黒田清輝
2016年06月07日
黒田清輝展 生誕150年 日本近代絵画の巨匠 その3
朝妝 1893年(明治26年)
タイトルは「ちょうしょう」と読む。朝妝は漢語(の造語?)で「妝」は「粧う」または「装う」という意味。だから朝の身支度といったところ。黒田はこれをフランス留学の最終年に描いた。コンクールに出展して入選し、またその年の優秀裸体画のひとつにも選ばれている。つまりパリでの評価はたいへん高かった。ちなみにパリでのタイトルは起床(もちろんフランス語で)。
黒田は帰国翌年の1894年、明治美術会展にこの朝妝を出展する。さらに続けて1895年の内国勧業博覧会にも出展した。そこで問題発生。いわゆる「裸はケシカラン、風紀を乱す」という理由でゴウゴウたる非難を浴びる。いまでいうなら炎上かな。明治美術会展で問題にならず内国勧業博覧会で騒ぎになったのは、前者の来場客が美術愛好家なのに対して、後者は広く一般向けに開催されるビッグイベントだからだろう。
当時は「裸体画は脚を閉じていること、陰毛を描かないこと」という暗黙の了解あるいは自主規制のようなものがあったらしい。朝妝はどちらにも当てはまらない。しかし黒田は「美術にとって必要なこと」という姿勢を崩さずに出展を続ける。実は彼は内国勧業博覧会の審査員も務めており(当時はフランス帰りの画家ならステイタスは相当高かったと思う)、展示が禁止になるなら審査員を辞めると抵抗したとか。今も続く「芸術か猥褻か」の議論は、この朝妝から始まったのかもしれない。
残念ながら朝妝は、前回のエントリーで紹介した「昔語り」と共に神戸の空襲で焼失した。ブログに貼り付けた朝妝は、作品を撮った写真に着色したものと思われる。展覧会では白黒のものが参考として展示されていた。(カラー写真の普及はもっと先のこと)
この絵のいきさつとか歴史的価値は抜きにして、アンティックな雰囲気でイメージが膨らむ名画だと思う。でもビックリするのは床に頭付きの熊の毛皮が敷かれていること。ハイ、そこの君、気がついていなかったでしょう。裸ばっかり見ていちゃダメだよ(^^ゞ
裸体婦人像 1901年(明治34年)
1900年から1901年に架けて黒田は再びパリに短期留学する。その時にパリで描かれたのがこの作品。モデルのヘアスタイルが日本髪ぽくて、背景のカーテンのようなものも紅白で何となく和風を感じる。
そして帰国して、この絵を国内の展覧会に出展した時に起きたのが、日本美術史に残る「腰巻き事件」。裸体画はワイセツであるとされ、警察の命令で展示している絵の下半身が布で覆われた。「朝妝」の時もそうだったけれど、こうやって話題になると普段は絵に興味のない人もドッと押し寄せる(^^ゞ 布の隙間からのぞき込む人が絶えず、しばらくしてから板で覆われたらしい。
明治時代はこの程度のヌードで大騒ぎしたのかと笑うなかれ。実は2011年に東京国立近代美術館で開かれた「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」という展覧会が開かれた。黒田の作品も展示され、広告ポスターには次に紹介している「野辺」が用いられたが、なんと東京メトロがその広告を車内広告として吊すことを拒否。100年程度じゃ世の中の本質はそう変わらないのである。
腰巻き事件にひるまず黒田は新たな裸体画を次々と発表していく。「朝妝」で炎上した後の1896年から東京美術学校で西洋画を教え始めるが、そこでは学生に裸体モデルの写生を必須課題とした。しかしその後も、彼の裸体画は展覧会で入室に手続きが必要な「特別室」に集められるなどして、官憲あるいは世間との軋轢は生涯続く。黒田というと代表作「湖畔」から受ける穏やかな印象があるが、「ヌードはアートだ」という信念を曲げなかった明治時代の篠山紀信みたいな画家なのである。
野辺 1907年(明治40年)
花野 1907〜15年(明治40〜大正5年)
この「花野」と上野「野辺」は、前々回で書いたラファエル・コランの「フロレアル」と考え方は同じだと思う。ちなみに「花野」は未完成らしい。
智・感・情 1899年(明治32年)
3枚ワンセットの作品で、キャンバスは縦180センチあるから描かれているのは等身大以上のサイズ。タイトルの3文字と絵の並び方は左右が逆で、左が「情」、中央が「感」、右が「智」である。
なんといっても圧倒的な存在感を放っているのはセンターの「感」。仏像でこんなポーズはないと思うが、初めてこの絵を見た時にはなぜか仏像が頭に浮かんだ。何となくエネルギーが伝わってくる感じを受けるし、このポーズでなければ、この作品は上手に裸体を描いた絵に終わっていたような気もする。どんなポーズで描くかって大事なんだと認識。
モデルとなっている女性は、とても小顔で足が長いように見える。しかし測ってみると意外にも6.7頭身くらいしかなかった。現在の日本人平均は7頭身弱といわれるから、(明治時代なら日本人離れしていたのかもしれないが)それほどプロポーションがいいわけではない。でもそう見えないのが不思議。
