歴史
2024年08月02日
トウケイとトキオ その3
明治時代に東京をトウキョウではなくトウケイと読む人がいたと知っても、今でもそう読めなくもないし、前回に記した国語セオリーや時代背景を考えれば「そんなこともあったのだろうな」との感想程度にしかならない。
しかしトウケイだけでなく、
トキオとも呼ばれていたと知ってビックリ!である。
私の記憶でトキオの言葉を初めて聞いたのは、1979年(昭和54年)に発売されたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「テクノポリス」が最初。いわゆるテクノポップの演奏の冒頭と途中に合成音声ぽい響きでトキオが連呼される。
YMOの登場は衝撃的で、サーフィンブームの真っ盛りの当時は、右を見ても左を見てもおかっぱ頭のサーファーばかりだったのに、突如もみあげのないテクノカットの連中が大量に出現したのをよく覚えている。服も白黒の市松模様のデザインが流行ったかな。
ただしYMOの人気は若者中心に限られていた。TOKIOの言葉が日本全体に広まったのは、翌1980年にタイトルもズバリ「TOKIO」だったジュリーこと沢田研二のヒット曲。電飾キラキラのコスチュームを着て、なぜかパラシュートを背負いながら歌う姿に、大げさに言えば日本中が衝撃を受けた。まだ家族揃って歌番組を見ていた最後の時代である。
沢田研二は1979年にも「OH! ギャル」でギャルという言葉を日本に紹介している。70年代後半の彼は、化粧をした中性的なヴィジュアル系路線でステージに立つなどどイケイケで最先端な存在だった。彼自身かスタッフかはわからないけれど、新しい言葉に対する感覚も鋭かったのだと思う。ちなみにテクノポリスの発売が1979年10月25日で、TOKIOが1980年1月1日と近いからYMOの歌詞をパクったのではないはず。
それはそうとしてーーー
沢田研二のTOKIOには「スーパーシティが舞い上がる」「TOKIO 優しい女が眠る街」などTOKIO=東京と思わせる歌詞がある。しかしYMOのテクノポリスは「トキオ、トキオ」の連呼だけで、この曲は他に歌詞がないいわゆるインストゥルメンタル・ミュージック。
それでもテクノポリスを初めて聴いた瞬間からトキオ=東京だと理解していた記憶がある。それは直感的にそう思ったのか、それともそれ以前に東京を外人はトキオと呼ぶと何かで知っていたのか。あれこれ記憶をたどってみても、なにせ45年も前の話なのでまったく思い出せない(^^ゞ
さて話を明治時代のトキオに戻すと、トウケイの他にトキオの読みもあったと触れている解説はいくつかあり、比較的詳しい記述を見つけたのは気象予報士が書いたこの記事。
それによると
明治8年(1875年)気象庁の前身である内務省地理局・地理寮量地課・気象掛が発足。
英文の気象報告書も出しており、そこには発行元として、
日本東京内務省地理局
IMPERIAL METEOROLOGICAL OBSERVATORY TOKEI JAPAN
と記されている。
英文は帝国東京気象台の意味。
そしてこの時点で東京の読みは TOKEI=トウケイになっている。
それが明治16年(1883年)9月からTOKEIがTOKIO=トキオに変更される。
その表記は大正2年(1913年)まで30年間続き、同年よりTOKYO=トウキョウが使われる。
つまり明治初期はトウケイ→中頃近くになってトキオ→大正に入ってトウキョウの変遷。
読み方変更の理由はわからないようだが、記事では明治中頃に政府は不平等条約の改正に向け動き出したから、それでドイツ語やフランス語的な発音に変えたのではないかと推測している。併せて明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたのを理由に英語的な発音になり、それが前回に書いた明治36年の国定教科書で東京にトーキョーのフリガナが付いたのにもつながったのではと。
ただ「IMPERIAL METEOROLOGICAL 〜」のTOKEIをTOKIOに変えただけなら全体としては英語。それに不平等条約改正の交渉は英米の説得から始まっているから、その推測が当たっているかどうかはよくわからない。
いずれにせよ公文書にTOKIOと書かれているのなら、単なる当時の流行り言葉あるいは訛りなどではなく、間違いなく東京が正式にトキオとも呼ばれていた時代が確かにあったのだ。TOKIO=外国風発音とずっと思っていたから、これはかなり驚いた歴史の発見。
そういえば
TOKIOは外人が東京を指して使う言葉
外人だから英語
と何となく思ってしまうが、私の経験でも記事の筆者がいうように英語圏の人はトウキョウと日本語的に発音するし、フランス人は英語で話していてもトキオと発音し、最初のトの音が強い。さらに江戸時代の初めに来日した宣教師が作成した日葡辞書(にっぽ辞書:日本語ポルトガル語辞書)にはTOQIOの単語が載っているらしい(このTOQIOは現在の東京ではなく単に東方にある都の意味)。TOKIOよりTOQIOのほうが格好いいかも。
また中国人で東京をトウキュウあるいはトウキュと発音する人は何名か出会った。来日した中国人クライアントに「(英語で)東急ステーションに連れて行ってくれ」と頼まれ、危うく渋谷に向かいかけたことがある(>_<)
ところでYMOがテクノポリスを発表した1979年は、今では死語となった「ナウい」がまだ使われていた時代。最新のテクノポップにトキオ、トキオと連呼する音を被せたのは、その語感がナウいと思ったからに違いない。誰か去年亡くなった坂本龍一の墓に行って「トキオって明治時代の言葉みたいですよ」と教えてあげて(^^ゞ
おしまい
しかしトウケイだけでなく、
トキオとも呼ばれていたと知ってビックリ!である。
私の記憶でトキオの言葉を初めて聞いたのは、1979年(昭和54年)に発売されたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「テクノポリス」が最初。いわゆるテクノポップの演奏の冒頭と途中に合成音声ぽい響きでトキオが連呼される。
YMOの登場は衝撃的で、サーフィンブームの真っ盛りの当時は、右を見ても左を見てもおかっぱ頭のサーファーばかりだったのに、突如もみあげのないテクノカットの連中が大量に出現したのをよく覚えている。服も白黒の市松模様のデザインが流行ったかな。
ただしYMOの人気は若者中心に限られていた。TOKIOの言葉が日本全体に広まったのは、翌1980年にタイトルもズバリ「TOKIO」だったジュリーこと沢田研二のヒット曲。電飾キラキラのコスチュームを着て、なぜかパラシュートを背負いながら歌う姿に、大げさに言えば日本中が衝撃を受けた。まだ家族揃って歌番組を見ていた最後の時代である。
沢田研二は1979年にも「OH! ギャル」でギャルという言葉を日本に紹介している。70年代後半の彼は、化粧をした中性的なヴィジュアル系路線でステージに立つなどどイケイケで最先端な存在だった。彼自身かスタッフかはわからないけれど、新しい言葉に対する感覚も鋭かったのだと思う。ちなみにテクノポリスの発売が1979年10月25日で、TOKIOが1980年1月1日と近いからYMOの歌詞をパクったのではないはず。
それはそうとしてーーー
沢田研二のTOKIOには「スーパーシティが舞い上がる」「TOKIO 優しい女が眠る街」などTOKIO=東京と思わせる歌詞がある。しかしYMOのテクノポリスは「トキオ、トキオ」の連呼だけで、この曲は他に歌詞がないいわゆるインストゥルメンタル・ミュージック。
それでもテクノポリスを初めて聴いた瞬間からトキオ=東京だと理解していた記憶がある。それは直感的にそう思ったのか、それともそれ以前に東京を外人はトキオと呼ぶと何かで知っていたのか。あれこれ記憶をたどってみても、なにせ45年も前の話なのでまったく思い出せない(^^ゞ
さて話を明治時代のトキオに戻すと、トウケイの他にトキオの読みもあったと触れている解説はいくつかあり、比較的詳しい記述を見つけたのは気象予報士が書いたこの記事。
それによると
明治8年(1875年)気象庁の前身である内務省地理局・地理寮量地課・気象掛が発足。
英文の気象報告書も出しており、そこには発行元として、
日本東京内務省地理局
IMPERIAL METEOROLOGICAL OBSERVATORY TOKEI JAPAN
と記されている。
英文は帝国東京気象台の意味。
そしてこの時点で東京の読みは TOKEI=トウケイになっている。
それが明治16年(1883年)9月からTOKEIがTOKIO=トキオに変更される。
その表記は大正2年(1913年)まで30年間続き、同年よりTOKYO=トウキョウが使われる。
つまり明治初期はトウケイ→中頃近くになってトキオ→大正に入ってトウキョウの変遷。
読み方変更の理由はわからないようだが、記事では明治中頃に政府は不平等条約の改正に向け動き出したから、それでドイツ語やフランス語的な発音に変えたのではないかと推測している。併せて明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたのを理由に英語的な発音になり、それが前回に書いた明治36年の国定教科書で東京にトーキョーのフリガナが付いたのにもつながったのではと。
ただ「IMPERIAL METEOROLOGICAL 〜」のTOKEIをTOKIOに変えただけなら全体としては英語。それに不平等条約改正の交渉は英米の説得から始まっているから、その推測が当たっているかどうかはよくわからない。
いずれにせよ公文書にTOKIOと書かれているのなら、単なる当時の流行り言葉あるいは訛りなどではなく、間違いなく東京が正式にトキオとも呼ばれていた時代が確かにあったのだ。TOKIO=外国風発音とずっと思っていたから、これはかなり驚いた歴史の発見。
そういえば
TOKIOは外人が東京を指して使う言葉
外人だから英語
と何となく思ってしまうが、私の経験でも記事の筆者がいうように英語圏の人はトウキョウと日本語的に発音するし、フランス人は英語で話していてもトキオと発音し、最初のトの音が強い。さらに江戸時代の初めに来日した宣教師が作成した日葡辞書(にっぽ辞書:日本語ポルトガル語辞書)にはTOQIOの単語が載っているらしい(このTOQIOは現在の東京ではなく単に東方にある都の意味)。TOKIOよりTOQIOのほうが格好いいかも。
また中国人で東京をトウキュウあるいはトウキュと発音する人は何名か出会った。来日した中国人クライアントに「(英語で)東急ステーションに連れて行ってくれ」と頼まれ、危うく渋谷に向かいかけたことがある(>_<)
ところでYMOがテクノポリスを発表した1979年は、今では死語となった「ナウい」がまだ使われていた時代。最新のテクノポップにトキオ、トキオと連呼する音を被せたのは、その語感がナウいと思ったからに違いない。誰か去年亡くなった坂本龍一の墓に行って「トキオって明治時代の言葉みたいですよ」と教えてあげて(^^ゞ
おしまい
wassho at 21:47|Permalink│Comments(0)│
2024年07月31日
トウケイとトキオ その2
江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それで人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態となる。
こんな風にテレビで「へいせい」と声が聞こえてきたわけじゃないからね。
まだラジオだってない時代。
物心ついたときからトウキョウと呼ばれていたし、そもそも東京は「東の京都」「首都である京都が東に移った」との意味合い。だからトウキョウを信じて疑ったこともないが、国語的にはトウケイが正しく、そして東京と名付けた明治新政府もトウケイの読みを意図していたとの説もある。
漢字は音を聞くと意味がわかる訓読みと、わからない音読みに分かれる。訓読みは漢字の意味に合う日本語を当てはめたもので、音読みは昔の中国の発音が元になっている。
例えば男の訓読みはオトコで、音読みはダン。
また長男などナンの音読みもある。
これは「音読みは昔の中国の発音が元になって」と書いた、その昔に幅があるため。
それで音読みの発音は
呉音:仏教と共に6世紀頃に伝わった。中国南方の方言がベース。
発音が柔らかい。拗音と促音が多い。男ならナン。
拗音(ようおん)→ゃゅょ(ちいさい文字)
促音(そくおん)→っ(音がはねる)
漢音:7〜8世紀の遣唐使が持ち帰った。唐の都である長安の発音。
発音が固い。濁音が多い。 男ならダン。
に分かれる。他には割合としては少ないものの、この呉音と漢音が日本語として定着して以降の平安末期に入ってきた宋音や唐音などもある。
東京を東と京に分けて、呉音と漢音で記すと
東
呉音 つう
漢音 とう
京
呉音 きょう
漢音 けい
熟語の場合、音読みは呉音か漢音かで揃えるのが原則。
例えば
老若男女 ろうにゃく・なんにょ
男女平等 たんじょ・びょうどう
でもトウキョウは呉音と漢音のチャンポンになっている。
東の呉音「つう」は一般的ではないので、東京は漢音で揃えてトウケイと読むのが国語セオリー的には正しい。また明治新政府幹部つまり当時のエリートは、漢文の素養も高いので当然ながらトウケイと考えていたはずーーーというのが先ほど書いた説の根拠。
エリートじゃないクラスでも、今よりは漢文あるいは漢文に近い日本語文章に接していたので、直感的にトウキョウの読みには違和感を覚えたかも知れない。それでもトウキョウと発音したのは、それだけ1000年も都が続いた「京都 キョウ」の存在が大きかったともいわれる。
一方でトウケイと発音したのは先祖代々から東京に住む「江戸っ子」が多かったらしい。彼らは地元の徳川びいきで、京都の朝廷と組んで幕府を倒した明治新政府を快く思っていない。それで京都を連想させるトウキョウの読みが気に入らなかったようだ。
やがてこの問題は1903年(明治36年)に国定教科書の制度が定められて解決を見る。その教科書で東京にトーキョーとのフリガナが付いた。これにより徐々にトウキョウの読みが定着していく。どうしてトウケイにしなかったのかの資料は見当たらなかった。
思うに京都に近い西日本ではトウキョウだったろうし、東京に全国から人が集まるようになってトウキョウがデファクトスタンダードになったのではないか。また明治も36年になると、当時の平均寿命は44歳程度だから、「てやんでえ、トウケイに決まってんだろうが、べらぼうめ!」と考える江戸時代生まれの徳川びいきが少なくなったのも影響したと考えられる。
ーーー続く
この「東京」には読みが記されていなかった。
それで人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態となる。
こんな風にテレビで「へいせい」と声が聞こえてきたわけじゃないからね。
まだラジオだってない時代。
物心ついたときからトウキョウと呼ばれていたし、そもそも東京は「東の京都」「首都である京都が東に移った」との意味合い。だからトウキョウを信じて疑ったこともないが、国語的にはトウケイが正しく、そして東京と名付けた明治新政府もトウケイの読みを意図していたとの説もある。
漢字は音を聞くと意味がわかる訓読みと、わからない音読みに分かれる。訓読みは漢字の意味に合う日本語を当てはめたもので、音読みは昔の中国の発音が元になっている。
例えば男の訓読みはオトコで、音読みはダン。
また長男などナンの音読みもある。
これは「音読みは昔の中国の発音が元になって」と書いた、その昔に幅があるため。
それで音読みの発音は
呉音:仏教と共に6世紀頃に伝わった。中国南方の方言がベース。
発音が柔らかい。拗音と促音が多い。男ならナン。
拗音(ようおん)→ゃゅょ(ちいさい文字)
促音(そくおん)→っ(音がはねる)
漢音:7〜8世紀の遣唐使が持ち帰った。唐の都である長安の発音。
発音が固い。濁音が多い。 男ならダン。
に分かれる。他には割合としては少ないものの、この呉音と漢音が日本語として定着して以降の平安末期に入ってきた宋音や唐音などもある。
東京を東と京に分けて、呉音と漢音で記すと
東
呉音 つう
漢音 とう
京
呉音 きょう
漢音 けい
熟語の場合、音読みは呉音か漢音かで揃えるのが原則。
例えば
老若男女 ろうにゃく・なんにょ
男女平等 たんじょ・びょうどう
でもトウキョウは呉音と漢音のチャンポンになっている。
東の呉音「つう」は一般的ではないので、東京は漢音で揃えてトウケイと読むのが国語セオリー的には正しい。また明治新政府幹部つまり当時のエリートは、漢文の素養も高いので当然ながらトウケイと考えていたはずーーーというのが先ほど書いた説の根拠。
エリートじゃないクラスでも、今よりは漢文あるいは漢文に近い日本語文章に接していたので、直感的にトウキョウの読みには違和感を覚えたかも知れない。それでもトウキョウと発音したのは、それだけ1000年も都が続いた「京都 キョウ」の存在が大きかったともいわれる。
一方でトウケイと発音したのは先祖代々から東京に住む「江戸っ子」が多かったらしい。彼らは地元の徳川びいきで、京都の朝廷と組んで幕府を倒した明治新政府を快く思っていない。それで京都を連想させるトウキョウの読みが気に入らなかったようだ。
やがてこの問題は1903年(明治36年)に国定教科書の制度が定められて解決を見る。その教科書で東京にトーキョーとのフリガナが付いた。これにより徐々にトウキョウの読みが定着していく。どうしてトウケイにしなかったのかの資料は見当たらなかった。
思うに京都に近い西日本ではトウキョウだったろうし、東京に全国から人が集まるようになってトウキョウがデファクトスタンダードになったのではないか。また明治も36年になると、当時の平均寿命は44歳程度だから、「てやんでえ、トウケイに決まってんだろうが、べらぼうめ!」と考える江戸時代生まれの徳川びいきが少なくなったのも影響したと考えられる。
ーーー続く
wassho at 20:05|Permalink│Comments(0)│
2024年07月30日
トウケイとトキオ
昔の人の名前は「藤原の道長」「源の頼朝」と「の」を挟んで読んでいたのに、時代が下るにつれて「の」がなくなって「足利尊氏」「徳川家康」となる。その名前が天皇から与えられた【ウジ(氏)なら「の」が付く】と日本史で習うけれど、それについての疑問を豊臣秀吉と千利休をテーマにして3回、それ以外に2回と少し前にあれこれ書いた。
その調べ物の途中でたまたま見つけたネタが今回のテーマ。
まずは、
明治時代に東京はトウケイとも呼ばれていた話から。
1868年1月に鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、4月に江戸城が引き渡されると明治新政府は天皇を京都から東京に移す。3000人以上の随行者を従えた出発は11月4日で到着が11月26日(表記はすべて新暦)。その2ヶ月前の9月3日に出されたのが「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。詔書(しょうしょ)とは天皇の名前で出される文書。
内容は
天皇が江戸で政務を執る
(だから)江戸を東京に改称する
のふたつ。
※「京」の文字には天皇が住む場所との意味がある。
いわゆる首都の移転=遷都であるが、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために、11月の移動は行幸(ぎょうこう=天皇が皇居から出かける)扱いになっている。実際、天皇は翌年1月にいったん京都に戻り、5月に再び東京へ行幸している。20日以上もかかる移動を3回もご苦労様。ただし記録を読むと16歳の少年だった明治天皇にとっては、今までにない体験で道中を何かと楽しんだ様子。
そして2度目の行幸では太政官(個人の役職ではなく内閣のような行政の最高機関を意味する)も同行し、しばらく後に皇后も東京に移り、天皇が東京を本拠地にすると事実上決まった。
そうやって明治新政府は既成事実を積み重ね、なし崩し的に遷都を実現した。先ほどの詔書も「江戸で政務を執る」と書いてあるだけで「京都では執らない」ではないから、京都と東京のダブル首都を匂わせるようなニュアンス。また行幸は出かけるを意味し、行幸先から帰るのは還幸(かんこう)と呼び名が変わる。そして新政府はタイミングを見計らって、明治5年(1872年)に天皇が西国・九州巡幸(巡幸=複数の目的地への行幸)の一環として京都に赴く際に、シレっと還幸ではなく行幸と表現している。
それでも苦労したというか京都への配慮を感じさせるのは、明治22年(1889年)と明治維新からかなり後に制定した旧皇室典範で、即位の礼と大嘗祭を京都で行うと決めたこと。大嘗祭(だいじょうさい)は即位後の最初の秋に行い、天皇にとって一世に一度の最も重要とされる儀式。
従って大正天皇と昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都で執り行われた。その規定がなくなったのは戦後の昭和22年(1947年)。だから東京で即位したのは今の上皇が史上初になる。ただし即位の儀式に必要な高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座(のようなもの)は京都御所にあり、平成、令和の即位の礼でも京都から皇居に運ばれ、そして戻されている。今も高御座の保管場所を京都から東京に移すのに反対があるのか? 輸送中の事故のほうが心配な気がするけれど。
平城京から平安京への遷都などと違って、東京への首都移転は形式上の正式な手続きを経ていない。それを皮肉って昔の京都の人は「天皇さんは東京にお出かけ中です」と言っていたとか言わなかったとか(^^ゞ
ちなみに東京行幸前の4月に大阪行幸も実施されている。滞在は46日間。実は最初の遷都案は大阪で、この行幸も東京行幸と意図は同じ。諸般の情勢でその後に東京に決まったものの、大阪が首都になった可能性もワンチャンあったのは意外と知られていない。
さて江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それが人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態を招く。
ーーー続く
その調べ物の途中でたまたま見つけたネタが今回のテーマ。
まずは、
明治時代に東京はトウケイとも呼ばれていた話から。
1868年1月に鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、4月に江戸城が引き渡されると明治新政府は天皇を京都から東京に移す。3000人以上の随行者を従えた出発は11月4日で到着が11月26日(表記はすべて新暦)。その2ヶ月前の9月3日に出されたのが「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。詔書(しょうしょ)とは天皇の名前で出される文書。
内容は
天皇が江戸で政務を執る
(だから)江戸を東京に改称する
のふたつ。
※「京」の文字には天皇が住む場所との意味がある。
いわゆる首都の移転=遷都であるが、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために、11月の移動は行幸(ぎょうこう=天皇が皇居から出かける)扱いになっている。実際、天皇は翌年1月にいったん京都に戻り、5月に再び東京へ行幸している。20日以上もかかる移動を3回もご苦労様。ただし記録を読むと16歳の少年だった明治天皇にとっては、今までにない体験で道中を何かと楽しんだ様子。
そして2度目の行幸では太政官(個人の役職ではなく内閣のような行政の最高機関を意味する)も同行し、しばらく後に皇后も東京に移り、天皇が東京を本拠地にすると事実上決まった。
そうやって明治新政府は既成事実を積み重ね、なし崩し的に遷都を実現した。先ほどの詔書も「江戸で政務を執る」と書いてあるだけで「京都では執らない」ではないから、京都と東京のダブル首都を匂わせるようなニュアンス。また行幸は出かけるを意味し、行幸先から帰るのは還幸(かんこう)と呼び名が変わる。そして新政府はタイミングを見計らって、明治5年(1872年)に天皇が西国・九州巡幸(巡幸=複数の目的地への行幸)の一環として京都に赴く際に、シレっと還幸ではなく行幸と表現している。
それでも苦労したというか京都への配慮を感じさせるのは、明治22年(1889年)と明治維新からかなり後に制定した旧皇室典範で、即位の礼と大嘗祭を京都で行うと決めたこと。大嘗祭(だいじょうさい)は即位後の最初の秋に行い、天皇にとって一世に一度の最も重要とされる儀式。
従って大正天皇と昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都で執り行われた。その規定がなくなったのは戦後の昭和22年(1947年)。だから東京で即位したのは今の上皇が史上初になる。ただし即位の儀式に必要な高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座(のようなもの)は京都御所にあり、平成、令和の即位の礼でも京都から皇居に運ばれ、そして戻されている。今も高御座の保管場所を京都から東京に移すのに反対があるのか? 輸送中の事故のほうが心配な気がするけれど。
平城京から平安京への遷都などと違って、東京への首都移転は形式上の正式な手続きを経ていない。それを皮肉って昔の京都の人は「天皇さんは東京にお出かけ中です」と言っていたとか言わなかったとか(^^ゞ
ちなみに東京行幸前の4月に大阪行幸も実施されている。滞在は46日間。実は最初の遷都案は大阪で、この行幸も東京行幸と意図は同じ。諸般の情勢でその後に東京に決まったものの、大阪が首都になった可能性もワンチャンあったのは意外と知られていない。
さて江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それが人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態を招く。
ーーー続く
wassho at 22:27|Permalink│Comments(0)│
2024年07月25日
名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問 その2
古事記と日本書紀の次に調べたのは、
平安中期の文学代表作である枕草子(1001年頃)と源氏物語(1008年頃)。
あっ、枕草子に「の」が入っている!
これらは古事記や日本書紀と違って、前回に書いた万葉仮名の次世代バージョンである平仮名を使って漢字仮名交じりで書かれている。といっても漢字は僅かでほとんどが平仮名。だからウジ(氏)の付く名前に「の」が入っているか確かめられる可能性がある。理屈の上ではーーー
まずは枕草子。
清少納言が使えた中宮定子は藤原定子だし、その父の藤原道隆と、定子の兄弟である藤原伊周(これちか)や藤原隆家などの藤原氏、橘則光、源経房など実在のたくさんの貴族が登場する。
ただし藤原道隆は関白殿、藤原伊周は大納言殿、橘則光は左衛門の尉則光など官職か官職&個人名で書かれていて、ウジ(氏)の付く名前で書かれていない。
それでも唯一、藤原時柄なる人物がそのままの名前で会話の中に登場する。
しかし枕草子(オリジナルは残っておらず写本)はこのような感じで平仮名主体とはいえ判読不能。画像はhttps://x.gd/AJnH9から引用(短縮URL使用)
しかも枕草子は300ほどの章段に分かれており、該当部分は103段目にあるのだが、データベースにある写本画像は単にズラーッと並んでいるだけで該当部分がどれなのかわからない。判読不能なので読みながら探すのも無理(もし読めても相当時間がかかる)。
仕方なく枕草子で藤原時柄がどう記載されているかのリサーチは断念(/o\)
次に源氏物語。
源氏物語はいづれの御時にか=いつの頃だったか忘れてしまった−−−で始まる架空の物語。「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」を徹底するためにフルネームで書かれている人物はいない。光源氏を始めほとんどがニックネーム。
その中で上の名前がハッキリしているのが藤典侍という女性。古文で習う読みは「とう の ないしのすけ」。藤は藤原氏を連想させるためのテクニック。典侍は女官の官職名であるが、ともかくウジ(氏)の後に「の」が書かれているかをリサーチ。
のつもりだったのにーーー、
源氏物語も原本は残っておらず、こちらは室町時代後期の1532年に写された写本。画像はhttps://x.gd/1R7DOから引用(短縮URL使用)
藤典侍がフルネームで登場するのは第33帖第2章第2段のみ(他では典侍の表記)。先ほどの枕草子と違い、データベースは第33帖の先頭まではジャンプできた。しかしそこから先は同じく画像が順番に並んでいるだけ。原文と照らし合わせて漢字が書いてある箇所を手がかりに藤典侍を探そうとするも、この平仮名がまったく読めない(>_<)
そんなわけで藤典侍も見つけられず。
ちなみに第33帖の書き出しは(文章は読みやすいよう現代の漢字仮名交じりになっている)
御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、
ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、
わが心ながら執念きぞかし。
その部分の画像がこれ。
こんなの読める?
データベースがジャンプした箇所は本当に第33帖冒頭?
実は同じ官職名を持つ源典侍(げん の ないしのすけ)なる人物も同じく、一箇所だけフルネームで登場する。でも藤典侍を探すのに精根尽きたので挑戦せずm(_ _)m
それにしてもこんな文字で書かれた物語を読んで、当時は「まあ、いとおかしオホホホ」なんてやっていたのか? おそるべし平安女子!
さてめげずに平家物語。
11世紀初頭の枕草子や源氏物語と違って、こちらは13世紀前半の成立とされている。200年ほど経って同じ漢字仮名交じり文でも、もっと漢字が多くなって該当箇所を探しやすいだろうと期待。
平家物語も原本はなく、これは1370年(室町時代初期)の写しと推定されている写本。画像はhttps://da.library.ryukoku.ac.jp/page/000020から引用
赤線部分に書かれているのは平朝臣清盛公。
「の」の文字は見られない。
しかしこちらの慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本では細かくルビが振ってあり、しっかりと「たいら の あそん」と「の」が入っている。画像はhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=keiheikeから引用
ここまでを作成年順に並べると
1158年(平安末期):官宣旨:「の」はない
1370年(室町時代初期):平家物語写本:「の」はない
慶長年間(1596〜1615年):日本書紀写本
すべてではないが「の」と但し書きが付く箇所が多い。
慶長年間(1596〜1615年):平家物語写本:「の」のフリガナがある。
これでわかるのは遅くとも慶長の時代にウジ(氏)の後に「の」を入れて読んでいた事実ただそれだけ。1370年の写本では「の」が書いてなくても常識として「の」を読んでいた可能性は残るし、慶長の時代に「ウジ(氏)には「の」を付けても、そうでなければ付けないの使い分けルールがあったかも不明。
いろいろと調べた割には骨折り損のくたびれもうけ。もちろんそれは最初から承知で、歴史の証拠集めをする真似事のお遊び。それなりに楽しかった。
古代の人のしゃべり言葉を聞くことは出来ない。「蘇我の馬子」や「小野の妹子」だったとしても、それは「銭形のとっつぁん」程度のものだったような気がする。
もう一度、最初の疑問に立ち返ると
天皇に与えられた公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
と歴史で教えられるけれど、それにエビデンスはあるのか? ウジ(氏)を与える制度は5〜6世紀に始まったとされる。その頃の資料にフリガナでも振ってあったのか?と思ったのが始まり。
そして名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的なミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家あるいは文書を扱う人が、それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを設けたのでは?との推測。
古墳時代はひとまず置いといて、疑問の後半に重きを置くなら
ウジ(氏)を与えられていた家系がミョウジ(苗字または名字)を名乗りだしたのが平安後期から。もしエビデンスがあるとすれば、
その頃に書かれたウジ(氏)なら「の」が付く、ミョウジ(苗字または名字)には
付けないとのルールあるいはマナーを示した文書が発見される。
平仮名を多用する平安文学のどれかに、例えばウジ(氏)を名乗る藤原家の
人物なら「ふじわら の 誰それ」、ミョウジ(苗字または名字)を名乗る一条家の
人物には「いちじょう誰それ」と書き分けられていれば、その当時から「の」の
あるなしを使い分けていたと判明する。
まあそんなエビデンスが見つかっても歴史の解明に役に立たないけれど。
ときどき書いているように、ネットで得られる情報には誰かが書いた間違い、あるいはいい加減な話が、他の人によってコピペを重ねられるうちに、すっかり事実のように扱われているケースがけっこうある。それと違い【ウジ(氏)なら「の」が付く】ははるか以前からの歴史学説ではあるものの、どこか似たような匂いを感じたから、好奇心からその根拠を知りたいだけ。
歴史に詳しい人から見たらトンチンカンな思い込みを書いているのかも知れない。とりあえずこんな与太話を最後まで読んでくれてありがとう。
おしまい
平安中期の文学代表作である枕草子(1001年頃)と源氏物語(1008年頃)。
あっ、枕草子に「の」が入っている!
これらは古事記や日本書紀と違って、前回に書いた万葉仮名の次世代バージョンである平仮名を使って漢字仮名交じりで書かれている。といっても漢字は僅かでほとんどが平仮名。だからウジ(氏)の付く名前に「の」が入っているか確かめられる可能性がある。理屈の上ではーーー
まずは枕草子。
清少納言が使えた中宮定子は藤原定子だし、その父の藤原道隆と、定子の兄弟である藤原伊周(これちか)や藤原隆家などの藤原氏、橘則光、源経房など実在のたくさんの貴族が登場する。
ただし藤原道隆は関白殿、藤原伊周は大納言殿、橘則光は左衛門の尉則光など官職か官職&個人名で書かれていて、ウジ(氏)の付く名前で書かれていない。
それでも唯一、藤原時柄なる人物がそのままの名前で会話の中に登場する。
しかし枕草子(オリジナルは残っておらず写本)はこのような感じで平仮名主体とはいえ判読不能。画像はhttps://x.gd/AJnH9から引用(短縮URL使用)
しかも枕草子は300ほどの章段に分かれており、該当部分は103段目にあるのだが、データベースにある写本画像は単にズラーッと並んでいるだけで該当部分がどれなのかわからない。判読不能なので読みながら探すのも無理(もし読めても相当時間がかかる)。
仕方なく枕草子で藤原時柄がどう記載されているかのリサーチは断念(/o\)
次に源氏物語。
源氏物語はいづれの御時にか=いつの頃だったか忘れてしまった−−−で始まる架空の物語。「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」を徹底するためにフルネームで書かれている人物はいない。光源氏を始めほとんどがニックネーム。
その中で上の名前がハッキリしているのが藤典侍という女性。古文で習う読みは「とう の ないしのすけ」。藤は藤原氏を連想させるためのテクニック。典侍は女官の官職名であるが、ともかくウジ(氏)の後に「の」が書かれているかをリサーチ。
のつもりだったのにーーー、
源氏物語も原本は残っておらず、こちらは室町時代後期の1532年に写された写本。画像はhttps://x.gd/1R7DOから引用(短縮URL使用)
藤典侍がフルネームで登場するのは第33帖第2章第2段のみ(他では典侍の表記)。先ほどの枕草子と違い、データベースは第33帖の先頭まではジャンプできた。しかしそこから先は同じく画像が順番に並んでいるだけ。原文と照らし合わせて漢字が書いてある箇所を手がかりに藤典侍を探そうとするも、この平仮名がまったく読めない(>_<)
そんなわけで藤典侍も見つけられず。
ちなみに第33帖の書き出しは(文章は読みやすいよう現代の漢字仮名交じりになっている)
御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、
ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、
わが心ながら執念きぞかし。
その部分の画像がこれ。
こんなの読める?
データベースがジャンプした箇所は本当に第33帖冒頭?
実は同じ官職名を持つ源典侍(げん の ないしのすけ)なる人物も同じく、一箇所だけフルネームで登場する。でも藤典侍を探すのに精根尽きたので挑戦せずm(_ _)m
それにしてもこんな文字で書かれた物語を読んで、当時は「まあ、いとおかしオホホホ」なんてやっていたのか? おそるべし平安女子!
