その後の戊辰戦争の始まりでもある。実際には旧幕府軍が大阪から京都へ攻め上る戦いなのだが、なぜかそれを江戸から海路で三重県の鳥羽に入って一戦交え、その後に鈴鹿山脈を越えて京都の伏見でまた戦ったと勘違いしていた。しかし鳥羽伏見の鳥羽とは京都の地名(/o\)
勘違いした理由は伏見といえば京都でも、
鳥羽といえば伊勢にある鳥羽しか思い浮かばなかったから。
世間一般では伊勢志摩との表現が有名なものの、
鳥羽市は伊勢市と志摩市に挟まれた位置にある。
市全体が伊勢志摩国立公園に指定され、また海女さんが海に潜って真珠の入ったアコヤ貝を採ってくるショーをやっているミキモトの真珠島もあるところ。小学校の修学旅行でも訪れた。少なくとも関西では鳥羽は伊勢志摩とセットになった有名な観光地。それに対して京都の鳥羽なんて聞いたこともなかった。
地図は現在の京都市区分図。
中心となるのは中京区と下京区。
鳥羽伏見の戦いの当時、鳥羽は上鳥羽と下鳥羽があって、上鳥羽は地図で南区の「区」の文字があるあたり。名神の京都南インターの少し北側。下鳥羽はその下で現在は伏見区に入っている。
こちらは両軍の移動経路。画像はhttps://love-japanese-history.com/ikusa%EF%BD%B0tobahushiminotatakai/から引用
大阪から上ってきた旧幕府軍は淀の先で二手に分かれ、南下してきた新政府軍と交戦する。地図で示されている両軍が相まみえた左側の地点が鳥羽、右側が伏見であり、その地名をとって鳥羽伏見の戦い。
でもこの両地点は3kmも離れていない。実質的には同じエリアでの戦闘。記録では鳥羽からドンパチの音が聞こえたので伏見でも戦闘が始まったとある。
だったら鳥羽みたいなマイナーな地名は使わず「伏見の戦い」でいいじゃん!
ーーーと悔し紛れに常々思っている(^^ゞ
鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍が敗退し江戸城開城につながった経緯が重要なのであって、歴史の授業で戦闘場所までは習わない。多くの人が鳥羽伏見の戦いの名前くらいは知っていると思うが、どれくらいの人が鳥羽を京都の地名だと正しく認識しているのだろう。もし過半数を超えていたら落ち込むな(/o\)
ーーー続く
祇園精舎の話はまだちょっと先
恥を忍んで(^^ゞ おさらいすると、
まずは幕末の「鳥羽伏見の戦い」。
歴史の授業では必ず習う薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦った内戦。その後の戊辰戦争の始まりでもある。実際には旧幕府軍が大阪から京都へ攻め上る戦いなのだが、なぜかそれを江戸から海路で三重県の鳥羽に入って一戦交え、その後に鈴鹿山脈を越えて京都の伏見でまた戦ったと勘違いしていた。しかし鳥羽伏見の鳥羽とは京都の地名(/o\)
勘違いした理由は伏見といえば京都でも、
鳥羽といえば伊勢にある鳥羽しか思い浮かばなかったから。
世間一般では伊勢志摩との表現が有名なものの、
鳥羽市は伊勢市と志摩市に挟まれた位置にある。
市全体が伊勢志摩国立公園に指定され、また海女さんが海に潜って真珠の入ったアコヤ貝を採ってくるショーをやっているミキモトの真珠島もあるところ。小学校の修学旅行でも訪れた。少なくとも関西では鳥羽は伊勢志摩とセットになった有名な観光地。それに対して京都の鳥羽なんて聞いたこともなかった。
地図は現在の京都市区分図。
中心となるのは中京区と下京区。
鳥羽伏見の戦いの当時、鳥羽は上鳥羽と下鳥羽があって、上鳥羽は地図で南区の「区」の文字があるあたり。名神の京都南インターの少し北側。下鳥羽はその下で現在は伏見区に入っている。
こちらは両軍の移動経路。画像はhttps://love-japanese-history.com/ikusa%EF%BD%B0tobahushiminotatakai/から引用
大阪から上ってきた旧幕府軍は淀の先で二手に分かれ、南下してきた新政府軍と交戦する。地図で示されている両軍が相まみえた左側の地点が鳥羽、右側が伏見であり、その地名をとって鳥羽伏見の戦い。
でもこの両地点は3kmも離れていない。実質的には同じエリアでの戦闘。記録では鳥羽からドンパチの音が聞こえたので伏見でも戦闘が始まったとある。
だったら鳥羽みたいなマイナーな地名は使わず「伏見の戦い」でいいじゃん!
ーーーと悔し紛れに常々思っている(^^ゞ
鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍が敗退し江戸城開城につながった経緯が重要なのであって、歴史の授業で戦闘場所までは習わない。多くの人が鳥羽伏見の戦いの名前くらいは知っていると思うが、どれくらいの人が鳥羽を京都の地名だと正しく認識しているのだろう。もし過半数を超えていたら落ち込むな(/o\)
ーーー続く
祇園精舎の話はまだちょっと先
wassho at 19:06|Permalink│Comments(0)│
2024年03月02日
ウメよりも歴史の勉強になった?赤塚梅まつり
タイトルを微妙に変えて前回からの続き。
和太鼓のリズム、低音、爆音を楽しんでいて、
ふと振り返ると、
いつの間にか武者行列の参加者が待機中。
正式タイトルは「赤塚城 戦国絵巻 武者行列」。
前回に書いた記念撮影の様子でもわかるようにメンバーの多くは子供。
メガネを掛けているお姫様の二人は姉妹かな。
小さな武者姿が可愛い。
この鎧や兜はボンテックスという樹脂をしみこませた紙で作られていて軽いらしい。各地の武者行列などではよく使われている素材のようだ。本物と並べれば違うとしても、見た目には紙製とはまったく思えず特に違和感もなし。もっとも本物を見慣れていないせいもあるが。
そろそろ始まりそう。
赤塚城本丸跡の石碑と説明看板。
武蔵千葉氏? 誰それ?
とりあえず最後の文節「正確はことはまだ明らかに〜」が「正確な」の書き間違いなのはわかった。この看板が立てられたのは平成13年3月。つまり約22年前。その間に誰も注意する人いなかったの? 何をしている板橋区教育委員会(/o\)
さて調べてみると武蔵千葉氏とは平氏をルーツとする一門。そうと書くと、アレッ?平家は壇ノ浦で滅亡したのでは?それがいつかはよく覚えていないけれどイイクニツクロウの前なのは確か。なのにここには1400年から1500年代の話が書いているじゃないかーーーと思われるかも知れない。(参考までに平家が滅亡した壇ノ浦の戦いは1185年)
意外と知られていないというか意識されていないものの、
平氏と平家は同じではない。記号で示せば平氏 > 平家となる。
平氏は都をナクヨウグイスで平安京に遷都した桓武天皇(737年〜806年)の、孫の代の何名かが臣籍降下して平(たいら)の姓を与えられたのがその始まり。第1陣は825年から840年頃の話。平の文字にしたのは、おジイちゃんが造った平安京にちなんだもの。
古代の決まりでは天皇から直系の4世までが皇族。普通は2世と言えば子供を意味する。しかし皇族関連では親等と同じく子供を1世と数えるようで4世は玄孫(やしゃご)。当然ながら膨大な人数になる。例えば桓武天皇には側室を含めて5人の夫人との間に20人以上の子供がいた。男子はその半分で、成人できたのがさらに半分としても5人。それを当てはめて4世まで数えると5×5×5×5=625人になる。もちろんそれ以前の天皇の子孫もいるわけで。
朝廷としてはそんな人数を財政的に抱えきれないし、そのほとんどに皇位継承の可能性もない。それで皇族の身分を外し臣下として独り立ちさせたのが臣籍降下。その制度は古代からあり、特に桓武天皇(在位781〜806年)の時代から多くなったとされる。
さて50代天皇・桓武天皇の孫から始まった平氏を桓武平氏と呼ぶ。桓武と頭につけるのは他にも54代仁明天皇、55代文徳天皇、58代光孝天皇の子孫から平姓へ臣籍降下したグループがあるから。ただし桓武以外の天皇の平氏はほとんどが数代ほどで途絶えたので、平氏と言えば実質的に桓武平氏を示す。
最初の825年に臣籍降下したのは平高棟(たかむね)で、この系統は公家(貴族)として発展していく。平氏といえば武家としか学校では習わないけれど、そうでもないのだ。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は、この系統で高棟(たかむね)より10代後となる平時忠(ときただ)の言葉。
そして桓武天皇の孫(ひ孫説もあり)の高望王(たかもちおう:生没年不明)が、桓武天皇の9代後の宇多天皇から臣籍降下で平の姓を与えられ平高望となったのが889年。この系統が後に平氏の最大勢力になる。
平氏となった平高望(たかもち)は898年に上総国(かずさのくに:今の千葉県中央部)に行政長官として赴任する。この時点では公家。しかし任期が過ぎても帰京せず、その地に土着して豪族となり武士団を形成して勢力を周辺に伸ばす。理由は京都に戻っても藤原一族が要職を独占しているから。この平高望が武家としての平氏の始まり。
平高望の孫の平将門(まさかど)の代になると関東ほぼ全域を支配。東国(関東)を意味する坂東平氏の名で呼ばれた。(その時代にそう呼ばれていたかは知らない)
そうして勢力を拡大していた平氏であるが、時代が下って1028年に起きた平忠常の乱(ただつね:平高望のひ孫、母方の祖父として平将門にもつながる)が起き、朝廷から派遣された源頼信(頼朝の6代前の祖先)により平定され、坂東平氏は源氏の支配下に入る。源氏と平氏が一緒になってややこしいからか、この頃になると坂東平氏ではなく、坂東武者や坂東武士と呼び変えられるみたい。
939年に起きた平将門の乱と較べると日本史的にはマイナーな存在とはいえ、この平忠常の乱はその後の歴史に影響を与えるいろいろな要素を持っていたと思う。坂東平氏と源氏とのつながりができた以外にも、例えば源頼信の息子の頼義が後に鎌倉の領地を手に入れ、それで頼朝にとって鎌倉が先祖伝来の土地になった。逆に将門の乱はもともと平氏一族の内乱で関東の政治に大きな影響は与えていない。将門の首が京都から東京まで飛んでいかなければ、今ほど有名にはならなかったかも。
いずれにせよ源頼朝が幽閉されていた伊豆から抜け出して挙兵し、鎌倉幕府を樹立できたのはこの坂東平氏、すなわち平氏の協力があったから。話は逸れるが、源頼義は妻を平氏からもらっており(当時の感覚だと婿に入る)、だからその子孫の頼朝は平氏の血も流れていることになる。
話は変わって、平忠常(ただつね)と同じく平高望(たかもち)のひ孫の代にあたる平維衡(これひら)は、関東を離れて伊勢に地盤を築き伊勢平氏と呼ばれる系統となる。やがてその子孫は京都に戻り朝廷や貴族に仕える軍事貴族としての道を歩む。
その平維衡(これひら)の5代後に平清盛が出る。清盛は初代の平高望(たかもち)から数えれば平氏9代目となる世代。そして清盛が都で権力者として上り詰めると、平氏の中で清盛の近親者およびその周辺が平家と呼ばれるようになる。だから平氏 > 平家。平氏の中でもセレブな存在が平家ファミリー。「平家にあらずんば人にあらず」の平時忠は平高棟(たかむね)の子孫でまったく別系列だが、姉が清盛の後妻になったので義理の親戚として平家一門に加わった。それが嬉しくての発言?
この流れを考えると源平の戦いは源氏 vs 平家であるけれど、頼朝には坂東平氏が多く加担していたから平氏 vs 平家の戦いの側面も持つ。もっとも同じ平氏とはいえ、その頃になれば9代前のヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイじいちゃんが共通というだけなので、同じ一族としての感覚や連帯感は既になかったと思う。まさに坂東平氏ではなく坂東武者がそのアイデンティティだったのかも知れない。
ついでに計算すると平高望(たかもち)が千葉に来たのが898年で、頼朝の挙兵が1180年だから282年の年月が流れている。現在に置き換えれば2024 − 282 = 1742年で徳川吉宗の時代まで遡る。平家と坂東平氏はそれだけ遠い親戚。
ところで坂東平氏側はこの少し前の世代から、後述する千葉氏・上総氏・三浦氏などに名前を変えている。どうして桓武天皇につながる平の姓を捨てて千葉や上総などに変更するのだろう。少し調べたがヒントは見つけられず。この頃になれば一族の数は先ほどの掛け算のように加速度的に増えて「平さん」だらけになって区別が付かなくなるから? もう都から離れて長いので「平」の名前にステイタスを感じなくなったから? あるいは平忠常の乱以降の源氏の支配がさらに進んで、平姓では何かと不都合があって名前を変えたのか?そのうち調べましょう。
ただ清盛ほか平家側はすべて平姓。もし坂東平氏が名前を変えずに平姓のままだったら、平氏同士の戦いはどうにもやりづらく、頼朝の元にそんなに多く集まっていなかった可能性もある。そう考えると名前を変えてなければ歴史も違っていた? 別の表現をすれば名前が歴史を変えた? そんなことをあれこれモーソー中である。
平氏と平家の話が長くなった。
ようやく武者行列の武蔵千葉氏。
でもそろそろ飽きてきたから簡潔に(^^ゞ
まず千葉氏は先ほどの平忠常(ただつね)の家系から出た一族。忠常のひ孫の平常兼(つねかね)が初代とされ、その孫の常胤(つねたね)から平ではなく千葉常胤と名乗っている(諸説あり)。
ならば千葉とはこの一族の名前だったのかと思ってしまうが実際は逆。奈良時代の万葉集には既に「知波乃奴」=「千葉の野」とあり千葉の地名が確立していた。つまり地名を家の名前としたパターン。
そして千葉氏は坂東平氏の中でも中心的な坂東八平氏に名を連ねる。坂東八平氏とは千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の8部族。千葉氏3代目となる千葉常胤(つねたね)は頼朝挙兵にいち早く協力し、鎌倉幕府成立後に有力御家人となる。
これは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で岡本信人が演じた千葉常胤。
しかし鎌倉時代以前から一族内部での争いが絶えず(他の一族もほとんど同じだが)、とうとう室町時代中期の1455年に、16代当主を中心とする家族が拠点の千葉城を追放され、千葉北東部に逃れる。そこも攻撃されて一緒にいた16代当主の弟の息子兄弟だけが市川まで逃げ延びた。
1456年になるとそこも襲われて、当地まで逃げてきたのが看板に書いてあった内容。これにより千葉氏は、武蔵(東京)に逃げてきた武蔵千葉氏と、千葉に残った下総(しもふさ)千葉氏に区別される。まあ本家と元祖の対立のようなもの。
下総の位置。画像はhttps://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-1-2-53.htmlから引用
下総と上総(かずさ)の位置が地図では上下逆なのがややこしい。また地図の上部に上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)もある。これらの上・下は京の都に近い方が「上」を名乗ると考えられている。
やがて(小田原の)北条氏の配下に入るのも看板に書かれている。皮肉なことに武蔵千葉氏を追い出した下総千葉氏も戦国時代には自力で立ちゆかず、同じく北条氏の勢力下になり豊臣秀吉による小田原征伐を迎える。
これにより武蔵と下総の両千葉氏は滅亡した。滅亡と聞くと戦死や捉えられての処刑ですべて死んだような語感だが、戦国大名としての地位を失った、そして歴史の表舞台から姿を消したとの意味。壇ノ浦の戦いで滅亡した平家だって主要メンバーは戦死や入水自殺で死んだが、生き残って後世に子孫を残したものはいる。古代ローマ帝国の滅亡でローマ人全員が死んだのではないのと同じ。
入場していく武者行列。
千葉氏は初代の平常兼が1045年生まれで、小田原征伐が1590年だからその歴史は545年。坂東八平氏の中でも一時は最大勢力で房総平氏ともいわれたので、千葉県や千葉市は千葉氏へのリスペクトが高い。千葉市の市章は千葉氏の家紋をベースにしてるほど。
一方の武蔵千葉氏が赤塚城にやってきたのは1456年で、小田原征伐までこの地での歴史は134年。それほど長くないし、千葉氏から追われて落ち延びてきた以外に歴史上の存在感もない。それなのに21世紀の地元住民がこんなイベントをしてくれているなんて、感激あるいはビックリしているんじゃないかな。
武者行列の様子を少し見物して、
隣の梅林に戻る。
50〜60本くらいに思う。
何となくフワーッと天に伸びていく感じ。
梅林のほとんどは白梅。
奥の出入り口近くに少しピンクのもあった。
密集している部分を逆光で眺めると輝いて見えて幻想的。
観梅終了して城址地区から溜池に降りる。
赤塚溜池公園&赤塚公園の城址地区のウメは「質より量」でちょっと残念だったのは確か。しかし和太鼓や武者行列などイベントはとても楽しめた。梅祭り開催中で人出も多かったものの、何となく地元中心でアットホームな雰囲気が感じられたのも好印象だった。
おしまい
でもウメ以外の初めての板橋区散歩はまだ続く。
和太鼓のリズム、低音、爆音を楽しんでいて、
ふと振り返ると、
いつの間にか武者行列の参加者が待機中。
正式タイトルは「赤塚城 戦国絵巻 武者行列」。
前回に書いた記念撮影の様子でもわかるようにメンバーの多くは子供。
メガネを掛けているお姫様の二人は姉妹かな。
小さな武者姿が可愛い。
この鎧や兜はボンテックスという樹脂をしみこませた紙で作られていて軽いらしい。各地の武者行列などではよく使われている素材のようだ。本物と並べれば違うとしても、見た目には紙製とはまったく思えず特に違和感もなし。もっとも本物を見慣れていないせいもあるが。
そろそろ始まりそう。
赤塚城本丸跡の石碑と説明看板。
武蔵千葉氏? 誰それ?
とりあえず最後の文節「正確はことはまだ明らかに〜」が「正確な」の書き間違いなのはわかった。この看板が立てられたのは平成13年3月。つまり約22年前。その間に誰も注意する人いなかったの? 何をしている板橋区教育委員会(/o\)
さて調べてみると武蔵千葉氏とは平氏をルーツとする一門。そうと書くと、アレッ?平家は壇ノ浦で滅亡したのでは?それがいつかはよく覚えていないけれどイイクニツクロウの前なのは確か。なのにここには1400年から1500年代の話が書いているじゃないかーーーと思われるかも知れない。(参考までに平家が滅亡した壇ノ浦の戦いは1185年)
意外と知られていないというか意識されていないものの、
平氏と平家は同じではない。記号で示せば平氏 > 平家となる。
平氏は都をナクヨウグイスで平安京に遷都した桓武天皇(737年〜806年)の、孫の代の何名かが臣籍降下して平(たいら)の姓を与えられたのがその始まり。第1陣は825年から840年頃の話。平の文字にしたのは、おジイちゃんが造った平安京にちなんだもの。
古代の決まりでは天皇から直系の4世までが皇族。普通は2世と言えば子供を意味する。しかし皇族関連では親等と同じく子供を1世と数えるようで4世は玄孫(やしゃご)。当然ながら膨大な人数になる。例えば桓武天皇には側室を含めて5人の夫人との間に20人以上の子供がいた。男子はその半分で、成人できたのがさらに半分としても5人。それを当てはめて4世まで数えると5×5×5×5=625人になる。もちろんそれ以前の天皇の子孫もいるわけで。
朝廷としてはそんな人数を財政的に抱えきれないし、そのほとんどに皇位継承の可能性もない。それで皇族の身分を外し臣下として独り立ちさせたのが臣籍降下。その制度は古代からあり、特に桓武天皇(在位781〜806年)の時代から多くなったとされる。
さて50代天皇・桓武天皇の孫から始まった平氏を桓武平氏と呼ぶ。桓武と頭につけるのは他にも54代仁明天皇、55代文徳天皇、58代光孝天皇の子孫から平姓へ臣籍降下したグループがあるから。ただし桓武以外の天皇の平氏はほとんどが数代ほどで途絶えたので、平氏と言えば実質的に桓武平氏を示す。
最初の825年に臣籍降下したのは平高棟(たかむね)で、この系統は公家(貴族)として発展していく。平氏といえば武家としか学校では習わないけれど、そうでもないのだ。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は、この系統で高棟(たかむね)より10代後となる平時忠(ときただ)の言葉。
そして桓武天皇の孫(ひ孫説もあり)の高望王(たかもちおう:生没年不明)が、桓武天皇の9代後の宇多天皇から臣籍降下で平の姓を与えられ平高望となったのが889年。この系統が後に平氏の最大勢力になる。
平氏となった平高望(たかもち)は898年に上総国(かずさのくに:今の千葉県中央部)に行政長官として赴任する。この時点では公家。しかし任期が過ぎても帰京せず、その地に土着して豪族となり武士団を形成して勢力を周辺に伸ばす。理由は京都に戻っても藤原一族が要職を独占しているから。この平高望が武家としての平氏の始まり。
平高望の孫の平将門(まさかど)の代になると関東ほぼ全域を支配。東国(関東)を意味する坂東平氏の名で呼ばれた。(その時代にそう呼ばれていたかは知らない)
そうして勢力を拡大していた平氏であるが、時代が下って1028年に起きた平忠常の乱(ただつね:平高望のひ孫、母方の祖父として平将門にもつながる)が起き、朝廷から派遣された源頼信(頼朝の6代前の祖先)により平定され、坂東平氏は源氏の支配下に入る。源氏と平氏が一緒になってややこしいからか、この頃になると坂東平氏ではなく、坂東武者や坂東武士と呼び変えられるみたい。
939年に起きた平将門の乱と較べると日本史的にはマイナーな存在とはいえ、この平忠常の乱はその後の歴史に影響を与えるいろいろな要素を持っていたと思う。坂東平氏と源氏とのつながりができた以外にも、例えば源頼信の息子の頼義が後に鎌倉の領地を手に入れ、それで頼朝にとって鎌倉が先祖伝来の土地になった。逆に将門の乱はもともと平氏一族の内乱で関東の政治に大きな影響は与えていない。将門の首が京都から東京まで飛んでいかなければ、今ほど有名にはならなかったかも。
いずれにせよ源頼朝が幽閉されていた伊豆から抜け出して挙兵し、鎌倉幕府を樹立できたのはこの坂東平氏、すなわち平氏の協力があったから。話は逸れるが、源頼義は妻を平氏からもらっており(当時の感覚だと婿に入る)、だからその子孫の頼朝は平氏の血も流れていることになる。
話は変わって、平忠常(ただつね)と同じく平高望(たかもち)のひ孫の代にあたる平維衡(これひら)は、関東を離れて伊勢に地盤を築き伊勢平氏と呼ばれる系統となる。やがてその子孫は京都に戻り朝廷や貴族に仕える軍事貴族としての道を歩む。
その平維衡(これひら)の5代後に平清盛が出る。清盛は初代の平高望(たかもち)から数えれば平氏9代目となる世代。そして清盛が都で権力者として上り詰めると、平氏の中で清盛の近親者およびその周辺が平家と呼ばれるようになる。だから平氏 > 平家。平氏の中でもセレブな存在が平家ファミリー。「平家にあらずんば人にあらず」の平時忠は平高棟(たかむね)の子孫でまったく別系列だが、姉が清盛の後妻になったので義理の親戚として平家一門に加わった。それが嬉しくての発言?
