高橋龍太郎
2024年11月29日
高橋龍太郎コレクション展 その6
巨大な作品を見て少し浮遊感を感じた後に、
通路を進むとまた通常の展示室になる。
こういうわけのわからない作品を「ケッ」と睨みつけ、
次に足が止まったのはこれ。
ob 「Choking」 2011年
それは顔も魅力的だったけれど、
サインが可愛かったから(^^ゞ
それは半分冗談(だから半分は本当)。ありがちなアニメ顔ではあるが、全体のぼかし加減や背景の描き方に、ちょっと印象派的な要素があって不思議な世界観が漂っている。
タイトルのChokingは黒板に書くチョーク(chalk)ではなく、息が詰まるや窒息、あるいは単に詰まるという意味のチョーク(choke)。首を絞める反則技をかけられたら「チョーク、チョーク」とレフリーにアピールするのを子供の頃にプロレスでよく見た。今もやっているのかな? また昔のクルマについていたチョークは、始動時にキャブレターの空気弁を絞ってガソリンの混合比率を高める装置。chokingはchokeの形容詞形。
それはそうとして、
この絵を見て息苦しい感じはまったくしない。
どうしてChokingなんだろう。
坂本夏子 & 梅津庸一 「絵作り」 2013
まったく現代アートぽくない作品。タイトルを読むと海岸で絵を描くキャンバスを張っている様子だろうか。これは二人の画家がコラボして描いている。そんな制作の作品は初めて見た。ただし画風が交差しているようなところはなく、言われなければ画家が二人でとは気付かない。
どちらも知らない画家だったのでグーグルで画像検索してみた。
リンクは短縮URL。
坂本夏子 https://x.gd/olxIY
梅津庸一 https://x.gd/zjjYq
それを眺めると、この絵は二人の個性がほどよく混じり合っている。そして現代アートの画家がコラボしたら、現代アート的ではない作品になったのがどこか面白い。
坂本夏子 「BATH, R」 2009〜2010年
こちらは坂本夏子の単独作品。BATHだから浴室のはずなのに、描かれている空間が広いのでプールのように見える。また視界のゆがみが水中での光景に錯覚する。
ところで2000年に105歳で他界した、
小倉遊亀(おぐらゆき)に「浴女」という代表作がある。
浴女 その一
浴女 その二
ひょっとしたらこれにインスピレーションを得て描いたのかも知れない。
いわゆるパクりじゃなくてオマージュね。
2020年にミケル・バルセロ展と同時開催されていた水戸部七絵(みとべ ななえ)。コロナでマスクをしていたのにもかかわらず、絵の具を溶いた油の匂いが鼻をつくほど「超を百倍超えた超厚塗り」の作品に度肝を抜かれた記憶は今でも鮮明。
ここでも盛大にヤラカシてた(^^ゞ
重さに耐えかねて絵の具が落ちてるやん!
水戸部七絵 「DEPTH」 2017年
さて
何これ?
入場料にこれを見る分も含まれているのがハラ立つ。
解説によると「本作は雑誌5冊を焼いている。高温の窯で焼かれた後も書物は灰に帰すことなく、本の形を留めたまま白く縮んだ姿を見せる」とあり、それにはヘエ〜と思ったものの、
続く文章が「言葉を伝えるという本来の役割から解き放たれ、そこにただ存在する形は、物質性や時間性、意味性を超え、我々の認識を揺さぶる」。
頭ワイてるんちゃうか?
こんなオモチャみなたいな、
もといオモチャ箱感あふれる展示の横を歩いて、
またハラ立つのが現れる。
巨大な電球、たぶん街灯の先端部分が無造作に並べられていて順番に点灯している。それだけ。何かを表現してはいるのだろうけれど、どうせ頭ワイてるような理屈に違いない。
初回に
=========
超大雑把に解説するなら、古代文明の時代から近代までのアートは、
広い意味で美の追究
視覚に訴える、視覚で感じたり楽しむもの
だった。それが現代アートになると
美にはとらわれない
社会へのメッセージや問題提起がテーマのものが多い
視覚を超えて思考や洞察を要求される
作品によっては参加型で体感や体験とセットになっている
絵画や彫刻だけでなく、映像や音響、空間、パフォーマンスなど、
あらゆるものが素材になる
=========
と書いた。だから現代アートでは作者のメッセージや問題提起がキモで、でも、そのメッセージや問題提起の内容や質がーーーとも。そしてこの展覧会を見て関心を持てたのは、やはり視覚的に楽しめたものに限られた。
視覚で引きつけられない作品はメッセージや問題提起を読み解く気にはなれず、同様に視覚で楽しめれば別にメッセージや問題提起に気持ちが向かない。結局、どちらにしたって作家との理性での対話はなし。頭が古いのかな、時代に乗り遅れているのかな。
お気づきだったかも知れないが、つまらないと思った作品は作者や作品名を記していない。それ自体に特に意味はなく単に面倒だっただけ。一方でそれらの作品に関心を持つ人、その背景に思いを巡らせるのはどんな人なのだろうと思う。それはこのコレクションのオーナーである高橋龍太郎氏に対しても同じ。「よくこんなものを金を払って集めたな」と感じた展示が多数だった。
彼らはどんな頭の構造をしているのか、私と会話が成り立つのかなどと想像している。そして私のほうが多数派だよね、だよね!とちょっとビビりながら思ったりして(^^ゞ
ただし草間彌生と 水戸部七絵は以前に個展を見ていて、その世界観がわかってるから素直に目に入ってきた部分はある。上で紹介した水戸部七絵の「DEPTH」だけを初めて見たら、「コイツは頭がおかしい」とたぶん考えたはず。そういう意味じゃ現代アートを楽しむには慣れや馴染みが必要なのかも。
でも馴染むための労力と、それから得られる果実を較べたら釣り合わないような気がする。そこにときめくものがあるように思えないし、私がすべての芸術において重視し、また評価の判断基準である作品に「酔える」感覚は味わえそうにない。だからやはり、食べず嫌いはいけませんよとお勉強のつもりで、あるいはたまにはのゲテモノ食いとして、これからも現代アートとは付き合っていくんだろうな。
おしまい
通路を進むとまた通常の展示室になる。
こういうわけのわからない作品を「ケッ」と睨みつけ、
次に足が止まったのはこれ。
ob 「Choking」 2011年
それは顔も魅力的だったけれど、
サインが可愛かったから(^^ゞ
それは半分冗談(だから半分は本当)。ありがちなアニメ顔ではあるが、全体のぼかし加減や背景の描き方に、ちょっと印象派的な要素があって不思議な世界観が漂っている。
タイトルのChokingは黒板に書くチョーク(chalk)ではなく、息が詰まるや窒息、あるいは単に詰まるという意味のチョーク(choke)。首を絞める反則技をかけられたら「チョーク、チョーク」とレフリーにアピールするのを子供の頃にプロレスでよく見た。今もやっているのかな? また昔のクルマについていたチョークは、始動時にキャブレターの空気弁を絞ってガソリンの混合比率を高める装置。chokingはchokeの形容詞形。
それはそうとして、
この絵を見て息苦しい感じはまったくしない。
どうしてChokingなんだろう。
坂本夏子 & 梅津庸一 「絵作り」 2013
まったく現代アートぽくない作品。タイトルを読むと海岸で絵を描くキャンバスを張っている様子だろうか。これは二人の画家がコラボして描いている。そんな制作の作品は初めて見た。ただし画風が交差しているようなところはなく、言われなければ画家が二人でとは気付かない。
どちらも知らない画家だったのでグーグルで画像検索してみた。
リンクは短縮URL。
坂本夏子 https://x.gd/olxIY
梅津庸一 https://x.gd/zjjYq
それを眺めると、この絵は二人の個性がほどよく混じり合っている。そして現代アートの画家がコラボしたら、現代アート的ではない作品になったのがどこか面白い。
坂本夏子 「BATH, R」 2009〜2010年
こちらは坂本夏子の単独作品。BATHだから浴室のはずなのに、描かれている空間が広いのでプールのように見える。また視界のゆがみが水中での光景に錯覚する。
ところで2000年に105歳で他界した、
小倉遊亀(おぐらゆき)に「浴女」という代表作がある。
浴女 その一
浴女 その二
ひょっとしたらこれにインスピレーションを得て描いたのかも知れない。
いわゆるパクりじゃなくてオマージュね。
2020年にミケル・バルセロ展と同時開催されていた水戸部七絵(みとべ ななえ)。コロナでマスクをしていたのにもかかわらず、絵の具を溶いた油の匂いが鼻をつくほど「超を百倍超えた超厚塗り」の作品に度肝を抜かれた記憶は今でも鮮明。
ここでも盛大にヤラカシてた(^^ゞ
重さに耐えかねて絵の具が落ちてるやん!