さてめげずに平家物語。
11世紀初頭の枕草子や源氏物語と違って、こちらは13世紀前半の成立とされている。200年ほど経って同じ漢字仮名交じり文でも、もっと漢字が多くなって該当箇所を探しやすいだろうと期待。
平家物語も原本はなく、これは1370年(室町時代初期)の写しと推定されている写本。画像はhttps://da.library.ryukoku.ac.jp/page/000020から引用
赤線部分に書かれているのは平朝臣清盛公。
「の」の文字は見られない。
しかしこちらの慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本では細かくルビが振ってあり、しっかりと「たいら の あそん」と「の」が入っている。画像はhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=keiheikeから引用
ここまでを作成年順に並べると
1158年(平安末期):官宣旨:「の」はない
1370年(室町時代初期):平家物語写本:「の」はない
慶長年間(1596〜1615年):日本書紀写本
すべてではないが「の」と但し書きが付く箇所が多い。
慶長年間(1596〜1615年):平家物語写本:「の」のフリガナがある。
これでわかるのは遅くとも慶長の時代にウジ(氏)の後に「の」を入れて読んでいた事実ただそれだけ。1370年の写本では「の」が書いてなくても常識として「の」を読んでいた可能性は残るし、慶長の時代に「ウジ(氏)には「の」を付けても、そうでなければ付けないの使い分けルールがあったかも不明。
いろいろと調べた割には骨折り損のくたびれもうけ。もちろんそれは最初から承知で、歴史の証拠集めをする真似事のお遊び。それなりに楽しかった。
古代の人のしゃべり言葉を聞くことは出来ない。「蘇我の馬子」や「小野の妹子」だったとしても、それは「銭形のとっつぁん」程度のものだったような気がする。
もう一度、最初の疑問に立ち返ると
天皇に与えられた公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
と歴史で教えられるけれど、それにエビデンスはあるのか? ウジ(氏)を与える制度は5〜6世紀に始まったとされる。その頃の資料にフリガナでも振ってあったのか?と思ったのが始まり。
そして名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的なミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家あるいは文書を扱う人が、それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを設けたのでは?との推測。
古墳時代はひとまず置いといて、疑問の後半に重きを置くなら
ウジ(氏)を与えられていた家系がミョウジ(苗字または名字)を名乗りだしたのが平安後期から。もしエビデンスがあるとすれば、
その頃に書かれたウジ(氏)なら「の」が付く、ミョウジ(苗字または名字)には
付けないとのルールあるいはマナーを示した文書が発見される。
平仮名を多用する平安文学のどれかに、例えばウジ(氏)を名乗る藤原家の
人物なら「ふじわら の 誰それ」、ミョウジ(苗字または名字)を名乗る一条家の
人物には「いちじょう誰それ」と書き分けられていれば、その当時から「の」の
あるなしを使い分けていたと判明する。
まあそんなエビデンスが見つかっても歴史の解明に役に立たないけれど。
ときどき書いているように、ネットで得られる情報には誰かが書いた間違い、あるいはいい加減な話が、他の人によってコピペを重ねられるうちに、すっかり事実のように扱われているケースがけっこうある。それと違い【ウジ(氏)なら「の」が付く】ははるか以前からの歴史学説ではあるものの、どこか似たような匂いを感じたから、好奇心からその根拠を知りたいだけ。
歴史に詳しい人から見たらトンチンカンな思い込みを書いているのかも知れない。とりあえずこんな与太話を最後まで読んでくれてありがとう。
おしまい
wassho at 21:28|Permalink│Comments(0)│
2024年07月22日
名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問
豊臣秀吉の呼び名はなぜ「の」が付かず、逆に千利休には「の」が付くのかについて先日3回にわたってブログを書いた。その時にいろいろと調べたわけであるが、すると「の」に関してもっと根源的な疑問がフツフツと。
豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
最初のブログから引用すると、
======
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
======
そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ
さてである。
「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。
とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。
そして冒頭に書いた根源的な疑問とは
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> それってエビデンスあるの? <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。
さらにいえば
【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
そう読んでいたのではなく、
名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、
それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
設けた
ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。
少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。
ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。
ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。
ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。
それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。
そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。
さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。
教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。
そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。
これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用
ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ。
古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)
また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します
同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。
これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。
いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。
それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。
とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。
さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。
実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の
茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる
を万葉仮名で書くと
茜草指 武良前野逝 標野行
野守者不見哉 君之袖布流
恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。
万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。
万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。
残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。
ーーー続く
豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
最初のブログから引用すると、
======
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
======
そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ
さてである。
「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。
とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。
そして冒頭に書いた根源的な疑問とは
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> それってエビデンスあるの? <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。
さらにいえば
【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
そう読んでいたのではなく、
名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、
それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
設けた
ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。
少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。
ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。
ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。
ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。
それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。
そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。
さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。
教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。
そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。
これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用
ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ。
古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)
また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します
同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。
これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。
いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。
それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。
とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。
さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。
実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の
茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる
を万葉仮名で書くと
茜草指 武良前野逝 標野行
野守者不見哉 君之袖布流
恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。
万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。
万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。
残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。
ーーー続く
wassho at 22:44|Permalink│Comments(0)│
2024年07月15日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
豊臣秀吉がなぜ「豊臣の秀吉」と「の」を付けて呼ばれないかの推察を2回にわたって書いてきた。逆にどうして「の」を付けて呼ばれるのか不思議な人物が、秀吉と関係が深かった千利休。
彼の略歴と名前を並べると
1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。
子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)
ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは
茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
茶道:それが礼儀作法として形式化したもの
が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ
19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。
また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。
肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。
30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。
1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。
1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。
徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。
1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。
なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ
1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。
改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。
それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。
また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。
利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。
そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。
例えば源頼朝のフルネームは
源 の 朝臣 頼朝
で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。
そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。
前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?
まったくワケワカメ(>_<)
こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。
ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。
だったらーーー
秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ
いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。
彼の略歴と名前を並べると
1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。
子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)
ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは
茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
茶道:それが礼儀作法として形式化したもの
が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ
19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。
また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。
肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。
30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。
1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。
1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。
徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。
1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。
なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ
1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。
改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。
それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。
また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。
利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。
そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。
例えば源頼朝のフルネームは
源 の 朝臣 頼朝
で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。
そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。
前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?
まったくワケワカメ(>_<)
こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。
ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。
だったらーーー
秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ
いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。
wassho at 13:25|Permalink│Comments(0)│
2024年07月14日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
ミョウジ(苗字または名字)が名前の主流となってもウジ(氏)が無くなったわけではない。朝廷内や公的な業務では引き続きウジ(氏)が用いられる。そしてウジ(氏)の名前があるのは上級国民の証し。それがなければ朝廷内では名無しの権兵衛に等しく相手にされない。そこで戦国時代の下克上で成り上がった、すなわち出身が上級国民でない武将たちは家系図を捏造するなどして何とかウジ(氏)を手に入れている。(一度与えられたウジ(氏)は世襲され、つまり天皇の再承認なしに引き継がれるから、先祖をでっち上げるわけ)
信長の織田家は代々(自称)藤原氏を名乗り、信長自身が藤原信長と署名した文書も残っている。なのにその後に信長は平氏に乗り換え。その理由は定かではないものの、武家政権は平氏と源氏が交代する源平交代思想に影響されたとの説もある。
源平の順番とは:平清盛→源頼朝→執権北条家(平氏)→足利将軍家(源氏)
家康を出した松平家も代々(自称)源氏を名乗っていて家康もそれに倣う。しかし官位を得る都合で藤原氏になったり、また秀吉が豊臣や羽柴の名前を諸大名に与えたので、形式上は羽柴家康や豊臣家康の時代もあった。ウジ(氏)を与えるのは天皇の専権のはずだが、まあ天下人となった秀吉を止められなかったのだろう。
その秀吉はといえば、武家としてはそれなりに名門に生まれた信長や家康と違って「どこの馬の骨」かわからない階層の出身。前回に彼が若い頃は木下藤吉郎の名前だったと記した。とはいえ「家の名前」があるレベルの生まれではなく、これは妻の実家の名前あるいは自分で勝手に木下と名乗ったとも考えられている。
そのレベルの生い立ちなので家系図を細工して源平藤橘の血を引くと主張するのは無理があった。ウジ(氏)がなくては上級国民の仲間入りは不可能。
しかし本能寺の変以降、信長に倣ってちゃっかり平氏を名乗っている。こうなると捏造すらなく開き直った自称であるが天下人なら何でもあり。それだけでは満足せず関白になるために近衛家の養子となって、晴れてそのウジ(氏)である藤原氏を正式に名乗る。さらに関白となった翌年に、いよいよ借り物ではない自分専用のウジ(氏)となる「豊臣」を天皇から得るのに成功している。
前回は豊臣が天皇から与えられたウジ(氏)であるにもかかわらず、「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと私の推察【その1】を書いた。
もうひとつの推察は
豊臣のウジ(氏)は家系図の捏造などではなく、確かに天皇から与えられた名前
ではあるとしても、それは天下人の威光を背景に無理矢理ねじ込んだもの。
秀吉が豊臣のウジ(氏)を得たのは1586年。大坂夏の陣で秀頼が没したのが
1615年。だから豊臣ウジ(氏)家はわずか29年で滅亡した。
秀吉の妻の家系が何家か豊臣のウジ(氏)を引き継いだものの、いわゆる没落状態。
何たって秀吉は「どこの馬の骨」かわからない生まれ。
そんなこんなで豊臣のウジ(氏)は源平藤橘など古来からあるウジ(氏)とは同列に見られなかった。それで見下されて「の」が付かなかったというのが私の推察【その2】
もちろん
これも知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
信長の織田家は代々(自称)藤原氏を名乗り、信長自身が藤原信長と署名した文書も残っている。なのにその後に信長は平氏に乗り換え。その理由は定かではないものの、武家政権は平氏と源氏が交代する源平交代思想に影響されたとの説もある。
源平の順番とは:平清盛→源頼朝→執権北条家(平氏)→足利将軍家(源氏)
家康を出した松平家も代々(自称)源氏を名乗っていて家康もそれに倣う。しかし官位を得る都合で藤原氏になったり、また秀吉が豊臣や羽柴の名前を諸大名に与えたので、形式上は羽柴家康や豊臣家康の時代もあった。ウジ(氏)を与えるのは天皇の専権のはずだが、まあ天下人となった秀吉を止められなかったのだろう。
その秀吉はといえば、武家としてはそれなりに名門に生まれた信長や家康と違って「どこの馬の骨」かわからない階層の出身。前回に彼が若い頃は木下藤吉郎の名前だったと記した。とはいえ「家の名前」があるレベルの生まれではなく、これは妻の実家の名前あるいは自分で勝手に木下と名乗ったとも考えられている。
そのレベルの生い立ちなので家系図を細工して源平藤橘の血を引くと主張するのは無理があった。ウジ(氏)がなくては上級国民の仲間入りは不可能。
しかし本能寺の変以降、信長に倣ってちゃっかり平氏を名乗っている。こうなると捏造すらなく開き直った自称であるが天下人なら何でもあり。それだけでは満足せず関白になるために近衛家の養子となって、晴れてそのウジ(氏)である藤原氏を正式に名乗る。さらに関白となった翌年に、いよいよ借り物ではない自分専用のウジ(氏)となる「豊臣」を天皇から得るのに成功している。
前回は豊臣が天皇から与えられたウジ(氏)であるにもかかわらず、「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと私の推察【その1】を書いた。
もうひとつの推察は
豊臣のウジ(氏)は家系図の捏造などではなく、確かに天皇から与えられた名前
ではあるとしても、それは天下人の威光を背景に無理矢理ねじ込んだもの。
秀吉が豊臣のウジ(氏)を得たのは1586年。大坂夏の陣で秀頼が没したのが
1615年。だから豊臣ウジ(氏)家はわずか29年で滅亡した。
秀吉の妻の家系が何家か豊臣のウジ(氏)を引き継いだものの、いわゆる没落状態。
何たって秀吉は「どこの馬の骨」かわからない生まれ。
そんなこんなで豊臣のウジ(氏)は源平藤橘など古来からあるウジ(氏)とは同列に見られなかった。それで見下されて「の」が付かなかったというのが私の推察【その2】
もちろん
これも知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 10:56|Permalink│Comments(0)│
2024年07月13日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
先日に書いた「ああ勘違い」4部作。最も長く勘違いしていたケースで、その期間は半世紀にも及ぶからやるせない(>_<) とりあえず現在までに4つ判明しているとはいえ、他にもあるんだろうなといろいろ思いを巡らせていたら、勘違いとは別に、高校生の時に疑問が浮かんで、そのままになっている事柄をふと思い出した。それがまずは豊臣秀吉の「の」。
日本史の教科書を読むと
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。
織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、
日吉丸(幼名)
木下藤吉郎
木下藤吉郎秀吉
羽柴秀吉
豊臣秀吉
このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。
単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。
さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は
豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
菅原道真や在原業平などもこの部類。
※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する
臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。
トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。
それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。
そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。
そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。
その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。
また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。
まっ、
知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
日本史の教科書を読むと
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。
織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、
日吉丸(幼名)
木下藤吉郎
木下藤吉郎秀吉
羽柴秀吉
豊臣秀吉
このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。
単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。
さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は
豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
菅原道真や在原業平などもこの部類。
※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する
臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。
トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。
それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。
そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。
そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。
その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。
また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。
まっ、
知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 10:07|Permalink│Comments(0)│
2024年07月04日
祇園精舎の不覚 (鳥羽伏見の戦い編)
いわゆる常識となっている事柄でも、内容を勘違いしているのはままあること。このブログでも過去に「忍者とダ・ヴィンチ・コード」「皇居見物 そして、ああ勘違い」などで紹介してきた。
恥を忍んで(^^ゞ おさらいすると、
まずは幕末の「鳥羽伏見の戦い」。
歴史の授業では必ず習う薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦った内戦。その後の戊辰戦争の始まりでもある。実際には旧幕府軍が大阪から京都へ攻め上る戦いなのだが、なぜかそれを江戸から海路で三重県の鳥羽に入って一戦交え、その後に鈴鹿山脈を越えて京都の伏見でまた戦ったと勘違いしていた。しかし鳥羽伏見の鳥羽とは京都の地名(/o\)
勘違いした理由は伏見といえば京都でも、
鳥羽といえば伊勢にある鳥羽しか思い浮かばなかったから。
世間一般では伊勢志摩との表現が有名なものの、
鳥羽市は伊勢市と志摩市に挟まれた位置にある。
市全体が伊勢志摩国立公園に指定され、また海女さんが海に潜って真珠の入ったアコヤ貝を採ってくるショーをやっているミキモトの真珠島もあるところ。小学校の修学旅行でも訪れた。少なくとも関西では鳥羽は伊勢志摩とセットになった有名な観光地。それに対して京都の鳥羽なんて聞いたこともなかった。
地図は現在の京都市区分図。
中心となるのは中京区と下京区。
鳥羽伏見の戦いの当時、鳥羽は上鳥羽と下鳥羽があって、上鳥羽は地図で南区の「区」の文字があるあたり。名神の京都南インターの少し北側。下鳥羽はその下で現在は伏見区に入っている。
こちらは両軍の移動経路。画像はhttps://love-japanese-history.com/ikusa%EF%BD%B0tobahushiminotatakai/から引用
大阪から上ってきた旧幕府軍は淀の先で二手に分かれ、南下してきた新政府軍と交戦する。地図で示されている両軍が相まみえた左側の地点が鳥羽、右側が伏見であり、その地名をとって鳥羽伏見の戦い。
でもこの両地点は3kmも離れていない。実質的には同じエリアでの戦闘。記録では鳥羽からドンパチの音が聞こえたので伏見でも戦闘が始まったとある。
だったら鳥羽みたいなマイナーな地名は使わず「伏見の戦い」でいいじゃん!
ーーーと悔し紛れに常々思っている(^^ゞ
鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍が敗退し江戸城開城につながった経緯が重要なのであって、歴史の授業で戦闘場所までは習わない。多くの人が鳥羽伏見の戦いの名前くらいは知っていると思うが、どれくらいの人が鳥羽を京都の地名だと正しく認識しているのだろう。もし過半数を超えていたら落ち込むな(/o\)
ーーー続く
祇園精舎の話はまだちょっと先
恥を忍んで(^^ゞ おさらいすると、
まずは幕末の「鳥羽伏見の戦い」。
歴史の授業では必ず習う薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦った内戦。その後の戊辰戦争の始まりでもある。実際には旧幕府軍が大阪から京都へ攻め上る戦いなのだが、なぜかそれを江戸から海路で三重県の鳥羽に入って一戦交え、その後に鈴鹿山脈を越えて京都の伏見でまた戦ったと勘違いしていた。しかし鳥羽伏見の鳥羽とは京都の地名(/o\)
勘違いした理由は伏見といえば京都でも、
鳥羽といえば伊勢にある鳥羽しか思い浮かばなかったから。
世間一般では伊勢志摩との表現が有名なものの、
鳥羽市は伊勢市と志摩市に挟まれた位置にある。
市全体が伊勢志摩国立公園に指定され、また海女さんが海に潜って真珠の入ったアコヤ貝を採ってくるショーをやっているミキモトの真珠島もあるところ。小学校の修学旅行でも訪れた。少なくとも関西では鳥羽は伊勢志摩とセットになった有名な観光地。それに対して京都の鳥羽なんて聞いたこともなかった。
地図は現在の京都市区分図。
中心となるのは中京区と下京区。
鳥羽伏見の戦いの当時、鳥羽は上鳥羽と下鳥羽があって、上鳥羽は地図で南区の「区」の文字があるあたり。名神の京都南インターの少し北側。下鳥羽はその下で現在は伏見区に入っている。
こちらは両軍の移動経路。画像はhttps://love-japanese-history.com/ikusa%EF%BD%B0tobahushiminotatakai/から引用
大阪から上ってきた旧幕府軍は淀の先で二手に分かれ、南下してきた新政府軍と交戦する。地図で示されている両軍が相まみえた左側の地点が鳥羽、右側が伏見であり、その地名をとって鳥羽伏見の戦い。
でもこの両地点は3kmも離れていない。実質的には同じエリアでの戦闘。記録では鳥羽からドンパチの音が聞こえたので伏見でも戦闘が始まったとある。
だったら鳥羽みたいなマイナーな地名は使わず「伏見の戦い」でいいじゃん!
ーーーと悔し紛れに常々思っている(^^ゞ
鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍が敗退し江戸城開城につながった経緯が重要なのであって、歴史の授業で戦闘場所までは習わない。多くの人が鳥羽伏見の戦いの名前くらいは知っていると思うが、どれくらいの人が鳥羽を京都の地名だと正しく認識しているのだろう。もし過半数を超えていたら落ち込むな(/o\)
ーーー続く
祇園精舎の話はまだちょっと先
wassho at 19:06|Permalink│Comments(0)│
2024年03月02日
ウメよりも歴史の勉強になった?赤塚梅まつり
タイトルを微妙に変えて前回からの続き。
和太鼓のリズム、低音、爆音を楽しんでいて、
ふと振り返ると、
いつの間にか武者行列の参加者が待機中。
正式タイトルは「赤塚城 戦国絵巻 武者行列」。
前回に書いた記念撮影の様子でもわかるようにメンバーの多くは子供。
メガネを掛けているお姫様の二人は姉妹かな。
小さな武者姿が可愛い。
この鎧や兜はボンテックスという樹脂をしみこませた紙で作られていて軽いらしい。各地の武者行列などではよく使われている素材のようだ。本物と並べれば違うとしても、見た目には紙製とはまったく思えず特に違和感もなし。もっとも本物を見慣れていないせいもあるが。
そろそろ始まりそう。
赤塚城本丸跡の石碑と説明看板。
武蔵千葉氏? 誰それ?
とりあえず最後の文節「正確はことはまだ明らかに〜」が「正確な」の書き間違いなのはわかった。この看板が立てられたのは平成13年3月。つまり約22年前。その間に誰も注意する人いなかったの? 何をしている板橋区教育委員会(/o\)
さて調べてみると武蔵千葉氏とは平氏をルーツとする一門。そうと書くと、アレッ?平家は壇ノ浦で滅亡したのでは?それがいつかはよく覚えていないけれどイイクニツクロウの前なのは確か。なのにここには1400年から1500年代の話が書いているじゃないかーーーと思われるかも知れない。(参考までに平家が滅亡した壇ノ浦の戦いは1185年)
意外と知られていないというか意識されていないものの、
平氏と平家は同じではない。記号で示せば平氏 > 平家となる。
平氏は都をナクヨウグイスで平安京に遷都した桓武天皇(737年〜806年)の、孫の代の何名かが臣籍降下して平(たいら)の姓を与えられたのがその始まり。第1陣は825年から840年頃の話。平の文字にしたのは、おジイちゃんが造った平安京にちなんだもの。
古代の決まりでは天皇から直系の4世までが皇族。普通は2世と言えば子供を意味する。しかし皇族関連では親等と同じく子供を1世と数えるようで4世は玄孫(やしゃご)。当然ながら膨大な人数になる。例えば桓武天皇には側室を含めて5人の夫人との間に20人以上の子供がいた。男子はその半分で、成人できたのがさらに半分としても5人。それを当てはめて4世まで数えると5×5×5×5=625人になる。もちろんそれ以前の天皇の子孫もいるわけで。
朝廷としてはそんな人数を財政的に抱えきれないし、そのほとんどに皇位継承の可能性もない。それで皇族の身分を外し臣下として独り立ちさせたのが臣籍降下。その制度は古代からあり、特に桓武天皇(在位781〜806年)の時代から多くなったとされる。
さて50代天皇・桓武天皇の孫から始まった平氏を桓武平氏と呼ぶ。桓武と頭につけるのは他にも54代仁明天皇、55代文徳天皇、58代光孝天皇の子孫から平姓へ臣籍降下したグループがあるから。ただし桓武以外の天皇の平氏はほとんどが数代ほどで途絶えたので、平氏と言えば実質的に桓武平氏を示す。
最初の825年に臣籍降下したのは平高棟(たかむね)で、この系統は公家(貴族)として発展していく。平氏といえば武家としか学校では習わないけれど、そうでもないのだ。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は、この系統で高棟(たかむね)より10代後となる平時忠(ときただ)の言葉。
そして桓武天皇の孫(ひ孫説もあり)の高望王(たかもちおう:生没年不明)が、桓武天皇の9代後の宇多天皇から臣籍降下で平の姓を与えられ平高望となったのが889年。この系統が後に平氏の最大勢力になる。
平氏となった平高望(たかもち)は898年に上総国(かずさのくに:今の千葉県中央部)に行政長官として赴任する。この時点では公家。しかし任期が過ぎても帰京せず、その地に土着して豪族となり武士団を形成して勢力を周辺に伸ばす。理由は京都に戻っても藤原一族が要職を独占しているから。この平高望が武家としての平氏の始まり。
平高望の孫の平将門(まさかど)の代になると関東ほぼ全域を支配。東国(関東)を意味する坂東平氏の名で呼ばれた。(その時代にそう呼ばれていたかは知らない)
そうして勢力を拡大していた平氏であるが、時代が下って1028年に起きた平忠常の乱(ただつね:平高望のひ孫、母方の祖父として平将門にもつながる)が起き、朝廷から派遣された源頼信(頼朝の6代前の祖先)により平定され、坂東平氏は源氏の支配下に入る。源氏と平氏が一緒になってややこしいからか、この頃になると坂東平氏ではなく、坂東武者や坂東武士と呼び変えられるみたい。
939年に起きた平将門の乱と較べると日本史的にはマイナーな存在とはいえ、この平忠常の乱はその後の歴史に影響を与えるいろいろな要素を持っていたと思う。坂東平氏と源氏とのつながりができた以外にも、例えば源頼信の息子の頼義が後に鎌倉の領地を手に入れ、それで頼朝にとって鎌倉が先祖伝来の土地になった。逆に将門の乱はもともと平氏一族の内乱で関東の政治に大きな影響は与えていない。将門の首が京都から東京まで飛んでいかなければ、今ほど有名にはならなかったかも。
いずれにせよ源頼朝が幽閉されていた伊豆から抜け出して挙兵し、鎌倉幕府を樹立できたのはこの坂東平氏、すなわち平氏の協力があったから。話は逸れるが、源頼義は妻を平氏からもらっており(当時の感覚だと婿に入る)、だからその子孫の頼朝は平氏の血も流れていることになる。
話は変わって、平忠常(ただつね)と同じく平高望(たかもち)のひ孫の代にあたる平維衡(これひら)は、関東を離れて伊勢に地盤を築き伊勢平氏と呼ばれる系統となる。やがてその子孫は京都に戻り朝廷や貴族に仕える軍事貴族としての道を歩む。
その平維衡(これひら)の5代後に平清盛が出る。清盛は初代の平高望(たかもち)から数えれば平氏9代目となる世代。そして清盛が都で権力者として上り詰めると、平氏の中で清盛の近親者およびその周辺が平家と呼ばれるようになる。だから平氏 > 平家。平氏の中でもセレブな存在が平家ファミリー。「平家にあらずんば人にあらず」の平時忠は平高棟(たかむね)の子孫でまったく別系列だが、姉が清盛の後妻になったので義理の親戚として平家一門に加わった。それが嬉しくての発言?
この流れを考えると源平の戦いは源氏 vs 平家であるけれど、頼朝には坂東平氏が多く加担していたから平氏 vs 平家の戦いの側面も持つ。もっとも同じ平氏とはいえ、その頃になれば9代前のヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイじいちゃんが共通というだけなので、同じ一族としての感覚や連帯感は既になかったと思う。まさに坂東平氏ではなく坂東武者がそのアイデンティティだったのかも知れない。
ついでに計算すると平高望(たかもち)が千葉に来たのが898年で、頼朝の挙兵が1180年だから282年の年月が流れている。現在に置き換えれば2024 − 282 = 1742年で徳川吉宗の時代まで遡る。平家と坂東平氏はそれだけ遠い親戚。
ところで坂東平氏側はこの少し前の世代から、後述する千葉氏・上総氏・三浦氏などに名前を変えている。どうして桓武天皇につながる平の姓を捨てて千葉や上総などに変更するのだろう。少し調べたがヒントは見つけられず。この頃になれば一族の数は先ほどの掛け算のように加速度的に増えて「平さん」だらけになって区別が付かなくなるから? もう都から離れて長いので「平」の名前にステイタスを感じなくなったから? あるいは平忠常の乱以降の源氏の支配がさらに進んで、平姓では何かと不都合があって名前を変えたのか?そのうち調べましょう。
ただ清盛ほか平家側はすべて平姓。もし坂東平氏が名前を変えずに平姓のままだったら、平氏同士の戦いはどうにもやりづらく、頼朝の元にそんなに多く集まっていなかった可能性もある。そう考えると名前を変えてなければ歴史も違っていた? 別の表現をすれば名前が歴史を変えた? そんなことをあれこれモーソー中である。
平氏と平家の話が長くなった。
ようやく武者行列の武蔵千葉氏。
でもそろそろ飽きてきたから簡潔に(^^ゞ
まず千葉氏は先ほどの平忠常(ただつね)の家系から出た一族。忠常のひ孫の平常兼(つねかね)が初代とされ、その孫の常胤(つねたね)から平ではなく千葉常胤と名乗っている(諸説あり)。
ならば千葉とはこの一族の名前だったのかと思ってしまうが実際は逆。奈良時代の万葉集には既に「知波乃奴」=「千葉の野」とあり千葉の地名が確立していた。つまり地名を家の名前としたパターン。
そして千葉氏は坂東平氏の中でも中心的な坂東八平氏に名を連ねる。坂東八平氏とは千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の8部族。千葉氏3代目となる千葉常胤(つねたね)は頼朝挙兵にいち早く協力し、鎌倉幕府成立後に有力御家人となる。
これは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で岡本信人が演じた千葉常胤。
しかし鎌倉時代以前から一族内部での争いが絶えず(他の一族もほとんど同じだが)、とうとう室町時代中期の1455年に、16代当主を中心とする家族が拠点の千葉城を追放され、千葉北東部に逃れる。そこも攻撃されて一緒にいた16代当主の弟の息子兄弟だけが市川まで逃げ延びた。
1456年になるとそこも襲われて、当地まで逃げてきたのが看板に書いてあった内容。これにより千葉氏は、武蔵(東京)に逃げてきた武蔵千葉氏と、千葉に残った下総(しもふさ)千葉氏に区別される。まあ本家と元祖の対立のようなもの。
下総の位置。画像はhttps://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-1-2-53.htmlから引用
下総と上総(かずさ)の位置が地図では上下逆なのがややこしい。また地図の上部に上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)もある。これらの上・下は京の都に近い方が「上」を名乗ると考えられている。
やがて(小田原の)北条氏の配下に入るのも看板に書かれている。皮肉なことに武蔵千葉氏を追い出した下総千葉氏も戦国時代には自力で立ちゆかず、同じく北条氏の勢力下になり豊臣秀吉による小田原征伐を迎える。
これにより武蔵と下総の両千葉氏は滅亡した。滅亡と聞くと戦死や捉えられての処刑ですべて死んだような語感だが、戦国大名としての地位を失った、そして歴史の表舞台から姿を消したとの意味。壇ノ浦の戦いで滅亡した平家だって主要メンバーは戦死や入水自殺で死んだが、生き残って後世に子孫を残したものはいる。古代ローマ帝国の滅亡でローマ人全員が死んだのではないのと同じ。
入場していく武者行列。
千葉氏は初代の平常兼が1045年生まれで、小田原征伐が1590年だからその歴史は545年。坂東八平氏の中でも一時は最大勢力で房総平氏ともいわれたので、千葉県や千葉市は千葉氏へのリスペクトが高い。千葉市の市章は千葉氏の家紋をベースにしてるほど。
一方の武蔵千葉氏が赤塚城にやってきたのは1456年で、小田原征伐までこの地での歴史は134年。それほど長くないし、千葉氏から追われて落ち延びてきた以外に歴史上の存在感もない。それなのに21世紀の地元住民がこんなイベントをしてくれているなんて、感激あるいはビックリしているんじゃないかな。
武者行列の様子を少し見物して、
隣の梅林に戻る。
50〜60本くらいに思う。
何となくフワーッと天に伸びていく感じ。
梅林のほとんどは白梅。
奥の出入り口近くに少しピンクのもあった。
密集している部分を逆光で眺めると輝いて見えて幻想的。
観梅終了して城址地区から溜池に降りる。
赤塚溜池公園&赤塚公園の城址地区のウメは「質より量」でちょっと残念だったのは確か。しかし和太鼓や武者行列などイベントはとても楽しめた。梅祭り開催中で人出も多かったものの、何となく地元中心でアットホームな雰囲気が感じられたのも好印象だった。
おしまい
でもウメ以外の初めての板橋区散歩はまだ続く。
和太鼓のリズム、低音、爆音を楽しんでいて、
ふと振り返ると、
いつの間にか武者行列の参加者が待機中。
正式タイトルは「赤塚城 戦国絵巻 武者行列」。
前回に書いた記念撮影の様子でもわかるようにメンバーの多くは子供。
メガネを掛けているお姫様の二人は姉妹かな。
小さな武者姿が可愛い。
この鎧や兜はボンテックスという樹脂をしみこませた紙で作られていて軽いらしい。各地の武者行列などではよく使われている素材のようだ。本物と並べれば違うとしても、見た目には紙製とはまったく思えず特に違和感もなし。もっとも本物を見慣れていないせいもあるが。
そろそろ始まりそう。
赤塚城本丸跡の石碑と説明看板。
武蔵千葉氏? 誰それ?
とりあえず最後の文節「正確はことはまだ明らかに〜」が「正確な」の書き間違いなのはわかった。この看板が立てられたのは平成13年3月。つまり約22年前。その間に誰も注意する人いなかったの? 何をしている板橋区教育委員会(/o\)
さて調べてみると武蔵千葉氏とは平氏をルーツとする一門。そうと書くと、アレッ?平家は壇ノ浦で滅亡したのでは?それがいつかはよく覚えていないけれどイイクニツクロウの前なのは確か。なのにここには1400年から1500年代の話が書いているじゃないかーーーと思われるかも知れない。(参考までに平家が滅亡した壇ノ浦の戦いは1185年)
意外と知られていないというか意識されていないものの、
平氏と平家は同じではない。記号で示せば平氏 > 平家となる。
平氏は都をナクヨウグイスで平安京に遷都した桓武天皇(737年〜806年)の、孫の代の何名かが臣籍降下して平(たいら)の姓を与えられたのがその始まり。第1陣は825年から840年頃の話。平の文字にしたのは、おジイちゃんが造った平安京にちなんだもの。
古代の決まりでは天皇から直系の4世までが皇族。普通は2世と言えば子供を意味する。しかし皇族関連では親等と同じく子供を1世と数えるようで4世は玄孫(やしゃご)。当然ながら膨大な人数になる。例えば桓武天皇には側室を含めて5人の夫人との間に20人以上の子供がいた。男子はその半分で、成人できたのがさらに半分としても5人。それを当てはめて4世まで数えると5×5×5×5=625人になる。もちろんそれ以前の天皇の子孫もいるわけで。
朝廷としてはそんな人数を財政的に抱えきれないし、そのほとんどに皇位継承の可能性もない。それで皇族の身分を外し臣下として独り立ちさせたのが臣籍降下。その制度は古代からあり、特に桓武天皇(在位781〜806年)の時代から多くなったとされる。
さて50代天皇・桓武天皇の孫から始まった平氏を桓武平氏と呼ぶ。桓武と頭につけるのは他にも54代仁明天皇、55代文徳天皇、58代光孝天皇の子孫から平姓へ臣籍降下したグループがあるから。ただし桓武以外の天皇の平氏はほとんどが数代ほどで途絶えたので、平氏と言えば実質的に桓武平氏を示す。
最初の825年に臣籍降下したのは平高棟(たかむね)で、この系統は公家(貴族)として発展していく。平氏といえば武家としか学校では習わないけれど、そうでもないのだ。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は、この系統で高棟(たかむね)より10代後となる平時忠(ときただ)の言葉。
そして桓武天皇の孫(ひ孫説もあり)の高望王(たかもちおう:生没年不明)が、桓武天皇の9代後の宇多天皇から臣籍降下で平の姓を与えられ平高望となったのが889年。この系統が後に平氏の最大勢力になる。
平氏となった平高望(たかもち)は898年に上総国(かずさのくに:今の千葉県中央部)に行政長官として赴任する。この時点では公家。しかし任期が過ぎても帰京せず、その地に土着して豪族となり武士団を形成して勢力を周辺に伸ばす。理由は京都に戻っても藤原一族が要職を独占しているから。この平高望が武家としての平氏の始まり。
平高望の孫の平将門(まさかど)の代になると関東ほぼ全域を支配。東国(関東)を意味する坂東平氏の名で呼ばれた。(その時代にそう呼ばれていたかは知らない)
そうして勢力を拡大していた平氏であるが、時代が下って1028年に起きた平忠常の乱(ただつね:平高望のひ孫、母方の祖父として平将門にもつながる)が起き、朝廷から派遣された源頼信(頼朝の6代前の祖先)により平定され、坂東平氏は源氏の支配下に入る。源氏と平氏が一緒になってややこしいからか、この頃になると坂東平氏ではなく、坂東武者や坂東武士と呼び変えられるみたい。
939年に起きた平将門の乱と較べると日本史的にはマイナーな存在とはいえ、この平忠常の乱はその後の歴史に影響を与えるいろいろな要素を持っていたと思う。坂東平氏と源氏とのつながりができた以外にも、例えば源頼信の息子の頼義が後に鎌倉の領地を手に入れ、それで頼朝にとって鎌倉が先祖伝来の土地になった。逆に将門の乱はもともと平氏一族の内乱で関東の政治に大きな影響は与えていない。将門の首が京都から東京まで飛んでいかなければ、今ほど有名にはならなかったかも。
いずれにせよ源頼朝が幽閉されていた伊豆から抜け出して挙兵し、鎌倉幕府を樹立できたのはこの坂東平氏、すなわち平氏の協力があったから。話は逸れるが、源頼義は妻を平氏からもらっており(当時の感覚だと婿に入る)、だからその子孫の頼朝は平氏の血も流れていることになる。
話は変わって、平忠常(ただつね)と同じく平高望(たかもち)のひ孫の代にあたる平維衡(これひら)は、関東を離れて伊勢に地盤を築き伊勢平氏と呼ばれる系統となる。やがてその子孫は京都に戻り朝廷や貴族に仕える軍事貴族としての道を歩む。
その平維衡(これひら)の5代後に平清盛が出る。清盛は初代の平高望(たかもち)から数えれば平氏9代目となる世代。そして清盛が都で権力者として上り詰めると、平氏の中で清盛の近親者およびその周辺が平家と呼ばれるようになる。だから平氏 > 平家。平氏の中でもセレブな存在が平家ファミリー。「平家にあらずんば人にあらず」の平時忠は平高棟(たかむね)の子孫でまったく別系列だが、姉が清盛の後妻になったので義理の親戚として平家一門に加わった。それが嬉しくての発言?
