長沢芦雪
2019年06月05日
奇想の系譜展 その2
曽我蕭白 (そが しょうはく 1730-1781)
曽我蕭白の絵を見たのは過去に数回しかない。それでも一目見たら忘れられないインパクトがあるので、回数の割には強く記憶に残っている絵師である。
奇想というのがこの展覧会のテーマなら、8名の中で最もその言葉が当てはまるのは曽我蕭白だろう。別の言葉でいえば不気味な絵を描く。どうしてこんな絵を?と思ってしまうが、美術部でもそういう連中は必ずいるし、またホラー映画が大好きな人もいる。その彼ら彼女らが不気味な人間かというとそんなことはないから、一定の割合で特に深い理由はなく、そういうことを好む(ごく普通の)人間がいるものなのだ。だから曽我蕭白は一般受けしなくてもニッチなマーケットでのニーズは高かったと思う。
「群仙図屏風」 1764年頃
墨絵を背景に人物はカラーで描いた作品。六曲一双の屏風で上の画像が右隻で下が左隻。
なお画像はすべてクリックすると大きくなる。
左隻に描かれている女性を除くと、他は子供も含めて醜く気味が悪い。そして描かれている大人は仙人というのだから訳がわからなくなる。ある意味、軽くクラっとする快感を楽しめる作品。
「雪山童子図 せっせん・どうじ・ず」 1764年頃
この絵に不気味さはない。それでも描かれた当時は充分にアバンギャルドだったはず。
子供が鬼と遊んでいるように思えるが、実は子供は修行中の釈迦。そして鬼は帝釈天が姿を変えて現れたもの。鬼はある仏教の教えを釈迦に伝える。そしてもっと教えてもいいけれど、お腹が空いているから教えた後はお前を私に食わせろという。この作品は釈迦が残りの教えを聞いた後、鬼に食べられるために木から飛び降りるところが描かれている。つまり釈迦の修行への熱意を表現した宗教画。もちろん釈迦が飛び降りた瞬間に鬼は帝釈天に戻るから食われはしない。
そんなストーリーはよほど仏教に詳しくないとワカランワ(^^ゞ
しかし絵は変わっていても、こういうテーマを選んで描くのだから、曽我蕭白がイカれたサイコ野郎じゃないことは確かだ。
「美人図」 1764年頃
美人画も曽我蕭白が描くとこうなる。彼女が手にしているのは噛みちぎってボロボロになった手紙である。着物も着崩れているし表情もどこか虚ろ。つまりこれは江戸時代のメンヘラ女子!
長沢芦雪 (ながさわ ろせつ 1754-1799)
長沢芦雪は円山応挙の弟子である。
奇想という印象はなくオーソドックスが画風に思えるのだが。
「龍図襖」 1786年頃
「郡猿図襖」 1795年
「白象黒牛図屏風」 1795年頃
奇想とは思わないが、画面いっぱいに描かれた象と牛がユニーク。またそれぞれカラスや犬が小さく一緒に描かれているのも特徴。明らかに見る人を意識していると思う。表現を変えればウケ狙い。また伊藤若冲も同じ頃に象を描いているから、流行りのテーマだったのかな。
「なめくじ図」
さらにユニークなのがこの作品。大きさは約30センチ四方。ということは掛け軸に入れて床の間に飾る絵。そこにナメクジ、しかもほとんどが這った痕。シャレで描いたのだろうか。長沢芦雪は憎めないね(^^ゞ
「方広寺大仏殿炎上図」 1798年
大仏といえば奈良か鎌倉だが、かつては京都に東大寺より大きな大仏があった。建てたのは豊臣秀吉で完成したのが1595年。しかし翌年の地震で倒壊。1598年に秀吉が亡くなると、1599年に息子の秀頼が再建を開始。しかし1602年に大仏に銅を流し込む際に火災が発生。この作品はそれを描いたもの。
その後また再建を図り1614年にはほぼ完成するが、同時に製作した鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていることに家康がイチャモンをつけ、それが大坂冬の陣へつながっていく。教科書ではその鐘のことしか習わなかったかな。いずれにせよ豊臣家にとっては踏んだり蹴ったりの方広寺である。
絵はとてもシンプル。スケール感は全くないから、方広寺という大寺院が炎上しているのか、その辺の建物が火事になっているのかは見ただけではわからない。でも方広寺の火災のことを知識として知っていると、迫力のある絵に感じられるから不思議。それと左下の文章(署名?)の一部が炎と同じ朱色で書くセンスが気に入った。
「山姥図 やまんば・ず」 1797年頃