この流れを考えると源平の戦いは源氏 vs 平家であるけれど、頼朝には坂東平氏が多く加担していたから平氏 vs 平家の戦いの側面も持つ。もっとも同じ平氏とはいえ、その頃になれば9代前のヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイじいちゃんが共通というだけなので、同じ一族としての感覚や連帯感は既になかったと思う。まさに坂東平氏ではなく坂東武者がそのアイデンティティだったのかも知れない。
ついでに計算すると平高望(たかもち)が千葉に来たのが898年で、頼朝の挙兵が1180年だから282年の年月が流れている。現在に置き換えれば2024 − 282 = 1742年で徳川吉宗の時代まで遡る。平家と坂東平氏はそれだけ遠い親戚。
ところで坂東平氏側はこの少し前の世代から、後述する千葉氏・上総氏・三浦氏などに名前を変えている。どうして桓武天皇につながる平の姓を捨てて千葉や上総などに変更するのだろう。少し調べたがヒントは見つけられず。この頃になれば一族の数は先ほどの掛け算のように加速度的に増えて「平さん」だらけになって区別が付かなくなるから? もう都から離れて長いので「平」の名前にステイタスを感じなくなったから? あるいは平忠常の乱以降の源氏の支配がさらに進んで、平姓では何かと不都合があって名前を変えたのか?そのうち調べましょう。
ただ清盛ほか平家側はすべて平姓。もし坂東平氏が名前を変えずに平姓のままだったら、平氏同士の戦いはどうにもやりづらく、頼朝の元にそんなに多く集まっていなかった可能性もある。そう考えると名前を変えてなければ歴史も違っていた? 別の表現をすれば名前が歴史を変えた? そんなことをあれこれモーソー中である。
平氏と平家の話が長くなった。
ようやく武者行列の武蔵千葉氏。
でもそろそろ飽きてきたから簡潔に(^^ゞ
まず千葉氏は先ほどの平忠常(ただつね)の家系から出た一族。忠常のひ孫の平常兼(つねかね)が初代とされ、その孫の常胤(つねたね)から平ではなく千葉常胤と名乗っている(諸説あり)。
ならば千葉とはこの一族の名前だったのかと思ってしまうが実際は逆。奈良時代の万葉集には既に「知波乃奴」=「千葉の野」とあり千葉の地名が確立していた。つまり地名を家の名前としたパターン。
そして千葉氏は坂東平氏の中でも中心的な坂東八平氏に名を連ねる。坂東八平氏とは千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の8部族。千葉氏3代目となる千葉常胤(つねたね)は頼朝挙兵にいち早く協力し、鎌倉幕府成立後に有力御家人となる。
これは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で岡本信人が演じた千葉常胤。
しかし鎌倉時代以前から一族内部での争いが絶えず(他の一族もほとんど同じだが)、とうとう室町時代中期の1455年に、16代当主を中心とする家族が拠点の千葉城を追放され、千葉北東部に逃れる。そこも攻撃されて一緒にいた16代当主の弟の息子兄弟だけが市川まで逃げ延びた。
1456年になるとそこも襲われて、当地まで逃げてきたのが看板に書いてあった内容。これにより千葉氏は、武蔵(東京)に逃げてきた武蔵千葉氏と、千葉に残った下総(しもふさ)千葉氏に区別される。まあ本家と元祖の対立のようなもの。
下総の位置。画像はhttps://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-1-2-53.htmlから引用
下総と上総(かずさ)の位置が地図では上下逆なのがややこしい。また地図の上部に上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)もある。これらの上・下は京の都に近い方が「上」を名乗ると考えられている。
やがて(小田原の)北条氏の配下に入るのも看板に書かれている。皮肉なことに武蔵千葉氏を追い出した下総千葉氏も戦国時代には自力で立ちゆかず、同じく北条氏の勢力下になり豊臣秀吉による小田原征伐を迎える。
これにより武蔵と下総の両千葉氏は滅亡した。滅亡と聞くと戦死や捉えられての処刑ですべて死んだような語感だが、戦国大名としての地位を失った、そして歴史の表舞台から姿を消したとの意味。壇ノ浦の戦いで滅亡した平家だって主要メンバーは戦死や入水自殺で死んだが、生き残って後世に子孫を残したものはいる。古代ローマ帝国の滅亡でローマ人全員が死んだのではないのと同じ。
入場していく武者行列。
千葉氏は初代の平常兼が1045年生まれで、小田原征伐が1590年だからその歴史は545年。坂東八平氏の中でも一時は最大勢力で房総平氏ともいわれたので、千葉県や千葉市は千葉氏へのリスペクトが高い。千葉市の市章は千葉氏の家紋をベースにしてるほど。
一方の武蔵千葉氏が赤塚城にやってきたのは1456年で、小田原征伐までこの地での歴史は134年。それほど長くないし、千葉氏から追われて落ち延びてきた以外に歴史上の存在感もない。それなのに21世紀の地元住民がこんなイベントをしてくれているなんて、感激あるいはビックリしているんじゃないかな。
武者行列の様子を少し見物して、
隣の梅林に戻る。
50〜60本くらいに思う。
何となくフワーッと天に伸びていく感じ。
梅林のほとんどは白梅。
奥の出入り口近くに少しピンクのもあった。
密集している部分を逆光で眺めると輝いて見えて幻想的。
観梅終了して城址地区から溜池に降りる。
赤塚溜池公園&赤塚公園の城址地区のウメは「質より量」でちょっと残念だったのは確か。しかし和太鼓や武者行列などイベントはとても楽しめた。梅祭り開催中で人出も多かったものの、何となく地元中心でアットホームな雰囲気が感じられたのも好印象だった。
おしまい
でもウメ以外の初めての板橋区散歩はまだ続く。
wassho at 22:01|Permalink│Comments(0)│
2023年11月06日
代々木公園の歴史とジャニー喜多川 その2
話をワシントンハイツに戻す。
現在とワシントンハイツがあった頃の航空写真の比較。
代々木に出現したアメリカの街。
画像はhttps://fm-tohnet.sitekitt.com/blog/2229より引用。
これらのクルマはワシントンハイツの外、つまり東京都内を走っていたはずなのに、あまりそういう光景の写真を見たことがない。でも昭和40年代前半まで外車の人気がアメ車>ベンツの時代があったわけで、それは進駐軍が乗り回すアメ車に日本人が憧れを抱いたからだと思う。
終戦直後は日本人が闇市で四苦八苦して買い物していた時代。
しかしここにはスーパーマーケットまで備わっていた。画像はhttp://www.asahi.com/special/sengo/visual/page7.htmlとhttps://friday.kodansha.co.jp/article/63115より引用。
そして「あの」ジャニーさんが、
そんな別世界ワシントンハイツの住人だったと知る。
世間を騒がしている性加害問題については、あまり興味を持っていなくて見出しを読む程度。それでも相当な情報量になるから、いかにこの問題が大量に報じられているかである。騒動が大きくなったのは今年の5月頃から。9月7日と10月2日に記者会見が開かれてからは一挙にマスコミがヒートアップ。後者では特定の記者を指名しないようにする「NGリスト」の存在などもあって炎上に燃料投下。最近ようやくネットニュースを開いたら見出し全部がジャニーズ関連ということがなくなって少しホッとしている。
なので芸能人の皆さん、オイタをするならジャニーズ問題に注目が集まっている今がチャンスですぞ。広末涼子はジャニーさんの墓参りに行くべき(^^ゞ
ところで彼は会話に「You」が入るので有名だし、ジャニーって名前も使っているからアメリカかぶれしたオッサンだと思っていた。しかし実はアメリカ生まれで英語名のJohn Hiromu Kitagawaがその由来。
意外にも父親は高野山の僧侶。ロサンゼルスで1912年(大正元年)から続く高野山米国別院の第3代主監(住職?)を1924年(大正13年)から33年(昭和8年)まで務める。なかなかの人物で日系人社会から慕われ尊敬されていたようだ。また親戚には児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義(たかよし)もいる。大谷は公の場にほとんど姿を現さないので有名ではないものの、彼が亡くなると葬儀委員長を元総理大臣の福田赳夫が務めたのだからその大物ぶりが伺い知れる。
父親の米国赴任中にジャニーさんは1931年(昭和6年)にロサンゼルスで生まれる。そして一家で1933年に帰国後、戦争中は兄弟で和歌山に疎開(前述の大谷氏の実家)。だから彼はアメリカ生まれの関西育ち。
終戦から4年後の1949年(昭和24年)に、同じくアメリカで生まれアメリカ国籍(いわゆる二重国籍)も持っている姉のメリー喜多川、兄の喜多川真一と共に渡米。高校〜短大(コミュニティーカレッジ)へと進む。1952年(昭和27年)に徴兵され朝鮮戦争に従軍。
そして除隊後、アメリカ大使館付きの軍事援助顧問団職員として来日。その関係でワシントンハイツに住んでいたと思われる。正確な時期はわからなかったものの、たぶん1953年か1954年(昭和29年)あたり。ジャニーズ事務所設立は1962年(昭和37年)で、その頃には軍事援助顧問団を辞めていたはずだから、大体7〜8年ほど住んでいたのかな。別の見方をすれば渡米した1949年から1960年頃までの10年間ちょっとは、アメリカ人のジャニー喜多川として生活していた。
軍事援助顧問団でどんな仕事をしていたのかは知らないが、休日には近所の少年30名ほどを集めて野球チームを作りコーチをしていた。えっ、ひょっとしてその頃から子供相手にヤッテタ?(/o\)
そのチームは最初「エラーズ」や「ヘターズ」などのヘンな名前だった。それでは格好悪いのでチームのメンバーだったあおい輝彦が「ジャニーさんのチームだからジャニーズ」と提案してジャニーズ少年野球団となり、それが後のジャニーズ事務所の名前にもつながる。あおい輝彦はジャニーズ少年野球団からジャニーズ事務所所属となり「初代ジャニーズ」を結成した4名のひとり。結果的にはブランド名としてのジャニーズの名付け親ともいえる。
写真はグレーの建物がオリンピックの翌年となる1965年(昭和40年)竣工で、日本初の億ションといわれるコープオリンピア。隣のレンガ色がマンション31。表参道の最も原宿駅寄り、すなわち元ワシントンハイツだった代々木公園のすぐ近くに建っている。
以前はこの両方にジャニーズの合宿所(寮)があったとは知る人ぞ知るだった。事件の影響でもう今は多くの人が知っているかな。 芸能人の寮なのにどうしてこんな目立つ場所にと、昔から思っていたけれどジャニーさんの原点がワシントンハイツだったからかもと想像している。
さてジャニー喜多川とメリー喜多川の姉弟は、アメリカ生まれで英語名も持っていたからジャニーやメリーの名前もそれなりに根拠がある。メリー喜多川の娘である藤島ジュリー景子の国籍はわからなかった。彼女が日本生まれでも、メリーさんがアメリカ国籍を放棄していなければ、アメリカ人の娘としてアメリカ国籍を取得している可能性はある。
ただし日本の法律ではミドルネームを持てない。それでアメリカで生まれたメリーさんはアメリカ国籍にはMary Yasuko Kitagawa、日本国籍には喜多川メリー泰子で出生届けをしたようだ。つまりファーストネームとミドルネームが合体した「メリー泰子」でひとつの名前。将来アメリカ国籍を放棄しても、西洋名があった方が海外で活動する際に便利と考えたからと思われる。後に結婚して本名は藤島メリー泰子。そして娘にも同じ発想で「ジュリー景子」と名付けた。
そんな名前の付け方があるのかと思ったが、考えてみれば日本に帰化したサッカー選手の田中マルクス闘莉王(トゥーリオ)と同じだね。ミドルネームを持つ外国人が日本国籍を取得する際にはよく使われる手法なのかもしれない。なおジャニーさんは日本国籍での届けにJohn Hiromu KitagawaのJohnは使わず、普通に喜多川 擴(ひろむ)としている。だからメリーさんと違ってジャニーは本名じゃなくてニックネーム。両親はどうして姉弟で使い分けたのだろう。
ところでジャニーさんの英語名のJohn。この名前のオリジナルはJohannes(ヨハネ)でその英語読み。Johanneは英語ではジョン、ドイツ語ではヨハン、フランス語ではジャン、イタリア語ではジョバンニである。ヨハン・セバスチャン・バッハとジョン・レノンが実は同じ名前。そのJohnを親しみを込めて呼ぶ場合にJohnny、Johnnieなどとなる。
しかしJohnはジョンだしJohnnyはジョニーのはず。どうしてジャニー喜多川でありジャニーズ事務所なのか。実はJohnやJohnnyの発音はイギリス英語とアメリカ英語では微妙に違う。
John イギリス発音:dʒˈɔn アメリカ発音:dʒάn
Johnny イギリス発音:dʒˈɔni アメリカ発音:dʒάni
発音記号では ɔ と ά の違い。カタカナで割り切って書くとイギリス発音がジョンやジョニー、アメリカ発音ではそれがジャンやジャニーになる。彼はアメリカ生まれだからカタカナではジャニーを名乗ったのだと思う。発音を聴き分けたいならここをクリック。
そしてこれを確かめるために辞書を引いて初めて知ったのだが、Johnには名前のほかになぜか「トイレや便座」の意味もある。「トイレはどこ?」を「Where is the john?」などと言うらしい。訪ねる相手がジョンさんだったら困るな(^^ゞ
また男性に多い名前だからだろうか「やつ、男」「売春婦の客」を指す言葉としても使われ、そしてなんと
オチンチン
の俗語でもある!
ジャニーはジャンの愛称だから、つまりかわいいオチンチン事務所?
喜多川クンの性癖に忠実な事務所のネーミングになっているじゃないか(^^ゞ
久々の下ネタで今回は締めるとしましょう。
シツレイシマシタm(_ _)m
おしまい
追伸
そういえばビッグジョンというジーンズのブランドもあるけどーーー
現在とワシントンハイツがあった頃の航空写真の比較。
代々木に出現したアメリカの街。
画像はhttps://fm-tohnet.sitekitt.com/blog/2229より引用。
これらのクルマはワシントンハイツの外、つまり東京都内を走っていたはずなのに、あまりそういう光景の写真を見たことがない。でも昭和40年代前半まで外車の人気がアメ車>ベンツの時代があったわけで、それは進駐軍が乗り回すアメ車に日本人が憧れを抱いたからだと思う。
終戦直後は日本人が闇市で四苦八苦して買い物していた時代。
しかしここにはスーパーマーケットまで備わっていた。画像はhttp://www.asahi.com/special/sengo/visual/page7.htmlとhttps://friday.kodansha.co.jp/article/63115より引用。
そして「あの」ジャニーさんが、
そんな別世界ワシントンハイツの住人だったと知る。
世間を騒がしている性加害問題については、あまり興味を持っていなくて見出しを読む程度。それでも相当な情報量になるから、いかにこの問題が大量に報じられているかである。騒動が大きくなったのは今年の5月頃から。9月7日と10月2日に記者会見が開かれてからは一挙にマスコミがヒートアップ。後者では特定の記者を指名しないようにする「NGリスト」の存在などもあって炎上に燃料投下。最近ようやくネットニュースを開いたら見出し全部がジャニーズ関連ということがなくなって少しホッとしている。
なので芸能人の皆さん、オイタをするならジャニーズ問題に注目が集まっている今がチャンスですぞ。広末涼子はジャニーさんの墓参りに行くべき(^^ゞ
ところで彼は会話に「You」が入るので有名だし、ジャニーって名前も使っているからアメリカかぶれしたオッサンだと思っていた。しかし実はアメリカ生まれで英語名のJohn Hiromu Kitagawaがその由来。
意外にも父親は高野山の僧侶。ロサンゼルスで1912年(大正元年)から続く高野山米国別院の第3代主監(住職?)を1924年(大正13年)から33年(昭和8年)まで務める。なかなかの人物で日系人社会から慕われ尊敬されていたようだ。また親戚には児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義(たかよし)もいる。大谷は公の場にほとんど姿を現さないので有名ではないものの、彼が亡くなると葬儀委員長を元総理大臣の福田赳夫が務めたのだからその大物ぶりが伺い知れる。
父親の米国赴任中にジャニーさんは1931年(昭和6年)にロサンゼルスで生まれる。そして一家で1933年に帰国後、戦争中は兄弟で和歌山に疎開(前述の大谷氏の実家)。だから彼はアメリカ生まれの関西育ち。
終戦から4年後の1949年(昭和24年)に、同じくアメリカで生まれアメリカ国籍(いわゆる二重国籍)も持っている姉のメリー喜多川、兄の喜多川真一と共に渡米。高校〜短大(コミュニティーカレッジ)へと進む。1952年(昭和27年)に徴兵され朝鮮戦争に従軍。
そして除隊後、アメリカ大使館付きの軍事援助顧問団職員として来日。その関係でワシントンハイツに住んでいたと思われる。正確な時期はわからなかったものの、たぶん1953年か1954年(昭和29年)あたり。ジャニーズ事務所設立は1962年(昭和37年)で、その頃には軍事援助顧問団を辞めていたはずだから、大体7〜8年ほど住んでいたのかな。別の見方をすれば渡米した1949年から1960年頃までの10年間ちょっとは、アメリカ人のジャニー喜多川として生活していた。
軍事援助顧問団でどんな仕事をしていたのかは知らないが、休日には近所の少年30名ほどを集めて野球チームを作りコーチをしていた。えっ、ひょっとしてその頃から子供相手にヤッテタ?(/o\)
そのチームは最初「エラーズ」や「ヘターズ」などのヘンな名前だった。それでは格好悪いのでチームのメンバーだったあおい輝彦が「ジャニーさんのチームだからジャニーズ」と提案してジャニーズ少年野球団となり、それが後のジャニーズ事務所の名前にもつながる。あおい輝彦はジャニーズ少年野球団からジャニーズ事務所所属となり「初代ジャニーズ」を結成した4名のひとり。結果的にはブランド名としてのジャニーズの名付け親ともいえる。
写真はグレーの建物がオリンピックの翌年となる1965年(昭和40年)竣工で、日本初の億ションといわれるコープオリンピア。隣のレンガ色がマンション31。表参道の最も原宿駅寄り、すなわち元ワシントンハイツだった代々木公園のすぐ近くに建っている。
以前はこの両方にジャニーズの合宿所(寮)があったとは知る人ぞ知るだった。事件の影響でもう今は多くの人が知っているかな。 芸能人の寮なのにどうしてこんな目立つ場所にと、昔から思っていたけれどジャニーさんの原点がワシントンハイツだったからかもと想像している。
さてジャニー喜多川とメリー喜多川の姉弟は、アメリカ生まれで英語名も持っていたからジャニーやメリーの名前もそれなりに根拠がある。メリー喜多川の娘である藤島ジュリー景子の国籍はわからなかった。彼女が日本生まれでも、メリーさんがアメリカ国籍を放棄していなければ、アメリカ人の娘としてアメリカ国籍を取得している可能性はある。
ただし日本の法律ではミドルネームを持てない。それでアメリカで生まれたメリーさんはアメリカ国籍にはMary Yasuko Kitagawa、日本国籍には喜多川メリー泰子で出生届けをしたようだ。つまりファーストネームとミドルネームが合体した「メリー泰子」でひとつの名前。将来アメリカ国籍を放棄しても、西洋名があった方が海外で活動する際に便利と考えたからと思われる。後に結婚して本名は藤島メリー泰子。そして娘にも同じ発想で「ジュリー景子」と名付けた。
そんな名前の付け方があるのかと思ったが、考えてみれば日本に帰化したサッカー選手の田中マルクス闘莉王(トゥーリオ)と同じだね。ミドルネームを持つ外国人が日本国籍を取得する際にはよく使われる手法なのかもしれない。なおジャニーさんは日本国籍での届けにJohn Hiromu KitagawaのJohnは使わず、普通に喜多川 擴(ひろむ)としている。だからメリーさんと違ってジャニーは本名じゃなくてニックネーム。両親はどうして姉弟で使い分けたのだろう。
ところでジャニーさんの英語名のJohn。この名前のオリジナルはJohannes(ヨハネ)でその英語読み。Johanneは英語ではジョン、ドイツ語ではヨハン、フランス語ではジャン、イタリア語ではジョバンニである。ヨハン・セバスチャン・バッハとジョン・レノンが実は同じ名前。そのJohnを親しみを込めて呼ぶ場合にJohnny、Johnnieなどとなる。
しかしJohnはジョンだしJohnnyはジョニーのはず。どうしてジャニー喜多川でありジャニーズ事務所なのか。実はJohnやJohnnyの発音はイギリス英語とアメリカ英語では微妙に違う。
John イギリス発音:dʒˈɔn アメリカ発音:dʒάn
Johnny イギリス発音:dʒˈɔni アメリカ発音:dʒάni
発音記号では ɔ と ά の違い。カタカナで割り切って書くとイギリス発音がジョンやジョニー、アメリカ発音ではそれがジャンやジャニーになる。彼はアメリカ生まれだからカタカナではジャニーを名乗ったのだと思う。発音を聴き分けたいならここをクリック。
そしてこれを確かめるために辞書を引いて初めて知ったのだが、Johnには名前のほかになぜか「トイレや便座」の意味もある。「トイレはどこ?」を「Where is the john?」などと言うらしい。訪ねる相手がジョンさんだったら困るな(^^ゞ
また男性に多い名前だからだろうか「やつ、男」「売春婦の客」を指す言葉としても使われ、そしてなんと
オチンチン
の俗語でもある!
ジャニーはジャンの愛称だから、つまりかわいいオチンチン事務所?