ところで謎めいたタイトルとポーズを持つ絵であるが、黒田はこの作品についてあまり語っていない。だから発表当時から、その意図について議論や憶測を呼んできたらしい。でも語らなかったことは正解だろう。純粋に絵画表現として作品を眺めることができる。よく企業のシンボルマークなどで、なかなかいいデザインと思っても「この青は未来を、赤は情熱を表している」とか説明されると、たいていは興醒めになるから。ちなみにこの「智・感・情」は1900年のパリ万博に出展して銀メダルを取っているが、その時のタイトルは「女性習作」。だから、そんなに深い意味を持って描かれたものではないと思っている。
なおブログに貼り付けたサイズでは、この絵の魅力はほとんど伝わらないのでクリックして少し大きくしてみて欲しい(別ウインドウで開く)。あるいはこちらで。
黒田の人物画にはいい作品が多いが、風景画はつまらない。フランス留学時代からかなりの数を描いているが、これはと思えるものはなかった。まあ得手不得手はあって当然だが、不思議なことに肖像画もイマイチ。肖像画はモデルの人物を描くことが目的で、人物画で人物を描くのは作品全体の手段のひとつーーーといったあたりが区別。でもいい肖像画は人が描かれているだけでも何か伝わってくるものがあったり、その人の顔を見ながら想像が膨らんでくる。残念ながらそういう体験は今回できなかった。
花も苦手だったのかな。割と有名な「鉄砲百合」も誰でも描けるような絵にしか私には見えない。「瓶花(へいか)」もキレイだけれど、2つ前のエントリーで紹介した1892年作の「菊花と西洋夫人」からあまり進歩していないようなーーー。
鉄砲百合 1909年(明治42年)
瓶花 1912年(明治45年)
そして前回書いたように1915年あたりから黒田の絵はつまらなくなっている。貴族院議員や森鴎外から引き継いだ帝国美術院・院長の仕事が忙しくなったのか、適当に思いついたままザザッとラフなタッチで描いたような作品ばかりになる。デッサンに下絵と綿密に構想を練り上げていた頃の黒田とは別人である。そういえば晩年はヌードも描いていない。
例えばこんな作品。
小壺にて 1916年(大正5年)
山つつじ 1921年(大正10年)
梅林 1924年(大正13年)
これが黒田の絶筆である。病室から見えた梅の木を描いたらしい。展覧会を順番に見て回り、晩年の作品はつまらないなあと思っていたわけだが、この絵にはちょっとグッとくるものがあった。もっと描きたいようと彼の魂が叫んでいる気がする。もちろんそれは絶筆だと説明されていたことに影響されてはいるが。
絵は好きでよく展覧会に行くが、その歴史背景は表面的にしか知らない。だから黒田が日本美術界に与えた影響は多大なものがあると知っていても、詳しく理解しているわけじゃない。美術界を牛耳ったのでいろんな批判もあると聞く。けれども、チョンマゲの時代に生まれてパリに留学し、あっという間に西洋絵画の神髄を学び取って、ヌードはアートだと信念を曲げず、湖畔や智・感・情といった西洋絵画を日本的に解釈した作品をパリにぶつけてきた黒田清輝は、やはり偉人といって間違いはないだろう。
その偉人に対して晩年はつまらないと何度も書いて申し訳ないが、幼なじみ(前々回エントリー参照)だから許してもらおう。もっとも、そう思っているのは私だけじゃないみたい。展覧会は回顧展だから基本的に年代順に作品が並んでいる。でもそうしたら悪い印象で展覧会が終わってしまうと東京国立博物館も心配したのか、制作時期を無視して最後の展示作品は「智・感・情」になっていた(^^ゞ
おしまい
タイトルは「ちょうしょう」と読む。朝妝は漢語(の造語?)で「妝」は「粧う」または「装う」という意味。だから朝の身支度といったところ。黒田はこれをフランス留学の最終年に描いた。コンクールに出展して入選し、またその年の優秀裸体画のひとつにも選ばれている。つまりパリでの評価はたいへん高かった。ちなみにパリでのタイトルは起床(もちろんフランス語で)。
黒田は帰国翌年の1894年、明治美術会展にこの朝妝を出展する。さらに続けて1895年の内国勧業博覧会にも出展した。そこで問題発生。いわゆる「裸はケシカラン、風紀を乱す」という理由でゴウゴウたる非難を浴びる。いまでいうなら炎上かな。明治美術会展で問題にならず内国勧業博覧会で騒ぎになったのは、前者の来場客が美術愛好家なのに対して、後者は広く一般向けに開催されるビッグイベントだからだろう。
当時は「裸体画は脚を閉じていること、陰毛を描かないこと」という暗黙の了解あるいは自主規制のようなものがあったらしい。朝妝はどちらにも当てはまらない。しかし黒田は「美術にとって必要なこと」という姿勢を崩さずに出展を続ける。実は彼は内国勧業博覧会の審査員も務めており(当時はフランス帰りの画家ならステイタスは相当高かったと思う)、展示が禁止になるなら審査員を辞めると抵抗したとか。今も続く「芸術か猥褻か」の議論は、この朝妝から始まったのかもしれない。
残念ながら朝妝は、前回のエントリーで紹介した「昔語り」と共に神戸の空襲で焼失した。ブログに貼り付けた朝妝は、作品を撮った写真に着色したものと思われる。展覧会では白黒のものが参考として展示されていた。(カラー写真の普及はもっと先のこと)
この絵のいきさつとか歴史的価値は抜きにして、アンティックな雰囲気でイメージが膨らむ名画だと思う。でもビックリするのは床に頭付きの熊の毛皮が敷かれていること。ハイ、そこの君、気がついていなかったでしょう。裸ばっかり見ていちゃダメだよ(^^ゞ
