藤田嗣治
2016年10月26日
レオナール・フジタとモデルたち
10月15日にバイクツーリングで訪れたDIC川村記念美術館のレオナール・フジタ(藤田嗣治)の展覧会の話。藤田嗣治(つぐはる)といえばこのオカッパ頭。どう見ても濃さそうなそのキャラクターとはまったく違う繊細な画風が彼の魅力。藤田嗣治(つぐはる)についての簡単な説明は以前のエントリーをご参照。
いきなり脱線するけれど、いろんな意味でオープンな国といえばまずアメリカを思い浮かべる。しかしフランスあるいはパリというのは、異文化を積極的に受け入れる所だということに最近あらためて気がついた。藤田嗣治の少し前の印象派時代は浮世絵に関心が高かったし、黒澤明や北野武の映画を評価したもの海外ではパリからだ。コム・デ・ギャルソンやイッセイミヤケなんかも同じことがいえる。日本料理に対するリスペクトも高い。何かそういう気質があるのかな。私も日本は窮屈だから、これで話す言葉がフランス語じゃなければ住んでみたい気もするのだが(^^ゞ
さて展覧会のタイトルは「レオナール・フジタとモデルたち」と、描かれているモデル達にスポットを当てた構成になっている。でも普通に回顧展的に作品の変遷を楽しめる内容でもあった。ところで、ほとんどの画家はキャリアの最初の頃は、ごく普通のどこかで見たような絵を描いているものだが、藤田嗣治は最初からかなり個性的だったみたい。次の2つはパリに渡って数年目の作品。
フェルナンドとオウム 1917年
なぜかエジプト的なものが想像され、最初はクレオパトラを描いているのかと思った。フェルナンド・バレーは彼の2度目の奥さんでフランス人。ちなみに最初の奥さんは日本人だった。しかし彼が1913年(大正2年)にフランスへ渡ったことで離婚というか解散ということになったみたい(/o\)
家族 1917年

これはエジプト×モディリアーニ?
二人の女 1918年
先の2つとたった1年しか違わないが、
だんだんとよく知っている藤田嗣治のイメージになってくる。
藤田嗣治は1920年代に「乳白色の肌」と呼ばれる独自の裸婦像でスター画家となる。次の2つは3番目の奥さんであるリュシー(英語読みだとルーシー)・バドゥーがモデル。目の色が2枚で異なるがそれは気にしないでおこう。藤田嗣治は彼女にユキと日本風の名前をつけている。
横たわる女 1923年