かつて1990年代に渋谷にもたくさん生息していたヤマンバ(^^ゞ 改めて調べてみると「山奥に住む老女の妖怪」らしい。ドキッとするような顔つきで描かれている山姥だけれど、曽我蕭白を見た後ではそれほど驚かない。
ところでこの山姥は山姥界でも有名な山姥なのである。彼女に手を取られているのは「♪マサカリかついだ金太郎」の金太郎。クマと相撲を取って勝ったあの金太郎である。金太郎の誕生にはいろんな説があって、人間の女性が人間の子供をシングルマザーとして産んだ、山姥が雷神の子供を産んだ、あるいは相手は龍だったとか。おとぎ話のフィクションンなのにバリエーションがあるのが面白い。
岩佐又兵衛(いわさ またべえ 1578-1650)
「奇想の系譜」の著者である辻惟雄(つじ・のぶお)は岩佐又兵衛に触発されて本を書き始めたらしい。私は今まで知らなかった絵師。
しかし経歴を調べると戦国武将の荒木村重(あらき むらしげ)の息子だというから驚いた。荒木村重というのは織田信長の有力武将であったが、なぜか(理由ははっきりしない)謀反を起こし、信長に女性を含む家族や一族郎党1000名近くを皆殺しにされている。わからないことが多いだけに、歴史的には何かと気になる人物。本人が生き延びたことは知っていたものの、当時2歳だった息子がいて、それが絵師になっていたとは初耳。
岩佐又兵衛は絵巻物で有名らしい。この展覧会でも3作品が出展されている。絵巻とは横長の巻物に絵と文章でストーリーを綴ったもの。なぜか私はいつも巻絵といってしまう。
「山中常盤物語絵巻 やまなか・ときわ・ものがたりえまき」
源義経がまだ15歳で牛若丸だった頃、平家討伐のために奥州(東北地方)へ出向く。母親の常盤御前は彼の後を追うが、途中の宿で盗賊に襲われ惨殺される。後日に母を殺されたことを知った牛若丸が、その盗賊に復讐するという物語。全12巻、総延長150mという大作。なお山中というのは襲われた宿が山の中にあったから。
展覧会では第4巻と5巻の入れ替え展示。私が見たのは第5巻だが、適当な画像を見つけられなかったので他の巻も含めて貼っておく。そして、これがとんでもないスプラッター(殺害・血しぶき)絵巻なのである。
第3巻 牛若丸の元へ向かう常盤御前。
第4巻 宿に押し入る盗賊。
第4巻 常盤御前が襲われる。
第5巻 宿の主人に看取られながら常盤御前は絶命。
第9巻 牛若丸が盗賊に復讐を果たす。
今ならR指定かな。これでもかと残酷なシーンが続く。注目すべきは常盤御前を殺害する盗賊も、盗賊に復讐する牛若丸も「嬉々として」人を殺していること。この物語自体はフィクションだから「嬉々とさせて」いるのは岩佐又兵衛の演出である。そこには奇想というよりは狂気を感じる。
それで思い出すのは岩佐又兵衛が荒木村重の息子だということ。彼の母親は荒木村重の謀反の失敗によって首をはねられている。そのことが影響しているのか。しかし、それは岩佐又兵衛が2歳の出来事だから記憶はないだろうし、また彼は事前に乳人に連れられて逃亡しているので現場を目撃したわけでもない。
じゃこの狂気はどこから来ているのか。それはあれこれ想像するしかないし、本人が書いた解説でも出てこなければ永遠にわからないだろう。ひとつだけ言えるのは、こういうスプラッターものには熱烈なファンがつくということである。
「官女観菊図 かんじょ・かんぎく・ず」
「伊勢物語 鳥の子図」
凄惨なスプラッターを描く一方で、岩佐又兵衛はまったく180度正反対の、まるで平安時代のような穏やかな作品も残している。ふたつめに言えるのは、ゲージュツ家の心理を理解するのは不可能(^^ゞ
「柿本人麻呂図・紀貫之図 かきのもと・の・ひとまろ・ず・き・の・つらゆき・ず」
柿本人麻は飛鳥時代、紀貫之は平安時代の歌人。どちらも偉人というべき存在。それをユーモラスに、そしてやや中国風に描いている。そういう型にはまらない自由な発想は好きである。
「妖怪退治図屏風」
江戸時代の正統派的な屏風絵。右隻に描かれているのが妖怪なのが奇想といえるが「山中常盤物語絵巻」をみた後ではとっても健全な作品に見える。
最初に山中常盤物語絵巻を見たときは岩佐又兵衛をあまり好きになれなかった。しかしすべてを見終わると彼の画風の幅広さ、つまりは自由自在に表現できる才能に引き込まれていた。ところで岩佐又兵衛は「浮世絵の祖」ともいわれている。しかしこの展覧会で浮世絵を連想させるような作品はなかった。それがどんなものかは是非見てみたい。
