言葉・日本語

2021年01月07日

発出は大人の事情で遺憾?

本日コロナの緊急事態宣言が菅総理から発出された。期間は明日からの1ヶ月間で、主に飲食店の営業時間などに制限がかかる。罰則はないが協力した店舗には1日6万円×30日=180万円の協力金が出るとのこと。

コロナのことはさておいて、目についたのは「発出」という言葉づかい。漢字から意味はよくわかるものの、ナンジャソレ?という気がする。法律に基づく措置なので発令というのが適当なはず。

緊急事態宣言

発令=命令というニュアンスから強制的なイメージを避けたかったのか。ただでさえ支持率が低下気味だから、少しでも嫌われたくなかったのかもしれない。それでいて発表じゃ言葉に重みがないと考えたか。しかし発出とは単に出すという意味だから、宣言の発出なんて意味がダブっていると思うけれど。


1月2日に小池都知事が官邸に乗り込んでから緊急事態宣言は政治的なトピックであったが、報道では発令という表現が主に使われていたように思う。それが総理が発出と言った途端に右にならえするマスコミにもナンダカナア〜という気持ちである。なお昨年4月の緊急事態宣言の時も安倍総理は発出だったはずだが(だいたい発出を連発したのは彼である)、報道の状況がどうだったのかまでは覚えていない。しかしネットで画像を検索すると発令と報道している事例も見られる。


話はそれるが、少し前に売春→援助交際→パパ活という言葉の変遷について書いた。それに限らず日本語には言葉を置き換える文化がある。その背景や意図は様々だろうが、言葉の印象を曖昧にしようとするものが多い。

近年の最高傑作は「大人の事情」かな。使われ出したのは10年くらい前だろうか。はっきり覚えているわけじゃないが、20年前にこんな表現はなかったと思う。

大人の事情とは、

  合理性や正義のある事情じゃないけれど
  それを大っぴらにすると、なにかと軋轢が起こるので、
  そのあたりを忖度してナアナアで済ませましょう

ということで持ち出される事情である。「ここはひとつ大人の事情ということで」と妥協が成立するのがこの国の特殊性。外国語には翻訳不可能な日本語だろう。


さらに時代を遡っての最高傑作は「遺憾」だと思っている。「それについて遺憾に思います」というのは、

  「申し訳ございませんでした」と謝る屈辱感はまったく感じなくてすむのに
   遺憾と言っておけば謝ったことになる

というマジックワードである。メンツやプライドも絡んで謝罪するのは心理的なハードルが高い。それは相手方も同じで謝罪のあるなしは大問題。だから謝罪で話がこじれる。それを一気に解決するのだから、この表現を発明した人は天才である。

もともと遺憾は「残念」という意味を堅苦しくしたような言葉。相手に対して使えば非難にもなる。しかし堅苦しすぎて血の通っていない言葉である。「我が国の領海を侵犯したことは遺憾」なんて声明からはほとんど抗議の意志が感じられない。天才はこのクソ丁寧さを逆手に取っている。

そして遺憾を自分に使えば誤りを認めたことになる。しかし誤りを認めても謝ったわけじゃない。しかし、その辺をあまり追求しないで謝罪したことにするのが「大人の事情」ってやつかな(^^ゞ

言葉というのは面白いというか、バカバカしいというか。とりあえずコロナをもらわないように気をつけましょう。

コロナ対策


wassho at 23:30|PermalinkComments(0)

2020年10月08日

「お」をつける・つけない

田舎を旅して紹介するようなテレビ番組で、畑で農作業している人を見つけて近づいていく場面があった。その畑で育っている作物を見て女性レポーターが

    これは、おダイコン?

と尋ねた。

ダイコンに「お」をつけるかあ?と感じた。私は生まれてから今日までダイコンに「お」をつけて発音したことなどない。しかし同時に意外と違和感がないことにも気づく。もしそれが「おニンジン」なら、暇を持て余したクレーマー視聴者からテレビ局に抗議が殺到していたかも。

色々と単語を当てはめてみると

 「おネギ」とはいうが「おタマネギ」とはいわない。
 「おイモ」というのに、ジャガイモもサツマイモも「お」をつけない。
  でも「おジャガ」や「おサツ」とはいう。
 「おビール」は水商売ぽいが「お紅茶」というと上品な感じがする(^^ゞ

例を上げていくと切りがないが、国語的にいうと「お」または「ご」は丁寧に表現するための接頭辞。それがついた単語は使い方によって尊敬語、謙譲語、美化語に分かれる。何に「お」「ご」がつく・つかないの明確な法則はなく、いろいろな理由が積み重なって歴史的にそうなったというしかないだろう。

また性別や年代、社会階層などによっても使われ方あるいは印象が違ってくるのがややこしいところ。先ほど「おダイコン?」と尋ねたレポーターはやや年配の女性アナウンサーだったから違和感がなかった。男性レポーターだったり、女性でもアイドルとかならおかしかっただろう。それと最初に??と思ったのは、言葉を発した場所が畑だったから。台所や料理として出てきたものを彼女が「おダイコン」と言ったら何も感じずスルーしていたかもしれない。だから使う状況にも左右される言葉である。


ネットで調べると色々ヒットして玉石混交だが、マナー論ではなく国語解説として参考になるものをいくつか記しておく。

  現代日本語における接頭辞「お」の付く語の意味分類について
  放送における美化語の意識調査
  放送で使われる敬語と視聴者の意識
  敬意を込めて敬語を使うための敬語教室


もちろん言葉だから時代によっても変化する。「お受験」いう使い方はテレビドラマの台詞から広まった。そのドラマは見ていないが、野際陽子が「お受験!」と叫ぶ番宣のコマーシャルはインパクトがあったので記憶に残っている。調べたら1994年のスウィート・ホームというTBSのドラマだった。小学校受験をコメディタッチで描いたものらしい。
お受験

この「お受験」の「お」は美化語になるのだろうが、美化を通り越して「尊さ」のニュアンスすら感じられ、それが受験の厳しさを連想させている。「お」のひらがな1文字でそれを表現した制作者のセンスは素晴らしい。


さて「お」や「ご」は敬語表現のひとつであるが、この敬語というのが正しく使うのは至難の業。完璧な敬語をマスターしている日本人はどれくらいいるのだろうか。重箱の隅をつつくような試験をすれば満点を取れるのは1%の1%くらいかな。そんなに難しいのは言語として間違っているような気がしなくもない。

とにかく空や山に「お」はついても、海や川にはつかないのだから日本語は難しいね。しかし習ってもいないし理屈もわからないけれど、なんとなく使い分けられるのだから言葉って不思議である。


ついでに書いておくと、無意識のうちに発音も複雑に使い分けている。
    ↓
参考:銀座と新橋で正しい英語発音は無理だと悟る?

wassho at 23:30|PermalinkComments(0)

2020年09月03日

パパ活と遊女の不思議

売春を援助交際と言い換えるようになったのが30年前の1990年頃から。最初は女子高生の売春を意味したが、やがてプロ以外のアルバイト的な売春を広く指す言葉になったように思う。そして5年ほど前から広まってきたのがパパ活という言葉。愛人契約的なニュアンスを含めて使われ出した経緯があるものの、今では援助交際すなわち売春とほぼ同義語と考えていいだろう。

援助交際やパパ活などの表現が生まれるのは、売春の言葉を避けたいからである。こうやって言葉を置き換えてイメージを変えるのは日本語の伝統文化みたいなもので、例えば結婚式で「切る」は忌み言葉だからケーキには「入刀」されることになっている。

そして売春と言いたくないのは、もちろんそれが道徳的に悪いとされ法律としても違法だから。もっとも売春を身体を使う職業として考えた場合、歌ったり踊ったりするのと、あるいはスポーツ選手と何が違うのかは興味深いテーマ。しかし今回の趣旨からは外れるので触れないでおく。

というわけで、とりあえず売春は悪いことであり、それを援助交際やパパ活と言い換えようが、売春する行為が大っぴらに認められることはないし、言葉としても人前で発するのは憚られる後ろめたさがついて回る。

歌麿遊女


しかしである。
これが遊女という言葉になると、そういった売春のネガティブ感がまったく消えてしまうのが不思議なところ。言うまでもなく遊女は江戸時代の売春婦を指す言葉。明治になって呼び名が娼婦になり太平洋戦争前後から売春婦の名前に変わった(と何となく思っている)。

浮世絵には遊女を描いたものがたくさんある。というか芝居や遊郭といった「浮かれた世」を題材に始まったから浮世絵である。遊郭の遊女もピンキリで、浮世絵に描かれるのは高級な遊女であったとしても、売春を生業にしていたことに変わりない。

そして普段なら二言目には女性蔑視だ、セクハラだと叫びそうな人であっても、浮世絵の遊女については「売春婦を描いた作品」である基本情報はスルーして、遊女の艶やかな美しさなどとアートとして楽しんでいるのである。遊女という言葉を使うことの抵抗感も皆無である。

これがもし「パパ活女子」といったうタイトルの絵があるなら、どんなに美しい作品でもそうはならない。遊女もパパ活もやることは一緒なのにね(^^ゞ


どうして遊女という単語には後ろめたさがないのか。当時は合法的存在だったのは事実だとしても、それだけではないように思える。遠い昔に使われた言葉だから、貴族や武士と同じように概念としてしか捉えらず生身の感情が湧いてこないからか。あるいは「遊」の文字が持つ楽しさや軽やかさに売春のイメージがマスキングされるせいか。

浮世絵に描かれている女性って遊女が多いなあと気がついた数年前から、考えているテーマだけれど、未だ納得できる仮説を得られていない。そしてテーマがテーマだけに、あまり人とも話ができず(^^ゞ

wassho at 21:17|PermalinkComments(0)

2020年08月11日

誰がなんといおうと8月なら暑中見舞い

しきたりに従えば「立秋」に入るまでが暑中見舞い、それ以降が残暑見舞いである。それで「立秋」とはいつかというと2020年は8月7日から22日まで。したがって暑中見舞いの締め切りは8月6日になる。(旧暦ベースなので日付は年によって1日程度前後する)

しかし春夏秋冬に明確な定義はなくとも、8月7日から秋なんてことは断じてない。それどころか立秋の期間は夏真っ盛りである。そして9月になっても暑い日が続く。気象庁の分類によれば

   猛暑日 最高気温35度以上
   真夏日 最高気温30度以上
   夏日  最高気温25度以上

東京の9月のデータを過去3年で見ると

   2017年 猛暑日0日  真夏日3日  夏日17日  合計20日
   2018年 猛暑日0日  真夏日8日  夏日12日  合計20日
   2019年 猛暑日2日  真夏日10日  夏日15日  合計27日

9月は1ヶ月の2/3以上が夏の気温であり、夏と呼ぶべき期間であるとわかる。したがって8月なら暑中見舞い、9月になったら残暑見舞いにすべしというのが私の考え。そのほうが日本語の意味に正確であると、実に暑苦しい主張を長年続けている(^^ゞ


参考まで立秋とは「二十四節気」という1年を24等分した季節の考え方による。これは紀元前に中国で発案されたもの。大陸とでは気候風土が違うし、それから2000年以上も経過して地球環境も大きく変わった。現在の日本において二十四節気の区分はほとんど迷信レベル。

例えば立秋と対になり春が始まるとされる立春は、2020年だと2月4日からになる。つまり1年でもっとも寒い時期。うっかり2月4日に「春ですね」とか、8月7日に「秋になりました」なんていうと頭がおかしいと思われかねない。それを避けるため「暦の上では」と前置きを付けることになっている。