喜多川クンの性癖に忠実な事務所のネーミングになっているじゃないか(^^ゞ
久々の下ネタで今回は締めるとしましょう。
シツレイシマシタm(_ _)m
おしまい
追伸
そういえばビッグジョンというジーンズのブランドもあるけどーーー
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2023年11月04日
代々木公園の歴史とジャニー喜多川
先日、キンモクセイ目当てに訪れたら空振りで秋バラも見頃前だった代々木公園。そこがかつて陸軍の練兵場→米軍接収→オリンピックの選手村を経て公園になったとはそれなりに知っていた。それでもブログを書く前にいろいろ調べていたら、何かと興味深かったので回を改めて書いてみたのが今回のお話。
さて明治神宮と代々木公園は全国的な知名度があっても、訪れたことがなければ、その2つが隣接していると知らない人は多いかも知れない。航空写真で見ればまるでひとつの土地を分割したように思えるが、それぞれ別の成り立ちで現在に至っている。
明治神宮は江戸時代の最初は肥後藩、次いで彦根藩の大名屋敷だった土地。それが1874年(明治7年)に皇室御料地となり、明治天皇が亡くなって1920年(大正9年)に明治神宮が創建された。
代々木公園あたりも江戸時代には大名や旗本の屋敷があったエリア。しかし明治維新以降は茶畑・桑畑となる。江戸は大雑把に町民50万人+武士50万人で100万人都市だった。それが参勤交代で江戸に来ていた大名・武士達がいなくなったから。最大勢力の徳川家臣団も徳川慶喜に従って静岡に移った。明治維新の年に江戸は約4割も人口が減少したともいわれる。
もっとも明治9年には103万人となり100万人台を回復している。この時(1876年)の日本の総人口は3556万人。東京が占める割合は103万人÷3556万人で2.9%。現在の東京人口は1410万人で総人口は1億2434万人だから11.3%。いわゆる東京一極集中。これに千葉・埼玉・神奈川を加えると、現在は総人口の約3割が首都圏で暮らしている。参考までに東京都は47都道府県で3番目に面積が小さく、また首都圏1都3県が全国に占める面積割合は3.6%に過ぎない。
さて明治40年頃(明治は45年まで)になると東京の人口は250万人を超え、江戸の頃よりはるかに人が多くなる。にもかかわらず当時の東京の中心は皇居より東側だったからか、代々木は茶畑・桑畑のままだったようで、1909年(明治42年)に陸軍がその一帯を買い上げて代々木練兵場とした。ちなみに練兵場、今でいうなら軍事演習場は代々木以外に日比谷、青山、駒沢、駒場と都内に5箇所あった。戦前は東京のど真ん中で訓練してたんだ。
そして時代は下って1945年(昭和20年)に日本は太平洋戦争に敗戦。代々木練兵場は連合国に接収され、アメリカ初代大統領の名前を取ってワシントンハイツと呼ばれた進駐軍向けの住居が建てられる。総戸数827戸。
これは西側から撮ったもの。ワシントンハイツの左奥に明治神宮。
まさにフェンスの向こうのアメリカ。
東京のど真ん中にこんな光景があったなんて。
(クルマのナンバープレートを見ればここが日本だと分かる)。画像はhttps://shibuya90th.magazineworld.jp/history/459/とhttps://transit.ne.jp/2012/08/000547.htmlから引用
1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本の占領は終了するものの、同時に発効した日米安保条約によって米軍が引き続き駐留。ワシントンハイツもそのまま使われる。使用期間は無期限だった。
しかし1961年(昭和36年)、3年後の1964年に開催される東京オリンピックの選手村・競技場用地として日本に返還が決まる。返還完了は1964年(昭和39年)8月12日。10月10日からのオリンピック開催59日前。
代々木練兵場=ワシントンハイツの敷地がどこまで広がっていたのか、調べても正確なところはよく分からなかったが、少なくとも現在の
代々木公園
国立オリンピック記念青少年総合センター(通称はオリンピックセンター)
国立代々木競技場
NHK
は、その範囲に含まれる。
返還が完了した8月12日とは最終的な手続きの話で、引き渡し作業自体はもっと前から始まっていたと思う。それでも代々木競技場の着工はオリンピック前年の1963年2月。1964年7月以降は24時間体制の突貫工事を続け、完成したのはオリンピックの39日前。
NHKはオリンピックの放送センターを設置するため、そして将来の本部予定地として国にワシントンハイツの一部を払い下げるように求めて認められた。現在もここにあるNHK施設全般をNHK放送センターと呼ぶのはその名残なのだろうか。NHKがこちらに完全移転したのは1973年(昭和48年)で、それまでの本部は日比谷にあった。その頃はまだ子供だったしNHKに日比谷のイメージはまったくないなあ。
そして現在の代々木公園と国立オリンピック記念青少年総合センターのエリアはオリンピックの選手村となる。つまり1964年東京オリンピックの選手村は米軍住宅のリフォーム物件。SDGsが叫ばれた2021年の東京オリンピックよりエコだったりして(^^ゞ
ワシントンハイツの返還に伴い、米軍住宅を調布に移転する費用は日本の全額負担であった。金額は90億円。2020年基準の消費者物価指数は1964年が22.5、2023年が102.7である。そして102.7÷22.5=4.6だから、当時の90億円は今の400億円くらいかな。
なお1964年オリンピックの開催経費は265億円。移転費用もオリンピック経費と考えて90億円÷(90億円+265億円)を計算すると、移転費用は全体の25%を占める。
参考までに2021年東京オリンピックの開催経費は1兆4238億円。1964年の265億円を今の価値として4.6倍の1200億円と換算すると、2021年オリンピックは1964年と較べてなんと12倍も費用がかかっている(/o\)
ちょっと話がそれたが、その米軍移転費用の90億円は国と東京都が折半して負担した。それで元陸軍練兵場=国有地の大半を東京都が取得して代々木公園が造られたようだ。元ワシントンハイツの選手村を撤去して、公園が開園したのはオリンピックから3年後の1967年(昭和42年)。私と同世代なら森永チョコボールとリカちゃん人形が発売された年といえばイメージできるかも。
それしても都市環境意識なんてまだ希薄だった時代なのに、これだけの広い面積をよく丸ごと公園にできたものだと感心する。私が東京都知事だったら代々木ヒルズに再開発していた気がするな(^^ゞ
ーーー続く
ジャニーさんの話は次回に
さて明治神宮と代々木公園は全国的な知名度があっても、訪れたことがなければ、その2つが隣接していると知らない人は多いかも知れない。航空写真で見ればまるでひとつの土地を分割したように思えるが、それぞれ別の成り立ちで現在に至っている。
明治神宮は江戸時代の最初は肥後藩、次いで彦根藩の大名屋敷だった土地。それが1874年(明治7年)に皇室御料地となり、明治天皇が亡くなって1920年(大正9年)に明治神宮が創建された。
代々木公園あたりも江戸時代には大名や旗本の屋敷があったエリア。しかし明治維新以降は茶畑・桑畑となる。江戸は大雑把に町民50万人+武士50万人で100万人都市だった。それが参勤交代で江戸に来ていた大名・武士達がいなくなったから。最大勢力の徳川家臣団も徳川慶喜に従って静岡に移った。明治維新の年に江戸は約4割も人口が減少したともいわれる。
もっとも明治9年には103万人となり100万人台を回復している。この時(1876年)の日本の総人口は3556万人。東京が占める割合は103万人÷3556万人で2.9%。現在の東京人口は1410万人で総人口は1億2434万人だから11.3%。いわゆる東京一極集中。これに千葉・埼玉・神奈川を加えると、現在は総人口の約3割が首都圏で暮らしている。参考までに東京都は47都道府県で3番目に面積が小さく、また首都圏1都3県が全国に占める面積割合は3.6%に過ぎない。
さて明治40年頃(明治は45年まで)になると東京の人口は250万人を超え、江戸の頃よりはるかに人が多くなる。にもかかわらず当時の東京の中心は皇居より東側だったからか、代々木は茶畑・桑畑のままだったようで、1909年(明治42年)に陸軍がその一帯を買い上げて代々木練兵場とした。ちなみに練兵場、今でいうなら軍事演習場は代々木以外に日比谷、青山、駒沢、駒場と都内に5箇所あった。戦前は東京のど真ん中で訓練してたんだ。
そして時代は下って1945年(昭和20年)に日本は太平洋戦争に敗戦。代々木練兵場は連合国に接収され、アメリカ初代大統領の名前を取ってワシントンハイツと呼ばれた進駐軍向けの住居が建てられる。総戸数827戸。
これは西側から撮ったもの。ワシントンハイツの左奥に明治神宮。
まさにフェンスの向こうのアメリカ。
東京のど真ん中にこんな光景があったなんて。
(クルマのナンバープレートを見ればここが日本だと分かる)。画像はhttps://shibuya90th.magazineworld.jp/history/459/とhttps://transit.ne.jp/2012/08/000547.htmlから引用
1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本の占領は終了するものの、同時に発効した日米安保条約によって米軍が引き続き駐留。ワシントンハイツもそのまま使われる。使用期間は無期限だった。
しかし1961年(昭和36年)、3年後の1964年に開催される東京オリンピックの選手村・競技場用地として日本に返還が決まる。返還完了は1964年(昭和39年)8月12日。10月10日からのオリンピック開催59日前。
代々木練兵場=ワシントンハイツの敷地がどこまで広がっていたのか、調べても正確なところはよく分からなかったが、少なくとも現在の
代々木公園
国立オリンピック記念青少年総合センター(通称はオリンピックセンター)
国立代々木競技場
NHK
は、その範囲に含まれる。
返還が完了した8月12日とは最終的な手続きの話で、引き渡し作業自体はもっと前から始まっていたと思う。それでも代々木競技場の着工はオリンピック前年の1963年2月。1964年7月以降は24時間体制の突貫工事を続け、完成したのはオリンピックの39日前。
NHKはオリンピックの放送センターを設置するため、そして将来の本部予定地として国にワシントンハイツの一部を払い下げるように求めて認められた。現在もここにあるNHK施設全般をNHK放送センターと呼ぶのはその名残なのだろうか。NHKがこちらに完全移転したのは1973年(昭和48年)で、それまでの本部は日比谷にあった。その頃はまだ子供だったしNHKに日比谷のイメージはまったくないなあ。
そして現在の代々木公園と国立オリンピック記念青少年総合センターのエリアはオリンピックの選手村となる。つまり1964年東京オリンピックの選手村は米軍住宅のリフォーム物件。SDGsが叫ばれた2021年の東京オリンピックよりエコだったりして(^^ゞ
ワシントンハイツの返還に伴い、米軍住宅を調布に移転する費用は日本の全額負担であった。金額は90億円。2020年基準の消費者物価指数は1964年が22.5、2023年が102.7である。そして102.7÷22.5=4.6だから、当時の90億円は今の400億円くらいかな。
なお1964年オリンピックの開催経費は265億円。移転費用もオリンピック経費と考えて90億円÷(90億円+265億円)を計算すると、移転費用は全体の25%を占める。
参考までに2021年東京オリンピックの開催経費は1兆4238億円。1964年の265億円を今の価値として4.6倍の1200億円と換算すると、2021年オリンピックは1964年と較べてなんと12倍も費用がかかっている(/o\)
ちょっと話がそれたが、その米軍移転費用の90億円は国と東京都が折半して負担した。それで元陸軍練兵場=国有地の大半を東京都が取得して代々木公園が造られたようだ。元ワシントンハイツの選手村を撤去して、公園が開園したのはオリンピックから3年後の1967年(昭和42年)。私と同世代なら森永チョコボールとリカちゃん人形が発売された年といえばイメージできるかも。
それしても都市環境意識なんてまだ希薄だった時代なのに、これだけの広い面積をよく丸ごと公園にできたものだと感心する。私が東京都知事だったら代々木ヒルズに再開発していた気がするな(^^ゞ
ーーー続く
ジャニーさんの話は次回に
wassho at 21:55|Permalink│Comments(0)│
2023年10月11日
東郷神社を初訪問 その6 イケメン
「その4」に書いたように、東郷平八郎が指揮した日本海海戦は圧倒的な勝利に終わった。連合艦隊出撃108隻で沈められたのは主力でない小型艦艇わずか3隻。一方のバルチック艦隊は38隻のうち自沈を含めて21隻が沈んでいる。沈没率を計算すると3%対55%。戦闘は2日間にわたって繰り広げられたが、実際には開戦後30分であらかたの決着がつき、それ以降は「落ち武者狩り」のような状況だったとされる。
また陸戦でも相当な損害を出したもののロシア軍が立てこもっていた旅順を陥落させ、続く奉天の会戦でもロシア軍は撤退。なお時系列的には旅順→奉天→日本海の順。最終的にアメリカの仲介を受けて1905年(明治38年)9月5日に講和が成り立つ。授業で習った記憶のあるポーツマス条約。これで約1年と7ヶ月続いた日露戦争が終結。
日本は戦争での国力消耗がほぼ限界で、またロシアは革命が起きて国内が混乱するなど、双方にとってちょうどいい潮時のタイミングだったのかも知れない。講和=手打ちになっただけで、太平洋戦争での日本のようにロシアが降伏したわけではないのだが、全世界的にこの戦争は日本の勝利と認識された。
そして日露戦争で日本が勝ったニュースは各国に衝撃を与える。
それは
小国日本が大国ロシアに勝った(面積の話じゃなく国力の差)
黄色人種が白人に勝った
から。
その受け止め方は各国の状況に応じて様々。
イギリス:ロシアと対立していたので「ロシアざまあ」な反応。
日英同盟を結んでいたイギリスは、バルチック艦隊の補給を
妨害するなど陰に日向に日本を支援していて、
その協力がなければ日本海海戦の勝利もなかったとされる。
ただし日本が勝つとは思っておらず、最後は自らが仲介に乗り出して
漁夫の利で中国の利権を拡大しようと考えていたので、ちょっと
ガッカリしたとも。
フランス:ロシアとつながりが深かったので悲観ムード。
アメリカ:日本の海軍力に警戒感を強める。
そして欧米列強の支配を受けていたアジアの国々では大絶賛! また後年に数多くの政治指導者が「日露戦争での日本の勝利が励ましになった」との言葉を残している。一例を挙げるとネルー(インド初代首相)、孫文(中国革命の父)、バー・モウ(ビルマの独立指導者)、ファン・ボイ・チャウ(ベトナムの独立指導者)など。ただしやがて日本が東南アジアを支配するようになってガッカリさせてしまうのだが。
最も熱狂的に日露戦争勝利を喜んだのはトルコ(この頃はオスマン帝国)。それは当時トルコがロシアの属領になっていたから。上は皇帝から下は庶民まで日本を応援したといわれる。そして子供の名前にトーゴーと付ける人まで多くいたとか。でも東郷は苗字だから、名付けるならヘイハチローなんだけどな(^^ゞ
話はそれるが東郷=TOGOは分解するとto go。toは発音がtwoに似ている。それでイギリス留学時代に寄宿舎で one go, two go, three goとからかわれていたとの記録を読んだ。面白そうなエピソードなのに、何と訳していいのか分からない(/o\)
なおto goはハンバーガーなどのお持ち帰りでも使う。テイクアウトはまったくの和製英語。それにしてもいかにも英語っぽい和製英語を誰が考えたのだろう。
ついでにプーチンはPutinでput inに分解できる。put inは中に入れる、挿入するとの意味があり、英語圏ではput in Putinと罵っているとかいないとか。日本語訳は書かないけれどジャニー喜多川さんがやってらっしゃった行為です(^^ゞ
さて
その日露戦争後も東郷平八郎の名声・人気は衰えることなく、米国タイム誌の表紙に日本人として初めて選ばれる。日露戦争終戦から25年後の1926年(昭和元年)の発行。
ちなみにタイム誌で過去に日本人が表紙を飾ったのは41回。ただし昭和天皇の6回など重複を除外し、さらに不特定多数の人物として取り上げられた例を除くと「カバーパーソン」となった日本人は31名。タイム誌は週刊誌で創刊は1923年3月3日。単純計算では今までに5249号を発行しているから日本人の存在感は超希薄。41回で計算しても登場率わずかに0.8%である。だからニュース雑誌タイムの表紙になると日本ではそれがニュースになる。なお31名には含まれていないがポケモンの号もあった。
また今年の5月にタイム誌の表紙を飾ったと話題になった岸田総理であるが、彼が掲載されたのは本国のタイム誌ではなくアジア版。過去3回掲載された安倍元総理も同じ。アジア版の表紙になった日本人は25名。
アジア版の創刊がいつなのかなぜかネットで調べてもヒットしなかった。ChatGPTに尋ねても同様だったが、英語で質問すると1993年と回答。ChatGPTしかソースがないのは不安だけれど、とりあえず1993年として、日付は中間を採って7月1日で計算すると現在までに1579号。アジア版でもダメダメな日本人(>_<)
ところで写真で見る東郷平八郎は次のようなものが多いかな。
左の写真は元帥と書かれているから65歳以上で撮られたもの。それ以前の写真に但し書きを入れた可能性もあるが。詳しい人なら勲章などで判断できるはず。それはともかく実にカッコイイし威厳がある。右側は同時期の撮影と思われるが、撮り方の影響なのか姿勢にやや年齢を感じる。カメラマンの腕前は大事だね。そして足元のマットはなくていいと思うゾ。
こちらはもっと若い頃。といっても制服の袖にラインが5本あるから大将の階級になってからのもの。そういう軍事オタク的知識はないものの、上の写真もラインが5本で、日本の元帥は階級としては大将だからとの判断。だとすると東郷平八郎が大将になったのは1904年で57歳だから、それ以降の撮影。明治時代の人にしては歳を取っても老け込んでいない印象。
めちゃイケメンなのに驚く。
そしてこの写真に着色したものを見つけた。
少し前の映画スターで、
これ以上にカッコよかった人はいた?レベル。画像はhttps://twitter.com/DigitalMixComp/status/1232291326714007552から引用
白黒でも顔は同じなのに、
カラーになるとリアルになってインパクトを増すものだと改めて感心したしだい。
お待たせしました!(誰も待っていないか)
よ〜〜〜やく東郷神社に話が戻るm(_ _)m
社殿エリアを離れて入口に戻る。東郷記念館コッチの案内があった。
これは資料館じゃなくレストランや結婚式場の施設なのでスルー。
鳥居まで向かう途中に庭園エリアがあるので、そちらに。
写真を拡大すると狛犬がやたらカクカクしているのが分かる。
これは狛犬ではなく獅子らしい。
獅子(しし)とはライオンがベースの架空の生物。実は狛犬(コマイヌ)も犬ベースの架空の生物。そして狛犬のルーツは獅子なのでまあ似たようなもの。
庭園には大きな池がある。
写真に写っている7名の内、浴衣を着ている女性を含めて4名は白人。他にもチラホラ見かけた。東郷神社は外国人に人気があるみたい。
池の後ろにあるのが東郷記念館。
周りを高いビルに囲まれてはいても、
明治通り・竹下通りの喧噪を忘れ去れる都会のオアシス的な場所。
喧噪から静寂へのワープ感覚という点では、すぐ近くの明治神宮にもちろん適わない。しかし明治神宮は広すぎて時間が掛かるから、原宿にいて手っ取り早く静寂に浸りたいなら東郷神社がオススメ。
<おまけ>
別に東郷平八郎ファンでも何でもないのだが、
彼ゆかりの場所には今まで他に2箇所訪れている。
まず2011年、バイクツーリングで立ち寄った三笠公園。
ここには日本海海戦で東郷が乗艦した戦艦三笠が保存されている。
記念艦として保存されたのは大正14年(1925年)。その後いろいろあって戦後はダンスホールや水族館などの施設になり、大砲や船の上部構造などは取り除かれている。
それが復元されたのは1961年(昭和36年)。外観はハリボテ感を隠せないところが見られるものの、船の内部も見学できるのでソコソコは楽しめる。
当時のブログページには ↓ から。
三笠公園について書いているのはページ後半。
「ブラブラと横浜・横須賀〜三崎」
次は2021年に、しだれ桜を見に出かけた調布市にある東郷寺。
東郷平八郎の別荘地跡に建てられたお寺で、彼とは直接の関係はない。
ここのしだれ桜はとても素晴らしい。
この景色が東京とは思えないでしょ。
当時のブログページには ↓ から。
「東郷寺でしだれ桜」
「東郷寺でしだれ桜 その2」
「東郷寺でしだれ桜 その3」
おしまい
また陸戦でも相当な損害を出したもののロシア軍が立てこもっていた旅順を陥落させ、続く奉天の会戦でもロシア軍は撤退。なお時系列的には旅順→奉天→日本海の順。最終的にアメリカの仲介を受けて1905年(明治38年)9月5日に講和が成り立つ。授業で習った記憶のあるポーツマス条約。これで約1年と7ヶ月続いた日露戦争が終結。
日本は戦争での国力消耗がほぼ限界で、またロシアは革命が起きて国内が混乱するなど、双方にとってちょうどいい潮時のタイミングだったのかも知れない。講和=手打ちになっただけで、太平洋戦争での日本のようにロシアが降伏したわけではないのだが、全世界的にこの戦争は日本の勝利と認識された。
そして日露戦争で日本が勝ったニュースは各国に衝撃を与える。
それは
小国日本が大国ロシアに勝った(面積の話じゃなく国力の差)
黄色人種が白人に勝った
から。
その受け止め方は各国の状況に応じて様々。
イギリス:ロシアと対立していたので「ロシアざまあ」な反応。
日英同盟を結んでいたイギリスは、バルチック艦隊の補給を
妨害するなど陰に日向に日本を支援していて、
その協力がなければ日本海海戦の勝利もなかったとされる。
ただし日本が勝つとは思っておらず、最後は自らが仲介に乗り出して
漁夫の利で中国の利権を拡大しようと考えていたので、ちょっと
ガッカリしたとも。
フランス:ロシアとつながりが深かったので悲観ムード。
アメリカ:日本の海軍力に警戒感を強める。
そして欧米列強の支配を受けていたアジアの国々では大絶賛! また後年に数多くの政治指導者が「日露戦争での日本の勝利が励ましになった」との言葉を残している。一例を挙げるとネルー(インド初代首相)、孫文(中国革命の父)、バー・モウ(ビルマの独立指導者)、ファン・ボイ・チャウ(ベトナムの独立指導者)など。ただしやがて日本が東南アジアを支配するようになってガッカリさせてしまうのだが。
最も熱狂的に日露戦争勝利を喜んだのはトルコ(この頃はオスマン帝国)。それは当時トルコがロシアの属領になっていたから。上は皇帝から下は庶民まで日本を応援したといわれる。そして子供の名前にトーゴーと付ける人まで多くいたとか。でも東郷は苗字だから、名付けるならヘイハチローなんだけどな(^^ゞ
話はそれるが東郷=TOGOは分解するとto go。toは発音がtwoに似ている。それでイギリス留学時代に寄宿舎で one go, two go, three goとからかわれていたとの記録を読んだ。面白そうなエピソードなのに、何と訳していいのか分からない(/o\)
なおto goはハンバーガーなどのお持ち帰りでも使う。テイクアウトはまったくの和製英語。それにしてもいかにも英語っぽい和製英語を誰が考えたのだろう。
ついでにプーチンはPutinでput inに分解できる。put inは中に入れる、挿入するとの意味があり、英語圏ではput in Putinと罵っているとかいないとか。日本語訳は書かないけれどジャニー喜多川さんがやってらっしゃった行為です(^^ゞ
さて
その日露戦争後も東郷平八郎の名声・人気は衰えることなく、米国タイム誌の表紙に日本人として初めて選ばれる。日露戦争終戦から25年後の1926年(昭和元年)の発行。
ちなみにタイム誌で過去に日本人が表紙を飾ったのは41回。ただし昭和天皇の6回など重複を除外し、さらに不特定多数の人物として取り上げられた例を除くと「カバーパーソン」となった日本人は31名。タイム誌は週刊誌で創刊は1923年3月3日。単純計算では今までに5249号を発行しているから日本人の存在感は超希薄。41回で計算しても登場率わずかに0.8%である。だからニュース雑誌タイムの表紙になると日本ではそれがニュースになる。なお31名には含まれていないがポケモンの号もあった。
また今年の5月にタイム誌の表紙を飾ったと話題になった岸田総理であるが、彼が掲載されたのは本国のタイム誌ではなくアジア版。過去3回掲載された安倍元総理も同じ。アジア版の表紙になった日本人は25名。
アジア版の創刊がいつなのかなぜかネットで調べてもヒットしなかった。ChatGPTに尋ねても同様だったが、英語で質問すると1993年と回答。ChatGPTしかソースがないのは不安だけれど、とりあえず1993年として、日付は中間を採って7月1日で計算すると現在までに1579号。アジア版でもダメダメな日本人(>_<)
ところで写真で見る東郷平八郎は次のようなものが多いかな。
左の写真は元帥と書かれているから65歳以上で撮られたもの。それ以前の写真に但し書きを入れた可能性もあるが。詳しい人なら勲章などで判断できるはず。それはともかく実にカッコイイし威厳がある。右側は同時期の撮影と思われるが、撮り方の影響なのか姿勢にやや年齢を感じる。カメラマンの腕前は大事だね。そして足元のマットはなくていいと思うゾ。
こちらはもっと若い頃。といっても制服の袖にラインが5本あるから大将の階級になってからのもの。そういう軍事オタク的知識はないものの、上の写真もラインが5本で、日本の元帥は階級としては大将だからとの判断。だとすると東郷平八郎が大将になったのは1904年で57歳だから、それ以降の撮影。明治時代の人にしては歳を取っても老け込んでいない印象。
めちゃイケメンなのに驚く。
そしてこの写真に着色したものを見つけた。
少し前の映画スターで、
これ以上にカッコよかった人はいた?レベル。画像はhttps://twitter.com/DigitalMixComp/status/1232291326714007552から引用
白黒でも顔は同じなのに、
カラーになるとリアルになってインパクトを増すものだと改めて感心したしだい。
お待たせしました!(誰も待っていないか)
よ〜〜〜やく東郷神社に話が戻るm(_ _)m
社殿エリアを離れて入口に戻る。東郷記念館コッチの案内があった。
これは資料館じゃなくレストランや結婚式場の施設なのでスルー。
鳥居まで向かう途中に庭園エリアがあるので、そちらに。
写真を拡大すると狛犬がやたらカクカクしているのが分かる。
これは狛犬ではなく獅子らしい。
獅子(しし)とはライオンがベースの架空の生物。実は狛犬(コマイヌ)も犬ベースの架空の生物。そして狛犬のルーツは獅子なのでまあ似たようなもの。
庭園には大きな池がある。
写真に写っている7名の内、浴衣を着ている女性を含めて4名は白人。他にもチラホラ見かけた。東郷神社は外国人に人気があるみたい。
池の後ろにあるのが東郷記念館。
周りを高いビルに囲まれてはいても、
明治通り・竹下通りの喧噪を忘れ去れる都会のオアシス的な場所。
喧噪から静寂へのワープ感覚という点では、すぐ近くの明治神宮にもちろん適わない。しかし明治神宮は広すぎて時間が掛かるから、原宿にいて手っ取り早く静寂に浸りたいなら東郷神社がオススメ。
<おまけ>
別に東郷平八郎ファンでも何でもないのだが、
彼ゆかりの場所には今まで他に2箇所訪れている。
まず2011年、バイクツーリングで立ち寄った三笠公園。
ここには日本海海戦で東郷が乗艦した戦艦三笠が保存されている。
記念艦として保存されたのは大正14年(1925年)。その後いろいろあって戦後はダンスホールや水族館などの施設になり、大砲や船の上部構造などは取り除かれている。
それが復元されたのは1961年(昭和36年)。外観はハリボテ感を隠せないところが見られるものの、船の内部も見学できるのでソコソコは楽しめる。
当時のブログページには ↓ から。
三笠公園について書いているのはページ後半。
「ブラブラと横浜・横須賀〜三崎」
次は2021年に、しだれ桜を見に出かけた調布市にある東郷寺。
東郷平八郎の別荘地跡に建てられたお寺で、彼とは直接の関係はない。
ここのしだれ桜はとても素晴らしい。
この景色が東京とは思えないでしょ。
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「東郷寺でしだれ桜 その2」
「東郷寺でしだれ桜 その3」
おしまい
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2023年10月09日
東郷神社を初訪問 その5 プロフィールと国葬
さて無駄にあれこれ書いてきたここまでのブログ。
まだまだ続いて(^^ゞ
今回はこの神社に祀られている東郷平八郎のプロフィールから。
生まれたのは明治維新(1868年)の21年前、まだ江戸時代だった1848年(弘化4年)に鹿児島で武家の四男として生まれる。つまり長じては薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗って新潟や函館で旧幕府軍と戦っているから生粋の海軍軍人。15歳の初陣である薩英戦争だって、イギリス軍艦の艦砲射撃vs薩摩の陸地に設置した大砲の戦いなので半分は海戦みたいなもの。
その後、1871年(明治4年)から1878年まで、海軍士官としてイギリスに留学。留学には西郷隆盛の口添えがあったとの話も。西郷は1877年(明治10年)に明治政府に対して西南戦争を起こし最終的には敗れて自害。もし留学していなかったら西郷の元にはせ参じたと本人が言っている。このあたりは歴史に if があったらと思ってしまう。
イギリス留学時代の東郷平八郎。
1894年(明治27年)から1895年の日清戦争では、艦長として巡洋艦「浪花」を指揮する。当時46歳、階級は大佐で戦争途中に少将に昇進。
日露戦争前年の1903年(明治36年)連合艦隊司令長官に任命される。当時56歳、階級は中将。連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長と共に海軍3長官と称されていたので、東郷平八郎は海軍のトップに上り詰めたことになる。日本海海戦1年前の1904年に大将に昇進。
トップが3人いるとは複雑だが、海軍大臣は内閣の一員で、大臣が率いる海軍省は軍政(軍事行政)が担当業務。明治憲法下で軍は内閣からは独立した存在で最高司令官は天皇。その直属機関を海軍では軍令部と呼ぶ。軍令とは軍政の対義語で軍事行動そのものに関わる業務。軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長に名称変更)。
陸軍で同じ機能を持つのが参謀本部。陸軍と海軍で名前が違うのがややこしい。そして平時には陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ運営されたが、戦時にそれを一元化したのが大本営。ちなみに昔の武将がいる時代の戦(いくさ)では、周りを幕で囲った場所に総大将などが陣取って軍議を開いた。その場所を本営または本陣と呼ぶ。たぶん大本営の語源もそこから。
さて軍令部長と連合艦隊司令長官は言ってみれば本部と現場のトップ。本部のほうが権力がありそうだけれど、艦隊は長期間に渡り航海をする。今と違ってそう簡単に連絡も取れないから必然的に現場判断が増える。それで軍令部長より連合艦隊司令長官、あるは軍令部より連合艦隊司令部のほうが発言力が大きかったようだ。なお東郷平八郎は日露戦争後に軍令部長に就任している。
彼がいつ退役したのか分からなかったものの、1913年(大正2年)に元帥(げんすい)になっているから、それ以降となる。1913年は65歳の歳。大将の上の階級に元帥を置く国もある。しかし日本の元帥は階級ではなく、大将階級の中で特に功績があったものに贈られる名誉称号のような位置づけ。旧日本軍には陸海併せて31名の元帥がいて、死後に元帥の称号を追贈された人も多い。なお元帥になることを元帥府に列せられるととも表現する。元帥府とは元帥によって構成される天皇の軍事に関する顧問団。また天皇は大元帥。
ただし元帥は英語でマーシャルだが、東郷平八郎は海外ではアドミラル東郷と呼ばれている。アドミラルとは提督の意味。つまり東郷元帥ではなく東郷提督。それは海外の海軍では将官(少将、中将、大将)以上(元帥を含む)の総称として提督と呼ぶ習わしがあるから。旧日本軍で提督の名称は使われていなかった。また提督は陸軍では使わず海軍だけなので、何となく元帥は陸軍、提督は海軍のイメージもある。
1934年(昭和9年)5月30日に86歳で亡くなる。当時としてはかなり長生きかと。
そして6月5日に国葬が営まれる。

それにしても国葬までの期間が短い。国葬ともなればいろいろと多岐にわたる準備や調整が必要なはずなのに、ほとんど普通の葬式と変わりないのにビックリ。あるいは「もうそろそろだから」と準備していたのだろうか? だとしても記録を読むと、東郷が体調の異変を感じ始めたのは亡くなる前年の秋頃。ただし医師の診察を受けたのは亡くなった月である5月になってからで、病名は咽頭がん(いんとう=ノドのガン)。既に重篤な状態だったというが、そこから慌てて準備を開始したことになる。(診断時期については諸説あり)
国葬にはイギリス海軍支那艦隊、アメリカ海軍アジア艦隊、フランス海軍極東艦隊、イタリア海軍東洋艦隊、中華民国艦隊の巡洋艦が訪日して儀仗隊を参列させている。それだけ大規模なものだったし、また東郷平八郎の名声が各国海軍に鳴り響いていたのを伺わせる。
ちなみに今まで国葬(大喪の礼と事実上の国葬や準国葬を含む)となったのは大久保利通から安倍晋三まで29名。時代区分では明治:11名、大正:9名、昭和戦前:5名、戦後:4名。肩書き別では
天皇・皇后 6名
韓国皇帝 2名
旧藩主 3名
政治家 8名
皇族軍人 6名
元軍人の政治家 2名 (大山巌、山県有朋)
軍人 2名 (東郷平八郎、山本五十六)
純粋な軍人では東郷平八郎と山本五十六だけで、いかに功績が認められていたかの証し。
ところで安倍晋三の時に「国葬か国葬儀か」でひと悶着あった。国葬だと反発もあるから「国葬儀」とのヘリクツをひねり出したと思っていたが、実は吉田茂も国葬儀だと知った。あの頃、そんなことは報道されていたかな?