この流れを考えると源平の戦いは源氏 vs 平家であるけれど、頼朝には坂東平氏が多く加担していたから平氏 vs 平家の戦いの側面も持つ。もっとも同じ平氏とはいえ、その頃になれば9代前のヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイじいちゃんが共通というだけなので、同じ一族としての感覚や連帯感は既になかったと思う。まさに坂東平氏ではなく坂東武者がそのアイデンティティだったのかも知れない。
ついでに計算すると平高望(たかもち)が千葉に来たのが898年で、頼朝の挙兵が1180年だから282年の年月が流れている。現在に置き換えれば2024 − 282 = 1742年で徳川吉宗の時代まで遡る。平家と坂東平氏はそれだけ遠い親戚。
ところで坂東平氏側はこの少し前の世代から、後述する千葉氏・上総氏・三浦氏などに名前を変えている。どうして桓武天皇につながる平の姓を捨てて千葉や上総などに変更するのだろう。少し調べたがヒントは見つけられず。この頃になれば一族の数は先ほどの掛け算のように加速度的に増えて「平さん」だらけになって区別が付かなくなるから? もう都から離れて長いので「平」の名前にステイタスを感じなくなったから? あるいは平忠常の乱以降の源氏の支配がさらに進んで、平姓では何かと不都合があって名前を変えたのか?そのうち調べましょう。
ただ清盛ほか平家側はすべて平姓。もし坂東平氏が名前を変えずに平姓のままだったら、平氏同士の戦いはどうにもやりづらく、頼朝の元にそんなに多く集まっていなかった可能性もある。そう考えると名前を変えてなければ歴史も違っていた? 別の表現をすれば名前が歴史を変えた? そんなことをあれこれモーソー中である。
平氏と平家の話が長くなった。
ようやく武者行列の武蔵千葉氏。
でもそろそろ飽きてきたから簡潔に(^^ゞ
まず千葉氏は先ほどの平忠常(ただつね)の家系から出た一族。忠常のひ孫の平常兼(つねかね)が初代とされ、その孫の常胤(つねたね)から平ではなく千葉常胤と名乗っている(諸説あり)。
ならば千葉とはこの一族の名前だったのかと思ってしまうが実際は逆。奈良時代の万葉集には既に「知波乃奴」=「千葉の野」とあり千葉の地名が確立していた。つまり地名を家の名前としたパターン。
そして千葉氏は坂東平氏の中でも中心的な坂東八平氏に名を連ねる。坂東八平氏とは千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の8部族。千葉氏3代目となる千葉常胤(つねたね)は頼朝挙兵にいち早く協力し、鎌倉幕府成立後に有力御家人となる。
これは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で岡本信人が演じた千葉常胤。
しかし鎌倉時代以前から一族内部での争いが絶えず(他の一族もほとんど同じだが)、とうとう室町時代中期の1455年に、16代当主を中心とする家族が拠点の千葉城を追放され、千葉北東部に逃れる。そこも攻撃されて一緒にいた16代当主の弟の息子兄弟だけが市川まで逃げ延びた。
1456年になるとそこも襲われて、当地まで逃げてきたのが看板に書いてあった内容。これにより千葉氏は、武蔵(東京)に逃げてきた武蔵千葉氏と、千葉に残った下総(しもふさ)千葉氏に区別される。まあ本家と元祖の対立のようなもの。
下総の位置。画像はhttps://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-1-2-53.htmlから引用
下総と上総(かずさ)の位置が地図では上下逆なのがややこしい。また地図の上部に上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)もある。これらの上・下は京の都に近い方が「上」を名乗ると考えられている。
やがて(小田原の)北条氏の配下に入るのも看板に書かれている。皮肉なことに武蔵千葉氏を追い出した下総千葉氏も戦国時代には自力で立ちゆかず、同じく北条氏の勢力下になり豊臣秀吉による小田原征伐を迎える。
これにより武蔵と下総の両千葉氏は滅亡した。滅亡と聞くと戦死や捉えられての処刑ですべて死んだような語感だが、戦国大名としての地位を失った、そして歴史の表舞台から姿を消したとの意味。壇ノ浦の戦いで滅亡した平家だって主要メンバーは戦死や入水自殺で死んだが、生き残って後世に子孫を残したものはいる。古代ローマ帝国の滅亡でローマ人全員が死んだのではないのと同じ。
入場していく武者行列。
千葉氏は初代の平常兼が1045年生まれで、小田原征伐が1590年だからその歴史は545年。坂東八平氏の中でも一時は最大勢力で房総平氏ともいわれたので、千葉県や千葉市は千葉氏へのリスペクトが高い。千葉市の市章は千葉氏の家紋をベースにしてるほど。
一方の武蔵千葉氏が赤塚城にやってきたのは1456年で、小田原征伐までこの地での歴史は134年。それほど長くないし、千葉氏から追われて落ち延びてきた以外に歴史上の存在感もない。それなのに21世紀の地元住民がこんなイベントをしてくれているなんて、感激あるいはビックリしているんじゃないかな。
武者行列の様子を少し見物して、
隣の梅林に戻る。
50〜60本くらいに思う。
何となくフワーッと天に伸びていく感じ。
梅林のほとんどは白梅。
奥の出入り口近くに少しピンクのもあった。
密集している部分を逆光で眺めると輝いて見えて幻想的。
観梅終了して城址地区から溜池に降りる。
赤塚溜池公園&赤塚公園の城址地区のウメは「質より量」でちょっと残念だったのは確か。しかし和太鼓や武者行列などイベントはとても楽しめた。梅祭り開催中で人出も多かったものの、何となく地元中心でアットホームな雰囲気が感じられたのも好印象だった。
おしまい
でもウメ以外の初めての板橋区散歩はまだ続く。
wassho at 22:01|Permalink│Comments(0)│
2023年11月06日
代々木公園の歴史とジャニー喜多川 その2
話をワシントンハイツに戻す。
現在とワシントンハイツがあった頃の航空写真の比較。
代々木に出現したアメリカの街。
画像はhttps://fm-tohnet.sitekitt.com/blog/2229より引用。
これらのクルマはワシントンハイツの外、つまり東京都内を走っていたはずなのに、あまりそういう光景の写真を見たことがない。でも昭和40年代前半まで外車の人気がアメ車>ベンツの時代があったわけで、それは進駐軍が乗り回すアメ車に日本人が憧れを抱いたからだと思う。
終戦直後は日本人が闇市で四苦八苦して買い物していた時代。
しかしここにはスーパーマーケットまで備わっていた。画像はhttp://www.asahi.com/special/sengo/visual/page7.htmlとhttps://friday.kodansha.co.jp/article/63115より引用。
そして「あの」ジャニーさんが、
そんな別世界ワシントンハイツの住人だったと知る。
世間を騒がしている性加害問題については、あまり興味を持っていなくて見出しを読む程度。それでも相当な情報量になるから、いかにこの問題が大量に報じられているかである。騒動が大きくなったのは今年の5月頃から。9月7日と10月2日に記者会見が開かれてからは一挙にマスコミがヒートアップ。後者では特定の記者を指名しないようにする「NGリスト」の存在などもあって炎上に燃料投下。最近ようやくネットニュースを開いたら見出し全部がジャニーズ関連ということがなくなって少しホッとしている。
なので芸能人の皆さん、オイタをするならジャニーズ問題に注目が集まっている今がチャンスですぞ。広末涼子はジャニーさんの墓参りに行くべき(^^ゞ
ところで彼は会話に「You」が入るので有名だし、ジャニーって名前も使っているからアメリカかぶれしたオッサンだと思っていた。しかし実はアメリカ生まれで英語名のJohn Hiromu Kitagawaがその由来。
意外にも父親は高野山の僧侶。ロサンゼルスで1912年(大正元年)から続く高野山米国別院の第3代主監(住職?)を1924年(大正13年)から33年(昭和8年)まで務める。なかなかの人物で日系人社会から慕われ尊敬されていたようだ。また親戚には児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義(たかよし)もいる。大谷は公の場にほとんど姿を現さないので有名ではないものの、彼が亡くなると葬儀委員長を元総理大臣の福田赳夫が務めたのだからその大物ぶりが伺い知れる。
父親の米国赴任中にジャニーさんは1931年(昭和6年)にロサンゼルスで生まれる。そして一家で1933年に帰国後、戦争中は兄弟で和歌山に疎開(前述の大谷氏の実家)。だから彼はアメリカ生まれの関西育ち。
終戦から4年後の1949年(昭和24年)に、同じくアメリカで生まれアメリカ国籍(いわゆる二重国籍)も持っている姉のメリー喜多川、兄の喜多川真一と共に渡米。高校〜短大(コミュニティーカレッジ)へと進む。1952年(昭和27年)に徴兵され朝鮮戦争に従軍。
そして除隊後、アメリカ大使館付きの軍事援助顧問団職員として来日。その関係でワシントンハイツに住んでいたと思われる。正確な時期はわからなかったものの、たぶん1953年か1954年(昭和29年)あたり。ジャニーズ事務所設立は1962年(昭和37年)で、その頃には軍事援助顧問団を辞めていたはずだから、大体7〜8年ほど住んでいたのかな。別の見方をすれば渡米した1949年から1960年頃までの10年間ちょっとは、アメリカ人のジャニー喜多川として生活していた。
軍事援助顧問団でどんな仕事をしていたのかは知らないが、休日には近所の少年30名ほどを集めて野球チームを作りコーチをしていた。えっ、ひょっとしてその頃から子供相手にヤッテタ?(/o\)
そのチームは最初「エラーズ」や「ヘターズ」などのヘンな名前だった。それでは格好悪いのでチームのメンバーだったあおい輝彦が「ジャニーさんのチームだからジャニーズ」と提案してジャニーズ少年野球団となり、それが後のジャニーズ事務所の名前にもつながる。あおい輝彦はジャニーズ少年野球団からジャニーズ事務所所属となり「初代ジャニーズ」を結成した4名のひとり。結果的にはブランド名としてのジャニーズの名付け親ともいえる。
写真はグレーの建物がオリンピックの翌年となる1965年(昭和40年)竣工で、日本初の億ションといわれるコープオリンピア。隣のレンガ色がマンション31。表参道の最も原宿駅寄り、すなわち元ワシントンハイツだった代々木公園のすぐ近くに建っている。
以前はこの両方にジャニーズの合宿所(寮)があったとは知る人ぞ知るだった。事件の影響でもう今は多くの人が知っているかな。 芸能人の寮なのにどうしてこんな目立つ場所にと、昔から思っていたけれどジャニーさんの原点がワシントンハイツだったからかもと想像している。
さてジャニー喜多川とメリー喜多川の姉弟は、アメリカ生まれで英語名も持っていたからジャニーやメリーの名前もそれなりに根拠がある。メリー喜多川の娘である藤島ジュリー景子の国籍はわからなかった。彼女が日本生まれでも、メリーさんがアメリカ国籍を放棄していなければ、アメリカ人の娘としてアメリカ国籍を取得している可能性はある。
ただし日本の法律ではミドルネームを持てない。それでアメリカで生まれたメリーさんはアメリカ国籍にはMary Yasuko Kitagawa、日本国籍には喜多川メリー泰子で出生届けをしたようだ。つまりファーストネームとミドルネームが合体した「メリー泰子」でひとつの名前。将来アメリカ国籍を放棄しても、西洋名があった方が海外で活動する際に便利と考えたからと思われる。後に結婚して本名は藤島メリー泰子。そして娘にも同じ発想で「ジュリー景子」と名付けた。
そんな名前の付け方があるのかと思ったが、考えてみれば日本に帰化したサッカー選手の田中マルクス闘莉王(トゥーリオ)と同じだね。ミドルネームを持つ外国人が日本国籍を取得する際にはよく使われる手法なのかもしれない。なおジャニーさんは日本国籍での届けにJohn Hiromu KitagawaのJohnは使わず、普通に喜多川 擴(ひろむ)としている。だからメリーさんと違ってジャニーは本名じゃなくてニックネーム。両親はどうして姉弟で使い分けたのだろう。
ところでジャニーさんの英語名のJohn。この名前のオリジナルはJohannes(ヨハネ)でその英語読み。Johanneは英語ではジョン、ドイツ語ではヨハン、フランス語ではジャン、イタリア語ではジョバンニである。ヨハン・セバスチャン・バッハとジョン・レノンが実は同じ名前。そのJohnを親しみを込めて呼ぶ場合にJohnny、Johnnieなどとなる。
しかしJohnはジョンだしJohnnyはジョニーのはず。どうしてジャニー喜多川でありジャニーズ事務所なのか。実はJohnやJohnnyの発音はイギリス英語とアメリカ英語では微妙に違う。
John イギリス発音:dʒˈɔn アメリカ発音:dʒάn
Johnny イギリス発音:dʒˈɔni アメリカ発音:dʒάni
発音記号では ɔ と ά の違い。カタカナで割り切って書くとイギリス発音がジョンやジョニー、アメリカ発音ではそれがジャンやジャニーになる。彼はアメリカ生まれだからカタカナではジャニーを名乗ったのだと思う。発音を聴き分けたいならここをクリック。
そしてこれを確かめるために辞書を引いて初めて知ったのだが、Johnには名前のほかになぜか「トイレや便座」の意味もある。「トイレはどこ?」を「Where is the john?」などと言うらしい。訪ねる相手がジョンさんだったら困るな(^^ゞ
また男性に多い名前だからだろうか「やつ、男」「売春婦の客」を指す言葉としても使われ、そしてなんと
オチンチン
の俗語でもある!
ジャニーはジャンの愛称だから、つまりかわいいオチンチン事務所?
喜多川クンの性癖に忠実な事務所のネーミングになっているじゃないか(^^ゞ
久々の下ネタで今回は締めるとしましょう。
シツレイシマシタm(_ _)m
おしまい
追伸
そういえばビッグジョンというジーンズのブランドもあるけどーーー
現在とワシントンハイツがあった頃の航空写真の比較。
代々木に出現したアメリカの街。
画像はhttps://fm-tohnet.sitekitt.com/blog/2229より引用。
これらのクルマはワシントンハイツの外、つまり東京都内を走っていたはずなのに、あまりそういう光景の写真を見たことがない。でも昭和40年代前半まで外車の人気がアメ車>ベンツの時代があったわけで、それは進駐軍が乗り回すアメ車に日本人が憧れを抱いたからだと思う。
終戦直後は日本人が闇市で四苦八苦して買い物していた時代。
しかしここにはスーパーマーケットまで備わっていた。画像はhttp://www.asahi.com/special/sengo/visual/page7.htmlとhttps://friday.kodansha.co.jp/article/63115より引用。
そして「あの」ジャニーさんが、
そんな別世界ワシントンハイツの住人だったと知る。
世間を騒がしている性加害問題については、あまり興味を持っていなくて見出しを読む程度。それでも相当な情報量になるから、いかにこの問題が大量に報じられているかである。騒動が大きくなったのは今年の5月頃から。9月7日と10月2日に記者会見が開かれてからは一挙にマスコミがヒートアップ。後者では特定の記者を指名しないようにする「NGリスト」の存在などもあって炎上に燃料投下。最近ようやくネットニュースを開いたら見出し全部がジャニーズ関連ということがなくなって少しホッとしている。
なので芸能人の皆さん、オイタをするならジャニーズ問題に注目が集まっている今がチャンスですぞ。広末涼子はジャニーさんの墓参りに行くべき(^^ゞ
ところで彼は会話に「You」が入るので有名だし、ジャニーって名前も使っているからアメリカかぶれしたオッサンだと思っていた。しかし実はアメリカ生まれで英語名のJohn Hiromu Kitagawaがその由来。
意外にも父親は高野山の僧侶。ロサンゼルスで1912年(大正元年)から続く高野山米国別院の第3代主監(住職?)を1924年(大正13年)から33年(昭和8年)まで務める。なかなかの人物で日系人社会から慕われ尊敬されていたようだ。また親戚には児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義(たかよし)もいる。大谷は公の場にほとんど姿を現さないので有名ではないものの、彼が亡くなると葬儀委員長を元総理大臣の福田赳夫が務めたのだからその大物ぶりが伺い知れる。
父親の米国赴任中にジャニーさんは1931年(昭和6年)にロサンゼルスで生まれる。そして一家で1933年に帰国後、戦争中は兄弟で和歌山に疎開(前述の大谷氏の実家)。だから彼はアメリカ生まれの関西育ち。
終戦から4年後の1949年(昭和24年)に、同じくアメリカで生まれアメリカ国籍(いわゆる二重国籍)も持っている姉のメリー喜多川、兄の喜多川真一と共に渡米。高校〜短大(コミュニティーカレッジ)へと進む。1952年(昭和27年)に徴兵され朝鮮戦争に従軍。
そして除隊後、アメリカ大使館付きの軍事援助顧問団職員として来日。その関係でワシントンハイツに住んでいたと思われる。正確な時期はわからなかったものの、たぶん1953年か1954年(昭和29年)あたり。ジャニーズ事務所設立は1962年(昭和37年)で、その頃には軍事援助顧問団を辞めていたはずだから、大体7〜8年ほど住んでいたのかな。別の見方をすれば渡米した1949年から1960年頃までの10年間ちょっとは、アメリカ人のジャニー喜多川として生活していた。
軍事援助顧問団でどんな仕事をしていたのかは知らないが、休日には近所の少年30名ほどを集めて野球チームを作りコーチをしていた。えっ、ひょっとしてその頃から子供相手にヤッテタ?(/o\)
そのチームは最初「エラーズ」や「ヘターズ」などのヘンな名前だった。それでは格好悪いのでチームのメンバーだったあおい輝彦が「ジャニーさんのチームだからジャニーズ」と提案してジャニーズ少年野球団となり、それが後のジャニーズ事務所の名前にもつながる。あおい輝彦はジャニーズ少年野球団からジャニーズ事務所所属となり「初代ジャニーズ」を結成した4名のひとり。結果的にはブランド名としてのジャニーズの名付け親ともいえる。
写真はグレーの建物がオリンピックの翌年となる1965年(昭和40年)竣工で、日本初の億ションといわれるコープオリンピア。隣のレンガ色がマンション31。表参道の最も原宿駅寄り、すなわち元ワシントンハイツだった代々木公園のすぐ近くに建っている。
以前はこの両方にジャニーズの合宿所(寮)があったとは知る人ぞ知るだった。事件の影響でもう今は多くの人が知っているかな。 芸能人の寮なのにどうしてこんな目立つ場所にと、昔から思っていたけれどジャニーさんの原点がワシントンハイツだったからかもと想像している。
さてジャニー喜多川とメリー喜多川の姉弟は、アメリカ生まれで英語名も持っていたからジャニーやメリーの名前もそれなりに根拠がある。メリー喜多川の娘である藤島ジュリー景子の国籍はわからなかった。彼女が日本生まれでも、メリーさんがアメリカ国籍を放棄していなければ、アメリカ人の娘としてアメリカ国籍を取得している可能性はある。
ただし日本の法律ではミドルネームを持てない。それでアメリカで生まれたメリーさんはアメリカ国籍にはMary Yasuko Kitagawa、日本国籍には喜多川メリー泰子で出生届けをしたようだ。つまりファーストネームとミドルネームが合体した「メリー泰子」でひとつの名前。将来アメリカ国籍を放棄しても、西洋名があった方が海外で活動する際に便利と考えたからと思われる。後に結婚して本名は藤島メリー泰子。そして娘にも同じ発想で「ジュリー景子」と名付けた。
そんな名前の付け方があるのかと思ったが、考えてみれば日本に帰化したサッカー選手の田中マルクス闘莉王(トゥーリオ)と同じだね。ミドルネームを持つ外国人が日本国籍を取得する際にはよく使われる手法なのかもしれない。なおジャニーさんは日本国籍での届けにJohn Hiromu KitagawaのJohnは使わず、普通に喜多川 擴(ひろむ)としている。だからメリーさんと違ってジャニーは本名じゃなくてニックネーム。両親はどうして姉弟で使い分けたのだろう。
ところでジャニーさんの英語名のJohn。この名前のオリジナルはJohannes(ヨハネ)でその英語読み。Johanneは英語ではジョン、ドイツ語ではヨハン、フランス語ではジャン、イタリア語ではジョバンニである。ヨハン・セバスチャン・バッハとジョン・レノンが実は同じ名前。そのJohnを親しみを込めて呼ぶ場合にJohnny、Johnnieなどとなる。
しかしJohnはジョンだしJohnnyはジョニーのはず。どうしてジャニー喜多川でありジャニーズ事務所なのか。実はJohnやJohnnyの発音はイギリス英語とアメリカ英語では微妙に違う。
John イギリス発音:dʒˈɔn アメリカ発音:dʒάn
Johnny イギリス発音:dʒˈɔni アメリカ発音:dʒάni
発音記号では ɔ と ά の違い。カタカナで割り切って書くとイギリス発音がジョンやジョニー、アメリカ発音ではそれがジャンやジャニーになる。彼はアメリカ生まれだからカタカナではジャニーを名乗ったのだと思う。発音を聴き分けたいならここをクリック。
そしてこれを確かめるために辞書を引いて初めて知ったのだが、Johnには名前のほかになぜか「トイレや便座」の意味もある。「トイレはどこ?」を「Where is the john?」などと言うらしい。訪ねる相手がジョンさんだったら困るな(^^ゞ
また男性に多い名前だからだろうか「やつ、男」「売春婦の客」を指す言葉としても使われ、そしてなんと
オチンチン
の俗語でもある!
ジャニーはジャンの愛称だから、つまりかわいいオチンチン事務所?
喜多川クンの性癖に忠実な事務所のネーミングになっているじゃないか(^^ゞ
久々の下ネタで今回は締めるとしましょう。
シツレイシマシタm(_ _)m
おしまい
追伸
そういえばビッグジョンというジーンズのブランドもあるけどーーー
wassho at 20:51|Permalink│Comments(0)│
2023年11月04日
代々木公園の歴史とジャニー喜多川
先日、キンモクセイ目当てに訪れたら空振りで秋バラも見頃前だった代々木公園。そこがかつて陸軍の練兵場→米軍接収→オリンピックの選手村を経て公園になったとはそれなりに知っていた。それでもブログを書く前にいろいろ調べていたら、何かと興味深かったので回を改めて書いてみたのが今回のお話。
さて明治神宮と代々木公園は全国的な知名度があっても、訪れたことがなければ、その2つが隣接していると知らない人は多いかも知れない。航空写真で見ればまるでひとつの土地を分割したように思えるが、それぞれ別の成り立ちで現在に至っている。
明治神宮は江戸時代の最初は肥後藩、次いで彦根藩の大名屋敷だった土地。それが1874年(明治7年)に皇室御料地となり、明治天皇が亡くなって1920年(大正9年)に明治神宮が創建された。
代々木公園あたりも江戸時代には大名や旗本の屋敷があったエリア。しかし明治維新以降は茶畑・桑畑となる。江戸は大雑把に町民50万人+武士50万人で100万人都市だった。それが参勤交代で江戸に来ていた大名・武士達がいなくなったから。最大勢力の徳川家臣団も徳川慶喜に従って静岡に移った。明治維新の年に江戸は約4割も人口が減少したともいわれる。
もっとも明治9年には103万人となり100万人台を回復している。この時(1876年)の日本の総人口は3556万人。東京が占める割合は103万人÷3556万人で2.9%。現在の東京人口は1410万人で総人口は1億2434万人だから11.3%。いわゆる東京一極集中。これに千葉・埼玉・神奈川を加えると、現在は総人口の約3割が首都圏で暮らしている。参考までに東京都は47都道府県で3番目に面積が小さく、また首都圏1都3県が全国に占める面積割合は3.6%に過ぎない。
さて明治40年頃(明治は45年まで)になると東京の人口は250万人を超え、江戸の頃よりはるかに人が多くなる。にもかかわらず当時の東京の中心は皇居より東側だったからか、代々木は茶畑・桑畑のままだったようで、1909年(明治42年)に陸軍がその一帯を買い上げて代々木練兵場とした。ちなみに練兵場、今でいうなら軍事演習場は代々木以外に日比谷、青山、駒沢、駒場と都内に5箇所あった。戦前は東京のど真ん中で訓練してたんだ。
そして時代は下って1945年(昭和20年)に日本は太平洋戦争に敗戦。代々木練兵場は連合国に接収され、アメリカ初代大統領の名前を取ってワシントンハイツと呼ばれた進駐軍向けの住居が建てられる。総戸数827戸。
これは西側から撮ったもの。ワシントンハイツの左奥に明治神宮。
まさにフェンスの向こうのアメリカ。
東京のど真ん中にこんな光景があったなんて。
(クルマのナンバープレートを見ればここが日本だと分かる)。画像はhttps://shibuya90th.magazineworld.jp/history/459/とhttps://transit.ne.jp/2012/08/000547.htmlから引用
1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本の占領は終了するものの、同時に発効した日米安保条約によって米軍が引き続き駐留。ワシントンハイツもそのまま使われる。使用期間は無期限だった。
しかし1961年(昭和36年)、3年後の1964年に開催される東京オリンピックの選手村・競技場用地として日本に返還が決まる。返還完了は1964年(昭和39年)8月12日。10月10日からのオリンピック開催59日前。
代々木練兵場=ワシントンハイツの敷地がどこまで広がっていたのか、調べても正確なところはよく分からなかったが、少なくとも現在の
代々木公園
国立オリンピック記念青少年総合センター(通称はオリンピックセンター)
国立代々木競技場
NHK
は、その範囲に含まれる。
返還が完了した8月12日とは最終的な手続きの話で、引き渡し作業自体はもっと前から始まっていたと思う。それでも代々木競技場の着工はオリンピック前年の1963年2月。1964年7月以降は24時間体制の突貫工事を続け、完成したのはオリンピックの39日前。
NHKはオリンピックの放送センターを設置するため、そして将来の本部予定地として国にワシントンハイツの一部を払い下げるように求めて認められた。現在もここにあるNHK施設全般をNHK放送センターと呼ぶのはその名残なのだろうか。NHKがこちらに完全移転したのは1973年(昭和48年)で、それまでの本部は日比谷にあった。その頃はまだ子供だったしNHKに日比谷のイメージはまったくないなあ。
そして現在の代々木公園と国立オリンピック記念青少年総合センターのエリアはオリンピックの選手村となる。つまり1964年東京オリンピックの選手村は米軍住宅のリフォーム物件。SDGsが叫ばれた2021年の東京オリンピックよりエコだったりして(^^ゞ
ワシントンハイツの返還に伴い、米軍住宅を調布に移転する費用は日本の全額負担であった。金額は90億円。2020年基準の消費者物価指数は1964年が22.5、2023年が102.7である。そして102.7÷22.5=4.6だから、当時の90億円は今の400億円くらいかな。
なお1964年オリンピックの開催経費は265億円。移転費用もオリンピック経費と考えて90億円÷(90億円+265億円)を計算すると、移転費用は全体の25%を占める。
参考までに2021年東京オリンピックの開催経費は1兆4238億円。1964年の265億円を今の価値として4.6倍の1200億円と換算すると、2021年オリンピックは1964年と較べてなんと12倍も費用がかかっている(/o\)
ちょっと話がそれたが、その米軍移転費用の90億円は国と東京都が折半して負担した。それで元陸軍練兵場=国有地の大半を東京都が取得して代々木公園が造られたようだ。元ワシントンハイツの選手村を撤去して、公園が開園したのはオリンピックから3年後の1967年(昭和42年)。私と同世代なら森永チョコボールとリカちゃん人形が発売された年といえばイメージできるかも。
それしても都市環境意識なんてまだ希薄だった時代なのに、これだけの広い面積をよく丸ごと公園にできたものだと感心する。私が東京都知事だったら代々木ヒルズに再開発していた気がするな(^^ゞ
ーーー続く
ジャニーさんの話は次回に
さて明治神宮と代々木公園は全国的な知名度があっても、訪れたことがなければ、その2つが隣接していると知らない人は多いかも知れない。航空写真で見ればまるでひとつの土地を分割したように思えるが、それぞれ別の成り立ちで現在に至っている。
明治神宮は江戸時代の最初は肥後藩、次いで彦根藩の大名屋敷だった土地。それが1874年(明治7年)に皇室御料地となり、明治天皇が亡くなって1920年(大正9年)に明治神宮が創建された。
代々木公園あたりも江戸時代には大名や旗本の屋敷があったエリア。しかし明治維新以降は茶畑・桑畑となる。江戸は大雑把に町民50万人+武士50万人で100万人都市だった。それが参勤交代で江戸に来ていた大名・武士達がいなくなったから。最大勢力の徳川家臣団も徳川慶喜に従って静岡に移った。明治維新の年に江戸は約4割も人口が減少したともいわれる。
もっとも明治9年には103万人となり100万人台を回復している。この時(1876年)の日本の総人口は3556万人。東京が占める割合は103万人÷3556万人で2.9%。現在の東京人口は1410万人で総人口は1億2434万人だから11.3%。いわゆる東京一極集中。これに千葉・埼玉・神奈川を加えると、現在は総人口の約3割が首都圏で暮らしている。参考までに東京都は47都道府県で3番目に面積が小さく、また首都圏1都3県が全国に占める面積割合は3.6%に過ぎない。
さて明治40年頃(明治は45年まで)になると東京の人口は250万人を超え、江戸の頃よりはるかに人が多くなる。にもかかわらず当時の東京の中心は皇居より東側だったからか、代々木は茶畑・桑畑のままだったようで、1909年(明治42年)に陸軍がその一帯を買い上げて代々木練兵場とした。ちなみに練兵場、今でいうなら軍事演習場は代々木以外に日比谷、青山、駒沢、駒場と都内に5箇所あった。戦前は東京のど真ん中で訓練してたんだ。
そして時代は下って1945年(昭和20年)に日本は太平洋戦争に敗戦。代々木練兵場は連合国に接収され、アメリカ初代大統領の名前を取ってワシントンハイツと呼ばれた進駐軍向けの住居が建てられる。総戸数827戸。
これは西側から撮ったもの。ワシントンハイツの左奥に明治神宮。
まさにフェンスの向こうのアメリカ。
東京のど真ん中にこんな光景があったなんて。
(クルマのナンバープレートを見ればここが日本だと分かる)。画像はhttps://shibuya90th.magazineworld.jp/history/459/とhttps://transit.ne.jp/2012/08/000547.htmlから引用
1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本の占領は終了するものの、同時に発効した日米安保条約によって米軍が引き続き駐留。ワシントンハイツもそのまま使われる。使用期間は無期限だった。
しかし1961年(昭和36年)、3年後の1964年に開催される東京オリンピックの選手村・競技場用地として日本に返還が決まる。返還完了は1964年(昭和39年)8月12日。10月10日からのオリンピック開催59日前。
代々木練兵場=ワシントンハイツの敷地がどこまで広がっていたのか、調べても正確なところはよく分からなかったが、少なくとも現在の
代々木公園
国立オリンピック記念青少年総合センター(通称はオリンピックセンター)
国立代々木競技場
NHK
は、その範囲に含まれる。