ーーー続く
曽我蕭白の絵を見たのは過去に数回しかない。それでも一目見たら忘れられないインパクトがあるので、回数の割には強く記憶に残っている絵師である。
奇想というのがこの展覧会のテーマなら、8名の中で最もその言葉が当てはまるのは曽我蕭白だろう。別の言葉でいえば不気味な絵を描く。どうしてこんな絵を?と思ってしまうが、美術部でもそういう連中は必ずいるし、またホラー映画が大好きな人もいる。その彼ら彼女らが不気味な人間かというとそんなことはないから、一定の割合で特に深い理由はなく、そういうことを好む(ごく普通の)人間がいるものなのだ。だから曽我蕭白は一般受けしなくてもニッチなマーケットでのニーズは高かったと思う。
「群仙図屏風」 1764年頃
墨絵を背景に人物はカラーで描いた作品。六曲一双の屏風で上の画像が右隻で下が左隻。
なお画像はすべてクリックすると大きくなる。
左隻に描かれている女性を除くと、他は子供も含めて醜く気味が悪い。そして描かれている大人は仙人というのだから訳がわからなくなる。ある意味、軽くクラっとする快感を楽しめる作品。
「雪山童子図 せっせん・どうじ・ず」 1764年頃
この絵に不気味さはない。それでも描かれた当時は充分にアバンギャルドだったはず。
子供が鬼と遊んでいるように思えるが、実は子供は修行中の釈迦。そして鬼は帝釈天が姿を変えて現れたもの。鬼はある仏教の教えを釈迦に伝える。そしてもっと教えてもいいけれど、お腹が空いているから教えた後はお前を私に食わせろという。この作品は釈迦が残りの教えを聞いた後、鬼に食べられるために木から飛び降りるところが描かれている。つまり釈迦の修行への熱意を表現した宗教画。もちろん釈迦が飛び降りた瞬間に鬼は帝釈天に戻るから食われはしない。
そんなストーリーはよほど仏教に詳しくないとワカランワ(^^ゞ
しかし絵は変わっていても、こういうテーマを選んで描くのだから、曽我蕭白がイカれたサイコ野郎じゃないことは確かだ。
「美人図」 1764年頃
美人画も曽我蕭白が描くとこうなる。彼女が手にしているのは噛みちぎってボロボロになった手紙である。着物も着崩れているし表情もどこか虚ろ。つまりこれは江戸時代のメンヘラ女子!
長沢芦雪 (ながさわ ろせつ 1754-1799)
長沢芦雪は円山応挙の弟子である。
奇想という印象はなくオーソドックスが画風に思えるのだが。
「龍図襖」 1786年頃
「郡猿図襖」 1795年
「白象黒牛図屏風」 1795年頃
奇想とは思わないが、画面いっぱいに描かれた象と牛がユニーク。またそれぞれカラスや犬が小さく一緒に描かれているのも特徴。明らかに見る人を意識していると思う。表現を変えればウケ狙い。また伊藤若冲も同じ頃に象を描いているから、流行りのテーマだったのかな。
「なめくじ図」
さらにユニークなのがこの作品。大きさは約30センチ四方。ということは掛け軸に入れて床の間に飾る絵。そこにナメクジ、しかもほとんどが這った痕。シャレで描いたのだろうか。長沢芦雪は憎めないね(^^ゞ
「方広寺大仏殿炎上図」 1798年
大仏といえば奈良か鎌倉だが、かつては京都に東大寺より大きな大仏があった。建てたのは豊臣秀吉で完成したのが1595年。しかし翌年の地震で倒壊。1598年に秀吉が亡くなると、1599年に息子の秀頼が再建を開始。しかし1602年に大仏に銅を流し込む際に火災が発生。この作品はそれを描いたもの。
その後また再建を図り1614年にはほぼ完成するが、同時に製作した鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていることに家康がイチャモンをつけ、それが大坂冬の陣へつながっていく。教科書ではその鐘のことしか習わなかったかな。いずれにせよ豊臣家にとっては踏んだり蹴ったりの方広寺である。
絵はとてもシンプル。スケール感は全くないから、方広寺という大寺院が炎上しているのか、その辺の建物が火事になっているのかは見ただけではわからない。でも方広寺の火災のことを知識として知っていると、迫力のある絵に感じられるから不思議。それと左下の文章(署名?)の一部が炎と同じ朱色で書くセンスが気に入った。
「山姥図 やまんば・ず」 1797年頃
かつて1990年代に渋谷にもたくさん生息していたヤマンバ(^^ゞ 改めて調べてみると「山奥に住む老女の妖怪」らしい。ドキッとするような顔つきで描かれている山姥だけれど、曽我蕭白を見た後ではそれほど驚かない。
