田中一村
2021年01月19日
田中一村展 千葉市美術館収蔵全作品 その3
「千葉へ」のコーナーでは仏教を題材とした作品や、着物や傘などの図柄を描いたデザイナーとしての仕事?、それに一村が撮った写真なども展示されていた。
そして第4章の「一村誕生、心機一転の戦後」というコーナーに移る。ちなみに彼の本名は田中孝で、画号としては1947年39歳まで田中米邨(べいそん)を使用。
名前を一村と改めた1947年(昭和22年)にはメジャーなコンクールに入選するものの、その後は前回に書いたように鳴かず飛ばずの日々が続く。だからタイトルに「心機一転」とあるが、それが何を指しているかよくわからない。そして残念なのは展示されていた作品がいわゆる小作品がほとんどで、コンクール出品級の大作・力作がなかったこと。これはこの展覧会全般に言えることでもある。
1955年(昭和30年)に一村は九州・四国・紀州などへスケッチ旅行に出かける。この旅行によって南国に魅せられたようで、それが奄美大島移住につながったのだと思う。
旅土産の色紙という一画が設けられていた。
「筑波山」 1955年
「新緑 北日向」 1955年
「室戸 奇巌」 1955年
そしていよいよ1958年(昭和33年)に50歳にして単身で奄美大島に移住。どうして奄美大島なのかの資料は見つからなかったが、当時、沖縄はまだアメリカ占領下で、沖縄の北側にある奄美大島が日本の最南端だったからだと思う。
「仁戸名蒼天」 1960年頃
何となく南国っぽいが、これは千葉の風景。奄美大島から一時的に千葉へ戻った時の作品。仁戸名は千葉の地名で、蒼天は青空または春の空。
第5章 奄美へ アダンへの道
「クロトンとカヤツリグサ」
制作時期が不明だからか第4章に展示されていたが、これは南国でしょう。
「アカショウビン」 1961年
「クロトン」 1961年頃
そして代表作の「アダンの海辺」 1969年
この絵を見に展覧会にきたといっても過言ではない。南国というより違う惑星の風景のようであり、そして果物を描いた絵なのに、もっと宇宙的な生命体を連想してしまう存在感がある。まあとにかくトリップできるいい絵である。パソコンでブログを読んでいるならクリックで拡大して眺めましょう。砂浜や波の描写にも見入ってしまうはず。
参考までに一村が描いた動植物を写真で。

色紙に描かれた奄美大島の風景。
「奄美の海」 1975年
「奄美風景」 1975年
「奄美冬彩」 1975年
ところでこの写真は、何年か前にフランスで開かれた日本展に出品された一村の作品。実はこんなふうに一村の和風トロピカルワールドを満喫できると思っていたのだが、大作・力作は「アダンの海辺」しかなかったのがちょっと肩すかし。今回は美術館収蔵の作品を展示するという企画趣旨なのだろうが、もう少しサービス精神が欲しかったな。
奄美大島には田中一村記念美術館があって、かなりの作品が揃っているらしい。
コロナが収まったらGO TOでも利用して行ってみるか(^^ゞ
おしまい
そして第4章の「一村誕生、心機一転の戦後」というコーナーに移る。ちなみに彼の本名は田中孝で、画号としては1947年39歳まで田中米邨(べいそん)を使用。
名前を一村と改めた1947年(昭和22年)にはメジャーなコンクールに入選するものの、その後は前回に書いたように鳴かず飛ばずの日々が続く。だからタイトルに「心機一転」とあるが、それが何を指しているかよくわからない。そして残念なのは展示されていた作品がいわゆる小作品がほとんどで、コンクール出品級の大作・力作がなかったこと。これはこの展覧会全般に言えることでもある。
1955年(昭和30年)に一村は九州・四国・紀州などへスケッチ旅行に出かける。この旅行によって南国に魅せられたようで、それが奄美大島移住につながったのだと思う。
旅土産の色紙という一画が設けられていた。
「筑波山」 1955年
「新緑 北日向」 1955年
「室戸 奇巌」 1955年