ユキの肖像 1928年
こちらは有名モデルだったモンパルナスのキキを描いたもの。最初はキキを描いた絵で藤田嗣治はパリに受け入れられるようになる。(この作品じゃない)
横たわる裸婦 1922年
次の3つは4番目の奥さんであるマドレーヌ・ルクー。彼女は藤田嗣治の帰国にともなって来日し、なんと歌手として日本でレコード・デビューまでしている。まだ外人は珍しかったんだろう。もし音源が残っているなら聴いてみたいものだ。残念ながら身体が弱かったらしく、何度目かの来日の際、1936年に29歳の若さで亡くなっている。藤田嗣治はそれ以降も彼女をモデルに絵を描いていてとても愛していたように思える。しかし実は彼女が亡くなる1年前から、後に5番目の妻となる君代と付き合いだしている。オトコとオンナはいつの時代もワカラナイものである(^^ゞ
眠れる女 1931年
私の夢 1947年
オペラ座の夢 1951年
山田キクの肖像 1926年
藤田嗣治は1920年代に乳白色ばかり描いていたわけではなかった。山田菊(1897年〜1975年)は日本人外交官の父とフランス人の母を持つハーフで、幼少期を日本で過ごし、後にフランスで活躍した作家。1920年代には有名だったらしい。こんな人知らなかったわ。
アンナ・ド・ノアイユの肖像 1926年
この人も知らなかったが著名な詩人であり小説家。フランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章を女性として初めて授与されている人物。ルーマニア貴族の血を引き、また伯爵夫人でもある。本当かどうか確認していないが、フランス人で名前に「ド」が入っているといい家柄だと聞いたことがある。しかし気難しい性格だったらしく、あれこれと描き方に注文をつけ、それで途中で藤田がイヤになって、この作品は製作途中の未完成品扱い。
でも背景はまだ描かれてはいないが、それも何となくこの絵の不思議な魅力になっているように思えて私はとても気に入った。社交界の女王的存在だった彼女のオーラも絵ににじみ出ている。画風的にも乳白色の時代と晩年の精巧な画風がちょうどいい感じでミックスされているように思う。このタイプの藤田の作品は初めて見た。他にも同じようなものがあれば是非見てみたい。
見応えがあった3メートル四方×4枚の大作。いわゆる群像作品。それが乳白色の技法で描かれているのもおもしろい。好みとしては「構図」の対のほう。「争闘」は筋肉の描き方のデフォルメがちょっと漫画チック。絵の中に「ドリャー」とかセリフの吹き出しを入れたくなる。
「争闘」のような筋肉描写は、その後の作品に引き継がれていないから、この作品はある種の実験的なものだったのかもしれない。関係ないけれど闘争ではなく争闘という言葉は初めて目にした。明治や大正の頃はそういう言い方をしていたんだろうか。
ライオンのいる構図 / 犬のいる構図 1928年
争闘 I / 争闘 II 1928年
1931年から藤田は中南米を巡る旅をする。そして2年後に日本に帰国。その頃の作品は従来とはガラッと変わった画風で興味深いものが多かったが、ブログに適当な画像があまり見つからず。
メキシコにおけるマドレーヌ 1934年
自画像 1936年
そして1938年頃から従軍画家として戦地に赴き、いわゆる戦争画の制作を手がける。ストレートな国威発揚モノと違い、藤田嗣治が描くとこうなるのかと思わせる作品が多い。残念ながらこの展覧会では展示されていなかった。戦後になると戦争画の件で批判され、それに嫌気がさして1950年にフランスに戻る。レオナール・フジタはその後にフランスに帰化して以降の名前。ちなみにフジタはFoujitaと綴る。
パリに戻ってからはかなり精緻な画風になってくる。
ジャン・ロスタンの肖像 1955年
カルチエ・ラタンのビストロ 1958年
そして宗教をテーマとした作品も手がけるようになる。そこでも後期の藤田嗣治ワールド全開。この頃は少女の絵が多くて、なぜか鳥の物まねをするように口をすぼめたような表情で描く。ただし次の作品はそういう顔つきをしていない。
花の洗礼 1959年
礼拝 1962〜63年
正直にいうと、この絵を見た時に思わず吹き出してしまった(^^ゞ あのオカッパ頭がまじめな顔をして、しかもひざまずいた修道士の姿で! 私にはどう見ても笑いを取りにいっているようにしか見えないのだが、藤田嗣治にそんな意図はあったのかな。左側の修道女は5番目の奥さんである君代夫人とされる。
デッサン(作品の下絵みたいなもの)を始め、いろんな資料も数多く展示されていた。写真は藤田嗣治が出した手紙やハガキ。読んでみると、もちろん私宛に書かれたものではないのだが、なぜか彼とやりとりしているような感覚になってきて不思議な気分。ただ字が細かいし、かなり崩した筆跡なので内容は大まかにわかった程度。
乳白色を堪能できたし、アンナ・ド・ノアイユという今まで知らないタイプの作品もあり、最後に笑うこともできて?満足度の高い展覧会だった。またポーラ美術館なみにガラガラなのでゆったりと鑑賞できる。藤田嗣治に関心があるなら、少し遠いけれど出かけていって損はない。来年の1月15日まで開催されていて、もう少ししたら美術館の庭で紅葉も楽しめるかもしれない。
いきなり脱線するけれど、いろんな意味でオープンな国といえばまずアメリカを思い浮かべる。しかしフランスあるいはパリというのは、異文化を積極的に受け入れる所だということに最近あらためて気がついた。藤田嗣治の少し前の印象派時代は浮世絵に関心が高かったし、黒澤明や北野武の映画を評価したもの海外ではパリからだ。コム・デ・ギャルソンやイッセイミヤケなんかも同じことがいえる。日本料理に対するリスペクトも高い。何かそういう気質があるのかな。私も日本は窮屈だから、これで話す言葉がフランス語じゃなければ住んでみたい気もするのだが(^^ゞ
さて展覧会のタイトルは「レオナール・フジタとモデルたち」と、描かれているモデル達にスポットを当てた構成になっている。でも普通に回顧展的に作品の変遷を楽しめる内容でもあった。ところで、ほとんどの画家はキャリアの最初の頃は、ごく普通のどこかで見たような絵を描いているものだが、藤田嗣治は最初からかなり個性的だったみたい。次の2つはパリに渡って数年目の作品。
フェルナンドとオウム 1917年
なぜかエジプト的なものが想像され、最初はクレオパトラを描いているのかと思った。フェルナンド・バレーは彼の2度目の奥さんでフランス人。ちなみに最初の奥さんは日本人だった。しかし彼が1913年(大正2年)にフランスへ渡ったことで離婚というか解散ということになったみたい(/o\)
家族 1917年

これはエジプト×モディリアーニ?
二人の女 1918年
先の2つとたった1年しか違わないが、
だんだんとよく知っている藤田嗣治のイメージになってくる。
藤田嗣治は1920年代に「乳白色の肌」と呼ばれる独自の裸婦像でスター画家となる。次の2つは3番目の奥さんであるリュシー(英語読みだとルーシー)・バドゥーがモデル。目の色が2枚で異なるがそれは気にしないでおこう。藤田嗣治は彼女にユキと日本風の名前をつけている。
横たわる女 1923年