返還が完了した8月12日とは最終的な手続きの話で、引き渡し作業自体はもっと前から始まっていたと思う。それでも代々木競技場の着工はオリンピック前年の1963年2月。1964年7月以降は24時間体制の突貫工事を続け、完成したのはオリンピックの39日前。
NHKはオリンピックの放送センターを設置するため、そして将来の本部予定地として国にワシントンハイツの一部を払い下げるように求めて認められた。現在もここにあるNHK施設全般をNHK放送センターと呼ぶのはその名残なのだろうか。NHKがこちらに完全移転したのは1973年(昭和48年)で、それまでの本部は日比谷にあった。その頃はまだ子供だったしNHKに日比谷のイメージはまったくないなあ。
そして現在の代々木公園と国立オリンピック記念青少年総合センターのエリアはオリンピックの選手村となる。つまり1964年東京オリンピックの選手村は米軍住宅のリフォーム物件。SDGsが叫ばれた2021年の東京オリンピックよりエコだったりして(^^ゞ
ワシントンハイツの返還に伴い、米軍住宅を調布に移転する費用は日本の全額負担であった。金額は90億円。2020年基準の消費者物価指数は1964年が22.5、2023年が102.7である。そして102.7÷22.5=4.6だから、当時の90億円は今の400億円くらいかな。
なお1964年オリンピックの開催経費は265億円。移転費用もオリンピック経費と考えて90億円÷(90億円+265億円)を計算すると、移転費用は全体の25%を占める。
参考までに2021年東京オリンピックの開催経費は1兆4238億円。1964年の265億円を今の価値として4.6倍の1200億円と換算すると、2021年オリンピックは1964年と較べてなんと12倍も費用がかかっている(/o\)
ちょっと話がそれたが、その米軍移転費用の90億円は国と東京都が折半して負担した。それで元陸軍練兵場=国有地の大半を東京都が取得して代々木公園が造られたようだ。元ワシントンハイツの選手村を撤去して、公園が開園したのはオリンピックから3年後の1967年(昭和42年)。私と同世代なら森永チョコボールとリカちゃん人形が発売された年といえばイメージできるかも。
それしても都市環境意識なんてまだ希薄だった時代なのに、これだけの広い面積をよく丸ごと公園にできたものだと感心する。私が東京都知事だったら代々木ヒルズに再開発していた気がするな(^^ゞ
ーーー続く
ジャニーさんの話は次回に
wassho at 21:55|Permalink│Comments(0)│
2023年10月11日
東郷神社を初訪問 その6 イケメン
「その4」に書いたように、東郷平八郎が指揮した日本海海戦は圧倒的な勝利に終わった。連合艦隊出撃108隻で沈められたのは主力でない小型艦艇わずか3隻。一方のバルチック艦隊は38隻のうち自沈を含めて21隻が沈んでいる。沈没率を計算すると3%対55%。戦闘は2日間にわたって繰り広げられたが、実際には開戦後30分であらかたの決着がつき、それ以降は「落ち武者狩り」のような状況だったとされる。
また陸戦でも相当な損害を出したもののロシア軍が立てこもっていた旅順を陥落させ、続く奉天の会戦でもロシア軍は撤退。なお時系列的には旅順→奉天→日本海の順。最終的にアメリカの仲介を受けて1905年(明治38年)9月5日に講和が成り立つ。授業で習った記憶のあるポーツマス条約。これで約1年と7ヶ月続いた日露戦争が終結。
日本は戦争での国力消耗がほぼ限界で、またロシアは革命が起きて国内が混乱するなど、双方にとってちょうどいい潮時のタイミングだったのかも知れない。講和=手打ちになっただけで、太平洋戦争での日本のようにロシアが降伏したわけではないのだが、全世界的にこの戦争は日本の勝利と認識された。
そして日露戦争で日本が勝ったニュースは各国に衝撃を与える。
それは
小国日本が大国ロシアに勝った(面積の話じゃなく国力の差)
黄色人種が白人に勝った
から。
その受け止め方は各国の状況に応じて様々。
イギリス:ロシアと対立していたので「ロシアざまあ」な反応。
日英同盟を結んでいたイギリスは、バルチック艦隊の補給を
妨害するなど陰に日向に日本を支援していて、
その協力がなければ日本海海戦の勝利もなかったとされる。
ただし日本が勝つとは思っておらず、最後は自らが仲介に乗り出して
漁夫の利で中国の利権を拡大しようと考えていたので、ちょっと
ガッカリしたとも。
フランス:ロシアとつながりが深かったので悲観ムード。
アメリカ:日本の海軍力に警戒感を強める。
そして欧米列強の支配を受けていたアジアの国々では大絶賛! また後年に数多くの政治指導者が「日露戦争での日本の勝利が励ましになった」との言葉を残している。一例を挙げるとネルー(インド初代首相)、孫文(中国革命の父)、バー・モウ(ビルマの独立指導者)、ファン・ボイ・チャウ(ベトナムの独立指導者)など。ただしやがて日本が東南アジアを支配するようになってガッカリさせてしまうのだが。
最も熱狂的に日露戦争勝利を喜んだのはトルコ(この頃はオスマン帝国)。それは当時トルコがロシアの属領になっていたから。上は皇帝から下は庶民まで日本を応援したといわれる。そして子供の名前にトーゴーと付ける人まで多くいたとか。でも東郷は苗字だから、名付けるならヘイハチローなんだけどな(^^ゞ
話はそれるが東郷=TOGOは分解するとto go。toは発音がtwoに似ている。それでイギリス留学時代に寄宿舎で one go, two go, three goとからかわれていたとの記録を読んだ。面白そうなエピソードなのに、何と訳していいのか分からない(/o\)
なおto goはハンバーガーなどのお持ち帰りでも使う。テイクアウトはまったくの和製英語。それにしてもいかにも英語っぽい和製英語を誰が考えたのだろう。
ついでにプーチンはPutinでput inに分解できる。put inは中に入れる、挿入するとの意味があり、英語圏ではput in Putinと罵っているとかいないとか。日本語訳は書かないけれどジャニー喜多川さんがやってらっしゃった行為です(^^ゞ
さて
その日露戦争後も東郷平八郎の名声・人気は衰えることなく、米国タイム誌の表紙に日本人として初めて選ばれる。日露戦争終戦から25年後の1926年(昭和元年)の発行。
ちなみにタイム誌で過去に日本人が表紙を飾ったのは41回。ただし昭和天皇の6回など重複を除外し、さらに不特定多数の人物として取り上げられた例を除くと「カバーパーソン」となった日本人は31名。タイム誌は週刊誌で創刊は1923年3月3日。単純計算では今までに5249号を発行しているから日本人の存在感は超希薄。41回で計算しても登場率わずかに0.8%である。だからニュース雑誌タイムの表紙になると日本ではそれがニュースになる。なお31名には含まれていないがポケモンの号もあった。
また今年の5月にタイム誌の表紙を飾ったと話題になった岸田総理であるが、彼が掲載されたのは本国のタイム誌ではなくアジア版。過去3回掲載された安倍元総理も同じ。アジア版の表紙になった日本人は25名。
アジア版の創刊がいつなのかなぜかネットで調べてもヒットしなかった。ChatGPTに尋ねても同様だったが、英語で質問すると1993年と回答。ChatGPTしかソースがないのは不安だけれど、とりあえず1993年として、日付は中間を採って7月1日で計算すると現在までに1579号。アジア版でもダメダメな日本人(>_<)
ところで写真で見る東郷平八郎は次のようなものが多いかな。
左の写真は元帥と書かれているから65歳以上で撮られたもの。それ以前の写真に但し書きを入れた可能性もあるが。詳しい人なら勲章などで判断できるはず。それはともかく実にカッコイイし威厳がある。右側は同時期の撮影と思われるが、撮り方の影響なのか姿勢にやや年齢を感じる。カメラマンの腕前は大事だね。そして足元のマットはなくていいと思うゾ。
こちらはもっと若い頃。といっても制服の袖にラインが5本あるから大将の階級になってからのもの。そういう軍事オタク的知識はないものの、上の写真もラインが5本で、日本の元帥は階級としては大将だからとの判断。だとすると東郷平八郎が大将になったのは1904年で57歳だから、それ以降の撮影。明治時代の人にしては歳を取っても老け込んでいない印象。
めちゃイケメンなのに驚く。
そしてこの写真に着色したものを見つけた。
少し前の映画スターで、
これ以上にカッコよかった人はいた?レベル。画像はhttps://twitter.com/DigitalMixComp/status/1232291326714007552から引用
白黒でも顔は同じなのに、
カラーになるとリアルになってインパクトを増すものだと改めて感心したしだい。
お待たせしました!(誰も待っていないか)
よ〜〜〜やく東郷神社に話が戻るm(_ _)m
社殿エリアを離れて入口に戻る。東郷記念館コッチの案内があった。
これは資料館じゃなくレストランや結婚式場の施設なのでスルー。
鳥居まで向かう途中に庭園エリアがあるので、そちらに。
写真を拡大すると狛犬がやたらカクカクしているのが分かる。
これは狛犬ではなく獅子らしい。
獅子(しし)とはライオンがベースの架空の生物。実は狛犬(コマイヌ)も犬ベースの架空の生物。そして狛犬のルーツは獅子なのでまあ似たようなもの。
庭園には大きな池がある。
写真に写っている7名の内、浴衣を着ている女性を含めて4名は白人。他にもチラホラ見かけた。東郷神社は外国人に人気があるみたい。
池の後ろにあるのが東郷記念館。
周りを高いビルに囲まれてはいても、
明治通り・竹下通りの喧噪を忘れ去れる都会のオアシス的な場所。
喧噪から静寂へのワープ感覚という点では、すぐ近くの明治神宮にもちろん適わない。しかし明治神宮は広すぎて時間が掛かるから、原宿にいて手っ取り早く静寂に浸りたいなら東郷神社がオススメ。
<おまけ>
別に東郷平八郎ファンでも何でもないのだが、
彼ゆかりの場所には今まで他に2箇所訪れている。
まず2011年、バイクツーリングで立ち寄った三笠公園。
ここには日本海海戦で東郷が乗艦した戦艦三笠が保存されている。
記念艦として保存されたのは大正14年(1925年)。その後いろいろあって戦後はダンスホールや水族館などの施設になり、大砲や船の上部構造などは取り除かれている。
それが復元されたのは1961年(昭和36年)。外観はハリボテ感を隠せないところが見られるものの、船の内部も見学できるのでソコソコは楽しめる。
当時のブログページには ↓ から。
三笠公園について書いているのはページ後半。
「ブラブラと横浜・横須賀〜三崎」
次は2021年に、しだれ桜を見に出かけた調布市にある東郷寺。
東郷平八郎の別荘地跡に建てられたお寺で、彼とは直接の関係はない。
ここのしだれ桜はとても素晴らしい。
この景色が東京とは思えないでしょ。
当時のブログページには ↓ から。
「東郷寺でしだれ桜」
「東郷寺でしだれ桜 その2」
「東郷寺でしだれ桜 その3」
おしまい
また陸戦でも相当な損害を出したもののロシア軍が立てこもっていた旅順を陥落させ、続く奉天の会戦でもロシア軍は撤退。なお時系列的には旅順→奉天→日本海の順。最終的にアメリカの仲介を受けて1905年(明治38年)9月5日に講和が成り立つ。授業で習った記憶のあるポーツマス条約。これで約1年と7ヶ月続いた日露戦争が終結。
日本は戦争での国力消耗がほぼ限界で、またロシアは革命が起きて国内が混乱するなど、双方にとってちょうどいい潮時のタイミングだったのかも知れない。講和=手打ちになっただけで、太平洋戦争での日本のようにロシアが降伏したわけではないのだが、全世界的にこの戦争は日本の勝利と認識された。
そして日露戦争で日本が勝ったニュースは各国に衝撃を与える。
それは
小国日本が大国ロシアに勝った(面積の話じゃなく国力の差)
黄色人種が白人に勝った
から。
その受け止め方は各国の状況に応じて様々。
イギリス:ロシアと対立していたので「ロシアざまあ」な反応。
日英同盟を結んでいたイギリスは、バルチック艦隊の補給を
妨害するなど陰に日向に日本を支援していて、
その協力がなければ日本海海戦の勝利もなかったとされる。
ただし日本が勝つとは思っておらず、最後は自らが仲介に乗り出して
漁夫の利で中国の利権を拡大しようと考えていたので、ちょっと
ガッカリしたとも。
フランス:ロシアとつながりが深かったので悲観ムード。
アメリカ:日本の海軍力に警戒感を強める。
そして欧米列強の支配を受けていたアジアの国々では大絶賛! また後年に数多くの政治指導者が「日露戦争での日本の勝利が励ましになった」との言葉を残している。一例を挙げるとネルー(インド初代首相)、孫文(中国革命の父)、バー・モウ(ビルマの独立指導者)、ファン・ボイ・チャウ(ベトナムの独立指導者)など。ただしやがて日本が東南アジアを支配するようになってガッカリさせてしまうのだが。
最も熱狂的に日露戦争勝利を喜んだのはトルコ(この頃はオスマン帝国)。それは当時トルコがロシアの属領になっていたから。上は皇帝から下は庶民まで日本を応援したといわれる。そして子供の名前にトーゴーと付ける人まで多くいたとか。でも東郷は苗字だから、名付けるならヘイハチローなんだけどな(^^ゞ
話はそれるが東郷=TOGOは分解するとto go。toは発音がtwoに似ている。それでイギリス留学時代に寄宿舎で one go, two go, three goとからかわれていたとの記録を読んだ。面白そうなエピソードなのに、何と訳していいのか分からない(/o\)
なおto goはハンバーガーなどのお持ち帰りでも使う。テイクアウトはまったくの和製英語。それにしてもいかにも英語っぽい和製英語を誰が考えたのだろう。
ついでにプーチンはPutinでput inに分解できる。put inは中に入れる、挿入するとの意味があり、英語圏ではput in Putinと罵っているとかいないとか。日本語訳は書かないけれどジャニー喜多川さんがやってらっしゃった行為です(^^ゞ
さて
その日露戦争後も東郷平八郎の名声・人気は衰えることなく、米国タイム誌の表紙に日本人として初めて選ばれる。日露戦争終戦から25年後の1926年(昭和元年)の発行。
ちなみにタイム誌で過去に日本人が表紙を飾ったのは41回。ただし昭和天皇の6回など重複を除外し、さらに不特定多数の人物として取り上げられた例を除くと「カバーパーソン」となった日本人は31名。タイム誌は週刊誌で創刊は1923年3月3日。単純計算では今までに5249号を発行しているから日本人の存在感は超希薄。41回で計算しても登場率わずかに0.8%である。だからニュース雑誌タイムの表紙になると日本ではそれがニュースになる。なお31名には含まれていないがポケモンの号もあった。
また今年の5月にタイム誌の表紙を飾ったと話題になった岸田総理であるが、彼が掲載されたのは本国のタイム誌ではなくアジア版。過去3回掲載された安倍元総理も同じ。アジア版の表紙になった日本人は25名。
アジア版の創刊がいつなのかなぜかネットで調べてもヒットしなかった。ChatGPTに尋ねても同様だったが、英語で質問すると1993年と回答。ChatGPTしかソースがないのは不安だけれど、とりあえず1993年として、日付は中間を採って7月1日で計算すると現在までに1579号。アジア版でもダメダメな日本人(>_<)
ところで写真で見る東郷平八郎は次のようなものが多いかな。
左の写真は元帥と書かれているから65歳以上で撮られたもの。それ以前の写真に但し書きを入れた可能性もあるが。詳しい人なら勲章などで判断できるはず。それはともかく実にカッコイイし威厳がある。右側は同時期の撮影と思われるが、撮り方の影響なのか姿勢にやや年齢を感じる。カメラマンの腕前は大事だね。そして足元のマットはなくていいと思うゾ。
こちらはもっと若い頃。といっても制服の袖にラインが5本あるから大将の階級になってからのもの。そういう軍事オタク的知識はないものの、上の写真もラインが5本で、日本の元帥は階級としては大将だからとの判断。だとすると東郷平八郎が大将になったのは1904年で57歳だから、それ以降の撮影。明治時代の人にしては歳を取っても老け込んでいない印象。
めちゃイケメンなのに驚く。
そしてこの写真に着色したものを見つけた。
少し前の映画スターで、
これ以上にカッコよかった人はいた?レベル。画像はhttps://twitter.com/DigitalMixComp/status/1232291326714007552から引用
白黒でも顔は同じなのに、
カラーになるとリアルになってインパクトを増すものだと改めて感心したしだい。
お待たせしました!(誰も待っていないか)
よ〜〜〜やく東郷神社に話が戻るm(_ _)m
社殿エリアを離れて入口に戻る。東郷記念館コッチの案内があった。
これは資料館じゃなくレストランや結婚式場の施設なのでスルー。
鳥居まで向かう途中に庭園エリアがあるので、そちらに。
写真を拡大すると狛犬がやたらカクカクしているのが分かる。
これは狛犬ではなく獅子らしい。
獅子(しし)とはライオンがベースの架空の生物。実は狛犬(コマイヌ)も犬ベースの架空の生物。そして狛犬のルーツは獅子なのでまあ似たようなもの。
庭園には大きな池がある。
写真に写っている7名の内、浴衣を着ている女性を含めて4名は白人。他にもチラホラ見かけた。東郷神社は外国人に人気があるみたい。
池の後ろにあるのが東郷記念館。
周りを高いビルに囲まれてはいても、
明治通り・竹下通りの喧噪を忘れ去れる都会のオアシス的な場所。
喧噪から静寂へのワープ感覚という点では、すぐ近くの明治神宮にもちろん適わない。しかし明治神宮は広すぎて時間が掛かるから、原宿にいて手っ取り早く静寂に浸りたいなら東郷神社がオススメ。
<おまけ>
別に東郷平八郎ファンでも何でもないのだが、
彼ゆかりの場所には今まで他に2箇所訪れている。
まず2011年、バイクツーリングで立ち寄った三笠公園。
ここには日本海海戦で東郷が乗艦した戦艦三笠が保存されている。
記念艦として保存されたのは大正14年(1925年)。その後いろいろあって戦後はダンスホールや水族館などの施設になり、大砲や船の上部構造などは取り除かれている。
それが復元されたのは1961年(昭和36年)。外観はハリボテ感を隠せないところが見られるものの、船の内部も見学できるのでソコソコは楽しめる。
当時のブログページには ↓ から。
三笠公園について書いているのはページ後半。
「ブラブラと横浜・横須賀〜三崎」
次は2021年に、しだれ桜を見に出かけた調布市にある東郷寺。
東郷平八郎の別荘地跡に建てられたお寺で、彼とは直接の関係はない。
ここのしだれ桜はとても素晴らしい。
この景色が東京とは思えないでしょ。
当時のブログページには ↓ から。
「東郷寺でしだれ桜」
「東郷寺でしだれ桜 その2」
「東郷寺でしだれ桜 その3」
おしまい
wassho at 22:33|Permalink│Comments(0)│
2023年10月09日
東郷神社を初訪問 その5 プロフィールと国葬
さて無駄にあれこれ書いてきたここまでのブログ。
まだまだ続いて(^^ゞ
今回はこの神社に祀られている東郷平八郎のプロフィールから。
生まれたのは明治維新(1868年)の21年前、まだ江戸時代だった1848年(弘化4年)に鹿児島で武家の四男として生まれる。つまり長じては薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗って新潟や函館で旧幕府軍と戦っているから生粋の海軍軍人。15歳の初陣である薩英戦争だって、イギリス軍艦の艦砲射撃vs薩摩の陸地に設置した大砲の戦いなので半分は海戦みたいなもの。
その後、1871年(明治4年)から1878年まで、海軍士官としてイギリスに留学。留学には西郷隆盛の口添えがあったとの話も。西郷は1877年(明治10年)に明治政府に対して西南戦争を起こし最終的には敗れて自害。もし留学していなかったら西郷の元にはせ参じたと本人が言っている。このあたりは歴史に if があったらと思ってしまう。
イギリス留学時代の東郷平八郎。
1894年(明治27年)から1895年の日清戦争では、艦長として巡洋艦「浪花」を指揮する。当時46歳、階級は大佐で戦争途中に少将に昇進。
日露戦争前年の1903年(明治36年)連合艦隊司令長官に任命される。当時56歳、階級は中将。連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長と共に海軍3長官と称されていたので、東郷平八郎は海軍のトップに上り詰めたことになる。日本海海戦1年前の1904年に大将に昇進。
トップが3人いるとは複雑だが、海軍大臣は内閣の一員で、大臣が率いる海軍省は軍政(軍事行政)が担当業務。明治憲法下で軍は内閣からは独立した存在で最高司令官は天皇。その直属機関を海軍では軍令部と呼ぶ。軍令とは軍政の対義語で軍事行動そのものに関わる業務。軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長に名称変更)。
陸軍で同じ機能を持つのが参謀本部。陸軍と海軍で名前が違うのがややこしい。そして平時には陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ運営されたが、戦時にそれを一元化したのが大本営。ちなみに昔の武将がいる時代の戦(いくさ)では、周りを幕で囲った場所に総大将などが陣取って軍議を開いた。その場所を本営または本陣と呼ぶ。たぶん大本営の語源もそこから。
さて軍令部長と連合艦隊司令長官は言ってみれば本部と現場のトップ。本部のほうが権力がありそうだけれど、艦隊は長期間に渡り航海をする。今と違ってそう簡単に連絡も取れないから必然的に現場判断が増える。それで軍令部長より連合艦隊司令長官、あるは軍令部より連合艦隊司令部のほうが発言力が大きかったようだ。なお東郷平八郎は日露戦争後に軍令部長に就任している。
彼がいつ退役したのか分からなかったものの、1913年(大正2年)に元帥(げんすい)になっているから、それ以降となる。1913年は65歳の歳。大将の上の階級に元帥を置く国もある。しかし日本の元帥は階級ではなく、大将階級の中で特に功績があったものに贈られる名誉称号のような位置づけ。旧日本軍には陸海併せて31名の元帥がいて、死後に元帥の称号を追贈された人も多い。なお元帥になることを元帥府に列せられるととも表現する。元帥府とは元帥によって構成される天皇の軍事に関する顧問団。また天皇は大元帥。
ただし元帥は英語でマーシャルだが、東郷平八郎は海外ではアドミラル東郷と呼ばれている。アドミラルとは提督の意味。つまり東郷元帥ではなく東郷提督。それは海外の海軍では将官(少将、中将、大将)以上(元帥を含む)の総称として提督と呼ぶ習わしがあるから。旧日本軍で提督の名称は使われていなかった。また提督は陸軍では使わず海軍だけなので、何となく元帥は陸軍、提督は海軍のイメージもある。
1934年(昭和9年)5月30日に86歳で亡くなる。当時としてはかなり長生きかと。
そして6月5日に国葬が営まれる。
それにしても国葬までの期間が短い。国葬ともなればいろいろと多岐にわたる準備や調整が必要なはずなのに、ほとんど普通の葬式と変わりないのにビックリ。あるいは「もうそろそろだから」と準備していたのだろうか? だとしても記録を読むと、東郷が体調の異変を感じ始めたのは亡くなる前年の秋頃。ただし医師の診察を受けたのは亡くなった月である5月になってからで、病名は咽頭がん(いんとう=ノドのガン)。既に重篤な状態だったというが、そこから慌てて準備を開始したことになる。(診断時期については諸説あり)
国葬にはイギリス海軍支那艦隊、アメリカ海軍アジア艦隊、フランス海軍極東艦隊、イタリア海軍東洋艦隊、中華民国艦隊の巡洋艦が訪日して儀仗隊を参列させている。それだけ大規模なものだったし、また東郷平八郎の名声が各国海軍に鳴り響いていたのを伺わせる。
ちなみに今まで国葬(大喪の礼と事実上の国葬や準国葬を含む)となったのは大久保利通から安倍晋三まで29名。時代区分では明治:11名、大正:9名、昭和戦前:5名、戦後:4名。肩書き別では
天皇・皇后 6名
韓国皇帝 2名
旧藩主 3名
政治家 8名
皇族軍人 6名
元軍人の政治家 2名 (大山巌、山県有朋)
軍人 2名 (東郷平八郎、山本五十六)
純粋な軍人では東郷平八郎と山本五十六だけで、いかに功績が認められていたかの証し。
ところで安倍晋三の時に「国葬か国葬儀か」でひと悶着あった。国葬だと反発もあるから「国葬儀」とのヘリクツをひねり出したと思っていたが、実は吉田茂も国葬儀だと知った。あの頃、そんなことは報道されていたかな?
戦前:国葬令という勅令(議会を通さず天皇が発令した法的効力のある命令)で
「国葬」が位置づけられていた。
参考までに前述した軍令部も、議会を通さず法的効力のある軍令を発令した。
戦後:国葬令は1947年(昭和22年)に失効。
安倍さんの葬儀は内閣府設置法に基づく国の儀式として執り行うとの解釈。
だから国葬じゃなく国葬儀。
しかし内閣府設置法(内閣じゃなくて内閣府ね)の施行は2001年(平成13年)。では吉田茂の時は? 吉田茂の国葬(1967年 昭和42年)の翌年に発行された総理府(旧内閣府)発行の公文書は「故吉田茂国葬儀記録」となっている。またこんな記録写真も。
いったいどんな法的根拠に基づく国葬儀だったのか?
調べてみるとどうやら「超法規的対応」だったらしい。チャンチャン(^^ゞ
この時も国葬と呼ぶ法的根拠がないから国葬儀としたのだろう。
なお戦後に実施された4名のうち吉田茂と安倍晋三以外の国葬は、貞明皇后(大正天皇の皇后)と昭和天皇なので大喪儀と大喪の礼。大喪の礼は皇室典範という法律に規定があっても、大喪儀は皇室の私的行事の扱いで法的根拠はないみたいだ。
ーーー続く
次回こそ終わる予定 m(_ _)m
まだまだ続いて(^^ゞ
今回はこの神社に祀られている東郷平八郎のプロフィールから。
生まれたのは明治維新(1868年)の21年前、まだ江戸時代だった1848年(弘化4年)に鹿児島で武家の四男として生まれる。つまり長じては薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗って新潟や函館で旧幕府軍と戦っているから生粋の海軍軍人。15歳の初陣である薩英戦争だって、イギリス軍艦の艦砲射撃vs薩摩の陸地に設置した大砲の戦いなので半分は海戦みたいなもの。
その後、1871年(明治4年)から1878年まで、海軍士官としてイギリスに留学。留学には西郷隆盛の口添えがあったとの話も。西郷は1877年(明治10年)に明治政府に対して西南戦争を起こし最終的には敗れて自害。もし留学していなかったら西郷の元にはせ参じたと本人が言っている。このあたりは歴史に if があったらと思ってしまう。
イギリス留学時代の東郷平八郎。
1894年(明治27年)から1895年の日清戦争では、艦長として巡洋艦「浪花」を指揮する。当時46歳、階級は大佐で戦争途中に少将に昇進。
日露戦争前年の1903年(明治36年)連合艦隊司令長官に任命される。当時56歳、階級は中将。連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長と共に海軍3長官と称されていたので、東郷平八郎は海軍のトップに上り詰めたことになる。日本海海戦1年前の1904年に大将に昇進。
トップが3人いるとは複雑だが、海軍大臣は内閣の一員で、大臣が率いる海軍省は軍政(軍事行政)が担当業務。明治憲法下で軍は内閣からは独立した存在で最高司令官は天皇。その直属機関を海軍では軍令部と呼ぶ。軍令とは軍政の対義語で軍事行動そのものに関わる業務。軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長に名称変更)。
陸軍で同じ機能を持つのが参謀本部。陸軍と海軍で名前が違うのがややこしい。そして平時には陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ運営されたが、戦時にそれを一元化したのが大本営。ちなみに昔の武将がいる時代の戦(いくさ)では、周りを幕で囲った場所に総大将などが陣取って軍議を開いた。その場所を本営または本陣と呼ぶ。たぶん大本営の語源もそこから。
さて軍令部長と連合艦隊司令長官は言ってみれば本部と現場のトップ。本部のほうが権力がありそうだけれど、艦隊は長期間に渡り航海をする。今と違ってそう簡単に連絡も取れないから必然的に現場判断が増える。それで軍令部長より連合艦隊司令長官、あるは軍令部より連合艦隊司令部のほうが発言力が大きかったようだ。なお東郷平八郎は日露戦争後に軍令部長に就任している。
彼がいつ退役したのか分からなかったものの、1913年(大正2年)に元帥(げんすい)になっているから、それ以降となる。1913年は65歳の歳。大将の上の階級に元帥を置く国もある。しかし日本の元帥は階級ではなく、大将階級の中で特に功績があったものに贈られる名誉称号のような位置づけ。旧日本軍には陸海併せて31名の元帥がいて、死後に元帥の称号を追贈された人も多い。なお元帥になることを元帥府に列せられるととも表現する。元帥府とは元帥によって構成される天皇の軍事に関する顧問団。また天皇は大元帥。
ただし元帥は英語でマーシャルだが、東郷平八郎は海外ではアドミラル東郷と呼ばれている。アドミラルとは提督の意味。つまり東郷元帥ではなく東郷提督。それは海外の海軍では将官(少将、中将、大将)以上(元帥を含む)の総称として提督と呼ぶ習わしがあるから。旧日本軍で提督の名称は使われていなかった。また提督は陸軍では使わず海軍だけなので、何となく元帥は陸軍、提督は海軍のイメージもある。
1934年(昭和9年)5月30日に86歳で亡くなる。当時としてはかなり長生きかと。
そして6月5日に国葬が営まれる。
それにしても国葬までの期間が短い。国葬ともなればいろいろと多岐にわたる準備や調整が必要なはずなのに、ほとんど普通の葬式と変わりないのにビックリ。あるいは「もうそろそろだから」と準備していたのだろうか? だとしても記録を読むと、東郷が体調の異変を感じ始めたのは亡くなる前年の秋頃。ただし医師の診察を受けたのは亡くなった月である5月になってからで、病名は咽頭がん(いんとう=ノドのガン)。既に重篤な状態だったというが、そこから慌てて準備を開始したことになる。(診断時期については諸説あり)
国葬にはイギリス海軍支那艦隊、アメリカ海軍アジア艦隊、フランス海軍極東艦隊、イタリア海軍東洋艦隊、中華民国艦隊の巡洋艦が訪日して儀仗隊を参列させている。それだけ大規模なものだったし、また東郷平八郎の名声が各国海軍に鳴り響いていたのを伺わせる。
ちなみに今まで国葬(大喪の礼と事実上の国葬や準国葬を含む)となったのは大久保利通から安倍晋三まで29名。時代区分では明治:11名、大正:9名、昭和戦前:5名、戦後:4名。肩書き別では
天皇・皇后 6名
韓国皇帝 2名
旧藩主 3名
政治家 8名
皇族軍人 6名
元軍人の政治家 2名 (大山巌、山県有朋)
軍人 2名 (東郷平八郎、山本五十六)
純粋な軍人では東郷平八郎と山本五十六だけで、いかに功績が認められていたかの証し。
ところで安倍晋三の時に「国葬か国葬儀か」でひと悶着あった。国葬だと反発もあるから「国葬儀」とのヘリクツをひねり出したと思っていたが、実は吉田茂も国葬儀だと知った。あの頃、そんなことは報道されていたかな?
戦前:国葬令という勅令(議会を通さず天皇が発令した法的効力のある命令)で
「国葬」が位置づけられていた。
参考までに前述した軍令部も、議会を通さず法的効力のある軍令を発令した。
戦後:国葬令は1947年(昭和22年)に失効。
安倍さんの葬儀は内閣府設置法に基づく国の儀式として執り行うとの解釈。
だから国葬じゃなく国葬儀。
しかし内閣府設置法(内閣じゃなくて内閣府ね)の施行は2001年(平成13年)。では吉田茂の時は? 吉田茂の国葬(1967年 昭和42年)の翌年に発行された総理府(旧内閣府)発行の公文書は「故吉田茂国葬儀記録」となっている。またこんな記録写真も。
いったいどんな法的根拠に基づく国葬儀だったのか?