裸体婦人像 1901年(明治34年)
1900年から1901年に架けて黒田は再びパリに短期留学する。その時にパリで描かれたのがこの作品。モデルのヘアスタイルが日本髪ぽくて、背景のカーテンのようなものも紅白で何となく和風を感じる。
そして帰国して、この絵を国内の展覧会に出展した時に起きたのが、日本美術史に残る「腰巻き事件」。裸体画はワイセツであるとされ、警察の命令で展示している絵の下半身が布で覆われた。「朝妝」の時もそうだったけれど、こうやって話題になると普段は絵に興味のない人もドッと押し寄せる(^^ゞ 布の隙間からのぞき込む人が絶えず、しばらくしてから板で覆われたらしい。
明治時代はこの程度のヌードで大騒ぎしたのかと笑うなかれ。実は2011年に東京国立近代美術館で開かれた「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」という展覧会が開かれた。黒田の作品も展示され、広告ポスターには次に紹介している「野辺」が用いられたが、なんと東京メトロがその広告を車内広告として吊すことを拒否。100年程度じゃ世の中の本質はそう変わらないのである。
腰巻き事件にひるまず黒田は新たな裸体画を次々と発表していく。「朝妝」で炎上した後の1896年から東京美術学校で西洋画を教え始めるが、そこでは学生に裸体モデルの写生を必須課題とした。しかしその後も、彼の裸体画は展覧会で入室に手続きが必要な「特別室」に集められるなどして、官憲あるいは世間との軋轢は生涯続く。黒田というと代表作「湖畔」から受ける穏やかな印象があるが、「ヌードはアートだ」という信念を曲げなかった明治時代の篠山紀信みたいな画家なのである。
野辺 1907年(明治40年)
花野 1907〜15年(明治40〜大正5年)
この「花野」と上野「野辺」は、前々回で書いたラファエル・コランの「フロレアル」と考え方は同じだと思う。ちなみに「花野」は未完成らしい。
智・感・情 1899年(明治32年)
3枚ワンセットの作品で、キャンバスは縦180センチあるから描かれているのは等身大以上のサイズ。タイトルの3文字と絵の並び方は左右が逆で、左が「情」、中央が「感」、右が「智」である。
なんといっても圧倒的な存在感を放っているのはセンターの「感」。仏像でこんなポーズはないと思うが、初めてこの絵を見た時にはなぜか仏像が頭に浮かんだ。何となくエネルギーが伝わってくる感じを受けるし、このポーズでなければ、この作品は上手に裸体を描いた絵に終わっていたような気もする。どんなポーズで描くかって大事なんだと認識。
モデルとなっている女性は、とても小顔で足が長いように見える。しかし測ってみると意外にも6.7頭身くらいしかなかった。現在の日本人平均は7頭身弱といわれるから、(明治時代なら日本人離れしていたのかもしれないが)それほどプロポーションがいいわけではない。でもそう見えないのが不思議。
ところで謎めいたタイトルとポーズを持つ絵であるが、黒田はこの作品についてあまり語っていない。だから発表当時から、その意図について議論や憶測を呼んできたらしい。でも語らなかったことは正解だろう。純粋に絵画表現として作品を眺めることができる。よく企業のシンボルマークなどで、なかなかいいデザインと思っても「この青は未来を、赤は情熱を表している」とか説明されると、たいていは興醒めになるから。ちなみにこの「智・感・情」は1900年のパリ万博に出展して銀メダルを取っているが、その時のタイトルは「女性習作」。だから、そんなに深い意味を持って描かれたものではないと思っている。
なおブログに貼り付けたサイズでは、この絵の魅力はほとんど伝わらないのでクリックして少し大きくしてみて欲しい(別ウインドウで開く)。あるいはこちらで。
黒田の人物画にはいい作品が多いが、風景画はつまらない。フランス留学時代からかなりの数を描いているが、これはと思えるものはなかった。まあ得手不得手はあって当然だが、不思議なことに肖像画もイマイチ。肖像画はモデルの人物を描くことが目的で、人物画で人物を描くのは作品全体の手段のひとつーーーといったあたりが区別。でもいい肖像画は人が描かれているだけでも何か伝わってくるものがあったり、その人の顔を見ながら想像が膨らんでくる。残念ながらそういう体験は今回できなかった。
花も苦手だったのかな。割と有名な「鉄砲百合」も誰でも描けるような絵にしか私には見えない。「瓶花(へいか)」もキレイだけれど、2つ前のエントリーで紹介した1892年作の「菊花と西洋夫人」からあまり進歩していないようなーーー。
鉄砲百合 1909年(明治42年)
瓶花 1912年(明治45年)
そして前回書いたように1915年あたりから黒田の絵はつまらなくなっている。貴族院議員や森鴎外から引き継いだ帝国美術院・院長の仕事が忙しくなったのか、適当に思いついたままザザッとラフなタッチで描いたような作品ばかりになる。デッサンに下絵と綿密に構想を練り上げていた頃の黒田とは別人である。そういえば晩年はヌードも描いていない。
例えばこんな作品。
小壺にて 1916年(大正5年)
山つつじ 1921年(大正10年)
梅林 1924年(大正13年)