ユキの肖像 1928年
こちらは有名モデルだったモンパルナスのキキを描いたもの。最初はキキを描いた絵で藤田嗣治はパリに受け入れられるようになる。(この作品じゃない)
横たわる裸婦 1922年
次の3つは4番目の奥さんであるマドレーヌ・ルクー。彼女は藤田嗣治の帰国にともなって来日し、なんと歌手として日本でレコード・デビューまでしている。まだ外人は珍しかったんだろう。もし音源が残っているなら聴いてみたいものだ。残念ながら身体が弱かったらしく、何度目かの来日の際、1936年に29歳の若さで亡くなっている。藤田嗣治はそれ以降も彼女をモデルに絵を描いていてとても愛していたように思える。しかし実は彼女が亡くなる1年前から、後に5番目の妻となる君代と付き合いだしている。オトコとオンナはいつの時代もワカラナイものである(^^ゞ
眠れる女 1931年
私の夢 1947年
オペラ座の夢 1951年
山田キクの肖像 1926年
藤田嗣治は1920年代に乳白色ばかり描いていたわけではなかった。山田菊(1897年〜1975年)は日本人外交官の父とフランス人の母を持つハーフで、幼少期を日本で過ごし、後にフランスで活躍した作家。1920年代には有名だったらしい。こんな人知らなかったわ。
アンナ・ド・ノアイユの肖像 1926年
この人も知らなかったが著名な詩人であり小説家。フランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章を女性として初めて授与されている人物。ルーマニア貴族の血を引き、また伯爵夫人でもある。本当かどうか確認していないが、フランス人で名前に「ド」が入っているといい家柄だと聞いたことがある。しかし気難しい性格だったらしく、あれこれと描き方に注文をつけ、それで途中で藤田がイヤになって、この作品は製作途中の未完成品扱い。
でも背景はまだ描かれてはいないが、それも何となくこの絵の不思議な魅力になっているように思えて私はとても気に入った。社交界の女王的存在だった彼女のオーラも絵ににじみ出ている。画風的にも乳白色の時代と晩年の精巧な画風がちょうどいい感じでミックスされているように思う。このタイプの藤田の作品は初めて見た。他にも同じようなものがあれば是非見てみたい。
見応えがあった3メートル四方×4枚の大作。いわゆる群像作品。それが乳白色の技法で描かれているのもおもしろい。好みとしては「構図」の対のほう。「争闘」は筋肉の描き方のデフォルメがちょっと漫画チック。絵の中に「ドリャー」とかセリフの吹き出しを入れたくなる。
「争闘」のような筋肉描写は、その後の作品に引き継がれていないから、この作品はある種の実験的なものだったのかもしれない。関係ないけれど闘争ではなく争闘という言葉は初めて目にした。明治や大正の頃はそういう言い方をしていたんだろうか。
ライオンのいる構図 / 犬のいる構図 1928年
争闘 I / 争闘 II 1928年
1931年から藤田は中南米を巡る旅をする。そして2年後に日本に帰国。その頃の作品は従来とはガラッと変わった画風で興味深いものが多かったが、ブログに適当な画像があまり見つからず。
メキシコにおけるマドレーヌ 1934年
自画像 1936年
そして1938年頃から従軍画家として戦地に赴き、いわゆる戦争画の制作を手がける。ストレートな国威発揚モノと違い、藤田嗣治が描くとこうなるのかと思わせる作品が多い。残念ながらこの展覧会では展示されていなかった。戦後になると戦争画の件で批判され、それに嫌気がさして1950年にフランスに戻る。レオナール・フジタはその後にフランスに帰化して以降の名前。ちなみにフジタはFoujitaと綴る。
パリに戻ってからはかなり精緻な画風になってくる。
ジャン・ロスタンの肖像 1955年
カルチエ・ラタンのビストロ 1958年
そして宗教をテーマとした作品も手がけるようになる。そこでも後期の藤田嗣治ワールド全開。この頃は少女の絵が多くて、なぜか鳥の物まねをするように口をすぼめたような表情で描く。ただし次の作品はそういう顔つきをしていない。
花の洗礼 1959年
礼拝 1962〜63年
正直にいうと、この絵を見た時に思わず吹き出してしまった(^^ゞ あのオカッパ頭がまじめな顔をして、しかもひざまずいた修道士の姿で! 私にはどう見ても笑いを取りにいっているようにしか見えないのだが、藤田嗣治にそんな意図はあったのかな。左側の修道女は5番目の奥さんである君代夫人とされる。
デッサン(作品の下絵みたいなもの)を始め、いろんな資料も数多く展示されていた。写真は藤田嗣治が出した手紙やハガキ。読んでみると、もちろん私宛に書かれたものではないのだが、なぜか彼とやりとりしているような感覚になってきて不思議な気分。ただ字が細かいし、かなり崩した筆跡なので内容は大まかにわかった程度。
乳白色を堪能できたし、アンナ・ド・ノアイユという今まで知らないタイプの作品もあり、最後に笑うこともできて?満足度の高い展覧会だった。またポーラ美術館なみにガラガラなのでゆったりと鑑賞できる。藤田嗣治に関心があるなら、少し遠いけれど出かけていって損はない。来年の1月15日まで開催されていて、もう少ししたら美術館の庭で紅葉も楽しめるかもしれない。
wassho at 23:32|Permalink│Comments(0)│
2013年11月07日
ポーラ美術館のガラス工芸展と藤田嗣治の新コレクション
書くのが少し後になってしまったが10月27日に出かけた箱根・仙石原ツーリングのパート4で、ポーラ美術館のモネ展パート2である。
さて
モネ展と同時に開催されているのが「ガラス工芸名作選」という展示会。ポーラ美術館はガラス工芸品のコレクションにも力を入れているみたい。
「草花文耳付花器」 エミール・ガレ