ところでこの山姥は山姥界でも有名な山姥なのである。彼女に手を取られているのは「♪マサカリかついだ金太郎」の金太郎。クマと相撲を取って勝ったあの金太郎である。金太郎の誕生にはいろんな説があって、人間の女性が人間の子供をシングルマザーとして産んだ、山姥が雷神の子供を産んだ、あるいは相手は龍だったとか。おとぎ話のフィクションンなのにバリエーションがあるのが面白い。
岩佐又兵衛(いわさ またべえ 1578-1650)
「奇想の系譜」の著者である辻惟雄(つじ・のぶお)は岩佐又兵衛に触発されて本を書き始めたらしい。私は今まで知らなかった絵師。
しかし経歴を調べると戦国武将の荒木村重(あらき むらしげ)の息子だというから驚いた。荒木村重というのは織田信長の有力武将であったが、なぜか(理由ははっきりしない)謀反を起こし、信長に女性を含む家族や一族郎党1000名近くを皆殺しにされている。わからないことが多いだけに、歴史的には何かと気になる人物。本人が生き延びたことは知っていたものの、当時2歳だった息子がいて、それが絵師になっていたとは初耳。
岩佐又兵衛は絵巻物で有名らしい。この展覧会でも3作品が出展されている。絵巻とは横長の巻物に絵と文章でストーリーを綴ったもの。なぜか私はいつも巻絵といってしまう。
「山中常盤物語絵巻 やまなか・ときわ・ものがたりえまき」
源義経がまだ15歳で牛若丸だった頃、平家討伐のために奥州(東北地方)へ出向く。母親の常盤御前は彼の後を追うが、途中の宿で盗賊に襲われ惨殺される。後日に母を殺されたことを知った牛若丸が、その盗賊に復讐するという物語。全12巻、総延長150mという大作。なお山中というのは襲われた宿が山の中にあったから。
展覧会では第4巻と5巻の入れ替え展示。私が見たのは第5巻だが、適当な画像を見つけられなかったので他の巻も含めて貼っておく。そして、これがとんでもないスプラッター(殺害・血しぶき)絵巻なのである。
第3巻 牛若丸の元へ向かう常盤御前。
第4巻 宿に押し入る盗賊。
第4巻 常盤御前が襲われる。
第5巻 宿の主人に看取られながら常盤御前は絶命。
第9巻 牛若丸が盗賊に復讐を果たす。
今ならR指定かな。これでもかと残酷なシーンが続く。注目すべきは常盤御前を殺害する盗賊も、盗賊に復讐する牛若丸も「嬉々として」人を殺していること。この物語自体はフィクションだから「嬉々とさせて」いるのは岩佐又兵衛の演出である。そこには奇想というよりは狂気を感じる。
それで思い出すのは岩佐又兵衛が荒木村重の息子だということ。彼の母親は荒木村重の謀反の失敗によって首をはねられている。そのことが影響しているのか。しかし、それは岩佐又兵衛が2歳の出来事だから記憶はないだろうし、また彼は事前に乳人に連れられて逃亡しているので現場を目撃したわけでもない。
じゃこの狂気はどこから来ているのか。それはあれこれ想像するしかないし、本人が書いた解説でも出てこなければ永遠にわからないだろう。ひとつだけ言えるのは、こういうスプラッターものには熱烈なファンがつくということである。
「官女観菊図 かんじょ・かんぎく・ず」
「伊勢物語 鳥の子図」
凄惨なスプラッターを描く一方で、岩佐又兵衛はまったく180度正反対の、まるで平安時代のような穏やかな作品も残している。ふたつめに言えるのは、ゲージュツ家の心理を理解するのは不可能(^^ゞ
「柿本人麻呂図・紀貫之図 かきのもと・の・ひとまろ・ず・き・の・つらゆき・ず」
柿本人麻は飛鳥時代、紀貫之は平安時代の歌人。どちらも偉人というべき存在。それをユーモラスに、そしてやや中国風に描いている。そういう型にはまらない自由な発想は好きである。
「妖怪退治図屏風」
江戸時代の正統派的な屏風絵。右隻に描かれているのが妖怪なのが奇想といえるが「山中常盤物語絵巻」をみた後ではとっても健全な作品に見える。
最初に山中常盤物語絵巻を見たときは岩佐又兵衛をあまり好きになれなかった。しかしすべてを見終わると彼の画風の幅広さ、つまりは自由自在に表現できる才能に引き込まれていた。ところで岩佐又兵衛は「浮世絵の祖」ともいわれている。しかしこの展覧会で浮世絵を連想させるような作品はなかった。それがどんなものかは是非見てみたい。
ーーー続く
wassho at 23:04|Permalink│Comments(0)│