調べてみるとどうやら「超法規的対応」だったらしい。チャンチャン(^^ゞ
この時も国葬と呼ぶ法的根拠がないから国葬儀としたのだろう。
なお戦後に実施された4名のうち吉田茂と安倍晋三以外の国葬は、貞明皇后(大正天皇の皇后)と昭和天皇なので大喪儀と大喪の礼。大喪の礼は皇室典範という法律に規定があっても、大喪儀は皇室の私的行事の扱いで法的根拠はないみたいだ。
ーーー続く
次回こそ終わる予定 m(_ _)m
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2023年10月06日
東郷神社を初訪問 その4 東郷ターン
前回のブログ内容が東郷神社から離れてしまったのは、日露戦争や日本とはまったく関係のないアメリカの戦争アクション系映画を観て、現在でも米海軍の研修で東郷平八郎が日本海海戦で用いた「東郷ターン」が取り上げられていると知った話を書いたから。
それでしつこくその続き(^^ゞ
昔の大規模な艦隊同士の海戦では、それぞれが縦1列の陣形の場合(単縦陣という)に、主に3つの交戦パターンがあった。
同航戦:同じ方向に進みながら大砲を撃つ 平航戦とも言う
反航戦:反対方向にすれ違いながら大砲を撃つ
T字戦:敵の進路を塞ぐような位置を取って大砲を撃つ
同航戦は敵艦との速度が同じなら普通に狙って撃てばいいので命中率は高い。もちろん敵から命中される率も高くなる。反航戦は離れながら撃つ=大砲が届くときの敵艦の位置を推測して撃たなければいけないので命中率は下がる。そしてT字戦については次のように説明される。
ここれは日本海海戦で旗艦(司令官の乗る船)だった戦艦三笠のプラモデル。本物の全長は132メートル。画像はhttp://www.hasegawa-model.co.jp/product/z21/から引用
前と後ろの甲板に主砲、船のサイドに副砲が並んでいる。資料によれば副砲は片側に大小併せて15門が装備されている。そして主砲は左右に回転する。どれくらいの角度まで回転するのかよく知らないのだが、とりあえず90度回転つまり真横までは向けられるとする。
するとT字戦で横側になった艦隊(上の図では赤)は、船の反対側の副砲を除いて全砲門を使えるのに対し、縦側の艦隊(図では青)は前部の主砲しか使えないから不利となる。この説明にはいろいろと分からないところや疑問に思うところもあるものの、それを書き出すと長くなるので、とりあえず横側になれば有利としておこう。
ただT字戦は高度な操船、艦隊の統率が要求されるのは素人でも分かる。それはドンピシャのタイミングでT字を作らなければならないから。タイミングが早すぎるとすり抜けられるし、タイミングが遅いと逆に自分が縦に突っ込む位置取りになってしまう。
さてバルチック艦隊の太平洋艦隊(前回ブログ参照)は、
次のような航路で遠路はるばる日本海までやって来た。
1904年(明治37年)10月15日 第2艦隊がバルト海を出航。
本隊はアフリカ大陸を回ってマダガスカルを目指す(青いライン)。
地図では分かりにくいがオレンジのラインの支隊は地中海からスエズ運河を抜けて
マダガスカルへ。途中で黒海からの船とも合流する。
本隊が遠回りしたのは船が大きくてスエズ運河を通れなかったから。
マダガスカル到着は支隊が12月30日、本隊が翌年1905年1月9日
1905年2月15日 第3艦隊がバルト海を出航(赤いライン)。
3月16日 第2艦隊がマダガスカルを出航
4月14日 第2艦隊がベトナムに到着
5月9日 第3艦隊がベトナムに到着して第2艦隊と合流する
5月14日 両艦隊でベトナムを出航
そして5月27日から28日に掛けて対馬沖で日本海海戦となる。
日本海海戦はバルチック艦隊が7ヶ月も航海を続け、日本海に入ったときはヘロヘロだったから連合艦隊は勝てたと書かれているものもある。しかし第2艦隊はマダガスカルで3ヶ月、ベトナムで1ヶ月も停泊している。後発の第3艦隊にしてもベトナムで5日間ほどの休息期間があった。もちろん5日でリフレッシュできたかとの疑問は残るが。
それよりも航海途中に燃料や食糧は補給できても砲弾は手に入らないだろうから、ほとんど訓練をしていなかったんじゃないかな。バルト海を出航して日本海海戦を戦うまでに第2艦隊は7ヶ月、第3艦隊は3ヶ月がたっている。ゴルフでも何ヶ月もクラブを握らずいきなりコースに出たらそりゃ厳しい。
さてウラジオストックには行かせまいと、対馬沖で待ち構えていた東郷平八郎率いる連合艦隊は、事前に陣形について次の作戦を決定していた。
バルチック艦隊が単縦陣で来たならT字戦法 当時は丁(てい)字
そうでなければZ字戦法 当時は乙(おつ)字
Z字戦法についてよく理解していない。ただしZとはジグザクを意味しているようで、要はそれぞれバラバラで臨機応変に対処という戦法だろうか。
T字戦法はおそらくはある程度離れたところで旋回して、
バルチック艦隊の前に出るつもりだったと思われる。
ところがバルチック艦隊を発見したときは、すでにかなり接近した状態になっていた。この時代はレーダーや飛行機はまだない。偵察の船を何隻か前方に展開して、その目撃情報を元に進路を予想していたが(モールス信号による無線連絡は実用化されていた)、どうやら不正確な情報だったらしい。
このまま進めば反航戦になる。反航戦は命中率が低いからバルチック艦隊に逃げられる可能性が高い。彼らの目的は前回に書いたように、まずウラジオストックへの入港で、この時点で連合艦隊を叩くことじゃない。逆に連合艦隊にとってここで取り逃がせば、それは引き分けではなく負けに等しい。
それで東郷平八郎は艦隊を急旋回させて、強引にT字戦法にもっていった。この旋回が「東郷ターン」。東郷ターンはTOGO Turnとして海外で広まったネーミングで、当時は敵前大回頭と呼んでいた。
これは日本海海戦の航跡をすべて示したロシア側の記録。
素人には判別できないので、
こちらが開戦直後の概略図。画像はhttps://www.jiji.com/jc/v4?id=20101224battle_of_tsushima0009より引用
そのまま左旋回するとバルチック艦隊の右側に出てしまうため、距離を取るため一旦右旋回してからUターンするように左旋回してT字ポジションを作ろうとしている。相当にトリッキーな動き。東郷ターンとは一般に2度目の左旋回を指す。しかしまるでフェイントのような最初の右旋回も含めてそう呼ぶべきな気がする。ただしあくまで素人見解。
そして東郷はバルチック艦隊との距離8000mで左旋回の指示を出した。8000mは大砲の射程距離内である。旋回中は大砲を撃てないらしく(理由は知らない)航行速度も落ちるから格好の標的になる。実際かなりの砲撃を受けたようだ。
しかし相手の意表を突く作戦を、鍛え上げた艦隊の操艦練度をもって実行し、そして何より成功させた。だからこそ東郷ターンが世界の海戦史上の奇跡と評価され、その名が海外でも語り継がれたのだと思われる。
ただしバルチック艦隊だってむざむざT字戦法に引っ掛かるほどバカじゃないから、それを回避するために右方向に進路を転換している。だからT字戦法はなかった、その形になったとしても数分のことじゃないか、ほとんどは同航戦だろとの批評は多くある。東郷ターンも単なるバクチと見なされたり。
またこの日本海海戦の9ヶ月ほど前、日露戦争の開始からは6ヶ月後の1904年(明治37年)8月に、連合艦隊とロシアの太平洋艦隊(旅順艦隊)が相まみえた黄海海戦があった。そこでもT字戦法を仕掛けたのだが見事にかわされて失敗する。しかも2回も(/o\) この時の司令長官も東郷平八郎。
その黄海海戦での「失敗に終わったT字戦法」は海軍が作成した戦史に記載されている。なのに日本海海戦で「大成功したT字戦法」は載っていないらしい。ネットで得られた情報だから真偽は確認していないが、そんなところも日本海海戦でT字戦法は使われていないと疑われている理由になっているようだ。
前々回に東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると書いた。おそらく東郷ターンもそうだろう。話を盛るのはプロパガンダではありがちだけれど、日露戦争は講和条約で賠償金も取れずに国民の不満が爆発した。いわゆる戦争で勝って外交で負けた展開。それで国民の気をそらすため血湧き肉躍る武勇伝とヒーローが必要だったのかも知れない。なんたってZ旗とT字である。アルファベットなんて明治の人にはとてもインパクトがあったと思う。
参考までに日本海海戦に参加したのは
連合艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):4隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):24隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)21隻
小計49隻
その他59隻 合計108隻
バルチック艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):8隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):12隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)9隻
小計29隻
その他9隻 合計38隻
何だ、日本が数で圧倒しているじゃないか、東郷ターンなどなくても普通に戦って勝てたのではと思われるだろう。私もそう思ったが当時は戦艦の数で勝敗が決まると言われていたらしく、数の上では劣勢な戦いとされた。
そして、その結果は
連合艦隊
その他59隻に分類した小型艦艇3隻が撃沈
戦死117名、戦傷583名
バルチック艦隊
全38隻中16隻が撃沈、捕獲を避けるための自沈5隻(沈没合計21隻)
連合艦隊に拿捕されたのが6隻
中立国に逃げ込んだのが6隻(清やアメリカ領フィリピンなど)
本国へ帰還したのが2隻
ウラジオストックまで到達できたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻の3隻のみ
戦死4830名、捕虜6106名
東郷ターンよるものかどうかは別として、まさに歴史的大勝利。ただし日露戦争トータルでの戦没者数は日本が8万8429名、ロシアが8万1210名とほぼ同じ。合掌
実は東郷神社にいたのはたった20分ほどなのだけれど、
ブログはまだ続く(^^ゞ
次回は東郷平八郎の話題に戻る予定。
それでしつこくその続き(^^ゞ
昔の大規模な艦隊同士の海戦では、それぞれが縦1列の陣形の場合(単縦陣という)に、主に3つの交戦パターンがあった。
同航戦:同じ方向に進みながら大砲を撃つ 平航戦とも言う
反航戦:反対方向にすれ違いながら大砲を撃つ
T字戦:敵の進路を塞ぐような位置を取って大砲を撃つ
同航戦は敵艦との速度が同じなら普通に狙って撃てばいいので命中率は高い。もちろん敵から命中される率も高くなる。反航戦は離れながら撃つ=大砲が届くときの敵艦の位置を推測して撃たなければいけないので命中率は下がる。そしてT字戦については次のように説明される。
ここれは日本海海戦で旗艦(司令官の乗る船)だった戦艦三笠のプラモデル。本物の全長は132メートル。画像はhttp://www.hasegawa-model.co.jp/product/z21/から引用
前と後ろの甲板に主砲、船のサイドに副砲が並んでいる。資料によれば副砲は片側に大小併せて15門が装備されている。そして主砲は左右に回転する。どれくらいの角度まで回転するのかよく知らないのだが、とりあえず90度回転つまり真横までは向けられるとする。
するとT字戦で横側になった艦隊(上の図では赤)は、船の反対側の副砲を除いて全砲門を使えるのに対し、縦側の艦隊(図では青)は前部の主砲しか使えないから不利となる。この説明にはいろいろと分からないところや疑問に思うところもあるものの、それを書き出すと長くなるので、とりあえず横側になれば有利としておこう。
ただT字戦は高度な操船、艦隊の統率が要求されるのは素人でも分かる。それはドンピシャのタイミングでT字を作らなければならないから。タイミングが早すぎるとすり抜けられるし、タイミングが遅いと逆に自分が縦に突っ込む位置取りになってしまう。
さてバルチック艦隊の太平洋艦隊(前回ブログ参照)は、
次のような航路で遠路はるばる日本海までやって来た。
1904年(明治37年)10月15日 第2艦隊がバルト海を出航。
本隊はアフリカ大陸を回ってマダガスカルを目指す(青いライン)。
地図では分かりにくいがオレンジのラインの支隊は地中海からスエズ運河を抜けて
マダガスカルへ。途中で黒海からの船とも合流する。
本隊が遠回りしたのは船が大きくてスエズ運河を通れなかったから。
マダガスカル到着は支隊が12月30日、本隊が翌年1905年1月9日
1905年2月15日 第3艦隊がバルト海を出航(赤いライン)。
3月16日 第2艦隊がマダガスカルを出航
4月14日 第2艦隊がベトナムに到着
5月9日 第3艦隊がベトナムに到着して第2艦隊と合流する
5月14日 両艦隊でベトナムを出航
そして5月27日から28日に掛けて対馬沖で日本海海戦となる。
日本海海戦はバルチック艦隊が7ヶ月も航海を続け、日本海に入ったときはヘロヘロだったから連合艦隊は勝てたと書かれているものもある。しかし第2艦隊はマダガスカルで3ヶ月、ベトナムで1ヶ月も停泊している。後発の第3艦隊にしてもベトナムで5日間ほどの休息期間があった。もちろん5日でリフレッシュできたかとの疑問は残るが。
それよりも航海途中に燃料や食糧は補給できても砲弾は手に入らないだろうから、ほとんど訓練をしていなかったんじゃないかな。バルト海を出航して日本海海戦を戦うまでに第2艦隊は7ヶ月、第3艦隊は3ヶ月がたっている。ゴルフでも何ヶ月もクラブを握らずいきなりコースに出たらそりゃ厳しい。
さてウラジオストックには行かせまいと、対馬沖で待ち構えていた東郷平八郎率いる連合艦隊は、事前に陣形について次の作戦を決定していた。
バルチック艦隊が単縦陣で来たならT字戦法 当時は丁(てい)字
そうでなければZ字戦法 当時は乙(おつ)字
Z字戦法についてよく理解していない。ただしZとはジグザクを意味しているようで、要はそれぞれバラバラで臨機応変に対処という戦法だろうか。
T字戦法はおそらくはある程度離れたところで旋回して、
バルチック艦隊の前に出るつもりだったと思われる。
ところがバルチック艦隊を発見したときは、すでにかなり接近した状態になっていた。この時代はレーダーや飛行機はまだない。偵察の船を何隻か前方に展開して、その目撃情報を元に進路を予想していたが(モールス信号による無線連絡は実用化されていた)、どうやら不正確な情報だったらしい。
このまま進めば反航戦になる。反航戦は命中率が低いからバルチック艦隊に逃げられる可能性が高い。彼らの目的は前回に書いたように、まずウラジオストックへの入港で、この時点で連合艦隊を叩くことじゃない。逆に連合艦隊にとってここで取り逃がせば、それは引き分けではなく負けに等しい。
それで東郷平八郎は艦隊を急旋回させて、強引にT字戦法にもっていった。この旋回が「東郷ターン」。東郷ターンはTOGO Turnとして海外で広まったネーミングで、当時は敵前大回頭と呼んでいた。
これは日本海海戦の航跡をすべて示したロシア側の記録。
素人には判別できないので、
こちらが開戦直後の概略図。画像はhttps://www.jiji.com/jc/v4?id=20101224battle_of_tsushima0009より引用
そのまま左旋回するとバルチック艦隊の右側に出てしまうため、距離を取るため一旦右旋回してからUターンするように左旋回してT字ポジションを作ろうとしている。相当にトリッキーな動き。東郷ターンとは一般に2度目の左旋回を指す。しかしまるでフェイントのような最初の右旋回も含めてそう呼ぶべきな気がする。ただしあくまで素人見解。
そして東郷はバルチック艦隊との距離8000mで左旋回の指示を出した。8000mは大砲の射程距離内である。旋回中は大砲を撃てないらしく(理由は知らない)航行速度も落ちるから格好の標的になる。実際かなりの砲撃を受けたようだ。
しかし相手の意表を突く作戦を、鍛え上げた艦隊の操艦練度をもって実行し、そして何より成功させた。だからこそ東郷ターンが世界の海戦史上の奇跡と評価され、その名が海外でも語り継がれたのだと思われる。
ただしバルチック艦隊だってむざむざT字戦法に引っ掛かるほどバカじゃないから、それを回避するために右方向に進路を転換している。だからT字戦法はなかった、その形になったとしても数分のことじゃないか、ほとんどは同航戦だろとの批評は多くある。東郷ターンも単なるバクチと見なされたり。
またこの日本海海戦の9ヶ月ほど前、日露戦争の開始からは6ヶ月後の1904年(明治37年)8月に、連合艦隊とロシアの太平洋艦隊(旅順艦隊)が相まみえた黄海海戦があった。そこでもT字戦法を仕掛けたのだが見事にかわされて失敗する。しかも2回も(/o\) この時の司令長官も東郷平八郎。
その黄海海戦での「失敗に終わったT字戦法」は海軍が作成した戦史に記載されている。なのに日本海海戦で「大成功したT字戦法」は載っていないらしい。ネットで得られた情報だから真偽は確認していないが、そんなところも日本海海戦でT字戦法は使われていないと疑われている理由になっているようだ。
前々回に東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると書いた。おそらく東郷ターンもそうだろう。話を盛るのはプロパガンダではありがちだけれど、日露戦争は講和条約で賠償金も取れずに国民の不満が爆発した。いわゆる戦争で勝って外交で負けた展開。それで国民の気をそらすため血湧き肉躍る武勇伝とヒーローが必要だったのかも知れない。なんたってZ旗とT字である。アルファベットなんて明治の人にはとてもインパクトがあったと思う。
参考までに日本海海戦に参加したのは
連合艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):4隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):24隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)21隻
小計49隻
その他59隻 合計108隻
バルチック艦隊
戦艦(大型の戦闘艦):8隻
巡洋艦(中型の戦闘艦):12隻
駆逐艦(小型の戦闘艦)9隻
小計29隻
その他9隻 合計38隻
何だ、日本が数で圧倒しているじゃないか、東郷ターンなどなくても普通に戦って勝てたのではと思われるだろう。私もそう思ったが当時は戦艦の数で勝敗が決まると言われていたらしく、数の上では劣勢な戦いとされた。
そして、その結果は
連合艦隊
その他59隻に分類した小型艦艇3隻が撃沈
戦死117名、戦傷583名
バルチック艦隊
全38隻中16隻が撃沈、捕獲を避けるための自沈5隻(沈没合計21隻)
連合艦隊に拿捕されたのが6隻
中立国に逃げ込んだのが6隻(清やアメリカ領フィリピンなど)
本国へ帰還したのが2隻
ウラジオストックまで到達できたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻の3隻のみ
戦死4830名、捕虜6106名
東郷ターンよるものかどうかは別として、まさに歴史的大勝利。ただし日露戦争トータルでの戦没者数は日本が8万8429名、ロシアが8万1210名とほぼ同じ。合掌
実は東郷神社にいたのはたった20分ほどなのだけれど、
ブログはまだ続く(^^ゞ
次回は東郷平八郎の話題に戻る予定。
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2023年10月04日
東郷神社を初訪問 その3 バルチック艦隊と連合艦隊
Z旗の描かれたノボリがある階段の近くから、
レリーフのあった門の方向。
9月終盤のこの日も最高気温は30度を超えていたものの、
空にはしっかり秋のうろこ雲。上空はもう涼しいみたい。
そしてビルの窓に映る雲がなかなかイイ感じ。
大きな神社だと神様を祀ってある本殿と、お参りをするための拝殿が分かれている場合が多い。東郷神社は外から見る限りひとつの建物のようだ。その場合は何と呼べばいいの?
とりあえず社殿と呼ぶか。そこにも前回で紹介したZ旗が掲げられている。しかもけっこう大きななサイズで。もし何も由緒を知らなくてこの神社を訪れて、そしてそれが船舶関係者だったら「どうしてタグボートが必要なのだ?」と思うのかな(^^ゞ
この神社に祀られているのは何度も書いてきた東郷平八郎。授業で日露戦争は習うので、彼の名前は乃木希典(まれすけ)とセットで中学生の頃から知っている。でも特に興味を持っていたわけじゃない。単なる教科書に載っていた人扱い。
しかしいつだったか覚えていないものの、海外の戦争アクション系映画を観てたときのこと。アメリカ海軍(たぶん)で新入り将校が研修を受けているようなシーンがあった。そこでは敵味方の軍艦の動きが図で示されていて「そしてこれがかの有名な東郷ターンだ」と教官が説明していた。
東郷ターンについてはその時まで知らなかった。しかし、そういえば教科書には書かれていなかったけれど、先生が日本はすごい作戦で日本海海戦に勝利したとか熱心に話してくれたのを思い出した。
その映画の時代設定は現在で、また日本はまったく登場しないストーリー。だから明治時代の日露戦争でとった戦法が、今でも教材となっているのにちょっとビックリした。日本人が思っている以上に、東郷平八郎とバルチック艦隊との戦いは世界の海軍では語り継がれているみたい。外国軍隊の教科書に名前が載っている日本軍人は彼くらいかも知れない。
ところで今の若者には日本がアメリカと戦争したのを知らない者もいると、報道ではなくマスコミの小ネタ扱いで掲載されることがたまにある。もちろん現在でも義務教育の授業で教えているはず。授業をサボったり、習ったのを忘れていたり、単にアホで理解できなかったりする連中はいつの時代でも一定数いるとしても、それが若者の学力平均値だとは思っていない。
でも日清・日露の戦争まで遡ると、その名前を覚えている程度で、どんな戦争だったかを理解していない人のほうが多いだろう。以前に1人だけ、なんと日露戦争で日本がモスクワに攻め込んだと勘違いしている人に出会った経験もある(/o\) もっとも太平洋戦争が起きた背景だってキチンと説明できる人は少ないが。
そこで東郷平八郎ついでに、
超オオザッパに歴史のおさらいを。
【日清戦争 1894年(明治27年)〜1895年)】
明治維新から四半世紀がたって、国力を増してきた日本が朝鮮半島に縄張りを広げようとしたら「そこのシマは代々ウチの組のものやけん」と頭にきた清(しん:現在の中国)とドンパチになる。
主な戦場は朝鮮半島と、その隣の遼東半島など。
首都である北京までは攻めていないよ。
結果は日本のほぼ完勝。朝鮮半島から清を追い出し、また清から遼東半島、台湾などを譲り受け、さらに巨額の賠償金も獲得した。
ついこの間までちょんまげを結っていた日本なのに、衰えつつあるとはいえ大国の清に勝ったのをきっかけに日本の国際的地位が向上する。見方を変えれば警戒されるようになる。
【日露戦争 1904年(明治37年)〜1905年】
日清戦争で獲得した遼東半島であるが、その翌年、自らも清に縄張りを広げようと計画していたフランス、ドイツ、ロシアに「日本の他国への進出はその地域の平和を脅かす」と難癖を付けられて清に返還となる。いわゆる三国干渉。
遼東半島は満州に属する。満州の名前は知っていても、場所はどこだったっけ?人のために地図を載せておく。いわゆる中国の東北部。面積は約120万平方キロで、日本は約38万平方キロだから3倍以上の広さ。
そこを目指してロシアがチャッカリと南下。満州の隣は朝鮮半島だから見過ごすわけにはいかず勃発したのが日露戦争。だからこの時は日露両国ともアウェイでの戦い。清にしてみれば自国領土で勝手に他国が戦争している状況。しかも原因は自国領土の奪い合い。両方ともクタバレと思っていたに違いない。
朝鮮半島でもドンパチはあったものの、メインは満州南部の奉天や遼東半島。激戦地となったのが遼東半島の最西端にある旅順。映画やドラマのタイトルにもなってよく名前を聞く203高地は、旅順から2kmほど離れた海抜203メートルの丘陵地。高地と呼ぶには大げさに思えるが。海抜203メートルが名前の由来で、そのあたりに高地がたくさんあって、その203番目じゃないよ。
極東でロシア海軍の本拠地はウラジオストック。しかし日本との開戦が予想より早かったので規模が不十分。また日本海軍との戦いで弱体化し、日本海と黄海の制海権は日本が握っていた。そこでロシア本国(本国という表現はおかしいが、まあ首都からは遠く離れているので)から勢力拡大のために派遣されてきたのがバルチック艦隊。
だから彼らはまずウラジオストックに入るのが第1の目的。元からいる艦船と体制を立て直して日本海軍を牽制すれば、旅順で戦っているロシア陸軍の側面支援にもなるとの戦略。
ところでバルチック艦隊の名前は知っていても、その意味まで把握している人は少ない。バルチックとはバルト海のこと。英語で書くとBaltic Sea。日本語でバルチック海なんて言わないからバルト艦隊でよさそうなものだが、なぜかバルチック艦隊と呼ぶ。
そのバルト海があるのがこちら。
こんな遠いところからご苦労様である。
正確にいうとバルト海に展開しているがバルチック艦隊で、極東にいたロシア艦隊は太平洋艦隊である。しかし日露戦争の応援のためにバルチック艦隊から艦船を引き抜いて第2太平洋艦隊を編成し派遣すると決まる。またその第2太平洋艦隊が日本に向かう途中に旅順が陥落したので、さらにバルチック艦隊から引き抜いて編成したのが第3太平洋艦隊。この2つの艦隊の所属はもはやバルチック艦隊ではないが、日本ではこれをバルチック艦隊と呼ぶ習わし。
だからロシア人に「日露戦争でバルチック艦隊をイワシたった」とマウント取っても「バルチック艦隊は日本になんか行っていないも〜ん」と反論されるかも知れない(^^ゞ
実は艦隊の呼び方でもっと不思議なものがある。それは日本の連合艦隊。日露戦争での東郷平八郎の肩書きは連合艦隊司令長官。太平洋戦争を戦った山本五十六も連合艦隊司令長官である。後に総理大臣になった鈴木貫太郎や米内光政も連合艦隊司令長官を務めた。それで連合艦隊って何の連合?
言葉の定義としては、まず艦隊とは
軍艦2隻以上、もしくは航空隊2個以上によって編成された部隊
(航空隊とは空母を意味すると思われるが深く調べず)
驚いたことにたった2隻で艦隊は成立する。でもこれは辞書的な定義で、実際は大小様々な戦闘艦をセットにしたのが艦隊。日本海海戦で東郷平八郎が率いた艦隊の1つである第1艦隊には約30隻が所属していた。
そして連合艦隊とは2つ以上の艦隊で編成した艦隊と定義される。
それはいいとしてーーー
日露戦争開戦当時、日本には3つの艦隊があった。そして連合艦隊に所属したのはその3つすべて。太平洋戦争開戦当時は10の艦隊で連合艦隊が編成されている。ではその時、日本に全部でいくつの艦隊があったのか=連合艦隊に所属していない艦隊数は?が気になるところ。でもそれについて明確に記載されている資料が見つからなかった。
しかしどうやら連合艦隊に所属していないのは、老朽化して予備役的だったり、小規模な艦船で港湾や沿岸警備中心の艦隊がほとんどだったようだ。つまり外国との戦争には参加しない艦隊。
ということは、連合と名前はついていても連合艦隊とは、日本海軍そのものと実質的に同じ意味である。また海軍自身が連合艦隊の英訳としてGeneral Fleetを使用しており、これは「すべての」「艦隊」の意味だから、その解釈でおそらく間違いないだろう。なのにどうしてわざわざ連合艦隊と呼ぶのか不思議。
ところでヤクザの山口組は、山口組の下に多くの組が集まった組織。でも山口組と言えばその全体を指す。連合艦隊も似ていたりして(^^ゞ
それはさておき、毎年8月15日が近づくと太平洋戦争関連の番組が放送される。その中で連合艦隊や連合艦隊司令長官なんて言葉がシレっと使われている。でも、その意味を理解している人は1%もいないと思うゾ。
東郷神社からどんどん内容が離れていくけれどm(_ _)m
あと2回くらい続く予定。
レリーフのあった門の方向。
9月終盤のこの日も最高気温は30度を超えていたものの、
空にはしっかり秋のうろこ雲。上空はもう涼しいみたい。
そしてビルの窓に映る雲がなかなかイイ感じ。
大きな神社だと神様を祀ってある本殿と、お参りをするための拝殿が分かれている場合が多い。東郷神社は外から見る限りひとつの建物のようだ。その場合は何と呼べばいいの?
とりあえず社殿と呼ぶか。そこにも前回で紹介したZ旗が掲げられている。しかもけっこう大きななサイズで。もし何も由緒を知らなくてこの神社を訪れて、そしてそれが船舶関係者だったら「どうしてタグボートが必要なのだ?」と思うのかな(^^ゞ
この神社に祀られているのは何度も書いてきた東郷平八郎。授業で日露戦争は習うので、彼の名前は乃木希典(まれすけ)とセットで中学生の頃から知っている。でも特に興味を持っていたわけじゃない。単なる教科書に載っていた人扱い。
しかしいつだったか覚えていないものの、海外の戦争アクション系映画を観てたときのこと。アメリカ海軍(たぶん)で新入り将校が研修を受けているようなシーンがあった。そこでは敵味方の軍艦の動きが図で示されていて「そしてこれがかの有名な東郷ターンだ」と教官が説明していた。
東郷ターンについてはその時まで知らなかった。しかし、そういえば教科書には書かれていなかったけれど、先生が日本はすごい作戦で日本海海戦に勝利したとか熱心に話してくれたのを思い出した。
その映画の時代設定は現在で、また日本はまったく登場しないストーリー。だから明治時代の日露戦争でとった戦法が、今でも教材となっているのにちょっとビックリした。日本人が思っている以上に、東郷平八郎とバルチック艦隊との戦いは世界の海軍では語り継がれているみたい。外国軍隊の教科書に名前が載っている日本軍人は彼くらいかも知れない。
ところで今の若者には日本がアメリカと戦争したのを知らない者もいると、報道ではなくマスコミの小ネタ扱いで掲載されることがたまにある。もちろん現在でも義務教育の授業で教えているはず。授業をサボったり、習ったのを忘れていたり、単にアホで理解できなかったりする連中はいつの時代でも一定数いるとしても、それが若者の学力平均値だとは思っていない。
でも日清・日露の戦争まで遡ると、その名前を覚えている程度で、どんな戦争だったかを理解していない人のほうが多いだろう。以前に1人だけ、なんと日露戦争で日本がモスクワに攻め込んだと勘違いしている人に出会った経験もある(/o\) もっとも太平洋戦争が起きた背景だってキチンと説明できる人は少ないが。
そこで東郷平八郎ついでに、
超オオザッパに歴史のおさらいを。
【日清戦争 1894年(明治27年)〜1895年)】
明治維新から四半世紀がたって、国力を増してきた日本が朝鮮半島に縄張りを広げようとしたら「そこのシマは代々ウチの組のものやけん」と頭にきた清(しん:現在の中国)とドンパチになる。
主な戦場は朝鮮半島と、その隣の遼東半島など。
首都である北京までは攻めていないよ。
結果は日本のほぼ完勝。朝鮮半島から清を追い出し、また清から遼東半島、台湾などを譲り受け、さらに巨額の賠償金も獲得した。
ついこの間までちょんまげを結っていた日本なのに、衰えつつあるとはいえ大国の清に勝ったのをきっかけに日本の国際的地位が向上する。見方を変えれば警戒されるようになる。
【日露戦争 1904年(明治37年)〜1905年】
日清戦争で獲得した遼東半島であるが、その翌年、自らも清に縄張りを広げようと計画していたフランス、ドイツ、ロシアに「日本の他国への進出はその地域の平和を脅かす」と難癖を付けられて清に返還となる。いわゆる三国干渉。
遼東半島は満州に属する。満州の名前は知っていても、場所はどこだったっけ?人のために地図を載せておく。いわゆる中国の東北部。面積は約120万平方キロで、日本は約38万平方キロだから3倍以上の広さ。
そこを目指してロシアがチャッカリと南下。満州の隣は朝鮮半島だから見過ごすわけにはいかず勃発したのが日露戦争。だからこの時は日露両国ともアウェイでの戦い。清にしてみれば自国領土で勝手に他国が戦争している状況。しかも原因は自国領土の奪い合い。両方ともクタバレと思っていたに違いない。
朝鮮半島でもドンパチはあったものの、メインは満州南部の奉天や遼東半島。激戦地となったのが遼東半島の最西端にある旅順。映画やドラマのタイトルにもなってよく名前を聞く203高地は、旅順から2kmほど離れた海抜203メートルの丘陵地。高地と呼ぶには大げさに思えるが。海抜203メートルが名前の由来で、そのあたりに高地がたくさんあって、その203番目じゃないよ。
極東でロシア海軍の本拠地はウラジオストック。しかし日本との開戦が予想より早かったので規模が不十分。また日本海軍との戦いで弱体化し、日本海と黄海の制海権は日本が握っていた。そこでロシア本国(本国という表現はおかしいが、まあ首都からは遠く離れているので)から勢力拡大のために派遣されてきたのがバルチック艦隊。
だから彼らはまずウラジオストックに入るのが第1の目的。元からいる艦船と体制を立て直して日本海軍を牽制すれば、旅順で戦っているロシア陸軍の側面支援にもなるとの戦略。
ところでバルチック艦隊の名前は知っていても、その意味まで把握している人は少ない。バルチックとはバルト海のこと。英語で書くとBaltic Sea。日本語でバルチック海なんて言わないからバルト艦隊でよさそうなものだが、なぜかバルチック艦隊と呼ぶ。
そのバルト海があるのがこちら。
こんな遠いところからご苦労様である。
正確にいうとバルト海に展開しているがバルチック艦隊で、極東にいたロシア艦隊は太平洋艦隊である。しかし日露戦争の応援のためにバルチック艦隊から艦船を引き抜いて第2太平洋艦隊を編成し派遣すると決まる。またその第2太平洋艦隊が日本に向かう途中に旅順が陥落したので、さらにバルチック艦隊から引き抜いて編成したのが第3太平洋艦隊。この2つの艦隊の所属はもはやバルチック艦隊ではないが、日本ではこれをバルチック艦隊と呼ぶ習わし。
だからロシア人に「日露戦争でバルチック艦隊をイワシたった」とマウント取っても「バルチック艦隊は日本になんか行っていないも〜ん」と反論されるかも知れない(^^ゞ
実は艦隊の呼び方でもっと不思議なものがある。それは日本の連合艦隊。日露戦争での東郷平八郎の肩書きは連合艦隊司令長官。太平洋戦争を戦った山本五十六も連合艦隊司令長官である。後に総理大臣になった鈴木貫太郎や米内光政も連合艦隊司令長官を務めた。それで連合艦隊って何の連合?
言葉の定義としては、まず艦隊とは
軍艦2隻以上、もしくは航空隊2個以上によって編成された部隊
(航空隊とは空母を意味すると思われるが深く調べず)
驚いたことにたった2隻で艦隊は成立する。でもこれは辞書的な定義で、実際は大小様々な戦闘艦をセットにしたのが艦隊。日本海海戦で東郷平八郎が率いた艦隊の1つである第1艦隊には約30隻が所属していた。
そして連合艦隊とは2つ以上の艦隊で編成した艦隊と定義される。
それはいいとしてーーー
日露戦争開戦当時、日本には3つの艦隊があった。そして連合艦隊に所属したのはその3つすべて。太平洋戦争開戦当時は10の艦隊で連合艦隊が編成されている。ではその時、日本に全部でいくつの艦隊があったのか=連合艦隊に所属していない艦隊数は?が気になるところ。でもそれについて明確に記載されている資料が見つからなかった。
しかしどうやら連合艦隊に所属していないのは、老朽化して予備役的だったり、小規模な艦船で港湾や沿岸警備中心の艦隊がほとんどだったようだ。つまり外国との戦争には参加しない艦隊。
ということは、連合と名前はついていても連合艦隊とは、日本海軍そのものと実質的に同じ意味である。また海軍自身が連合艦隊の英訳としてGeneral Fleetを使用しており、これは「すべての」「艦隊」の意味だから、その解釈でおそらく間違いないだろう。なのにどうしてわざわざ連合艦隊と呼ぶのか不思議。
ところでヤクザの山口組は、山口組の下に多くの組が集まった組織。でも山口組と言えばその全体を指す。連合艦隊も似ていたりして(^^ゞ
それはさておき、毎年8月15日が近づくと太平洋戦争関連の番組が放送される。その中で連合艦隊や連合艦隊司令長官なんて言葉がシレっと使われている。でも、その意味を理解している人は1%もいないと思うゾ。
東郷神社からどんどん内容が離れていくけれどm(_ _)m
あと2回くらい続く予定。
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2023年10月01日
東郷神社を初訪問 その2 Z旗
前回に書いた、
菊の御紋と蔦の葉の家紋がミックスされたレリーフのある門をくぐって左側の光景。
上の写真にある小さな門の外側には幟(のぼり)が並んでいる。
幟の上に描かれているカラフルな模様はZ旗。
Z旗は船同士で使う信号旗の1つ。正式名称は国際信号旗でA〜Zを示す文字旗、0〜9を示す数字旗とその他4種類、合計40枚で構成される。
国際信号旗はその文字旗を並べて単語にするのではなく、1文字ごとに意味する内容が定められており、さらに2文字あるいは3文字を同時に並べるとまた別の意味になる。
例えば
A旗:本船で潜水夫が活動中。徐速して通過せよ
B旗:危険物の運搬、積み降ろし中
で、そういうメッセージをマストに掲げて周りの船舶に伝える仕組み。
そして、この海上保安庁の巡視艇は上がU、下がYの旗。
それぞれの意味は
U旗:あなたは危険に向かっている
Y旗:本船は走錨中である
※走錨(そうびょう)とはイカリを下ろしているのに船が流されている状況
であるが、そうではなくてUとYをつなげると「本船は演習中なので避けて下さい」の意味になる。無線がなかった時代に考案されたコミュニケーション手法だけれど、ある大きさ以上の船舶や航行条件によっては、今でも使用が義務づけられている(詳しく調べていない)。
なおこうやってたくさんの信号旗を掲げるのは、祝日や式典などで祝意を表すためのもので軍艦なら満艦飾、一般の船なら満船飾と呼ばれる。海上保安庁の船も軍艦じゃないから満船飾と表現する。
ところで昔は祝意の表現として万国旗を掲げていたらしい。しかしどの国とどの国を隣に並べるか〜マストの上に並ぶ国と下に並ぶ国ができるーーーなどの面倒くさい問題を避けるために、国際信号旗が使われるようになったとされるのが面白い。
また以前は派手に飾り付けること、例えばクリスマスツリーにたくさんの飾りを付けるのを満艦飾にすると表現した。また洗濯物をたくさん干す様子も旗になぞらえて満艦飾といったりも。しかしそういう使い方はもう死語で、最後に使われたのは70年代後半に、ボディを電飾だらけにして走る「トラック野郎」という映画がヒットした頃かな。満船飾のほうはそういう比喩表現には用いられなかったし、満艦飾と較べて聞いた記憶がある人は少ないだろう。
さて話をZ旗に戻すと、国際信号旗での意味は
Z旗:本船にタグボートを求む
(タグボートとは大型船を引いたり押したりして接岸を助ける船)
だけれどZはアルファベットの最後だから「もう後はない」→「絶対に負けられない」との意気込みを示す目的でも使われた。そのきっかけは日露戦争でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ際に、司令長官の東郷平八郎が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との意味を込めてZ旗を掲げたのに由来する。1905年(明治38年)の出来事。
これは彼のエピソードの中で最も有名なもの。それで東郷平八郎といえばZ旗という図式が出来上がる。だから東郷神社ではZ旗のついた御守りはもちろん、なんとZ旗そのものまで売られている!(念のために書いておくと、この日本海海戦と呼ばれる戦いでは日本が圧倒的な勝利を収めた)
その後は勝利のシンボルとして応援の際にZ旗を振ったり、また「必死でがんばる」ことを「Z旗を掲げる」などと表現したようだが、かなり昔に廃れてしまったと思う。なお日産のフェアレディZのネーミングはZ旗に由来するといわれている。
ただこの東郷平八郎のZ旗エピソード。
よく調べてみるとちょっと微妙なのだ。
彼が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とメッセージを発したのは、日本海海戦の100年前の1805年、トラファルガーの海戦でイギリスがフランス(ナポレオンの時代)と戦った際に、イギリスのネルソン提督が「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」と檄を飛ばした故事に習ったもの。
その文章を英語にすると
England expects that every man will do his duty
それを当時のイギリス式信号旗の組み合わせで表現するとこうなる。
dutyは信号旗の組み合わせになかったみたい。uとtとyを表現するのにどうして旗が2つ必要なのか分からないが、とにかく3枚の組み合わせから1枚だけのものまで、合計12セットの信号旗がネルソンの文章には必要。それを順番にマストに掲げては降ろしを繰り返して周りに知らせ、そこから伝言ゲームのように信号旗を使って全艦に伝達したとされる。
けっこうたいへんな作業で信号担当員は大忙し。文法的にはthatを省略してもいいはずで、そうすれば11回で済んだのにと思うものの、まあどうでもいいか。
さて東郷平八郎のZ旗。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と長い文章なのに、どうして旗がたった1枚で済んだのか?