戦前:国葬令という勅令(議会を通さず天皇が発令した法的効力のある命令)で
「国葬」が位置づけられていた。
参考までに前述した軍令部も、議会を通さず法的効力のある軍令を発令した。
戦後:国葬令は1947年(昭和22年)に失効。
安倍さんの葬儀は内閣府設置法に基づく国の儀式として執り行うとの解釈。
だから国葬じゃなく国葬儀。
しかし内閣府設置法(内閣じゃなくて内閣府ね)の施行は2001年(平成13年)。では吉田茂の時は? 吉田茂の国葬(1967年 昭和42年)の翌年に発行された総理府(旧内閣府)発行の公文書は「故吉田茂国葬儀記録」となっている。またこんな記録写真も。
いったいどんな法的根拠に基づく国葬儀だったのか?
調べてみるとどうやら「超法規的対応」だったらしい。チャンチャン(^^ゞ
この時も国葬と呼ぶ法的根拠がないから国葬儀としたのだろう。
なお戦後に実施された4名のうち吉田茂と安倍晋三以外の国葬は、貞明皇后(大正天皇の皇后)と昭和天皇なので大喪儀と大喪の礼。大喪の礼は皇室典範という法律に規定があっても、大喪儀は皇室の私的行事の扱いで法的根拠はないみたいだ。
ーーー続く
次回こそ終わる予定 m(_ _)m
まだまだ続いて(^^ゞ
今回はこの神社に祀られている東郷平八郎のプロフィールから。
生まれたのは明治維新(1868年)の21年前、まだ江戸時代だった1848年(弘化4年)に鹿児島で武家の四男として生まれる。つまり長じては薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗って新潟や函館で旧幕府軍と戦っているから生粋の海軍軍人。15歳の初陣である薩英戦争だって、イギリス軍艦の艦砲射撃vs薩摩の陸地に設置した大砲の戦いなので半分は海戦みたいなもの。
その後、1871年(明治4年)から1878年まで、海軍士官としてイギリスに留学。留学には西郷隆盛の口添えがあったとの話も。西郷は1877年(明治10年)に明治政府に対して西南戦争を起こし最終的には敗れて自害。もし留学していなかったら西郷の元にはせ参じたと本人が言っている。このあたりは歴史に if があったらと思ってしまう。
イギリス留学時代の東郷平八郎。
1894年(明治27年)から1895年の日清戦争では、艦長として巡洋艦「浪花」を指揮する。当時46歳、階級は大佐で戦争途中に少将に昇進。
日露戦争前年の1903年(明治36年)連合艦隊司令長官に任命される。当時56歳、階級は中将。連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長と共に海軍3長官と称されていたので、東郷平八郎は海軍のトップに上り詰めたことになる。日本海海戦1年前の1904年に大将に昇進。
トップが3人いるとは複雑だが、海軍大臣は内閣の一員で、大臣が率いる海軍省は軍政(軍事行政)が担当業務。明治憲法下で軍は内閣からは独立した存在で最高司令官は天皇。その直属機関を海軍では軍令部と呼ぶ。軍令とは軍政の対義語で軍事行動そのものに関わる業務。軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長に名称変更)。
陸軍で同じ機能を持つのが参謀本部。陸軍と海軍で名前が違うのがややこしい。そして平時には陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ運営されたが、戦時にそれを一元化したのが大本営。ちなみに昔の武将がいる時代の戦(いくさ)では、周りを幕で囲った場所に総大将などが陣取って軍議を開いた。その場所を本営または本陣と呼ぶ。たぶん大本営の語源もそこから。
さて軍令部長と連合艦隊司令長官は言ってみれば本部と現場のトップ。本部のほうが権力がありそうだけれど、艦隊は長期間に渡り航海をする。今と違ってそう簡単に連絡も取れないから必然的に現場判断が増える。それで軍令部長より連合艦隊司令長官、あるは軍令部より連合艦隊司令部のほうが発言力が大きかったようだ。なお東郷平八郎は日露戦争後に軍令部長に就任している。
彼がいつ退役したのか分からなかったものの、1913年(大正2年)に元帥(げんすい)になっているから、それ以降となる。1913年は65歳の歳。大将の上の階級に元帥を置く国もある。しかし日本の元帥は階級ではなく、大将階級の中で特に功績があったものに贈られる名誉称号のような位置づけ。旧日本軍には陸海併せて31名の元帥がいて、死後に元帥の称号を追贈された人も多い。なお元帥になることを元帥府に列せられるととも表現する。元帥府とは元帥によって構成される天皇の軍事に関する顧問団。また天皇は大元帥。
ただし元帥は英語でマーシャルだが、東郷平八郎は海外ではアドミラル東郷と呼ばれている。アドミラルとは提督の意味。つまり東郷元帥ではなく東郷提督。それは海外の海軍では将官(少将、中将、大将)以上(元帥を含む)の総称として提督と呼ぶ習わしがあるから。旧日本軍で提督の名称は使われていなかった。また提督は陸軍では使わず海軍だけなので、何となく元帥は陸軍、提督は海軍のイメージもある。
1934年(昭和9年)5月30日に86歳で亡くなる。当時としてはかなり長生きかと。
そして6月5日に国葬が営まれる。

それにしても国葬までの期間が短い。国葬ともなればいろいろと多岐にわたる準備や調整が必要なはずなのに、ほとんど普通の葬式と変わりないのにビックリ。あるいは「もうそろそろだから」と準備していたのだろうか? だとしても記録を読むと、東郷が体調の異変を感じ始めたのは亡くなる前年の秋頃。ただし医師の診察を受けたのは亡くなった月である5月になってからで、病名は咽頭がん(いんとう=ノドのガン)。既に重篤な状態だったというが、そこから慌てて準備を開始したことになる。(診断時期については諸説あり)
国葬にはイギリス海軍支那艦隊、アメリカ海軍アジア艦隊、フランス海軍極東艦隊、イタリア海軍東洋艦隊、中華民国艦隊の巡洋艦が訪日して儀仗隊を参列させている。それだけ大規模なものだったし、また東郷平八郎の名声が各国海軍に鳴り響いていたのを伺わせる。
ちなみに今まで国葬(大喪の礼と事実上の国葬や準国葬を含む)となったのは大久保利通から安倍晋三まで29名。時代区分では明治:11名、大正:9名、昭和戦前:5名、戦後:4名。肩書き別では
天皇・皇后 6名
韓国皇帝 2名
旧藩主 3名
政治家 8名
皇族軍人 6名
元軍人の政治家 2名 (大山巌、山県有朋)
軍人 2名 (東郷平八郎、山本五十六)
純粋な軍人では東郷平八郎と山本五十六だけで、いかに功績が認められていたかの証し。
ところで安倍晋三の時に「国葬か国葬儀か」でひと悶着あった。国葬だと反発もあるから「国葬儀」とのヘリクツをひねり出したと思っていたが、実は吉田茂も国葬儀だと知った。あの頃、そんなことは報道されていたかな?
戦前:国葬令という勅令(議会を通さず天皇が発令した法的効力のある命令)で
「国葬」が位置づけられていた。
参考までに前述した軍令部も、議会を通さず法的効力のある軍令を発令した。
戦後:国葬令は1947年(昭和22年)に失効。
安倍さんの葬儀は内閣府設置法に基づく国の儀式として執り行うとの解釈。
だから国葬じゃなく国葬儀。
しかし内閣府設置法(内閣じゃなくて内閣府ね)の施行は2001年(平成13年)。では吉田茂の時は? 吉田茂の国葬(1967年 昭和42年)の翌年に発行された総理府(旧内閣府)発行の公文書は「故吉田茂国葬儀記録」となっている。またこんな記録写真も。
いったいどんな法的根拠に基づく国葬儀だったのか?
調べてみるとどうやら「超法規的対応」だったらしい。チャンチャン(^^ゞ
この時も国葬と呼ぶ法的根拠がないから国葬儀としたのだろう。
なお戦後に実施された4名のうち吉田茂と安倍晋三以外の国葬は、貞明皇后(大正天皇の皇后)と昭和天皇なので大喪儀と大喪の礼。大喪の礼は皇室典範という法律に規定があっても、大喪儀は皇室の私的行事の扱いで法的根拠はないみたいだ。
ーーー続く
次回こそ終わる予定 m(_ _)m
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2023年10月06日
東郷神社を初訪問 その4 東郷ターン
前回のブログ内容が東郷神社から離れてしまったのは、日露戦争や日本とはまったく関係のないアメリカの戦争アクション系映画を観て、現在でも米海軍の研修で東郷平八郎が日本海海戦で用いた「東郷ターン」が取り上げられていると知った話を書いたから。
それでしつこくその続き(^^ゞ
昔の大規模な艦隊同士の海戦では、それぞれが縦1列の陣形の場合(単縦陣という)に、主に3つの交戦パターンがあった。
同航戦:同じ方向に進みながら大砲を撃つ 平航戦とも言う
反航戦:反対方向にすれ違いながら大砲を撃つ
T字戦:敵の進路を塞ぐような位置を取って大砲を撃つ
同航戦は敵艦との速度が同じなら普通に狙って撃てばいいので命中率は高い。もちろん敵から命中される率も高くなる。反航戦は離れながら撃つ=大砲が届くときの敵艦の位置を推測して撃たなければいけないので命中率は下がる。そしてT字戦については次のように説明される。
ここれは日本海海戦で旗艦(司令官の乗る船)だった戦艦三笠のプラモデル。本物の全長は132メートル。画像はhttp://www.hasegawa-model.co.jp/product/z21/から引用
前と後ろの甲板に主砲、船のサイドに副砲が並んでいる。資料によれば副砲は片側に大小併せて15門が装備されている。そして主砲は左右に回転する。どれくらいの角度まで回転するのかよく知らないのだが、とりあえず90度回転つまり真横までは向けられるとする。
するとT字戦で横側になった艦隊(上の図では赤)は、船の反対側の副砲を除いて全砲門を使えるのに対し、縦側の艦隊(図では青)は前部の主砲しか使えないから不利となる。この説明にはいろいろと分からないところや疑問に思うところもあるものの、それを書き出すと長くなるので、とりあえず横側になれば有利としておこう。
ただT字戦は高度な操船、艦隊の統率が要求されるのは素人でも分かる。それはドンピシャのタイミングでT字を作らなければならないから。タイミングが早すぎるとすり抜けられるし、タイミングが遅いと逆に自分が縦に突っ込む位置取りになってしまう。
さてバルチック艦隊の太平洋艦隊(前回ブログ参照)は、
次のような航路で遠路はるばる日本海までやって来た。
1904年(明治37年)10月15日 第2艦隊がバルト海を出航。
本隊はアフリカ大陸を回ってマダガスカルを目指す(青いライン)。
地図では分かりにくいがオレンジのラインの支隊は地中海からスエズ運河を抜けて
マダガスカルへ。途中で黒海からの船とも合流する。
本隊が遠回りしたのは船が大きくてスエズ運河を通れなかったから。
マダガスカル到着は支隊が12月30日、本隊が翌年1905年1月9日
1905年2月15日 第3艦隊がバルト海を出航(赤いライン)。
3月16日 第2艦隊がマダガスカルを出航
4月14日 第2艦隊がベトナムに到着
5月9日 第3艦隊がベトナムに到着して第2艦隊と合流する
5月14日 両艦隊でベトナムを出航
そして5月27日から28日に掛けて対馬沖で日本海海戦となる。
日本海海戦はバルチック艦隊が7ヶ月も航海を続け、日本海に入ったときはヘロヘロだったから連合艦隊は勝てたと書かれているものもある。しかし第2艦隊はマダガスカルで3ヶ月、ベトナムで1ヶ月も停泊している。後発の第3艦隊にしてもベトナムで5日間ほどの休息期間があった。もちろん5日でリフレッシュできたかとの疑問は残るが。
それよりも航海途中に燃料や食糧は補給できても砲弾は手に入らないだろうから、ほとんど訓練をしていなかったんじゃないかな。バルト海を出航して日本海海戦を戦うまでに第2艦隊は7ヶ月、第3艦隊は3ヶ月がたっている。ゴルフでも何ヶ月もクラブを握らずいきなりコースに出たらそりゃ厳しい。
さてウラジオストックには行かせまいと、対馬沖で待ち構えていた東郷平八郎率いる連合艦隊は、事前に陣形について次の作戦を決定していた。
バルチック艦隊が単縦陣で来たならT字戦法 当時は丁(てい)字
そうでなければZ字戦法 当時は乙(おつ)字
Z字戦法についてよく理解していない。ただしZとはジグザクを意味しているようで、要はそれぞれバラバラで臨機応変に対処という戦法だろうか。
T字戦法はおそらくはある程度離れたところで旋回して、
バルチック艦隊の前に出るつもりだったと思われる。
ところがバルチック艦隊を発見したときは、すでにかなり接近した状態になっていた。この時代はレーダーや飛行機はまだない。偵察の船を何隻か前方に展開して、その目撃情報を元に進路を予想していたが(モールス信号による無線連絡は実用化されていた)、どうやら不正確な情報だったらしい。
このまま進めば反航戦になる。反航戦は命中率が低いからバルチック艦隊に逃げられる可能性が高い。彼らの目的は前回に書いたように、まずウラジオストックへの入港で、この時点で連合艦隊を叩くことじゃない。逆に連合艦隊にとってここで取り逃がせば、それは引き分けではなく負けに等しい。
それで東郷平八郎は艦隊を急旋回させて、強引にT字戦法にもっていった。この旋回が「東郷ターン」。東郷ターンはTOGO Turnとして海外で広まったネーミングで、当時は敵前大回頭と呼んでいた。
これは日本海海戦の航跡をすべて示したロシア側の記録。
素人には判別できないので、
こちらが開戦直後の概略図。画像はhttps://www.jiji.com/jc/v4?id=20101224battle_of_tsushima0009より引用
そのまま左旋回するとバルチック艦隊の右側に出てしまうため、距離を取るため一旦右旋回してからUターンするように左旋回してT字ポジションを作ろうとしている。相当にトリッキーな動き。東郷ターンとは一般に2度目の左旋回を指す。しかしまるでフェイントのような最初の右旋回も含めてそう呼ぶべきな気がする。ただしあくまで素人見解。
そして東郷はバルチック艦隊との距離8000mで左旋回の指示を出した。8000mは大砲の射程距離内である。旋回中は大砲を撃てないらしく(理由は知らない)航行速度も落ちるから格好の標的になる。実際かなりの砲撃を受けたようだ。
しかし相手の意表を突く作戦を、鍛え上げた艦隊の操艦練度をもって実行し、そして何より成功させた。だからこそ東郷ターンが世界の海戦史上の奇跡と評価され、その名が海外でも語り継がれたのだと思われる。
ただしバルチック艦隊だってむざむざT字戦法に引っ掛かるほどバカじゃないから、それを回避するために右方向に進路を転換している。だからT字戦法はなかった、その形になったとしても数分のことじゃないか、ほとんどは同航戦だろとの批評は多くある。東郷ターンも単なるバクチと見なされたり。
またこの日本海海戦の9ヶ月ほど前、日露戦争の開始からは6ヶ月後の1904年(明治37年)8月に、連合艦隊とロシアの太平洋艦隊(旅順艦隊)が相まみえた黄海海戦があった。そこでもT字戦法を仕掛けたのだが見事にかわされて失敗する。しかも2回も(/o\) この時の司令長官も東郷平八郎。
その黄海海戦での「失敗に終わったT字戦法」は海軍が作成した戦史に記載されている。なのに日本海海戦で「大成功したT字戦法」は載っていないらしい。ネットで得られた情報だから真偽は確認していないが、そんなところも日本海海戦でT字戦法は使われていないと疑われている理由になっているようだ。
前々回に東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると書いた。おそらく東郷ターンもそうだろう。話を盛るのはプロパガンダではありがちだけれど、日露戦争は講和条約で賠償金も取れずに国民の不満が爆発した。いわゆる戦争で勝って外交で負けた展開。それで国民の気をそらすため血湧き肉躍る武勇伝とヒーローが必要だったのかも知れない。なんたってZ旗とT字である。アルファベットなんて明治の人にはとてもインパクトがあったと思う。
参考までに日本海海戦に参加したのは
連合艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):4隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):24隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)21隻
小計49隻
その他59隻 合計108隻
バルチック艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):8隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):12隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)9隻
小計29隻
その他9隻 合計38隻
何だ、日本が数で圧倒しているじゃないか、東郷ターンなどなくても普通に戦って勝てたのではと思われるだろう。私もそう思ったが当時は戦艦の数で勝敗が決まると言われていたらしく、数の上では劣勢な戦いとされた。
そして、その結果は
連合艦隊
その他59隻に分類した小型艦艇3隻が撃沈
戦死117名、戦傷583名
バルチック艦隊
全38隻中16隻が撃沈、捕獲を避けるための自沈5隻(沈没合計21隻)
連合艦隊に拿捕されたのが6隻
中立国に逃げ込んだのが6隻(清やアメリカ領フィリピンなど)
本国へ帰還したのが2隻
ウラジオストックまで到達できたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻の3隻のみ
戦死4830名、捕虜6106名
東郷ターンよるものかどうかは別として、まさに歴史的大勝利。ただし日露戦争トータルでの戦没者数は日本が8万8429名、ロシアが8万1210名とほぼ同じ。合掌
実は東郷神社にいたのはたった20分ほどなのだけれど、
ブログはまだ続く(^^ゞ
次回は東郷平八郎の話題に戻る予定。
それでしつこくその続き(^^ゞ
昔の大規模な艦隊同士の海戦では、それぞれが縦1列の陣形の場合(単縦陣という)に、主に3つの交戦パターンがあった。
同航戦:同じ方向に進みながら大砲を撃つ 平航戦とも言う
反航戦:反対方向にすれ違いながら大砲を撃つ
T字戦:敵の進路を塞ぐような位置を取って大砲を撃つ
同航戦は敵艦との速度が同じなら普通に狙って撃てばいいので命中率は高い。もちろん敵から命中される率も高くなる。反航戦は離れながら撃つ=大砲が届くときの敵艦の位置を推測して撃たなければいけないので命中率は下がる。そしてT字戦については次のように説明される。
ここれは日本海海戦で旗艦(司令官の乗る船)だった戦艦三笠のプラモデル。本物の全長は132メートル。画像はhttp://www.hasegawa-model.co.jp/product/z21/から引用
前と後ろの甲板に主砲、船のサイドに副砲が並んでいる。資料によれば副砲は片側に大小併せて15門が装備されている。そして主砲は左右に回転する。どれくらいの角度まで回転するのかよく知らないのだが、とりあえず90度回転つまり真横までは向けられるとする。
するとT字戦で横側になった艦隊(上の図では赤)は、船の反対側の副砲を除いて全砲門を使えるのに対し、縦側の艦隊(図では青)は前部の主砲しか使えないから不利となる。この説明にはいろいろと分からないところや疑問に思うところもあるものの、それを書き出すと長くなるので、とりあえず横側になれば有利としておこう。
ただT字戦は高度な操船、艦隊の統率が要求されるのは素人でも分かる。それはドンピシャのタイミングでT字を作らなければならないから。タイミングが早すぎるとすり抜けられるし、タイミングが遅いと逆に自分が縦に突っ込む位置取りになってしまう。
さてバルチック艦隊の太平洋艦隊(前回ブログ参照)は、
次のような航路で遠路はるばる日本海までやって来た。
1904年(明治37年)10月15日 第2艦隊がバルト海を出航。
本隊はアフリカ大陸を回ってマダガスカルを目指す(青いライン)。
地図では分かりにくいがオレンジのラインの支隊は地中海からスエズ運河を抜けて
マダガスカルへ。途中で黒海からの船とも合流する。
本隊が遠回りしたのは船が大きくてスエズ運河を通れなかったから。
マダガスカル到着は支隊が12月30日、本隊が翌年1905年1月9日
1905年2月15日 第3艦隊がバルト海を出航(赤いライン)。
3月16日 第2艦隊がマダガスカルを出航
4月14日 第2艦隊がベトナムに到着
5月9日 第3艦隊がベトナムに到着して第2艦隊と合流する
5月14日 両艦隊でベトナムを出航
そして5月27日から28日に掛けて対馬沖で日本海海戦となる。
日本海海戦はバルチック艦隊が7ヶ月も航海を続け、日本海に入ったときはヘロヘロだったから連合艦隊は勝てたと書かれているものもある。しかし第2艦隊はマダガスカルで3ヶ月、ベトナムで1ヶ月も停泊している。後発の第3艦隊にしてもベトナムで5日間ほどの休息期間があった。もちろん5日でリフレッシュできたかとの疑問は残るが。
それよりも航海途中に燃料や食糧は補給できても砲弾は手に入らないだろうから、ほとんど訓練をしていなかったんじゃないかな。バルト海を出航して日本海海戦を戦うまでに第2艦隊は7ヶ月、第3艦隊は3ヶ月がたっている。ゴルフでも何ヶ月もクラブを握らずいきなりコースに出たらそりゃ厳しい。
さてウラジオストックには行かせまいと、対馬沖で待ち構えていた東郷平八郎率いる連合艦隊は、事前に陣形について次の作戦を決定していた。
バルチック艦隊が単縦陣で来たならT字戦法 当時は丁(てい)字
そうでなければZ字戦法 当時は乙(おつ)字
Z字戦法についてよく理解していない。ただしZとはジグザクを意味しているようで、要はそれぞれバラバラで臨機応変に対処という戦法だろうか。
T字戦法はおそらくはある程度離れたところで旋回して、
バルチック艦隊の前に出るつもりだったと思われる。
ところがバルチック艦隊を発見したときは、すでにかなり接近した状態になっていた。この時代はレーダーや飛行機はまだない。偵察の船を何隻か前方に展開して、その目撃情報を元に進路を予想していたが(モールス信号による無線連絡は実用化されていた)、どうやら不正確な情報だったらしい。
このまま進めば反航戦になる。反航戦は命中率が低いからバルチック艦隊に逃げられる可能性が高い。彼らの目的は前回に書いたように、まずウラジオストックへの入港で、この時点で連合艦隊を叩くことじゃない。逆に連合艦隊にとってここで取り逃がせば、それは引き分けではなく負けに等しい。
それで東郷平八郎は艦隊を急旋回させて、強引にT字戦法にもっていった。この旋回が「東郷ターン」。東郷ターンはTOGO Turnとして海外で広まったネーミングで、当時は敵前大回頭と呼んでいた。
これは日本海海戦の航跡をすべて示したロシア側の記録。
素人には判別できないので、
こちらが開戦直後の概略図。画像はhttps://www.jiji.com/jc/v4?id=20101224battle_of_tsushima0009より引用
そのまま左旋回するとバルチック艦隊の右側に出てしまうため、距離を取るため一旦右旋回してからUターンするように左旋回してT字ポジションを作ろうとしている。相当にトリッキーな動き。東郷ターンとは一般に2度目の左旋回を指す。しかしまるでフェイントのような最初の右旋回も含めてそう呼ぶべきな気がする。ただしあくまで素人見解。
そして東郷はバルチック艦隊との距離8000mで左旋回の指示を出した。8000mは大砲の射程距離内である。旋回中は大砲を撃てないらしく(理由は知らない)航行速度も落ちるから格好の標的になる。実際かなりの砲撃を受けたようだ。
しかし相手の意表を突く作戦を、鍛え上げた艦隊の操艦練度をもって実行し、そして何より成功させた。だからこそ東郷ターンが世界の海戦史上の奇跡と評価され、その名が海外でも語り継がれたのだと思われる。
ただしバルチック艦隊だってむざむざT字戦法に引っ掛かるほどバカじゃないから、それを回避するために右方向に進路を転換している。だからT字戦法はなかった、その形になったとしても数分のことじゃないか、ほとんどは同航戦だろとの批評は多くある。東郷ターンも単なるバクチと見なされたり。
またこの日本海海戦の9ヶ月ほど前、日露戦争の開始からは6ヶ月後の1904年(明治37年)8月に、連合艦隊とロシアの太平洋艦隊(旅順艦隊)が相まみえた黄海海戦があった。そこでもT字戦法を仕掛けたのだが見事にかわされて失敗する。しかも2回も(/o\) この時の司令長官も東郷平八郎。
その黄海海戦での「失敗に終わったT字戦法」は海軍が作成した戦史に記載されている。なのに日本海海戦で「大成功したT字戦法」は載っていないらしい。ネットで得られた情報だから真偽は確認していないが、そんなところも日本海海戦でT字戦法は使われていないと疑われている理由になっているようだ。
前々回に東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると書いた。おそらく東郷ターンもそうだろう。話を盛るのはプロパガンダではありがちだけれど、日露戦争は講和条約で賠償金も取れずに国民の不満が爆発した。いわゆる戦争で勝って外交で負けた展開。それで国民の気をそらすため血湧き肉躍る武勇伝とヒーローが必要だったのかも知れない。なんたってZ旗とT字である。アルファベットなんて明治の人にはとてもインパクトがあったと思う。
参考までに日本海海戦に参加したのは
連合艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):4隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):24隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)21隻
小計49隻
その他59隻 合計108隻
バルチック艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):8隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):12隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)9隻
小計29隻
その他9隻 合計38隻
何だ、日本が数で圧倒しているじゃないか、東郷ターンなどなくても普通に戦って勝てたのではと思われるだろう。私もそう思ったが当時は戦艦の数で勝敗が決まると言われていたらしく、数の上では劣勢な戦いとされた。
そして、その結果は
連合艦隊
その他59隻に分類した小型艦艇3隻が撃沈
戦死117名、戦傷583名
バルチック艦隊
全38隻中16隻が撃沈、捕獲を避けるための自沈5隻(沈没合計21隻)
連合艦隊に拿捕されたのが6隻
中立国に逃げ込んだのが6隻(清やアメリカ領フィリピンなど)
本国へ帰還したのが2隻
ウラジオストックまで到達できたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻の3隻のみ
戦死4830名、捕虜6106名
東郷ターンよるものかどうかは別として、まさに歴史的大勝利。ただし日露戦争トータルでの戦没者数は日本が8万8429名、ロシアが8万1210名とほぼ同じ。合掌
実は東郷神社にいたのはたった20分ほどなのだけれど、
ブログはまだ続く(^^ゞ
次回は東郷平八郎の話題に戻る予定。
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2023年10月04日
東郷神社を初訪問 その3 バルチック艦隊と連合艦隊
Z旗の描かれたノボリがある階段の近くから、
レリーフのあった門の方向。
9月終盤のこの日も最高気温は30度を超えていたものの、
空にはしっかり秋のうろこ雲。上空はもう涼しいみたい。
そしてビルの窓に映る雲がなかなかイイ感じ。
大きな神社だと神様を祀ってある本殿と、お参りをするための拝殿が分かれている場合が多い。東郷神社は外から見る限りひとつの建物のようだ。その場合は何と呼べばいいの?