「風景文花器」 エミール・ガレ

「アザミ文花器」 エミール・ガレ

「葡萄とカタツムリ文花器」 ドーム兄弟

「蜻蛉文ランプ」 ルイス・C・ティファニー

エミール・ガレの名前くらいは知っているし、作品もいくつか見たことはある。でもこの分野にほとんど知識はなく、今まで関心もなかった。ちなみにルイス・C・ティファニーとは、あのティファニーの二代目だそうである。展示は全部で50点以上はあったと思う。一部はモネ展の中でも並べられていた。
これらは1900年前後(明治の中頃)に作られたアール・ヌーヴォー様式。アール・ヌーヴォーはフランス語なので英語に置き換えればArt New。つまり新しい芸術という意味。何に対して新しいのかはよく知らないが、とにかく柔らかくて優雅な曲線と、花とか昆虫が模様としてよく使われているのが特徴。ついでに日本人的にはよく似た言葉でこんがらがるのがアール・デコ。デコはデコレーションの略だから直訳すれば装飾芸術。アール・ヌーボーより30年くらい後に流行した様式。どちらかといえば直線的、幾何学的な形が多くてちょっと派手で前衛的。もちろん今の視点で見ればヌーボーもデコもどちらもレトロな感じを受けるが。
この時代のガラス作品をまとめてみたのは初めてである。
感想その1
なかなかエエヤン!
理屈抜きにキレイだし、壺とか茶碗とか陶器の骨董品のようなコムツカシさはない。それでいて100年ほど経ったヴィンテージ感も趣として感じる。こんなものが自宅に飾ってあれば楽しいと思う。
感想その2
こういうものって、どうして日本で発達しなかったんだろう。
なんとなく残念。
もうひとつモネ展と同時に開催されていたのが、ポーラ美術館が最近コレクションに加えた藤田嗣治(つぐはる)の3作品。同館の藤田コレクションは国内では一番大きいといわれている。
「グロテスク」
あまりグロテスクな雰囲気はしない。じっくり眺めたくなる絵でもないが、Tシャツにでも刷ればおもしろそう。ある意味ポップな印象。
「シレーヌ」
シレーヌはギリシャ神話に出てくる海の怪物で、美しい歌声で船員を惑わし船を難破させる。まあ悪役キャラだったのだが、いつのまにか人魚の意味になってロマンティックなニュアンスに今はなっている。藤田嗣治の描いたのは怖い方のシレーヌかな。歌い出すと口裂け女になりそう。
この2作品は藤田嗣治の晩年の作品で、一般公開されるのは今回が初めてとのこと。
「キュビスム風静物」
上の2作品とは逆に、これはまだ藤田嗣治が無名だった初期の作品。彼がパリに渡ったのは、ピカソがキュビスムという描き方で一世を風靡していた時期に重なる。タイトルにキュビスム風と「ふう」を付けているから、キュビスム勉強中ということだろう。
キュビスムはフランス語読み。英語読みだとキュビズム、あるいはキュービズムとなる。英語のスペルはCubismで、これはCube(立方体)とism(主義)の合成語で直訳すれば立方体主義。簡略化して立体主義とか立体派ともいう。キュビスムは20世紀で最も重要なトレンドだったといわれる。
ーーーなのであるが、これがやたら難解なのである。
私なりに噛み砕いて解説すると(信憑性35%くらいかな)、
1)
物体はいくつかの要素やパーツに分解することができる。例えば顔なら、目や鼻や口など。
2)
また物体は視点を変えれば違う形に見える。たとえば正面の顔と横顔の形はまったく違うが、どちらも同じ顔である。
3)
なんてことをウニウニと考え、分解した要素やパーツを抽象化したり、デフォルメ(変形)したりする。またいくつかの視点から物体を眺めると違う形に見えるが、絵という二次元表現の1枚に落とし込むには、最後にそれらを無理やり統合しなければならない。
それで出来上がるのがこんな絵。
これはピカソの「泣く女」という作品でキュビスムだけじゃなく、さらにシュルレアリスム(超現実主義)も入っている。※今回の展示会とは関係ない
私はキュビズムが苦手だし好きじゃない。描くという行為のひとつの方向として、こういう考え方もあることは認めるとして、私が絵に求めているものとはずいぶん違う。とりあえず藤田嗣治が、こっちの趣味に走ってくれなくてよかった。
ーーーおしまい。
さて
モネ展と同時に開催されているのが「ガラス工芸名作選」という展示会。ポーラ美術館はガラス工芸品のコレクションにも力を入れているみたい。
「草花文耳付花器」 エミール・ガレ