それはZ旗を掲げたら「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と各艦は全乗組員に伝えるようにと、あらかじめ文面を渡してあったから。ちょっとドラマティック感にかけるなあ平ハッチャン(^^ゞ
一説によるとネルソンは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との檄文を戦闘開始の直前に送ったので、そのてんやわんやの緊迫した状況で作戦とは何の関係もない指示に各艦の艦長は戸惑ったとされる。また水兵からは「言われんでもわかってるわ、敵はもう目の前やぞ!」と不評だったらしい。
ひょっとしたら、それを踏まえて事前に文章を配布しておいたのかも知れない。しかしそれでも「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との言葉に「ウォーッ」となったとしても、それがこのZ旗だ!と言われたら「ハア?」だったに違いない(^^ゞ あるいはZ旗は単に伝達のタイミングを知らせる合図であって「皇国の興廃〜」を象徴する意味合いはなかった可能性も。
だから東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると思う。もっともネルソンのエピソードだって時が経ってからは、その言葉で皆が奮い立ったことになっているから、まあ故事とはそんなもの。
なおこの言葉は東郷平八郎ではなく、その下で作戦担当参謀を務めていた秋山真之(さねゆき)が考えたもの。彼は同じく日本海海戦あるいは日本海軍史上での名文とされる電文「本日天気晴朗なれども波高し」でも知られる。
Z旗につられて今回も話が脱線 m(_ _)m
ーーー続く
菊の御紋と蔦の葉の家紋がミックスされたレリーフのある門をくぐって左側の光景。
上の写真にある小さな門の外側には幟(のぼり)が並んでいる。
幟の上に描かれているカラフルな模様はZ旗。
Z旗は船同士で使う信号旗の1つ。正式名称は国際信号旗でA〜Zを示す文字旗、0〜9を示す数字旗とその他4種類、合計40枚で構成される。
国際信号旗はその文字旗を並べて単語にするのではなく、1文字ごとに意味する内容が定められており、さらに2文字あるいは3文字を同時に並べるとまた別の意味になる。
例えば
A旗:本船で潜水夫が活動中。徐速して通過せよ
B旗:危険物の運搬、積み降ろし中
で、そういうメッセージをマストに掲げて周りの船舶に伝える仕組み。
そして、この海上保安庁の巡視艇は上がU、下がYの旗。
それぞれの意味は
U旗:あなたは危険に向かっている
Y旗:本船は走錨中である
※走錨(そうびょう)とはイカリを下ろしているのに船が流されている状況
であるが、そうではなくてUとYをつなげると「本船は演習中なので避けて下さい」の意味になる。無線がなかった時代に考案されたコミュニケーション手法だけれど、ある大きさ以上の船舶や航行条件によっては、今でも使用が義務づけられている(詳しく調べていない)。
なおこうやってたくさんの信号旗を掲げるのは、祝日や式典などで祝意を表すためのもので軍艦なら満艦飾、一般の船なら満船飾と呼ばれる。海上保安庁の船も軍艦じゃないから満船飾と表現する。
ところで昔は祝意の表現として万国旗を掲げていたらしい。しかしどの国とどの国を隣に並べるか〜マストの上に並ぶ国と下に並ぶ国ができるーーーなどの面倒くさい問題を避けるために、国際信号旗が使われるようになったとされるのが面白い。
また以前は派手に飾り付けること、例えばクリスマスツリーにたくさんの飾りを付けるのを満艦飾にすると表現した。また洗濯物をたくさん干す様子も旗になぞらえて満艦飾といったりも。しかしそういう使い方はもう死語で、最後に使われたのは70年代後半に、ボディを電飾だらけにして走る「トラック野郎」という映画がヒットした頃かな。満船飾のほうはそういう比喩表現には用いられなかったし、満艦飾と較べて聞いた記憶がある人は少ないだろう。
さて話をZ旗に戻すと、国際信号旗での意味は
Z旗:本船にタグボートを求む
(タグボートとは大型船を引いたり押したりして接岸を助ける船)
だけれどZはアルファベットの最後だから「もう後はない」→「絶対に負けられない」との意気込みを示す目的でも使われた。そのきっかけは日露戦争でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ際に、司令長官の東郷平八郎が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との意味を込めてZ旗を掲げたのに由来する。1905年(明治38年)の出来事。
これは彼のエピソードの中で最も有名なもの。それで東郷平八郎といえばZ旗という図式が出来上がる。だから東郷神社ではZ旗のついた御守りはもちろん、なんとZ旗そのものまで売られている!(念のために書いておくと、この日本海海戦と呼ばれる戦いでは日本が圧倒的な勝利を収めた)
その後は勝利のシンボルとして応援の際にZ旗を振ったり、また「必死でがんばる」ことを「Z旗を掲げる」などと表現したようだが、かなり昔に廃れてしまったと思う。なお日産のフェアレディZのネーミングはZ旗に由来するといわれている。
ただこの東郷平八郎のZ旗エピソード。
よく調べてみるとちょっと微妙なのだ。
彼が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とメッセージを発したのは、日本海海戦の100年前の1805年、トラファルガーの海戦でイギリスがフランス(ナポレオンの時代)と戦った際に、イギリスのネルソン提督が「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」と檄を飛ばした故事に習ったもの。
その文章を英語にすると
England expects that every man will do his duty
それを当時のイギリス式信号旗の組み合わせで表現するとこうなる。
dutyは信号旗の組み合わせになかったみたい。uとtとyを表現するのにどうして旗が2つ必要なのか分からないが、とにかく3枚の組み合わせから1枚だけのものまで、合計12セットの信号旗がネルソンの文章には必要。それを順番にマストに掲げては降ろしを繰り返して周りに知らせ、そこから伝言ゲームのように信号旗を使って全艦に伝達したとされる。
けっこうたいへんな作業で信号担当員は大忙し。文法的にはthatを省略してもいいはずで、そうすれば11回で済んだのにと思うものの、まあどうでもいいか。
さて東郷平八郎のZ旗。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と長い文章なのに、どうして旗がたった1枚で済んだのか?
それはZ旗を掲げたら「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と各艦は全乗組員に伝えるようにと、あらかじめ文面を渡してあったから。ちょっとドラマティック感にかけるなあ平ハッチャン(^^ゞ
一説によるとネルソンは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との檄文を戦闘開始の直前に送ったので、そのてんやわんやの緊迫した状況で作戦とは何の関係もない指示に各艦の艦長は戸惑ったとされる。また水兵からは「言われんでもわかってるわ、敵はもう目の前やぞ!」と不評だったらしい。
ひょっとしたら、それを踏まえて事前に文章を配布しておいたのかも知れない。しかしそれでも「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との言葉に「ウォーッ」となったとしても、それがこのZ旗だ!と言われたら「ハア?」だったに違いない(^^ゞ あるいはZ旗は単に伝達のタイミングを知らせる合図であって「皇国の興廃〜」を象徴する意味合いはなかった可能性も。
だから東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると思う。もっともネルソンのエピソードだって時が経ってからは、その言葉で皆が奮い立ったことになっているから、まあ故事とはそんなもの。
なおこの言葉は東郷平八郎ではなく、その下で作戦担当参謀を務めていた秋山真之(さねゆき)が考えたもの。彼は同じく日本海海戦あるいは日本海軍史上での名文とされる電文「本日天気晴朗なれども波高し」でも知られる。
Z旗につられて今回も話が脱線 m(_ _)m
ーーー続く
wassho at 22:45|Permalink│Comments(0)│
2023年08月01日
本能寺の変 新説?
「レジェンド&バタフライ」はいわゆる“ 織田信長モノ”の映画。主演は木村拓哉と綾瀬はるか。公開は今年の1月27日。少し前にAmazonプライムビデオで観た。
映画としての面白さはゴクフツー。時代劇なのでそれなりに重厚感は出ているものの、あくまでキムタクありきの作品。合戦シーンは省略が多く予算が足りなかったのかと思わせる。なお「バタフライ」は綾瀬はるかが演じる信長の正妻「濃姫(のうひめ)」が、帰蝶(きちょう)や胡蝶(こちょう)の名前だったともされるので、そこから取ったネーミングだろう。
さて誰もが知っているように信長の最後は、明智光秀がクーデターを起こした本能寺の変である。信長の最側近だった彼が、なぜそんな行動を起こしたのかについては日本史最大のミステリーといわれたりもする。
怨恨説
野望説
黒幕存在説
四国問題説
義憤説
などがよく知られ、細かなものを含めると50以上の説があるらしい。まあ謎が解けないから歴史は面白い。
それでこのレジェンド&バタフライで描かれているのは、
まったく新しい視点での光秀の動機である。
それは
魔王と恐れられた信長のカリスマ性と行動力に心酔していた光秀だったが、
この頃になると信長がボケて衰えてきたので、
こんなヤツに天下統一は無理と見切りを付けてクーデターを起こした!
との設定。
これはまったく斬新な発想。今までの歴史的見解では信長は死ぬまで絶対的な強者の存在であったから。おそらくそちらが事実だとしても、フィクションって面白いと思わせてくれたストーリーだった。
また「怨恨説」の根拠のひとつに饗応役解任事件と呼ばれるものがある。これは信長の同盟相手である家康が安土城を訪れる際に、光秀が饗応役(接待担当)を任されたものの、料理のために用意した魚が腐っていたのに信長が腹を立てたというもの。光秀は饗応役を解任され、中国地方で毛利と戦っていた秀吉の援軍として出陣を命じらる。それにより自尊心を傷つけられた彼が向かったのは秀吉の元ではなく本能寺ーーー
秀吉の援軍として出陣を命じられたのは史実だとして、魚が腐っていたから饗応役を解任されたかどうかは分かっていない。援軍を出さなければいけない事態のほうが家康を接待するより優先順位が高いと、優秀な軍事司令官だった光秀を起用した可能性もある。
というわけで家康を接待する場に解任された光秀はいないはずなのに、映画やドラマでは家康を招いた宴席で、信長が魚が腐っていると激怒して光秀をボコボコにする場面が好んで使われる。
それがこの映画では
ボケて衰えてきた信長を見くびって、会議の場で居眠りをする家臣がいる。
そんな緩んだ雰囲気を家康に悟られたら、
織田家は弱体化していると攻められるかも知れない。
そこで光秀は家康の前で失態を演じると信長に前もって打ち明ける。
つまり家康の目前で光秀をシバキ倒したのは、激怒した信長の恐ろしさを家康に見せつけるために光秀が仕組んで信長に演じさせた芝居!
いやあフィクションって素晴らしいと感心したわ。
このフィクションで難点があるとすれば信長が亡くなったのは47歳であること。
ボケ始めるにはちょっと早い。(なお年齢は数え年ではなく実年齢。以下、上杉謙信、武田信玄も同様)
ところで信長が好んで舞ったとされる能の一種の「敦盛」は
人間五十年
下天の内をくらぶれば、
夢幻のごとくなり。
との唄で始まる。
それを知ったかぶりして「当時の寿命は50歳くらい」なんていうと、
これは「人間の寿命が50年しなかい」ではなく、仏教で6階層ある天上界の
最も低いレベル(下天)でも寿命が920万年あるので、それと較べれば人間界の
50年なんてあっという間=夢幻のごとくなりとの意味。
と指摘されるからご注意を。
それでも920万年を100年でも1000年でもなく、50年と較べたのにはそれなりに意味があるはず。そして上杉謙信は48歳、武田信玄も51歳で亡くなっているから、50歳はひとつの区切りであって、信長もピークは過ぎていたのは確かだろう。もちろんボケていたかどうかは別問題。またボケるのは肉体的ピークは過ぎたのに、食糧事情や医療のおかげでやたら長生きする現代だからとの気もする。
それはさておき、47歳の信長を討ち取った光秀。彼の生涯の前半は記録がなく=生年月日も不明だから、その時に何歳だったかはよく分かっていない。通説としては信長より年上で55歳前後、あるいは65歳前後から70歳とされている。
後者だと当時としてかなりの高齢者だったことになる。
ということで、本能寺の変の新説その2は
「光秀がボケてクーデターを起こした」なんてのはどう?(^^ゞ
映画としての面白さはゴクフツー。時代劇なのでそれなりに重厚感は出ているものの、あくまでキムタクありきの作品。合戦シーンは省略が多く予算が足りなかったのかと思わせる。なお「バタフライ」は綾瀬はるかが演じる信長の正妻「濃姫(のうひめ)」が、帰蝶(きちょう)や胡蝶(こちょう)の名前だったともされるので、そこから取ったネーミングだろう。
さて誰もが知っているように信長の最後は、明智光秀がクーデターを起こした本能寺の変である。信長の最側近だった彼が、なぜそんな行動を起こしたのかについては日本史最大のミステリーといわれたりもする。
怨恨説
野望説
黒幕存在説
四国問題説
義憤説
などがよく知られ、細かなものを含めると50以上の説があるらしい。まあ謎が解けないから歴史は面白い。
それでこのレジェンド&バタフライで描かれているのは、
まったく新しい視点での光秀の動機である。
それは
魔王と恐れられた信長のカリスマ性と行動力に心酔していた光秀だったが、
この頃になると信長がボケて衰えてきたので、
こんなヤツに天下統一は無理と見切りを付けてクーデターを起こした!
との設定。
これはまったく斬新な発想。今までの歴史的見解では信長は死ぬまで絶対的な強者の存在であったから。おそらくそちらが事実だとしても、フィクションって面白いと思わせてくれたストーリーだった。
また「怨恨説」の根拠のひとつに饗応役解任事件と呼ばれるものがある。これは信長の同盟相手である家康が安土城を訪れる際に、光秀が饗応役(接待担当)を任されたものの、料理のために用意した魚が腐っていたのに信長が腹を立てたというもの。光秀は饗応役を解任され、中国地方で毛利と戦っていた秀吉の援軍として出陣を命じらる。それにより自尊心を傷つけられた彼が向かったのは秀吉の元ではなく本能寺ーーー
秀吉の援軍として出陣を命じられたのは史実だとして、魚が腐っていたから饗応役を解任されたかどうかは分かっていない。援軍を出さなければいけない事態のほうが家康を接待するより優先順位が高いと、優秀な軍事司令官だった光秀を起用した可能性もある。
というわけで家康を接待する場に解任された光秀はいないはずなのに、映画やドラマでは家康を招いた宴席で、信長が魚が腐っていると激怒して光秀をボコボコにする場面が好んで使われる。
それがこの映画では
ボケて衰えてきた信長を見くびって、会議の場で居眠りをする家臣がいる。
そんな緩んだ雰囲気を家康に悟られたら、
織田家は弱体化していると攻められるかも知れない。
そこで光秀は家康の前で失態を演じると信長に前もって打ち明ける。
つまり家康の目前で光秀をシバキ倒したのは、激怒した信長の恐ろしさを家康に見せつけるために光秀が仕組んで信長に演じさせた芝居!
いやあフィクションって素晴らしいと感心したわ。
このフィクションで難点があるとすれば信長が亡くなったのは47歳であること。
ボケ始めるにはちょっと早い。(なお年齢は数え年ではなく実年齢。以下、上杉謙信、武田信玄も同様)
ところで信長が好んで舞ったとされる能の一種の「敦盛」は
人間五十年
下天の内をくらぶれば、
夢幻のごとくなり。
との唄で始まる。
それを知ったかぶりして「当時の寿命は50歳くらい」なんていうと、
これは「人間の寿命が50年しなかい」ではなく、仏教で6階層ある天上界の
最も低いレベル(下天)でも寿命が920万年あるので、それと較べれば人間界の
50年なんてあっという間=夢幻のごとくなりとの意味。
と指摘されるからご注意を。
それでも920万年を100年でも1000年でもなく、50年と較べたのにはそれなりに意味があるはず。そして上杉謙信は48歳、武田信玄も51歳で亡くなっているから、50歳はひとつの区切りであって、信長もピークは過ぎていたのは確かだろう。もちろんボケていたかどうかは別問題。またボケるのは肉体的ピークは過ぎたのに、食糧事情や医療のおかげでやたら長生きする現代だからとの気もする。
それはさておき、47歳の信長を討ち取った光秀。彼の生涯の前半は記録がなく=生年月日も不明だから、その時に何歳だったかはよく分かっていない。通説としては信長より年上で55歳前後、あるいは65歳前後から70歳とされている。
後者だと当時としてかなりの高齢者だったことになる。
ということで、本能寺の変の新説その2は
「光秀がボケてクーデターを起こした」なんてのはどう?(^^ゞ
wassho at 22:50|Permalink│Comments(0)│
2022年12月20日
かつて国会議事堂の敷地は三角形だった
興味があるかどうかは別として、
誰もが知っている国会議事堂。
その敷地がどんな形をしているかなんて考えたこともなかったが、常識的に考えれば四角形のはず。航空写真で確認すれば四隅が斜めになっているものの、横長の議事堂に合わせるように普通に長方形である。
しかし以前はこんな三角形の敷地だったとたまたま知った。
まあ私には何の関わりもない話だとしても、
いつ四角形にしたのか、どうして四角形にした(敷地を拡張した)のか気になるもの。
しかしなぜか調べても関連資料が見つからない。
国会議事堂が建てられたのは1936年(昭和11年)と思っていたより最近である。大日本帝国憲法の公布1889年(明治22年)→国会(帝国議会)開催1890年(明治23年)と歴史が流れるが、議事堂建設は当然ながらそれ以前から準備が進められ、1887年(明治20年)に現在の場所に建設すると決まる。しかし予算の都合ですぐ建設に着手できず、結果的に4つの仮議事堂を経ることになる。
<第1次仮議事堂>
1890年(明治23年)11月24日、なんと第1回帝国議会召集の前日に竣工(完成を意味する、対義語は着工)。現在は経産省がある区画に建てられた。しかし翌年1月20日に火災で焼失してしまう(/o\) わずか2ヶ月の歴史。
<第2次仮議事堂>
同じ場所に1891年4月28日に着工して10月30日に竣工。超突貫工事がんばりました。そして第2回帝国議会召集が11月21日。
<広島臨時仮議事堂>
仮の前に臨時までつくめずらしい建物。1894年(明治27年)8月に、日清戦争のため大本営が広島に置かれる。それで帝国議会も広島で開かれると9月22日に決定され、急遽工事を始めてして10月14日に竣工。議会招集は10月15日。議事堂建設のハードスケジュールはすっかりお約束になってきた。ただし広島での議会開催はたった4日間で、そのためだけの建物。昔から政府は無駄遣いが好きーーー
<1925年(大正14年)9月18日>
第2次仮議事堂が火災のため焼失(>_<)
<第3次仮議事堂>
火災が起きてからわずか80日ほどの1925年(大正14年)12月22日に竣工。もうどんなに早くても驚かなくなってきたね。
そして現在の議事堂は1920年(大正9年)に着工され、なぜか伝統に反して?17年もの歳月をかけて建設された。先ほど書いたように竣工は1936年(昭和11年)。三角形敷地の写真はいつ撮影されたものか不明だが、おそらく完成直後だろう。
さて国会の敷地が三角形から長方形になったのは1960年代に入ってからのようだ。衆議院と参議院のホームページに敷地拡張に関する記述は見当たらないが、Wikipediaによると
昭和30年代(1955-1964年)に入り、周辺の国有地が衆議院および参議院
へ移管されるとともに、パレスハイツ(現・最高裁判所庁舎)・ジェファー
ソンハイツ(現・衆議院議長公邸および参議院議長公邸)・リンカーンセンター
(現・国土交通省庁舎)等の連合国軍占領期以後の在日米軍接収地も返還が
決まったため、首都高速道路の整備と合わせて、国会議事堂の敷地拡張および
周辺の区画整理が行われた。
とある。他で得られた情報も似たり寄ったり。しかしここに書かれているパレスハイツ、ジェファーソンハイツ、リンカーンセンター等は国会議事堂に隣接している場所ではない。首都高も同じく。
現在の地図で見ると丸ノ内線が議事堂敷地の地下を走っている。道路の下に地下鉄を掘ったと考えると、三角形を作っていたラインの1つだろう。このあたりの丸ノ内線は1958年(昭和33年)に開通している。有楽町線の開通は議事堂の敷地が拡張されてから後の1974年(昭和49年)だから、敷地内には入り込んでいない。
それにしても国会議事堂建設については、仮議事堂も含めて膨大な資料があるのに、火災の日付まで分かるのに、なぜ敷地拡張についてははっきりしないのだ?
先ほどWikipediaでは昭和30年代(1955-1964年)と書かれているのに「三角形から長方形になったのは1960年代に入ってから」と断定したのは次の写真を見つけたから。
これは1960年の安保闘争でデモ隊が国会を取り囲んだ様子。
日付は1960年(昭和35年)6月18日。この時はまだ三角形の敷地をしているとわかる。
それにしても凄まじい数のデモ隊。主催者発表で33万人、警察発表でも13万人の規模。日本の政治がまだ熱かった時代。この時は国会のゲートが破られて敷地内に侵入されている。それで私の仮説はデモ隊対策として敷地を拡張したのではというもの。10年後にはまた安保改定があるから、その時のデモ隊に備えるために。
デモ隊とすれば正面から進んできて三角形のほうが取り囲みやすい。四角形だと直角に曲がらなければいけないから突進の勢いがそがれる。もちろん敷地を広げれば道路から議事堂の距離も長くなる。広げなくても投石や火焔瓶は届かなかったと思うけれど、国会議員がすぐ近くまで迫られていると感じる恐怖は幾分和らげただろう。
いわば国家議事堂の黒歴史なので資料があまりないのかなあ。
考えすぎかも知れないが。
それはともかく三角形時代の敷地はどことなく優雅なイメージだね。
誰もが知っている国会議事堂。
その敷地がどんな形をしているかなんて考えたこともなかったが、常識的に考えれば四角形のはず。航空写真で確認すれば四隅が斜めになっているものの、横長の議事堂に合わせるように普通に長方形である。
しかし以前はこんな三角形の敷地だったとたまたま知った。
まあ私には何の関わりもない話だとしても、
いつ四角形にしたのか、どうして四角形にした(敷地を拡張した)のか気になるもの。
しかしなぜか調べても関連資料が見つからない。
国会議事堂が建てられたのは1936年(昭和11年)と思っていたより最近である。大日本帝国憲法の公布1889年(明治22年)→国会(帝国議会)開催1890年(明治23年)と歴史が流れるが、議事堂建設は当然ながらそれ以前から準備が進められ、1887年(明治20年)に現在の場所に建設すると決まる。しかし予算の都合ですぐ建設に着手できず、結果的に4つの仮議事堂を経ることになる。
<第1次仮議事堂>
1890年(明治23年)11月24日、なんと第1回帝国議会召集の前日に竣工(完成を意味する、対義語は着工)。現在は経産省がある区画に建てられた。しかし翌年1月20日に火災で焼失してしまう(/o\) わずか2ヶ月の歴史。
<第2次仮議事堂>
同じ場所に1891年4月28日に着工して10月30日に竣工。超突貫工事がんばりました。そして第2回帝国議会召集が11月21日。
<広島臨時仮議事堂>
仮の前に臨時までつくめずらしい建物。1894年(明治27年)8月に、日清戦争のため大本営が広島に置かれる。それで帝国議会も広島で開かれると9月22日に決定され、急遽工事を始めてして10月14日に竣工。議会招集は10月15日。議事堂建設のハードスケジュールはすっかりお約束になってきた。ただし広島での議会開催はたった4日間で、そのためだけの建物。昔から政府は無駄遣いが好きーーー
<1925年(大正14年)9月18日>
第2次仮議事堂が火災のため焼失(>_<)
<第3次仮議事堂>
火災が起きてからわずか80日ほどの1925年(大正14年)12月22日に竣工。もうどんなに早くても驚かなくなってきたね。
そして現在の議事堂は1920年(大正9年)に着工され、なぜか伝統に反して?17年もの歳月をかけて建設された。先ほど書いたように竣工は1936年(昭和11年)。三角形敷地の写真はいつ撮影されたものか不明だが、おそらく完成直後だろう。
さて国会の敷地が三角形から長方形になったのは1960年代に入ってからのようだ。衆議院と参議院のホームページに敷地拡張に関する記述は見当たらないが、Wikipediaによると
昭和30年代(1955-1964年)に入り、周辺の国有地が衆議院および参議院
へ移管されるとともに、パレスハイツ(現・最高裁判所庁舎)・ジェファー
ソンハイツ(現・衆議院議長公邸および参議院議長公邸)・リンカーンセンター
(現・国土交通省庁舎)等の連合国軍占領期以後の在日米軍接収地も返還が
決まったため、首都高速道路の整備と合わせて、国会議事堂の敷地拡張および
周辺の区画整理が行われた。
とある。他で得られた情報も似たり寄ったり。しかしここに書かれているパレスハイツ、ジェファーソンハイツ、リンカーンセンター等は国会議事堂に隣接している場所ではない。首都高も同じく。
現在の地図で見ると丸ノ内線が議事堂敷地の地下を走っている。道路の下に地下鉄を掘ったと考えると、三角形を作っていたラインの1つだろう。このあたりの丸ノ内線は1958年(昭和33年)に開通している。有楽町線の開通は議事堂の敷地が拡張されてから後の1974年(昭和49年)だから、敷地内には入り込んでいない。
それにしても国会議事堂建設については、仮議事堂も含めて膨大な資料があるのに、火災の日付まで分かるのに、なぜ敷地拡張についてははっきりしないのだ?
先ほどWikipediaでは昭和30年代(1955-1964年)と書かれているのに「三角形から長方形になったのは1960年代に入ってから」と断定したのは次の写真を見つけたから。
これは1960年の安保闘争でデモ隊が国会を取り囲んだ様子。
日付は1960年(昭和35年)6月18日。この時はまだ三角形の敷地をしているとわかる。
それにしても凄まじい数のデモ隊。主催者発表で33万人、警察発表でも13万人の規模。日本の政治がまだ熱かった時代。この時は国会のゲートが破られて敷地内に侵入されている。それで私の仮説はデモ隊対策として敷地を拡張したのではというもの。10年後にはまた安保改定があるから、その時のデモ隊に備えるために。
デモ隊とすれば正面から進んできて三角形のほうが取り囲みやすい。四角形だと直角に曲がらなければいけないから突進の勢いがそがれる。もちろん敷地を広げれば道路から議事堂の距離も長くなる。広げなくても投石や火焔瓶は届かなかったと思うけれど、国会議員がすぐ近くまで迫られていると感じる恐怖は幾分和らげただろう。
いわば国家議事堂の黒歴史なので資料があまりないのかなあ。
考えすぎかも知れないが。
それはともかく三角形時代の敷地はどことなく優雅なイメージだね。
wassho at 23:03|Permalink│Comments(0)│
2022年12月14日
本日12月14日は討ち入りの日じゃない
明日から本日へとタイトル語句を修正して、前回からの続き。
日本で使われてきた暦を一覧にしたのが以下。宣明暦までは中国で制定されたものを導入している。メイドインジャパンな暦は5代将軍徳川綱吉の時代から。偶然にも討ち入りのあった頃である。それにしても元嘉暦の開始が692年ということは飛鳥時代の末期。縄文・弥生時代はともかく、それなりに規模の大きな社会ができていた飛鳥時代や古墳時代は、暦なしでどう生活していたのだろう。
使用開始年 使用年数
元嘉暦(げんかれき) 692年 5年
儀鳳暦(ぎほうれき) 697年 67年
大衍暦(たいえんれき) 764年 94年
五紀暦(ごきれき) 858年 4年
宣明暦(せんみょうれき) 862年 823年
貞享暦(じょうきょうれき) 1685年 70年
宝暦暦(ほうりゃくれき) 1755年 43年
寛政暦(かんせいれき) 1798年 46年
天保暦 (てんぽうれき) 1844年 29年
グレゴリオ暦1873年(明治6年)
なお天保暦まではすべて太陰太陽暦となる。旧暦という場合、一般には現在の1つ前の暦である天保暦を意味するが、もちろんそれ以前は、その出来事が起きた時代に使われていた暦が旧暦と呼ばれる。
ところで月給は月ごとに支払われる賃金。明治6年にグレゴリオ暦へと改暦されたのは西洋文化に合わせる意味もあったが、実は明治6年が天保暦では3年に1度の閏月のある年にあたり、財政事情の苦しい明治政府が13ヶ月分の給料を支払う余裕がなかったからとも言われている。
実際には明治5年12月3日を明治6年(1873年)1月1日とグレゴリを暦に合わせて改暦したので(そんなに太陽暦とずれていたのにも驚くが)、明治政府はその年の閏月分だけではなく、明治5年の12月に働いた2日間分の給料も「たった2日だから」と払っていない。明治政府はその話を盛って「2ヶ月分の給料を節約した、政府は努力している」とアピールしたそうだ。逆に考えれば、昨今は日本の賃金が上がっていないと指摘されるから、いっそ旧暦に戻すのもありかもとキッシーに教えてあげようか(^^ゞ
ただし冷静に考えると、バッくれた2日分の給料は別として、旧暦から新暦に切り替えれば、明治6年に支払う13ヶ月分の給料は12ヶ月分になるものの、その分だけ次の年は早くやってくるわけで、会計年度をまたいで考えればたいした違いはない。どれだけの差になるかを計算すると、
新暦の3年=36ヶ月
旧暦の3年=3年に1度の閏月があるので37ヶ月(正確には19年に7回の閏月)
3年で36/37=97%だから節約できるのは3%、1年だと1%に過ぎない。つまりほとんど節約できていない。それでも新暦への切り替えについて調べると、ほとんどが「2ヶ月分の給料を節約した」と、明治政府の盛った話をそのまま載せている。プロパガンダを信じ込ませてしまえば、その威力は絶大である。
さて討ち入りに話を戻すと、討ち入りがあった元禄15年(貞享暦の時代)は閏月が設定され1年が384日もある年だった。その12月14日を現在の暦に置き換えると1703年1月30日となる。
さらに正確を期すなら、江戸時代でも暦の上では1日の始まりは午前0時を意味する正子(しょうし)だが、一般的には夜明けが1日の始まりとされていた。討ち入り時刻が寅の刻(午前4時前後だから夜明け前)とされているので、江戸時代的にはまだ14日でも今の基準でなら15日早朝になる。それを考慮すると討ち入りがあったのは1月31日である。
閏月の関係もあって、12月14日とはなんと1ヶ月半もずれている。
年もまたいで翌年だなんてヘンな感じ。
まあお祝いする日でもないから別にいいか(^^ゞ
太陰太陽暦では閏月がどこに挿入されるか、またどの月が大の月・小の月かもその都度違うので、旧暦の何月何日が新暦の何月何日に当たるかを単純に計算で求めることはできない。つまり旧暦の日付を新暦の日付に直すのは大変だったのである。(今は暦データをプログラムされた計算ソフトがある)
というわけで歴史上の日付は、赤穂浪士の討ち入り12月14日と同じように、その時代に用いられていた暦での日付がそのまま使われている。また元号だといつのことか分からないから西暦にする場合でも、たとえば寿永4年3月24日に起きた壇ノ浦の戦いなら、寿永4年を1185年に直して1185年3月24日というように日付は旧暦のまま。
旧暦を新暦であるグレゴリオ暦に置き換えると
壇ノ浦の戦い 寿永4年3月24日 →1185年5月2日
桶狭間の戦い 永禄3年5月19日 →1560年6月22日
本能寺の変 天正10年6月2日 →1582年7月1日
関ヶ原の戦い 慶長5年9月15日 →1600年10月21日
黒船来航 嘉永6年6月3日 →1853年7月8日
大政奉還 慶応3年10月14日 →1867年11月9日
壇ノ浦の戦いは5月だったから入水する気になったのかな、桶狭間の戦いは梅雨時だから大雨が降ったのかとか新暦への置き換えで、季節感がリセットされて多少は歴史の見え方が違ってくる場合もあるかも知れない。
なお歴史上の出来事が新暦で表示されているように思える場合でも、グレゴリオ暦がヨーロッパで採用される1582年より以前のものは、その前のユリウス暦で換算されていることがある。例としてWikipediaで桶狭間の戦いは永禄3年5月19日(1560年6月12日)と西暦が併記されているが、この西暦はユリウス暦である。本能寺の変は1582年だが、グレゴリオ暦の採用開始は10月15日からだから、Wikipediaでは同じくユリウス暦で補足されている。また確認はしていないが西洋史の歴史上の日付も1582年以前はおそらくユリウス暦だろう。
それにしても日本の歴史をユリウス暦で表記する意味ある?