とりあえず社殿と呼ぶか。そこにも前回で紹介したZ旗が掲げられている。しかもけっこう大きななサイズで。もし何も由緒を知らなくてこの神社を訪れて、そしてそれが船舶関係者だったら「どうしてタグボートが必要なのだ?」と思うのかな(^^ゞ
この神社に祀られているのは何度も書いてきた東郷平八郎。授業で日露戦争は習うので、彼の名前は乃木希典(まれすけ)とセットで中学生の頃から知っている。でも特に興味を持っていたわけじゃない。単なる教科書に載っていた人扱い。
しかしいつだったか覚えていないものの、海外の戦争アクション系映画を観てたときのこと。アメリカ海軍(たぶん)で新入り将校が研修を受けているようなシーンがあった。そこでは敵味方の軍艦の動きが図で示されていて「そしてこれがかの有名な東郷ターンだ」と教官が説明していた。
東郷ターンについてはその時まで知らなかった。しかし、そういえば教科書には書かれていなかったけれど、先生が日本はすごい作戦で日本海海戦に勝利したとか熱心に話してくれたのを思い出した。
その映画の時代設定は現在で、また日本はまったく登場しないストーリー。だから明治時代の日露戦争でとった戦法が、今でも教材となっているのにちょっとビックリした。日本人が思っている以上に、東郷平八郎とバルチック艦隊との戦いは世界の海軍では語り継がれているみたい。外国軍隊の教科書に名前が載っている日本軍人は彼くらいかも知れない。
ところで今の若者には日本がアメリカと戦争したのを知らない者もいると、報道ではなくマスコミの小ネタ扱いで掲載されることがたまにある。もちろん現在でも義務教育の授業で教えているはず。授業をサボったり、習ったのを忘れていたり、単にアホで理解できなかったりする連中はいつの時代でも一定数いるとしても、それが若者の学力平均値だとは思っていない。
でも日清・日露の戦争まで遡ると、その名前を覚えている程度で、どんな戦争だったかを理解していない人のほうが多いだろう。以前に1人だけ、なんと日露戦争で日本がモスクワに攻め込んだと勘違いしている人に出会った経験もある(/o\) もっとも太平洋戦争が起きた背景だってキチンと説明できる人は少ないが。
そこで東郷平八郎ついでに、
超オオザッパに歴史のおさらいを。
【日清戦争 1894年(明治27年)〜1895年)】
明治維新から四半世紀がたって、国力を増してきた日本が朝鮮半島に縄張りを広げようとしたら「そこのシマは代々ウチの組のものやけん」と頭にきた清(しん:現在の中国)とドンパチになる。
主な戦場は朝鮮半島と、その隣の遼東半島など。
首都である北京までは攻めていないよ。
結果は日本のほぼ完勝。朝鮮半島から清を追い出し、また清から遼東半島、台湾などを譲り受け、さらに巨額の賠償金も獲得した。
ついこの間までちょんまげを結っていた日本なのに、衰えつつあるとはいえ大国の清に勝ったのをきっかけに日本の国際的地位が向上する。見方を変えれば警戒されるようになる。
【日露戦争 1904年(明治37年)〜1905年】
日清戦争で獲得した遼東半島であるが、その翌年、自らも清に縄張りを広げようと計画していたフランス、ドイツ、ロシアに「日本の他国への進出はその地域の平和を脅かす」と難癖を付けられて清に返還となる。いわゆる三国干渉。
遼東半島は満州に属する。満州の名前は知っていても、場所はどこだったっけ?人のために地図を載せておく。いわゆる中国の東北部。面積は約120万平方キロで、日本は約38万平方キロだから3倍以上の広さ。
そこを目指してロシアがチャッカリと南下。満州の隣は朝鮮半島だから見過ごすわけにはいかず勃発したのが日露戦争。だからこの時は日露両国ともアウェイでの戦い。清にしてみれば自国領土で勝手に他国が戦争している状況。しかも原因は自国領土の奪い合い。両方ともクタバレと思っていたに違いない。
朝鮮半島でもドンパチはあったものの、メインは満州南部の奉天や遼東半島。激戦地となったのが遼東半島の最西端にある旅順。映画やドラマのタイトルにもなってよく名前を聞く203高地は、旅順から2kmほど離れた海抜203メートルの丘陵地。高地と呼ぶには大げさに思えるが。海抜203メートルが名前の由来で、そのあたりに高地がたくさんあって、その203番目じゃないよ。
極東でロシア海軍の本拠地はウラジオストック。しかし日本との開戦が予想より早かったので規模が不十分。また日本海軍との戦いで弱体化し、日本海と黄海の制海権は日本が握っていた。そこでロシア本国(本国という表現はおかしいが、まあ首都からは遠く離れているので)から勢力拡大のために派遣されてきたのがバルチック艦隊。
だから彼らはまずウラジオストックに入るのが第1の目的。元からいる艦船と体制を立て直して日本海軍を牽制すれば、旅順で戦っているロシア陸軍の側面支援にもなるとの戦略。
ところでバルチック艦隊の名前は知っていても、その意味まで把握している人は少ない。バルチックとはバルト海のこと。英語で書くとBaltic Sea。日本語でバルチック海なんて言わないからバルト艦隊でよさそうなものだが、なぜかバルチック艦隊と呼ぶ。
そのバルト海があるのがこちら。
こんな遠いところからご苦労様である。
正確にいうとバルト海に展開しているがバルチック艦隊で、極東にいたロシア艦隊は太平洋艦隊である。しかし日露戦争の応援のためにバルチック艦隊から艦船を引き抜いて第2太平洋艦隊を編成し派遣すると決まる。またその第2太平洋艦隊が日本に向かう途中に旅順が陥落したので、さらにバルチック艦隊から引き抜いて編成したのが第3太平洋艦隊。この2つの艦隊の所属はもはやバルチック艦隊ではないが、日本ではこれをバルチック艦隊と呼ぶ習わし。
だからロシア人に「日露戦争でバルチック艦隊をイワシたった」とマウント取っても「バルチック艦隊は日本になんか行っていないも〜ん」と反論されるかも知れない(^^ゞ
実は艦隊の呼び方でもっと不思議なものがある。それは日本の連合艦隊。日露戦争での東郷平八郎の肩書きは連合艦隊司令長官。太平洋戦争を戦った山本五十六も連合艦隊司令長官である。後に総理大臣になった鈴木貫太郎や米内光政も連合艦隊司令長官を務めた。それで連合艦隊って何の連合?
言葉の定義としては、まず艦隊とは
軍艦2隻以上、もしくは航空隊2個以上によって編成された部隊
(航空隊とは空母を意味すると思われるが深く調べず)
驚いたことにたった2隻で艦隊は成立する。でもこれは辞書的な定義で、実際は大小様々な戦闘艦をセットにしたのが艦隊。日本海海戦で東郷平八郎が率いた艦隊の1つである第1艦隊には約30隻が所属していた。
そして連合艦隊とは2つ以上の艦隊で編成した艦隊と定義される。
それはいいとしてーーー
日露戦争開戦当時、日本には3つの艦隊があった。そして連合艦隊に所属したのはその3つすべて。太平洋戦争開戦当時は10の艦隊で連合艦隊が編成されている。ではその時、日本に全部でいくつの艦隊があったのか=連合艦隊に所属していない艦隊数は?が気になるところ。でもそれについて明確に記載されている資料が見つからなかった。
しかしどうやら連合艦隊に所属していないのは、老朽化して予備役的だったり、小規模な艦船で港湾や沿岸警備中心の艦隊がほとんどだったようだ。つまり外国との戦争には参加しない艦隊。
ということは、連合と名前はついていても連合艦隊とは、日本海軍そのものと実質的に同じ意味である。また海軍自身が連合艦隊の英訳としてGeneral Fleetを使用しており、これは「すべての」「艦隊」の意味だから、その解釈でおそらく間違いないだろう。なのにどうしてわざわざ連合艦隊と呼ぶのか不思議。
ところでヤクザの山口組は、山口組の下に多くの組が集まった組織。でも山口組と言えばその全体を指す。連合艦隊も似ていたりして(^^ゞ
それはさておき、毎年8月15日が近づくと太平洋戦争関連の番組が放送される。その中で連合艦隊や連合艦隊司令長官なんて言葉がシレっと使われている。でも、その意味を理解している人は1%もいないと思うゾ。
東郷神社からどんどん内容が離れていくけれどm(_ _)m
あと2回くらい続く予定。
レリーフのあった門の方向。
9月終盤のこの日も最高気温は30度を超えていたものの、
空にはしっかり秋のうろこ雲。上空はもう涼しいみたい。
そしてビルの窓に映る雲がなかなかイイ感じ。
大きな神社だと神様を祀ってある本殿と、お参りをするための拝殿が分かれている場合が多い。東郷神社は外から見る限りひとつの建物のようだ。その場合は何と呼べばいいの?
とりあえず社殿と呼ぶか。そこにも前回で紹介したZ旗が掲げられている。しかもけっこう大きななサイズで。もし何も由緒を知らなくてこの神社を訪れて、そしてそれが船舶関係者だったら「どうしてタグボートが必要なのだ?」と思うのかな(^^ゞ
この神社に祀られているのは何度も書いてきた東郷平八郎。授業で日露戦争は習うので、彼の名前は乃木希典(まれすけ)とセットで中学生の頃から知っている。でも特に興味を持っていたわけじゃない。単なる教科書に載っていた人扱い。
しかしいつだったか覚えていないものの、海外の戦争アクション系映画を観てたときのこと。アメリカ海軍(たぶん)で新入り将校が研修を受けているようなシーンがあった。そこでは敵味方の軍艦の動きが図で示されていて「そしてこれがかの有名な東郷ターンだ」と教官が説明していた。
東郷ターンについてはその時まで知らなかった。しかし、そういえば教科書には書かれていなかったけれど、先生が日本はすごい作戦で日本海海戦に勝利したとか熱心に話してくれたのを思い出した。
その映画の時代設定は現在で、また日本はまったく登場しないストーリー。だから明治時代の日露戦争でとった戦法が、今でも教材となっているのにちょっとビックリした。日本人が思っている以上に、東郷平八郎とバルチック艦隊との戦いは世界の海軍では語り継がれているみたい。外国軍隊の教科書に名前が載っている日本軍人は彼くらいかも知れない。
ところで今の若者には日本がアメリカと戦争したのを知らない者もいると、報道ではなくマスコミの小ネタ扱いで掲載されることがたまにある。もちろん現在でも義務教育の授業で教えているはず。授業をサボったり、習ったのを忘れていたり、単にアホで理解できなかったりする連中はいつの時代でも一定数いるとしても、それが若者の学力平均値だとは思っていない。
でも日清・日露の戦争まで遡ると、その名前を覚えている程度で、どんな戦争だったかを理解していない人のほうが多いだろう。以前に1人だけ、なんと日露戦争で日本がモスクワに攻め込んだと勘違いしている人に出会った経験もある(/o\) もっとも太平洋戦争が起きた背景だってキチンと説明できる人は少ないが。
そこで東郷平八郎ついでに、
超オオザッパに歴史のおさらいを。
【日清戦争 1894年(明治27年)〜1895年)】
明治維新から四半世紀がたって、国力を増してきた日本が朝鮮半島に縄張りを広げようとしたら「そこのシマは代々ウチの組のものやけん」と頭にきた清(しん:現在の中国)とドンパチになる。
主な戦場は朝鮮半島と、その隣の遼東半島など。
首都である北京までは攻めていないよ。
結果は日本のほぼ完勝。朝鮮半島から清を追い出し、また清から遼東半島、台湾などを譲り受け、さらに巨額の賠償金も獲得した。
ついこの間までちょんまげを結っていた日本なのに、衰えつつあるとはいえ大国の清に勝ったのをきっかけに日本の国際的地位が向上する。見方を変えれば警戒されるようになる。
【日露戦争 1904年(明治37年)〜1905年】
日清戦争で獲得した遼東半島であるが、その翌年、自らも清に縄張りを広げようと計画していたフランス、ドイツ、ロシアに「日本の他国への進出はその地域の平和を脅かす」と難癖を付けられて清に返還となる。いわゆる三国干渉。
遼東半島は満州に属する。満州の名前は知っていても、場所はどこだったっけ?人のために地図を載せておく。いわゆる中国の東北部。面積は約120万平方キロで、日本は約38万平方キロだから3倍以上の広さ。
そこを目指してロシアがチャッカリと南下。満州の隣は朝鮮半島だから見過ごすわけにはいかず勃発したのが日露戦争。だからこの時は日露両国ともアウェイでの戦い。清にしてみれば自国領土で勝手に他国が戦争している状況。しかも原因は自国領土の奪い合い。両方ともクタバレと思っていたに違いない。
朝鮮半島でもドンパチはあったものの、メインは満州南部の奉天や遼東半島。激戦地となったのが遼東半島の最西端にある旅順。映画やドラマのタイトルにもなってよく名前を聞く203高地は、旅順から2kmほど離れた海抜203メートルの丘陵地。高地と呼ぶには大げさに思えるが。海抜203メートルが名前の由来で、そのあたりに高地がたくさんあって、その203番目じゃないよ。
極東でロシア海軍の本拠地はウラジオストック。しかし日本との開戦が予想より早かったので規模が不十分。また日本海軍との戦いで弱体化し、日本海と黄海の制海権は日本が握っていた。そこでロシア本国(本国という表現はおかしいが、まあ首都からは遠く離れているので)から勢力拡大のために派遣されてきたのがバルチック艦隊。
だから彼らはまずウラジオストックに入るのが第1の目的。元からいる艦船と体制を立て直して日本海軍を牽制すれば、旅順で戦っているロシア陸軍の側面支援にもなるとの戦略。
ところでバルチック艦隊の名前は知っていても、その意味まで把握している人は少ない。バルチックとはバルト海のこと。英語で書くとBaltic Sea。日本語でバルチック海なんて言わないからバルト艦隊でよさそうなものだが、なぜかバルチック艦隊と呼ぶ。
そのバルト海があるのがこちら。
こんな遠いところからご苦労様である。
正確にいうとバルト海に展開しているがバルチック艦隊で、極東にいたロシア艦隊は太平洋艦隊である。しかし日露戦争の応援のためにバルチック艦隊から艦船を引き抜いて第2太平洋艦隊を編成し派遣すると決まる。またその第2太平洋艦隊が日本に向かう途中に旅順が陥落したので、さらにバルチック艦隊から引き抜いて編成したのが第3太平洋艦隊。この2つの艦隊の所属はもはやバルチック艦隊ではないが、日本ではこれをバルチック艦隊と呼ぶ習わし。
だからロシア人に「日露戦争でバルチック艦隊をイワシたった」とマウント取っても「バルチック艦隊は日本になんか行っていないも〜ん」と反論されるかも知れない(^^ゞ
実は艦隊の呼び方でもっと不思議なものがある。それは日本の連合艦隊。日露戦争での東郷平八郎の肩書きは連合艦隊司令長官。太平洋戦争を戦った山本五十六も連合艦隊司令長官である。後に総理大臣になった鈴木貫太郎や米内光政も連合艦隊司令長官を務めた。それで連合艦隊って何の連合?
言葉の定義としては、まず艦隊とは
軍艦2隻以上、もしくは航空隊2個以上によって編成された部隊
(航空隊とは空母を意味すると思われるが深く調べず)
驚いたことにたった2隻で艦隊は成立する。でもこれは辞書的な定義で、実際は大小様々な戦闘艦をセットにしたのが艦隊。日本海海戦で東郷平八郎が率いた艦隊の1つである第1艦隊には約30隻が所属していた。
そして連合艦隊とは2つ以上の艦隊で編成した艦隊と定義される。
それはいいとしてーーー
日露戦争開戦当時、日本には3つの艦隊があった。そして連合艦隊に所属したのはその3つすべて。太平洋戦争開戦当時は10の艦隊で連合艦隊が編成されている。ではその時、日本に全部でいくつの艦隊があったのか=連合艦隊に所属していない艦隊数は?が気になるところ。でもそれについて明確に記載されている資料が見つからなかった。
しかしどうやら連合艦隊に所属していないのは、老朽化して予備役的だったり、小規模な艦船で港湾や沿岸警備中心の艦隊がほとんどだったようだ。つまり外国との戦争には参加しない艦隊。
ということは、連合と名前はついていても連合艦隊とは、日本海軍そのものと実質的に同じ意味である。また海軍自身が連合艦隊の英訳としてGeneral Fleetを使用しており、これは「すべての」「艦隊」の意味だから、その解釈でおそらく間違いないだろう。なのにどうしてわざわざ連合艦隊と呼ぶのか不思議。
ところでヤクザの山口組は、山口組の下に多くの組が集まった組織。でも山口組と言えばその全体を指す。連合艦隊も似ていたりして(^^ゞ
それはさておき、毎年8月15日が近づくと太平洋戦争関連の番組が放送される。その中で連合艦隊や連合艦隊司令長官なんて言葉がシレっと使われている。でも、その意味を理解している人は1%もいないと思うゾ。
東郷神社からどんどん内容が離れていくけれどm(_ _)m
あと2回くらい続く予定。
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2023年10月01日
東郷神社を初訪問 その2 Z旗
前回に書いた、
菊の御紋と蔦の葉の家紋がミックスされたレリーフのある門をくぐって左側の光景。
上の写真にある小さな門の外側には幟(のぼり)が並んでいる。
幟の上に描かれているカラフルな模様はZ旗。
Z旗は船同士で使う信号旗の1つ。正式名称は国際信号旗でA〜Zを示す文字旗、0〜9を示す数字旗とその他4種類、合計40枚で構成される。
国際信号旗はその文字旗を並べて単語にするのではなく、1文字ごとに意味する内容が定められており、さらに2文字あるいは3文字を同時に並べるとまた別の意味になる。
例えば
A旗:本船で潜水夫が活動中。徐速して通過せよ
B旗:危険物の運搬、積み降ろし中
で、そういうメッセージをマストに掲げて周りの船舶に伝える仕組み。
そして、この海上保安庁の巡視艇は上がU、下がYの旗。
それぞれの意味は
U旗:あなたは危険に向かっている
Y旗:本船は走錨中である
※走錨(そうびょう)とはイカリを下ろしているのに船が流されている状況
であるが、そうではなくてUとYをつなげると「本船は演習中なので避けて下さい」の意味になる。無線がなかった時代に考案されたコミュニケーション手法だけれど、ある大きさ以上の船舶や航行条件によっては、今でも使用が義務づけられている(詳しく調べていない)。
なおこうやってたくさんの信号旗を掲げるのは、祝日や式典などで祝意を表すためのもので軍艦なら満艦飾、一般の船なら満船飾と呼ばれる。海上保安庁の船も軍艦じゃないから満船飾と表現する。
ところで昔は祝意の表現として万国旗を掲げていたらしい。しかしどの国とどの国を隣に並べるか〜マストの上に並ぶ国と下に並ぶ国ができるーーーなどの面倒くさい問題を避けるために、国際信号旗が使われるようになったとされるのが面白い。
また以前は派手に飾り付けること、例えばクリスマスツリーにたくさんの飾りを付けるのを満艦飾にすると表現した。また洗濯物をたくさん干す様子も旗になぞらえて満艦飾といったりも。しかしそういう使い方はもう死語で、最後に使われたのは70年代後半に、ボディを電飾だらけにして走る「トラック野郎」という映画がヒットした頃かな。満船飾のほうはそういう比喩表現には用いられなかったし、満艦飾と較べて聞いた記憶がある人は少ないだろう。

さて話をZ旗に戻すと、国際信号旗での意味は
Z旗:本船にタグボートを求む
(タグボートとは大型船を引いたり押したりして接岸を助ける船)
だけれどZはアルファベットの最後だから「もう後はない」→「絶対に負けられない」との意気込みを示す目的でも使われた。そのきっかけは日露戦争でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ際に、司令長官の東郷平八郎が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との意味を込めてZ旗を掲げたのに由来する。1905年(明治38年)の出来事。
これは彼のエピソードの中で最も有名なもの。それで東郷平八郎といえばZ旗という図式が出来上がる。だから東郷神社ではZ旗のついた御守りはもちろん、なんとZ旗そのものまで売られている!(念のために書いておくと、この日本海海戦と呼ばれる戦いでは日本が圧倒的な勝利を収めた)
その後は勝利のシンボルとして応援の際にZ旗を振ったり、また「必死でがんばる」ことを「Z旗を掲げる」などと表現したようだが、かなり昔に廃れてしまったと思う。なお日産のフェアレディZのネーミングはZ旗に由来するといわれている。
ただこの東郷平八郎のZ旗エピソード。
よく調べてみるとちょっと微妙なのだ。
彼が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とメッセージを発したのは、日本海海戦の100年前の1805年、トラファルガーの海戦でイギリスがフランス(ナポレオンの時代)と戦った際に、イギリスのネルソン提督が「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」と檄を飛ばした故事に習ったもの。
その文章を英語にすると
England expects that every man will do his duty
それを当時のイギリス式信号旗の組み合わせで表現するとこうなる。
dutyは信号旗の組み合わせになかったみたい。uとtとyを表現するのにどうして旗が2つ必要なのか分からないが、とにかく3枚の組み合わせから1枚だけのものまで、合計12セットの信号旗がネルソンの文章には必要。それを順番にマストに掲げては降ろしを繰り返して周りに知らせ、そこから伝言ゲームのように信号旗を使って全艦に伝達したとされる。
けっこうたいへんな作業で信号担当員は大忙し。文法的にはthatを省略してもいいはずで、そうすれば11回で済んだのにと思うものの、まあどうでもいいか。
さて東郷平八郎のZ旗。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と長い文章なのに、どうして旗がたった1枚で済んだのか?