「風景文花器」 エミール・ガレ

「アザミ文花器」 エミール・ガレ

「葡萄とカタツムリ文花器」 ドーム兄弟

「蜻蛉文ランプ」 ルイス・C・ティファニー

エミール・ガレの名前くらいは知っているし、作品もいくつか見たことはある。でもこの分野にほとんど知識はなく、今まで関心もなかった。ちなみにルイス・C・ティファニーとは、あのティファニーの二代目だそうである。展示は全部で50点以上はあったと思う。一部はモネ展の中でも並べられていた。
これらは1900年前後(明治の中頃)に作られたアール・ヌーヴォー様式。アール・ヌーヴォーはフランス語なので英語に置き換えればArt New。つまり新しい芸術という意味。何に対して新しいのかはよく知らないが、とにかく柔らかくて優雅な曲線と、花とか昆虫が模様としてよく使われているのが特徴。ついでに日本人的にはよく似た言葉でこんがらがるのがアール・デコ。デコはデコレーションの略だから直訳すれば装飾芸術。アール・ヌーボーより30年くらい後に流行した様式。どちらかといえば直線的、幾何学的な形が多くてちょっと派手で前衛的。もちろん今の視点で見ればヌーボーもデコもどちらもレトロな感じを受けるが。
この時代のガラス作品をまとめてみたのは初めてである。
感想その1
なかなかエエヤン!
理屈抜きにキレイだし、壺とか茶碗とか陶器の骨董品のようなコムツカシさはない。それでいて100年ほど経ったヴィンテージ感も趣として感じる。こんなものが自宅に飾ってあれば楽しいと思う。
感想その2
こういうものって、どうして日本で発達しなかったんだろう。
なんとなく残念。
もうひとつモネ展と同時に開催されていたのが、ポーラ美術館が最近コレクションに加えた藤田嗣治(つぐはる)の3作品。同館の藤田コレクションは国内では一番大きいといわれている。
「グロテスク」
あまりグロテスクな雰囲気はしない。じっくり眺めたくなる絵でもないが、Tシャツにでも刷ればおもしろそう。ある意味ポップな印象。
「シレーヌ」
シレーヌはギリシャ神話に出てくる海の怪物で、美しい歌声で船員を惑わし船を難破させる。まあ悪役キャラだったのだが、いつのまにか人魚の意味になってロマンティックなニュアンスに今はなっている。藤田嗣治の描いたのは怖い方のシレーヌかな。歌い出すと口裂け女になりそう。
この2作品は藤田嗣治の晩年の作品で、一般公開されるのは今回が初めてとのこと。
「キュビスム風静物」
上の2作品とは逆に、これはまだ藤田嗣治が無名だった初期の作品。彼がパリに渡ったのは、ピカソがキュビスムという描き方で一世を風靡していた時期に重なる。タイトルにキュビスム風と「ふう」を付けているから、キュビスム勉強中ということだろう。
キュビスムはフランス語読み。英語読みだとキュビズム、あるいはキュービズムとなる。英語のスペルはCubismで、これはCube(立方体)とism(主義)の合成語で直訳すれば立方体主義。簡略化して立体主義とか立体派ともいう。キュビスムは20世紀で最も重要なトレンドだったといわれる。
ーーーなのであるが、これがやたら難解なのである。
私なりに噛み砕いて解説すると(信憑性35%くらいかな)、
1)
物体はいくつかの要素やパーツに分解することができる。例えば顔なら、目や鼻や口など。
2)
また物体は視点を変えれば違う形に見える。たとえば正面の顔と横顔の形はまったく違うが、どちらも同じ顔である。
3)
なんてことをウニウニと考え、分解した要素やパーツを抽象化したり、デフォルメ(変形)したりする。またいくつかの視点から物体を眺めると違う形に見えるが、絵という二次元表現の1枚に落とし込むには、最後にそれらを無理やり統合しなければならない。
それで出来上がるのがこんな絵。
これはピカソの「泣く女」という作品でキュビスムだけじゃなく、さらにシュルレアリスム(超現実主義)も入っている。※今回の展示会とは関係ない
私はキュビズムが苦手だし好きじゃない。描くという行為のひとつの方向として、こういう考え方もあることは認めるとして、私が絵に求めているものとはずいぶん違う。とりあえず藤田嗣治が、こっちの趣味に走ってくれなくてよかった。
ーーーおしまい。
wassho at 23:32|Permalink│Comments(0)│
2013年09月26日
バイクで美術館巡り 2
観音崎・横須賀美術館裏の公園を少し探検した後に、次の目的地である神奈川県立近代美術館の葉山館に向かう。本館は鎌倉にある。横須賀美術館と同じく、葉山館も2003年にオープンした割と新しい美術館である。
観音崎から葉山へは三浦半島を縦断している県道27号が最短距離だが、のんびりと134号線で三浦海岸を眺めながらツーリング。海岸沿いを走った後、内陸部に入った134号線は26号線との交差点で北に進路を変えて湘南方面に向かう。ところで北向きに曲がったとたん私と逆方向、つまり南に向かう26号線の車線はビッシリと長蛇の列だった。ノロノロ運転じゃなくて、ほとんどクルマが動いていない。たぶん三崎に向かうマグロ渋滞かな。ちょうど正午頃だったけど、あんな渋滞じゃマグロを食べるのは夕ご飯になっちゃうよ(^^ゞ
その後、三浦半島の西海岸沿いに降りて、秋谷や長者ヶ崎など見慣れた湘南の海岸を横目に見て葉山に到着。葉山館は葉山御用邸の隣の隣くらいの場所にある。
神奈川県立近代美術館・葉山館
駐車場はあまり広くない。
出た! 宿敵インスタレーション(^^ゞ
「作品には手を触れないでください」と書いてある。どちらかといえば蹴っ飛ばしたい。やっぱりこれも「アート」として「購入」したものなんだろうな。私もモダンアートのアーティストになれば楽して稼げたかも。
エントランス。
建物はコンクリート(石張り)とガラスを組み合わせた、いわゆるシンプルでモダンなデザインという奴。どこへ行ってもこんなデザインばっかりだ。日本の建築家には個性とか創造性とかはないのか。あるいは発注側にセンスがなかったり無難志向だとこうなるのかな。とりあえず写真にでも撮っておかないと、次の日にはどんな建物だったか思い出せなくなる。
中庭。
シンプルで素敵ですね、何も考えずとも出来上がっちゃいますね(^^ゞ
左側の建物はレストランと売店。
横須賀美術館もここも売店はあまり充実していなかった。
この葉山館は常設展はなく企画展のみ。現在開催されているのは「戦争/美術 1940-1950」。副題に「モダニズムの連鎖と変容」という美術業界っぽい言葉が並ぶ。
まあ今回は見たい展示会だから来たのではなく、ツーリングの目的地というか余興として2つの美術館を選んだといういきさつ。つまり展示会の選り好みはしていない。しかし「戦争の悲惨さを描いた、暗かったり悲しかったりグロテスクな絵ばっかりだったらイヤだなあ」と現地に着いてから心配になる。
結論から言うと戦争をテーマとした展示会ではなく、いろんな画家の1940年から50年に描かれた作品を見て、戦中と戦後のその時代(真珠湾攻撃が1941年、終戦が1945年)が絵や画家に与えた影響を読み取りましょうというような趣旨らしい。結果的に戦争がらみの作品も含まれるけれど、その割合はタイトルからイメージするほど多くはなかった。
松本竣介 「建物」
特にヒネリもなく、線を引いて色を塗っただけのような絵。小学生でも描けそうなのだが不思議なオーラがあった。ところでこの絵の制作は1935年。この美術館はタイトルにはあまりこだわらないらしい。
松本竣介 「立てる像」
描かれているのは本人だから自画像ともいえる。「すくっと立つ」というのはこういうことかと思うリキミのなさ。松本竣介の作品は他にも5〜6点展示されていた。全体的に少し暗いというか重めの画風であるがなかなか気に入った。
ところでこの作品、本人が着ている上着はどうもGジャンっぽい。ブログに貼った写真ではわかりにくいと思うが、生地はジーンズっぽい色だったし、白いステッチやメタルの大きなボタンもGジャンのスタイルである。
この作品の制作は1942年で戦中。Gパンは戦後に進駐軍によってもたらされたと聞かされていたし、Gジャンなんてものはもっと後にできたものと思っていた。一般的には白州次郎がはじめてGパンを履いた日本人ということになっている。しかし、それも戦後の話。この絵のズボンがGパンかどうかは上着ほどハッキリは見て取れない。でもGジャンを着たならGパンも履いたでしょう。ということで松本竣介を初めてジーンズを着こなした日本人と称することにしよう。
藤田嗣治(つぐはる) 「ソロモン海域に於ける米兵の末路」
ここに貼り付けたものより実際の絵はもっと暗い。かなり大きな絵だが、近づいてみるまで何が書いてあるかわからなかった。いわゆる軍が戦争プロパガンダのために描かせた戦争画。でもそんな背景を抜きにして眺めれば、藤田嗣治の力量を感じさせる絵でもある。箱根で見た彼の作品とはまったく違う。でも描かれているのがあまり米兵には見えないのはナゼ?