水戸部七絵 「DEPTH」 2017年
さて
何これ?
入場料にこれを見る分も含まれているのがハラ立つ。
解説によると「本作は雑誌5冊を焼いている。高温の窯で焼かれた後も書物は灰に帰すことなく、本の形を留めたまま白く縮んだ姿を見せる」とあり、それにはヘエ〜と思ったものの、
続く文章が「言葉を伝えるという本来の役割から解き放たれ、そこにただ存在する形は、物質性や時間性、意味性を超え、我々の認識を揺さぶる」。
頭ワイてるんちゃうか?
こんなオモチャみなたいな、
もといオモチャ箱感あふれる展示の横を歩いて、
またハラ立つのが現れる。
巨大な電球、たぶん街灯の先端部分が無造作に並べられていて順番に点灯している。それだけ。何かを表現してはいるのだろうけれど、どうせ頭ワイてるような理屈に違いない。
初回に
=========
超大雑把に解説するなら、古代文明の時代から近代までのアートは、
広い意味で美の追究
視覚に訴える、視覚で感じたり楽しむもの
だった。それが現代アートになると
美にはとらわれない
社会へのメッセージや問題提起がテーマのものが多い
視覚を超えて思考や洞察を要求される
作品によっては参加型で体感や体験とセットになっている
絵画や彫刻だけでなく、映像や音響、空間、パフォーマンスなど、
あらゆるものが素材になる
=========
と書いた。だから現代アートでは作者のメッセージや問題提起がキモで、でも、そのメッセージや問題提起の内容や質がーーーとも。そしてこの展覧会を見て関心を持てたのは、やはり視覚的に楽しめたものに限られた。
視覚で引きつけられない作品はメッセージや問題提起を読み解く気にはなれず、同様に視覚で楽しめれば別にメッセージや問題提起に気持ちが向かない。結局、どちらにしたって作家との理性での対話はなし。頭が古いのかな、時代に乗り遅れているのかな。
お気づきだったかも知れないが、つまらないと思った作品は作者や作品名を記していない。それ自体に特に意味はなく単に面倒だっただけ。一方でそれらの作品に関心を持つ人、その背景に思いを巡らせるのはどんな人なのだろうと思う。それはこのコレクションのオーナーである高橋龍太郎氏に対しても同じ。「よくこんなものを金を払って集めたな」と感じた展示が多数だった。
彼らはどんな頭の構造をしているのか、私と会話が成り立つのかなどと想像している。そして私のほうが多数派だよね、だよね!とちょっとビビりながら思ったりして(^^ゞ
ただし草間彌生と 水戸部七絵は以前に個展を見ていて、その世界観がわかってるから素直に目に入ってきた部分はある。上で紹介した水戸部七絵の「DEPTH」だけを初めて見たら、「コイツは頭がおかしい」とたぶん考えたはず。そういう意味じゃ現代アートを楽しむには慣れや馴染みが必要なのかも。
でも馴染むための労力と、それから得られる果実を較べたら釣り合わないような気がする。そこにときめくものがあるように思えないし、私がすべての芸術において重視し、また評価の判断基準である作品に「酔える」感覚は味わえそうにない。だからやはり、食べず嫌いはいけませんよとお勉強のつもりで、あるいはたまにはのゲテモノ食いとして、これからも現代アートとは付き合っていくんだろうな。
おしまい
wassho at 19:59|Permalink│Comments(0)│
2024年11月27日
高橋龍太郎コレクション展 その5
高さ5m60cmの「サーフ・エンジェル(仮設のモニュメント2)」が展示されていた部屋にあったさらに大きな作品。
鴻池朋子 「皮緞帳」 2015〜16年 6m×24m
緞帳は「どんちょう」で舞台の前に垂れ下がるやつ。タイトルにあるようにこの緞帳は牛革製で、解説には「水彩、クレヨン」とある。水彩は水彩絵の具だと思うが、皮の表面なら絵の具がはじかれてしまうから、皮の裏側に色を塗っているのかな。
大きさには圧倒された。でも特に何か感じるものはなし。「Crash セイラ・マス」と「サーフ・エンジェル」で美術において大きさは正義みたいなところはあると書いた。でも大きければすべてよしではもちろんない。
それよりもなによりも
部屋に入ったときから気になっていたのがコレ。
青木美歌 「Her songs are floating」 2007年
いや〜懐かしい、ダイハツのコンパーノじゃないか。従兄弟で10歳ほど年上のKニイチャンが大学生の頃に乗っていたクルマ。シャコタンにマフラーの芯を抜いた爆音で(^^ゞ 当時暴走族という言葉はなく、バイクはカミナリ族と呼ばれていたが、クルマを改造する人はまだ少なく集団名はなかったように思う。
そのかわりいわゆるカーマニアは「カーキチ」と呼ばれていた。キチは今じゃ使えない言葉になって基地外なんて書くキチね。Kニイチャンが暴走していたかどうかは私がまだ子供だったのでよく知らないが、爆走していたのは間違いない。父親のクルマとまったく違う低く大きな排気音にスゲーと思ったものである。
コンパーノはダイハツが初めて発売した四輪自動車。それまではマツダと同じくオート三輪のメーカーだった(リンクした写真はダイハツのミゼット)。
1963年(昭和38年)4月に最初に発売されたのは長い荷室を持つライトバン(商用車)で、6月に同じボディのワゴン(乗用車)が発売される。排気量は800cc。下の写真はワゴン。画像はhttps://x.gd/PbKhzから引用(短縮URL使用)
11月には2ドアセダンが発売され「コンパーノ・ベルリーナ」の名前がつけられる。4ドアセダンの追加は1965年の5月。ベルリーナはイタリア語でセダンの意味。コンパーノもイタリア語で「仲間」。イタリア語的発音では「compagno・コンパーニョ」。ワゴンと違ってBピラー(サイドウインドの中間)上部にウインカーがあるのが珍しいしちょっとカワイイ。白いクルマの画像はhttps://meisha.co.jp/?p=21094から引用
ヨーロッパ的で何となく昔のフィアットを思わせる顔立ちなのは、当時のイタリア・カロッツェリアの名門であるビニヤーレのデザインだから。
昭和30〜40年代の国産車としてはこのコンパーノと、ビニヤーレから独立したミケロッティによるデザインの日野コンテッサ、それとスズキのフロンテ800が他を寄せ付けないデザインの完成度。(コンテッサの後部が長いのはリアエンジンだから。それで逆にフロントにはラジエターのためのグリルがない)
そして1965年4月にオープンモデルの「コンパーノ・スパイダー」発売。画像はhttps://www.webcartop.jp/2017/07/135336/から引用
日本のモータリーゼーションが本格化したのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピック前後。コンパーノが発売された頃の大衆車はトヨタのパブリカやマツダの初代ファミリアなど600〜800ccクラスで(当時の軽四は360cc)、その上がトヨタのコロナ、日産ブルーバードの1500ccクラスだった。しかし1966年にその間を埋めるトヨタカローラ、日産サニーが1000〜1200ccで発売されると、この600〜800ccクラスは需要が冷え込んでしまう。コンパーノは排気量を1000ccまで拡大したりするものの1970年に販売終了。
コンパーノのモデルチェンジは行われず、代わりにトヨタと共同開発したコンソルテが1970年に後継車種として発売された。コンソルテもイタリア語で意味は伴侶や仲間などの絆を表す。1967年に業務提携で傘下入りしたトヨタへの忖度丸出しのネーミング。
そしてこれがコンパーノとは似ても似つかないブサイクなデザインで(/o\) 画像はhttps://lrnc.cc/_ct/16948834から引用
さて、何の話だったっけ(^^ゞ
作品はボロボロになったクルマにガラス細工を一体化させたもの。
コンパーノを選んだことに意味があるのかどうかは不明。しかしそんなに売れたクルマではないので、この作品が制作された2007年に「たまたま」スクラップのコンパーノを近所で見つけたとは考えにくい。
ガラスで表現されているのは、