ところで討ち入りの日が12月14日か、1月31日なのかはまあいいとして命日はどうだろう。歴史上の人物の命日は今でも供養されたり、あるいはお祭りなんかになっている。たとえば徳川家康は元和2年4月17日没。これを現在の暦に置き換えれば1616年6月1日。しかし東照宮では家康を祀る最も重要な行事として御例祭を毎年4月17日に開いている。こういうのはちょっとビミョー。
それと、その日が閏月だったらどうするのだろう。2月29日生まれの誕生日問題と違って1ヶ月丸々存在しないのだから。またよく生誕何年とか没後何年という言い方もするが、場合によっては旧暦の日付は翌年になる場合もあるから、年数の計算も違ってくる。
最後にオマケとして
赤穂浪士討ち入りの発端は藩主である浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)が、江戸城の松の廊下で吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)に切りつけた事件。ミドルネームっぽい内匠頭や上野介は官職名ね。
松の廊下、正式には松之大廊下(まつのおおろうか)は江戸城では2番目に長い廊下だったとされる。全長50メートル幅4メートルで畳敷き。廊下に沿った襖(ふすま)に松が描かれているので、その名前がついている。もっともこの事件がなければ一般に名前が知られることはなかっただろう。1番長い廊下を知っているのはよほどの城マニアだ。
皇居にある3つの公園のひとつ、皇居東御苑はかつて江戸城の本丸などがあった場所。そこを散策すると松の廊下跡コッチの案内板がある。
何か歴史を感じられるかと、その方向に歩いて行くと、
説明書きがあって、
その隣に小さな石碑があるだけ!
まあ江戸城そのものが残っていないのだから、松の廊下がなくて当然だが、逆にわざわざここが松の廊下があった場所だと石碑を置く意味があるかな? ここは日本屈指のガッカリ名所だと思っている。忠臣蔵ファンの皆さんは話のネタに是非訪れましょう(^^ゞ
おしまい
日本で使われてきた暦を一覧にしたのが以下。宣明暦までは中国で制定されたものを導入している。メイドインジャパンな暦は5代将軍徳川綱吉の時代から。偶然にも討ち入りのあった頃である。それにしても元嘉暦の開始が692年ということは飛鳥時代の末期。縄文・弥生時代はともかく、それなりに規模の大きな社会ができていた飛鳥時代や古墳時代は、暦なしでどう生活していたのだろう。
使用開始年 使用年数
元嘉暦(げんかれき) 692年 5年
儀鳳暦(ぎほうれき) 697年 67年
大衍暦(たいえんれき) 764年 94年
五紀暦(ごきれき) 858年 4年
宣明暦(せんみょうれき) 862年 823年
貞享暦(じょうきょうれき) 1685年 70年
宝暦暦(ほうりゃくれき) 1755年 43年
寛政暦(かんせいれき) 1798年 46年
天保暦 (てんぽうれき) 1844年 29年
グレゴリオ暦1873年(明治6年)
なお天保暦まではすべて太陰太陽暦となる。旧暦という場合、一般には現在の1つ前の暦である天保暦を意味するが、もちろんそれ以前は、その出来事が起きた時代に使われていた暦が旧暦と呼ばれる。
ところで月給は月ごとに支払われる賃金。明治6年にグレゴリオ暦へと改暦されたのは西洋文化に合わせる意味もあったが、実は明治6年が天保暦では3年に1度の閏月のある年にあたり、財政事情の苦しい明治政府が13ヶ月分の給料を支払う余裕がなかったからとも言われている。
実際には明治5年12月3日を明治6年(1873年)1月1日とグレゴリを暦に合わせて改暦したので(そんなに太陽暦とずれていたのにも驚くが)、明治政府はその年の閏月分だけではなく、明治5年の12月に働いた2日間分の給料も「たった2日だから」と払っていない。明治政府はその話を盛って「2ヶ月分の給料を節約した、政府は努力している」とアピールしたそうだ。逆に考えれば、昨今は日本の賃金が上がっていないと指摘されるから、いっそ旧暦に戻すのもありかもとキッシーに教えてあげようか(^^ゞ
ただし冷静に考えると、バッくれた2日分の給料は別として、旧暦から新暦に切り替えれば、明治6年に支払う13ヶ月分の給料は12ヶ月分になるものの、その分だけ次の年は早くやってくるわけで、会計年度をまたいで考えればたいした違いはない。どれだけの差になるかを計算すると、
新暦の3年=36ヶ月
旧暦の3年=3年に1度の閏月があるので37ヶ月(正確には19年に7回の閏月)
3年で36/37=97%だから節約できるのは3%、1年だと1%に過ぎない。つまりほとんど節約できていない。それでも新暦への切り替えについて調べると、ほとんどが「2ヶ月分の給料を節約した」と、明治政府の盛った話をそのまま載せている。プロパガンダを信じ込ませてしまえば、その威力は絶大である。
さて討ち入りに話を戻すと、討ち入りがあった元禄15年(貞享暦の時代)は閏月が設定され1年が384日もある年だった。その12月14日を現在の暦に置き換えると1703年1月30日となる。
さらに正確を期すなら、江戸時代でも暦の上では1日の始まりは午前0時を意味する正子(しょうし)だが、一般的には夜明けが1日の始まりとされていた。討ち入り時刻が寅の刻(午前4時前後だから夜明け前)とされているので、江戸時代的にはまだ14日でも今の基準でなら15日早朝になる。それを考慮すると討ち入りがあったのは1月31日である。
閏月の関係もあって、12月14日とはなんと1ヶ月半もずれている。
年もまたいで翌年だなんてヘンな感じ。
まあお祝いする日でもないから別にいいか(^^ゞ
太陰太陽暦では閏月がどこに挿入されるか、またどの月が大の月・小の月かもその都度違うので、旧暦の何月何日が新暦の何月何日に当たるかを単純に計算で求めることはできない。つまり旧暦の日付を新暦の日付に直すのは大変だったのである。(今は暦データをプログラムされた計算ソフトがある)
というわけで歴史上の日付は、赤穂浪士の討ち入り12月14日と同じように、その時代に用いられていた暦での日付がそのまま使われている。また元号だといつのことか分からないから西暦にする場合でも、たとえば寿永4年3月24日に起きた壇ノ浦の戦いなら、寿永4年を1185年に直して1185年3月24日というように日付は旧暦のまま。
旧暦を新暦であるグレゴリオ暦に置き換えると
壇ノ浦の戦い 寿永4年3月24日 →1185年5月2日
桶狭間の戦い 永禄3年5月19日 →1560年6月22日
本能寺の変 天正10年6月2日 →1582年7月1日
関ヶ原の戦い 慶長5年9月15日 →1600年10月21日
黒船来航 嘉永6年6月3日 →1853年7月8日
大政奉還 慶応3年10月14日 →1867年11月9日
壇ノ浦の戦いは5月だったから入水する気になったのかな、桶狭間の戦いは梅雨時だから大雨が降ったのかとか新暦への置き換えで、季節感がリセットされて多少は歴史の見え方が違ってくる場合もあるかも知れない。
なお歴史上の出来事が新暦で表示されているように思える場合でも、グレゴリオ暦がヨーロッパで採用される1582年より以前のものは、その前のユリウス暦で換算されていることがある。例としてWikipediaで桶狭間の戦いは永禄3年5月19日(1560年6月12日)と西暦が併記されているが、この西暦はユリウス暦である。本能寺の変は1582年だが、グレゴリオ暦の採用開始は10月15日からだから、Wikipediaでは同じくユリウス暦で補足されている。また確認はしていないが西洋史の歴史上の日付も1582年以前はおそらくユリウス暦だろう。
それにしても日本の歴史をユリウス暦で表記する意味ある?
ところで討ち入りの日が12月14日か、1月31日なのかはまあいいとして命日はどうだろう。歴史上の人物の命日は今でも供養されたり、あるいはお祭りなんかになっている。たとえば徳川家康は元和2年4月17日没。これを現在の暦に置き換えれば1616年6月1日。しかし東照宮では家康を祀る最も重要な行事として御例祭を毎年4月17日に開いている。こういうのはちょっとビミョー。
それと、その日が閏月だったらどうするのだろう。2月29日生まれの誕生日問題と違って1ヶ月丸々存在しないのだから。またよく生誕何年とか没後何年という言い方もするが、場合によっては旧暦の日付は翌年になる場合もあるから、年数の計算も違ってくる。
最後にオマケとして
赤穂浪士討ち入りの発端は藩主である浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)が、江戸城の松の廊下で吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)に切りつけた事件。ミドルネームっぽい内匠頭や上野介は官職名ね。
松の廊下、正式には松之大廊下(まつのおおろうか)は江戸城では2番目に長い廊下だったとされる。全長50メートル幅4メートルで畳敷き。廊下に沿った襖(ふすま)に松が描かれているので、その名前がついている。もっともこの事件がなければ一般に名前が知られることはなかっただろう。1番長い廊下を知っているのはよほどの城マニアだ。
皇居にある3つの公園のひとつ、皇居東御苑はかつて江戸城の本丸などがあった場所。そこを散策すると松の廊下跡コッチの案内板がある。
何か歴史を感じられるかと、その方向に歩いて行くと、
説明書きがあって、
その隣に小さな石碑があるだけ!
まあ江戸城そのものが残っていないのだから、松の廊下がなくて当然だが、逆にわざわざここが松の廊下があった場所だと石碑を置く意味があるかな? ここは日本屈指のガッカリ名所だと思っている。忠臣蔵ファンの皆さんは話のネタに是非訪れましょう(^^ゞ
おしまい
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2022年09月13日
9.11 ワールドトレードセンターだった理由
9.11と呼ばれるアメリカ同時多発テロ事件が起こったのは2001年の9月11日。それから20年目の昨年ほどではなかったが、今年もいくつかの特集番組があった。
9.11では
ツインタワーであるワールドトレードセンターの南棟と北棟
ペンタゴンと呼ばれるアメリカ国防総省
ホワイトハウス(国会議事堂との説もある)
の4箇所がハイジャックした飛行機によって狙われた。だから同時多発テロと呼ばれ、また同時多発という言葉もこの時から使われ出したと記憶する。
そのうちホワイトハウスに向かっていた飛行機は途中で墜落したものの(乗客の反撃説やハイジャック犯の操縦ミス説などがある)、ワールドトレードセンターとペンタゴンへの突入には成功した。
ところで9.11で、誰もがまずイメージするのはワールドトレードセンターだと思う。この背の高い110階建てで415&417メートルもある高層ビルなら水平飛行で突入できる(参考までに東京タワー333m、スカイツリー634m)。それに対してペンタゴンは5階建て高さ23メートルしかないので突入は難しい。言い換えればこちらのハイジャック犯のほうが腕がいい。当時そう思ったけれど、そんな不謹慎なことは言い出せなくて(^^ゞ
もっとも飛行機はペンタゴンを直撃したのではなく、手前で胴体着陸して地上を滑るように五角形(英語でペンタゴン)の建物西側に激突したとされている。どのくらい手前なのか調べてみたが情報は見つからなかった。しかしペンタゴンの周りは大きな道路があるから、建物のすぐそばかと思う。
なお幸いにも飛行機が突っ込んだ場所は、改装工事中で使用されていなかった。もしそうでなければ世界最大規模のオフィスビルでもあるペンタゴンでの犠牲者は、ワールドトレードセンターを超えたとも言われている(死亡者数はワールドトレードセンター2763人、ペンタゴン125人)。
さて9.11の概要はそれなりに知っているつもりだったが、
特集番組を見て初めて知ったこともいくつかあった。
そのひとつがワールドトレードセンターが狙われた理由。今までは「アメリカ経済の中心であるニューヨーク」「そこで一番大きなビル」だからと思っていた。しかしビン・ラディンにとってはもっと深い意味があったようだ。
少し長くなるが歴史をたどってみると、
1938年、ロックフェラー財閥がサウジアラビアで初の油田を発見。
それまでサウジアラビアはイスラムの聖地メッカがあるだけの貧乏国だった。
↓
1940年代になるとオイルマネーでサウジアラビアが潤い出す。
それによって建設ラッシュが起きる。
↓
建設会社を起こして中東有数の財閥になったのがビン・ラディンの父親。
彼はとても敬虔なイスラム教徒。息子のビン・ラディンもその影響を受ける。
↓
ただし、行き過ぎて異教徒排斥のイスラム原理主義者になってしまう(/o\)
↓
豊かになったサウジアラビアの王室はだんだんと堕落する。
1979年、王室に反発した原理主義者がメッカのモスク占領事件を起こす。
↓
同じく1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻。
王室は自らへの批判をかわそうと、
「同じイスラム教徒のアフガニスタンを共産主義者から救え」との大義名分で、
原理主義者を義勇兵として送り込む。つまり厄介払いした。
↓
ソ連に対抗するアメリカも、100億ドル近い資金や武器をアフガニスタンに提供。
↓
ビン・ラディンはアフガニスタンで成果を上げ英雄視される。
1988年、自らの組織アルカイーダを結成。
↓
1989年、アフガニスタン紛争が終結。ビン・ラディンはサウジアラビアに帰国。
ただし反王室の立場は変わってなかった。
↓
1990年、湾岸戦争勃発。
イラクがクエートに侵攻し、サウジアラビア国境に到達。
ビン・ラディンは自らの組織が防衛する提案をするものの、
王室・政府はこれを拒否して、アメリカ軍に駐留を求めた。
これにビン・ラディンがブチ切れる。
それは理解できるとして、この時から彼が反王室より反アメリカに変わったとされるのがよくわからない。アメリカはサウジアラビアを防衛してくれるのだし、これ以前にアメリカとビン・ラディンに直接的な衝突はない。でもイスラム原理主義者というのは、異教徒であるアメリカ人が自分の国でデカい顔をするのが許せないらしい。
さてようやくワールドトレードセンター。ビン・ラディンの思考ではサウジアラビア王室が腐敗したのは、オイルマネーのせいで、それをもたらしたのがロックフェラー財閥。そのロックフェラーが建設したのがワールドトレードセンターとのつながりになるみたい。彼は1993年にもワールドトレードセンターで爆発物テロを起こしている。
9.11によってワールドトレードセンターはすっかり有名になった。しかし当時、最も知名度が高く、またニューヨークのアイコンでもあったのはエンパイアステートビル。こちらを狙わなかったのは、周りに高層ビルが多くて狙いにくいし、高さも屋上アンテナ部分をのぞけば381mで低いからだと思っていた。まさかビン・ラディンの逆恨み発想だったとは。
ーーー続く
9.11では
ツインタワーであるワールドトレードセンターの南棟と北棟
ペンタゴンと呼ばれるアメリカ国防総省
ホワイトハウス(国会議事堂との説もある)
の4箇所がハイジャックした飛行機によって狙われた。だから同時多発テロと呼ばれ、また同時多発という言葉もこの時から使われ出したと記憶する。
そのうちホワイトハウスに向かっていた飛行機は途中で墜落したものの(乗客の反撃説やハイジャック犯の操縦ミス説などがある)、ワールドトレードセンターとペンタゴンへの突入には成功した。
ところで9.11で、誰もがまずイメージするのはワールドトレードセンターだと思う。この背の高い110階建てで415&417メートルもある高層ビルなら水平飛行で突入できる(参考までに東京タワー333m、スカイツリー634m)。それに対してペンタゴンは5階建て高さ23メートルしかないので突入は難しい。言い換えればこちらのハイジャック犯のほうが腕がいい。当時そう思ったけれど、そんな不謹慎なことは言い出せなくて(^^ゞ
もっとも飛行機はペンタゴンを直撃したのではなく、手前で胴体着陸して地上を滑るように五角形(英語でペンタゴン)の建物西側に激突したとされている。どのくらい手前なのか調べてみたが情報は見つからなかった。しかしペンタゴンの周りは大きな道路があるから、建物のすぐそばかと思う。
なお幸いにも飛行機が突っ込んだ場所は、改装工事中で使用されていなかった。もしそうでなければ世界最大規模のオフィスビルでもあるペンタゴンでの犠牲者は、ワールドトレードセンターを超えたとも言われている(死亡者数はワールドトレードセンター2763人、ペンタゴン125人)。
さて9.11の概要はそれなりに知っているつもりだったが、
特集番組を見て初めて知ったこともいくつかあった。
そのひとつがワールドトレードセンターが狙われた理由。今までは「アメリカ経済の中心であるニューヨーク」「そこで一番大きなビル」だからと思っていた。しかしビン・ラディンにとってはもっと深い意味があったようだ。
少し長くなるが歴史をたどってみると、
1938年、ロックフェラー財閥がサウジアラビアで初の油田を発見。
それまでサウジアラビアはイスラムの聖地メッカがあるだけの貧乏国だった。
↓
1940年代になるとオイルマネーでサウジアラビアが潤い出す。
それによって建設ラッシュが起きる。
↓
建設会社を起こして中東有数の財閥になったのがビン・ラディンの父親。
彼はとても敬虔なイスラム教徒。息子のビン・ラディンもその影響を受ける。
↓
ただし、行き過ぎて異教徒排斥のイスラム原理主義者になってしまう(/o\)
↓
豊かになったサウジアラビアの王室はだんだんと堕落する。
1979年、王室に反発した原理主義者がメッカのモスク占領事件を起こす。
↓
同じく1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻。
王室は自らへの批判をかわそうと、
「同じイスラム教徒のアフガニスタンを共産主義者から救え」との大義名分で、
原理主義者を義勇兵として送り込む。つまり厄介払いした。
↓
ソ連に対抗するアメリカも、100億ドル近い資金や武器をアフガニスタンに提供。
↓
ビン・ラディンはアフガニスタンで成果を上げ英雄視される。
1988年、自らの組織アルカイーダを結成。
↓
1989年、アフガニスタン紛争が終結。ビン・ラディンはサウジアラビアに帰国。
ただし反王室の立場は変わってなかった。
↓
1990年、湾岸戦争勃発。
イラクがクエートに侵攻し、サウジアラビア国境に到達。
ビン・ラディンは自らの組織が防衛する提案をするものの、
王室・政府はこれを拒否して、アメリカ軍に駐留を求めた。
これにビン・ラディンがブチ切れる。
それは理解できるとして、この時から彼が反王室より反アメリカに変わったとされるのがよくわからない。アメリカはサウジアラビアを防衛してくれるのだし、これ以前にアメリカとビン・ラディンに直接的な衝突はない。でもイスラム原理主義者というのは、異教徒であるアメリカ人が自分の国でデカい顔をするのが許せないらしい。
さてようやくワールドトレードセンター。ビン・ラディンの思考ではサウジアラビア王室が腐敗したのは、オイルマネーのせいで、それをもたらしたのがロックフェラー財閥。そのロックフェラーが建設したのがワールドトレードセンターとのつながりになるみたい。彼は1993年にもワールドトレードセンターで爆発物テロを起こしている。
9.11によってワールドトレードセンターはすっかり有名になった。しかし当時、最も知名度が高く、またニューヨークのアイコンでもあったのはエンパイアステートビル。こちらを狙わなかったのは、周りに高層ビルが多くて狙いにくいし、高さも屋上アンテナ部分をのぞけば381mで低いからだと思っていた。まさかビン・ラディンの逆恨み発想だったとは。
ーーー続く
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2022年08月13日
終戦の日に憲法9条の話
ここしばらくは8月15日前後に、お盆に関連しているような・していないような話を書くことが多かった。今年は趣向を変えて終戦の日にちなんで憲法9条をテーマに。
いきなり話がそれるが日本では8月15日が終戦記念日。しかし、それが世界で少数派なのはあまり知られていない。終戦についての歴史の流れを追うと
1945年(昭和20年)
8月10日 御前会議で降伏を決定し、閣議でそれを承認
連合国側にその旨を通知
8月14日 天皇による詔書作成(これで国内の正式手続きを終えた)
8月15日 玉音放送によって国民と軍に降伏を表明
8月30日 連合国総司令官マッカーサーが日本に到着
9月2日 日本と連合国との間で降伏文書が交わされる
1951年(昭和26年)
9月8日 サンフランシスコ講和条約締結
各国が終戦をいつとしているか Wikipedia によると
8月15日 日本、イギリス、韓国、北朝鮮
9月2日 アメリカ、カナダ、フランス、ロシア
9月3日 中国、台湾
となっている。
日本が声明を出しただけの8月15日より、降伏文書に調印した9月2日とするのは合理性があると思うが、中国や台湾が9月3日なのは、その日から3日間をお祝いで休日にしたのに由来するらしい。日本より先に降伏したイタリアやドイツが第2次世界大戦の終了をいつと捉えているかは資料が見つからなかった。実は第2次世界大戦は戦闘に参加していない国も含めて80カ国ほどが、連合国・枢軸国いずれかの陣営に名前を連ねている。おそらく世界史的に終戦のグルーバルスタンダードは9月2日だろう。
なお9月2日の降伏文書は休戦協定なので、名実ともに終戦となったのは6年後のサンフランシスコ講和条約が締結されたときとなる。
さて終戦〜戦争つながりということで憲法9条。
改憲するかしないかで常に議論の中心となる条文である。
まずは書き出しておくと、
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
(2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
ちなみに憲法は前文と11章で構成され、その11章に103の条文が書かれている。2章は9条のためだけの章立てで、それだけ9条には重きを置いているのだろう。「日本国民は、正義と」〜「これを放棄する」までを第1項、「(2)前項の目的を」からを第2項という。
2つの項があるなら第1項にも(1)と数字を振った方がわかりやすいと思うが、法律は複数の項がある場合、なぜか第2項から数字を振ることになっている。どうして読みにくくするのか理由は知らない。ただし項の下に号を設ける場合は最初から数字を振る。
さて憲法で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定められているのに自衛隊が存在するのは矛盾する。どう測るのか知らないが、その戦力は世界ランキング6位とされている。参考までに1位〜10位はアメリカ・ロシア・中国・インド・フランス・日本・韓国・イギリス・トルコ・ドイツの順。
つまりどう考えても自衛隊は保持しないはずの戦力である。
ではいかなる根拠で自衛隊は存在するのか?
これについては自衛隊発足以来から議論されているテーマであり、もちろんそのすべてを知っているわけではない。私が理解しているところは
9条によって戦争を放棄し、軍隊は持てないのだが、
そもそも憲法以前の話として、人類の歴史において、国家には他国に攻められたら
守る・反撃する当然の権利が認められている。それがいわゆる自衛権。
自衛隊は自衛権のためのものであって、
だから憲法とは関係ないから矛盾もしないというかムニュムニューーー
といったところ。
屁理屈というか詭弁的解釈ではある。しかし殺人は罰せられるけれど正当防衛は認められ、また法律に基づいて死刑もおこなわれる。法律とはそういうものであって、いろいろと矛盾したことを取り繕っていくのが人間の英知というもの。憲法より上位の不文律のような「そもそも論」を持ち出すのはチョー強引とは思うものの、現実社会を考えれば、上記の解釈はなかなか見事なアルテ(技巧)じゃないかと考えている。
さて自衛隊が合憲かどうかとセットで持ち出されるのが、
憲法9条で国を守れる・守れないの議論である。
ほとんど神学論争のようなもので、双方の言い分にそれぞれ一理はある。ただし基本的に議論そのものがズレている。なぜなら憲法9条は「戦争ダメ絶対」との規定であって、国を守れるかどうかは守備範囲でないと思うから。
ーーー続く
「終戦の日に憲法9条の話」というタイトルなのに、本日はまだその日ではないが、お読みになったように8月10日からが「終戦の始まり」なのでヨシとしましょう。
いきなり話がそれるが日本では8月15日が終戦記念日。しかし、それが世界で少数派なのはあまり知られていない。終戦についての歴史の流れを追うと
1945年(昭和20年)
8月10日 御前会議で降伏を決定し、閣議でそれを承認
連合国側にその旨を通知
8月14日 天皇による詔書作成(これで国内の正式手続きを終えた)
8月15日 玉音放送によって国民と軍に降伏を表明
8月30日 連合国総司令官マッカーサーが日本に到着
9月2日 日本と連合国との間で降伏文書が交わされる
1951年(昭和26年)
9月8日 サンフランシスコ講和条約締結
各国が終戦をいつとしているか Wikipedia によると
8月15日 日本、イギリス、韓国、北朝鮮
9月2日 アメリカ、カナダ、フランス、ロシア
9月3日 中国、台湾
となっている。
日本が声明を出しただけの8月15日より、降伏文書に調印した9月2日とするのは合理性があると思うが、中国や台湾が9月3日なのは、その日から3日間をお祝いで休日にしたのに由来するらしい。日本より先に降伏したイタリアやドイツが第2次世界大戦の終了をいつと捉えているかは資料が見つからなかった。実は第2次世界大戦は戦闘に参加していない国も含めて80カ国ほどが、連合国・枢軸国いずれかの陣営に名前を連ねている。おそらく世界史的に終戦のグルーバルスタンダードは9月2日だろう。
なお9月2日の降伏文書は休戦協定なので、名実ともに終戦となったのは6年後のサンフランシスコ講和条約が締結されたときとなる。
さて終戦〜戦争つながりということで憲法9条。
改憲するかしないかで常に議論の中心となる条文である。
まずは書き出しておくと、
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
(2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
ちなみに憲法は前文と11章で構成され、その11章に103の条文が書かれている。2章は9条のためだけの章立てで、それだけ9条には重きを置いているのだろう。「日本国民は、正義と」〜「これを放棄する」までを第1項、「(2)前項の目的を」からを第2項という。
2つの項があるなら第1項にも(1)と数字を振った方がわかりやすいと思うが、法律は複数の項がある場合、なぜか第2項から数字を振ることになっている。どうして読みにくくするのか理由は知らない。ただし項の下に号を設ける場合は最初から数字を振る。
さて憲法で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定められているのに自衛隊が存在するのは矛盾する。どう測るのか知らないが、その戦力は世界ランキング6位とされている。参考までに1位〜10位はアメリカ・ロシア・中国・インド・フランス・日本・韓国・イギリス・トルコ・ドイツの順。
つまりどう考えても自衛隊は保持しないはずの戦力である。
ではいかなる根拠で自衛隊は存在するのか?
これについては自衛隊発足以来から議論されているテーマであり、もちろんそのすべてを知っているわけではない。私が理解しているところは
9条によって戦争を放棄し、軍隊は持てないのだが、
そもそも憲法以前の話として、人類の歴史において、国家には他国に攻められたら
守る・反撃する当然の権利が認められている。それがいわゆる自衛権。
自衛隊は自衛権のためのものであって、
だから憲法とは関係ないから矛盾もしないというかムニュムニューーー
といったところ。
屁理屈というか詭弁的解釈ではある。しかし殺人は罰せられるけれど正当防衛は認められ、また法律に基づいて死刑もおこなわれる。法律とはそういうものであって、いろいろと矛盾したことを取り繕っていくのが人間の英知というもの。憲法より上位の不文律のような「そもそも論」を持ち出すのはチョー強引とは思うものの、現実社会を考えれば、上記の解釈はなかなか見事なアルテ(技巧)じゃないかと考えている。
さて自衛隊が合憲かどうかとセットで持ち出されるのが、
憲法9条で国を守れる・守れないの議論である。
ほとんど神学論争のようなもので、双方の言い分にそれぞれ一理はある。ただし基本的に議論そのものがズレている。なぜなら憲法9条は「戦争ダメ絶対」との規定であって、国を守れるかどうかは守備範囲でないと思うから。
ーーー続く
「終戦の日に憲法9条の話」というタイトルなのに、本日はまだその日ではないが、お読みになったように8月10日からが「終戦の始まり」なのでヨシとしましょう。
wassho at 19:40|Permalink│Comments(0)│
2020年07月31日
奈良時代の人口は300万人だった!?
先日、コロナの話題から派生したような企画内容のテレビ番組があり、古来から日本ではさまざまな疫病=感染症に見舞われてきたことを紹介していた。
その中で興味深かったのが
奈良時代に疱瘡(ほうそ:天然痘のこと)が蔓延し、
100万人が亡くなった。
これは当時の人口の1/3に当たる。
という解説。
えっ! 100万人で1/3ということは
奈良時代の人口って、たったの300万人?
番組制作者からは「ソッチカイ!」と突っ込まれそうだが(^^ゞ
現在の日本の人口は約1億2600万人。もちろん昔はそれより少ないことは常識的にわかるとしても、たったの300万人にビックリしたというか、そんな遠い昔の人口なんて考えたこともなかったことに虚を突かれた感じ。
それで少し調べてみた。もちろん正確な統計は明治になってから。江戸時代以前は推測というか学説になるが、いろいろ研究しての結果だから、それなりに近い数字なんだろうと思う。
情報ソースによって数字は異なるので、エイヤッと要約すると
縄文時代:26万人
縄文時代は1万3000年という長い期間。始まった頃は2万人、最盛期で26万人に
達したとされる。たったそれだけの集団が作った土器や土偶が今も残っているのは
感慨深いなあ。
ただし縄文晩期には気候変動による寒冷化で8万人まで減少。
8万人って最盛期の1/3以下で、日本人滅亡の危機が迫っていたレベルじゃないか。
弥生時代:約1000年間で8万人から60万人まで増加。稲作が始まったおかげ。
古墳時代:具体的な数字を見つけられず。
奈良時代:450万人
テレビの300万人とは数字が違うが、天然痘で亡くなったのは150万人という説も
あり、それなら人口の1/3という比率は同じになる。いずれにせよ仰天の死亡率。
平安時代初期:550万人
平安時代末期:680万人
鎌倉時代初期:760万人
室町時代初期:820万人
江戸時代初期:1200万人
江戸時代中期:3100万人
明治時代:初期3300万人〜終期5000万人
終戦(1945年):7200万人
だから何だという数字ではある。しかし明治の始めは人口が今の1/3。ゆったり暮らせたろうなとか〜1000万人を超えたのは戦国時代。集団で合戦しているイメージがあるが今の1/10なら人集めが大変だったかもとか〜平安時代でも今の1/20かあ。そんなに人が少なければ暗闇に妖怪・魑魅魍魎が潜んでいると思うのも無理はないか〜など、あれこれモーソーが膨らんで楽しい。歴史の授業でも教えるべきだ。もっとも3000万人を超えた江戸中期以降はともかく、この国で1000万人以下の人しかいなかった状況は、どうにも具体的にイメージしづらいが。
2004年内閣府少子化白書のグラフでマクロ的に見ると、戦国時代が終わるまで日本の人口はなだらかに推移し、そして江戸時代になって爆発的に増えている。ただし江戸時代中頃からは停滞が始まり、ふたたび増加に転じるのは明治になってから。
ただし現在は少子化の世の中である。
同じように数字を並べると
1967年(昭和42年):1億人突破
1974年(昭和49年):人口維持に必要とされる出生率2.08を下回る
2008年(平成20年):1億2808万人でピークに達し、以降は減少に転じる
2058年:1億人を割り込む予定
そしてこちらは2015年厚生労働白書からのグラフ。
あと40年で終戦直後、80年で明治維新の頃の人口となる(/o\)
もっとも、これは移民を取らないという前提でのシミュレーションであるが。
ところで少子化が問題になっているのは誰でも知っていると思うけれど、こういった具体的なイメージを持っている人は、ほとんどいないんじゃないかな?
それはさておき、あと80年かあ〜
その頃の日本をこの目で見たいが難しいだろうなあ(^^ゞ
その中で興味深かったのが
奈良時代に疱瘡(ほうそ:天然痘のこと)が蔓延し、
100万人が亡くなった。
これは当時の人口の1/3に当たる。
という解説。
えっ! 100万人で1/3ということは
奈良時代の人口って、たったの300万人?
番組制作者からは「ソッチカイ!」と突っ込まれそうだが(^^ゞ
現在の日本の人口は約1億2600万人。もちろん昔はそれより少ないことは常識的にわかるとしても、たったの300万人にビックリしたというか、そんな遠い昔の人口なんて考えたこともなかったことに虚を突かれた感じ。
それで少し調べてみた。もちろん正確な統計は明治になってから。江戸時代以前は推測というか学説になるが、いろいろ研究しての結果だから、それなりに近い数字なんだろうと思う。
情報ソースによって数字は異なるので、エイヤッと要約すると
縄文時代:26万人
縄文時代は1万3000年という長い期間。始まった頃は2万人、最盛期で26万人に
達したとされる。たったそれだけの集団が作った土器や土偶が今も残っているのは
感慨深いなあ。
ただし縄文晩期には気候変動による寒冷化で8万人まで減少。
8万人って最盛期の1/3以下で、日本人滅亡の危機が迫っていたレベルじゃないか。
弥生時代:約1000年間で8万人から60万人まで増加。稲作が始まったおかげ。
古墳時代:具体的な数字を見つけられず。
奈良時代:450万人
テレビの300万人とは数字が違うが、天然痘で亡くなったのは150万人という説も
あり、それなら人口の1/3という比率は同じになる。いずれにせよ仰天の死亡率。
平安時代初期:550万人
平安時代末期:680万人
鎌倉時代初期:760万人
室町時代初期:820万人
江戸時代初期:1200万人
江戸時代中期:3100万人
明治時代:初期3300万人〜終期5000万人
終戦(1945年):7200万人
だから何だという数字ではある。しかし明治の始めは人口が今の1/3。ゆったり暮らせたろうなとか〜1000万人を超えたのは戦国時代。集団で合戦しているイメージがあるが今の1/10なら人集めが大変だったかもとか〜平安時代でも今の1/20かあ。そんなに人が少なければ暗闇に妖怪・魑魅魍魎が潜んでいると思うのも無理はないか〜など、あれこれモーソーが膨らんで楽しい。歴史の授業でも教えるべきだ。もっとも3000万人を超えた江戸中期以降はともかく、この国で1000万人以下の人しかいなかった状況は、どうにも具体的にイメージしづらいが。
2004年内閣府少子化白書のグラフでマクロ的に見ると、戦国時代が終わるまで日本の人口はなだらかに推移し、そして江戸時代になって爆発的に増えている。ただし江戸時代中頃からは停滞が始まり、ふたたび増加に転じるのは明治になってから。
ただし現在は少子化の世の中である。
同じように数字を並べると
1967年(昭和42年):1億人突破
1974年(昭和49年):人口維持に必要とされる出生率2.08を下回る
2008年(平成20年):1億2808万人でピークに達し、以降は減少に転じる
2058年:1億人を割り込む予定
そしてこちらは2015年厚生労働白書からのグラフ。
あと40年で終戦直後、80年で明治維新の頃の人口となる(/o\)
もっとも、これは移民を取らないという前提でのシミュレーションであるが。
ところで少子化が問題になっているのは誰でも知っていると思うけれど、こういった具体的なイメージを持っている人は、ほとんどいないんじゃないかな?