ちなみに藤田嗣治の生涯を超簡単にまとめると
1913年にパリに渡り、1920年頃にはスーパースターとなる。
1935年頃日本に帰国。戦争画をたくさん描く。
戦後に戦争画を描いたことを批判され、パリに戻りフランス国籍を取得し永住。
となる。
内田巌(いわお) 「裸婦」
どこがよかったのか説明するのは難しいが、何となくよかった。

この内田巌は戦争画の件で藤田嗣治を批判した代表的人物。そんな二人の絵を同じ展示会で眺められるなんて平和で幸せである。
この展示会は1940年から50年に描かれた作品を見ていろいろ考えよう、感じようということである。でも本当は、単にその時代の絵を集めただけでテーマは後から考えたんじゃないかという気もする。だから唐突にこんな絵も展示されている↓↓↓
横山大観 「日本心神(富士山)」

この展示会の中で一番有名な画家の作品ではあるが、なんとなく浮いていた感は否めない。展示する必然性があったのか疑問。
朝井閑右衛門(かんうえもん) 「丘の上」
変態っぽくて素敵(^^ゞ
朝井閑右衛門は横須賀美術館でもたくさん展示されていた。大阪生まれだが横須賀や鎌倉に住んでいた時代が長いから、このあたりの地元の画家的存在なのだろう。どの絵もおもしろかった。絵に共通する作風はなく、好きな時に描きたいものを描いたという感じ。才能と技量が両立していないと、それは難しいはず。また「朝から閑(ひま)」だから閑右衛門と名乗ったらしく、シャレもわかる人だったようである。
内田巌(いわお) 「母の像」
今回、一番印象に残ったのがこの作品である。絵の善し悪しというよりも、こういう作品は日本人にしか描けない〜欧米に持っていったらウケルに違いないーーーという職業柄のさもしい発想から。畳の日本間に掛けられていたら遺影にしか見えなが、ヨーロッパの古い大邸宅の暖炉の上にでもあれば、そこだけ異空間になりそうである。