しかし「まったく実際の気候にそぐわず何の意味もありませんが」と同義語の前置きを付けてまで二十四節気を引用するヤカラの気が知れない。教養がある雰囲気を出せると勘違いしているのかな。万葉集や源氏物語とはジャンルが違うのに。


さて立秋に入って5日目となる本日の東京は37.3度と、この夏一番の最高気温を記録した猛暑日。全国では3地点で40度を超えた。そこで心置きなく(^^ゞ

       暑中お見舞い申し上げます。

       コロナのせいで、
       今までの人生で一番おとなしく夏を過ごしております(/o\)

       皆々様もご自愛下さいませ。

例年と同じく暑中見舞いはUnsplashから夏らしい写真を拝借。

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wassho at 22:53|PermalinkComments(0)

2020年07月10日

コロナに補償という言葉遣い

前回に引き続いて、このところ耳に引っ掛かる言葉遣いはコロナウイルス関連。
ただし「自粛を要請する」じゃない。

自粛は自ら控えることで、それを他者に要請するという表現は論理的に100%おかしい。自粛という単語および自粛の要請という表現が一般に使われ出したのは、昭和天皇の崩御前後からで、当時はその議論がかなりあったと記憶している。

あれから30数年経って、コロナウイルスでまた自粛の要請という表現が使われている。しかしその表現の是非について、とやかく言う向きはほとんどないように思える。これは言葉とは変化するもの・それに慣れるものというより、忖度社会がより一層進んだからだと解釈している。法律を作って罰則を設ければオオゴトになるから、ちょっと意味はおかしいけれど自粛の要請でいいんじゃないと多くの人が思っているのだろう。あるいはそれが通るほど社会のナアナア化が進んだと言い換えられるかも知れない。

言葉遣いより、そちらの方がよほど問題だと思う。しかしそうした空気は私にも伝染するわけで、何となく気にならないというかスルーしてしまっているというか。それがいいのかどうか自分でもよくわからない。

コロナマスク

さてコロナウイルス関連で気になっているのは「政府が補償」という言葉遣いである。ごく当たり前のように使われている。しかし補償とは償(つぐな)って補うこと。そして償うというのは悪いことをしたり損害を与えた側がする行為である。

政府がコロナウイルスを作ったりまき散らしたわけじゃないのだから償う立場にはない。だから政府が補償するという言葉遣いはまったくおかしい。もちろん経済対策を否定しているのではなくて、政府が支給するお金は支援とか援助などの言葉であるべきという意見。

実際には政府が企業や個人に支払っているお金は、支援金や給付金という名前がついていて補償金とはなっていない。それなのにどうして政府が補償、自粛の補償などというのだろうか。しかもこれはコロナウイルスに限った使われ方なのである。地震や台風で被災者を救済する時に補償とはいわない。コロナウイルスだけ補償という言葉遣いなのかが不思議。

なお世界各国で同じような対策を行っているから、どういう単語を使っているか興味があるのだが、面倒なのでまだ調べていないーーー


ところで「政府が補償」という表現については言葉遣いとしての違和感だけでなく、その声高な主張の一部に「あさましいなあ」とか「情けないなあ」と感じているのも事実。そんなタカリ社会になって大丈夫かとか、ジイちゃんバアちゃんは戦争の補償なんかもらってないゾというのが頭の片隅にある。

その気持ちはまだうまく整理できていない。だから、それは置いておいて、私もありがたく10万円の申請をすることにします。もっとクレや!(^^ゞ

wassho at 06:35|PermalinkComments(0)

2020年07月07日

ゲームに課金するという言葉遣い

ときどき世間での言葉遣いに違和感を覚える時がある。もっとも言葉は時代と共に変化していくもの。現時点で国語学者などが明確に誤りと指摘するケースがあったとしても、多くの人が使い続ければ、やがてそれが「正しい日本語」になる。

だから違和感があったとしても、それに反発してもあまり意味はないし、そんな言葉遣いの間違いを指摘するのもジジ臭くてイヤなんだけれど、まあとりあえず書いておこう。

スマホゲーム

私はゲームをしないので詳しくないのだが、スマホなどのゲームでは

   無料でも遊べる
   有料のアイテムを買えば、プレイヤーがパワーアップされてもっと楽しく遊べる

そんな仕組みになっている場合が多いようだ。

そして、その有料アイテムを購入することをゲームに「課金する・課金した」と表現する人が多い。それに違和感ありありなのである。


課金の「課」は「される」もので「する」ものではない。税金を払うのを「税金を課税した」とは言わないと例えればわかりやすいと思う。課税は取り立てることで、税金を払うのは「納税した」である。

文法的には100%誤りだと思うものの、多くの人が使っているので、最近は辞書でも「近年は支払うという意味でも用いられることがある」と注釈を付けている事例もある。

「課金する・課金した」の表現が広まった理由は、課税に対する納税のように対になる単語がなかったからだとの説がある。よく似た事例で引き合いに出されるのが「募金」。募はつのる・集めるという運営側の概念だから、お金を払うのに「募金する・募金した」の表現はおかしい。しかしこれも対となる言葉がない。あえていうなら「寄付」になるが、何となくそぐわない。それで「募金する・募金した」と誰かが言い始め、それが広まって一般的になったとの歴史。今では赤い羽根に募金してきたと言っても「何、その日本語?」と咎められることはまずないだろう。

したがって「課金する・課金した」もいずれ耳に馴染むようになる。でもそれまでが厄介だなあ。「ムカつく」が腹が立つ意味での非常に強い罵り表現だったのに、とても軽い意味でも使われ出した頃、その言葉を聞く度に軽くビクッとしたのを思い出す。ところでムカつくの定義が変わったのはいつ頃だったっけ? まったく記憶が消えたというか現代のムカつくに頭の中がすっかり置き換えられている。旧時代のムカつくのニュアンスも既にはっきりと思い出せない。

このように新しい言葉遣いなんて、とっとと慣れるに越したことはないのだ。しかし実はもうひとつとても違和感をいだいている言葉がある。それは最近よく使われるコロナ関連。


ーーー続く


(補足1)
課金の意味が転用したのは、課税・納税のように対になる単語がないから説は、一見説得力があるように思える。しかし「課金する・課金した」の表現が使われるのは主にゲーム料金、そこから派生してせいぜい携帯電話料金までである。家賃を課金してきたなどとはいわない。そのあたりにこの言葉遣いが発生したメカニズムが潜んでいるように思える。誰か賢い人に掘り下げて欲しい。

(補足2)
「課金する・課金した」と言う表現が始まったのが2003年頃、広まったのは2013年頃かららしい。私はゲームをしないので耳にしたのは数年前から。ゲームをする人には、何を今さらな話かも知れない。

wassho at 18:25|PermalinkComments(0)

2020年06月05日

テロップのフォント「て」と「T」

少し前にパソコンのフォントで「」の長さが、
やたら長いものがあるとの話を書いた。
no title

こういう文字デザインのフォントが現れたのは30年以上前で、当時から違和感をいだいていたのだが、世間でそう感じる人はほとんどいないようで、それが話題となった事例は見たことがない。

しかし、今回のテーマはそこそこ関心を集めているようだ。
それはテレビのテロップで「て」が「T」のように見えるフォントが多用されている件。

テロップ

画像は https://gooddayslabo.net/technology/kurokane-font から引用。


これはフォントワークスという会社の「くろかねEB」というフォント。
かなり目立ち系のデザインではあるものの、「て」以外は普通に読める。

1

2

しかし、なぜか「て」だけが極端にデフォルメされている。

3

4

全体的にいいデザインのフォントなのに、「て」だけがヘンな形なのはどうしてだろう。そしてこういうデザインのフォントがあってもいいと思うが、文章を読ませることを目的としたテロップにこのフォントを使うのは不適切かと思う。だから私が批判したいのは、このフォントのデザイナーじゃなくてテレビ局のほうかな。

(読ませるを目的にの反対は、例えばTシャツなんかに入れる文字ね)


数年前から、やたらこの「くろかねEB」が多用されて、もう慣れたともいえるけれど、未だに見る度に違和感があるから、やはり何とかならないかと思う。

ちなみにこのフォントの「」も長い。

5

もし「て」を修正するなら「」も一緒にね(^^ゞ




※「くろかねEB」を使用した文字列については https://fontplus.jp を利用。

wassho at 06:39|PermalinkComments(2)

2020年05月21日

長い鉤括弧(かぎかっこ)が嫌い

これはお菓子のパッケージの説明書き。
「」の線がやたらに長いのに注目して欲しい。
手書きなら鉤括弧を示す水平・垂直2本の線は同じ長さで書くはず。

IMG_2480


出版・印刷業界では30年ほど前からDTPという技術が導入され始めた。DTPとはデスクトップ・パブリッシングの略で、簡単に言うと印刷の一歩手前までの作業をすべてパソコンで行うことである。

その頃から、つまりDTPによって長い「」が出現した。
時系列的に私の理解しているところでは

   30年前は「」の形でDTPか、そうでないかが判別できた。
   20年前はほぼすべてがDTPになり、ほとんどが長い「」になった。
   最近は長くない「」も見るようになってきた。

といったところ。


印刷物に使われるフォントと一般のパソコンに入っているフォントでは種類が違うものの、標準フォントの新旧を比較してみると、新しいMacでは「」が少し短くなっている。ただしWindowsは長いままである。

2フォント比較

参考までにMacとWindowsで私のブログを表示させてみると。

<Mac>
3フォントMac

<Windows>
4フォンWindowsト

なおiPhoneでは同じApple社製だから短い「」なのは当然として、
Androidも短い「」だった。


パソコンのフォントで「」が長い理由はよく分からない。昔から疑問に思っているのだが、そんなことを気にしている人はほとんどいないみたいで、ネットで調べてもヒットしない。私の推察では

  昔は画面が荒くて視認性が悪かったので、わかりやすいように「」を長くした。
  しかしMacでは画面性能が向上したので「」をあまり長くしなくなった。

  Windowsパソコンは画面性能が低いものもあるし、ブラウザやメールは
  未だにギザギザ文字だからまだ長い「」を使っている。

といったところ。

ただしフォントのデザイナーが長い「」を単にカッコイイと思っているだけかも知れない。なぜなら教科書体という「文字の書き方のお手本」に近い形とされるフォントでは、Windows系である游フォントでも「」の長さが控えめだから。

フォント比較

パソコンと印刷物の話が混ざって少しややこしくなったけれど、とにかく長い「」には違和感を感じる。おそらくその理由は日本文字として美しくないからだ。

周りにある印刷物を手に取って、一緒に憤慨して。

wassho at 21:46|PermalinkComments(0)

2019年12月09日

単語登録は ; を使うと便利

パソコンでキーボードを打って日本語に変換するソフトのことをIM:インプットメソッドという。日本語だと入力方法という変な名前。ひと昔前はFEP:フロント・エンド・プロセッサ、略してフェップという言葉を使った。直訳すれば前処理だろうか。

しかしIMもFEPも、その名前で呼んでいる人はあまり見たことがない。
たいていは辞書かな?