それはZ旗を掲げたら「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と各艦は全乗組員に伝えるようにと、あらかじめ文面を渡してあったから。ちょっとドラマティック感にかけるなあ平ハッチャン(^^ゞ
一説によるとネルソンは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との檄文を戦闘開始の直前に送ったので、そのてんやわんやの緊迫した状況で作戦とは何の関係もない指示に各艦の艦長は戸惑ったとされる。また水兵からは「言われんでもわかってるわ、敵はもう目の前やぞ!」と不評だったらしい。
ひょっとしたら、それを踏まえて事前に文章を配布しておいたのかも知れない。しかしそれでも「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との言葉に「ウォーッ」となったとしても、それがこのZ旗だ!と言われたら「ハア?」だったに違いない(^^ゞ あるいはZ旗は単に伝達のタイミングを知らせる合図であって「皇国の興廃〜」を象徴する意味合いはなかった可能性も。
だから東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると思う。もっともネルソンのエピソードだって時が経ってからは、その言葉で皆が奮い立ったことになっているから、まあ故事とはそんなもの。
なおこの言葉は東郷平八郎ではなく、その下で作戦担当参謀を務めていた秋山真之(さねゆき)が考えたもの。彼は同じく日本海海戦あるいは日本海軍史上での名文とされる電文「本日天気晴朗なれども波高し」でも知られる。
Z旗につられて今回も話が脱線 m(_ _)m
ーーー続く
菊の御紋と蔦の葉の家紋がミックスされたレリーフのある門をくぐって左側の光景。
上の写真にある小さな門の外側には幟(のぼり)が並んでいる。
幟の上に描かれているカラフルな模様はZ旗。
Z旗は船同士で使う信号旗の1つ。正式名称は国際信号旗でA〜Zを示す文字旗、0〜9を示す数字旗とその他4種類、合計40枚で構成される。
国際信号旗はその文字旗を並べて単語にするのではなく、1文字ごとに意味する内容が定められており、さらに2文字あるいは3文字を同時に並べるとまた別の意味になる。
例えば
A旗:本船で潜水夫が活動中。徐速して通過せよ
B旗:危険物の運搬、積み降ろし中
で、そういうメッセージをマストに掲げて周りの船舶に伝える仕組み。
そして、この海上保安庁の巡視艇は上がU、下がYの旗。
それぞれの意味は
U旗:あなたは危険に向かっている
Y旗:本船は走錨中である
※走錨(そうびょう)とはイカリを下ろしているのに船が流されている状況
であるが、そうではなくてUとYをつなげると「本船は演習中なので避けて下さい」の意味になる。無線がなかった時代に考案されたコミュニケーション手法だけれど、ある大きさ以上の船舶や航行条件によっては、今でも使用が義務づけられている(詳しく調べていない)。
なおこうやってたくさんの信号旗を掲げるのは、祝日や式典などで祝意を表すためのもので軍艦なら満艦飾、一般の船なら満船飾と呼ばれる。海上保安庁の船も軍艦じゃないから満船飾と表現する。
ところで昔は祝意の表現として万国旗を掲げていたらしい。しかしどの国とどの国を隣に並べるか〜マストの上に並ぶ国と下に並ぶ国ができるーーーなどの面倒くさい問題を避けるために、国際信号旗が使われるようになったとされるのが面白い。
また以前は派手に飾り付けること、例えばクリスマスツリーにたくさんの飾りを付けるのを満艦飾にすると表現した。また洗濯物をたくさん干す様子も旗になぞらえて満艦飾といったりも。しかしそういう使い方はもう死語で、最後に使われたのは70年代後半に、ボディを電飾だらけにして走る「トラック野郎」という映画がヒットした頃かな。満船飾のほうはそういう比喩表現には用いられなかったし、満艦飾と較べて聞いた記憶がある人は少ないだろう。

さて話をZ旗に戻すと、国際信号旗での意味は
Z旗:本船にタグボートを求む
(タグボートとは大型船を引いたり押したりして接岸を助ける船)
だけれどZはアルファベットの最後だから「もう後はない」→「絶対に負けられない」との意気込みを示す目的でも使われた。そのきっかけは日露戦争でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ際に、司令長官の東郷平八郎が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との意味を込めてZ旗を掲げたのに由来する。1905年(明治38年)の出来事。
これは彼のエピソードの中で最も有名なもの。それで東郷平八郎といえばZ旗という図式が出来上がる。だから東郷神社ではZ旗のついた御守りはもちろん、なんとZ旗そのものまで売られている!(念のために書いておくと、この日本海海戦と呼ばれる戦いでは日本が圧倒的な勝利を収めた)
その後は勝利のシンボルとして応援の際にZ旗を振ったり、また「必死でがんばる」ことを「Z旗を掲げる」などと表現したようだが、かなり昔に廃れてしまったと思う。なお日産のフェアレディZのネーミングはZ旗に由来するといわれている。
ただこの東郷平八郎のZ旗エピソード。
よく調べてみるとちょっと微妙なのだ。
彼が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とメッセージを発したのは、日本海海戦の100年前の1805年、トラファルガーの海戦でイギリスがフランス(ナポレオンの時代)と戦った際に、イギリスのネルソン提督が「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」と檄を飛ばした故事に習ったもの。
その文章を英語にすると
England expects that every man will do his duty
それを当時のイギリス式信号旗の組み合わせで表現するとこうなる。
dutyは信号旗の組み合わせになかったみたい。uとtとyを表現するのにどうして旗が2つ必要なのか分からないが、とにかく3枚の組み合わせから1枚だけのものまで、合計12セットの信号旗がネルソンの文章には必要。それを順番にマストに掲げては降ろしを繰り返して周りに知らせ、そこから伝言ゲームのように信号旗を使って全艦に伝達したとされる。
けっこうたいへんな作業で信号担当員は大忙し。文法的にはthatを省略してもいいはずで、そうすれば11回で済んだのにと思うものの、まあどうでもいいか。
さて東郷平八郎のZ旗。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と長い文章なのに、どうして旗がたった1枚で済んだのか?
それはZ旗を掲げたら「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と各艦は全乗組員に伝えるようにと、あらかじめ文面を渡してあったから。ちょっとドラマティック感にかけるなあ平ハッチャン(^^ゞ
一説によるとネルソンは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との檄文を戦闘開始の直前に送ったので、そのてんやわんやの緊迫した状況で作戦とは何の関係もない指示に各艦の艦長は戸惑ったとされる。また水兵からは「言われんでもわかってるわ、敵はもう目の前やぞ!」と不評だったらしい。
ひょっとしたら、それを踏まえて事前に文章を配布しておいたのかも知れない。しかしそれでも「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との言葉に「ウォーッ」となったとしても、それがこのZ旗だ!と言われたら「ハア?」だったに違いない(^^ゞ あるいはZ旗は単に伝達のタイミングを知らせる合図であって「皇国の興廃〜」を象徴する意味合いはなかった可能性も。
だから東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると思う。もっともネルソンのエピソードだって時が経ってからは、その言葉で皆が奮い立ったことになっているから、まあ故事とはそんなもの。
なおこの言葉は東郷平八郎ではなく、その下で作戦担当参謀を務めていた秋山真之(さねゆき)が考えたもの。彼は同じく日本海海戦あるいは日本海軍史上での名文とされる電文「本日天気晴朗なれども波高し」でも知られる。
Z旗につられて今回も話が脱線 m(_ _)m
ーーー続く
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2023年08月01日
本能寺の変 新説?
「レジェンド&バタフライ」はいわゆる“ 織田信長モノ”の映画。主演は木村拓哉と綾瀬はるか。公開は今年の1月27日。少し前にAmazonプライムビデオで観た。
映画としての面白さはゴクフツー。時代劇なのでそれなりに重厚感は出ているものの、あくまでキムタクありきの作品。合戦シーンは省略が多く予算が足りなかったのかと思わせる。なお「バタフライ」は綾瀬はるかが演じる信長の正妻「濃姫(のうひめ)」が、帰蝶(きちょう)や胡蝶(こちょう)の名前だったともされるので、そこから取ったネーミングだろう。
さて誰もが知っているように信長の最後は、明智光秀がクーデターを起こした本能寺の変である。信長の最側近だった彼が、なぜそんな行動を起こしたのかについては日本史最大のミステリーといわれたりもする。
怨恨説
野望説
黒幕存在説
四国問題説
義憤説
などがよく知られ、細かなものを含めると50以上の説があるらしい。まあ謎が解けないから歴史は面白い。
それでこのレジェンド&バタフライで描かれているのは、
まったく新しい視点での光秀の動機である。
それは
魔王と恐れられた信長のカリスマ性と行動力に心酔していた光秀だったが、
この頃になると信長がボケて衰えてきたので、
こんなヤツに天下統一は無理と見切りを付けてクーデターを起こした!
との設定。
これはまったく斬新な発想。今までの歴史的見解では信長は死ぬまで絶対的な強者の存在であったから。おそらくそちらが事実だとしても、フィクションって面白いと思わせてくれたストーリーだった。
また「怨恨説」の根拠のひとつに饗応役解任事件と呼ばれるものがある。これは信長の同盟相手である家康が安土城を訪れる際に、光秀が饗応役(接待担当)を任されたものの、料理のために用意した魚が腐っていたのに信長が腹を立てたというもの。光秀は饗応役を解任され、中国地方で毛利と戦っていた秀吉の援軍として出陣を命じらる。それにより自尊心を傷つけられた彼が向かったのは秀吉の元ではなく本能寺ーーー
秀吉の援軍として出陣を命じられたのは史実だとして、魚が腐っていたから饗応役を解任されたかどうかは分かっていない。援軍を出さなければいけない事態のほうが家康を接待するより優先順位が高いと、優秀な軍事司令官だった光秀を起用した可能性もある。
というわけで家康を接待する場に解任された光秀はいないはずなのに、映画やドラマでは家康を招いた宴席で、信長が魚が腐っていると激怒して光秀をボコボコにする場面が好んで使われる。
それがこの映画では
ボケて衰えてきた信長を見くびって、会議の場で居眠りをする家臣がいる。
そんな緩んだ雰囲気を家康に悟られたら、
織田家は弱体化していると攻められるかも知れない。
そこで光秀は家康の前で失態を演じると信長に前もって打ち明ける。
つまり家康の目前で光秀をシバキ倒したのは、激怒した信長の恐ろしさを家康に見せつけるために光秀が仕組んで信長に演じさせた芝居!
いやあフィクションって素晴らしいと感心したわ。
このフィクションで難点があるとすれば信長が亡くなったのは47歳であること。
ボケ始めるにはちょっと早い。(なお年齢は数え年ではなく実年齢。以下、上杉謙信、武田信玄も同様)
ところで信長が好んで舞ったとされる能の一種の「敦盛」は
人間五十年
下天の内をくらぶれば、
夢幻のごとくなり。
との唄で始まる。
それを知ったかぶりして「当時の寿命は50歳くらい」なんていうと、
これは「人間の寿命が50年しなかい」ではなく、仏教で6階層ある天上界の
最も低いレベル(下天)でも寿命が920万年あるので、それと較べれば人間界の
50年なんてあっという間=夢幻のごとくなりとの意味。
と指摘されるからご注意を。
それでも920万年を100年でも1000年でもなく、50年と較べたのにはそれなりに意味があるはず。そして上杉謙信は48歳、武田信玄も51歳で亡くなっているから、50歳はひとつの区切りであって、信長もピークは過ぎていたのは確かだろう。もちろんボケていたかどうかは別問題。またボケるのは肉体的ピークは過ぎたのに、食糧事情や医療のおかげでやたら長生きする現代だからとの気もする。
それはさておき、47歳の信長を討ち取った光秀。彼の生涯の前半は記録がなく=生年月日も不明だから、その時に何歳だったかはよく分かっていない。通説としては信長より年上で55歳前後、あるいは65歳前後から70歳とされている。
後者だと当時としてかなりの高齢者だったことになる。
ということで、本能寺の変の新説その2は
「光秀がボケてクーデターを起こした」なんてのはどう?(^^ゞ
映画としての面白さはゴクフツー。時代劇なのでそれなりに重厚感は出ているものの、あくまでキムタクありきの作品。合戦シーンは省略が多く予算が足りなかったのかと思わせる。なお「バタフライ」は綾瀬はるかが演じる信長の正妻「濃姫(のうひめ)」が、帰蝶(きちょう)や胡蝶(こちょう)の名前だったともされるので、そこから取ったネーミングだろう。
さて誰もが知っているように信長の最後は、明智光秀がクーデターを起こした本能寺の変である。信長の最側近だった彼が、なぜそんな行動を起こしたのかについては日本史最大のミステリーといわれたりもする。
怨恨説
野望説
黒幕存在説
四国問題説
義憤説
などがよく知られ、細かなものを含めると50以上の説があるらしい。まあ謎が解けないから歴史は面白い。
それでこのレジェンド&バタフライで描かれているのは、
まったく新しい視点での光秀の動機である。
それは
魔王と恐れられた信長のカリスマ性と行動力に心酔していた光秀だったが、
この頃になると信長がボケて衰えてきたので、
こんなヤツに天下統一は無理と見切りを付けてクーデターを起こした!
との設定。
これはまったく斬新な発想。今までの歴史的見解では信長は死ぬまで絶対的な強者の存在であったから。おそらくそちらが事実だとしても、フィクションって面白いと思わせてくれたストーリーだった。
また「怨恨説」の根拠のひとつに饗応役解任事件と呼ばれるものがある。これは信長の同盟相手である家康が安土城を訪れる際に、光秀が饗応役(接待担当)を任されたものの、料理のために用意した魚が腐っていたのに信長が腹を立てたというもの。光秀は饗応役を解任され、中国地方で毛利と戦っていた秀吉の援軍として出陣を命じらる。それにより自尊心を傷つけられた彼が向かったのは秀吉の元ではなく本能寺ーーー
秀吉の援軍として出陣を命じられたのは史実だとして、魚が腐っていたから饗応役を解任されたかどうかは分かっていない。援軍を出さなければいけない事態のほうが家康を接待するより優先順位が高いと、優秀な軍事司令官だった光秀を起用した可能性もある。
というわけで家康を接待する場に解任された光秀はいないはずなのに、映画やドラマでは家康を招いた宴席で、信長が魚が腐っていると激怒して光秀をボコボコにする場面が好んで使われる。
それがこの映画では
ボケて衰えてきた信長を見くびって、会議の場で居眠りをする家臣がいる。
そんな緩んだ雰囲気を家康に悟られたら、
織田家は弱体化していると攻められるかも知れない。
そこで光秀は家康の前で失態を演じると信長に前もって打ち明ける。
つまり家康の目前で光秀をシバキ倒したのは、激怒した信長の恐ろしさを家康に見せつけるために光秀が仕組んで信長に演じさせた芝居!
いやあフィクションって素晴らしいと感心したわ。
このフィクションで難点があるとすれば信長が亡くなったのは47歳であること。
ボケ始めるにはちょっと早い。(なお年齢は数え年ではなく実年齢。以下、上杉謙信、武田信玄も同様)
ところで信長が好んで舞ったとされる能の一種の「敦盛」は
人間五十年
下天の内をくらぶれば、
夢幻のごとくなり。
との唄で始まる。
それを知ったかぶりして「当時の寿命は50歳くらい」なんていうと、
これは「人間の寿命が50年しなかい」ではなく、仏教で6階層ある天上界の
最も低いレベル(下天)でも寿命が920万年あるので、それと較べれば人間界の
50年なんてあっという間=夢幻のごとくなりとの意味。
と指摘されるからご注意を。
それでも920万年を100年でも1000年でもなく、50年と較べたのにはそれなりに意味があるはず。そして上杉謙信は48歳、武田信玄も51歳で亡くなっているから、50歳はひとつの区切りであって、信長もピークは過ぎていたのは確かだろう。もちろんボケていたかどうかは別問題。またボケるのは肉体的ピークは過ぎたのに、食糧事情や医療のおかげでやたら長生きする現代だからとの気もする。
それはさておき、47歳の信長を討ち取った光秀。彼の生涯の前半は記録がなく=生年月日も不明だから、その時に何歳だったかはよく分かっていない。通説としては信長より年上で55歳前後、あるいは65歳前後から70歳とされている。
後者だと当時としてかなりの高齢者だったことになる。
ということで、本能寺の変の新説その2は
「光秀がボケてクーデターを起こした」なんてのはどう?(^^ゞ
wassho at 22:50|Permalink│Comments(0)│
2022年12月20日
かつて国会議事堂の敷地は三角形だった
興味があるかどうかは別として、
誰もが知っている国会議事堂。
その敷地がどんな形をしているかなんて考えたこともなかったが、常識的に考えれば四角形のはず。航空写真で確認すれば四隅が斜めになっているものの、横長の議事堂に合わせるように普通に長方形である。
しかし以前はこんな三角形の敷地だったとたまたま知った。
まあ私には何の関わりもない話だとしても、
いつ四角形にしたのか、どうして四角形にした(敷地を拡張した)のか気になるもの。
しかしなぜか調べても関連資料が見つからない。
国会議事堂が建てられたのは1936年(昭和11年)と思っていたより最近である。大日本帝国憲法の公布1889年(明治22年)→国会(帝国議会)開催1890年(明治23年)と歴史が流れるが、議事堂建設は当然ながらそれ以前から準備が進められ、1887年(明治20年)に現在の場所に建設すると決まる。しかし予算の都合ですぐ建設に着手できず、結果的に4つの仮議事堂を経ることになる。
<第1次仮議事堂>
1890年(明治23年)11月24日、なんと第1回帝国議会召集の前日に竣工(完成を意味する、対義語は着工)。現在は経産省がある区画に建てられた。しかし翌年1月20日に火災で焼失してしまう(/o\) わずか2ヶ月の歴史。
<第2次仮議事堂>
同じ場所に1891年4月28日に着工して10月30日に竣工。超突貫工事がんばりました。そして第2回帝国議会召集が11月21日。
<広島臨時仮議事堂>
仮の前に臨時までつくめずらしい建物。1894年(明治27年)8月に、日清戦争のため大本営が広島に置かれる。それで帝国議会も広島で開かれると9月22日に決定され、急遽工事を始めてして10月14日に竣工。議会招集は10月15日。議事堂建設のハードスケジュールはすっかりお約束になってきた。ただし広島での議会開催はたった4日間で、そのためだけの建物。昔から政府は無駄遣いが好きーーー
<1925年(大正14年)9月18日>
第2次仮議事堂が火災のため焼失(>_<)
<第3次仮議事堂>
火災が起きてからわずか80日ほどの1925年(大正14年)12月22日に竣工。もうどんなに早くても驚かなくなってきたね。
そして現在の議事堂は1920年(大正9年)に着工され、なぜか伝統に反して?17年もの歳月をかけて建設された。先ほど書いたように竣工は1936年(昭和11年)。三角形敷地の写真はいつ撮影されたものか不明だが、おそらく完成直後だろう。
さて国会の敷地が三角形から長方形になったのは1960年代に入ってからのようだ。衆議院と参議院のホームページに敷地拡張に関する記述は見当たらないが、Wikipediaによると
昭和30年代(1955-1964年)に入り、周辺の国有地が衆議院および参議院
へ移管されるとともに、パレスハイツ(現・最高裁判所庁舎)・ジェファー
ソンハイツ(現・衆議院議長公邸および参議院議長公邸)・リンカーンセンター
(現・国土交通省庁舎)等の連合国軍占領期以後の在日米軍接収地も返還が
決まったため、首都高速道路の整備と合わせて、国会議事堂の敷地拡張および
周辺の区画整理が行われた。
とある。他で得られた情報も似たり寄ったり。しかしここに書かれているパレスハイツ、ジェファーソンハイツ、リンカーンセンター等は国会議事堂に隣接している場所ではない。首都高も同じく。
現在の地図で見ると丸ノ内線が議事堂敷地の地下を走っている。道路の下に地下鉄を掘ったと考えると、三角形を作っていたラインの1つだろう。このあたりの丸ノ内線は1958年(昭和33年)に開通している。有楽町線の開通は議事堂の敷地が拡張されてから後の1974年(昭和49年)だから、敷地内には入り込んでいない。
それにしても国会議事堂建設については、仮議事堂も含めて膨大な資料があるのに、火災の日付まで分かるのに、なぜ敷地拡張についてははっきりしないのだ?
先ほどWikipediaでは昭和30年代(1955-1964年)と書かれているのに「三角形から長方形になったのは1960年代に入ってから」と断定したのは次の写真を見つけたから。
これは1960年の安保闘争でデモ隊が国会を取り囲んだ様子。
日付は1960年(昭和35年)6月18日。この時はまだ三角形の敷地をしているとわかる。
それにしても凄まじい数のデモ隊。主催者発表で33万人、警察発表でも13万人の規模。日本の政治がまだ熱かった時代。この時は国会のゲートが破られて敷地内に侵入されている。それで私の仮説はデモ隊対策として敷地を拡張したのではというもの。10年後にはまた安保改定があるから、その時のデモ隊に備えるために。
デモ隊とすれば正面から進んできて三角形のほうが取り囲みやすい。四角形だと直角に曲がらなければいけないから突進の勢いがそがれる。もちろん敷地を広げれば道路から議事堂の距離も長くなる。広げなくても投石や火焔瓶は届かなかったと思うけれど、国会議員がすぐ近くまで迫られていると感じる恐怖は幾分和らげただろう。
いわば国家議事堂の黒歴史なので資料があまりないのかなあ。
考えすぎかも知れないが。
それはともかく三角形時代の敷地はどことなく優雅なイメージだね。
誰もが知っている国会議事堂。
その敷地がどんな形をしているかなんて考えたこともなかったが、常識的に考えれば四角形のはず。航空写真で確認すれば四隅が斜めになっているものの、横長の議事堂に合わせるように普通に長方形である。
しかし以前はこんな三角形の敷地だったとたまたま知った。
まあ私には何の関わりもない話だとしても、
いつ四角形にしたのか、どうして四角形にした(敷地を拡張した)のか気になるもの。
しかしなぜか調べても関連資料が見つからない。
国会議事堂が建てられたのは1936年(昭和11年)と思っていたより最近である。大日本帝国憲法の公布1889年(明治22年)→国会(帝国議会)開催1890年(明治23年)と歴史が流れるが、議事堂建設は当然ながらそれ以前から準備が進められ、1887年(明治20年)に現在の場所に建設すると決まる。しかし予算の都合ですぐ建設に着手できず、結果的に4つの仮議事堂を経ることになる。
<第1次仮議事堂>
1890年(明治23年)11月24日、なんと第1回帝国議会召集の前日に竣工(完成を意味する、対義語は着工)。現在は経産省がある区画に建てられた。しかし翌年1月20日に火災で焼失してしまう(/o\) わずか2ヶ月の歴史。
<第2次仮議事堂>
同じ場所に1891年4月28日に着工して10月30日に竣工。超突貫工事がんばりました。そして第2回帝国議会召集が11月21日。
<広島臨時仮議事堂>
仮の前に臨時までつくめずらしい建物。1894年(明治27年)8月に、日清戦争のため大本営が広島に置かれる。それで帝国議会も広島で開かれると9月22日に決定され、急遽工事を始めてして10月14日に竣工。議会招集は10月15日。議事堂建設のハードスケジュールはすっかりお約束になってきた。ただし広島での議会開催はたった4日間で、そのためだけの建物。昔から政府は無駄遣いが好きーーー
<1925年(大正14年)9月18日>
第2次仮議事堂が火災のため焼失(>_<)
<第3次仮議事堂>
火災が起きてからわずか80日ほどの1925年(大正14年)12月22日に竣工。もうどんなに早くても驚かなくなってきたね。
そして現在の議事堂は1920年(大正9年)に着工され、なぜか伝統に反して?17年もの歳月をかけて建設された。先ほど書いたように竣工は1936年(昭和11年)。三角形敷地の写真はいつ撮影されたものか不明だが、おそらく完成直後だろう。
さて国会の敷地が三角形から長方形になったのは1960年代に入ってからのようだ。衆議院と参議院のホームページに敷地拡張に関する記述は見当たらないが、Wikipediaによると
昭和30年代(1955-1964年)に入り、周辺の国有地が衆議院および参議院
へ移管されるとともに、パレスハイツ(現・最高裁判所庁舎)・ジェファー
ソンハイツ(現・衆議院議長公邸および参議院議長公邸)・リンカーンセンター
(現・国土交通省庁舎)等の連合国軍占領期以後の在日米軍接収地も返還が
決まったため、首都高速道路の整備と合わせて、国会議事堂の敷地拡張および
周辺の区画整理が行われた。
とある。他で得られた情報も似たり寄ったり。しかしここに書かれているパレスハイツ、ジェファーソンハイツ、リンカーンセンター等は国会議事堂に隣接している場所ではない。首都高も同じく。
現在の地図で見ると丸ノ内線が議事堂敷地の地下を走っている。道路の下に地下鉄を掘ったと考えると、三角形を作っていたラインの1つだろう。このあたりの丸ノ内線は1958年(昭和33年)に開通している。有楽町線の開通は議事堂の敷地が拡張されてから後の1974年(昭和49年)だから、敷地内には入り込んでいない。
それにしても国会議事堂建設については、仮議事堂も含めて膨大な資料があるのに、火災の日付まで分かるのに、なぜ敷地拡張についてははっきりしないのだ?