そしていよいよ1958年(昭和33年)に50歳にして単身で奄美大島に移住。どうして奄美大島なのかの資料は見つからなかったが、当時、沖縄はまだアメリカ占領下で、沖縄の北側にある奄美大島が日本の最南端だったからだと思う。
「仁戸名蒼天」 1960年頃
何となく南国っぽいが、これは千葉の風景。奄美大島から一時的に千葉へ戻った時の作品。仁戸名は千葉の地名で、蒼天は青空または春の空。
第5章 奄美へ アダンへの道
「クロトンとカヤツリグサ」
制作時期が不明だからか第4章に展示されていたが、これは南国でしょう。
「アカショウビン」 1961年
「クロトン」 1961年頃
そして代表作の「アダンの海辺」 1969年
この絵を見に展覧会にきたといっても過言ではない。南国というより違う惑星の風景のようであり、そして果物を描いた絵なのに、もっと宇宙的な生命体を連想してしまう存在感がある。まあとにかくトリップできるいい絵である。パソコンでブログを読んでいるならクリックで拡大して眺めましょう。砂浜や波の描写にも見入ってしまうはず。
参考までに一村が描いた動植物を写真で。

色紙に描かれた奄美大島の風景。
「奄美の海」 1975年
「奄美風景」 1975年
「奄美冬彩」 1975年
ところでこの写真は、何年か前にフランスで開かれた日本展に出品された一村の作品。実はこんなふうに一村の和風トロピカルワールドを満喫できると思っていたのだが、大作・力作は「アダンの海辺」しかなかったのがちょっと肩すかし。今回は美術館収蔵の作品を展示するという企画趣旨なのだろうが、もう少しサービス精神が欲しかったな。
奄美大島には田中一村記念美術館があって、かなりの作品が揃っているらしい。
コロナが収まったらGO TOでも利用して行ってみるか(^^ゞ
おしまい
wassho at 21:29|Permalink│Comments(0)│
2021年01月18日
田中一村展 千葉市美術館収蔵全作品 その2
ところで、この展覧会はタイトルがやたら長い。
正式名称は、
千葉市美術館拡張リニューアルオープン・開館25周年記念
千葉市制100周年記念
川村コレクション受贈記念
田中一村展 ー 千葉市美術館収蔵全作品
と67文字もある。
この美術館がオープンしたのは1995年(平成7年)11月で、千葉市中央区の区役所との複合施設としてのスタートだった。その区役所が2019年に別の建物に移転し、展示スペースなどを拡張するリニューアル工事が完成したのが2020年7月。その7月に開催された展覧会が「リニューアルオープン・開館25周年記念」なのは当然として、その次の9月の展覧会、そして3つ目となる2021年1月からのこの展覧会でも「リニューアルオープン・開館25周年記念」を名乗っているのは、ちょっと引っ張りすぎかな。
「千葉市制100周年記念」は展覧会とは何の関係もないが、市立美術館としては入れざるを得なかったのかもしれない。そういうセンスが役所仕事的。
「川村コレクション受贈記念」というのは上記と較べれば、サブタイトルとする価値がある内容。一村は30歳の時(1938年:昭和13年)、母方の叔父である川村幾三氏を頼って千葉に移住する。彼は一村にとって最大の理解者であり支援者。だから川村家には一村の作品が多く残されていて、それらが2018年にこの美術館に寄贈や寄託されたとのこと。この展覧会の作品数は130点で、そのうち川村コレクションが半分ほどを占めているから相当な割合である。
また川村コレクション以外に、前回の投稿に書いた2010年の展覧会以降に収蔵された作品もかなり増えてきたので、一度まとめてお見せしましょうというのが「千葉市美術館収蔵全作品」という企画趣旨。サブタイトルとするには文章表現として芸がない気もするが。
というわけで手持ちの作品だけでこれだけの回顧展が開けるのだから、この美術館のコレクションはたいしたもの。ただし一村の絵の変遷についてはよく理解できたものの、物足りない部分もあった。それはまた後ほど。