私がパソコンを使い出したのは30年ほど前。当時とでは日本語への変換精度は比較にならないほど高くなった。よく使う言葉を変換候補の最初に持ってくるという予測変換は、携帯(ガラケー)が先行したが今では遜色ない。

だからIMの辞書にない単語を自分で登録したりする必要はほとんどなくなった。また短いフレーズも、例えばよく使っているなら「お世話になります。」が「お」と入力するだけで変換されるようになった。それでも頻繁に使う単語や短いフレーズは登録しておいたほうが便利なこともある。

その場合のコツは登録する単語やフレーズの「読み」の前に「;」の記号を入れること。

 : コロン
 ; セミコロン

であるが、日本語でセミコロンを使うことはまずないというのがその理由。
使うとしたら(;^^)のような顔文字くらい。
セミコロン

これは仕事でたくさんの商品名などをよく入力する場合に役立つ。例えば「ア」で始まる名前が30個ほどあるとして、それを「あ」の読みで単語登録すると、普通に文章を書いている時もやたらその商品名が変換候補に出てきてしまう。

それを「;あ」で登録しておけば商品名しか候補に現れない。そのうちよく使う商品名がリストの上位に並ぶようになる。また商品がたくさんあって、用途別に区別したいなら読みの前に入れる記号を「;」「;;」と分ければよい。読みの言葉は何でも構わないから、最初が「;」であれば「;:」でも「;。」でも、キーボードで「;」の近くのものを使えばOK。

自分の名前や住所、メアドなども単語登録しておくのも意外と便利である。メールの書き出しの挨拶や締めのフレーズも、相手や内容に応じてキータッチ2回で状況に応じたものを選べる。クリップボードをマルチ化して、そこからペーストするソフトもあるが「;」を使った単語やフレーズの登録のほうが効率的。

重宝するのが → などの記号。

私は→を「;m」、←を「;h」、↑を「;う」、↓を「;s」で登録している。それぞれ「みぎ・ひだり・うえ・した」の最初の入力。全角であるならば子音でアルファベットになってもOK。


おジイちゃんの知恵袋でした(^^ゞ


なおIMによっては「読み」をセミコロンなどの記号で登録できないものもある。Macに付属しているIMがそうで、変換精度はもう十分なのにATOKを買わされるはめになってしまい残念。

wassho at 22:39|PermalinkComments(0)

2019年11月06日

間違って英文字で入力しても

パソコンを使っていて時々起きるのが、日本語で入力しているはずなのに英文字になっていること。どういうケースでこうなってしまうのか、よくわからない。エクセルでは特に頻繁に発生する。たいていはすぐに気がつくが、ある程度の長さを入力して、例えば

  間違って英文字で入力しても
      が
  matigatteeimozidenyuuryokusitemo

になんてなっていた時には一気にやる気がなくなる(^^ゞ

パソコンではそういうこともあると諦めていたというか前提にして使ってきたが、先日これを救済する方法を知った。ただしMac限定の機能なのであしからず。

それは英文字になっていたらキーボードの「かな」キーを2回打つと日本語になるというもの。逆に日本語で入力したものなら「英数」キーを同じように2回打つと英文字になる。超便利だし覚えやすいキーコンビネーションなのが素晴らしい!


いつ頃からこの機能が備わったのかよくわからないが、ネットで検索すると2013年には紹介記事が出ている。もうパソコンとかソフトの雑誌やネットの記事を読むことはほとんどなくなってしまった。問題が起きたときに調べるくらい。しかし、たまには情報収集して頭をアップデートしなければと反省。

キーボード


wassho at 08:31|PermalinkComments(0)

2019年08月01日

全然と御前会議

言葉は生き物なので時代によってニュアンスや使い方が変わってくる。

例を挙げればきりがないが、例えば「むかつく」。かつては強い怒りを表す単語だったが、いつのまにか随分と軽いニュアンスでも使われるようになった。

使い方で変化したものに「全然」がある。以前は「全然ダメ」「全然違う」というように否定の強調として使われていたのに、今では「全然大丈夫」と肯定でも使われる。はやり言葉、若者言葉の段階を過ぎてアナウンサーでも言うようになったから、今日的用法として定着したと考えていいだろう。


ーーーという認識だったが、昨日に見たテレビ番組で新たな発見。

それは昭和天皇と戦争の関わりをテーマにした内容だった。1941年9月、太平洋戦争開戦の3ヶ月程前に、外交交渉継続か開戦かについての方針を決める御前会議(天皇臨席の会議)が開かれる。通常、御前会議で天皇は発言しないらしいが、この時は天皇から陸軍・海軍の責任者に質問が投げかけられた。

番組での彼らの発言を細かく覚えていないが、ここでそれは重要でない。とにかくまず海軍の責任者が「〜〜ということであります」と答えた。そして驚いたのは、次の陸軍責任者の発言が「海軍の考えと全然同じであります」という表現だったこと。

全然同じ? 全然と肯定系の組み合わせじゃないか。しかし陸軍高官が天皇に対しての発言である。言葉遣いを間違ったとは考えづらい。つまりこれは正しい日本語ということになる。


調べたところ「全然+肯定系」は明治時代には普通に使われていたらしい。夏目漱石の「それから」にも出てくるという指摘もあった。しかし、なぜか戦後になって「全然+否定系」しか使われなくなり、それが最近まで続いていたということ。

ふ〜ん
言葉は生き物ではあるけれど、まさか先祖返りすることもあるとはね。

wassho at 06:40|PermalinkComments(0)

2019年01月24日

そうですね そうですね いうな

ずいぶんと前から気になっていて、
特にスポーツ選手に多い気もするのだが、
インタビューを受けて答える時、
必ず最初に「そうですね」と言ってから話し始める人がやたら増えた。

私が覚えている範囲で、最初に「そうですね」を連発しだしたのは水泳の北島康介。「チョー気持ちいい」の頃だから2004年。そのあたりから、だんだんと蔓延してきたような気がする。今年も正月は箱根駅伝を見たら、ほとんどの選手が「そうですね」と言ってから話し始めた。

インタビュー



それほど詳しい分野ではないが、コミュニケーションのテクニックにおいて、会話の切り返しを「そうですね」で始めるのは

  「そうですねと」といったん間を取ることによって、考えをまとめる時間を稼ぐ。

   相手に同調して好感を得る。あるいは、あなたの話の内容を理解したという
   サインでもある。

   また例え反論する場合でも、相手を拒絶したのではなく、受け入れた上で自分の
   意見を述べている印象を与える。

などの効果があるとされる。

その効果は否定しないけれど、それは繰り返される会話のやりとりを毎回毎回「そうですね」で話し始めろということではない。逆に毎回「そうですね」で話を返されると相手をバカにしている印象も与えかねない。とりあえず私は「そうですね」だらけのインタビューだと、それが耳障りでイライラしてくる。

もっとも「そうですね」を連発する人は、もう口癖になって無意識に発しているのだろう。「あー」とか「えっとー」みたいなものである。でも身に覚えのある人は、相槌のバリエーションを増やして欲しいな。


それにしても、どうして「そうですね」が蔓延したのだろう。ある時期にそういうコミュニケーション・トレーニングが流行ったのだろうか。スポーツ選手に多いのは、インタビューを聞く機会が多いせいもあるだろうが、その同調性が体育会系のノリにあっているからかもしれない。また何となく就活のセミナーなんかでもテクニックとして教えているような気もする。

誰か北島康介に尋ねてきてくれないかな。
きっと「そうですね」といいながら答えてくれるはず(^^ゞ

wassho at 07:17|PermalinkComments(0)

2017年12月09日

言い方は大事 女子大生と風俗を例に

おっと! 
気がつけば12月も半ばにさしかかろうとしているのに、今月はまだ1つもブログを書いていなかった。特に理由はない。単に忘れていただけm(_ _)m

とりあえず、しばらく前にどこかで読んで「なるほど!」と思ったことを書いてお茶を濁しておこう。


次の2つの文章は同じ内容であるが、聞き手に与える印象はずいぶん違う。

  「女子大生が風俗でアルバイトをしている」

  「風俗嬢だけれど昼間は大学に通っている」


後者がすごいのは表現を取り繕うのではなく発想を180度転換しているから。

ビジネスや人生のヒントをもらった気がしているが、
さて何かに当てはめられるかなと思案中。

wassho at 18:45|PermalinkComments(0)

2014年10月10日

心肺停止の違和感と危惧 続き

3つ前のエントリーの続き。

マスコミが心肺停止の表現を使うようになったのは、死んでいるという客観的事実があっても、医者が死亡を認定するまでは法律上は死亡と見なさないとの法律手続き的な基準を、どんな事情があったかはわからないがマスコミも自分たちの基準とし始めたからである。

普通の事故や事件では医者の認定までにそれほど時間がかからない。しかし今回の噴火では救助隊が死亡している登山者を発見しても、噴火がひどくて運び出せなかった。その結果、医者の認定が取れず、何日もの間「心肺停止者何名」の報道を続けるという矛盾が露呈してしまったとは前回に書いたとおり。


心肺停止という報道に違和感を覚える理由はいくつかある。

まずは事実と違うからである。医者が認定するまで法律的には死亡ではないが、認定されていなければ死亡と表現してはいけないという法律はない。そのあたりをマスコミは勘違いしているのではないかと思う。御嶽山では10月8日にも心肺停止の登山者を1名発見したとニュースがあった。9月27日の噴火から11日もたって発見されているのに未だに心肺停止扱いである。こうなると自分たちの表現基準にこだわって、死者を冒涜しているのではないかとさえ思えてくる。

次には誤解を生む表現だからである。よくある「心肺停止の状態で発見され病院で死亡が確認されました」というニュースでも、まだ生きている可能性があって病院に運ばれたと誤解している人がいると思う。それが今回のように「死者何名、心肺停止何名」と並列して表現されると、マスコミ業界用語知識なしで読めば、心肺停止は死んでいない人と解釈してしまっても仕方がないだろう。

さらに誤解による弊害が生まれる。心肺停止と表現された登山者は救助隊によって死亡が確認された人たちである。しかし医者による認定ではないからマスコミは心肺停止と呼んだ。多くは噴火が激しく運び出せなかったが、何名かは現場から搬送されて医者による死亡の認定を受けたので、結果として「死者何名、心肺停止何名」と並べて伝えるニュースになった。その表現だと心肺停止はまだ生きている遭難者に聞こえるとは先ほど書いた。そうなると当然「一刻も早い救出を」という話になる。

実際、激しい噴火の中で危険を冒して「救出活動」は行われた。現場に生きて取り残されている人がいるなら、それも致し方ないが、実際の活動は遺体の探索と収容である。もう少し二次被害のリスクを勘案して状況をしばらく見極めるべきだったと思う。遺体収容も早いに越したことはないとしても、そのために救助隊に犠牲者を出したのではまったく意味がない。自衛隊は大きな再噴火があった場合に備えて、飛んでくる岩石の盾にするために戦車まで投入する準備をしたらしい。しかし遺体収容はそんな危険を冒してまでやるべきことではないはず。もちろん救助隊は警察・消防・自衛隊とプロフェッショナルだから二次被害が出ない状況だと判断しての行動だと信じたい。しかし繰り返される「一刻も早い救助が願われます」とのニュースがプレッシャーとなって判断を誤る可能性はあるし、どこかの勘違い議員が「決死隊を出せ」などと口を挟んでこないとも限らない。今回は大きな犠牲が出ずに活動が進んで幸運だったと思う。

また今はようやく捜索という言葉が使われるようになったが、当初は最初の救助隊が投入されて、現場に生存者がいないと確認された後も救助とか救出の表現が使われた。遺体の探索と収容を日本語では救助や救出とは呼ばない。心肺停止と建前の表現を使っていたからそれとの整合性を取ったのか、あるいは「救出に行く」と「遺体の収容に行く」ではニュースバリューが違うと計算が働いたのか。私も「救助活動が再開されました」というニュースを見て「ああ、よかった」と思ったから言葉の力は恐ろしい。



ここからは話が飛躍する。

日本は曖昧に表現したり婉曲にものをいう文化がある。それは美徳だとも思うが、近年は過度に物事を直視しない、断定を避ける、面と向かってものをいわない傾向があると感じる。その根底にあるのはリスクを恐れる心理の強まりではないだろうか。よく使われる例えだが