これが黒田の絶筆である。病室から見えた梅の木を描いたらしい。展覧会を順番に見て回り、晩年の作品はつまらないなあと思っていたわけだが、この絵にはちょっとグッとくるものがあった。もっと描きたいようと彼の魂が叫んでいる気がする。もちろんそれは絶筆だと説明されていたことに影響されてはいるが。
絵は好きでよく展覧会に行くが、その歴史背景は表面的にしか知らない。だから黒田が日本美術界に与えた影響は多大なものがあると知っていても、詳しく理解しているわけじゃない。美術界を牛耳ったのでいろんな批判もあると聞く。けれども、チョンマゲの時代に生まれてパリに留学し、あっという間に西洋絵画の神髄を学び取って、ヌードはアートだと信念を曲げず、湖畔や智・感・情といった西洋絵画を日本的に解釈した作品をパリにぶつけてきた黒田清輝は、やはり偉人といって間違いはないだろう。
その偉人に対して晩年はつまらないと何度も書いて申し訳ないが、幼なじみ(前々回エントリー参照)だから許してもらおう。もっとも、そう思っているのは私だけじゃないみたい。展覧会は回顧展だから基本的に年代順に作品が並んでいる。でもそうしたら悪い印象で展覧会が終わってしまうと東京国立博物館も心配したのか、制作時期を無視して最後の展示作品は「智・感・情」になっていた(^^ゞ
おしまい
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2016年06月02日
黒田清輝展 生誕150年 日本近代絵画の巨匠 その2
フランスから帰国してからの黒田清輝の足跡は以下の通り。子爵であり貴族院議員であり、そして帝国美術院の院長にまでなったのだから、社会的に充分な成功を収めた人生といえる。亡くなった時には、従三位・勲二等旭日重光章が贈られている。
1893年 27歳で帰国(明治26年)
1894年〜95年 日清戦争に従軍
1898年 東京美術学校の教授になる(現在の東京芸大)
1900年 腰巻き事件起こる→次のエントリーで
1910年 洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれる
(現在の日本芸術院会員のようなもの)
1917年 子爵の身分になる(51歳)
1920年 貴族院議員に当選
1922年 帝国美術院の院長になる(現在の日本芸術院)
1924年 57歳で死去(大正13年)
年表を2段に分けたのは1915年くらいを境に、なぜか彼の絵は「これがあの黒田清輝?」と疑うくらいつまらなくなってくるから。政治家になって忙しく絵に専念できなかったのかな。絵は素人の政治家が趣味で描いているレベルの作品になっているのは驚くと共に残念。画家の画風は年代と共に移り変わるものだし、歳を取れば力量が衰えるのも仕方がない。でも50歳前後で衰えるのは早すぎる。
帰国してからの黒田は前期・中期・後期に分けられると思う。
おもに前期の作品の感想を。
舞妓 1893年(明治26年)
サイケデリックーーー思わず、そんな死語な表現が思い浮かんだ。理屈的には着物が派手だったら絵も派手になるが、こんなドギツイ柄の着物ってあるのかなあ。タイトルが舞妓だから場所は京都。描かれたのは帰国した年。10年振りに帰国したフランス帰りの黒田には、京都らしいこの情景も、印象派の画家達が日本に対して思い抱いていたようなエキゾチックなものに写ったのかもしれない。トレビアン!と言ったりして(^^ゞ
昼寝 1894年(明治27年)
黒田がフランスで師事したのは印象派の先生ではないと前回のエントリーで書いた。でも彼はしっかり印象派の極意を学び取ってきたようである。というか並の印象派作品を超えてるんじゃないかな。
ところで1900年のパリ万博に黒田は「智・感・情」「湖畔」ほか3点を出展し、「智・感・情」が銀牌(銀メダル)を得ている。ただ「ほか3点」がどの絵だったのかが調べてもわからなかった。「舞妓」や「昼寝」を出展したらヨーロッパの人には気に入られたと思う。
帰国前期から中期の、つまり全盛期の黒田は綿密に構想を練って作品を描いていたようであり、またその下絵などもよく残っている。スケッチでの下絵はよく見るが、スケッチがあって、それとは別に絵の部分ごとに色を塗った下絵があるのは珍しいと思う。各パーツの下絵は登場人物すべてについて描かれているから実に念入りな準備。何度も実験を重ねて最終作品を仕上げていくのは、ある種の科学的なアプローチにも思える。
それにしても色っぽい(^^ゞ
昔語り 下絵(構図II) 1896年(明治29年)
さらに全体の下絵も何枚か描かれている。絵巻のようなものを除くと、こういうストーリーを感じさせる絵は日本にはあまりなかったような気がする。そんな発想も留学体験でつかんできたものかもしれない。残念ながら完成作品は戦災で失われてしまった。
湖畔 1897年(明治30年)
「舞妓」や「昼寝」のコッテリ感とは打って変わって、まるで水彩画のようにも見える作品。浴衣に団扇、そして水色主体の色使いで「涼」を感じない人はいないだろう。場所は箱根の芦ノ湖。それを知らなくても標高のある避暑地的な雰囲気があらわれていると思う。