粘菌やバクテリアやカビなどをモチーフとした原始的な生命形態らしい。
屋根と窓にあるのとでは少し印象が違う。
室内の写真を撮り忘れたので作者のホームページから借用。屋根を突き破って根が生えているみたいだ。https://www.mikaaoki.jp/works/hersongs.html
ひょっとしたらこのガラスの生命体は、廃車となったこのクルマから養分を吸い取っているのかも知れない。そして作品タイトルはHer songs are floating。直訳すれば「彼女の歌が浮遊している」。このクルマにはねられて亡くなった女性の霊魂がガラスに形を変えて取り憑き、そして夜な夜などこからとなく寂しげな歌がーーーキャー(>_<)
「皮緞帳」とコラボで。
屋根にあるガラスは楽しげで生命力が感じられる。
だから先ほどのモーソーは間違っているな。
展示室全体を。
ありふれた表現ながら一言でいうならシュールな空間。
その次にあったのは
宮永愛子 「景色のはじまり」 2011年
画像はhttps://bijutsutecho.com/magazine/news/report/29345から引用
ナンジャコレ?と思って通り過ぎようとしたら解説の文章が目にとまった。金木犀(キンモクセイ)の葉を6万枚!とあった。
おそらくキンモクセイの葉を何かの薬品に浸けて葉肉を取り葉脈だけにする。さらに脱色して、それを接着剤で貼り合わせる手作業でこの作品はできあがっている。何人で作業したのだろう、どれくらいの時間が掛かったのか。いわゆる「気が遠くなる」ほどの手間暇なのは間違いない。
それを想像すると神々しく見えてきた。
美術においては手間暇も正義!
葉脈しか残っていないので向こうが透けて見える。
補足しておくと、キンモクセイは秋になったらオレンジ色の花を咲かせていい香りがするやつね。この緑の葉が上の写真のようになったわけだ。
ーーー続く
鴻池朋子 「皮緞帳」 2015〜16年 6m×24m
緞帳は「どんちょう」で舞台の前に垂れ下がるやつ。タイトルにあるようにこの緞帳は牛革製で、解説には「水彩、クレヨン」とある。水彩は水彩絵の具だと思うが、皮の表面なら絵の具がはじかれてしまうから、皮の裏側に色を塗っているのかな。
大きさには圧倒された。でも特に何か感じるものはなし。「Crash セイラ・マス」と「サーフ・エンジェル」で美術において大きさは正義みたいなところはあると書いた。でも大きければすべてよしではもちろんない。
それよりもなによりも
部屋に入ったときから気になっていたのがコレ。
青木美歌 「Her songs are floating」 2007年
いや〜懐かしい、ダイハツのコンパーノじゃないか。従兄弟で10歳ほど年上のKニイチャンが大学生の頃に乗っていたクルマ。シャコタンにマフラーの芯を抜いた爆音で(^^ゞ 当時暴走族という言葉はなく、バイクはカミナリ族と呼ばれていたが、クルマを改造する人はまだ少なく集団名はなかったように思う。
そのかわりいわゆるカーマニアは「カーキチ」と呼ばれていた。キチは今じゃ使えない言葉になって基地外なんて書くキチね。Kニイチャンが暴走していたかどうかは私がまだ子供だったのでよく知らないが、爆走していたのは間違いない。父親のクルマとまったく違う低く大きな排気音にスゲーと思ったものである。
コンパーノはダイハツが初めて発売した四輪自動車。それまではマツダと同じくオート三輪のメーカーだった(リンクした写真はダイハツのミゼット)。
1963年(昭和38年)4月に最初に発売されたのは長い荷室を持つライトバン(商用車)で、6月に同じボディのワゴン(乗用車)が発売される。排気量は800cc。下の写真はワゴン。画像はhttps://x.gd/PbKhzから引用(短縮URL使用)
11月には2ドアセダンが発売され「コンパーノ・ベルリーナ」の名前がつけられる。4ドアセダンの追加は1965年の5月。ベルリーナはイタリア語でセダンの意味。コンパーノもイタリア語で「仲間」。イタリア語的発音では「compagno・コンパーニョ」。ワゴンと違ってBピラー(サイドウインドの中間)上部にウインカーがあるのが珍しいしちょっとカワイイ。白いクルマの画像はhttps://meisha.co.jp/?p=21094から引用
ヨーロッパ的で何となく昔のフィアットを思わせる顔立ちなのは、当時のイタリア・カロッツェリアの名門であるビニヤーレのデザインだから。
昭和30〜40年代の国産車としてはこのコンパーノと、ビニヤーレから独立したミケロッティによるデザインの日野コンテッサ、それとスズキのフロンテ800が他を寄せ付けないデザインの完成度。(コンテッサの後部が長いのはリアエンジンだから。それで逆にフロントにはラジエターのためのグリルがない)
そして1965年4月にオープンモデルの「コンパーノ・スパイダー」発売。画像はhttps://www.webcartop.jp/2017/07/135336/から引用
日本のモータリーゼーションが本格化したのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピック前後。コンパーノが発売された頃の大衆車はトヨタのパブリカやマツダの初代ファミリアなど600〜800ccクラスで(当時の軽四は360cc)、その上がトヨタのコロナ、日産ブルーバードの1500ccクラスだった。しかし1966年にその間を埋めるトヨタカローラ、日産サニーが1000〜1200ccで発売されると、この600〜800ccクラスは需要が冷え込んでしまう。コンパーノは排気量を1000ccまで拡大したりするものの1970年に販売終了。
コンパーノのモデルチェンジは行われず、代わりにトヨタと共同開発したコンソルテが1970年に後継車種として発売された。コンソルテもイタリア語で意味は伴侶や仲間などの絆を表す。1967年に業務提携で傘下入りしたトヨタへの忖度丸出しのネーミング。
そしてこれがコンパーノとは似ても似つかないブサイクなデザインで(/o\) 画像はhttps://lrnc.cc/_ct/16948834から引用
さて、何の話だったっけ(^^ゞ
作品はボロボロになったクルマにガラス細工を一体化させたもの。
コンパーノを選んだことに意味があるのかどうかは不明。しかしそんなに売れたクルマではないので、この作品が制作された2007年に「たまたま」スクラップのコンパーノを近所で見つけたとは考えにくい。
ガラスで表現されているのは、
粘菌やバクテリアやカビなどをモチーフとした原始的な生命形態らしい。
屋根と窓にあるのとでは少し印象が違う。
室内の写真を撮り忘れたので作者のホームページから借用。屋根を突き破って根が生えているみたいだ。https://www.mikaaoki.jp/works/hersongs.html
ひょっとしたらこのガラスの生命体は、廃車となったこのクルマから養分を吸い取っているのかも知れない。そして作品タイトルはHer songs are floating。直訳すれば「彼女の歌が浮遊している」。このクルマにはねられて亡くなった女性の霊魂がガラスに形を変えて取り憑き、そして夜な夜などこからとなく寂しげな歌がーーーキャー(>_<)
「皮緞帳」とコラボで。
屋根にあるガラスは楽しげで生命力が感じられる。
だから先ほどのモーソーは間違っているな。
展示室全体を。
ありふれた表現ながら一言でいうならシュールな空間。
その次にあったのは
宮永愛子 「景色のはじまり」 2011年
画像はhttps://bijutsutecho.com/magazine/news/report/29345から引用
ナンジャコレ?と思って通り過ぎようとしたら解説の文章が目にとまった。金木犀(キンモクセイ)の葉を6万枚!とあった。
おそらくキンモクセイの葉を何かの薬品に浸けて葉肉を取り葉脈だけにする。さらに脱色して、それを接着剤で貼り合わせる手作業でこの作品はできあがっている。何人で作業したのだろう、どれくらいの時間が掛かったのか。いわゆる「気が遠くなる」ほどの手間暇なのは間違いない。
それを想像すると神々しく見えてきた。
美術においては手間暇も正義!