先ほどWikipediaでは昭和30年代(1955-1964年)と書かれているのに「三角形から長方形になったのは1960年代に入ってから」と断定したのは次の写真を見つけたから。
これは1960年の安保闘争でデモ隊が国会を取り囲んだ様子。
日付は1960年(昭和35年)6月18日。この時はまだ三角形の敷地をしているとわかる。
それにしても凄まじい数のデモ隊。主催者発表で33万人、警察発表でも13万人の規模。日本の政治がまだ熱かった時代。この時は国会のゲートが破られて敷地内に侵入されている。それで私の仮説はデモ隊対策として敷地を拡張したのではというもの。10年後にはまた安保改定があるから、その時のデモ隊に備えるために。
デモ隊とすれば正面から進んできて三角形のほうが取り囲みやすい。四角形だと直角に曲がらなければいけないから突進の勢いがそがれる。もちろん敷地を広げれば道路から議事堂の距離も長くなる。広げなくても投石や火焔瓶は届かなかったと思うけれど、国会議員がすぐ近くまで迫られていると感じる恐怖は幾分和らげただろう。
いわば国家議事堂の黒歴史なので資料があまりないのかなあ。
考えすぎかも知れないが。
それはともかく三角形時代の敷地はどことなく優雅なイメージだね。
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2022年12月14日
本日12月14日は討ち入りの日じゃない
明日から本日へとタイトル語句を修正して、前回からの続き。
日本で使われてきた暦を一覧にしたのが以下。宣明暦までは中国で制定されたものを導入している。メイドインジャパンな暦は5代将軍徳川綱吉の時代から。偶然にも討ち入りのあった頃である。それにしても元嘉暦の開始が692年ということは飛鳥時代の末期。縄文・弥生時代はともかく、それなりに規模の大きな社会ができていた飛鳥時代や古墳時代は、暦なしでどう生活していたのだろう。
使用開始年 使用年数
元嘉暦(げんかれき) 692年 5年
儀鳳暦(ぎほうれき) 697年 67年
大衍暦(たいえんれき) 764年 94年
五紀暦(ごきれき) 858年 4年
宣明暦(せんみょうれき) 862年 823年
貞享暦(じょうきょうれき) 1685年 70年
宝暦暦(ほうりゃくれき) 1755年 43年
寛政暦(かんせいれき) 1798年 46年
天保暦 (てんぽうれき) 1844年 29年
グレゴリオ暦1873年(明治6年)
なお天保暦まではすべて太陰太陽暦となる。旧暦という場合、一般には現在の1つ前の暦である天保暦を意味するが、もちろんそれ以前は、その出来事が起きた時代に使われていた暦が旧暦と呼ばれる。
ところで月給は月ごとに支払われる賃金。明治6年にグレゴリオ暦へと改暦されたのは西洋文化に合わせる意味もあったが、実は明治6年が天保暦では3年に1度の閏月のある年にあたり、財政事情の苦しい明治政府が13ヶ月分の給料を支払う余裕がなかったからとも言われている。
実際には明治5年12月3日を明治6年(1873年)1月1日とグレゴリを暦に合わせて改暦したので(そんなに太陽暦とずれていたのにも驚くが)、明治政府はその年の閏月分だけではなく、明治5年の12月に働いた2日間分の給料も「たった2日だから」と払っていない。明治政府はその話を盛って「2ヶ月分の給料を節約した、政府は努力している」とアピールしたそうだ。逆に考えれば、昨今は日本の賃金が上がっていないと指摘されるから、いっそ旧暦に戻すのもありかもとキッシーに教えてあげようか(^^ゞ
ただし冷静に考えると、バッくれた2日分の給料は別として、旧暦から新暦に切り替えれば、明治6年に支払う13ヶ月分の給料は12ヶ月分になるものの、その分だけ次の年は早くやってくるわけで、会計年度をまたいで考えればたいした違いはない。どれだけの差になるかを計算すると、
新暦の3年=36ヶ月
旧暦の3年=3年に1度の閏月があるので37ヶ月(正確には19年に7回の閏月)
3年で36/37=97%だから節約できるのは3%、1年だと1%に過ぎない。つまりほとんど節約できていない。それでも新暦への切り替えについて調べると、ほとんどが「2ヶ月分の給料を節約した」と、明治政府の盛った話をそのまま載せている。プロパガンダを信じ込ませてしまえば、その威力は絶大である。
さて討ち入りに話を戻すと、討ち入りがあった元禄15年(貞享暦の時代)は閏月が設定され1年が384日もある年だった。その12月14日を現在の暦に置き換えると1703年1月30日となる。
さらに正確を期すなら、江戸時代でも暦の上では1日の始まりは午前0時を意味する正子(しょうし)だが、一般的には夜明けが1日の始まりとされていた。討ち入り時刻が寅の刻(午前4時前後だから夜明け前)とされているので、江戸時代的にはまだ14日でも今の基準でなら15日早朝になる。それを考慮すると討ち入りがあったのは1月31日である。
閏月の関係もあって、12月14日とはなんと1ヶ月半もずれている。
年もまたいで翌年だなんてヘンな感じ。
まあお祝いする日でもないから別にいいか(^^ゞ
太陰太陽暦では閏月がどこに挿入されるか、またどの月が大の月・小の月かもその都度違うので、旧暦の何月何日が新暦の何月何日に当たるかを単純に計算で求めることはできない。つまり旧暦の日付を新暦の日付に直すのは大変だったのである。(今は暦データをプログラムされた計算ソフトがある)
というわけで歴史上の日付は、赤穂浪士の討ち入り12月14日と同じように、その時代に用いられていた暦での日付がそのまま使われている。また元号だといつのことか分からないから西暦にする場合でも、たとえば寿永4年3月24日に起きた壇ノ浦の戦いなら、寿永4年を1185年に直して1185年3月24日というように日付は旧暦のまま。
旧暦を新暦であるグレゴリオ暦に置き換えると
壇ノ浦の戦い 寿永4年3月24日 →1185年5月2日
桶狭間の戦い 永禄3年5月19日 →1560年6月22日
本能寺の変 天正10年6月2日 →1582年7月1日
関ヶ原の戦い 慶長5年9月15日 →1600年10月21日
黒船来航 嘉永6年6月3日 →1853年7月8日
大政奉還 慶応3年10月14日 →1867年11月9日
壇ノ浦の戦いは5月だったから入水する気になったのかな、桶狭間の戦いは梅雨時だから大雨が降ったのかとか新暦への置き換えで、季節感がリセットされて多少は歴史の見え方が違ってくる場合もあるかも知れない。
なお歴史上の出来事が新暦で表示されているように思える場合でも、グレゴリオ暦がヨーロッパで採用される1582年より以前のものは、その前のユリウス暦で換算されていることがある。例としてWikipediaで桶狭間の戦いは永禄3年5月19日(1560年6月12日)と西暦が併記されているが、この西暦はユリウス暦である。本能寺の変は1582年だが、グレゴリオ暦の採用開始は10月15日からだから、Wikipediaでは同じくユリウス暦で補足されている。また確認はしていないが西洋史の歴史上の日付も1582年以前はおそらくユリウス暦だろう。
それにしても日本の歴史をユリウス暦で表記する意味ある?
ところで討ち入りの日が12月14日か、1月31日なのかはまあいいとして命日はどうだろう。歴史上の人物の命日は今でも供養されたり、あるいはお祭りなんかになっている。たとえば徳川家康は元和2年4月17日没。これを現在の暦に置き換えれば1616年6月1日。しかし東照宮では家康を祀る最も重要な行事として御例祭を毎年4月17日に開いている。こういうのはちょっとビミョー。
それと、その日が閏月だったらどうするのだろう。2月29日生まれの誕生日問題と違って1ヶ月丸々存在しないのだから。またよく生誕何年とか没後何年という言い方もするが、場合によっては旧暦の日付は翌年になる場合もあるから、年数の計算も違ってくる。
最後にオマケとして
赤穂浪士討ち入りの発端は藩主である浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)が、江戸城の松の廊下で吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)に切りつけた事件。ミドルネームっぽい内匠頭や上野介は官職名ね。
松の廊下、正式には松之大廊下(まつのおおろうか)は江戸城では2番目に長い廊下だったとされる。全長50メートル幅4メートルで畳敷き。廊下に沿った襖(ふすま)に松が描かれているので、その名前がついている。もっともこの事件がなければ一般に名前が知られることはなかっただろう。1番長い廊下を知っているのはよほどの城マニアだ。
皇居にある3つの公園のひとつ、皇居東御苑はかつて江戸城の本丸などがあった場所。そこを散策すると松の廊下跡コッチの案内板がある。
何か歴史を感じられるかと、その方向に歩いて行くと、
説明書きがあって、
その隣に小さな石碑があるだけ!
まあ江戸城そのものが残っていないのだから、松の廊下がなくて当然だが、逆にわざわざここが松の廊下があった場所だと石碑を置く意味があるかな? ここは日本屈指のガッカリ名所だと思っている。忠臣蔵ファンの皆さんは話のネタに是非訪れましょう(^^ゞ
おしまい
日本で使われてきた暦を一覧にしたのが以下。宣明暦までは中国で制定されたものを導入している。メイドインジャパンな暦は5代将軍徳川綱吉の時代から。偶然にも討ち入りのあった頃である。それにしても元嘉暦の開始が692年ということは飛鳥時代の末期。縄文・弥生時代はともかく、それなりに規模の大きな社会ができていた飛鳥時代や古墳時代は、暦なしでどう生活していたのだろう。
使用開始年 使用年数
元嘉暦(げんかれき) 692年 5年
儀鳳暦(ぎほうれき) 697年 67年
大衍暦(たいえんれき) 764年 94年
五紀暦(ごきれき) 858年 4年
宣明暦(せんみょうれき) 862年 823年
貞享暦(じょうきょうれき) 1685年 70年
宝暦暦(ほうりゃくれき) 1755年 43年
寛政暦(かんせいれき) 1798年 46年
天保暦 (てんぽうれき) 1844年 29年
グレゴリオ暦1873年(明治6年)
なお天保暦まではすべて太陰太陽暦となる。旧暦という場合、一般には現在の1つ前の暦である天保暦を意味するが、もちろんそれ以前は、その出来事が起きた時代に使われていた暦が旧暦と呼ばれる。
ところで月給は月ごとに支払われる賃金。明治6年にグレゴリオ暦へと改暦されたのは西洋文化に合わせる意味もあったが、実は明治6年が天保暦では3年に1度の閏月のある年にあたり、財政事情の苦しい明治政府が13ヶ月分の給料を支払う余裕がなかったからとも言われている。
実際には明治5年12月3日を明治6年(1873年)1月1日とグレゴリを暦に合わせて改暦したので(そんなに太陽暦とずれていたのにも驚くが)、明治政府はその年の閏月分だけではなく、明治5年の12月に働いた2日間分の給料も「たった2日だから」と払っていない。明治政府はその話を盛って「2ヶ月分の給料を節約した、政府は努力している」とアピールしたそうだ。逆に考えれば、昨今は日本の賃金が上がっていないと指摘されるから、いっそ旧暦に戻すのもありかもとキッシーに教えてあげようか(^^ゞ
ただし冷静に考えると、バッくれた2日分の給料は別として、旧暦から新暦に切り替えれば、明治6年に支払う13ヶ月分の給料は12ヶ月分になるものの、その分だけ次の年は早くやってくるわけで、会計年度をまたいで考えればたいした違いはない。どれだけの差になるかを計算すると、
新暦の3年=36ヶ月
旧暦の3年=3年に1度の閏月があるので37ヶ月(正確には19年に7回の閏月)
3年で36/37=97%だから節約できるのは3%、1年だと1%に過ぎない。つまりほとんど節約できていない。それでも新暦への切り替えについて調べると、ほとんどが「2ヶ月分の給料を節約した」と、明治政府の盛った話をそのまま載せている。プロパガンダを信じ込ませてしまえば、その威力は絶大である。
さて討ち入りに話を戻すと、討ち入りがあった元禄15年(貞享暦の時代)は閏月が設定され1年が384日もある年だった。その12月14日を現在の暦に置き換えると1703年1月30日となる。
さらに正確を期すなら、江戸時代でも暦の上では1日の始まりは午前0時を意味する正子(しょうし)だが、一般的には夜明けが1日の始まりとされていた。討ち入り時刻が寅の刻(午前4時前後だから夜明け前)とされているので、江戸時代的にはまだ14日でも今の基準でなら15日早朝になる。それを考慮すると討ち入りがあったのは1月31日である。
閏月の関係もあって、12月14日とはなんと1ヶ月半もずれている。
年もまたいで翌年だなんてヘンな感じ。
まあお祝いする日でもないから別にいいか(^^ゞ
太陰太陽暦では閏月がどこに挿入されるか、またどの月が大の月・小の月かもその都度違うので、旧暦の何月何日が新暦の何月何日に当たるかを単純に計算で求めることはできない。つまり旧暦の日付を新暦の日付に直すのは大変だったのである。(今は暦データをプログラムされた計算ソフトがある)
というわけで歴史上の日付は、赤穂浪士の討ち入り12月14日と同じように、その時代に用いられていた暦での日付がそのまま使われている。また元号だといつのことか分からないから西暦にする場合でも、たとえば寿永4年3月24日に起きた壇ノ浦の戦いなら、寿永4年を1185年に直して1185年3月24日というように日付は旧暦のまま。
旧暦を新暦であるグレゴリオ暦に置き換えると
壇ノ浦の戦い 寿永4年3月24日 →1185年5月2日
桶狭間の戦い 永禄3年5月19日 →1560年6月22日
本能寺の変 天正10年6月2日 →1582年7月1日
関ヶ原の戦い 慶長5年9月15日 →1600年10月21日
黒船来航 嘉永6年6月3日 →1853年7月8日
大政奉還 慶応3年10月14日 →1867年11月9日
壇ノ浦の戦いは5月だったから入水する気になったのかな、桶狭間の戦いは梅雨時だから大雨が降ったのかとか新暦への置き換えで、季節感がリセットされて多少は歴史の見え方が違ってくる場合もあるかも知れない。
なお歴史上の出来事が新暦で表示されているように思える場合でも、グレゴリオ暦がヨーロッパで採用される1582年より以前のものは、その前のユリウス暦で換算されていることがある。例としてWikipediaで桶狭間の戦いは永禄3年5月19日(1560年6月12日)と西暦が併記されているが、この西暦はユリウス暦である。本能寺の変は1582年だが、グレゴリオ暦の採用開始は10月15日からだから、Wikipediaでは同じくユリウス暦で補足されている。また確認はしていないが西洋史の歴史上の日付も1582年以前はおそらくユリウス暦だろう。
それにしても日本の歴史をユリウス暦で表記する意味ある?
ところで討ち入りの日が12月14日か、1月31日なのかはまあいいとして命日はどうだろう。歴史上の人物の命日は今でも供養されたり、あるいはお祭りなんかになっている。たとえば徳川家康は元和2年4月17日没。これを現在の暦に置き換えれば1616年6月1日。しかし東照宮では家康を祀る最も重要な行事として御例祭を毎年4月17日に開いている。こういうのはちょっとビミョー。
それと、その日が閏月だったらどうするのだろう。2月29日生まれの誕生日問題と違って1ヶ月丸々存在しないのだから。またよく生誕何年とか没後何年という言い方もするが、場合によっては旧暦の日付は翌年になる場合もあるから、年数の計算も違ってくる。
最後にオマケとして
赤穂浪士討ち入りの発端は藩主である浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)が、江戸城の松の廊下で吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)に切りつけた事件。ミドルネームっぽい内匠頭や上野介は官職名ね。
松の廊下、正式には松之大廊下(まつのおおろうか)は江戸城では2番目に長い廊下だったとされる。全長50メートル幅4メートルで畳敷き。廊下に沿った襖(ふすま)に松が描かれているので、その名前がついている。もっともこの事件がなければ一般に名前が知られることはなかっただろう。1番長い廊下を知っているのはよほどの城マニアだ。
皇居にある3つの公園のひとつ、皇居東御苑はかつて江戸城の本丸などがあった場所。そこを散策すると松の廊下跡コッチの案内板がある。
何か歴史を感じられるかと、その方向に歩いて行くと、
説明書きがあって、
その隣に小さな石碑があるだけ!
まあ江戸城そのものが残っていないのだから、松の廊下がなくて当然だが、逆にわざわざここが松の廊下があった場所だと石碑を置く意味があるかな? ここは日本屈指のガッカリ名所だと思っている。忠臣蔵ファンの皆さんは話のネタに是非訪れましょう(^^ゞ
おしまい
wassho at 20:02|Permalink│Comments(0)│
2022年09月13日
9.11 ワールドトレードセンターだった理由
9.11と呼ばれるアメリカ同時多発テロ事件が起こったのは2001年の9月11日。それから20年目の昨年ほどではなかったが、今年もいくつかの特集番組があった。
9.11では
ツインタワーであるワールドトレードセンターの南棟と北棟
ペンタゴンと呼ばれるアメリカ国防総省
ホワイトハウス(国会議事堂との説もある)
の4箇所がハイジャックした飛行機によって狙われた。だから同時多発テロと呼ばれ、また同時多発という言葉もこの時から使われ出したと記憶する。
そのうちホワイトハウスに向かっていた飛行機は途中で墜落したものの(乗客の反撃説やハイジャック犯の操縦ミス説などがある)、ワールドトレードセンターとペンタゴンへの突入には成功した。
ところで9.11で、誰もがまずイメージするのはワールドトレードセンターだと思う。この背の高い110階建てで415&417メートルもある高層ビルなら水平飛行で突入できる(参考までに東京タワー333m、スカイツリー634m)。それに対してペンタゴンは5階建て高さ23メートルしかないので突入は難しい。言い換えればこちらのハイジャック犯のほうが腕がいい。当時そう思ったけれど、そんな不謹慎なことは言い出せなくて(^^ゞ
もっとも飛行機はペンタゴンを直撃したのではなく、手前で胴体着陸して地上を滑るように五角形(英語でペンタゴン)の建物西側に激突したとされている。どのくらい手前なのか調べてみたが情報は見つからなかった。しかしペンタゴンの周りは大きな道路があるから、建物のすぐそばかと思う。
なお幸いにも飛行機が突っ込んだ場所は、改装工事中で使用されていなかった。もしそうでなければ世界最大規模のオフィスビルでもあるペンタゴンでの犠牲者は、ワールドトレードセンターを超えたとも言われている(死亡者数はワールドトレードセンター2763人、ペンタゴン125人)。
さて9.11の概要はそれなりに知っているつもりだったが、
特集番組を見て初めて知ったこともいくつかあった。
そのひとつがワールドトレードセンターが狙われた理由。今までは「アメリカ経済の中心であるニューヨーク」「そこで一番大きなビル」だからと思っていた。しかしビン・ラディンにとってはもっと深い意味があったようだ。
少し長くなるが歴史をたどってみると、
1938年、ロックフェラー財閥がサウジアラビアで初の油田を発見。
それまでサウジアラビアはイスラムの聖地メッカがあるだけの貧乏国だった。
↓
1940年代になるとオイルマネーでサウジアラビアが潤い出す。
それによって建設ラッシュが起きる。
↓
建設会社を起こして中東有数の財閥になったのがビン・ラディンの父親。
彼はとても敬虔なイスラム教徒。息子のビン・ラディンもその影響を受ける。
↓
ただし、行き過ぎて異教徒排斥のイスラム原理主義者になってしまう(/o\)
↓
豊かになったサウジアラビアの王室はだんだんと堕落する。
1979年、王室に反発した原理主義者がメッカのモスク占領事件を起こす。
↓
同じく1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻。
王室は自らへの批判をかわそうと、
「同じイスラム教徒のアフガニスタンを共産主義者から救え」との大義名分で、
原理主義者を義勇兵として送り込む。つまり厄介払いした。
↓
ソ連に対抗するアメリカも、100億ドル近い資金や武器をアフガニスタンに提供。
↓
ビン・ラディンはアフガニスタンで成果を上げ英雄視される。
1988年、自らの組織アルカイーダを結成。
↓
1989年、アフガニスタン紛争が終結。ビン・ラディンはサウジアラビアに帰国。
ただし反王室の立場は変わってなかった。
↓
1990年、湾岸戦争勃発。
イラクがクエートに侵攻し、サウジアラビア国境に到達。
ビン・ラディンは自らの組織が防衛する提案をするものの、
王室・政府はこれを拒否して、アメリカ軍に駐留を求めた。
これにビン・ラディンがブチ切れる。
それは理解できるとして、この時から彼が反王室より反アメリカに変わったとされるのがよくわからない。アメリカはサウジアラビアを防衛してくれるのだし、これ以前にアメリカとビン・ラディンに直接的な衝突はない。でもイスラム原理主義者というのは、異教徒であるアメリカ人が自分の国でデカい顔をするのが許せないらしい。
さてようやくワールドトレードセンター。ビン・ラディンの思考ではサウジアラビア王室が腐敗したのは、オイルマネーのせいで、それをもたらしたのがロックフェラー財閥。そのロックフェラーが建設したのがワールドトレードセンターとのつながりになるみたい。彼は1993年にもワールドトレードセンターで爆発物テロを起こしている。
9.11によってワールドトレードセンターはすっかり有名になった。しかし当時、最も知名度が高く、またニューヨークのアイコンでもあったのはエンパイアステートビル。こちらを狙わなかったのは、周りに高層ビルが多くて狙いにくいし、高さも屋上アンテナ部分をのぞけば381mで低いからだと思っていた。まさかビン・ラディンの逆恨み発想だったとは。
ーーー続く
9.11では
ツインタワーであるワールドトレードセンターの南棟と北棟
ペンタゴンと呼ばれるアメリカ国防総省
ホワイトハウス(国会議事堂との説もある)
の4箇所がハイジャックした飛行機によって狙われた。だから同時多発テロと呼ばれ、また同時多発という言葉もこの時から使われ出したと記憶する。
そのうちホワイトハウスに向かっていた飛行機は途中で墜落したものの(乗客の反撃説やハイジャック犯の操縦ミス説などがある)、ワールドトレードセンターとペンタゴンへの突入には成功した。
ところで9.11で、誰もがまずイメージするのはワールドトレードセンターだと思う。この背の高い110階建てで415&417メートルもある高層ビルなら水平飛行で突入できる(参考までに東京タワー333m、スカイツリー634m)。それに対してペンタゴンは5階建て高さ23メートルしかないので突入は難しい。言い換えればこちらのハイジャック犯のほうが腕がいい。当時そう思ったけれど、そんな不謹慎なことは言い出せなくて(^^ゞ
もっとも飛行機はペンタゴンを直撃したのではなく、手前で胴体着陸して地上を滑るように五角形(英語でペンタゴン)の建物西側に激突したとされている。どのくらい手前なのか調べてみたが情報は見つからなかった。しかしペンタゴンの周りは大きな道路があるから、建物のすぐそばかと思う。
なお幸いにも飛行機が突っ込んだ場所は、改装工事中で使用されていなかった。もしそうでなければ世界最大規模のオフィスビルでもあるペンタゴンでの犠牲者は、ワールドトレードセンターを超えたとも言われている(死亡者数はワールドトレードセンター2763人、ペンタゴン125人)。
さて9.11の概要はそれなりに知っているつもりだったが、
特集番組を見て初めて知ったこともいくつかあった。
そのひとつがワールドトレードセンターが狙われた理由。今までは「アメリカ経済の中心であるニューヨーク」「そこで一番大きなビル」だからと思っていた。しかしビン・ラディンにとってはもっと深い意味があったようだ。
少し長くなるが歴史をたどってみると、
1938年、ロックフェラー財閥がサウジアラビアで初の油田を発見。
それまでサウジアラビアはイスラムの聖地メッカがあるだけの貧乏国だった。
↓
1940年代になるとオイルマネーでサウジアラビアが潤い出す。
それによって建設ラッシュが起きる。
↓
建設会社を起こして中東有数の財閥になったのがビン・ラディンの父親。
彼はとても敬虔なイスラム教徒。息子のビン・ラディンもその影響を受ける。
↓
ただし、行き過ぎて異教徒排斥のイスラム原理主義者になってしまう(/o\)
↓
豊かになったサウジアラビアの王室はだんだんと堕落する。
1979年、王室に反発した原理主義者がメッカのモスク占領事件を起こす。
↓
同じく1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻。
王室は自らへの批判をかわそうと、
「同じイスラム教徒のアフガニスタンを共産主義者から救え」との大義名分で、
原理主義者を義勇兵として送り込む。つまり厄介払いした。
↓
ソ連に対抗するアメリカも、100億ドル近い資金や武器をアフガニスタンに提供。
↓
ビン・ラディンはアフガニスタンで成果を上げ英雄視される。
1988年、自らの組織アルカイーダを結成。
↓
1989年、アフガニスタン紛争が終結。ビン・ラディンはサウジアラビアに帰国。
ただし反王室の立場は変わってなかった。
↓
1990年、湾岸戦争勃発。
イラクがクエートに侵攻し、サウジアラビア国境に到達。
ビン・ラディンは自らの組織が防衛する提案をするものの、
王室・政府はこれを拒否して、アメリカ軍に駐留を求めた。
これにビン・ラディンがブチ切れる。
それは理解できるとして、この時から彼が反王室より反アメリカに変わったとされるのがよくわからない。アメリカはサウジアラビアを防衛してくれるのだし、これ以前にアメリカとビン・ラディンに直接的な衝突はない。でもイスラム原理主義者というのは、異教徒であるアメリカ人が自分の国でデカい顔をするのが許せないらしい。
さてようやくワールドトレードセンター。ビン・ラディンの思考ではサウジアラビア王室が腐敗したのは、オイルマネーのせいで、それをもたらしたのがロックフェラー財閥。そのロックフェラーが建設したのがワールドトレードセンターとのつながりになるみたい。彼は1993年にもワールドトレードセンターで爆発物テロを起こしている。
9.11によってワールドトレードセンターはすっかり有名になった。しかし当時、最も知名度が高く、またニューヨークのアイコンでもあったのはエンパイアステートビル。こちらを狙わなかったのは、周りに高層ビルが多くて狙いにくいし、高さも屋上アンテナ部分をのぞけば381mで低いからだと思っていた。まさかビン・ラディンの逆恨み発想だったとは。
ーーー続く
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2022年08月13日
終戦の日に憲法9条の話
ここしばらくは8月15日前後に、お盆に関連しているような・していないような話を書くことが多かった。今年は趣向を変えて終戦の日にちなんで憲法9条をテーマに。
いきなり話がそれるが日本では8月15日が終戦記念日。しかし、それが世界で少数派なのはあまり知られていない。終戦についての歴史の流れを追うと
1945年(昭和20年)
8月10日 御前会議で降伏を決定し、閣議でそれを承認
連合国側にその旨を通知 (原爆投下は広島が6日、長崎が9日)
8月14日 天皇による詔書作成(これで国内の正式手続きを終えた)
8月15日 玉音放送によって国民と軍に降伏を表明
8月30日 連合国総司令官マッカーサーが日本に到着
9月2日 日本と連合国との間で降伏文書が交わされる
1951年(昭和26年)
9月8日 サンフランシスコ講和条約締結
各国が終戦をいつとしているか Wikipedia によると
8月15日 日本、イギリス、韓国、北朝鮮
9月2日 アメリカ、カナダ、フランス、ロシア
9月3日 中国、台湾
となっている。
日本が声明を出しただけの8月15日より、降伏文書に調印した9月2日とするのは合理性があると思うが、中国や台湾が9月3日なのは、その日から3日間をお祝いで休日にしたのに由来するらしい。日本より先に降伏したイタリアやドイツが第2次世界大戦の終了をいつと捉えているかは資料が見つからなかった。実は第2次世界大戦は戦闘に参加していない国も含めて80カ国ほどが、連合国・枢軸国いずれかの陣営に名前を連ねている。おそらく世界史的に終戦のグルーバルスタンダードは9月2日だろう。
なお9月2日の降伏文書は休戦協定なので、名実ともに終戦となったのは6年後のサンフランシスコ講和条約が締結されたときとなる。

さて終戦〜戦争つながりということで憲法9条。
改憲するかしないかで常に議論の中心となる条文である。
まずは書き出しておくと、
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
(2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
ちなみに憲法は前文と11章で構成され、その11章に103の条文が書かれている。2章は9条のためだけの章立てで、それだけ9条には重きを置いているのだろう。「日本国民は、正義と」〜「これを放棄する」までを第1項、「(2)前項の目的を」からを第2項という。
2つの項があるなら第1項にも(1)と数字を振った方がわかりやすいと思うが、法律は複数の項がある場合、なぜか第2項から数字を振ることになっている。どうして読みにくくするのか理由は知らない。ただし項の下に号を設ける場合は最初から数字を振る。
さて憲法で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定められているのに自衛隊が存在するのは矛盾する。どう測るのか知らないが、その戦力は世界ランキング6位とされている。参考までに1位〜10位はアメリカ・ロシア・中国・インド・フランス・日本・韓国・イギリス・トルコ・ドイツの順。
つまりどう考えても自衛隊は保持しないはずの戦力である。
ではいかなる根拠で自衛隊は存在するのか?