第1章 若き南画家の活躍
南画(文人画ともいう)とは何ぞやというのはさておいて、一村は幼い頃から南画に才能を発揮して神童と呼ばれたりする。しかし大正時代になって南画は流行らなくなり、そこであれこれ新しい画風を模索。しかし画壇からは認められず展覧会にも落選続きで、失意のうちに奄美大島へいわば都落ち。そこで後に日本のゴーギャンと称された画風を確立するが、世間には知られないままに世を去るというのが彼の超簡単な略歴。
この展覧会にあったのは神童レベルじゃないと思うし、
南画というにはかなりモダンな画風かな。
「つゆ草にコオロギ」 1921年
コオロギはツユクサの一番上に一匹だけ描かれている。
「鉄網珊瑚(紅梅図)」 1926年
上の作品から5年後に描かれている。画風が変化するのはあり得るとして、文字の形がまったく違うのが興味深い。筆跡判定できないね(^^ゞ
「山水図 略擬雲林筆意」 1930年
第2章 昭和初期の新展開
「浅き春」 1931年
「椿図屏風」 1931年
24歳で描かれた一村の転換点とされる作品。ぱっと見はド迫力なんだけれど、よく見ると意外と繊細に描かれている。派手なだけじゃなくて、何か切実に訴えてくるものが感じられる。他の作品と較べてかなり画風が違うが、他にもこんな作品があるなら見てみたい。
なおこの屏風は2曲1双、つまり2つ折れの屏風が左右でワンセットであるが、左隻(左側)の屏風には金箔が貼られているだけで何も描かれていない。そういう作品なのか制作途中だったのかなどは不明らしい。
次の作品は正確な制作時期が不明。ところで牡丹の花には見えないし、彼岸花は絵の片隅に描かれているだけで、「つゆ草にコオロギ」と同じくタイトルと内容の不一致がビミョーに気になる。でも絵としては日本画のワンパターン感がなくて、けっこう好きな部類。
「牡丹図」
「彼岸花」
第3章 千葉へ
翡翠とはカワセミの別名。それはいいとして、この柿も牡丹の花と同じく、あまり柿には見えない。昔の柿はこんなふうに縦長だったのかな。
「翡翠図」
「柿」
風景画は何となく南画の雰囲気も残っている。これらは千葉の風景という括りで紹介されていたが、これが千葉ですといわれてもなあ(^^ゞ 例によって野梅はメインではなく画面下に小さく描かれている。一村のネーミングパターンが読めてきたかも。「はさ場」とは刈り取った稲を干す場所ね。
「夕日」 1941〜42年頃
「千葉寺はさ場」 1945年頃
「黄昏野梅」 1947年頃
ーーー続く
正式名称は、
千葉市美術館拡張リニューアルオープン・開館25周年記念
千葉市制100周年記念
川村コレクション受贈記念
田中一村展 ー 千葉市美術館収蔵全作品
と67文字もある。
この美術館がオープンしたのは1995年(平成7年)11月で、千葉市中央区の区役所との複合施設としてのスタートだった。その区役所が2019年に別の建物に移転し、展示スペースなどを拡張するリニューアル工事が完成したのが2020年7月。その7月に開催された展覧会が「リニューアルオープン・開館25周年記念」なのは当然として、その次の9月の展覧会、そして3つ目となる2021年1月からのこの展覧会でも「リニューアルオープン・開館25周年記念」を名乗っているのは、ちょっと引っ張りすぎかな。
「千葉市制100周年記念」は展覧会とは何の関係もないが、市立美術館としては入れざるを得なかったのかもしれない。そういうセンスが役所仕事的。
「川村コレクション受贈記念」というのは上記と較べれば、サブタイトルとする価値がある内容。一村は30歳の時(1938年:昭和13年)、母方の叔父である川村幾三氏を頼って千葉に移住する。彼は一村にとって最大の理解者であり支援者。だから川村家には一村の作品が多く残されていて、それらが2018年にこの美術館に寄贈や寄託されたとのこと。この展覧会の作品数は130点で、そのうち川村コレクションが半分ほどを占めているから相当な割合である。