  「お荷物をお預かりします」
   ではなく
  「お荷物のほうお預かりします」

と、なんでも「ほう」をつける。これは断定を避ける心理かな。


  「注文はコーヒーでよろしいですか」
   ではなく
  「注文はコーヒーでよろしかったですか」

というやり取り。これは相手に責任を転嫁して心理的に楽になるための方便。よろしいですかと尋ねると、自分が聞き取れたどうかの問題だが、よろしかったですかと尋ねれば相手がそういったかどうかの問題になる。電話がかかってきて「wasshoさんのお電話でよろしかったですか?」と切り出されるのにも慣れたけど(^^ゞ

私が一番嫌いな表現は「〜〜〜はいかがなものかと思う」という言い回し。悪いとかよくないと自分の意見をはっきりいうのではなく、きわめて曖昧な第三者的立場を装った態度表明。これはもちろん対立を避けたい心理からだろう。「ほう」とか「よろしかったですか」と違って「いかがなものか」の表現は大昔からある。ただし「私は反対です」の代わりにやたら使われるようになったのは20数年前から。


もう1段、話を飛躍させると、これらの表現の根底にあるリスクを恐れる心理には、日本人の軟弱化があるような気がする。気がするだけで、その説に確信を持っているわけではない。(あっ、断定するリスク避けた!) それは日本が豊かになった結果だとも思うが、これからもそれでやっていけるかはちょっと心配。


話を心肺停止に戻すと、このおかしな表現が使われ、それなりに受け入れられているのもリスクを避けたい心理にマッチしているからだと思う。今回の報道で心肺停止って何?と疑問を持っても「医者が認定するまでは」という説明に納得する人のほうが多数派である。ちなみに海外メディアは、この心肺停止と表現する日本語の翻訳に苦労しているみたいだ。

名は体をあらわすとの言葉がある。おかしな表現を使っていると世の中もおかしくなるのでは、というのが私の危惧するところ。


最後になってしまったが今回の犠牲者の方々のご冥福を祈りたい。

wassho at 07:43|PermalinkComments(0)

2014年10月03日

心肺停止の違和感と危惧

御嶽山噴火の被害にあった登山者については「死亡何名、心肺停止何名」との報道が長く続いた。そのことに???と思った人も多かったようで、ネットでは解説なども多く見られる。

簡単に説明しておくと、人が死んだと認定できるのは法律的に医者だけなので、報道では認定されていない死体を便宜的に心肺停止の状態と表現している。心肺停止=「心臓の音がしない、息をしていない」以外に「脈拍がない、瞳孔が開いている」も死亡を示す特徴だが、仮にそれを現場で(医者でないものが)確認していたとしても、言葉として長くなるので心肺停止と呼ばれる。ちなみに爆発事故で身体がバラバラとか火災で黒こげになった等のように、客観的に死亡が明らかな場合は医者の認定は必要ないとされる。どの辺に線引き基準があるかはザッと調べた程度ではわからなかった。

もちろん心肺が停止しても人工呼吸や心臓マッサージで助かる可能性はある。でもそれは心肺停止直後から十数分後程度までに蘇生措置を始めた場合の話。今回の噴火現場には当てはまらない。


要するに死亡しているかどうかの事実にかかわらず、マスコミは法律的に死亡が確定したものを死亡、(もう一度書くが)法律的に確定していないものを心肺停止と表現しているということ。意外と知られていないが、この意味で使う心肺停止は医学用語でも法律用語でもなくマスコミ用語である。医学的に心肺停止とは単にその事実を指すし、心肺停止して何時間も経過した死体を心肺停止の状態とはいわない。関係ないけどよく聞く容疑者もマスコミ用語。法律的には少数の例外を除いて被疑者という。正反対の意味である被疑者と被害者が言葉的に似ているから、間違わないようにと報道では容疑者と言い換えたのが始まりらしい。


この心肺停止なる表現が使われるようになってから日はまだ浅い気がする。例えば東日本大震災の時は普通に死者何名との報道だったと思う(津波で流されて見つからない人は行方不明者)。最近は何か事故や事件があった場合「心肺停止の状態で発見され病院で死亡が確認されました」とニュースで伝えられる。まだ生きている可能性があって病院に運ばれたように思っている人もいるだろう。

普通はすぐ病院に運ばれ医者が認定するのでニュースの結論としては死亡となる。しかし今回の御嶽山では噴火が激しく、その心肺停止の人たちの多くをすぐ運び出せなかったから、医者による認定ができず、結果として何日もの間「死亡何名、心肺停止何名」とニュースが続いた。何日も続いたことで多くの人が疑問を感じたのだと思う。


なぜ心肺停止の表現を使うようになったかは知らない。しかし死者が出たのか死者は何名なのかといった、事件や事故で最も重要な情報を法律の規定を杓子定規に用いて、心肺停止などと生きているのか死んでいるのかわからないややこしい表現を使うことにはとても違和感を感じる。医者の認定がなければ死亡と見なされないというのは、法律上の手続きの話であって死んだかどうかの事実には関係ない。

なぜ心肺停止の表現を使うようになったかを想像してみた。

  事実をいち早く伝えるより法律の手続きが大事と官僚的発想で考えるようになった。
  法律の手続きが済むまでは死亡ではないと考える勘違いクレーマーの指摘にびびった。

もしそうなら、どちらにしても報道機関としてのレベルの低下としかいいようがない。

  何かの拍子に心肺停止の表現が使われ、その言葉のイメージに自らも縛られ、
  ひょっとしたら蘇生するかもと危惧し、その場合に死亡と報道していたら誤報と
  なるから、そうならないための保身意識が働いている。

そんな言霊(こただま)に左右されるほどレベルが低下しているとは思いたくないが。

  よく考えると噴火後の現場にマスコミは入っていない。犠牲者を発見したのは消防や
  警察であり、その発表が心肺停止だったのかも知れない。

消防や警察の役所なら心肺停止といういい加減な表現をしていいかどうかは、ここでは触れない。しかし、それをそのまま垂れ流すだけなら問題だ。


ーーー続く


※続きは
http://blog.livedoor.jp/wassho/archives/53076740.html

wassho at 07:44|PermalinkComments(0)

2014年06月18日

自分たちのサッカーという呪縛

日本代表ユニフォーム

残念ながらコートジボワール戦は負けてしまったが、その分析やら次への期待やらで、テレビ局的にはかえっておいしかったような気がしなくもない。ワールドカップは予選リーグで2敗1勝でも、他のチームの勝敗状況いかんで2位に入って決勝トーナメントへ進出できる可能性はある。でも次がギリシャ、最後がコロンビアという組み合わせを考えると、次で負ければジ・エンドはほぼ確実に。そうなっても応援モチベーションをキープできるかな。

コートジボワール戦は残念だったが、あまりガッカリもしていない。前回のエントリーにFIFAランキングを書いたが、その実力差を考えれば「もし勝てればメチャうれしい」という期待値でしかなかったから。ギリシャ戦にはもちろん気合いが入るけれど、コロンビア戦は世界トップランクのサッカーと較べて日本のサッカーがどの程度イケテナイのかを見較べたいという気持ちのほうが強いかも。

できるだけ勝ち進んで欲しいとは当然ながら思っている。それはそれとして、毎回ワールドカップに出場できるレベルになったことをうれしく思っているというのが素直な気持ち。私の場合、そうじゃなきゃサッカーを観る機会がほとんどなくなってしまうので(^^ゞ 


ところで日本代表が負けた時に必ずいわれるフレーズがある。以前は「決定力不足」がお約束だったが最近は「自分たちのサッカー」である。自分たちのサッカーをすれば勝てる、自分たちのサッカーができなかったから負けたーーー。

北京オリンピックの時にも書いた気がするが、この自分たちのサッカーというフレーズにはとても違和感を感じる。他の競技でこんな言い方はしない。サッカーに限っても日本以外の国でこんな表現はあまり使われていない気がする。ところが日本のサッカーでは二言目には「自分たちのサッカー」なのである。


自分たちのサッカーがピッチ上での戦術を意味しているくらいは私でも想像がつく。サッカーの強さを「テクニック×センス×いわゆる身体能力×戦術」に分解するなら、前三者で劣る日本は戦術でカバーするしかない。テクニックはもうそこそこだし、センスもウン十年後に追いつくかもしれない。しかし身体能力は仮に改善できるものだとしても数世紀レベルかかるから、戦術重視というのは日本サッカー永遠の課題といってもいい。ただし、それは決して悲観すべきことでもない。日本は国土が狭いし資源もないから、それがバネなってここまで発展してきた側面もある。多少はハンディキャップがあったほうが強くなれる場合もあるのだ。

話はそれるが、身体能力というのもJリーグが始まったころから使われ出した言語明快・意味不明な言葉の1つ。サッカー界はそういう言葉づかいが好きなのかな。とりあえず私がここで意図しているのは、簡単にいえば図体の大きさや強靱さ。なんたって走りながらぶつかり合う競技だからね。ヘディングは空中戦だし。




さて、というわけで日本の場合、戦術が大切だということは理解できるとして、それが「自分たちのサッカー」という言葉に落とし込むことが疑問だし危険だとも思っている。

自分たちのサッカー=日本代表が取るべき戦術の内容は私にはチンプンカンプン。ある程度サッカーに詳しければ具体的なプレー方法を説明できるのかもしれない。しかし確信しているのは、その内容は十人十色に違いないいうこと。代表メンバーはもちろんとして、ザッケローニ監督まで自分たちのサッカーを連発しているが、その定義は微妙にずれているはず。

どの程度、共有化あるいは一本化されているんだろうね。
もっとも「自分たちのサッカーとはこういうプレーである。その1ーーー、その2ーーー」とマニュアル化されていなくても、トップアスリートの集団だから6〜7割メンバーの向いている方向が同じだったら、それで充分な気もする。

だから自分たちのサッカーの中身は別にどうでもいい。
問題は3つある。


まずは、自分たちのサッカーという言葉が持つ魔力である。日本人なら〜〜とか、大人なんだから〜〜などと同じように、どうにも逆らいがたい言葉の力を持っている。その先にあるのは盲信=それさえ言っておけば問題が解決したような気になる=思考停止である。あまりに皆が口を揃えて自分たちのサッカーというので私はそれが気掛かり。表現的には「自分たちの」というところが曲者(くせもの)。ここがもっと具体的な内容なら議論は建設的になるはず。


2つめの問題は、この言葉が内向きな発想に向かわせること。言葉というのは侮りがたいパワーを持っていて「自分たちのサッカー、自分たちのサッカー」と念仏のように唱えていると相手の分析がおろそかになってくる。自分たちのサッカー=日本チームの戦術が何パターンあるか知らないけれど、それがツボにはまって通用する相手は何チームある? 冷静に考えれば当たり前のことなのに、それをどこかに忘れてしまうのが自分たちのサッカーという言葉の恐ろしさである。


最後の問題は2つめとも絡む。不思議なことに負けたら「自分たちのサッカーができなかったから」という論調ばかり。相手が強ければ自分たちのサッカーをさせてもらえないのは当たり前なんだけどな。だから自分たちのサッカー=日本の長所を生かした必殺の戦術があるとしたら、ほとんどが格上相手となるワールドカップでは、それとセットで自分たちのサッカーができる状態に持っていく戦術が必要になる。もちろん後者の戦術は相手によって千差万別になるはず。必殺技をいくつかを研けば勝てるほど甘くはないのだ。自分たちのサッカーという言葉は甘美で幻想的だから、それを「する」のと「できる」との違いもあやふやになってしまう。


4つめを付け加えるならば、自分たちのサッカー=必殺の戦術ということもあり得ない。それはあまたあるサッカーの戦い方の中で、日本のプレーヤーに向いているパターンということに過ぎない。自分たちのサッカーは自分たちにしかできないサッカーでは決してないはず。だから自分たちのサッカーは、相手のレベルが高ければ予測されて対策される。コートジボワール戦はまさにそういう展開じゃなかったけ。ビジネスで新規事業というと期待が高まるが「自社の新規事業はヨソの会社の既存事業」でもある。新規事業も自分たちのサッカーも言葉に夢を見ている点では似ている。



あまり考えすぎると身も蓋もなくなっちゃうかな(^^ゞ 本当は「なぜ大久保をもっと早く出さない」とか「ドログバが後半出てくるのはわかりきっていたはずだろ」とか言ってみたいけれどサッカーの知識がないもので。だからこれも「私のサッカー」の楽しみ方。タワゴトにつきあってくれて感謝。

ちなみにドログバは日曜日に初めて知ったので、マスコミが言うほどには彼に引っかき回されたという印象は受けなかった。得点に絡みもしなかったし。印象は情報の有無にも左右されるということかな。

いろいろ書いたが、たまには信じるものは救われると神頼みも悪くない。
ギリシャ戦では自分たちのサッカーをつらぬいてガンバレ・ニッポン!!!