靉光(あいみつ) 「畠山雅介氏の像」
何となく名前も画風も中国っぽいが、本名は石村日郎(にちろう)という日本人の作品。目を引いたのは上の絵と同じような理由。眺めているうちにけっこう引き込まれる。繊細さの極地のような絵。それにしてもシャツがブカブカだ。
展示作品数はかなり多い。途中で述べたようにまとまりのない展示会で、逆にいえばいろんなタイプの絵を見られるから飽きない。人もあまりいないから、ゆったりと眺められる。それと横須賀美術館もそうだったが、展示室内が明るくて気持ちいい。なぜか都内の大型美術館はやたら薄暗いところが多いのである。湘南なんて行き飽きたという人も、たまにはどうぞ。
ーーー続く
観音崎から葉山へは三浦半島を縦断している県道27号が最短距離だが、のんびりと134号線で三浦海岸を眺めながらツーリング。海岸沿いを走った後、内陸部に入った134号線は26号線との交差点で北に進路を変えて湘南方面に向かう。ところで北向きに曲がったとたん私と逆方向、つまり南に向かう26号線の車線はビッシリと長蛇の列だった。ノロノロ運転じゃなくて、ほとんどクルマが動いていない。たぶん三崎に向かうマグロ渋滞かな。ちょうど正午頃だったけど、あんな渋滞じゃマグロを食べるのは夕ご飯になっちゃうよ(^^ゞ
その後、三浦半島の西海岸沿いに降りて、秋谷や長者ヶ崎など見慣れた湘南の海岸を横目に見て葉山に到着。葉山館は葉山御用邸の隣の隣くらいの場所にある。
神奈川県立近代美術館・葉山館
駐車場はあまり広くない。
出た! 宿敵インスタレーション(^^ゞ
「作品には手を触れないでください」と書いてある。どちらかといえば蹴っ飛ばしたい。やっぱりこれも「アート」として「購入」したものなんだろうな。私もモダンアートのアーティストになれば楽して稼げたかも。
エントランス。
建物はコンクリート(石張り)とガラスを組み合わせた、いわゆるシンプルでモダンなデザインという奴。どこへ行ってもこんなデザインばっかりだ。日本の建築家には個性とか創造性とかはないのか。あるいは発注側にセンスがなかったり無難志向だとこうなるのかな。とりあえず写真にでも撮っておかないと、次の日にはどんな建物だったか思い出せなくなる。
中庭。
シンプルで素敵ですね、何も考えずとも出来上がっちゃいますね(^^ゞ
左側の建物はレストランと売店。
横須賀美術館もここも売店はあまり充実していなかった。
この葉山館は常設展はなく企画展のみ。現在開催されているのは「戦争/美術 1940-1950」。副題に「モダニズムの連鎖と変容」という美術業界っぽい言葉が並ぶ。
まあ今回は見たい展示会だから来たのではなく、ツーリングの目的地というか余興として2つの美術館を選んだといういきさつ。つまり展示会の選り好みはしていない。しかし「戦争の悲惨さを描いた、暗かったり悲しかったりグロテスクな絵ばっかりだったらイヤだなあ」と現地に着いてから心配になる。
結論から言うと戦争をテーマとした展示会ではなく、いろんな画家の1940年から50年に描かれた作品を見て、戦中と戦後のその時代(真珠湾攻撃が1941年、終戦が1945年)が絵や画家に与えた影響を読み取りましょうというような趣旨らしい。結果的に戦争がらみの作品も含まれるけれど、その割合はタイトルからイメージするほど多くはなかった。
松本竣介 「建物」
特にヒネリもなく、線を引いて色を塗っただけのような絵。小学生でも描けそうなのだが不思議なオーラがあった。ところでこの絵の制作は1935年。この美術館はタイトルにはあまりこだわらないらしい。
松本竣介 「立てる像」
描かれているのは本人だから自画像ともいえる。「すくっと立つ」というのはこういうことかと思うリキミのなさ。松本竣介の作品は他にも5〜6点展示されていた。全体的に少し暗いというか重めの画風であるがなかなか気に入った。
ところでこの作品、本人が着ている上着はどうもGジャンっぽい。ブログに貼った写真ではわかりにくいと思うが、生地はジーンズっぽい色だったし、白いステッチやメタルの大きなボタンもGジャンのスタイルである。
この作品の制作は1942年で戦中。Gパンは戦後に進駐軍によってもたらされたと聞かされていたし、Gジャンなんてものはもっと後にできたものと思っていた。一般的には白州次郎がはじめてGパンを履いた日本人ということになっている。しかし、それも戦後の話。この絵のズボンがGパンかどうかは上着ほどハッキリは見て取れない。でもGジャンを着たならGパンも履いたでしょう。ということで松本竣介を初めてジーンズを着こなした日本人と称することにしよう。
藤田嗣治(つぐはる) 「ソロモン海域に於ける米兵の末路」
ここに貼り付けたものより実際の絵はもっと暗い。かなり大きな絵だが、近づいてみるまで何が書いてあるかわからなかった。いわゆる軍が戦争プロパガンダのために描かせた戦争画。でもそんな背景を抜きにして眺めれば、藤田嗣治の力量を感じさせる絵でもある。箱根で見た彼の作品とはまったく違う。でも描かれているのがあまり米兵には見えないのはナゼ?

ちなみに藤田嗣治の生涯を超簡単にまとめると
1913年にパリに渡り、1920年頃にはスーパースターとなる。
1935年頃日本に帰国。戦争画をたくさん描く。
戦後に戦争画を描いたことを批判され、パリに戻りフランス国籍を取得し永住。
となる。
内田巌(いわお) 「裸婦」
どこがよかったのか説明するのは難しいが、何となくよかった。

この内田巌は戦争画の件で藤田嗣治を批判した代表的人物。そんな二人の絵を同じ展示会で眺められるなんて平和で幸せである。
この展示会は1940年から50年に描かれた作品を見ていろいろ考えよう、感じようということである。でも本当は、単にその時代の絵を集めただけでテーマは後から考えたんじゃないかという気もする。だから唐突にこんな絵も展示されている↓↓↓
横山大観 「日本心神(富士山)」

この展示会の中で一番有名な画家の作品ではあるが、なんとなく浮いていた感は否めない。展示する必然性があったのか疑問。
朝井閑右衛門(かんうえもん) 「丘の上」
変態っぽくて素敵(^^ゞ
朝井閑右衛門は横須賀美術館でもたくさん展示されていた。大阪生まれだが横須賀や鎌倉に住んでいた時代が長いから、このあたりの地元の画家的存在なのだろう。どの絵もおもしろかった。絵に共通する作風はなく、好きな時に描きたいものを描いたという感じ。才能と技量が両立していないと、それは難しいはず。また「朝から閑(ひま)」だから閑右衛門と名乗ったらしく、シャレもわかる人だったようである。
内田巌(いわお) 「母の像」
今回、一番印象に残ったのがこの作品である。絵の善し悪しというよりも、こういう作品は日本人にしか描けない〜欧米に持っていったらウケルに違いないーーーという職業柄のさもしい発想から。畳の日本間に掛けられていたら遺影にしか見えなが、ヨーロッパの古い大邸宅の暖炉の上にでもあれば、そこだけ異空間になりそうである。