葉脈しか残っていないので向こうが透けて見える。
補足しておくと、キンモクセイは秋になったらオレンジ色の花を咲かせていい香りがするやつね。この緑の葉が上の写真のようになったわけだ。
ーーー続く
wassho at 22:46|Permalink│Comments(0)│
2024年11月25日
高橋龍太郎コレクション展 その4
天明屋尚 「ネオ千手観音」 2003年 画像中央
「那羅延堅固王」(ならえんけんごおう) 2003年 画像左
「密迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし) 2003年 画像右
遠くから見ていると普通の仏画に見えたが、近づくと千手観音と両サイドの仁王像が持っているのは銃器や刃物。作者の天明屋尚(てんみょうや・ひさし)はこのような日本画形式と現代のモチーフや風俗をミックスさせた「ネオ日本画」の考案者。
面白いしクォリティも高いのだけれど、あと一歩パロディの域から出ていない印象。
池田学 「興亡史」 2006年
これは2メーター四方くらいの大きさ。そこに細かく細かく描き込まれている。基本的には城が何層も積み重なっているような構図で、そのあちこちで小さなシロアリみたいなサムライが戦ったりしている。なぜかたこあげや電車もある。制作に相当な時間がかかっただはずで、何となく作者が楽しみながら描き込んでいるようにも思える。
ここでこんなことをしている、あっ、こっちではーーーと細部を発見するのはなかなか面白い。しかし全部をクリアするには絵の前にカブリツキで1時間以上は掛かりそう。それもちょっと困るんだよなあ。
舟越桂 「言葉を聞く山」 1997年
今年の3月に亡くなった舟越桂(ふなこし・かつら)。いくつかのテレビ番組で特集が組まれた。その中で彼の彫刻と対峙して目が合わないのは「斜視に彫られている」のが原因と知る。今まで作品は何度か見ていても眼球の向きまでは意識していなかった。
初めて「見つめて」みる。本当だ、どの方向からも目が合わない、この作品では右目が少し外を向いている。舟越桂の作品がどれも遠くを見ているように感じるのは、表情があっさりしているせいと思っていたのに、そういうテクニックがあったのか。それに気付かない私の目は斜視ではなく節穴(^^ゞ
奈良美智 「Untitled」 1999年
奈良美智 「Green Mountain」 2003年
あちこちで見かける奈良美智(なら・よしとも)の少女画。20年くらい前に彼の作品がよく紹介され出したとき、何となく安直な感じがして、好きになれないどころか少し腹立たしかった。でもさすがに見慣れたせいか、こういうのもありかと思えるようになり、またカワイイと感じたりもする。私の感性が広がったのか精神が鈍ったのか?
何と書いたらいいのかわからないものが壁際にあり、
布で作られた作品を眺めて、
手のひらを赤く塗られたロリータっぽいパネルを過ぎたら、
ちょっとエロくて幻想的で、そしてカッコイイおネエちゃんに足を止められる。
ハスキーな声で呼びかけられたような気がした。
山中雪乃 「stretch」 2022
そして部屋の奥にまた巨大なものが見えてきた!
森靖(もりおさむ) 「Jamboree – EP」 2014
高さ 385 × 幅 406 × 奥行き 365cm
モデルがエルビス・プレスリーなのはすぐにわかった。でもずいぶんと太っていて安岡力也がプレスリーのコスプレをしているみたいだ。
なぜかオッパイが飛び出し、
左手はオチンチンを押さえている。マイケル・ジャクソンは押さえながらホォゥー!と叫んでいたけれど、プレスリーもそんなポーズをしていたかな?
これはウンチ?
手のひらには穴が空き、
指で正体不明のものを挟んでいる。タバコにしては太すぎる。
背中はけっこう丸かった。
解説には「スケールやポーズから示唆される大仏の要素や、雌雄同体の姿は、エルビスをモニュメントのはらむ男性性から解き放ち、さまざまな記号性に捉われる私たちの潜在意識に問いを投げかける」(原文のまま)とあった。
うそ〜、クスッと笑ってもらうための一発芸じゃないの?(^^ゞ
エスカレーターで地下の展示室へ移動。
広がっていたのはコンサートが開けそうな大空間。
小谷元彦(おだに・もとひこ)
「サーフ・エンジェル(仮設のモニュメント2)」 2022年
高さ 560 × 幅 423 × 奥行き 376cm
反対側から。
電灯でできている頭の部分がiPhoneだとどうしてもにじんでしまう。
しっかりと見たい人はこちらでプロが撮った写真をどうぞ。
タイトルの「仮設のモニュメント」は、東日本大震災復興のイベントにこの作品を出展したのと関係がありそうだ。モチーフになっているのはギリシャ彫刻の傑作とされるサモトラケのニケ(紀元前200–前190年ごろ)で、上半身の服装はそっくり。サモトラケは発見された地名で、ニケは勝利の女神の名前。
そして両腕を広げたポーズは、この有名なシーンからのインスピレーションらしい。頭部は神聖幾何学というオカルトの世界でマカバと呼ばれる多角形の形。
タイタニックとマカラはともかく、サモトラケのニケに馴染みのあるヨーロッパの人がこの作品を見たらすぐにそうだとわかるのに違いない。日本人なら観音像をモチーフしていたら気付くように。
サモトラケのニケとタイタニックとマカラの組み合わせで何を意図しているのかはつかめなかったし、だったら何?との気持ちがないといえば嘘になる。それでも前回の「Crash セイラ・マス」で書いたように美術において大きさは正義。下から仰ぎ見ましょう。
サーフボードに載っているのはやはり津波つながりかも。
恒例の?バックショット。
ーーー続く
「那羅延堅固王」(ならえんけんごおう) 2003年 画像左
「密迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし) 2003年 画像右
遠くから見ていると普通の仏画に見えたが、近づくと千手観音と両サイドの仁王像が持っているのは銃器や刃物。作者の天明屋尚(てんみょうや・ひさし)はこのような日本画形式と現代のモチーフや風俗をミックスさせた「ネオ日本画」の考案者。
面白いしクォリティも高いのだけれど、あと一歩パロディの域から出ていない印象。
池田学 「興亡史」 2006年
これは2メーター四方くらいの大きさ。そこに細かく細かく描き込まれている。基本的には城が何層も積み重なっているような構図で、そのあちこちで小さなシロアリみたいなサムライが戦ったりしている。なぜかたこあげや電車もある。制作に相当な時間がかかっただはずで、何となく作者が楽しみながら描き込んでいるようにも思える。
ここでこんなことをしている、あっ、こっちではーーーと細部を発見するのはなかなか面白い。しかし全部をクリアするには絵の前にカブリツキで1時間以上は掛かりそう。それもちょっと困るんだよなあ。
舟越桂 「言葉を聞く山」 1997年
今年の3月に亡くなった舟越桂(ふなこし・かつら)。いくつかのテレビ番組で特集が組まれた。その中で彼の彫刻と対峙して目が合わないのは「斜視に彫られている」のが原因と知る。今まで作品は何度か見ていても眼球の向きまでは意識していなかった。
初めて「見つめて」みる。本当だ、どの方向からも目が合わない、この作品では右目が少し外を向いている。舟越桂の作品がどれも遠くを見ているように感じるのは、表情があっさりしているせいと思っていたのに、そういうテクニックがあったのか。それに気付かない私の目は斜視ではなく節穴(^^ゞ
奈良美智 「Untitled」 1999年
奈良美智 「Green Mountain」 2003年
あちこちで見かける奈良美智(なら・よしとも)の少女画。20年くらい前に彼の作品がよく紹介され出したとき、何となく安直な感じがして、好きになれないどころか少し腹立たしかった。でもさすがに見慣れたせいか、こういうのもありかと思えるようになり、またカワイイと感じたりもする。私の感性が広がったのか精神が鈍ったのか?