前回のエントリーで書いたように子供の頃から馴染みのある絵であるが、ある程度美術に関心を持つまで、これは日本画だと思っていた。もっともその頃は日本的な内容の絵=日本画という認識だったが。湖畔は油絵だから洋画という区別になる。洋画と日本画の区別は作品の内容には関係なく、油絵の具など西洋の絵の具を使っていたら洋画で、岩絵の具など日本伝統の絵の具を使っているものが日本画ということになっている。西洋の絵画が日本に入ってきた明治の頃はともかく、今ではあまり意味のない区別。ただ油絵で岩絵の具や水彩絵の具のように描くことはできるが、その逆は無理(たぶん)。それはともかく、西洋の画材・画法で日本的な情景を描いたということもこの作品の歴史的な価値だと思う。
この絵については子供の頃から名画だと刷り込まれてきたから、どうみても名画にしか見えない(^^ゞ 人物の大きさは、これより1%大きくても小さくてもバランスが崩れる絶妙のプロポーションだと感じる。改めて眺めれば向こう岸の木や山の描き方が中途半端で、もう少し描き込むか逆にもっとボカして欲しかったかなとは思う。
ところで描かれているのは、後に照子と改名し黒田の奥さんとなる芸者の女性。この時、黒田は既にバツイチ。おい清輝!パリの肉屋のネエチャンはどうした(^^ゞ
赤き衣を着たる女 1912年(明治45年)
私の分類では帰国後中期に入る作品。これもたぶんモデルは奥さんかな。真横から描かれた人物画は珍しいような気がする。日本髪だし着物だから人物は日本そのものだけれど、全体的に漂う雰囲気はどこか西洋っぽい。こういうクロスカルチャーなところも黒田の魅力。
ーーー続く
1893年 27歳で帰国(明治26年)
1894年〜95年 日清戦争に従軍
1898年 東京美術学校の教授になる(現在の東京芸大)
1900年 腰巻き事件起こる→次のエントリーで
1910年 洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれる
(現在の日本芸術院会員のようなもの)
1917年 子爵の身分になる(51歳)
1920年 貴族院議員に当選
1922年 帝国美術院の院長になる(現在の日本芸術院)
1924年 57歳で死去(大正13年)
年表を2段に分けたのは1915年くらいを境に、なぜか彼の絵は「これがあの黒田清輝?」と疑うくらいつまらなくなってくるから。政治家になって忙しく絵に専念できなかったのかな。絵は素人の政治家が趣味で描いているレベルの作品になっているのは驚くと共に残念。画家の画風は年代と共に移り変わるものだし、歳を取れば力量が衰えるのも仕方がない。でも50歳前後で衰えるのは早すぎる。
帰国してからの黒田は前期・中期・後期に分けられると思う。
おもに前期の作品の感想を。
舞妓 1893年(明治26年)
サイケデリックーーー思わず、そんな死語な表現が思い浮かんだ。理屈的には着物が派手だったら絵も派手になるが、こんなドギツイ柄の着物ってあるのかなあ。タイトルが舞妓だから場所は京都。描かれたのは帰国した年。10年振りに帰国したフランス帰りの黒田には、京都らしいこの情景も、印象派の画家達が日本に対して思い抱いていたようなエキゾチックなものに写ったのかもしれない。トレビアン!と言ったりして(^^ゞ
昼寝 1894年(明治27年)
黒田がフランスで師事したのは印象派の先生ではないと前回のエントリーで書いた。でも彼はしっかり印象派の極意を学び取ってきたようである。というか並の印象派作品を超えてるんじゃないかな。
ところで1900年のパリ万博に黒田は「智・感・情」「湖畔」ほか3点を出展し、「智・感・情」が銀牌(銀メダル)を得ている。ただ「ほか3点」がどの絵だったのかが調べてもわからなかった。「舞妓」や「昼寝」を出展したらヨーロッパの人には気に入られたと思う。
帰国前期から中期の、つまり全盛期の黒田は綿密に構想を練って作品を描いていたようであり、またその下絵などもよく残っている。スケッチでの下絵はよく見るが、スケッチがあって、それとは別に絵の部分ごとに色を塗った下絵があるのは珍しいと思う。各パーツの下絵は登場人物すべてについて描かれているから実に念入りな準備。何度も実験を重ねて最終作品を仕上げていくのは、ある種の科学的なアプローチにも思える。
それにしても色っぽい(^^ゞ
昔語り 下絵(構図II) 1896年(明治29年)
さらに全体の下絵も何枚か描かれている。絵巻のようなものを除くと、こういうストーリーを感じさせる絵は日本にはあまりなかったような気がする。そんな発想も留学体験でつかんできたものかもしれない。残念ながら完成作品は戦災で失われてしまった。
湖畔 1897年(明治30年)
「舞妓」や「昼寝」のコッテリ感とは打って変わって、まるで水彩画のようにも見える作品。浴衣に団扇、そして水色主体の色使いで「涼」を感じない人はいないだろう。場所は箱根の芦ノ湖。それを知らなくても標高のある避暑地的な雰囲気があらわれていると思う。