また川村コレクション以外に、前回の投稿に書いた2010年の展覧会以降に収蔵された作品もかなり増えてきたので、一度まとめてお見せしましょうというのが「千葉市美術館収蔵全作品」という企画趣旨。サブタイトルとするには文章表現として芸がない気もするが。
というわけで手持ちの作品だけでこれだけの回顧展が開けるのだから、この美術館のコレクションはたいしたもの。ただし一村の絵の変遷についてはよく理解できたものの、物足りない部分もあった。それはまた後ほど。
第1章 若き南画家の活躍
南画(文人画ともいう)とは何ぞやというのはさておいて、一村は幼い頃から南画に才能を発揮して神童と呼ばれたりする。しかし大正時代になって南画は流行らなくなり、そこであれこれ新しい画風を模索。しかし画壇からは認められず展覧会にも落選続きで、失意のうちに奄美大島へいわば都落ち。そこで後に日本のゴーギャンと称された画風を確立するが、世間には知られないままに世を去るというのが彼の超簡単な略歴。
この展覧会にあったのは神童レベルじゃないと思うし、
南画というにはかなりモダンな画風かな。
「つゆ草にコオロギ」 1921年
コオロギはツユクサの一番上に一匹だけ描かれている。
「鉄網珊瑚(紅梅図)」 1926年
上の作品から5年後に描かれている。画風が変化するのはあり得るとして、文字の形がまったく違うのが興味深い。筆跡判定できないね(^^ゞ
「山水図 略擬雲林筆意」 1930年
第2章 昭和初期の新展開
「浅き春」 1931年
「椿図屏風」 1931年
24歳で描かれた一村の転換点とされる作品。ぱっと見はド迫力なんだけれど、よく見ると意外と繊細に描かれている。派手なだけじゃなくて、何か切実に訴えてくるものが感じられる。他の作品と較べてかなり画風が違うが、他にもこんな作品があるなら見てみたい。
なおこの屏風は2曲1双、つまり2つ折れの屏風が左右でワンセットであるが、左隻(左側)の屏風には金箔が貼られているだけで何も描かれていない。そういう作品なのか制作途中だったのかなどは不明らしい。
次の作品は正確な制作時期が不明。ところで牡丹の花には見えないし、彼岸花は絵の片隅に描かれているだけで、「つゆ草にコオロギ」と同じくタイトルと内容の不一致がビミョーに気になる。でも絵としては日本画のワンパターン感がなくて、けっこう好きな部類。
「牡丹図」
「彼岸花」
第3章 千葉へ
翡翠とはカワセミの別名。それはいいとして、この柿も牡丹の花と同じく、あまり柿には見えない。昔の柿はこんなふうに縦長だったのかな。
「翡翠図」
「柿」
風景画は何となく南画の雰囲気も残っている。これらは千葉の風景という括りで紹介されていたが、これが千葉ですといわれてもなあ(^^ゞ 例によって野梅はメインではなく画面下に小さく描かれている。一村のネーミングパターンが読めてきたかも。「はさ場」とは刈り取った稲を干す場所ね。
「夕日」 1941〜42年頃
「千葉寺はさ場」 1945年頃
「黄昏野梅」 1947年頃
ーーー続く
wassho at 20:29|Permalink│Comments(0)│
2021年01月16日
田中一村展 千葉市美術館収蔵全作品
田中一村(いっそん)のことは10年ほど前に、今回と同じ千葉市立美術館で開かれた展覧会の情報で初めて知った。興味を引かれたが、ちょっと千葉までは遠いなあと思っているうちに行きそびれてしまう。2018年には生誕110年ということでNHKの日曜美術館でも取り上げられたし、佐川美術館で大規模な展覧会があった。何となく「この画家の絵は見なくちゃならない」という確信のようなものを感じたものの、佐川美術館は滋賀県にあるので(/o\)
というわけで3度目の正直のような田中一村展。コロナで緊急事態宣言発令中ではあるが、密な事態にはなるまいと14日に千葉まで出かけてきた。