何と書いたらいいのかわからないものが壁際にあり、
布で作られた作品を眺めて、
手のひらを赤く塗られたロリータっぽいパネルを過ぎたら、
ちょっとエロくて幻想的で、そしてカッコイイおネエちゃんに足を止められる。
ハスキーな声で呼びかけられたような気がした。
山中雪乃 「stretch」 2022
そして部屋の奥にまた巨大なものが見えてきた!
森靖(もりおさむ) 「Jamboree – EP」 2014
高さ 385 × 幅 406 × 奥行き 365cm
モデルがエルビス・プレスリーなのはすぐにわかった。でもずいぶんと太っていて安岡力也がプレスリーのコスプレをしているみたいだ。
なぜかオッパイが飛び出し、
左手はオチンチンを押さえている。マイケル・ジャクソンは押さえながらホォゥー!と叫んでいたけれど、プレスリーもそんなポーズをしていたかな?
これはウンチ?
手のひらには穴が空き、
指で正体不明のものを挟んでいる。タバコにしては太すぎる。
背中はけっこう丸かった。
解説には「スケールやポーズから示唆される大仏の要素や、雌雄同体の姿は、エルビスをモニュメントのはらむ男性性から解き放ち、さまざまな記号性に捉われる私たちの潜在意識に問いを投げかける」(原文のまま)とあった。
うそ〜、クスッと笑ってもらうための一発芸じゃないの?(^^ゞ
エスカレーターで地下の展示室へ移動。
広がっていたのはコンサートが開けそうな大空間。
小谷元彦(おだに・もとひこ)
「サーフ・エンジェル(仮設のモニュメント2)」 2022年
高さ 560 × 幅 423 × 奥行き 376cm
反対側から。
電灯でできている頭の部分がiPhoneだとどうしてもにじんでしまう。
しっかりと見たい人はこちらでプロが撮った写真をどうぞ。
タイトルの「仮設のモニュメント」は、東日本大震災復興のイベントにこの作品を出展したのと関係がありそうだ。モチーフになっているのはギリシャ彫刻の傑作とされるサモトラケのニケ(紀元前200–前190年ごろ)で、上半身の服装はそっくり。サモトラケは発見された地名で、ニケは勝利の女神の名前。
そして両腕を広げたポーズは、この有名なシーンからのインスピレーションらしい。頭部は神聖幾何学というオカルトの世界でマカバと呼ばれる多角形の形。
タイタニックとマカラはともかく、サモトラケのニケに馴染みのあるヨーロッパの人がこの作品を見たらすぐにそうだとわかるのに違いない。日本人なら観音像をモチーフしていたら気付くように。
サモトラケのニケとタイタニックとマカラの組み合わせで何を意図しているのかはつかめなかったし、だったら何?との気持ちがないといえば嘘になる。それでも前回の「Crash セイラ・マス」で書いたように美術において大きさは正義。下から仰ぎ見ましょう。
サーフボードに載っているのはやはり津波つながりかも。
恒例の?バックショット。
ーーー続く
wassho at 22:59|Permalink│Comments(0)│
2024年11月23日
高橋龍太郎コレクション展 その3
草間彌生のコーナーを抜けると撮影OKの表示。
以前に東京国立博物館で同じ展示室に撮影可と不可の作品があって、何が違うのかと係員に尋ねたら「東京国立博物館が所有する作品は撮影可で、よそから借りてきているものはその所有者の意向による」との返事だった。今回の展覧会はすべて高橋龍太郎のコレクションだからその理屈は当てはまらない。どうして草間彌生だけNGなのかナゾ
展示室の様子。
私には理解不能というか、
興味が持てず理解を試みる気が起きない作品を横目に通り過ぎ、
その次にあったのは合田佐和子が往年のハリウッド女優を描いた作品。
「グレタ・ガルボ」 1975年
「ジョン・クロフォード 1931」 1975年
その2枚の間に展示されていたのがこの作品。
「ルー・リード」 1977年。
ルー・リード(1942〜2013年)はアメリカのロックミュージシャン。ただし日本では1970年代前半にロック好きの間で多少は人気だったかな程度(だと思う)。FMラジオで彼の曲を聴いたと思うがまったく記憶にない。でもルー・リードの語呂がよくて名前はよく覚えていた。
彼の顔は1972年発表のこの「トランスフォーマー」のアルバムジャケットでしか知らなかった。まだ中学か高校生のときにこのアルバムを知って「イキっとんなあ」と思っていた。でも素顔?はこんなだったんだと作者の意図とは関係なく眺めて、またその名前にどこか懐かしさを感じた作品。なお合田佐和子はルー・リードの大ファンだったらしい。
会田誠 「紐育空爆之図」(戦争画 RETURNS) 1996年
紐育空爆之図は「にゅうようく くうばく のず」と読む。零戦がマンハッタン上空を八の字旋回して、空爆された街が炎上している。戦闘機がこんな密集飛行をするのは不可能だから、これは一機が飛んでいる軌跡なのか。何を訴えているのかはわからないものの、マンハッタンと零戦の組み合わせに意表を突かれて印象的だった。
これは屏風絵。
そして零戦はホログラムのような素材で制作されており、見る角度によって色が変わる。首をかしげながら色の変化を追いかけるのも面白かった。
それよりも気になったのはコレ!
なぜかベニヤ板をビールケースで持ち上げて、それに屏風を載せている。
屏風を高い位置に展示する必要があるにしても、美術館がビールケースを使うはずがない。ビールケース込みの作品なのか?それに意味があるのか? 辛抱たまらず近くにいた係員に尋ねると「作者の明確な指示はないのですが、この作品はこうして展示するのが慣例になっている」との返事。
フ〜ンと思いながら、作品を眺める。
そのとき「ビールケースはいつもキリン?」とさらなる疑問が。でもそんな質問を再びするのは恥ずかしくて尋ねられなかった私は小心者(^^ゞ
そして作品を離れてビックリ!
なんとこれはボロっちいフスマに描かれていた。
さらにつなぎ合わせているのはガムテープ!