靉光(あいみつ) 「畠山雅介氏の像」
何となく名前も画風も中国っぽいが、本名は石村日郎(にちろう)という日本人の作品。目を引いたのは上の絵と同じような理由。眺めているうちにけっこう引き込まれる。繊細さの極地のような絵。それにしてもシャツがブカブカだ。
展示作品数はかなり多い。途中で述べたようにまとまりのない展示会で、逆にいえばいろんなタイプの絵を見られるから飽きない。人もあまりいないから、ゆったりと眺められる。それと横須賀美術館もそうだったが、展示室内が明るくて気持ちいい。なぜか都内の大型美術館はやたら薄暗いところが多いのである。湘南なんて行き飽きたという人も、たまにはどうぞ。
ーーー続く
wassho at 03:13|Permalink│Comments(0)│
2011年08月20日
レオナール・フジタ 私のパリ、私のアトリエ展
一度見たら忘れられない、終戦後の漫才師のようなこの風貌の画家のことを知ったのは中学生の頃だったか。明治生まれの日本人で、パリで活躍しとても人気があったと知って、何となく誇らしげな気持ちになったことを覚えている。オシャレだし、なぜかそのヘアスタイルは反骨精神のあらわれだと勝手に解釈して、親近感をいだいたというか「カッコええオッサンやな〜」とも思った。
藤田嗣治(つぐはる)は、たぶん映画の黒沢監督が活躍するまで、フランスでもっとも有名な日本人だったと思われる。話はそれるがフランス人はなぜか黒沢作品が好きで、作品を何本も見て詳しい人が多い。いい映画が多いと思うが、あんな古い映画をなぜ好んでみるのかよくわからない。「黒沢の映画? 何本かは観たけど、具体的には覚えていないなあ」とかフランス人に言うと、残念そうな顔をされるので困る。
まあとにかく、このおかっぱ頭のオッサンは第1次世界大戦後の1920年代のパリで大活躍した画家である。エコール・ド・パリと呼ばれた当時の画壇の中心人物でもあり、フランス政府から一番位の高い勲章まで授けられている。ちなみに狩野派とかは師匠がいて、作品に一定の特徴がある「流派」である。印象派は画家によって絵のスタイルは全く違うけれど、もっと自由に感じたままに絵を描こうぜというコンセプトに共鳴した画家の集団。エコール・ド・パリはシャガールやモディリアーニ、ルソーなどが有力メンバーとされるが、作品に共通点や主義主張があったわけではない。1920年代にパリで活躍した画家の一部をまとめてこう呼ぶ。いってみれば「エンタの神様に出演していた芸人」みたいなくくり方。
ちなみにエコールとは「学校/学派・流派」とかいう意味でエコール・ド・パリを直訳すればパリ派となる。ついでにレオナールというのは晩年彼がフランスに帰化して改名した名前。Leonardだから英語読みすればレオナルド。もひとつついでに、芸術家であのヘアスタイルだとカマっぽく思えるが、彼は5回も結婚している!
「横たわる裸婦と猫」
彼が描く女性は「素晴らしき乳白色」とか呼ばれる白い皮膚の色が特徴。絵の具にベビーパウダーを混ぜていたという説もある。別にどうってことはない絵なのだが、シーンと静寂で引き込まれていくような魅力は確かにある。猫は彼が猫好きだからと思うけれど、多くの作品に特に意味もなく描き込まれている彼のトレードマーク。手塚治虫のこれみたいなものか。ずっとブタ鼻とよんでいたがヒョウタンヅギという名前だと、さっき初めて知った。
「ラ・フォンテーヌ頌(しょう)」
なんとなく「赤ずきんちゃん」を思い出した作品。ざっと調べたらイソップ物語をフランス語に翻訳したのがジャン・ド・ラ・フォンテーヌという人らしい。頌(しょう)というのは「誉めたたえる」という意味で、フォンテーヌ氏に敬意を表してということかと思う。家康公みたいなものか。
意図のよくわからないヘンチクリンな絵である。あまり難しく考えないで、あのオカッパ頭がシャレで描いたものだと思うことにしよう。
「少女と果物」
何とも愛くるしい作品。彼の描く少女はほとんどがこの顔で、なぜかいつも鳥の物まねをするように、口をすぼめたような表情をしている。
ほとんどの作品がそうなのだが、画風は繊細で緻密。そして透き通るような色彩が藤田嗣治の特徴。絵のタッチは水彩画あるいは日本画のようで、油絵のイメージとはちょっと違う。このあたりが彼の魅力。
ただ立体感というか構築感というかそういうものは希薄。パット見は気楽なイラストに見えなくもない。そこは人によって評価が分かれるかとも思うが、私的にはちょっと残念。でもフランス人には彼らが大好きな浮世絵のイメージと重なったのかと思ったりもする。
全部で120点展示されているとのことだが、挿絵とかの作品が多く大作が少なかったので、少し物足りなかった。でも藤田と親交のあった画家ということで、ピカソやモディリアーニ、ローランサンなどの作品も展示されていたので何か得した気分。それと常設展示の部屋にはルノワールにゴッホにモネ、黒田清輝や岸田劉生と人気作家の作品がずらーっと並んでいる。ちょっとコレクションにポリシーがないような気もするが、入場料1800円の価値は充分にある。
さて、次はバイクでどこの美術館へ行こうか。
wassho at 19:16|Permalink│Comments(0)│