田中一村は1908年(明治41年)生まれで1977年(昭和52年)に69歳で没した。東京美術学校(現・東京芸術大学)の日本画科では東山魁夷と同期。生前はほとんど評価されなかったので日本のゴッホと呼ばれたり、また後年は奄美大島に移りトロピカルな題材のものを描いたので日本のゴーギャンと言われることもある。しかし、そろそろ日本の〇〇という西洋コンプレックス丸出しの表現はやめたほうがいいと思うのだが。
栃木県生まれの田中一村であるが、画業的には東京時代、千葉時代(1938年〜1958年)、奄美大島時代(1958年〜1977年)に分けられる。それで千葉に20年間住んでいたことから、千葉では県民画家扱いで千葉市美術館はかなりのコレクションを有している。
撮影年月日は不明であるが、奄美大島時代の田中一村。
かなりガリガリでも生気溢れるイメージ。
さて千葉市美術館は千葉のど真ん中、千葉駅の近くにある。考えてみると千葉県のあちこちにはクルマやバイクで数え切れないくらい出かけたが、電車では初めてだし、だいたい千葉の中心部には今まで行ったことがない。本日は意外な人生初体験(^^ゞ
当然、東京駅からJRで行くものだと思っていたが、乗り換え案内で調べると、渋谷からだと地下鉄半蔵門線で錦糸町まで行き、そこでJRに乗り換えろとの指示だった。それでそうしたのだが、渋谷から錦糸町までって30分もかかる。渋谷と錦糸町を直線で結んだ中間あたりに東京駅があるのだから、本当にこれが一番早かったのかな?
JR錦糸町駅のホームに上がるとスカイツリーが目の前に見えた。
何となくうれしい。
総武線の快速に乗って千葉駅まで、さらに32分。
はるばるやってきたという感じで千葉に到着。
千葉市美術館は千葉駅東口から
徒歩15分
バスだと下車してから徒歩3分
モノレールだと下車してから徒歩5分
と案内にあった。初千葉なので歩いて行くことに。
千葉駅東口。
iPhone12miniの超広角モードは35mm換算で14mm。私の持っているミラーレスカメラの広角ズームレンズが35mm換算で15mm〜36mmで、それよりも広いのだからビックリする。20mm以下なんてかなりマニアックな領域だったのに、それがスマホで撮れるのだからすごい時代になったものだ。(35mm換算というのはとりあえず無視して、数字が小さければ広い範囲が写る広角レンズで、数字が大きければ遠くのものが大きく写る望遠レンズと思ってください)
これはモノレールの軌道。見てわかるように千葉のモノレールは吊り下げ式。吊り下げモノレールは乗ったことがないので乗ってみたかった気もする。
駅前大通りというのを歩いて行く。
上の写真で赤くいくつか見えているのは、美術館アッチの標識。
ただしこの標識が美術館まで続いているわけじゃないから、あまり役立たない。
駅前大通りの終端にあるのが千葉市中央公園。
名前は立派でも、まあ単なる広場。
もう少し歩いて美術館に到着。自宅からドア to ドアでジャスト2時間だった。
道路を渡って美術館の全景を撮るのが面倒だったので、ホームページから借用。かっこいいのか悪いのかよくわからないデザインである。
何となく007の映画では爆破されたことになっているMI6(イギリス秘密情報部)のビルを思い出したが、似ているのは中央が高くて階段状になっていることだけだった(^^ゞ
中に入るとこんなレトロな広い場所があった。「さや堂ホール」という名称でコンサートや展覧会に貸し出しているらしい。
後で調べたら、この建物は旧川崎銀行千葉支店を鞘堂方式(古い建物をそのまま抱き込むように新しい建物を建てる)で保存、再生した建物とのこと。そういえば3枚前の写真で建物の右側はモダンだが、円柱の後ろは昔の建物の面影が残っている。
というわけでここは銀行が建てられた1927年(昭和2年)にタイムスリップできる空間。ただし柱の数が左右で違うし、左側の2本は根本が他の柱と別の形なのが不思議。
ーーー続く
というわけで3度目の正直のような田中一村展。コロナで緊急事態宣言発令中ではあるが、密な事態にはなるまいと14日に千葉まで出かけてきた。