コレを見せるために屏風絵なのに壁際に展示していなかったのだ。
やはり現代アートはワカンナイ。
会田誠 「大山椒魚」 2003
大山椒魚は「おおさんしょううお」。
生きた化石とも言われ特別天然記念物になっているやつね。
一見すると日本画風でクラシックな印象を受けるのは、古典的な青海波模様を背景にしているから。でも常識的にはそれと絶対に一緒になるはずのなかった、グロテスクなオオサンショウウオと少女のヌードが描かれている。そのミスマッチが絶妙で幻想的。日本画のパロディなのだろうけど、パロディを超えて自立している本物感があった。今回の展覧会で一番欲しいと思った作品。
iPhoneで撮影したのも一緒に。
色合いはこちらの方が正確。
村上隆 「ルイ・ヴィトンのお花畑」 2003年
つまりこの柄をモチーフにしたということね。
隅っこにブランドロゴも入っている。
村上隆とルイ・ヴィトンは2000年頃よりずっとコラボを続けている関係。
Mr. 「ブラジリアン柔術クリスマス」 2002年
Mr. 「YIすブっピー(いすずっぴー)」 2004〜2005年
(片仮名と平仮名が合っていないが打ち間違いではない)
Mr.は村上隆の弟子で20年以上一緒に活動している人。
アニメ風、ゲームキャラクター風の少女が専門。
近づいて下から見上げましょう。
このコーナーを出るとき振り返ったら天井からぶら下がっているものに気付いた。
村上隆の「Mr. DOB」という作品。
ちなみにこれは近所の商店街。
別に他意はない(^^ゞ
次のコーナーでは巨大な像に圧倒された。
周りに写っている人との比較で大きさを実感して欲しい。
西尾康之 「Crash セイラ・マス」 2005年
高さ 280 × 幅 400 × 奥行き 600cm
セイラ・マスは機動戦士ガンダムの登場人物。ガンダムでは冷静沈着なキャラクターらしく、怒りまくっているこの作品との対比に何か意味がありそう。しかし残念ながらガンダム世代ではないのでそこはよくわからず。
でも見ているだけで楽しめた。現代アートではない絵画もそうだけれど、美術において大きさは正義みたいなところはある。
床に鏡があってお腹の中まで見られる。
パンフレットには制作方法として「陰刻鋳造、ファイバープラスター、鉄」と記載されている。陰刻鋳造の意味はよくわからないが、何らかの型を作ってファイバープラスターを流し込むのだろう。ファイバープラスターは塗り壁などに使う材料。鉄はこれだけの大きさなので、内部の骨組みに使われていると思われる。
お尻から失礼いたします。
もしパソコンで読んでいるなら写真をクリックして拡大し、
作品の迫力をいくらかでも感じて欲しい。
ーーー続く
以前に東京国立博物館で同じ展示室に撮影可と不可の作品があって、何が違うのかと係員に尋ねたら「東京国立博物館が所有する作品は撮影可で、よそから借りてきているものはその所有者の意向による」との返事だった。今回の展覧会はすべて高橋龍太郎のコレクションだからその理屈は当てはまらない。どうして草間彌生だけNGなのかナゾ
展示室の様子。
私には理解不能というか、
興味が持てず理解を試みる気が起きない作品を横目に通り過ぎ、
その次にあったのは合田佐和子が往年のハリウッド女優を描いた作品。
「グレタ・ガルボ」 1975年
「ジョン・クロフォード 1931」 1975年
その2枚の間に展示されていたのがこの作品。
「ルー・リード」 1977年。
ルー・リード(1942〜2013年)はアメリカのロックミュージシャン。ただし日本では1970年代前半にロック好きの間で多少は人気だったかな程度(だと思う)。FMラジオで彼の曲を聴いたと思うがまったく記憶にない。でもルー・リードの語呂がよくて名前はよく覚えていた。
彼の顔は1972年発表のこの「トランスフォーマー」のアルバムジャケットでしか知らなかった。まだ中学か高校生のときにこのアルバムを知って「イキっとんなあ」と思っていた。でも素顔?はこんなだったんだと作者の意図とは関係なく眺めて、またその名前にどこか懐かしさを感じた作品。なお合田佐和子はルー・リードの大ファンだったらしい。
会田誠 「紐育空爆之図」(戦争画 RETURNS) 1996年
紐育空爆之図は「にゅうようく くうばく のず」と読む。零戦がマンハッタン上空を八の字旋回して、空爆された街が炎上している。戦闘機がこんな密集飛行をするのは不可能だから、これは一機が飛んでいる軌跡なのか。何を訴えているのかはわからないものの、マンハッタンと零戦の組み合わせに意表を突かれて印象的だった。
これは屏風絵。
そして零戦はホログラムのような素材で制作されており、見る角度によって色が変わる。首をかしげながら色の変化を追いかけるのも面白かった。
それよりも気になったのはコレ!
なぜかベニヤ板をビールケースで持ち上げて、それに屏風を載せている。
屏風を高い位置に展示する必要があるにしても、美術館がビールケースを使うはずがない。ビールケース込みの作品なのか?それに意味があるのか? 辛抱たまらず近くにいた係員に尋ねると「作者の明確な指示はないのですが、この作品はこうして展示するのが慣例になっている」との返事。
フ〜ンと思いながら、作品を眺める。
そのとき「ビールケースはいつもキリン?」とさらなる疑問が。でもそんな質問を再びするのは恥ずかしくて尋ねられなかった私は小心者(^^ゞ
そして作品を離れてビックリ!
なんとこれはボロっちいフスマに描かれていた。
さらにつなぎ合わせているのはガムテープ!
コレを見せるために屏風絵なのに壁際に展示していなかったのだ。
やはり現代アートはワカンナイ。
会田誠 「大山椒魚」 2003
大山椒魚は「おおさんしょううお」。
生きた化石とも言われ特別天然記念物になっているやつね。
一見すると日本画風でクラシックな印象を受けるのは、古典的な青海波模様を背景にしているから。でも常識的にはそれと絶対に一緒になるはずのなかった、グロテスクなオオサンショウウオと少女のヌードが描かれている。そのミスマッチが絶妙で幻想的。日本画のパロディなのだろうけど、パロディを超えて自立している本物感があった。今回の展覧会で一番欲しいと思った作品。
iPhoneで撮影したのも一緒に。
色合いはこちらの方が正確。
村上隆 「ルイ・ヴィトンのお花畑」 2003年
つまりこの柄をモチーフにしたということね。
隅っこにブランドロゴも入っている。
村上隆とルイ・ヴィトンは2000年頃よりずっとコラボを続けている関係。
Mr. 「ブラジリアン柔術クリスマス」 2002年
Mr. 「YIすブっピー(いすずっぴー)」 2004〜2005年
(片仮名と平仮名が合っていないが打ち間違いではない)
Mr.は村上隆の弟子で20年以上一緒に活動している人。
アニメ風、ゲームキャラクター風の少女が専門。
近づいて下から見上げましょう。
このコーナーを出るとき振り返ったら天井からぶら下がっているものに気付いた。
村上隆の「Mr. DOB」という作品。
ちなみにこれは近所の商店街。
別に他意はない(^^ゞ
次のコーナーでは巨大な像に圧倒された。
周りに写っている人との比較で大きさを実感して欲しい。
西尾康之 「Crash セイラ・マス」 2005年
高さ 280 × 幅 400 × 奥行き 600cm
セイラ・マスは機動戦士ガンダムの登場人物。ガンダムでは冷静沈着なキャラクターらしく、怒りまくっているこの作品との対比に何か意味がありそう。しかし残念ながらガンダム世代ではないのでそこはよくわからず。
でも見ているだけで楽しめた。現代アートではない絵画もそうだけれど、美術において大きさは正義みたいなところはある。
床に鏡があってお腹の中まで見られる。
パンフレットには制作方法として「陰刻鋳造、ファイバープラスター、鉄」と記載されている。陰刻鋳造の意味はよくわからないが、何らかの型を作ってファイバープラスターを流し込むのだろう。ファイバープラスターは塗り壁などに使う材料。鉄はこれだけの大きさなので、内部の骨組みに使われていると思われる。
お尻から失礼いたします。
もしパソコンで読んでいるなら写真をクリックして拡大し、
作品の迫力をいくらかでも感じて欲しい。
ーーー続く
wassho at 23:38|Permalink│Comments(0)│
2024年11月21日
高橋龍太郎コレクション展 その2
この日は渋谷にいたので半蔵門線で清澄白河(きよすみしらかわ)駅へ。他にも大江戸線、東西線、新宿線と4つの地下鉄路線が利用できる。ということはつまり、東京都現代美術館はどの駅からも遠い(^^ゞ
地上に出たところは清洲橋通り。
左後方には昨年に紅葉を見に来た清澄庭園がある。
美術館は右方向。
平日の昼過ぎに道路はガラガラ。
いつもこうなのかな。この近辺はあまり馴染みがない。
深川の地名を見るとなぜか「江戸」って気分になる。
三ツ目通りへと右折。
しばらく歩くと、
東京都現代美術館に到着。
地下鉄出入り口からここまで10分弱だった。
前回に書いたように略称はMOT。
でもロゴマークはMO+(プラス)にしか見えない。
美術館広場と呼ばれる場所。
このオブジェのタイトルは「カタツムリのように」。私の知っているカタツムリとはまったく違う品種みたい。でも「ように」だから何か別の意味があるのかも知れない。
これも屋外展示の作品なのか、
建築デザインの一部なのかはわからず。
入場。
この美術館に来るのは初めて。
デカい!