平日早朝だからアルコール抜きの観戦なのが淋しいーーー(^^ゞ

wassho at 23:32|PermalinkComments(0)

2013年10月07日

神様から信者へ 2

ビックリした最上位顧客の呼び方というのは「信者客」。ビックリした理由のひとつは「お客様は神様です」という従来の価値観から180度転換しているから。もうひとつは信者客というネーミングのニュアンスである。


もっとも私は「お客様は神様です」とは思っていないし、その考え方が日本のマーケティングをミスリードしているということは以前にも書いた。ちなみにこの有名な言葉を吐いた三波春男自身も、言葉が一人歩きしていることを危惧していたようである

神様と信者じゃ立場は180度違う。しかし、このネーミングを思いついた人たちは、ありがたい客の条件を考えていったら信者というキーワードにたどり着いただけで、神様というコンセプトを否定しようという意図はなかったみたいである。

商品やサービスを気に入って何度もリピートしてくれる。支払いや態度に問題がなければ、これはありがたい顧客である。信者客には、さらに次のような要素が加わる。

  その商品やサービスの評判を広めてくれる。
  友人知人をに、その商品やサービスを薦めたり店に連れてくる。

変わった宗教の信者と同じかな(^^ゞ もちろん信者になってもらえるほど商品やサービス、あるいは接客やアフターサービスを高めようとすることは決して悪いことではない。それでも信者客というネーミングには抵抗がある。あなたの名前が田中だとする。お店ではあなたのことを内部で「VIPの田中さん」と呼んでいると知ったら悪い気はしないはず。でも、それが「信者の田中さん」だったら?


それとこれは最近の傾向で、しかも主にネットの中の世界の話だが、例えばアップルの信者、ソニーの信者などという場合には次のようなニュアンスがある。

  その会社の製品を盲信している。
  他社の製品やそのユーザーの悪口を言う。

ネットの中の世界の話と書いたが、とっくの昔にネットは特殊な存在ではなく実社会と表裏一体だから、客とかユーザーの文脈で信者という言葉を聞けば、こういうネガティブなイメージを連想する人も多いはず。信者客という言葉が作られた当時は、こういうネガティブなイメージはこの単語にはなかったのかもしれない。しかし今の時点の感覚で「信者客を作りましょう」などとと聞くと「盲信するくらい取り込んじゃえ、洗脳しちゃえ、そして新しい客を勧誘させろ」というようなマーケティング戦略かと思えてくる(人もいるはず)。

また仮にアップルの信者、ソニーの信者などという用法が生まれていなかったとしても、信者というのは従属する存在だから、それを顧客のネーミングに使うのは元もと筋が悪い。「信者の田中さん」と呼ばれていい気がしないのは上から目線を感じるからである。


え〜オチもシメもありません。
信者客だってーーーというお話でした。


おしまい

wassho at 00:18|PermalinkComments(0)

2013年10月03日

神様から信者へ

マーケティングにおいて顧客を、その取引状況に応じて階層的に分類することがよくある。例えば「新規客←→既存客」というのは今まで買ったことがあるかどうかの単純な区別である。既存客の中でも「一度だけ買ってくれた客←→たまに買ってくれる客←→いつも買ってくれる客」などと別けられる。よく買ってくれる客でも「安いものしか買わない客←→高いものを買う客」がいる。分類の視点は目的に応じて様々だが、要は儲けさせてくれる度合いや重要性で顧客をランキングする考えである。


こんなランキングをするようになったのは「顧客の中の上得意客2割が売上の8割を占めている」などといったパレートの法則的な発想がベースにある。そしてそれはロイヤルティマーケティングという考え方につながっていく。ロイヤルティマーケティングというのは、その2割の上得意客を大事にしましょうというマーケティング。

ただし日本人はこのロイヤルティマーケティングが苦手である。2割の上得意客を大事にしましょうということに反論は出ない。ただしこれは、残りの8割を切り捨ててでもという意味なのである。

切り捨てなくてもいいじゃないかと思われるかもしれないが、これは単純にパイの奪い合いの問題。企業の対応能力は一定なので、今まで顧客全員に平等に対応していたものを、2割の上得意客に80%のパワーをさけば、残り8割には20%のパワーしか残らない。平等の価値が尊ばれる日本では、こういうことにものすごく抵抗がある。

それで結局、2割の上得意客にも残り8割への対応に毛の生えた程度のことしかできない(当然、上得意客はその対応では満足しない)。出来の悪い企業なら、挙げ句の果てに「我が社の対応能力を上げて、上得意客に最善を尽くすのはもちろん、その他の客にも今まで以上の対応をしましょう」なんて精神論に置き換わってしまう。



ちょっと話がそれたが、顧客を階層的に分類するという話。どう分類するかはもちろん様々。垂直的に分類されるとは限らないが、例えば

    最重要顧客
      ↑
     得意客
      ↑
     一般客
      ↑
     新規客

と分類したとする。もちろんネーミングも様々で最重要顧客はVIPとかスターゲストなんて呼ばれたりもする。ところで先日、ちょっと衝撃的な最重要顧客のネーミングを目にした。


ーーー続く

wassho at 23:09|PermalinkComments(0)

2013年08月31日

パスとスルー

何か提案があった時に、例えば「飲みに行く?」と誘われて「やめておく」というかわりに「パスする」という言い方をする。最近は「スルーする」という言い方も多くなってきた。私も割と使っているような気がする。

パス(pass)には「渡す」「通す」という意味の他に「遠慮する」という意味があるので、やめるという意味で「パスする」というのは日本語と英語のチャンポンといえる。しかし英語のスルー(through)に「終わった」という意味はあるが「〜を通って、〜を使って」という意味がメインで「やめる、遠慮する」という意味は辞書に載っていない。だいたい動詞でもない。だから「スルーする」というのは「通り抜ける→接触しない→関わらない」と拡大解釈された和製英語としての使い方だと思う。またその拡大解釈の変形で「無視する」という意味でもよく使われる。

スルーという言葉が最初に使われたのは、マクドナルドのドライブスルーが最初だといわれている。しかし「スルーする」と動詞的になり日常会話的に使われるようになったのは、サッカーの「スルーパス」というテクニックが知られるようになってからだと思う。スルーとパス、先輩後輩がセットになっている偶然がおもしろいと思った、ただその話だけのエントリーでした。

wassho at 13:38|PermalinkComments(0)

2011年04月11日

桜と自粛と想定外

日曜日は東京の調布市というところに所用がありバイクで出かけた。考えてみれば実用目的でバイクに乗るのは初めて。往きは環七〜甲州街道と当たり前の幹線道路を使ったが、帰りは多摩川の川沿いの道路を走った。ところどころに桜並木がある。場所によっては桜の花のアーチをくぐるような所もある。花見に出かけたわけじゃないけれど満足して帰ってきた。そんなつもりはなかったのでカメラは持参せず。


3.11の影響で花見も自粛ムードがある。きれいな桜の花には何の責任もないとしても、まだ地震からそれほど日数がたっていないので、そう考える人がいることは理解はできる。ただ何でもかんでも自粛自粛というのはもちろん間違っている。普通に暮らせる人は精一杯普通に暮らすべきである。ただでさえ落ち込む経済にますます金が回らなくなってしまう。


自粛という言葉が広く使われるようになったのは昭和天応崩御の時からだ。あの時も今もそうだが、「自粛して欲しい」とか「自粛を要請する」とか日本語になっていない表現が平気で使われている。自ら遠慮してこそ自粛なのだが、その辺は日本人が得意の建て前と本音の使い分けである。あるいは禁止といえば角が立つけれど、自粛をお願いするという曖昧な表現で丸く収めようとする、実際それで収まってしまうというのもアウンの呼吸が通ずるこの国ならではであろう。自粛という言葉ほど、従順な日本人の国民性を表しているものはないかもしれない。


もう一つ今回よく使われている言葉が「想定外」。これはライブドア事件の時にホリエモンがよく使って流行語にもなった「想定内」の変形バージョン。主に原発に今回のような大きな津波が来ることは予想していなかったという文脈で使われている。でもこの言葉はクセ者だ。

宇宙人が襲ってくるとか、原発の下から突然火山が噴火するとか誰もが考えてみなかったことが起きた場合に使うのが、本来の想定外という言葉である。東京電力は想定していた津波の高さは5メートルで、15メートルの今回の津波は想定外と説明しているわけだが、これはチャンチャラおかしい。

15メートルなんていうのは空前絶後の大波ではない。ハワイのノースショアあたりじゃ嬉々としてサーフィン大会が開かれる程度の大きさである。つまり東京電力の言い訳を正確な表現に修正するならば、5メートル以上の津波が来る確率は福島ではとても小さいので、安全対策基準の「考慮外」としたということである。もっとも30メートル50メートルなら考慮外かもしれないが、たかだか15メートルなら「見て見ぬふりをした」というべきか。


想定外という言葉には「だから責任はない」という言い逃れ、あるいは「結果責任は(仕方がないから)負いますが、対策そのものは正しくやってきたんです」という正当化のニュアンスがどことなく漂う。そのいやらしさがどうも気になる。

もちろん確率の小さな危険性は想定しても考慮しないというロジックは当然である。今後問わなければいけないのは、5メートル以上を考慮外とした判断の正当性である。(改めて問わなくてもアホな判断だったことは明白だが)

もっとも、これもたんなる表現を軟らかくする日本語のテクニックかもしれないし、ならばそんなに目くじらを立てる必要はないかもしれない。でも放射能事故と「花見の自粛を要請する」はやはり同じ次元で考えてはいけないとも思う。


花見の自粛に話を戻すと、東京は昨日一昨日あたりがもっとも見頃で、そろそろ葉っぱものぞき始めたけれど、これから本番を迎える地域ではこんなアイデアはいかが?