これについては自衛隊発足以来から議論されているテーマであり、もちろんそのすべてを知っているわけではない。私が理解しているところは
9条によって戦争を放棄し、軍隊は持てないのだが、
そもそも憲法以前の話として、人類の歴史において、国家には他国に攻められたら
守る・反撃する当然の権利が認められている。それがいわゆる自衛権。
自衛隊は自衛権のためのものであって、
だから憲法とは関係ないから矛盾もしないというかムニュムニューーー
といったところ。
屁理屈というか詭弁的解釈ではある。しかし殺人は罰せられるけれど正当防衛は認められ、また法律に基づいて死刑もおこなわれる。法律とはそういうものであって、いろいろと矛盾したことを取り繕っていくのが人間の英知というもの。憲法より上位の不文律のような「そもそも論」を持ち出すのはチョー強引とは思うものの、現実社会を考えれば、上記の解釈はなかなか見事なアルテ(技巧)じゃないかと考えている。
さて自衛隊が合憲かどうかとセットで持ち出されるのが、
憲法9条で国を守れる・守れないの議論である。
ほとんど神学論争のようなもので、双方の言い分にそれぞれ一理はある。ただし基本的に議論そのものがズレている。なぜなら憲法9条は「戦争ダメ絶対」との規定であって、国を守れるかどうかは守備範囲でないと思うから。
ーーー続く
「終戦の日に憲法9条の話」というタイトルなのに、本日はまだその日ではないが、お読みになったように8月10日からが「終戦の始まり」なのでヨシとしましょう。
いきなり話がそれるが日本では8月15日が終戦記念日。しかし、それが世界で少数派なのはあまり知られていない。終戦についての歴史の流れを追うと
1945年(昭和20年)
8月10日 御前会議で降伏を決定し、閣議でそれを承認
連合国側にその旨を通知 (原爆投下は広島が6日、長崎が9日)
8月14日 天皇による詔書作成(これで国内の正式手続きを終えた)
8月15日 玉音放送によって国民と軍に降伏を表明
8月30日 連合国総司令官マッカーサーが日本に到着
9月2日 日本と連合国との間で降伏文書が交わされる
1951年(昭和26年)
9月8日 サンフランシスコ講和条約締結
各国が終戦をいつとしているか Wikipedia によると
8月15日 日本、イギリス、韓国、北朝鮮
9月2日 アメリカ、カナダ、フランス、ロシア
9月3日 中国、台湾
となっている。
日本が声明を出しただけの8月15日より、降伏文書に調印した9月2日とするのは合理性があると思うが、中国や台湾が9月3日なのは、その日から3日間をお祝いで休日にしたのに由来するらしい。日本より先に降伏したイタリアやドイツが第2次世界大戦の終了をいつと捉えているかは資料が見つからなかった。実は第2次世界大戦は戦闘に参加していない国も含めて80カ国ほどが、連合国・枢軸国いずれかの陣営に名前を連ねている。おそらく世界史的に終戦のグルーバルスタンダードは9月2日だろう。
なお9月2日の降伏文書は休戦協定なので、名実ともに終戦となったのは6年後のサンフランシスコ講和条約が締結されたときとなる。

さて終戦〜戦争つながりということで憲法9条。
改憲するかしないかで常に議論の中心となる条文である。
まずは書き出しておくと、
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
(2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
ちなみに憲法は前文と11章で構成され、その11章に103の条文が書かれている。2章は9条のためだけの章立てで、それだけ9条には重きを置いているのだろう。「日本国民は、正義と」〜「これを放棄する」までを第1項、「(2)前項の目的を」からを第2項という。
2つの項があるなら第1項にも(1)と数字を振った方がわかりやすいと思うが、法律は複数の項がある場合、なぜか第2項から数字を振ることになっている。どうして読みにくくするのか理由は知らない。ただし項の下に号を設ける場合は最初から数字を振る。
さて憲法で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定められているのに自衛隊が存在するのは矛盾する。どう測るのか知らないが、その戦力は世界ランキング6位とされている。参考までに1位〜10位はアメリカ・ロシア・中国・インド・フランス・日本・韓国・イギリス・トルコ・ドイツの順。
つまりどう考えても自衛隊は保持しないはずの戦力である。
ではいかなる根拠で自衛隊は存在するのか?
これについては自衛隊発足以来から議論されているテーマであり、もちろんそのすべてを知っているわけではない。私が理解しているところは
9条によって戦争を放棄し、軍隊は持てないのだが、
そもそも憲法以前の話として、人類の歴史において、国家には他国に攻められたら
守る・反撃する当然の権利が認められている。それがいわゆる自衛権。
自衛隊は自衛権のためのものであって、
だから憲法とは関係ないから矛盾もしないというかムニュムニューーー
といったところ。
屁理屈というか詭弁的解釈ではある。しかし殺人は罰せられるけれど正当防衛は認められ、また法律に基づいて死刑もおこなわれる。法律とはそういうものであって、いろいろと矛盾したことを取り繕っていくのが人間の英知というもの。憲法より上位の不文律のような「そもそも論」を持ち出すのはチョー強引とは思うものの、現実社会を考えれば、上記の解釈はなかなか見事なアルテ(技巧)じゃないかと考えている。
さて自衛隊が合憲かどうかとセットで持ち出されるのが、
憲法9条で国を守れる・守れないの議論である。
ほとんど神学論争のようなもので、双方の言い分にそれぞれ一理はある。ただし基本的に議論そのものがズレている。なぜなら憲法9条は「戦争ダメ絶対」との規定であって、国を守れるかどうかは守備範囲でないと思うから。
ーーー続く
「終戦の日に憲法9条の話」というタイトルなのに、本日はまだその日ではないが、お読みになったように8月10日からが「終戦の始まり」なのでヨシとしましょう。
wassho at 19:40|Permalink│Comments(0)│
2020年07月31日
奈良時代の人口は300万人だった!?
先日、コロナの話題から派生したような企画内容のテレビ番組があり、古来より日本ではさまざまな疫病=感染症に見舞われてきた歴史を紹介していた。
その中で興味深かったのが
奈良時代に疱瘡(ほうそ=天然痘)が蔓延し、
100万人が亡くなった。
これは当時の人口の1/3に当たる。
との解説。
えっ! 100万人で1/3ということは
奈良時代の人口って、たったの300万人?
番組制作者からは「ソッチカイ!」と突っ込まれそうだが(^^ゞ

現在の日本の人口は約1億2600万人。もちろん昔はそれより少ないと常識的にわかるとしても、たったの300万人にビックリしたというか、そんな遠い昔の人口なんて考えたこともなかったので虚を突かれた感じ。
それで少し調べてみた。もちろん正確な統計は明治になってから。江戸時代以前は推測になるものの、いろいろ研究しての結果だから、それなりに近い数字なのだと思う。
情報ソースによって数字は異なるので、エイヤッと要約すると
縄文時代:26万人
縄文時代は1万3000年もの長い期間。始まった頃は2万人、最盛期で26万人に
達したとされる。たったそれだけの集団が作った土器や土偶が今も残っているのは
感慨深いなあ。
ただし縄文晩期には気候変動による寒冷化で8万人まで減少。
8万人って最盛期の1/3以下で、日本人滅亡の危機が迫っていたレベルじゃないか。
弥生時代:約1000年間で8万人から60万人まで増加。稲作が始まったおかげ。
古墳時代:具体的な数字を見つけられず。
奈良時代:450万人
テレビの300万人とは数字が違うが、天然痘で亡くなったのは150万人との説も
あり、それなら人口の1/3という比率は同じになる。いずれにせよ仰天の死亡率。
平安時代初期:550万人
平安時代末期:680万人
鎌倉時代初期:760万人
室町時代初期:820万人
江戸時代初期:1200万人
江戸時代中期:3100万人
明治時代:初期3300万人〜終期5000万人
終戦(1945年):7200万人
だから何だという数字ではある。しかし明治の始めは人口が今の1/3。ゆったり暮らせたろうなとか〜1000万人を超えたのは戦国時代。集団で合戦しているイメージがあるが今の1/10なら人集めが大変だったかもとか〜平安時代でも今の1/20かあ。そんなに人が少なければ暗闇に妖怪・魑魅魍魎が潜んでいると思うのも無理はないか〜など、あれこれモーソーが膨らんで楽しい。歴史の授業でも教えるべきだ。もっとも3000万人を超えた江戸中期以降はともかく、この国で1000万人以下の人しかいなかった状況は、どうにも具体的にイメージしづらいが。
2004年内閣府少子化白書のグラフでマクロ的に見ると、戦国時代が終わるまで日本の人口はなだらかに推移し、そして江戸時代になって爆発的に増えている。ただし江戸時代中頃からは停滞が始まり、ふたたび増加に転じるのは明治になってから。
そして現在は少子化の世の中である。
同じように数字を並べると
1967年(昭和42年):1億人突破
1974年(昭和49年):人口維持に必要とされる出生率2.08を下回る
2008年(平成20年):1億2808万人でピークに達し、以降は減少に転じる
2058年:1億人を割り込む予定
こちらは2015年厚生労働白書からのグラフ。
あと40年で終戦直後、80年で明治維新の頃の人口となる(/o\)
もっとも、これは移民を今より取らない前提でのシミュレーションであるが。
ところで少子化が問題になっているのは誰でも知っていると思うけれど、こういった具体的なイメージを持っている人は、ほとんどいないんじゃないかな?
それはさておき、あと80年かあ〜
その頃の日本をこの目で見たいが難しいだろうなあ(^^ゞ
その中で興味深かったのが
奈良時代に疱瘡(ほうそ=天然痘)が蔓延し、
100万人が亡くなった。
これは当時の人口の1/3に当たる。
との解説。
えっ! 100万人で1/3ということは
奈良時代の人口って、たったの300万人?
番組制作者からは「ソッチカイ!」と突っ込まれそうだが(^^ゞ

現在の日本の人口は約1億2600万人。もちろん昔はそれより少ないと常識的にわかるとしても、たったの300万人にビックリしたというか、そんな遠い昔の人口なんて考えたこともなかったので虚を突かれた感じ。
それで少し調べてみた。もちろん正確な統計は明治になってから。江戸時代以前は推測になるものの、いろいろ研究しての結果だから、それなりに近い数字なのだと思う。
情報ソースによって数字は異なるので、エイヤッと要約すると
縄文時代:26万人
縄文時代は1万3000年もの長い期間。始まった頃は2万人、最盛期で26万人に
達したとされる。たったそれだけの集団が作った土器や土偶が今も残っているのは
感慨深いなあ。
ただし縄文晩期には気候変動による寒冷化で8万人まで減少。
8万人って最盛期の1/3以下で、日本人滅亡の危機が迫っていたレベルじゃないか。
弥生時代:約1000年間で8万人から60万人まで増加。稲作が始まったおかげ。
古墳時代:具体的な数字を見つけられず。
奈良時代:450万人
テレビの300万人とは数字が違うが、天然痘で亡くなったのは150万人との説も
あり、それなら人口の1/3という比率は同じになる。いずれにせよ仰天の死亡率。
平安時代初期:550万人
平安時代末期:680万人
鎌倉時代初期:760万人
室町時代初期:820万人
江戸時代初期:1200万人
江戸時代中期:3100万人
明治時代:初期3300万人〜終期5000万人
終戦(1945年):7200万人
だから何だという数字ではある。しかし明治の始めは人口が今の1/3。ゆったり暮らせたろうなとか〜1000万人を超えたのは戦国時代。集団で合戦しているイメージがあるが今の1/10なら人集めが大変だったかもとか〜平安時代でも今の1/20かあ。そんなに人が少なければ暗闇に妖怪・魑魅魍魎が潜んでいると思うのも無理はないか〜など、あれこれモーソーが膨らんで楽しい。歴史の授業でも教えるべきだ。もっとも3000万人を超えた江戸中期以降はともかく、この国で1000万人以下の人しかいなかった状況は、どうにも具体的にイメージしづらいが。
2004年内閣府少子化白書のグラフでマクロ的に見ると、戦国時代が終わるまで日本の人口はなだらかに推移し、そして江戸時代になって爆発的に増えている。ただし江戸時代中頃からは停滞が始まり、ふたたび増加に転じるのは明治になってから。
そして現在は少子化の世の中である。
同じように数字を並べると
1967年(昭和42年):1億人突破
1974年(昭和49年):人口維持に必要とされる出生率2.08を下回る
2008年(平成20年):1億2808万人でピークに達し、以降は減少に転じる
2058年:1億人を割り込む予定
こちらは2015年厚生労働白書からのグラフ。
あと40年で終戦直後、80年で明治維新の頃の人口となる(/o\)
もっとも、これは移民を今より取らない前提でのシミュレーションであるが。
ところで少子化が問題になっているのは誰でも知っていると思うけれど、こういった具体的なイメージを持っている人は、ほとんどいないんじゃないかな?
それはさておき、あと80年かあ〜
その頃の日本をこの目で見たいが難しいだろうなあ(^^ゞ
wassho at 19:25|Permalink│Comments(1)│
2020年05月27日
清盛と秀吉の17年間
たまには歴史をテーマにの第2弾。
前回の続きで、本能寺の変の11日後に光秀を破ったのが秀吉。
秀吉はその後の数年で天下統一を果たし、権力も富も望むかぎりを手に入れた。大阪城もすごいけれど、極めつけは黄金の茶室。あんなのはドバイの王族だって持っていないゾ(彼らが茶室を欲しがるのか?というツッコミはナシで)。他に聚楽第や伏見城、京都の大仏なども。箱物以外では北野大茶会、醍醐の花見など湯水のごとくお金を使っている。
それが天下人として栄華を極めるということなのかも知れない。しかし本能寺の変が起きたのは1582年で、秀吉が亡くなったのが1598年。つまり彼が権力の座にあったのはわずか17年なのである。歴史では信長〜秀吉〜家康を一連の流れで捉えることが多いし、この期間は日本史のハイライトで出来事も多いから、秀吉の時代はもっと長いと感じてしまいがち。
ちなみに17年間だった「秀吉時代」前後の政権存続期間を記すと
鎌倉時代 1192年〜1333年 142年間
室町時代 1336年〜1573年 238年間
江戸時代 1603年〜1868年 266年間
歴史上の短期政権はもうひとつあって、それは平家。平家が政権を掌握していたのは1167年から壇ノ浦で滅亡する1185年までとされる。ただし実質的には京都を脱出した1183年までとも考えられ、それなら秀吉と同じ17年間となる。その17年で「平家にあらずんば人にあらず」の権勢を誇ったのだから、これまたスゴイ。
もちろん秀吉は本能寺の変の時点で、信長の後継を狙えるポジションにまで迫っており、1582年にゼロからスタートしたわけじゃない。平家といえば下層とはいえ貴族出身で、清盛の祖父の代にはかなりの勢力だった。それでも日本の歴史に燦然と残る時代を、たった17年間で築いたことは特筆に値すると思うのだ。なぜかこのことは歴史でほとんど話題にならないが。
ところで、
けっこう歳食っちゃったわけだが、
まだ17年残っているかな?
なお17年しか維持できなかったのだという皮肉な見方はやめて、
素直に人生の励みにしましょう(^^ゞ
前回の続きで、本能寺の変の11日後に光秀を破ったのが秀吉。
秀吉はその後の数年で天下統一を果たし、権力も富も望むかぎりを手に入れた。大阪城もすごいけれど、極めつけは黄金の茶室。あんなのはドバイの王族だって持っていないゾ(彼らが茶室を欲しがるのか?というツッコミはナシで)。他に聚楽第や伏見城、京都の大仏なども。箱物以外では北野大茶会、醍醐の花見など湯水のごとくお金を使っている。
それが天下人として栄華を極めるということなのかも知れない。しかし本能寺の変が起きたのは1582年で、秀吉が亡くなったのが1598年。つまり彼が権力の座にあったのはわずか17年なのである。歴史では信長〜秀吉〜家康を一連の流れで捉えることが多いし、この期間は日本史のハイライトで出来事も多いから、秀吉の時代はもっと長いと感じてしまいがち。
ちなみに17年間だった「秀吉時代」前後の政権存続期間を記すと
鎌倉時代 1192年〜1333年 142年間
室町時代 1336年〜1573年 238年間
江戸時代 1603年〜1868年 266年間
歴史上の短期政権はもうひとつあって、それは平家。平家が政権を掌握していたのは1167年から壇ノ浦で滅亡する1185年までとされる。ただし実質的には京都を脱出した1183年までとも考えられ、それなら秀吉と同じ17年間となる。その17年で「平家にあらずんば人にあらず」の権勢を誇ったのだから、これまたスゴイ。
もちろん秀吉は本能寺の変の時点で、信長の後継を狙えるポジションにまで迫っており、1582年にゼロからスタートしたわけじゃない。平家といえば下層とはいえ貴族出身で、清盛の祖父の代にはかなりの勢力だった。それでも日本の歴史に燦然と残る時代を、たった17年間で築いたことは特筆に値すると思うのだ。なぜかこのことは歴史でほとんど話題にならないが。
ところで、
けっこう歳食っちゃったわけだが、
まだ17年残っているかな?
なお17年しか維持できなかったのだという皮肉な見方はやめて、
素直に人生の励みにしましょう(^^ゞ
wassho at 08:08|Permalink│Comments(0)│
2020年05月26日
明智光秀の三日天下
たまには歴史をテーマに。
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀が主人公。オンエア直前に沢尻エリカがパクられて撮り直したり、現在はコロナのせいで撮影できず来月から放送休止になるなど踏んだり蹴ったりみたいだ。
さて光秀といえば本能寺の変である。信長に対するこのクーデターは、その動機や背後関係において日本史最大のミステリーともいわれている。いろんな推察がされているが、光秀直筆の日記でも見つからない限り謎は解けないから、これからも歴史ファンを楽しませてくれるだろう。
信長には勝利した光秀だが、秀吉との戦いに敗れて命をとす。本能寺の変からわずか11日後の出来事。11日じゃ語呂が悪いからか、なぜかそれを三日天下と呼ぶ。しかし実質的には信長を倒しただけで、まだ天下を取ったとはいえない。歴史の if が許されるなら、光秀には3ヶ月くらいは天下を取って欲しかった。なぜなら、それくらいの期間があれば本能寺の変に関する記録が残ったと思うから。
それなのに、せっかちすぎるゾ秀吉(^^ゞ
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀が主人公。オンエア直前に沢尻エリカがパクられて撮り直したり、現在はコロナのせいで撮影できず来月から放送休止になるなど踏んだり蹴ったりみたいだ。
さて光秀といえば本能寺の変である。信長に対するこのクーデターは、その動機や背後関係において日本史最大のミステリーともいわれている。いろんな推察がされているが、光秀直筆の日記でも見つからない限り謎は解けないから、これからも歴史ファンを楽しませてくれるだろう。
信長には勝利した光秀だが、秀吉との戦いに敗れて命をとす。本能寺の変からわずか11日後の出来事。11日じゃ語呂が悪いからか、なぜかそれを三日天下と呼ぶ。しかし実質的には信長を倒しただけで、まだ天下を取ったとはいえない。歴史の if が許されるなら、光秀には3ヶ月くらいは天下を取って欲しかった。なぜなら、それくらいの期間があれば本能寺の変に関する記録が残ったと思うから。
それなのに、せっかちすぎるゾ秀吉(^^ゞ
wassho at 06:39|Permalink│Comments(0)│
2012年02月07日
平清盛 訂正
ここと、ここで書いた平清盛の話。
2番目のエントリーで「平清盛は幼名を平太といい、元服して清盛を名乗る」と書いたのは間違い。正確に言うと大河ドラマではそういう設定になっているが、清盛の幼名ははっきりと分かっておらず、平太というのはドラマの上での設定。
謹んでお詫び申し上げるーーーほどのこととも思っていないが(^^ゞ
念のために書いておきます。
清盛のことはあまり知識がないものだから、つい史実だと思ってしまった。
どうでもいいけど「平家の男の子だから平太」というのは素直なネーミング。
でも名前を漢字で書くと「平平太」と暗号のようになってしまうね。
歴史については、まあまあ知っているつもりだけれど、学術的な文献や資料を読むわけでもなく、ある程度解釈された歴史物語を楽しむだけ。だから作者がどこかに紛れ込ませた創作を歴史的な事実だと思い込んでいることは、他にもたくさんあるかもしれない。信長・秀吉・家康なんかは日本人の中に何となくの共通イメージがあると思うが、それらも史実と創作の入り交じったもの。
というか誰かが最初に書いた創作も、時代がたって引用を繰り返されるうちに史実のようになってしまうのかもしれない。楽しむ分には、それも含めて歴史かな。冷静に考えれば、今生きている人や、今起きている事件や出来事についても、それほど多くの事実を知っているわけでもないはず。
ところで、
先週の大河ドラマは見忘れた(^^ゞ
2番目のエントリーで「平清盛は幼名を平太といい、元服して清盛を名乗る」と書いたのは間違い。正確に言うと大河ドラマではそういう設定になっているが、清盛の幼名ははっきりと分かっておらず、平太というのはドラマの上での設定。
謹んでお詫び申し上げるーーーほどのこととも思っていないが(^^ゞ
念のために書いておきます。
清盛のことはあまり知識がないものだから、つい史実だと思ってしまった。
どうでもいいけど「平家の男の子だから平太」というのは素直なネーミング。
でも名前を漢字で書くと「平平太」と暗号のようになってしまうね。
歴史については、まあまあ知っているつもりだけれど、学術的な文献や資料を読むわけでもなく、ある程度解釈された歴史物語を楽しむだけ。だから作者がどこかに紛れ込ませた創作を歴史的な事実だと思い込んでいることは、他にもたくさんあるかもしれない。信長・秀吉・家康なんかは日本人の中に何となくの共通イメージがあると思うが、それらも史実と創作の入り交じったもの。
というか誰かが最初に書いた創作も、時代がたって引用を繰り返されるうちに史実のようになってしまうのかもしれない。楽しむ分には、それも含めて歴史かな。冷静に考えれば、今生きている人や、今起きている事件や出来事についても、それほど多くの事実を知っているわけでもないはず。
ところで、
先週の大河ドラマは見忘れた(^^ゞ
wassho at 19:38|Permalink│Comments(0)│

















































































































































































































































































