Wikipediaによると延べ床面積は3万3515平米で日本最大の美術館建築とあった。
いや、そんなはずはないと調べてみると
東京国立博物館 7万8471平米
国立新美術館 4万9834平米
東京都美術館 3万7489平米
東京都現代美術館 3万3515平米
国立西洋美術館 1万7369平米
東京国立博物館は建物がいくつもあるから同列には扱えないとしても、国立新美術館(六本木)と東京都美術館(上野)のほうが広いじゃないか。以前に書いたようにWikipediaを鵜呑みにしてはいけないと再確認。
まあそれでも東京都現代美術館が広いのに変わりない。
ちなみにルーブル美術館は7万3000平米。
なお当然ながら展示室の面積は延べ床面積より狭い。肝心なのはそちらの面積だが調べていない。だいたい延べ床面積に比例していると思うが、国立新美術館は自前のコレクションを持たず収蔵庫がないので展示面積は広いかも知れない。ただし国立新美術館と東京都美術館は企画展と公募展で展示室が分かれている。誰か種目別の美術館面積ランキングを作って欲しい。
展示室への入り口は上の写真の廊下中程にあったが、
初めて来た美術館なので奥のほうまで見て歩いた。
するとサテライト展示なるものを発見。
ここは展覧会のチケットなしで無料で見られる。
パーテーションに書いてあるように展覧会の正式名称は「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」。私観とは聞き慣れない単語で国語辞典には載っていない。主観や私感の連想から何となく意味はわかるけれど、どうして私観の言葉を使ったのだろう。
中には展示品がふたつ。
ライオンをガラス球で作った作品と、奥は蜷川実花の写真。画像はhttps://bijutsutecho.com/magazine/news/report/29345から引用
さて展示室に入ると最初は草間彌生のコーナー。
彼女については2017年に国立新美術館で開かれた展覧会で多少は詳しくなった。
若い頃の草間先生のお写真。タイトルは『「ドレッシング・テーブル」と 「チェアー」』。彼女は1957年から1973年の17年間はアメリカを拠点にしている。渡米当時は28歳で、この写真撮影は1964年。
彼女の周りに多数あるのは、布でくるんだ「ソフト・スカルプチュア(スカルプチュアは彫刻)」というジャンルの作品。今回は解説がなかったものの、前回の展覧会でこのウンチみたいなのはオチンチンとされていた。なぜか先の尖ったオチンチン(^^ゞ
「マカロニ・スーツケース」 1965年
カバンにマカロニも貼り付けてあるけれど、車輪のようなものが圧倒的に目立つ。これもパスタの一種なのかな。求む解説。
「マカロニガール」 1999年
これは日本に帰国後の制作。こちらは車輪のようなものしかない。それでもタイトルはマカロニガール。やはり車輪型のマカロニなのか?
「太平洋」 1959年
彼女は1949年(昭和24年)に京都の美術高校を卒業し、1957年にアメリカに渡るまで実家のある松本で活動していて、それを草間彌生の松本時代と呼ぶ。その期間の作品は結構好き。そしてこの「太平洋」は松本時代の作風に似ている。アメリカでは一気に前衛へと作風を変えたと思っていた。
「森の中に立つ女」 1978年
そしておなじみの「かぼちゃ」 1990年
かぼちゃはもうすっかり彼女のトレードマークで、こんな商品まで売られている。これはスーツケースではなくて、伸縮素材で作られたスーツケースカバー。ちょっと欲しいかも。
ーーー続く
地上に出たところは清洲橋通り。
左後方には昨年に紅葉を見に来た清澄庭園がある。
美術館は右方向。
平日の昼過ぎに道路はガラガラ。
いつもこうなのかな。この近辺はあまり馴染みがない。
深川の地名を見るとなぜか「江戸」って気分になる。
三ツ目通りへと右折。
しばらく歩くと、
東京都現代美術館に到着。
地下鉄出入り口からここまで10分弱だった。
前回に書いたように略称はMOT。
でもロゴマークはMO+(プラス)にしか見えない。
美術館広場と呼ばれる場所。
このオブジェのタイトルは「カタツムリのように」。私の知っているカタツムリとはまったく違う品種みたい。でも「ように」だから何か別の意味があるのかも知れない。
これも屋外展示の作品なのか、
建築デザインの一部なのかはわからず。
入場。
この美術館に来るのは初めて。
デカい!
Wikipediaによると延べ床面積は3万3515平米で日本最大の美術館建築とあった。
いや、そんなはずはないと調べてみると
東京国立博物館 7万8471平米
国立新美術館 4万9834平米
東京都美術館 3万7489平米
東京都現代美術館 3万3515平米
国立西洋美術館 1万7369平米
東京国立博物館は建物がいくつもあるから同列には扱えないとしても、国立新美術館(六本木)と東京都美術館(上野)のほうが広いじゃないか。以前に書いたようにWikipediaを鵜呑みにしてはいけないと再確認。
まあそれでも東京都現代美術館が広いのに変わりない。
ちなみにルーブル美術館は7万3000平米。
なお当然ながら展示室の面積は延べ床面積より狭い。肝心なのはそちらの面積だが調べていない。だいたい延べ床面積に比例していると思うが、国立新美術館は自前のコレクションを持たず収蔵庫がないので展示面積は広いかも知れない。ただし国立新美術館と東京都美術館は企画展と公募展で展示室が分かれている。誰か種目別の美術館面積ランキングを作って欲しい。
展示室への入り口は上の写真の廊下中程にあったが、
初めて来た美術館なので奥のほうまで見て歩いた。
するとサテライト展示なるものを発見。
ここは展覧会のチケットなしで無料で見られる。
パーテーションに書いてあるように展覧会の正式名称は「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」。私観とは聞き慣れない単語で国語辞典には載っていない。主観や私感の連想から何となく意味はわかるけれど、どうして私観の言葉を使ったのだろう。
中には展示品がふたつ。
ライオンをガラス球で作った作品と、奥は蜷川実花の写真。画像はhttps://bijutsutecho.com/magazine/news/report/29345から引用
さて展示室に入ると最初は草間彌生のコーナー。
彼女については2017年に国立新美術館で開かれた展覧会で多少は詳しくなった。
若い頃の草間先生のお写真。タイトルは『「ドレッシング・テーブル」と 「チェアー」』。彼女は1957年から1973年の17年間はアメリカを拠点にしている。渡米当時は28歳で、この写真撮影は1964年。
彼女の周りに多数あるのは、布でくるんだ「ソフト・スカルプチュア(スカルプチュアは彫刻)」というジャンルの作品。今回は解説がなかったものの、前回の展覧会でこのウンチみたいなのはオチンチンとされていた。なぜか先の尖ったオチンチン(^^ゞ
「マカロニ・スーツケース」 1965年
カバンにマカロニも貼り付けてあるけれど、車輪のようなものが圧倒的に目立つ。これもパスタの一種なのかな。求む解説。
「マカロニガール」 1999年
これは日本に帰国後の制作。こちらは車輪のようなものしかない。それでもタイトルはマカロニガール。やはり車輪型のマカロニなのか?