それはさておき、あと80年かあ〜
その頃の日本をこの目で見たいが難しいだろうなあ(^^ゞ
wassho at 19:25|Permalink│Comments(0)│
2020年05月27日
清盛と秀吉の17年間
たまには歴史をテーマにの第2弾。
前回の続きで、本能寺の変の11日後に光秀を破ったのが秀吉。
秀吉はその後の数年で天下統一を果たし、権力も富も望むかぎりを手に入れた。大阪城もすごいけれど、極めつけは黄金の茶室。あんなのはドバイの王族だって持っていないゾ(彼らが茶室を欲しがるのか?というツッコミはナシで)。他に聚楽第や伏見城、京都の大仏なども。箱物以外では北野大茶会、醍醐の花見など湯水のごとくお金を使っている。
それが天下人として栄華を極めるということなのかも知れない。しかし本能寺の変が起きたのは1582年で、秀吉が亡くなったのが1598年。つまり彼が権力の座にあったのはわずか17年なのである。歴史では信長〜秀吉〜家康を一連の流れで捉えることが多いし、この期間は日本史のハイライトで出来事も多いから、秀吉の時代はもっと長いと感じてしまいがち。
ちなみに17年間だった「秀吉時代」前後の政権存続期間を記すと
鎌倉時代 1192年〜1333年 142年間
室町時代 1336年〜1573年 238年間
江戸時代 1603年〜1868年 266年間
歴史上の短期政権はもうひとつあって、それは平氏。平氏が政権を掌握していたのは1167年から壇ノ浦で滅亡する1185年までとされる。ただし実質的には京都を脱出した1183年までとも考えられ、それなら秀吉と同じ17年間となる。その17年で「平家にあらずんば人にあらず」の権勢を誇ったのだから、これまたスゴイ。
もちろん秀吉は本能寺の変の時点で、信長の後継を狙えるポジションにまで迫っており、1582年にゼロからスタートしたわけじゃない。平氏といえば下層とはいえ貴族出身で、清盛の祖父の代にはかなりの勢力だった。それでも日本の歴史に燦然と残る時代を、たった17年間で築いたことは特筆に値すると思うのだ。なぜかこのことは歴史でほとんど話題にならないが。
ところで、
けっこう歳食っちゃったわけだが、
まだ17年残っているかな?
なお17年しか維持できなかったのだという皮肉な見方はやめて、
素直に人生の励みにしましょう(^^ゞ
前回の続きで、本能寺の変の11日後に光秀を破ったのが秀吉。
秀吉はその後の数年で天下統一を果たし、権力も富も望むかぎりを手に入れた。大阪城もすごいけれど、極めつけは黄金の茶室。あんなのはドバイの王族だって持っていないゾ(彼らが茶室を欲しがるのか?というツッコミはナシで)。他に聚楽第や伏見城、京都の大仏なども。箱物以外では北野大茶会、醍醐の花見など湯水のごとくお金を使っている。
それが天下人として栄華を極めるということなのかも知れない。しかし本能寺の変が起きたのは1582年で、秀吉が亡くなったのが1598年。つまり彼が権力の座にあったのはわずか17年なのである。歴史では信長〜秀吉〜家康を一連の流れで捉えることが多いし、この期間は日本史のハイライトで出来事も多いから、秀吉の時代はもっと長いと感じてしまいがち。
ちなみに17年間だった「秀吉時代」前後の政権存続期間を記すと
鎌倉時代 1192年〜1333年 142年間
室町時代 1336年〜1573年 238年間
江戸時代 1603年〜1868年 266年間
歴史上の短期政権はもうひとつあって、それは平氏。平氏が政権を掌握していたのは1167年から壇ノ浦で滅亡する1185年までとされる。ただし実質的には京都を脱出した1183年までとも考えられ、それなら秀吉と同じ17年間となる。その17年で「平家にあらずんば人にあらず」の権勢を誇ったのだから、これまたスゴイ。
もちろん秀吉は本能寺の変の時点で、信長の後継を狙えるポジションにまで迫っており、1582年にゼロからスタートしたわけじゃない。平氏といえば下層とはいえ貴族出身で、清盛の祖父の代にはかなりの勢力だった。それでも日本の歴史に燦然と残る時代を、たった17年間で築いたことは特筆に値すると思うのだ。なぜかこのことは歴史でほとんど話題にならないが。
ところで、
けっこう歳食っちゃったわけだが、
まだ17年残っているかな?
なお17年しか維持できなかったのだという皮肉な見方はやめて、
素直に人生の励みにしましょう(^^ゞ
wassho at 08:08|Permalink│Comments(0)│
2020年05月26日
明智光秀の三日天下
たまには歴史をテーマに。
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀が主人公。オンエア直前に沢尻エリカがパクられて撮り直したり、現在はコロナのせいで撮影できず来月から放送休止になるなど踏んだり蹴ったりみたいだ。
さて光秀といえば本能寺の変である。信長に対するこのクーデターは、その動機や背後関係において日本史最大のミステリーともいわれている。いろんな推察がされているが、光秀直筆の日記でも見つからない限り謎は解けないから、これからも歴史ファンを楽しませてくれるだろう。
信長には勝利した光秀だが、秀吉との戦いに敗れて命をとす。本能寺の変からわずか11日後の出来事。11日じゃ語呂が悪いからか、なぜかそれを三日天下と呼ぶ。しかし実質的には信長を倒しただけで、まだ天下を取ったとはいえない。歴史の if が許されるなら、光秀には3ヶ月くらいは天下を取って欲しかった。なぜなら、それくらいの期間があれば本能寺の変に関する記録が残ったと思うから。
それなのに、せっかちすぎるゾ秀吉(^^ゞ
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀が主人公。オンエア直前に沢尻エリカがパクられて撮り直したり、現在はコロナのせいで撮影できず来月から放送休止になるなど踏んだり蹴ったりみたいだ。
さて光秀といえば本能寺の変である。信長に対するこのクーデターは、その動機や背後関係において日本史最大のミステリーともいわれている。いろんな推察がされているが、光秀直筆の日記でも見つからない限り謎は解けないから、これからも歴史ファンを楽しませてくれるだろう。
信長には勝利した光秀だが、秀吉との戦いに敗れて命をとす。本能寺の変からわずか11日後の出来事。11日じゃ語呂が悪いからか、なぜかそれを三日天下と呼ぶ。しかし実質的には信長を倒しただけで、まだ天下を取ったとはいえない。歴史の if が許されるなら、光秀には3ヶ月くらいは天下を取って欲しかった。なぜなら、それくらいの期間があれば本能寺の変に関する記録が残ったと思うから。
それなのに、せっかちすぎるゾ秀吉(^^ゞ
wassho at 06:39|Permalink│Comments(0)│
2012年02月07日
平清盛 訂正
ここと、ここで書いた平清盛の話。
2番目のエントリーで「平清盛は幼名を平太といい、元服して清盛を名乗る」と書いたのは間違い。正確に言うと大河ドラマではそういう設定になっているが、清盛の幼名ははっきりと分かっておらず、平太というのはドラマの上での設定。
謹んでお詫び申し上げるーーーほどのこととも思っていないが(^^ゞ
念のために書いておきます。
清盛のことはあまり知識がないものだから、つい史実だと思ってしまった。
どうでもいいけど「平家の男の子だから平太」というのは素直なネーミング。
でも名前を漢字で書くと「平平太」と暗号のようになってしまうね。
歴史については、まあまあ知っているつもりだけれど、学術的な文献や資料を読むわけでもなく、ある程度解釈された歴史物語を楽しむだけ。だから作者がどこかに紛れ込ませた創作を歴史的な事実だと思い込んでいることは、他にもたくさんあるかもしれない。信長・秀吉・家康なんかは日本人の中に何となくの共通イメージがあると思うが、それらも史実と創作の入り交じったもの。
というか誰かが最初に書いた創作も、時代がたって引用を繰り返されるうちに史実のようになってしまうのかもしれない。楽しむ分には、それも含めて歴史かな。冷静に考えれば、今生きている人や、今起きている事件や出来事についても、それほど多くの事実を知っているわけでもないはず。
ところで、
先週の大河ドラマは見忘れた(^^ゞ
2番目のエントリーで「平清盛は幼名を平太といい、元服して清盛を名乗る」と書いたのは間違い。正確に言うと大河ドラマではそういう設定になっているが、清盛の幼名ははっきりと分かっておらず、平太というのはドラマの上での設定。
謹んでお詫び申し上げるーーーほどのこととも思っていないが(^^ゞ
念のために書いておきます。
清盛のことはあまり知識がないものだから、つい史実だと思ってしまった。
どうでもいいけど「平家の男の子だから平太」というのは素直なネーミング。
でも名前を漢字で書くと「平平太」と暗号のようになってしまうね。
歴史については、まあまあ知っているつもりだけれど、学術的な文献や資料を読むわけでもなく、ある程度解釈された歴史物語を楽しむだけ。だから作者がどこかに紛れ込ませた創作を歴史的な事実だと思い込んでいることは、他にもたくさんあるかもしれない。信長・秀吉・家康なんかは日本人の中に何となくの共通イメージがあると思うが、それらも史実と創作の入り交じったもの。
というか誰かが最初に書いた創作も、時代がたって引用を繰り返されるうちに史実のようになってしまうのかもしれない。楽しむ分には、それも含めて歴史かな。冷静に考えれば、今生きている人や、今起きている事件や出来事についても、それほど多くの事実を知っているわけでもないはず。
ところで、
先週の大河ドラマは見忘れた(^^ゞ
wassho at 19:38|Permalink│Comments(0)│
2010年01月17日
黒船来航の謎(3)
え〜、
3回も続けておいて気が引けますが、このテーマについての結論とか、独自の見解などはありません。ただダラダラ書いているだけです。
乗組員2000名で旗本十万騎(本当に10万人いたかどうかは別として)の幕府を屈服させたペリーは、この局面だけをとらえると小が大を制したといえる。確かにテクノロジーでは優位に立っていたが、原爆と竹槍ほどの差ではなかった。
しかも実はペリーは米国大統領から交戦を禁じられていた。つまり彼は政治・外交の術で幕府に勝利したのである。(交戦を禁じられていたが、ペリーにその命令は届いていなかったという説もある。しかし、いずれにせよ空砲は派手に撃ったけれど実弾は使用していない)
来日前にペリーは日本の情報を集め、日本人の国民性あるいは幕府の現状を鑑みて、高圧的態度で押しまくると決めていたようである。鎖国の当時、外国船は長崎に寄港することになっていたのに、無視して浦賀に現れ、江戸湾に居座ったのもその表れである。1853年に初めて来航した時は、幕府との押し問答の末、1年後に本格的な交渉をする約束をして去っていった。しかしその直後に徳川将軍が死んだことを知ると、約束より半年早く来航し幕府に揺さぶりを掛けている。
しかし「自分が苦しいときは相手も苦しい」である。
ペリーもきつかったはずである。圧倒的軍事力を持っていたように教科書では書かれているが、アウェーで補給もないのだから返り討ちにされる可能性も少なくはなかった。仮に交戦して局地戦で勝利を収めても、日本が他の外国と同盟を組んで、日本から閉め出されては来た意味がなくなる。(当時のアメリカは超大国ではなく列強の新参者にすぎなかった) 交戦禁止の大統領命令が事実だとすれば、幕府を怒らせて岸から大砲を撃たれれば、それが命中しなくても届かなくても、その時点で彼は負けたことになる。
でも結局、ペリーの知力、行動力、交渉術(はったりを含む)が幕府に勝利する。
2000名の小が十万騎の大を制したのである。
いきなり場面は現在の会議室に変わって
「ほぉ〜、我が社を相手に一戦交えますかな?」といやみたらしくいわれ、
「お望みなら」と答えたことは何回かある。
そのうちに何回かは開戦したけれど(^^ゞ、幸いなことに敗戦したことはない。本当の戦闘のことはよくわからないけれど、ペリーもそうだったように政治・外交では、私の場合ならビジネスの分野では、数や規模は絶対的な脅威ではないからである。ビジネスで無用な諍いを起こすことはもちろん勧めないが、相手が大企業だからといって不必要にビビッたり、あきらめることはないと、スモールなビジネスあるいはベンチャーでがんばっている皆さんには是非お伝えしたい。ペリー提督万歳\(^_^)/
実は、日本が黒船にビビッたことより、もっと疑問に思っていることがーーーそれはインカ帝国。南米の現在ならチリ、アルゼンチン、コロンビアあたりに栄えていたこの帝国は人口1600万人。それが16世紀に海を渡ってきたスペイン人に征服され滅亡させられるのである。最初に上陸した部隊は168名と伝えられている。どうやったら、そんなことができるの? これから起業しようという人は、ぜひこっちも勉強してみたら?
3回も続けておいて気が引けますが、このテーマについての結論とか、独自の見解などはありません。ただダラダラ書いているだけです。
乗組員2000名で旗本十万騎(本当に10万人いたかどうかは別として)の幕府を屈服させたペリーは、この局面だけをとらえると小が大を制したといえる。確かにテクノロジーでは優位に立っていたが、原爆と竹槍ほどの差ではなかった。
しかも実はペリーは米国大統領から交戦を禁じられていた。つまり彼は政治・外交の術で幕府に勝利したのである。(交戦を禁じられていたが、ペリーにその命令は届いていなかったという説もある。しかし、いずれにせよ空砲は派手に撃ったけれど実弾は使用していない)
来日前にペリーは日本の情報を集め、日本人の国民性あるいは幕府の現状を鑑みて、高圧的態度で押しまくると決めていたようである。鎖国の当時、外国船は長崎に寄港することになっていたのに、無視して浦賀に現れ、江戸湾に居座ったのもその表れである。1853年に初めて来航した時は、幕府との押し問答の末、1年後に本格的な交渉をする約束をして去っていった。しかしその直後に徳川将軍が死んだことを知ると、約束より半年早く来航し幕府に揺さぶりを掛けている。
しかし「自分が苦しいときは相手も苦しい」である。
ペリーもきつかったはずである。圧倒的軍事力を持っていたように教科書では書かれているが、アウェーで補給もないのだから返り討ちにされる可能性も少なくはなかった。仮に交戦して局地戦で勝利を収めても、日本が他の外国と同盟を組んで、日本から閉め出されては来た意味がなくなる。(当時のアメリカは超大国ではなく列強の新参者にすぎなかった) 交戦禁止の大統領命令が事実だとすれば、幕府を怒らせて岸から大砲を撃たれれば、それが命中しなくても届かなくても、その時点で彼は負けたことになる。
でも結局、ペリーの知力、行動力、交渉術(はったりを含む)が幕府に勝利する。
2000名の小が十万騎の大を制したのである。
いきなり場面は現在の会議室に変わって
「ほぉ〜、我が社を相手に一戦交えますかな?」といやみたらしくいわれ、
「お望みなら」と答えたことは何回かある。
そのうちに何回かは開戦したけれど(^^ゞ、幸いなことに敗戦したことはない。本当の戦闘のことはよくわからないけれど、ペリーもそうだったように政治・外交では、私の場合ならビジネスの分野では、数や規模は絶対的な脅威ではないからである。ビジネスで無用な諍いを起こすことはもちろん勧めないが、相手が大企業だからといって不必要にビビッたり、あきらめることはないと、スモールなビジネスあるいはベンチャーでがんばっている皆さんには是非お伝えしたい。ペリー提督万歳\(^_^)/
実は、日本が黒船にビビッたことより、もっと疑問に思っていることがーーーそれはインカ帝国。南米の現在ならチリ、アルゼンチン、コロンビアあたりに栄えていたこの帝国は人口1600万人。それが16世紀に海を渡ってきたスペイン人に征服され滅亡させられるのである。最初に上陸した部隊は168名と伝えられている。どうやったら、そんなことができるの? これから起業しようという人は、ぜひこっちも勉強してみたら?
wassho at 23:36|Permalink│Comments(0)│
2010年01月11日
黒船来航の謎(2)
なぜだろう。
いろいろ想像してみる。
1)
とにかく黒船にビビッた。
日本の船と較べてはるかに巨大で、帆もなく動くなんて、この世のものとは思えなかった。今なら横須賀上空に巨大な宇宙船が浮かんでいるようなものか。どんなすごい兵器を持っているのか想像するのすら怖かった。
2)
実はペリーが来るのも黒船のことも、鎖国の例外として国交のあったオランダを通じて事前に知らされていたのである。しかしその情報に接していたのはごく一部の幕府上層部だけ。上層部は冷静でも、現場が大騒ぎとなり収拾がつかなくなった。
3)
オランダと国交はあったが、オランダ人が出入りしていたのは長崎の出島。しかも市民の目に触れないように隔離されたような区画のみ。江戸にも使節くらいは来ていたかもしれないが、日本人が何百人単位の「外人(西洋人)」を見たのは、これが初めてだったかもしれない。それで、その体格や顔つきにビビッた。日本人の西洋コンプレックスはここから始まっていたりして。
4)
黒船来航の200年ほど前に起きた島原の乱以降、日本では戦争、戦闘らしきものは起こっていない。つまり今日以上の超平和国家。幕府とは武士が支配した政治体制でも、その頃の武士は刀を差していても単なる役人・文民に過ぎなかった。だからたとえ一発でも大砲を撃ち込まれるなんてチョー怖かった。
5)
黒船にビビりはしたが、冷静に考えて追っ払えることはわかっていた。しかしアメリカを怒らせると、次に100隻、200隻の大艦隊で攻め込まれるかもしれないと不安になった。
6)
幕府は別に弱腰ではなく、妥当な政治判断をしただけだった。しかし歴史は勝者が書く。幕府を倒した明治政府が幕府が無能だったことをことさら強調した。その明治政府の史観が現在まで影響している。
7)
幕府は弱腰外交を演じ、薩長などの反幕府勢力を勢いづかせる戦略を持っていた。ある程度跳ね上がらせておいたところで、アメリカと組んで、それらの諸藩を制圧するつもりだった。
モーソーしだすとキリがない。
まあ、楽しみは老後に取っておこう。
とにかく旗本十万騎といわれた江戸幕府は
9隻2000名のペリー艦隊に屈服したのである。
(続く)
いろいろ想像してみる。
1)
とにかく黒船にビビッた。
日本の船と較べてはるかに巨大で、帆もなく動くなんて、この世のものとは思えなかった。今なら横須賀上空に巨大な宇宙船が浮かんでいるようなものか。どんなすごい兵器を持っているのか想像するのすら怖かった。
2)
実はペリーが来るのも黒船のことも、鎖国の例外として国交のあったオランダを通じて事前に知らされていたのである。しかしその情報に接していたのはごく一部の幕府上層部だけ。上層部は冷静でも、現場が大騒ぎとなり収拾がつかなくなった。
3)
オランダと国交はあったが、オランダ人が出入りしていたのは長崎の出島。しかも市民の目に触れないように隔離されたような区画のみ。江戸にも使節くらいは来ていたかもしれないが、日本人が何百人単位の「外人(西洋人)」を見たのは、これが初めてだったかもしれない。それで、その体格や顔つきにビビッた。日本人の西洋コンプレックスはここから始まっていたりして。
4)
黒船来航の200年ほど前に起きた島原の乱以降、日本では戦争、戦闘らしきものは起こっていない。つまり今日以上の超平和国家。幕府とは武士が支配した政治体制でも、その頃の武士は刀を差していても単なる役人・文民に過ぎなかった。だからたとえ一発でも大砲を撃ち込まれるなんてチョー怖かった。
5)
黒船にビビりはしたが、冷静に考えて追っ払えることはわかっていた。しかしアメリカを怒らせると、次に100隻、200隻の大艦隊で攻め込まれるかもしれないと不安になった。
6)
幕府は別に弱腰ではなく、妥当な政治判断をしただけだった。しかし歴史は勝者が書く。幕府を倒した明治政府が幕府が無能だったことをことさら強調した。その明治政府の史観が現在まで影響している。
7)
幕府は弱腰外交を演じ、薩長などの反幕府勢力を勢いづかせる戦略を持っていた。ある程度跳ね上がらせておいたところで、アメリカと組んで、それらの諸藩を制圧するつもりだった。
モーソーしだすとキリがない。
まあ、楽しみは老後に取っておこう。
とにかく旗本十万騎といわれた江戸幕府は
9隻2000名のペリー艦隊に屈服したのである。
(続く)
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2010年01月10日
黒船来航の謎(1)
今年の大河ドラマは坂本龍馬の話。
坂本龍馬×福山雅治のW効果で前評判(もう始まっているけれど)は高いらしい。
前評判というかNHKの皮算用かな。
熱狂的なファンも多い坂本龍馬ではあるが、私自身は彼のことに詳しくない。土佐藩出身で、幕末の表舞台・裏舞台でいろいろ活躍した程度のイメージ。大河ドラマはたぶん見ないが、ブームに便乗していろいろ勉強してみるのも悪くないかもしれない。
さて龍馬といえば幕末の英雄である。
そして幕末について、ずっと疑問に思っていることがある。
幕末は1853年、アメリカのペリー提督率いるアメリカ艦船が浦賀沖に現れたことから始まる。いわゆる黒船来航である。(浦賀の名前は教科書で知っていても、それがどこか知らない人が意外に多いが横須賀のこと。横須賀は横浜の隣) それを契機に開国論と尊王攘夷論が起こり、倒幕運動が高まり明治維新につながっていくことはご存じの通り。
幕府はアメリカに押し切られる形で、鎖国を捨て開国に踏み切る。ペリーが来日したのは国交を求めての交渉であり、建前的には「開国か開戦か」という要求をしたわけではないが、黒船の威力の前に屈服したとみるのが一般的である。歴史を読めば幕府の右往左往ぶりがよくわかる。
どうして黒船に、そんなにビビッたの?
それがよくわからない。
黒船とは蒸気船のことで、煙突から黒い煙を出すから黒船と呼ばれた。(船がタールで黒く防水塗装されていたからという説もある) それは日本人が初めて見る船だった。(当時はまだ帆船の時代)
それに驚いたのは理解できる。しかしペリーが率いてきた黒船は1回目が2隻(他に帆船が2隻)、2回目が3隻(他に帆船が6隻)である。つまりたった数隻の船団である。東京湾が黒船に埋め尽くされたわけではない。
当時の幕府は軍艦らしきものは持っていなかったから海戦ではかなわなかっただろう。しかしペリーに上陸作戦を展開する能力(軍事力)があったとは思えない。開戦となれば艦砲射撃位はしただろうが、数隻の船団の攻撃力なんて限定的である。当時は銀座の先あたりまで海で、目視できたはずだから江戸城には命中したとしても、雨あられと降り注ぐほどの砲弾を持っていたはずがない。
ペリーが2度目に9隻の艦隊で来航したとき、総乗組員数は約二千名といわれている。操船と船の防衛に残す人数を考えると、上陸作戦に動員できるのは5〜600名程度か。幕府軍より格段に優れた武装をしていたとしても、補給もなく地理もわからない上陸部隊である。凡庸な指揮官が対応したとしても1週間で制圧きたはず。それにヘリコプターで降りてくるわけではないから、つまり小舟で上陸するのだから、アウェーの江戸湾では上陸できる確率からして低い。
しかし幕府は弱腰な対応に終始する。
(続く)
坂本龍馬×福山雅治のW効果で前評判(もう始まっているけれど)は高いらしい。
前評判というかNHKの皮算用かな。
熱狂的なファンも多い坂本龍馬ではあるが、私自身は彼のことに詳しくない。土佐藩出身で、幕末の表舞台・裏舞台でいろいろ活躍した程度のイメージ。大河ドラマはたぶん見ないが、ブームに便乗していろいろ勉強してみるのも悪くないかもしれない。
さて龍馬といえば幕末の英雄である。
そして幕末について、ずっと疑問に思っていることがある。
幕末は1853年、アメリカのペリー提督率いるアメリカ艦船が浦賀沖に現れたことから始まる。いわゆる黒船来航である。(浦賀の名前は教科書で知っていても、それがどこか知らない人が意外に多いが横須賀のこと。横須賀は横浜の隣) それを契機に開国論と尊王攘夷論が起こり、倒幕運動が高まり明治維新につながっていくことはご存じの通り。
幕府はアメリカに押し切られる形で、鎖国を捨て開国に踏み切る。ペリーが来日したのは国交を求めての交渉であり、建前的には「開国か開戦か」という要求をしたわけではないが、黒船の威力の前に屈服したとみるのが一般的である。歴史を読めば幕府の右往左往ぶりがよくわかる。
どうして黒船に、そんなにビビッたの?
それがよくわからない。
黒船とは蒸気船のことで、煙突から黒い煙を出すから黒船と呼ばれた。(船がタールで黒く防水塗装されていたからという説もある) それは日本人が初めて見る船だった。(当時はまだ帆船の時代)
それに驚いたのは理解できる。しかしペリーが率いてきた黒船は1回目が2隻(他に帆船が2隻)、2回目が3隻(他に帆船が6隻)である。つまりたった数隻の船団である。東京湾が黒船に埋め尽くされたわけではない。
当時の幕府は軍艦らしきものは持っていなかったから海戦ではかなわなかっただろう。しかしペリーに上陸作戦を展開する能力(軍事力)があったとは思えない。開戦となれば艦砲射撃位はしただろうが、数隻の船団の攻撃力なんて限定的である。当時は銀座の先あたりまで海で、目視できたはずだから江戸城には命中したとしても、雨あられと降り注ぐほどの砲弾を持っていたはずがない。
ペリーが2度目に9隻の艦隊で来航したとき、総乗組員数は約二千名といわれている。操船と船の防衛に残す人数を考えると、上陸作戦に動員できるのは5〜600名程度か。幕府軍より格段に優れた武装をしていたとしても、補給もなく地理もわからない上陸部隊である。凡庸な指揮官が対応したとしても1週間で制圧きたはず。それにヘリコプターで降りてくるわけではないから、つまり小舟で上陸するのだから、アウェーの江戸湾では上陸できる確率からして低い。
しかし幕府は弱腰な対応に終始する。
(続く)
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2007年10月24日
足利将軍ら堂々行進
フ〜ン、へエ〜という記事。
(記事はいずれ見られなくなるので)要約すると京都の3大祭りのひとつである時代祭(明治維新から平安の時代までの衣装を着て練り歩くパレードみたいなもの)で、「天皇に弓を引いた逆賊」として今まで祭りに参加できなかった室町幕府/足利氏の行列が、今年から参加するようになった。足利氏の子孫が「われわれ一族は歴史の犠牲となって長く耐え忍んできた。ようやく真実が伝わったと思う」と言葉を詰まらせたーーーというもの。
イイクニツクロウの鎌倉幕府と較べると室町幕府は何となく印象が薄い。「天皇に弓を引いた逆賊」といわれてもピンとこないかもしれないけれど、後醍醐天皇と光明天皇に分かれた南北朝時代、足利氏は光明天皇を擁立して後醍醐天皇を追放。(後醍醐天応は吉野=奈良県に亡命政府のようなものを作った。奈良は京都より南にあるので、こっちが南朝) その後、南朝・北朝は統一されて、いつのまにか南朝が正統ということになり(理由は不勉強でよく知らない)、正統なる後醍醐天皇を追放したということで足利氏は「天皇に弓を引いた逆賊」ということになっている。
足利尊氏の直系の子孫がいるとは、どこかで聞いたことがあったけれど、その人が「われわれ一族は歴史の犠牲となって長く耐え忍んできた。ようやく真実が伝わったと思う」と言葉を詰まらせたーーーというのにはビックリした。つまり、祭りに参加できた=逆賊の汚名が晴れた証ということなのだろう。しかし後醍醐天皇追放は1336年。ズイブンと長い年月、耐え忍ばれてきたものである(^^ゞ
社会のスピードはどんどん速くなっているが、それとはまったく別のスパンでの時間も流れていることを知る。逆賊の汚名ならイヤだが、日々時間に追い立てられている身としては、そんなゆったりとした時間感覚に身をおいてみたい気もする。たまには京都にでも行こうかな。
(記事はいずれ見られなくなるので)要約すると京都の3大祭りのひとつである時代祭(明治維新から平安の時代までの衣装を着て練り歩くパレードみたいなもの)で、「天皇に弓を引いた逆賊」として今まで祭りに参加できなかった室町幕府/足利氏の行列が、今年から参加するようになった。足利氏の子孫が「われわれ一族は歴史の犠牲となって長く耐え忍んできた。ようやく真実が伝わったと思う」と言葉を詰まらせたーーーというもの。
イイクニツクロウの鎌倉幕府と較べると室町幕府は何となく印象が薄い。「天皇に弓を引いた逆賊」といわれてもピンとこないかもしれないけれど、後醍醐天皇と光明天皇に分かれた南北朝時代、足利氏は光明天皇を擁立して後醍醐天皇を追放。(後醍醐天応は吉野=奈良県に亡命政府のようなものを作った。奈良は京都より南にあるので、こっちが南朝) その後、南朝・北朝は統一されて、いつのまにか南朝が正統ということになり(理由は不勉強でよく知らない)、正統なる後醍醐天皇を追放したということで足利氏は「天皇に弓を引いた逆賊」ということになっている。
足利尊氏の直系の子孫がいるとは、どこかで聞いたことがあったけれど、その人が「われわれ一族は歴史の犠牲となって長く耐え忍んできた。ようやく真実が伝わったと思う」と言葉を詰まらせたーーーというのにはビックリした。つまり、祭りに参加できた=逆賊の汚名が晴れた証ということなのだろう。しかし後醍醐天皇追放は1336年。ズイブンと長い年月、耐え忍ばれてきたものである(^^ゞ
社会のスピードはどんどん速くなっているが、それとはまったく別のスパンでの時間も流れていることを知る。逆賊の汚名ならイヤだが、日々時間に追い立てられている身としては、そんなゆったりとした時間感覚に身をおいてみたい気もする。たまには京都にでも行こうかな。
wassho at 16:20|Permalink│Comments(0)│
2006年12月22日
道真と時平
菅原道真(みちざね)と藤原時平(ときひら)。深夜にほろ酔い気分でテレビを見ていたら、この二人をテーマにした歴史番組をやっていた。
10世紀後半、律令制がほころびを見せ始めた頃に、この二人は登場する。エッ?律令制のほころびって何かって? 私もよくわかりません(^^ゞ 要は時代の変化で、今までうまくいっていたシステムが、うまく機能しなくなった、構造改革が必要な状況になってきたと理解しましょう。
道真のほうが20歳ほど時平より年上。
秀才の誉れ高い道真は高級官僚の試験に若くして合格し、政権の中枢に上り詰めていく。時平は藤原家の御曹司。家柄で政権の中枢に入る。和歌の達人でプレイボーイでもあったらしい。まったく対照的な二人。この時点では道真のほうが政治の中心。
構造改革、つまり律令制の改革に道真は取り組む。しかし律令制「命」の官僚から総スカンを食らう。このあたりは1000年以上たった今でも構図は変わらない。途中は省略するけれど、結局官僚の反感を買った道真は、クーデターみたいな形で太宰府へ追放になる。
それで時平に道真のポジションが回ってくる。道真が追放されても改革はやらないと国家が持たないから、時平も改革に着手する。秀才道真が企画した構造改革案は理にかなったものだから、時平の改革も道真と同じ内容。当然、律令制「命」の官僚から総スカンを食らう。
ここからがおもしろい。
でも上手に書くのは難しい。
律令制というのは唐(中国)の政治制度を手本にしたもの。だから当時、役所の中の文書は漢文。日本語である「ひらがな」は和歌に使われていたくらいで、一段低く見られていたらしい。
それで一計を案じた時平は、ひらがなを使った和歌集の編纂を命ずる。和歌は時平の専門分野でもある。それがあの有名な古今和歌集。ここから先の番組の作りはかなり強引ではあるが、
素晴らしい古今和歌集
↓
ひらがなは素晴らしい
↓
ひらがなを生んだ日本語、日本は素晴らしい
↓
だから、中国のコピーである律令制を日本にあったものに改革しよう
この時平のPR戦略によって、守旧派の官僚にも意識改革が起こり、律令制の構造改革が進んだ、メデタシメデタシ。
史実がこの通りかはちょっと疑問。教養番組というより歴史娯楽番組みたいな放送だから、テレビ的なデフォルメはあると思う。
でも本日は “正論が通ると思うのは、正論を立てられる能力がある人たちに見られる、ありがちな錯誤”とか “通すのではなく、どうすれば受け入れられるかを考えないと通るものも通らない”とか “社会のドライビングフォースは理じゃなくて情だよねぇ”とか “社会じゃなくて個人対個人ならもっとそうか”とか “急がば回れ”とか “やっぱ芸は身をたすく”とか、何かと数多い下書きでした。
こんなこと書いてミチザネの祟りがありませんように(^^ゞ
10世紀後半、律令制がほころびを見せ始めた頃に、この二人は登場する。エッ?律令制のほころびって何かって? 私もよくわかりません(^^ゞ 要は時代の変化で、今までうまくいっていたシステムが、うまく機能しなくなった、構造改革が必要な状況になってきたと理解しましょう。
道真のほうが20歳ほど時平より年上。
秀才の誉れ高い道真は高級官僚の試験に若くして合格し、政権の中枢に上り詰めていく。時平は藤原家の御曹司。家柄で政権の中枢に入る。和歌の達人でプレイボーイでもあったらしい。まったく対照的な二人。この時点では道真のほうが政治の中心。
構造改革、つまり律令制の改革に道真は取り組む。しかし律令制「命」の官僚から総スカンを食らう。このあたりは1000年以上たった今でも構図は変わらない。途中は省略するけれど、結局官僚の反感を買った道真は、クーデターみたいな形で太宰府へ追放になる。
それで時平に道真のポジションが回ってくる。道真が追放されても改革はやらないと国家が持たないから、時平も改革に着手する。秀才道真が企画した構造改革案は理にかなったものだから、時平の改革も道真と同じ内容。当然、律令制「命」の官僚から総スカンを食らう。
ここからがおもしろい。
でも上手に書くのは難しい。
律令制というのは唐(中国)の政治制度を手本にしたもの。だから当時、役所の中の文書は漢文。日本語である「ひらがな」は和歌に使われていたくらいで、一段低く見られていたらしい。
それで一計を案じた時平は、ひらがなを使った和歌集の編纂を命ずる。和歌は時平の専門分野でもある。それがあの有名な古今和歌集。ここから先の番組の作りはかなり強引ではあるが、
素晴らしい古今和歌集
↓
ひらがなは素晴らしい
↓
ひらがなを生んだ日本語、日本は素晴らしい
↓
だから、中国のコピーである律令制を日本にあったものに改革しよう
この時平のPR戦略によって、守旧派の官僚にも意識改革が起こり、律令制の構造改革が進んだ、メデタシメデタシ。
史実がこの通りかはちょっと疑問。教養番組というより歴史娯楽番組みたいな放送だから、テレビ的なデフォルメはあると思う。
でも本日は “正論が通ると思うのは、正論を立てられる能力がある人たちに見られる、ありがちな錯誤”とか “通すのではなく、どうすれば受け入れられるかを考えないと通るものも通らない”とか “社会のドライビングフォースは理じゃなくて情だよねぇ”とか “社会じゃなくて個人対個人ならもっとそうか”とか “急がば回れ”とか “やっぱ芸は身をたすく”とか、何かと数多い下書きでした。
こんなこと書いてミチザネの祟りがありませんように(^^ゞ
wassho at 17:32|Permalink│Comments(0)│