  花見は盛大にやる。
  いつもより盛大にやって、客寄せに芸能人なんかも呼んで
  どんどん人に来てもらう。
  それで花見会場で義援金を集める。
  チャリティーオークションなんかもいいかもしれない。
  一杯ひっかけたら財布のヒモも緩むしね(^^ゞ

wassho at 17:38|PermalinkComments(0)

2010年11月17日

法務大臣のコメント

   個別の事案についてはお答えを差し控えます
   法と証拠に基づいて適切にやっております

「法務大臣は楽だ、国会答弁では上の2つを覚えておけばいいんだから」といったのは柳田法務大臣。う〜ん正直者(^^ゞ


朝のニュースで、怒り狂って質問している自民党の議員が映っているニュースをチラッと見たけれど、歴代の、つまりはついこの間までの自民党の法務大臣もこういって国会を切り抜けてきたのも事実。

それはともかく
「法と証拠に基づいて適切にやっております」というのは当たり前の状況説明なので、こういう答弁で逃げられるというのは、質問者が具体的な追求をしなかった、つまり質問者に力量が足らなかった結果といえるかもしれない。


「個別の事案についてはお答えを差し控えます」というのはちょっと不思議。コレで国会あるいは世間が何となく収まるのだが、個別の事案ならなぜ差し控えるのかの根拠あるいは論理ははっきりしない。誰かそこを突いてくれる頭脳明晰な議員はいないかな?


国会じゃないけれど、昔から疑問に思っているコメント。

何かで、誰か、あるいはどこかの会社が訴えられたとする。
マスコミが取材に押しかける。
そこで出るお約束のコメントは

  「まだ訴状が届いていないのでコメントできない」

訴状が届いた頃に、もういちど取材に出かけてコメントを取ったニュースを、未だかつて私は見たことがない。


訴状が届いていないといわれるのがわかりきっているのに、訴状がいつ届くかはマスコミなら容易に把握できるのに、毎度、大勢で押しかけてこんな無意味なコメントをニュースにするマスコミって不思議である。

wassho at 20:08|PermalinkComments(0)

2009年07月10日

国語と数学の関係者にお願い

     36,682,100,000


この数字をサッと366億8210万と読めるなら、あなたは仕事で大きな桁数の数字を扱い慣れているか、大金持ちかのどっちかだ(^^ゞ


数字は3ケタごとに位取りのコンマが入る。一方で日本語は千の次からは4ケタごとに単位が変わる。


      1,000,000,000,000
           億    万千 百十一


だから、コンマと単位の言葉が一致しない。
数字の位取りが三ケタなのは、欧米系の言語が元になっているから(たぶん)。
英語以外は知らないけれど、英語に「万」という単位はない。


    1,000  千  サウザンド
   10,000  万 10サウザンド

となる。

そしてサウザンドの次は順番に

    1,000,000  百万  ミリオン
  1,000,000,000  十億  ビリオン


と三ケタごとに単位が変わっていく。

ちなみに次は三ケタと四ケタの公倍数になるので、日本語も英語も同じく単位が変わる。


  1,000,000,000,000  兆  トゥリリオン




とにかく言葉の単位と、コンマの位取りが一致しないから大きな数字を把握しにくい。冒頭の数字がもし日本語の単位に併せて

     366,8210,0000  366億8210万

と位取りされていたなら、ずっと読みやすいはずだ。



なぜ日本語に万という単位があって、4ケタで単位が変わるのかは知らない。別にその理由はどうでもいい。そして日本も含めて世界中で、数字は3ケタでコンマを入れることになっており、これはもう変えようがない。


でも本日は無理を承知で “国語と数学の関係者にお願い。大きな数字をパッと読めるように何とかして。日本語の単位と数字のコンマの折り合いがつくような知恵を絞って” の下書きでした。

wassho at 13:33|PermalinkComments(0)

2009年05月18日

代理と代行

民主党の新体制は以下となった。

代表:鳩山由紀夫
代表代行:小沢一郎、菅直人、輿石東
幹事長:岡田克也

19日が正式承認ということで、まだ民主党のホームページは小沢一郎が代表のまま。今見られる2007年8月31日付けの組織表では、幹事長の上に副代表というポストもある。数えてみると代行や副もふくめて代表職は10名もいる。さらに代表より上位に最高顧問が3名。民主党は寄り合い所帯とよくいわれるが、そんな体質がここにもあらわれているような気がする。自民党は代行という職は見当たらないが、やたら〇〇代理という職がある。


ところで代理と代行って何が違うか知ってる?

辞書で調べても今ひとつはっきりしない。
中には「代理が職務を代行する」という表現もあったりする。

昔、大学の授業で習った記憶によると

   代理:その人の代わりで職務をすること、する人。
      例)社長の代理で出席する

   代行:ある職に就いている人が辞め(あるいは亡くなり)、
      その職に正式に就いている人はいないけれど、
      臨時にその職に就いている人のこと、臨時に職務を行うこと。

この説に従えば、元となる本人がいる・いないかが代理と代行の分かれ目。何となくスッキリしているので、私はこの解釈が好み。もっとも、この説では民主党の代表代行は説明できない。民主党には〇〇代理という職もあるので、代行と代理をどう使い分けているのか説明責任を果たしてもらいたい(^^ゞ


名刺交換をすると、部長代理という肩書きの人がたまにいる。
意味は二つある。

部長になる能力はあるけれど、まだ若くて、あるいは部長のポストが詰まっているので部長代理になっている場合。

部長になる能力はないけれど、歳もいっているので下のポストのままにしておく訳にもいかず、部長という肩書きをお情けで授けられている場合。


日本的なバランス感覚というべきか、年功序列の遺物と見なすべきか。

最近はさすがに見なくなったが「部長心得」あるいは「課長心得」という肩書きの名刺をもらったことが、今までに5回くらいある。意味は〇〇代理とほぼ同じと理解している。しかし「心得」という「気持ちの問題」を対外的な肩書きに使うなよ〜というのが正直な感想。


これは私の経験則あるいは偏見であるが、〇〇代理という肩書きの人が多い企業は体質が古く、少なくともマーケティング的にはパッとしないところが多い。政治は企業経営よりもっとパワーゲームだけれど、〇〇代行や〇〇代理という自己満足・内輪目線な職制をなくすことも政治改革につながるーーーかも。

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2007年10月03日

グラフィティの謎

夜中にテレビのチャンネルをいろいろ回して(押して?)いたら、24(TWENTY FOUR)をやっていた。ほとんどの人が知っている有名なテレビドラマだと思うけれど、ご存じない方はこちらの 公式ホームページで。


昨日はドラマが始まる前に関根勤が、歴代24で印象に残るシーン・ベスト3を選んでいた。私のベスト1は、ライバルのテレビドラマである「プリズン・ブレイク」の主人公が「そんな話で24に勝てるか!」という例のコマーシャルである(^^ゞ


24はとてもおもしろい作品だと思うが、やっぱり長いし、深夜から明け方にかけての放送が多いので、残念ながらどのシリーズもポツンポツンとつまみ食い程度にしか観ていない。比較的早い時間から放送された昨日も1話半程度で寝ちゃった。DVDをレンタルあるいは買うという手もあるけれど、24時間分ミッチリ観たいかというとーーーウ〜ン、ソレホドデモというか、そんな暇ナイし。できたら1シリーズを3〜4時間のダイジェストにした作品を作って欲しい。


さて24は、その題名の通り事件の発生から解決までの24時間を追ったドラマである。つまりストーリーは1日で収まる。昔観た映画 “アメリカン・グラフィティ”も1日分の物語だった。内容はすっかり忘れてしまったが「たった1日分の出来事」が映画になっていることを新鮮に感じたことを今でもよく覚えている。


さてさてアメリカン・グラフィティは英語で書くとAmerican Graffiti。意外と知らない人が多いのだが Graffiti とは「落書き」という意味である。あの映画はアメリカのティーンエイジャーの青春のひとコマを切り取ったような映画だから、「アメリカの落書き」とは、まさにぴったりのネーミングだ。


なんだけれど、日本ではグラフィティは「フォトグラフのグラフ」の連想からか写真集みたいな意味合いで使われていることも多い(実は私も昔はそう思っていた)。この サイトは写真紹介がメインだし、この著名な自動車評論家が 書いた本も写真が中心のようだ。このサイトの写真アルバムのページが ココなのだがタイトルにあるGraphyty という単語は辞書にはない。 ココも写真がメインみたい。このGRAPHITYという単語も辞書に載っていない。あの 山口百恵の写真集もGRAPHITYである。


なぜ落書きが写真になったのか? 私の解釈が間違っている? 英語じゃないのか?ーーーナゾは深まるばかり。これはぜひジャック・バウワーに解決してもらいたい(^^ゞ

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2007年06月12日

ドタバタとジタバタの大いなる違い

いや〜、ちょっとドタバタしてましてぇーーーというのは、ビジネスではよく耳にする表現だ。しかし私はドタバタと慌ただしいのが嫌いである。ドタバタするのはイライラすることでもあるから、イライラしたくないという気持ちもあるし、ドタバタしたらミスもしやすいというのも仕事的な心得としている。仕事というのは段取りで半分以上決まると考えているので、ドタバタするのは私にとっては失敗という意味に等しい。しかし世の中にはドタバタと慌ただしい、忙しいことに充実感を感じる人の方が多いかも知れない。それは人の好きずきだとしても、本当に段取りの悪い人とはできるだけ仕事をしないようにしている。

まあ、とにかくドタバタしないというのは、普段そんなに意識しているわけではないが、私のモットーのひとつかも知れない。ドタバタしないように何かと前もって苦労している。


さて、ただ音が似ているだけで、実は何のつながりもない話であるが ↓

昨日の深夜、NHKの「プロフェッショナル」という番組で、あるデザイナーが取り上げられていた。この番組は様々な分野で活躍する一流のプロの仕事現場を紹介するドキュメンタリーのような番組。

そのデザイナーのことは、かなり酔っぱらって観ていたので名前も作品も覚えていないし、番組内容自体も実は記憶が曖昧。しかし印象に残っていることがひとつ。インタビューで彼は


    最後までジタバタすることを仕事のポリシーとしている

ーーーというようなことをいっていた。

私の仕事もそうだけれど、デザインの仕事というのは正解はないし、ここまでやれば完成という終わりが決まっているものでもない。純粋な芸術活動なら、ずっと追求できても、仕事である限り期日もあれば予算その他の制約もある。その中で最後の最後まで、作品をより正解・完成に近づける努力を彼は「最後までジタバタする」と表現していたように思う。


最後までジタバタすると言葉で意識したことはなかったにしても、私も同じようにしてきた気がする。ジタバタすればするほど、最後の最後で何か閃いたり、今ひとつ納得のいかなかった課題の整理が、すっと1つの論理に落ちていくようにまとまったりする。でも最近、ちょっとグータラこいて最後までジタバタすることが少なくなったかな(^^ゞ


というわけで本日は自戒も込めて “最後にドタバタしないで、最後までジタバタすべし” の下書きでした。ひと文字違うだけなのに、日本語っておもしろいね。

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2005年10月12日

そういうことがあったかもしれない

橋本元首相が歯科医師連盟からの不正献金の裁判で、私は貰ってないはずだけれど、他の人の話から「そういうことがあったかもしれない」と証言した、いや、しらばっくれた。


この手の発言で最も有名なのは、ロッキード事件で小佐野賢治氏が国会喚問で連発した「記憶にございません」だろう。知らないといえばウソになる、忘れた思い出せないといえば、では事実があったのかと突っ込まれかねない。記憶にないというのは実に巧妙な受け答え。当時はちょっとした流行語にもなった。私が高校生くらいの時の話。それと較べると「そういうことがあったかもしれない」という橋本元首相の証言は気が小さいというか、ある意味では良心的というか、彼の性格が現れているように思える。


結局、小佐野氏は証人喚問の偽証罪には問われなかった。記憶にないのだから証言しない、だから偽証そのものが成り立たない。不正とは思うが不法ではない。国会が想定外のレトリックで事態を切り抜けた。悪人ながら見事というしかない。(その後、本命の罪で逮捕されたが)