「太平洋」 1959年
彼女は1949年(昭和24年)に京都の美術高校を卒業し、1957年にアメリカに渡るまで実家のある松本で活動していて、それを草間彌生の松本時代と呼ぶ。その期間の作品は結構好き。そしてこの「太平洋」は松本時代の作風に似ている。アメリカでは一気に前衛へと作風を変えたと思っていた。
「森の中に立つ女」 1978年
そしておなじみの「かぼちゃ」 1990年
かぼちゃはもうすっかり彼女のトレードマークで、こんな商品まで売られている。これはスーツケースではなくて、伸縮素材で作られたスーツケースカバー。ちょっと欲しいかも。
ーーー続く
wassho at 23:00|Permalink│Comments(0)│
2024年11月20日
高橋龍太郎コレクション展
高橋龍太郎とは1946年(昭和21年)生まれで御年78歳の精神科医。勤務医を経て1990年に東京蒲田でタカハシクリニックを開業し現在も院長を務める。待合室に飾る絵の購入から始まった「高橋コレクション」は1997年頃から本格化し、なんと3500点を超えてさらに拡大中。その規模と質共に日本の現代アートにおいて他の追随を許さないコレクションといわれる。
もちろん待合室の絵から突然アートに目覚めたわけではなく、学生時代(学生運動の活動家でもあった)から映画や評論も含めて文化的なものとの関わりは深かったようだ。田原総一朗の番組制作を手伝った縁で(彼はジャーナリストになる前、1964〜1977年までテレビ東京の社員だったのは案外と知られていない)、後に奥さんとなる女性を紹介され、結婚式の仲人は田原総一朗なんだって。仲人としてどんな挨拶をしたか聞いてみたいね。
こんなオッチャン。
それにしても3500点もの作品を普段はどこにしまっているのだろう。後で紹介するけれど、とてつもなく巨大な作品も多数あるのに。画像はhttps://www.mot-art-museum.jp/events/2024/09/20240919112559/から引用
高橋コレクション展は過去に26回開催されているらしい。そんな凄いコレクターがいるとは何となくは知っていた。でも現代アートだしーーー(^^ゞ と、あまり興味を持っていなかったのであるが、そういえばしばらく美術館に足を運んでいないから、たまには変わった作品でも見るかと訪れたのが今回の展覧会。
ところで自分のブログで確認してみたら、今年は一度も展覧会を見ていなかった。その理由は面白そうなものがなかったから。そしておそらくそれはコロナの影響。もう過去の記憶になりつつあるが、コロナが猛威を振るっていたのは2020年1月から2023年5月頃まで。展覧会(企画展)は各地の美術館から作品を借りてくるので、企画を立てて開催まで準備に2〜3年はかかるという。その交渉、特に海外の美術館とどうやりとりしているかは知らないものの、出張はおろか出勤さえ制限されたコロナは大きな足かせになったはず。それが影響して今年の展覧会は不作なのだろうと想像している。少し調べたら来年もあまりパッとしないようだ(/o\)
訪れたのは11月1日。場所は江東区の清澄白河(きよすみしらかわ)にある東京都現代美術館。略称はMOTでMuseum Of contemporary art Tokyoの大文字部分。これじゃ東京の美術館の意味だからMCTのほうがいいと思うゾ。ちなみに名前が似ていてややこしい東京国立近代美術館は皇居の北の丸公園にある。そちらの略称はMOMATでthe national Museum Of Modern Art, Tokyoの大文字部分。
その近代と現代。歴史区分としては
原始時代→古代→中世→近世→近代→現代
に分かれる。日本の場合は、
原始時代:旧石器時代、縄文時代、弥生時代
古代:大和時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代
中世:鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代
近世:江戸時代
近代:明治、大正、昭和の第二次世界大戦終了まで(1945年)
現代:第二次世界大戦終了以降(近代と現代の境目については諸説ある)
もっとも日常生活で近代と現代はあまり区別されていない。たとえば最新のビルを近代的なと表現したりもする。歴史区分に従えばそれではレトロになってしまう(^^ゞ
美術分野ではそれがもっと顕著で、先に書いた美術館の名称でわかるように
近代美術:モダンアート
現代美術:コンテンポラリーアート
である。
だから1874年(明治7年)に最初の展覧会が開かれた印象派はモダンアートに属する。しかし印象派をモダンアートと認識している人は少ないはず。(少なくとも日本では)モダンアートの言葉の響きは、近代ではなく現代美術・現代アートのニュアンスでイメージされているように思う。
またよく「まるでモダンアートのような◯◯」との表現がある。ネットでそのフレーズを検索したら次のような画像を見つけた。画像はhttps://www.fevecasa.com/fevematome/detail.php?id=1013、https://yomuno.jp/posts/78161、https://x.gd/oIw6k(短縮URL使用)、https://engineweb.jp/article/detail/3349520から引用
これらが意味しているモダンアートは近代美術=明治、大正、昭和の第二次世界大戦終了までではなく、もっと最近の現代美術=コンテンポラリーアートなのは明白。でもついモダンアートと言っちゃうんだよね。私も今までのブログで現代美術をモダンアートと記している文章が多数ある。
コンテンポラリーアートだと長いし、現代美術だと表現が硬いから、
とりあえずこれからは現代アートと呼ぶことにしよう。
さてその現代アート。
「難しい、理解できない」「意図や意味がわからない」「これが芸術?」「何でもありなの?」「誰でも、子供でも作れそう」「オモチャやガラクタみたいな作品もある」と感じる人は多いと思う。その理由は現代アートが、それ以前のアートの延長線上にはなく、最近よく使われるの表現で言えば「その斜め上をいく存在」でまったく別物の創作物だから。
超大雑把に解説するなら、古代文明の時代から近代までのアートは、
広い意味で美の追究
視覚に訴える、視覚で感じたり楽しむもの
だった。それが現代アートになると
美にはとらわれない
社会へのメッセージや問題提起がテーマのものが多い
視覚を超えて思考や洞察を要求される
作品によっては参加型で体感や体験とセットになっている
絵画や彫刻だけでなく、映像や音響、空間、パフォーマンスなど、
あらゆるものが素材になる
などの特徴があり、逆に言えば戦後に制作された上記の内容を持つ従来の美術概念にとらわれていないのが現代アート(単に時期だけで決まるわけじゃない)。
とはいっても現代アートの解説はなかなか難しい。別に美術史に詳しいわけではないし、今まで何となく認識していたことを文章にして私自身は頭を整理できたとしても、読む人には伝わらないだろうなあと思いながら書いた(^^ゞ まあとにかく現代アートにはメッセージや問題提起が込められている。これがキモである。
そこで問題が起こる。
現代アートでは作者のメッセージや問題提起を、鑑賞者は頭を使って読み解かなければならない。素敵な絵をボーッと眺めるのが好きで、そのために美術館に出かけるのだけれど、まあ頭を使う別ジャンルの楽しみ方があってもそれはそれでいい。問題はそのメッセージや問題提起の内容や質である。
例えばペットボトルを集めて作った何かわけのわからない作品があったとする。ナンジャコレ?と思いながらタイトルや解説を読むと、どうやら環境問題を訴えているらしい。その観点で眺めればそういう作品に見えなくもない。
しかしこう思ってしまう。
環境問題の重大さなんてアンタに指摘されなくてもわかっている
現代アートのクリエーターは表現を磨いてきたプロではあっても、思考を鍛えてきたプロじゃない。だからメッセージや問題提起の底が浅いというか知的レベルが低いというか。哲学者や(一流の)評論家などとコラボして作品を作ればいいのにといつも思う。それに「表現を磨いてきたプロ」とは書いたものの、そちらもアマチュアあるいは図画工作のレベルの域を出ていない人も多い。
つまり現代アートはキモであるメッセージや問題提起がつまらないから、つまらないものが多いから魅力を感じないのである。さら表現のクオリティまで低ければなおさらである。
似たようなことはラップにもいえる。ヒップホップの音楽ジャンルのひとつであるが、ラップに音楽性はほとんどなく歌詞のメッセージが主体。でもその内容が、総理大臣の名前とか知らないだろうなあ、因数分解なんて絶対に解けないよねレベルの連中が書いているから薄っぺらすぎてーーー以下自粛(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 23:30|Permalink│Comments(0)│