前回のエントリーで書いたように子供の頃から馴染みのある絵であるが、ある程度美術に関心を持つまで、これは日本画だと思っていた。もっともその頃は日本的な内容の絵=日本画という認識だったが。湖畔は油絵だから洋画という区別になる。洋画と日本画の区別は作品の内容には関係なく、油絵の具など西洋の絵の具を使っていたら洋画で、岩絵の具など日本伝統の絵の具を使っているものが日本画ということになっている。西洋の絵画が日本に入ってきた明治の頃はともかく、今ではあまり意味のない区別。ただ油絵で岩絵の具や水彩絵の具のように描くことはできるが、その逆は無理(たぶん)。それはともかく、西洋の画材・画法で日本的な情景を描いたということもこの作品の歴史的な価値だと思う。
この絵については子供の頃から名画だと刷り込まれてきたから、どうみても名画にしか見えない(^^ゞ 人物の大きさは、これより1%大きくても小さくてもバランスが崩れる絶妙のプロポーションだと感じる。改めて眺めれば向こう岸の木や山の描き方が中途半端で、もう少し描き込むか逆にもっとボカして欲しかったかなとは思う。
ところで描かれているのは、後に照子と改名し黒田の奥さんとなる芸者の女性。この時、黒田は既にバツイチ。おい清輝!パリの肉屋のネエチャンはどうした(^^ゞ
赤き衣を着たる女 1912年(明治45年)
私の分類では帰国後中期に入る作品。これもたぶんモデルは奥さんかな。真横から描かれた人物画は珍しいような気がする。日本髪だし着物だから人物は日本そのものだけれど、全体的に漂う雰囲気はどこか西洋っぽい。こういうクロスカルチャーなところも黒田の魅力。
ーーー続く
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2016年05月31日
黒田清輝展 生誕150年 日本近代絵画の巨匠
たぶん私にとって黒田清輝は、画家の名前と作品を一致して覚えた最初の日本人画家である。それは彼の代表作の「湖畔」という絵が子供の頃に記念切手になったから。私の世代で切手集めは一種の通過儀礼みたいなもので、私もそれなりに熱中していた。もっともすぐに飽きてしまったが、隣に住んでいた1歳年上のケンちゃんから教えてもらった、切手にまつわるエピソードは今でもよく覚えている。それは
世界に2枚しかないという貴重な切手があった。
あるコレクターが大金をはたいて、その切手を2枚とも購入した。
彼は切手の価値をさらに上げるために、そのうちの1枚を皆の前で燃やした。
というもの。まだ小学校低学年だったと思うが、教科書では教えてくれない世の中の本当の仕組みを学んだのは、これが最初だったかもしれない。
話を「湖畔」に戻すと、それが印象的だったのは、当時の記念切手では着物の女性がデザインされている場合、芸者や舞妓をモデルにしたような古典的な日本画が一般的だった。でも湖畔はごく日常的なの光景が描かれている。子供心に「普通の絵のくせに切手になっている」というのが意外だったのだろう。

その時は黒田清輝も湖畔も名前を知っていたわけではない。単に水色の浴衣の切手という認識。そして後に教科書的なもので「湖畔」を見て「あの切手の絵だ!」と再会。幼い時のいきさつがあったから、他の画家は忘れても彼と湖畔のことはしっかりと記憶に刻み込まれたというわけ。
それから月日が流れること30〜40年。ある時「智・感・情」という作品を知り、その作者が黒田清輝だった。「湖畔」の地味なイメージしかなかった黒田清輝だが「智・感・情」のような強烈な絵も描くんだと興味を持った。ところで黒田清輝の代表作の多くは、今回の展覧会を開催している、東京国立博物館の付属施設である黒田記念館に収められている。年に数回の一般公開があり、つまり期間は限定されるがいつでも見られる。いつでも見られると思うと不思議なことになかなか行かない。今回は記念館収蔵の作品も含めた大回顧展ということで、幼なじみの黒田清輝(^^ゞをじっくり見ようと訪れてみた。
黒田清輝は本名が「きよてる」で画家としてのペンネーム(筆ネーム?)が「せいき」。幕末の1866年に薩摩藩に生まれ(明治維新が1868年)。現在の東京外国語大学に進んで1884年から1893年までフランスに留学する。本当は法律を学びに行ったはずが、なぜか留学3年目の1886年から絵の勉強を始める。子供の頃にも絵は習っていたようだが、画家の道を歩み始めたのは二十歳頃ということになる。
まずはフランス留学時代の作品から。
祈祷 1889年(明治22)
針仕事 1890年(明治23)
マンドリンを持てる女 1891年(明治24)
ちょっと日本的な雰囲気があって、この時期の作品としては異色。タイトルにマンドリンとなかったら琵琶と思ってしまいそう。絵に入れる署名が漢字でかなり大きく書かれているのは、コンクールで日本人が描いたということをアピールする狙いがあったらしい。
読書 1891年(明治24)
初期の代表作とされる作品。生まれた時はチョンマゲの時代だった青年が、本格的に絵を描き始めて5年でここまでの「西洋画」を残せるのだから、黒田に持って生まれた才能があったことは間違いない。ただ、まだ勉強中の時代とはいうものの、マンドリンを除けばどれも教科書的な正統派というか、上手ではあってもグッと来るものがないなあというのが正直なところ。それと彼の絵は淡泊で、この日はカラヴァッジョ展も見てきたから余計にそう思うのかもしれないが、とても草食系な印象を受ける。
ついでに、
この頃の作品には両手を顔もしくは胸の前に持ってきているものが多い。勘ぐりすぎかもしれないが、そういうポーズは「絵になりやすい」。ズルイぞ清輝!