別に悪事を勧めている訳じゃない。汚職はいけないことだが、こういった知的闘争力が必要な局面は政治の世界にはある。例えば外交。緊迫した事態の外交最前線なんて経験はないものの「そういうことがあったかもしれない」なんて発言しては、うまく立ち回れるはずもない。ビジネスでもときには丁々発止な駆け引きが必要。いつ村上氏やホリエモンがあなたの会社の株主リストに名を連ねるかわからないのだから(^_^)


本日は短く“言葉は身を助ける”の下書きでした。


ところで私が政治家のしらばっくれで一番覚えているのは「記憶にございません」ではない。鈴木善幸元首相が汚職だったか不正献金で得たお金を「貰ったんじゃない。預かっているだけ」と反論したこと。実はそんな屁理屈を冗談で考えていたことがあって、それを本当に言った人間が現れ、それが元首相で、なおかつ、それで罪を逃れたからビックリした次第。う〜ん残念ならが私はまだ言ったことがない。誰か私に預けて(^_^)

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2005年09月29日

ギャル三段活用

27日のオヤジ三段活用にワルのりして(^_^)

ギャルの言葉を広めたのは沢田研二である。あまりに昔のことでいつだったかも思い出せないが「OH!ギャル」との曲名だったと思う。曲は大ヒットし、なぜかギャルは流行語になった。当時は大学生以上24歳くらいまでがギャルの相当年齢。年齢以外に特にギャルの要件はなかったように思う。つまり若い女性の総称。ガールでは、もっと幼く子供のイメージがあるので、ギャルで微妙に年齢差を表現したのが日本語らしいといえばらしい。結構長く流行語として君臨したとは思うが流行語の宿命で、やがて「ナウいヤング」と同じように死語の運命をたどる。


ギャルは10年か20年の死語の時代を乗り越え、1990年代中半に突如コギャルとして復活する。ご存じの通りコギャルは女子高生が対象。ギャルの下限年齢より下だからコをつける律儀さが、やはり日本語的。コギャルを誰が命名したかはよく知らない。社会的にも、消費的にも存在感を増した女子高生を象徴するネーミングとしてマスコミが使い始めたのがきっかけのような気がする。その存在感を増した女子高生は、やがてガングロ・ヤマンバやエンコーなど凶暴化?するものが現れ、それと共にコギャルという言葉のイメージもダウンしたように思う。まだ死語ではなくても言葉としてのピークは過ぎてしまった。


ところがギャルの単語はしぶとく行き残り、現在ギャルといえば、高校生から20歳くらいまでの女性で、ある特定のファッションを好む女性を指す。このファッションの説明は難しい。まあ、ちょっと派手目なカジュアルとでも言おうか。凶暴化したコギャル・スピリットを引き継いでいるともいえなくもない。それらはギャル系ファッションと呼ばれて、それを着ているのがギャルになる図式。


沢田研二の頃のギャルのイメージと、今のギャル・ギャル系ファッションとは何のつながりもない。本日は“1文字のコをつけて復活し、コンセプトを変えターゲットを変えて生き延びる「ギャル」に学ぶ時代に対応するとは何か”の下書きでした。


追伸
ウインドウズだと、文字の端が読めなくなっていると苦情が来たので、レイアウト変更試行錯誤中。このネタもいずれブログで。

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2005年09月27日

オヤジ三段活用

オヤジという言葉は、かつて父親や父親のような存在の人に、くだけた物言いで親しみを込めて呼ぶ尊称だった。否定的な意味合いで使うときはクソオヤジとかダメオヤジとかの接頭語が必要だったくらいである。


15年前くらいからであろうか、オヤジはさえない中高年男性を意味する蔑称となり、やがて中高年男性全体を指し示す代名詞となった。オヤジ狩りなどという言葉も生まれ、オヤジギャルなどという反転・転用形などにも発展する。いずれにしてもオヤジは尊称から忌み嫌われる言葉へと180度に変化した。なお、この意味でのオヤジの女性名詞にはオバサン、ババアなどがある(^^ゞ


やがて年月が流れデブヤ・オヤジダンサーズなどのヒラキナオリ活用をへて、まだ世間の一部ではあるが、オヤジにカッコイイ意味合いが付加されようとしている。その仕掛け人は最近何かと話題の雑誌レオンである。「ちょいワル」「ちょいロクデナシ」などの提案が世のオヤジの心をくすぐっているらしい。


レオンに関してはいずれ、いろいろ研究してみたい。編集内容だけでなく雑誌のビジネスモデルとしても注目されているが、この雑誌は先端層でもド・マスでもなくマーケティング的には一番おいしそうな中間ゾーンをつかまえる魅力がありそうである。実は、まだパラパラと立ち読みしかしたことがない。あんなストレートな記事タイトルの雑誌を買えるほどにはプライドを捨てられない(^^ゞ

それで、例によってレオンとはまったく関係ないのだけれど、本日は“世は栄枯盛衰。日産の三段活用(上昇中)とかソニーの三段活用(下降中)とかを考察してみるのも何かと面白いかも。四段目はどっちだ”の下書きでした。ご自身の三段活用も是非に。

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2005年08月31日

銀行の支店という用語

先日、東京三菱銀行から郵便が届いた。まだ中身は見ていないがUFJとの合併が延期になったことの案内だと思う。今回と来年1月の合併直前にも案内が来るはず。おそらく億単位の支出。気の毒というべきか、高く付いた判断ミスである。


ところで銀行には普通の会社と違った言葉の使い方がある。一番偉い人は頭取である。頭取ではなく社長の肩書きの銀行もあるが、どういう使い分けがあるかはちょっと知らない。同じ金融機関でも証券会社は頭取ではないから銀行独特の用語なことは間違いない。

それと普通の企業では「株式会社○○」みたいな感じで株式会社ということを常に表記するけれど、銀行はあまりしない。都市銀行はすべて株式会社○○銀行であるが、名刺にも株式会社と書いていないことが多い。


さてである。自宅近くの銀行店舗は〇〇支店であり、そこの責任者は支店長。しかしマクドナルドもセブンイレブンも店舗は〇〇店であり、そこの責任者は店長である。


支店と店、支店長と店長。ふだんは気にも掛けない言葉の使い方かも知れないが、支店というのは視線が客ではなくて本店を向いている気がしなくもない。銀行でも○○店、店長、ついでに行員ではなくて店員でもいいはずだ。店員ではなく行員と呼ぶのは顧客志向とは無関係なプライドという気もする。


リテイルバンキング、すなわち個人客を大切にするという戦略に舵を切った銀行は増えてきた。しかし、はっきり言ってヨソも言っているからウチもというところがほとんど。マーケティング戦略的には正しいが本気が感じられない。もし店、店長、店員という銀行が現れたら、そこは本物。

本日は“意識改革、用語を見直すのも大切。言霊(ことだま)ってある”の下書きでした。

ところでどの銀行も本店はある。そこの責任者は店長?本店長?

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2005年05月17日

戦略・戦術=脚本・演出

仏外人部隊の存在など話題になる最近であるが、マーケティングで使われる言葉には軍隊用語から転じたものが多い。


代表的なのは「戦略」「戦術」。あまり詳しくないが軍事的には戦略、戦術、戦闘とレベルわけするらしい。戦略とは何か、何を持って戦略の要件とするかーーーという概念論、というかそれを通り越した精神論や神学論争はマーケティングや経営論の分野には溢れかえっている。お好きな方はどうぞお調べ下さい。不思議なことに戦術とは何かという議論はあまりない。結構、大事なポイントだと思うのだが、そういえば私もあまり深く考えたことはない。


ある人から面白くわかりやすい例えを聞いた。あまり堅苦しく考えず

    戦略=脚本

    戦術=演出

と言い換えた方が、より多くの人が理解できる=実効性のある「イキイキとした」戦略立案になるというもの。


大賛成である。本日は“難しいことをわかりやすくいうのがプロのコンサルタント”の下書きでした。ついでにいうと、難しいことを難しくいうのは二流だが、簡単なことを難しくいうのは、これまた一流のコンサルタントである。そのうち説明します。

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2005年03月29日

食事を済ましちゃいけない?

昨日に書いたブログ。書きながら気にはなっていたのだが「業者」という表現をしてしまった。私はこの言葉が嫌い。何となく相手を一段低く見ているようなニュアンスがあるから。「出入りの業者」なんて言葉はとても感じが悪い。


じゃなぜブログに業者と書いたのか。それは他にいい表現が思い浮かばなかった、考えている時間がなかったから。企業とか会社と書いても間違いではないけれど、もう少し個人とやりとりしているニュアンスを出したかったのかもしれない。それでも「プログラムとはちょっと筋違いの業者に」ではなく「プログラムとはちょっと筋違いの企業の担当者に」とは何となく書きづらかった。私の感覚では業者は、企業もその従業員も両方含む言葉。


しかし、業者は私としては使用禁止用語なので何か対策を考えなければーーーと思ってはいるものの、すぐにはいいアイデアもない。そうだ!どうしても業者という言葉が必要なときは、とりあえず「業者さん」と呼ぼう(^^ゞ


言葉の感覚は人によってずいぶん違うから、私の意見を理解できない人も多いかもしれない。出入りの業者さんで??と感じる人もいるはずだ。それはある程度仕方がない。


某一流企業、ここの人たちのほとんどは私に何か書いて送ってくるとき「晴れ時々マーケティング殿」と殿づけする。「殿」は上位のものが下位のものを丁寧に呼ぶときに使う言葉。私の感覚ではそうだし、どこかでそう読んだこともあるから、これはたぶん日本の常識。


その一流企業の皆さんは私を下位のものと扱っているわけでは決してない。たぶん彼らの感覚では「様」より「殿」のほうがより高級な言葉なのだ。私より常識のありそうな人たちばかりの会社なのだが、これはもうその会社の企業文化というしかない。


言葉の感覚は人によってずいぶん違うーーー私がすごく印象に残っていることをひとつ。「お食事はもう済まされましたか?」と尋ねるのは、いつもは「メシもう食ったぁ?」という私にとって、とても上品で丁寧な言葉なのである。しかし、どこで読んだか忘れたが「済ます」という言葉に憤慨している人がいた。その人の感覚では「済ます」というのは「片づける」とか「処理する」というニュアンスで、食事という大切な行為を「済ます」とは何事か、そんなことだから社会が乱れるのだー(怒)というような主張だったと記憶する。


その主張を理解できなくもないが、私の感覚とはちょっと相容れない。いずれにせよ何とも言葉遣いは難しい。

本日は〜という、いつもの締めを最近どうも書きづらい。中国日記を書いてから調子が狂ったかも? そのうちまた提案型のマーケティング・ブログに戻すので、気長におつきあいを。

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2005年01月25日

責任は「取る、取らない」 原因は「ある、ない」の問題

NHKの海老沢会長が辞任したとのニュースが流れた。

ことの是非はさておく。

基本的な流れはNHKのプロデューサーやディレクターが制作費をネコババしたり不正流用したりの悪事が発覚して、受信料の不払いが増えて、その責任として海老沢会長が辞任−−−という認識を私はしている。最近になってNHKと朝日新聞がもめはじめたが、時期的にも今回の辞任に直接の影響はないのだろう。(あまり詳しくないので事実誤認があるかも知れないが、本日のエントリーの趣旨に照らせば、それは重要ではない)


さて、責任という言葉を聞いていつも思い出すのは、こんな光景。

   社内ミーティング。
   あるプロジェクトで起きたミスについて誰が悪いのかという話になる。
   それなりの責任者が「私の責任です」と言う。
   責任者の部下が「私にも責任があります」と主張する。女性スタッフの場合は
   泣き出したりもする。
   かばい合い大会になったり泣きが入ったりで、結論を出せずミーティングが終わる。