田中一村は1908年(明治41年)生まれで1977年(昭和52年)に69歳で没した。東京美術学校(現・東京芸術大学)の日本画科では東山魁夷と同期。生前はほとんど評価されなかったので日本のゴッホと呼ばれたり、また後年は奄美大島に移りトロピカルな題材のものを描いたので日本のゴーギャンと言われることもある。しかし、そろそろ日本の〇〇という西洋コンプレックス丸出しの表現はやめたほうがいいと思うのだが。
栃木県生まれの田中一村であるが、画業的には東京時代、千葉時代(1938年〜1958年)、奄美大島時代(1958年〜1977年)に分けられる。それで千葉に20年間住んでいたことから、千葉では県民画家扱いで千葉市美術館はかなりのコレクションを有している。
撮影年月日は不明であるが、奄美大島時代の田中一村。
かなりガリガリでも生気溢れるイメージ。
さて千葉市美術館は千葉のど真ん中、千葉駅の近くにある。考えてみると千葉県のあちこちにはクルマやバイクで数え切れないくらい出かけたが、電車では初めてだし、だいたい千葉の中心部には今まで行ったことがない。本日は意外な人生初体験(^^ゞ
当然、東京駅からJRで行くものだと思っていたが、乗り換え案内で調べると、渋谷からだと地下鉄半蔵門線で錦糸町まで行き、そこでJRに乗り換えろとの指示だった。それでそうしたのだが、渋谷から錦糸町までって30分もかかる。渋谷と錦糸町を直線で結んだ中間あたりに東京駅があるのだから、本当にこれが一番早かったのかな?
JR錦糸町駅のホームに上がるとスカイツリーが目の前に見えた。
何となくうれしい。
総武線の快速に乗って千葉駅まで、さらに32分。
はるばるやってきたという感じで千葉に到着。
千葉市美術館は千葉駅東口から
徒歩15分
バスだと下車してから徒歩3分
モノレールだと下車してから徒歩5分
と案内にあった。初千葉なので歩いて行くことに。
千葉駅東口。
iPhone12miniの超広角モードは35mm換算で14mm。私の持っているミラーレスカメラの広角ズームレンズが35mm換算で15mm〜36mmで、それよりも広いのだからビックリする。20mm以下なんてかなりマニアックな領域だったのに、それがスマホで撮れるのだからすごい時代になったものだ。(35mm換算というのはとりあえず無視して、数字が小さければ広い範囲が写る広角レンズで、数字が大きければ遠くのものが大きく写る望遠レンズと思ってください)
これはモノレールの軌道。見てわかるように千葉のモノレールは吊り下げ式。吊り下げモノレールは乗ったことがないので乗ってみたかった気もする。
駅前大通りというのを歩いて行く。
上の写真で赤くいくつか見えているのは、美術館アッチの標識。
ただしこの標識が美術館まで続いているわけじゃないから、あまり役立たない。
駅前大通りの終端にあるのが千葉市中央公園。
名前は立派でも、まあ単なる広場。
もう少し歩いて美術館に到着。自宅からドア to ドアでジャスト2時間だった。
道路を渡って美術館の全景を撮るのが面倒だったので、ホームページから借用。かっこいいのか悪いのかよくわからないデザインである。
何となく007の映画では爆破されたことになっているMI6(イギリス秘密情報部)のビルを思い出したが、似ているのは中央が高くて階段状になっていることだけだった(^^ゞ
中に入るとこんなレトロな広い場所があった。「さや堂ホール」という名称でコンサートや展覧会に貸し出しているらしい。
後で調べたら、この建物は旧川崎銀行千葉支店を鞘堂方式(古い建物をそのまま抱き込むように新しい建物を建てる)で保存、再生した建物とのこと。そういえば3枚前の写真で建物の右側はモダンだが、円柱の後ろは昔の建物の面影が残っている。
というわけでここは銀行が建てられた1927年(昭和2年)にタイムスリップできる空間。ただし柱の数が左右で違うし、左側の2本は根本が他の柱と別の形なのが不思議。
ーーー続く
wassho at 19:46|Permalink│Comments(0)│