婦人像(厨房) 1892年(明治25)
モデルは読書と同じで黒田の恋人だったらしい。黒田の絵は草食系なのに、彼女は肉屋の娘だったのがおもしろい(^^ゞ
赤髪の少女 1892年(明治25)
菊花と西洋夫人 1892年(明治25)
黒田がフランス留学していたのは印象派の画家が活躍していた時期。グループとしての印象派の活動は終わりかけていたが、その人気がうなぎ登りだった頃である。でも彼が師事したのは革新的な印象派ではなく、どちらかというとオーソドックスな画風の画家。印象派の画家はいわば反体制派のロックミュージシャンのようなものだから、絵を教えるというようなことはしていなかったのかもしれない。また当時は田舎者の日本人に、印象派の絵はぶっ飛びすぎて性に合わなかった気もする。
先生の名前はラファエル・コラン。オーソドックスな画風と書くとつまらなさそうだが、このコランの絵がすごかった。
フロレアル(花月) ラファエル・コラン:1886年
この絵の何がすごかったと問われると困るのだけれど、ラファエル前派(ラファエル・コランと名前が同じだからややこしい)のオフィーリアと通ずるところもある。草むらに裸で寝転がっているだけで神秘的な要素は何も描いていないのに、なぜかとにかく神秘的に感じる絵。初めて見る作品で、久し振りに絵の前で一瞬立ち尽くす経験をした。
横幅185センチとかなり大きなサイズ。細密に描かれた女性とボカした草の描き方との対比で、その実物サイズで見ると女性が3D画像のように浮かび上がって見えるようにも感じる。クラシックな西洋絵画では「女性の裸体は自然の一部」という考えがあるらしいが、初めてその意味がわかったような気がする。
ブロンドー夫人の肖像 ラファエル・コラン:1891年
コランは従来の画風に印象派の影響を取り入れたもので外光派と呼ばれ、弟子の黒田もそう分類される。ただし黒田が日本近代絵画の父的な存在でも、フランスで外光派は中途半端な作風とされてコランはまったく人気がないらしい。私は好きだけどなあ。
他にもいろいろと黒田と同世代の画家の作品が参考として展示されていた。有名どころではミレー、モネ、ピサロなど。おもしろかったのは黒田が模写したレンブラントやミレーの作品があったこと。作品の下絵や練習用のデッサンはどの展覧会でもあるが、模写の展示は珍しいと思う。
朝 ジュール・ブルトン:1888年
羊飼いの少女 ジャン=フランソワ・ミレー:1863年
これは典型的なミレー作品。何の変哲もない絵といえばそうなのだが、彼のこのタイプの農民風景画は「シミジミといいなあ」と思えるから不思議。
あっ! ミレーも胸の前に手をやるポーズをw(゚o゚)w
ーーー続く
世界に2枚しかないという貴重な切手があった。
あるコレクターが大金をはたいて、その切手を2枚とも購入した。
彼は切手の価値をさらに上げるために、そのうちの1枚を皆の前で燃やした。
というもの。まだ小学校低学年だったと思うが、教科書では教えてくれない世の中の本当の仕組みを学んだのは、これが最初だったかもしれない。
話を「湖畔」に戻すと、それが印象的だったのは、当時の記念切手では着物の女性がデザインされている場合、芸者や舞妓をモデルにしたような古典的な日本画が一般的だった。でも湖畔はごく日常的なの光景が描かれている。子供心に「普通の絵のくせに切手になっている」というのが意外だったのだろう。

その時は黒田清輝も湖畔も名前を知っていたわけではない。単に水色の浴衣の切手という認識。そして後に教科書的なもので「湖畔」を見て「あの切手の絵だ!」と再会。幼い時のいきさつがあったから、他の画家は忘れても彼と湖畔のことはしっかりと記憶に刻み込まれたというわけ。
それから月日が流れること30〜40年。ある時「智・感・情」という作品を知り、その作者が黒田清輝だった。「湖畔」の地味なイメージしかなかった黒田清輝だが「智・感・情」のような強烈な絵も描くんだと興味を持った。ところで黒田清輝の代表作の多くは、今回の展覧会を開催している、東京国立博物館の付属施設である黒田記念館に収められている。年に数回の一般公開があり、つまり期間は限定されるがいつでも見られる。いつでも見られると思うと不思議なことになかなか行かない。今回は記念館収蔵の作品も含めた大回顧展ということで、幼なじみの黒田清輝(^^ゞをじっくり見ようと訪れてみた。