皆さんも多かれ少なかれ、そういう体験はあるだろう。
多少の経験を積んで私が得た教訓は−−−

   責任と原因をはっきり区別する。
   責任は「取る、取らない」の問題。
   原因は「ある、ない」の問題。


海老沢会長の例を引くと、ネコババや不正流用を彼が指示したり彼が私腹を肥やしていたのではないから、原因は彼に「ない」。その意味ではお気の毒な話。 (管理怠慢とかは話がややこしくなるので省略) 
しかし事態を収拾するには彼が責任を「取って」辞任するしかなかった。それが上に立つ者の仕事でもある。


原因は真相追求だから白黒はつけやすい。しかし責任は人間的な要素が絡む問題だから対応が難しい。NHKも問題が起きた初期の段階でけじめをつけたのなら会長ではなく理事や局長クラスが責任を「取る」ことで収まっただろう。つまり責任とはまわりをどう納得させるかの交渉術でもある。真相とは無関係な場合も多々ある。


責任と原因をゴッチャにすると話がこじれる。何でも私の責任ですという人は正義感が強くても、まわりを混乱させることも多い。


本日は“責任を取る取らない、原因のあるなしを区別した議論で感情論を排し、無駄な時間を節約しよう”の下書きでした。ついでに“本当に怒るべきは朝日新聞ともめている件の真相解明だとも思うのだが、大衆(と、あえて書く)が反応するのはお金が絡んだわかりやすいテーマということも、大声でいう必要はないけれど心の片隅に覚えておこう”の下書きでした。


身体の具合は昨日よりは楽になりました。
心配頂いた皆さん、ありがとうございました。
でもまだ本調子じゃないのと、
こんな体調なのに何と今夜は徹夜でお仕事(涙) 
直メールのお返事やコメント返しは、
今しばらく放置プレーで御容赦をm(_ _)m

wassho at 22:59|PermalinkComments(2)

2005年01月17日

難しいは、面倒という意味

昨日は日曜日だったのに、勘違いしてマーケティング・ネタを書いてしまった。

と思っていたらいくつかのメールが。有名ブログへのトラックバックやランキング登録といった「広報活動」をほとんどしていないので、私のブログにつくトラックバックやコメントは少ないが、知り合いからの直メールはよく来る。


今回のメールの1つには「昨日のエントリーは、ロジック展開がいつもと違う」。さすが同業者、鋭い指摘をしてくる。実は昨日の「さて、もう1つの理由が今日の本題」と「名前を付ければ価値が高まる」の間に、もうひと文章あったのだけど省略した。ちょっと企業秘密(おおげさ)に関わるところがあって、それを避けながら書けると思って書き始めたのだけれど、なかなかうまくいかず時間が無くなってしまった。いずれ、そのうちにでゴカンベンを。


ところで最近マーケティングとは直接関係ないバックオフィス的な業務にいくつか携わり始めた。勝手が違うので難しい。いや違う。面倒くさい。

ビジネスにおいて相手から「それは難しい」といわれて、本当に実行や解決が難しいケースは滅多にない。大抵は面倒くさい。そうは言えないから難しいと言う。新しいことや挑戦的なことを始めるのは面倒くさいものなのだ。いろいろ準備しなくちゃいけない、あちこちに説明したり調整や根回しも必要、うまくいくのかとか失敗したらなども脳裏をよぎる−−−。いろいろ考え始めて「難しくなる」。


だから相手を説得するには、面倒さを感じさせない、面倒なところも一緒に解決するような提案が必要。若い頃は「難しい」をクライアントに連発され「こいつはバカか?」と本気で思ったものだ。私も少しは大人になった(^^ゞ


もうひとくさり。新しいことをする、違うことを始めるには最初に大きなエネルギーがいる。自転車をこぐのと同じ。最初を乗り切ればあとは普通だが、乗り切らない限り、ずっと苦しい。私も新業務を頑張ろう。おまえもガンバレ(←限定1名の読者向けメッセージ)

本日は“熱湯を注げばカップラーメンは3分でできるが、ぬるま湯だと永遠にできない”の下書きでした。

wassho at 23:28|PermalinkComments(4)

2005年01月05日

マツケンサンバと三波春夫

紅白歌合戦でマツケンサンバが白組の最高視聴率! レコード大賞でもマツケンサンバが瞬間最高視聴率!ーーーだそうである。実は私もマツケンサンバを見たくて、彼の出番を見計らって紅白にチャンネルを合わせていた。


楽しかったなあ。彼が唄っているあいだは、ずっとニコニコしていた気がする。あのイケメン将軍吉宗である。「成敗」していた人である。それが、これ以上派手な衣装はないというラメラメの着物で、腰元ダンサーズを引き連れてサンバのリズム。ちょんまげ姿もセクシーに♪恋せよアミ−ゴ踊ろうセニョリータ! 参りましたm(_ _)m


マツケンサンバのことは知っていたけど、もっと余興ぽっいものを想像していた。違う。あれは本物だ。観客を楽しまそうというエンターテイメント魂に溢れている。松平健の舞台を観たオバサン・バアサンが元気いっぱいになって劇場から出てくる姿が浮かんでくる。最近はコンサートもあるらしい。行ってみたいような(^^ゞ


実は紅白でマツケンサンバを観ながら、私は三波春夫を思い出していた。共通点は一級のエンターテナー。それより派手な着物が連想させたかもしれないが。
一時代を築いた国民的歌手。そして「お客様は神様です」の言葉を残した人物。彼のことを知らない若い世代でも、この言葉は聞いたことがあるはず。


しかし、まったくもって彼の責任ではないが「お客様は神様です」は日本のマーケティングをミスリードしている言葉だ。

■客に対してへりくだるのは得意だが、フレンドリーに接することができない。
■客の発する言葉の裏にある意味までを探ろうとしない(何たって神のお言葉だからね)
■客の無理難題に答えること「だけ」が正しいと思っている。
■客にNOという勇気がない。
■客に対する悪しき平等。儲けにならない不要な客まで抱え込む。

普段の生活で感じるのは1番目だろう。デパート、ホテル、航空会社、金融機関、その他ちょっとレベルの高い店では神様である客をハレモノのように扱う。多少のプライドはくすぐられるかも知れないが、ちっとも楽しくない。あまり経験はないが海外の一流ホテルやレストランは、もちろん礼儀正しいがもっとフレンドリーだ。そしてそれが好感度につながっている。日本では客とのあいだに壁がある。例えばホテルのチェックインの時、神様なのに私はいつも緊張する。


客を客扱いしていない時代があった。そんな時に「お客様は神様です」はまさに神の声に聞こえたというのが私の仮説。もともと謙譲が美徳の国だ。お客様は神様ですは国是となりDNAに刷り込まれた。CS(Customer Satisfaction:顧客満足)ということが盛んに叫ばれた時期にもピントのずれた議論は多かった。


長くなったので結論を急ごう。お客様は神様ではなく「人間様」。神様でも客でもなく人間扱いすることが大切。神や客だとへりくだってるうちに、相手が血の通った人間だということを忘れてはいないか。そして大事なのはサービス精神。喜ばせよう、びっくりさせよう、うならせてやろうという気持ち。マツケンサンバにはそれがあった。どんな商品企画にも、この要素は欠かせない。

客という概念でとらえたときに、客の姿は見えなくなるものだ。本日は“お客様と♪恋せよアミ−ゴ踊ろうセニョリータ”の下書きでした。

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2004年11月28日

メインバンク メーンバンク

日曜日なのでマーケティング以外の話しで。


待ち時間の「ほう」しばらくかかりますが「よろしかったですか?」


こんな言い回しが若い人を中心に増えている。断定を避けたいとか、面と向かったコミュニケーションができない〜その社会的背景は−−−とか、いろいろいわれている。日本語の乱れを指摘する人は多い。


私はあまり気にならない。言葉なんて変化していくもの。1000年前の日本語は今とはかなり違う。乱れかも知れないが、変化してしまったものは仕方がない。「ムカツク」という言い方には、その語感の強さに最初は戸惑ったけれどもう馴れた。「全然いい」と全然の後に肯定語を持ってくるのは、昔はギャグっぽいおもしろ言葉だったはずだが、今は私もビジネスの場で普通に使っている。でも「すごいイイ」は「すごくイイ」といって欲しいなあ。「いイイ」と3回続くと胸がつかえる気がするから。


さて私が気に入らないのはこんな言葉だ。
・センタ
・プリンタ
・ファストフード
・メーンバンク

NTTで商品の取り扱いについて答えてくれるのは「取り扱い相談センタ」だ。センターと書け!センターと パンチ( -_-)=○( )゜o゚)

こういう使い方はパソコン、IT関連の企業に多い。上2つは「4文字以上の単語の最後が長音なら、それを取る」というルールに基づいている。長い外来語が増えて困った新聞社が、1文字でもニュースを紙面に詰め込むために始めた説や、パソコンのメモリがまだ貧弱だった頃に、少しでも演算の負担を軽くするために考えられた説などを聞いたことがあるが、よく知らない。(あ〜あ、メモリなんて洗脳されちゃった)

ファストも、その長音削除の変形か。メーンはよくわからない。メインから字数は減っていないのだ。英語の発音がメーンでもない。どういう法則か謎。この2つは新聞やニュースでよく使われだした。


「よろしかったですか」は気にならないが、この1文字短縮に私がなぜムカツクのか、自分でもよくわからない。自然に使われ出したのではなくて、誰かがセコイ発想で決めたことだからかも知れない。マケティングなんていわれませんように。

wassho at 13:41|PermalinkComments(0)

2004年11月22日

質問はありますか?

コンサルタントの仕事にプレゼンテーションはつきものだ。規模の大きいプロジェクトでは何十名の人たちに向かって提案したり報告したりする。プレゼンテーションでは、こちらが一通り話し終わってから質疑応答にはいるのが一般的。こちらから問いかける時もあるし、クライアント側の司会者が仕切ることもある。


この質疑応答で盛り下がることは、ままある。そのプロジェクトを担当してきた人たちではなく、社内報告会として初対面の人たちにプレゼンテーションする場合は、質問が一切でないこともある。質問が出ない=プレゼンテーション内容に納得したと思って安心してはいけない。経験上、質疑応答で盛り上がらなかったプロジェクトほど、次の仕事につながる確率が低い(>_<)


質問が出ない1つの理由は、日本人特有の照れや気恥ずかしさによる。大勢の人の中で自ら進んで発言を求めるのは勇気が要る。これには、こちらから指名したり、クライアントの担当者に最初に質問してもらうように「仕込んだり」して対応するしかない。


2つ目の理由が今日の本題。結論から書こう。質問は?ではなく「わからないところはありましたか?」と話し始めなければならない。質問とは本来、わからないことを尋ねること。しかし、かしこまったプレゼンテーションの場などでは、自分の意見も述べなければいけないという心理が働く。意見を述べるにはプレゼンテーションの内容を理解し、咀嚼し、自分の考えと照らし合わせて−−−という作業が必要だ。プレゼンテーションをする側の努力でできるのは理解しやすい内容や伝え方をするところまで。短縮して書けば「よくわかっていなければ質問できない」のだ。


ちょっとした言葉の違いだが「わからないところは?」と尋ねることによって発言者が感じるプレッシャーはずいぶん低くなる。単純な質疑をやり取りするうちに、出席者の脳が活性化してくる。意見交換ができるのは、それからである。


本日は“プレゼンテーションのテクニック質疑応答編”の下書きでした。

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