黒田清輝は本名が「きよてる」で画家としてのペンネーム(筆ネーム?)が「せいき」。幕末の1866年に薩摩藩に生まれ(明治維新が1868年)。現在の東京外国語大学に進んで1884年から1893年までフランスに留学する。本当は法律を学びに行ったはずが、なぜか留学3年目の1886年から絵の勉強を始める。子供の頃にも絵は習っていたようだが、画家の道を歩み始めたのは二十歳頃ということになる。
まずはフランス留学時代の作品から。
祈祷 1889年(明治22)
針仕事 1890年(明治23)
マンドリンを持てる女 1891年(明治24)
ちょっと日本的な雰囲気があって、この時期の作品としては異色。タイトルにマンドリンとなかったら琵琶と思ってしまいそう。絵に入れる署名が漢字でかなり大きく書かれているのは、コンクールで日本人が描いたということをアピールする狙いがあったらしい。
読書 1891年(明治24)
初期の代表作とされる作品。生まれた時はチョンマゲの時代だった青年が、本格的に絵を描き始めて5年でここまでの「西洋画」を残せるのだから、黒田に持って生まれた才能があったことは間違いない。ただ、まだ勉強中の時代とはいうものの、マンドリンを除けばどれも教科書的な正統派というか、上手ではあってもグッと来るものがないなあというのが正直なところ。それと彼の絵は淡泊で、この日はカラヴァッジョ展も見てきたから余計にそう思うのかもしれないが、とても草食系な印象を受ける。
ついでに、
この頃の作品には両手を顔もしくは胸の前に持ってきているものが多い。勘ぐりすぎかもしれないが、そういうポーズは「絵になりやすい」。ズルイぞ清輝!
婦人像(厨房) 1892年(明治25)
モデルは読書と同じで黒田の恋人だったらしい。黒田の絵は草食系なのに、彼女は肉屋の娘だったのがおもしろい(^^ゞ
赤髪の少女 1892年(明治25)
菊花と西洋夫人 1892年(明治25)
黒田がフランス留学していたのは印象派の画家が活躍していた時期。グループとしての印象派の活動は終わりかけていたが、その人気がうなぎ登りだった頃である。でも彼が師事したのは革新的な印象派ではなく、どちらかというとオーソドックスな画風の画家。印象派の画家はいわば反体制派のロックミュージシャンのようなものだから、絵を教えるというようなことはしていなかったのかもしれない。また当時は田舎者の日本人に、印象派の絵はぶっ飛びすぎて性に合わなかった気もする。
先生の名前はラファエル・コラン。オーソドックスな画風と書くとつまらなさそうだが、このコランの絵がすごかった。
フロレアル(花月) ラファエル・コラン:1886年
この絵の何がすごかったと問われると困るのだけれど、ラファエル前派(ラファエル・コランと名前が同じだからややこしい)のオフィーリアと通ずるところもある。草むらに裸で寝転がっているだけで神秘的な要素は何も描いていないのに、なぜかとにかく神秘的に感じる絵。初めて見る作品で、久し振りに絵の前で一瞬立ち尽くす経験をした。
横幅185センチとかなり大きなサイズ。細密に描かれた女性とボカした草の描き方との対比で、その実物サイズで見ると女性が3D画像のように浮かび上がって見えるようにも感じる。クラシックな西洋絵画では「女性の裸体は自然の一部」という考えがあるらしいが、初めてその意味がわかったような気がする。
ブロンドー夫人の肖像 ラファエル・コラン:1891年
コランは従来の画風に印象派の影響を取り入れたもので外光派と呼ばれ、弟子の黒田もそう分類される。ただし黒田が日本近代絵画の父的な存在でも、フランスで外光派は中途半端な作風とされてコランはまったく人気がないらしい。私は好きだけどなあ。
他にもいろいろと黒田と同世代の画家の作品が参考として展示されていた。有名どころではミレー、モネ、ピサロなど。おもしろかったのは黒田が模写したレンブラントやミレーの作品があったこと。作品の下絵や練習用のデッサンはどの展覧会でもあるが、模写の展示は珍しいと思う。
朝 ジュール・ブルトン:1888年
羊飼いの少女 ジャン=フランソワ・ミレー:1863年
これは典型的なミレー作品。何の変哲もない絵といえばそうなのだが、彼のこのタイプの農民風景画は「シミジミといいなあ」と思えるから不思議。
あっ! ミレーも胸の前に手をやるポーズをw(゚o゚)w
ーーー続く
wassho at 08:44|Permalink│Comments(0)│





























